2016年2月16日火曜日

旅への想い

今、自分の今までの生き方の原点回帰の想いで、かなりのフィクションを入れた
旅日記を描いている。仕事で行った場所や生まれた場所、などの訪問を含め、
昭和から平成という大きな変節の時代を生きてきたという郷愁と悔悟と時代変化
の激しさへの想いがその中で、浮かんでくるようだ。
ドナルド・キーンも「百代の過客」の中で、旅日記に見る日本人の思考と感情を
読み解こうとしている。近代以前は、旅すること自体が己の人生そのものでもあった。
それは、松尾芭蕉、西行、宗祇などの残したものを見るとよくわかる。
「百代の過客」に描かれている旅日記の作者もそのような側面を持っている。
現在は、ある意味、心の漂泊の時代かもしれない。単に有名な観光地への物見遊山も
よいが、その中のわずかな時間でも、自身の「人生の旅」を振り返るのも、
一つでは、ないか。
ここでは、松尾芭蕉ほかの人たちの記述から旅、そして人生への想いを感じてみたい。

1.松尾芭蕉の場合
松尾芭蕉は、旅の人である。
東北を中心に、関西までその足を進めている。
しかも、一鉢一杖、一所不在、正に世捨て人のなりわいの
如くであったとのこと。
松尾芭蕉が、このような長旅と困難なことを実行したのか?
彼にとって、旅とはその人生にどんな意味を持つのか?
私自身の旅への強い想いもあり、「おくのほそ道」「野ざらし紀行」
等からその一端を掴みたい。

1)「おくのほそ道」より
まずは、
「月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人也。
船の上に生涯を浮かべ、馬の口とらえて老いを迎ゆる
者は、日々旅して、旅を棲とす。古人も多く旅に死せるあり。
予も、いずれの年よりか、片雲の風に誘われて、漂白の思い
やまず、海浜をさすらいて、、、、」。
この旅に出る根本動悸について書き出している。
松尾芭蕉の旅の哲学がそこにある。
旅の中に、生涯を送り、旅に死ぬことは、宇宙の根本原理に
基づく最も純粋な生き方であり、最も純粋なことばである詩は、
最も、純粋な生き方の中から生まれる。多くの風雅な先人たち
は、いずれその生を旅の途中に終えている。
旅は、また、松尾芭蕉にとって、自身の哲学の実践と同時に、
のれがたい宿命でもあった。
「予も、いずれの年よりか、片雲の風に誘われて、漂白の思い
やまず、海浜をさすらいて、、、、」とあるが、旅にとり付かれた
己の人生に対する自嘲の念でもある。

また、唐津順三も、「日本の心」での指摘では、
「竿の小文(おいのこぶみ)」「幻住庵記」にある「この一筋」、
様々な人生経路や彷徨の後、「終に無能無才にしてこの一筋に
つながる」として選び取った俳諧の画風に己が生きる道を
見出しながらも、その己における在り方には、まだ不安定ものがあった。
「野ざらし」以後の「旅」の理念、日本の伝統的詩精神を
極めて、「旅」こそ詩人の在り方と心に誓い、一鉢一杖、一所不在、
尊敬する西行の庵生活すらなお束の間の一所定住ではないかと
思いつめた旅人芭蕉にも、ふいと心をかすめる片雲があった、
はずである。
野ざらしを心にして旅に出て以来、殊に大垣を経て名古屋に入るとき、
己が破れ笠、よれよれの紙衣を見て、「侘つくしたる侘人、われさえ
哀れに覚えける」と言って、「狂句木枯らしの身は竹斎に似たるかな」
の字余りの句を得て以来、芭蕉は、つねにおのが「狂気の世界」を
見出したという自信を持った。
松尾芭蕉としての気概がここにある。

2)「野ざらし紀行」より、
貞享元年(1684)8月、松尾芭蕉は初めての旅に出る。
「野ざらしを心に風のしむ身かな」
と詠んで、西行を胸に秘め、東海道の西の歌枕をたずねた。
「野ざらしを」の句は最初の芭蕉秀句であろう。
「野ざらし」とは骸骨である。骸(むくろ)である。
「しむ身」は季語「身にしむ」を入れ替えて動かしたもので、
それを「心に風のしむ身かな」と詠んで、心敬の「冷え寂び」
に一歩近づく風情とした。
「野ざらしを心に」「心に風の」「風のしむ身かな」という
ふうに、句意と言葉と律動がぴったりとつながっている。
この発句で、松尾芭蕉は自分がはっきりと位をとったことが見えたに
ちがいない。

