2016年3月28日月曜日

吉野葛、谷崎潤一郎メモ

まだ山国は肌寒い4月の中旬の、花曇のしたゆうがた、白々と遠くぼやけた空の下を
川面に風の吹く道だけ細かいちりめん波を立てて、幾重にも折り重なった遥かな山の
峡から吉野川が流れてくる。その山と山の隙間に、小さな可愛い形の山が二つ、
ぼうっと夕靄に霞んで見えた。それが川を挟んで向かい合っていることまでは見分ける
ベくもなかったけれども、流れの両岸にあるのだということを、私は芝居で
知っていた。

川はちょうどこの吉野山の麓あたりからやや打ち拓けた平野に注ぐので、水勢の激しい
渓流の趣きが、「山なき国を流れけり」と言うノンビリとした姿に変わりかけている。
そして、上流の左の岸に上市の町が、後ろに山を背負い、前に水を控えた一とすじ
みちの街道に、屋根の低い、斑に白壁の点綴する素朴な田舎家の集団を成している
のが見える。

街道に並ぶ人家の様子は、あの橋の上から想像したとおり、いかにも素朴で
古風である。ところどころ、川べりの方の家並みが欠けて片側町になっているけど、
大部分は水の眺めを塞いで、黒い煤けた格子造りの、天井裏のような低い二階のある家
が両側に詰まっている。歩きながら薄暗い格子の奥を覗いて見ると、田舎家には
お定まりの裏口まで土間が通っていて、その土間の入り口に、屋号や姓名を白く
染め抜いた紺の暖簾を吊っているのが多い。店家ばかりでなく、しもうたやでも
そうするのが普通であるらしい。いずれも表の構えは押しつぶしたように軒が垂れ、
間口が狭いが暖簾の向こうに中庭の木立ちがちらついて、離れ家なぞのあるのも
見える。おそらくこの辺の家は、50年以上、中には百年二百年もたっているので
あろう。が、建物の古い割に、何処の家でも障子の紙が皆新しい。いま張り替えた
ばかりのような汚れ目のないのが、貼ってあって、ちょっとした小さな破れ目も
花弁型の紙で丹念に塞いである。それが澄み切った秋の空気の中に、冷え冷えと白い。

とにかくその障子の色のすがすがしさは、軒並みの格子や建具の煤ぼけたのを、
貧しいながら身だしなみのよい美女のように、清楚で品良く見せている。私は
その紙の上に照っている日の色を眺めると、さすがに秋だなと言う感を深くした。
実際、空はくっきりと晴れているのに、そこに反射している光線は、明るいながら
眼を刺すほどでなく、身に沁みるように美しい。日は川の方へ廻っていて、町の
左側の障子に映えているのだが、その照り返しが右側の方の家々の中まで届いている。

キザ柿、御所柿、美濃柿、色々な形の柿の粒が、一つ一つ戸外の明かりをその
つやつやと熟しきった珊瑚色の表面に受け止めて、瞳のように光っている。
饂飩屋の硝子の箱の中にある饂飩の玉までが鮮やかである。往来には軒先に
筵を敷いたり、蓑を置いたりして、それに消し炭が干してある。何処かで
鍛冶屋の槌の音と精米機のさあさあと言う音が聞こえる。

背山の方は、尾根がうしろの峰に続いて、形が整っていないけれども、妹山
の方は全く独立した1つの円錐状の丘が、こんもりと緑葉樹の衣を着ている。

山が次第に深まるに連れて秋はいよいよたけなわになる。われわれはしばしば
くぬぎの木の中に入って、一面に散り敷く落葉の上をかさかさ音を立てながら
行った。この辺、楓が割合に少なく、かつ一所にかたまっていないけれど、
紅葉は今が真っ盛りで、蔦、櫨、山漆などが、杉の多い峰の此処彼処に
点々として、最も濃い紅から最も薄い黄色にいたる色とりどりな葉を見せている。
一口に紅葉というものの、こうして眺めると、黄の色、渇の色も、紅の色も、
その種類が実に複雑である。同じ黄色い葉のうちにも、何十種と言う様々な
違った黄という違った色がある。野州塩原の秋は、塩原中の人の顔が赤く
なると言われているが、そういう一と色に染まる紅葉も美観ではあるが、
此処の様なのも悪くはない。「繚乱」という言葉や、「千紫万紅」という
言葉は、春の野の花を形容したものであろうが、此処の秋のトーンである
ところの黄を基調にした相違があるだけで、色彩の変化に富むことは
おそらく春の野に劣るまい。そうしてその葉が、峰と峰との裂け目から谷間
へ流れ込む光の中を、時々金粉のようにきらめきつつ水に落ちる。