2.柳田國男にとっての旅
柳田にとって旅とは、一体何であったのだろう。柳田は「旅は本を読むのと同
じである」(『青年と学問』)といっている。
旅はその土地のことばや考え、心持ちなどを知ることであり、文字以外の記録から
過去を知ることであるともいっている。『青年と学問』におさめられた講演の
なかで柳田は、人の文章(文字)や語り(無文字)から真に必要なものを
読み取る能力を鍛えろと、青年たちに訴えている。人の一生はしれている。
その限りある時間を有益に使えといっている。ただ、がむしゃらに本を読んで
も、旅をしても、志が低く、選択を誤れば、無益になってしまうといっている。

柳田は見ること、聞くこと、読むことを同一線上でとらえているのである。
それらを媒介しているのはことばであろう。ことばを媒介としてあらゆる事象を
読み取ろうとする。本を読むように風景を見、人と語る。
実際、各地の地名や方言にも若い頃から特別な関心を示していた。柳田にとって
見ること、聞くことは、読むことなのだ。そして学問のためにも、それらを
ことばに置き換え、文字に表現することに、柳田は非常な執着を持っていた。
日本人自らが自分自身を知るという、最終的に自己を対象化できるのは、
ことば以外にあり得ないと考えていた。
だからこそ、旅は本を読むのと同じであるといったのであろう。

膨大な柳田の読書暦や旅行暦は、恐らく少年時代の読書体験、それに移住を
余儀なくされた漂白体験から培われている。文字と無文字の両方に価値を
おき、そこから得た発見、衝撃を、柳田は人一倍強い感受性で受け止めている。
私はその感受性の根に、無名の人々の哀しさを見つめる柳田の目を感じる
のである。その哀しさへの共感が、柳田の内部から抑えがたい渇望と
なって発酵していったのであろう。
哀しさへの共感といっても、実は旅そのものが柳田のいうように「憂いもの
辛いもの」であった。「タビという日本語はあるいはタマワルと語源が
一つで、人の給与をあてにしてあるく点が、物貰いなどと一つであったの
ではないかと思われる。……すなわち旅はういものつらいものであった」
(定本第二十五巻「青年と学問」より)。

漂白と定住、逃散と定着、村を追い出される者、出ていく者、あるいは
諸国を歩く遊行僧、旅芸人、木地師など、移動を余儀なくされる者の
心持が、すなわち「タビ」であったという。
旅の語源は「賜ぶ」「給べ」といわれる。「他火」もそうだろうか。
移動する者にとって、食う物が無くなった時、他人の火(「他火」)で
作られた食べ物を、物乞い(「給べ」)しなければならなかった。
他人の家の火を借りて一夜をしのぎ、食い物を恵んでもらうことで、
生をつないでいたのである。ここから、また「食べる」も派生した
だろう。時代によっては餓死、野垂れ死が、日常茶飯事の情景であった
かもしれない。「タビータマワル」なしには生きることの困難な状況
があったことは疑いない。

「タビ」は、すなわち生きることと直結していたのである。
移動者ばかりでなく、ある程度蓄えのある定住者にとっても、旅人の
心情は他人事ではなかったはずである。自然災害や戦乱、圧政、
いつ何時自らも旅人になるともしれなかった。それゆえ、行き倒れた者
を雨ざらし野ざらしにしないという村人たちの暗黙の了解があった
かもしれない。見ず知らずの者に屋根を与え、火を囲み、事情や他国
の話を聞くなかで、タビが新たな関係を生んでいく。

そこにはまた別な光も差し込まなかったか。場を共有することで心
が和み、人と人との温かな交流が芽生える。一宿一飯の恩義だけでなく、
「タビ」を介して、確かに「情」が内部から醸成されてくる。
人の哀しさと優しさの根源に、「タビ」を置くことはできないか。
日本人が南方からの移住者であったとすれば、「タビ」から派生した
哀しさと優しさの痕跡を、わたしたちは心のどこかに秘めているのでは
ないだろうか。柳田はそのことに気づいていたかもしれない。
人生は旅だといい、死に装束も旅姿である。「タビ」は、わたしたち
のこころのなかを貫いているのである。

3.ドナルド・キーン「百代の過客」より
本書の初めに以下のような文がある。
「芭蕉がよく旅に出かけたのは、過去の詩人に霊感を与えた自然の風光
だけではなく、路上や旅籠で行くずりに得た人間的な経験からも、自分の
詩に対する新鮮な刺激を受けたいと、おそらく望んだからであろう」。

また、この本ではないが、その同じような心根が白洲正子の「近江山河抄」
からもうかがわれる。
「やはり美術品は、特に信仰の対象となるものは、祀られている場所で見る
に限る。見るのではなく、拝まなくてはいけないだろう。祈らなくては
いけないだろう。観音寺のような寺に詣でると、私みたいな信仰のないものでも、
しぜんそういう気持になって来る。、わが立つに杣に冥加あらせ給え。
観音寺から私たちは、湖水のほとりへ出た。長浜の北に、早崎という竹生島
の遥拝所があり、そこから入日を見るといいと勧められたからである。
が、秋の日の習いとて、行き着かぬうちに暮れかかった。で、長浜城跡から
拝んだが、あんな落日は見たことがない。再び見ることもないだろう。
向かい側は比良山のあたりであろうか、秋にしては暖かすぎる夕暮れで、
湖水から立ち上る水蒸気に、山も空も水も一つになり、全く輝きのない太陽が、
鈍色の雲の中へ沈んでいく。沈んだ後には、紫と桃色の横雲がたなびき、
油を流したような水面に影を映している。わずかに水面と分かるのは、水鳥の
群れが浮いていたからで、美しいとか素晴らしいというにはあまりにも静かな、
淀んだような夕焼けであった。
何時間そこに立ち尽くしていたか、もしかすると数秒だったかもしれない。
こう書いてしまうとなんの変哲もないが、実はその前日、私は京都の博物館で、
平家納経を見ていた。その中に、今日の落日と寸分たがわぬ景色があった。
銀箔がさびて、微妙な光彩を放つ中に、大きな太陽が浮かんでいる。紫と桃色の
雲が経巻の上下にただよい、小鳥の群れがその中を飛んでいく。風もなく、
音もない。」と書いている。

日記作者としての芭蕉の成功には、実に目を瞠らされるものがある。
「奥の細道」ほど広く読まれた日本の古典文学作品は、他にそうあるまい。
ところが芭蕉は、自分の日記を文学作品にしようという意図はを、一切
否定している。
「笈の小文」では、さまざまな自分の回想を、ただ雑然と書き記した
だけだといい、したがって酔っぱらいの狂乱の言葉、眠っている人間の
譫言を聞くかのようにそれを読んで貰いたいと読者に乞うている。
にもかかわらず、そういうこと自体芭蕉が自分の日記を人に読んで貰いたい
と期待していたことを証明している。
したがって、それは、忘れえぬ事どもを、単に自分の記憶に留めておくため
にだけに書いたものでは、決してなかったのである。
芭蕉の日記は、自己発見の表現でもあった。彼にそれを書かせたのは、
「万葉集」から今日まで、日本の文学に一貫して流れる旅を愛する心ではなく、
旅の中に、彼自身の芸術の、ひいては人として、詩人としての、自己存在の
根源を見つけ出そうとする欲求でもあったのだ。

「奥」に入ろうと、白河の関を越えたあとで作ったという句「風流の初や奥の
田植うた」の中には、いよいよ文学的創造の端緒に出会ったぞ、という心の
高ぶりが読み取れる。他のいくつかの日記では、自分がなぜ詩人になったのか、
また他にどのような仕事を考えてみたか、そして自分は、詩の到達すべき最高
の目標は何と信じるか、などという事柄に関する、まことに素直な意見を
述べている」。

この想いは、松尾芭蕉に限らず、多くの旅日記に散見されるという。
例えば、「白河紀行」にも、 
「宗祇は彼の人生の大半を旅に過ごしている。旅は主として歌枕を訪ねたい
という願望からであった。ただ、当時このような旅の仕方をした連歌者は
少なくなかった。人とのつながりを求めていた連歌への想いが行く先で歓待を
受ける形で現れた。また、地方有力者の文化への憧れがそれを推し進めた
とも言える。
宗祇にとって、歌枕を訪ねることが最優先のことであり、どこにでも出向いた。
荒涼たる那須の荒野を行く時に詠んだ歌がある。
「歎かじよこの世は誰も憂き旅と思ひなす野の露にまかせて」
もう歎くのはやめよう、この世をわたって行くことは、自分ばかりでなく、
誰もみんな憂いつらい旅をしているようなものなのだ。そう思いなおして、
那須野の原におく露のように、はかない運命に身を任せよう」
彼はその場所がやや不明であっても、それは問題ではなかった。
彼は古歌を生み出した土地の雰囲気の中に我が身をおき、その地の持つ
特質を己自身の言葉によって、表現することが重要であったのだ。