この辺で谷は漸く狭まって、岸が嶮しい断崖になり、激した水が川床の
巨岩にぶつかり、あるいは真っ青な淵を湛えている。うたたねの橋は、
木深い象谷の奥から象の小川がちょろちょろ微かなせせらぎになって、その淵
へ流れ込むところに懸かっていた。義経がここでうたたねをした橋だと
いうのは、多分、構成のこじつけであろう。が、ほんの一筋
清水の上にに渡してある、きゃしゃな、危なげなその橋は、ほとんど木々の
茂みに隠されていて、上に屋形船のそれのような可愛い屋根がついているのは、
雨よりも落葉を防ぐためではないか。そうしなかったら、今のような季節
には忽ち木の葉で埋まってしまうかと思われる。橋の袂に2軒の農家があって、
その屋根の下を半ば我が家の物置に使っているらしく、人のとおれる路を
残して薪の束が積んである。ここは、樋口と言う所で、そこから道は2つにわかれ
一方は川の岸を菜摘の里へ、一方はうたたねの橋を渡り、桜木の宮を経て
西行庵の方へ出られる。

気がついてみると、いつの間にか私たちのいく手には高い峰が眉近く聳えていた。
空の領分は一層狭く縮められて、吉野川の流れも、人家も、道も、ついそこで
行き止まりそうな渓谷であるが、人里というものは狭間があれば何処までも
伸びていくものと見えて、その3方を峰の嵐で囲まれた、袋の奥のような
窪地の、せせこましい川べりの斜面に暖を築き、草屋根を構え、畑を作って
いるところが菜摘の里であるという。

しかし、自分が奇異に思うことは、そういう風に常に恋い慕ったのは、主として
母方であって、父に対しては差ほどではなかった一事である。そのくせ
父は母より前に亡くなっていたから、母の姿は万一にも記憶に存する可能性
があっても、父のは全くないはずであった。そんな点から考えると、自分の
母を恋うる気持は唯漠然たる「未知の女性」に対する憧憬、つまり少年期の
恋愛の萌芽と関係がありしないか。なぜなら自分の場合には、過去に母
であった人も将来妻となるべき人も、等しく「未知の女性」であって、
それが目にみえぬ因縁の糸で自分に繋がっていることは、どちらも同じなのである。
けだしこういう心理は自分のような境遇でなく、誰にも幾分か潜んでいるだろう。
、、、、、
その幻は母であると同時に妻でもあったと思う。だから自分の小さな胸の中に
ある母の姿は、年老いた婦人でなく、永久に若く美しい女であった。あの
馬方三吉の芝居に出てくるお乳の人の重井、立派な打掛を着て、大名の姫君に
仕えている華やかな貴婦人、自分の夢に見る母はあの三吉の母の様な人であり、
その夢の中では、自分はしばしば三吉になっていた。

そんな話を聞きながら、私は暫く手の上にある一果の露の玉に見入った。そして
自分の手のひらの中に、この山間の霊気と日光とが凝り固まった気がした。
昔田舎ものが今日へ上ると、都の土を一握り紙に包んでお土産にしたと聞いている
が、私がもし誰かから、吉野の秋の色を問われたら、この柿の実を大切に持ち帰って
示すだろう。

もう三,四十年は経っているはずのその紙は、こんがりと遠火にあてたような色に
変わっていたが、紙質は今のものよりもきめが緻密で、しっかりとしていた。
津村はその中に通っている細かい丈夫な繊維の筋を日に透かして見て、「かかさんも
おりともこのかみをすくときはひびあかぎれに指のさきちぎれるようにてたんとたんと
苦ろういたし候」という文句を思い浮かべると、その老人の皮膚にも似た一枚
の薄い紙片の中に、自分の母を生んだ人の血が籠っているのを感じた。母も
恐らくは新町の館でこの文を受け取ったとき、やはり自分が今したようにこれを
肌身につけ、押し頂いたであろうことを思えば、「昔の人の袖の香ぞする」
その文殻は、彼には二重に床しくも貴い形見であった。