西行もしかり、他の詩人がその詩を生み出した源泉に身を置き、新しい
霊感を見出すことによって、己の芸術を更に高めることにあった。
芭蕉も言っている。「許六離別の詞」の中で空海の書より「古人の跡を
もとめず、古人の求めたる所をもとめよ」と。
白河の関明神の神々しさに、
「苔を軒端とし、紅葉をゐ垣として、正木のかつらゆふかけわたすに、
木枯のみぞ手向をばし侍ると見えて感涙とどめかがきに、兼盛、能因
ここにぞみて、いかばかりの哀れ侍りけんと想像るに、瓦礫をつづり
侍らんも中々なれど、皆思い余りて、、」
そして、
「都出し霞も風もけふみれば跡無き空の夢に時雨れて」
「行く末の名をばたのまず心をや世々にとどめん白川の関」、、」とある。

さらには、「いほぬし」から見る旅への想いとは、
「いつばかりのことにかありけん。世をのがれて、こころのままにあらむ
とおもいて世のなかにききときく所々、おかしきをたずねて心をやり、
かつはたうときところどころおがみたてまつり、我が身のつみをもほろぼさむ
とある人有りけり。いほぬしとぞいいける。

作者がここで、旅の明確な動機としてあげているものが三つある。まず旅に
よってこの世の煩いから逃れ、思いのまま生きてみたいという願望である。
世間を捨てたいという気持は、中世およびそれ以後の隠者僧の気持にも通じる
ものであろう。第二の動機は、その魅力については聞き知っていても、まだ
訪れてていない地を訪れたいという願い、これはまた、何世紀にもわたって、
日本人を、景色の美しさで聞こえた土地だけではなく、景色はともかく、昔から
歌で名高い土地を訪ねてみたいと言う気持にさせたと同じ願いである。
西行や芭蕉の作品に詠まれた場所に、今日林立する歌碑や句碑。あれは彼らの
先達に霊感を与えた場所を我が目で見たいという日本人が古くから抱いた願望の、
なによりの証拠ではなかろうか。

最後にいほぬしは、旅は自分の罪を幾分なりとも亡ぼしてくれるだろう、という
希望を述べている。これも、様々な聖地に杖を曳く人々の、心の底にある希望
と同じものなのである。人は旅から喜びを引き出すこともできよう、伊勢、熊野、
石山寺などは、聖地でもあるが、景勝地としても聞こえている。だが巡礼の目的は、
それではない。
聖地を訪れる巡礼は、その場所の神仏との一体化を成就するのである。神仏を
ただあがめるためだけでなら、そのためには日本中、それこそ数限りない場所がある。
しかし神仏に直接ゆかりのある聖地に行ってあがめるほうが、霊験はさらに
あらたかなのである。」
とある。

私自身、旅が何かまだわからない。ただ、非日常性の中で、今まで自身が忘れていた、
もしくは無理に記憶の奥底に押し込めていた何かに対峙する時間は与えられるのでは、
それを自身がどう対処するかはわからないが、と思っている。

最後に四国遍路の旅の感想から1つ。
「東京都 Fさん(27歳)
物足りて心寂しい心境での表面的な生活に疑問を感じ本当の自分の行き方を見つけ
出したい為、四国巡礼に友達3人と出ました。  最初は軽い気持ちで「旅行の延長」
で参ってましたが、段々と御参りを続ける内、ほんとに心に響いてくるものを感じる
ようになりました。宿坊に泊まり早朝、厳格・厳粛・静寂の中で読む般若心経、
ご住職の温かい説法・・・自分の中で何かが変わり始めてきました。
最後、高野山までお参りを終えた頃には、3人とも顔つきが変わっていました。
自分の人生、生き方について本当に考えさせられました。今後、少しづつ物に
とらわれなく、自我に固執することなく、人生の修行、結婚、仕事を続けて行こう
と考えてます。続けきった時、何かが見えてくるように思います。
自分が生きているのではなく、周りの皆様によって支えられ共に生き、何か大きな力
で生かされているような気がします。ありがとうございました。」

なお、追記的な想いとして葛飾北斎の浮世絵の風景に関するものからは、
芭蕉、宗祇など芸術家としての同様な想いが感じられる。

その文章は残っていないが、例えば藤沢周平の「溟い海」の一文からは、
「「広重は、むしろつとめて、あるがままの風景を描いているのだった」
「広重と風景との格闘は、多分切りとる時に演じられるのだ。
そこで広重は、無数にある風景の中から、人間の哀歓が息づく風景を、
つまり人生の一部をもぎとる。あとはそれをつとめて平明に、
あるがままに描いたと北斎は思った」
「恐ろしいものをみるように、北斎は『東海道五十三次のうち蒲原(かんばら)』
とあるその絵を見つめた。闇と闇がもつ静けさが、その絵の背景だった。
画面に雪が降っている。寝静まった家にも、人が来、やがて人が歩み去った
あとにも、ひそひそと雪が降り続いて、やむ気色もない」とある。

浮世絵としては、例えば、
「富嶽三十六景」は、広重の東海道に比して、大きく違うのは、
富士と言う対象物を気象、季節、視点など様々な条件下で、捕らえ、
その都度、異なる山容の表情に最大の興味を持っていることにある。
これは、同時期に描かれた、
①千絵の海
各地の漁撈を画題とした錦絵。変幻自在する水の表情と漁業に
たずさわる人が織り成す景趣が描かれている。全12図。
既に、無くなった漁労の風景が生き生きと描かれており、古き
日本の風物詩が語れている。
②諸国滝まわり
落下する水の表情を趣旨として全国の有名な滝を描いた。全8図。
相州大山ろうべんの滝(神奈川県伊勢原市大山の滝)
東海道坂の下清流くわんおん(三重県亀山市関町坂下)
美濃国養老の滝(岐阜県養老郡養老町)
木曽路の奥阿弥陀の滝(岐阜県郡上市白鳥町、日本の滝百選。白山の参拝)
木曽海道小野の瀑布(長野県木曽郡上松町、現存)
和州吉野義経馬洗い滝(奈良県吉野郡あたり、滝はなし)
下野黒髪山きりふりの滝(日光市、現在は日光3名滝)
東郡葵ケ岡の滝(東京、赤坂溜池)
③諸国名橋奇覧
全国の珍しい橋を画題とした11図。
摂州安治川の天保山(大阪、天保山)
足利行道山くものかけ橋(足利の行道山)
すほうの国きんたい橋(山口県の錦帯橋)
越前ふくいの橋(九十九橋、福井市)
摂州天満橋(大阪天満橋)
飛越の堺つりはし(飛騨と越中の国境)
かうつけ佐野ふなはし古図(群馬県佐野市)
東海道岡崎矢はぎのはし(三河の岡崎)
かめいど天神たいこばし(亀戸)
山浅あらし山吐月橋(京都嵐山渡月橋)」
等にもいえる。
他の方々は、いかがであろうか。
北斎の絵を見ていると、旅、人生という言葉が、ひょっこり
顔を出す、そんな思いに捕らわれる。

2016年2月5日金曜日

「日本の200年」から思うこと。日本人のこころは変化した?

この本では、200年間を歴史のスパンとして、ヨーロッパにおける産業革命を
はじめとして、アメリカ合衆国の成立など社会変革が進化していたこの時期に、
同時代としての日本にとっても当然変革の波に洗われ続けた時代として描いている。
その構成として四つの時代に分割している。第一は徳川体制の成り立ちから倒幕に
到る時代。第二は近代革命(武士による革命としての明治維新)の1868年から
1900年代初頭の時代。第三は帝国日本の興隆から崩壊という1910年代から
1950年の時代。第四は戦後日本と現代日本という1952年から2000年
までの時代であるが、1980年代前後を働き盛りとして生き抜いた人間としては、
その社会、政治変化は、回顧の想いも含め興味深く読める。
また、アンドルー・ゴードン氏は、日本を特殊な国としてとらえるのではなく
「日本という場で、たまたま展開した特殊「近代的」な物語」を記述することであり、
「特殊日本的な物語」を語るのではないと言っている。
日本の歴史、文化や政治体制など、が外部とのつながりでまたは強制的な力によって、
どのように変化し、進化してきたのか、そんな視点からこの本を見ると今までの
歴史教科書とは違った文脈が見えてくる。これを国内の深層的な視点から見ている
和辻氏の日本倫理思想史とあわせるとさらに深みが増すように感じられる。