そしてなつかしい村の人家が」見え出したとき、何よりも先に彼の眼を惹いたのは
此処彼処の軒下に乾してある紙であった。あたかも漁師町で海苔を乾すような
具合に、長方形の紙が行儀良く板に並べて立てかけてあるのだが、その真っ白な
色紙を散らしたようなのが、街道の両側や丘の段々の上などに、高く低く、寒そうな
日にきらきらと反射しつつあるのを眺めると、彼は何がなしに涙が浮かんだ。此処が
自分の祖先の地だ。自分は今、永い間夢に見ていた母の故郷の土を踏んだ。この
悠久な山間の村里は、大方母が生まれた頃も、今目の前にあるような平和な景色
をひろげていただろう。40年前の日も、つい昨日の日も、此処では同じに明けて
同じに暮れていただろう。津村は「昔」と壁一重の隣りへ来た気がした。ほんの一瞬開
眼をつぶって再び見開けば、何処かその辺のすがきの内に、母が少女の群れに
交じって遊んでいるかもしれなかった。

枠の中の白い水が、蒸篭のように作ってある簾の底へ紙の形に沈殿すると、娘は
それを順繰りに板敷き並べては、やがてまた枠を水の中に漬ける。表に向いた小屋の
板戸が開いているので、津村は一藁の野菊のすがれた垣根の外に佇みながら、見る間に
2枚3枚と漉いていく娘の鮮やかな手際を眺めた。姿は州なりとしていたが、田舎娘
らしくがっちりと堅肥りした、骨太な、大柄な児であった。その頬は健康そうに
張り切って、若さでつやつやしていたけれども、それよりも、津村は、白い水に
浸っている彼女の指に心を惹かれた。なるほど、これでは、「ひびあかぎれに指の先
ちぎれるよう」なのも道理である。が、寒さにいじめつけられて赤くふやけている
痛々しいその指にも、日増しに伸びる年頃の発育の力を抑えきれないものがあって、
一種いじらしい美しさが感じられた。

ただ二つ三つ覚えていることといえば、当時あの辺はまだ電燈が来ていないので、
大きな囲炉裏を囲みながらランプの下で家族たちと話をしたのが、いかにも
山家らしかったこと。囲炉裏には樫、椚、桑などをくべたが、桑が一番火の
持ちが良く、熱も柔らかだというので、その切り株を夥しく燃やして、とても
都会では思い及ばぬ贅沢さに驚かされたこと。囲炉裏の上の梁や屋根裏が、かっかと
燃え上がる火に、塗りたてのコールターのように真っ黒くてらてら光っていたこと。
そして、最後に、夜食の膳に載っていた熊野鯖と言うものが非常に美味で
あったこと。それは熊野浦で採れた鯖を、笹の葉に刺して山越しで売りに
来るのであるが、途中5,6日か1週間ほどの間に自然に風化されて乾物になる。


道は大台ケ原山に源を発する吉野川の流れにそうて下り、それがもう1本の渓流と
合する二の股という辺りに来て2つに分かれ、一つは真っ直ぐに入りの波へ、
一つは右に折れて、そこからいよいよ三の公の谷へ這いいる。しかし、入りの波
へ行く本道は「道」には違いないが、右へ折れる方は木深い杉林の中に、わずかに
それと人の足跡を辿れるくらいな筋がついているだけである。おまけに前夜降雨
があった、二の股川の水嵩がにわかに増え、丸木橋が落ちたり、崩れかかったり
していて、激流の逆巻く岩の上を飛び飛びに、時には四つばい這わないと越える事が
出来ない。二の股川の奥にオクタマガワがあり、それから地蔵河原を渡渉して、
最後に三の公川に達するまで、川と川のとの間の道は、何丈と知れぬ絶壁の削り
たった側面を縫うて、あるところでは道が全く欠けてしまって、向こうの崖から
こちらの崖へ丸太を渡したり、桟を打った板を懸けたり、それらの丸太や板を
宙で繋ぎあわして、崖の横腹を幾曲がりも迂回したりしている。
そういうわけでその谷間の秋色素晴らしい眺めであったけれども、足下ばかり
見つめていた私は、おりおりの眼の前を飛び立つ四十雀の羽音に驚かされたくらいで
恥ずかしながらその風景を細叙する資格がない。だが案内者の方はさすがに
慣れたもので、刻み煙草を煙管の代わりに椿の葉を巻いて口に咥え、嶮しい
道を楽に越えながら、あれはなんとう滝、あれは何という岩、とはるかな谷底
を差して教えてくれる。

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