以下のゴードン氏の発言はそれを物語るものであろう。
「私がここで言いたかったことは、日本固有だと思われていることが、実は世
界の近現代史と深く関係しているグローバルな事象だということです。そのことをさら
に明らかにしようと考え、外国から導入されたミシンという道具と日本女性の関わり方
にフォーカスしてみました。それをまとめたのが、『ミシンと日本の近代―― 消費者
の創出』です。外国からもたらされた「能率と合理性」のための道具であるミシンを、
日本の女性たちが受け入れ、他方では自分たちの文化も保とうとして抵抗し、複雑に屈
折しながら生活自体を変容させていく姿が、驚くほどよく見えてきました。西洋から日
本へのミシンの導入は、近代化のグローバル展開が日本でローカル化されるプロセスだ
ったのです。それが、「日本の近現代史は、世界の近現代史と不可分だ」と私が言う意
味です」。
さらに言えば、2000年以降は、インターネットの拡大による情報の拡散の速さや
物理的なものの移動と量の大きさや速さが格段に進んできた。出来れば、2000年
以降の具体的な記述があるとさらに面白く読めるのでは、と思う。

ゴードン氏が言いたかったことが本文にもあるが、日本人として長く培われてきた
「心のDNA」を、日本人固有の物として継承していきたい。
「戦後の復興から予想だにしなかった豊かさに至るこの歴史は、軌跡と模範の
物語だったのか、脅威的なグローバルな怪物の登場の物語だったのか、それとも
徳の喪失と伝統的価値観の風化にかんする悲話だったのか。これらの見方
すべてが、日本国内で、そして世界中で表明された。そのすべての見方の背後に
横たわっているのは、日本を、非常に違った、さらには独特な違いを持った場所と
みなす、誤った考え方である。日本が味わってきた様々な経験は、たしかに
興味深いがさほど例外的ではない、ととらえるべきであろう。日本の経験は
近代性と豊かさとの取組みという、ますますグローバル化しつつあるテーマの、
他とはちょっと趣を異にする一つの具体的な表われだったのである。」

その記述からもう少し日本の外的な流れの中での動きを見ていくと、
その1)文字とこうした外来の思想と制度は、奈良・平安の時代(8世紀から12
世紀)に古典的日本文明の成果を生み出す基礎となった。アジア大陸との宗教面・
経済面での重要な関係は、中世期(13世紀から16世紀)を通じて継続された。
このように、近代がはじまる前の100年以上の間、日本の人々と渡来人は、
アジア大陸の様々な文化形態を導入し日本の環境に順応させる、という作業を
続けていたのである。
それらの文化形態のうち、宗教、哲学、政治にかかわる営為の中で伝統的にとりわけ
重要な位置を占めたのは、仏教と儒教だった。、、、、、、、
古代から近代にいたるまで、儒教思想の道徳観と政治観は、日本社会で重要な意味
を持ちつづけた。儒教は、支配者たちにとって、倫理的にも知的にも最高の資質を
備えた役人を登用することがいかに必要かを強調した。道徳心の涵養は、家庭内で
子供が両親、とりわけ父親にたいして孝行と尊敬の義務を果たすことからはじまる、
とされた。広く学問を修め慈悲の心を身につけた者こそが、他人の上に立ち、
導く資格を持つものだとされた。

これに関し、以下の日本倫理思想史で和辻氏が書いている記述を読むともう少し
その背景がわかるのでは、と思う。
「明治時代の倫理思想」について描いている。
封建制の崩壊、国民的国家の樹立は、開国の方針とは全然逆の攘夷の立場において
成就したと信じていた人も少なくなかったであろう。然るに明治維新の思想的立場を
表示した五箇条の御誓文は、全然攘夷の立場などを放棄して、ヨーロッパの近代
国家に追いつこうとする規制を示したものであった。、、、
しかし王政復古は、単に武家執権の以前に帰ったというだけではなかった。それは
開国と必然に結びついている近代的国民国家への急激な転向であった。その際
皇位の伝統は、国民的統一を表示するものとして実際に作用する力を持って
いたのである。開国の事実と、封建組織の崩壊、国民的国家の形成の事実とを、
密接に連関したものと認め、そこに明治時代の社会の最も著しい特徴を見出す
のである。
右のような特徴を明治時代の初期に逸早く反映したのは、明六社の人々の思想
であった。福沢諭吉、加藤弘之、中村敬宇、西村茂樹、西周、津田眞道、森有禮、
神田孝平など。
特に福沢諭吉の想いは、二世紀半にわたる鎖国状態がもたらした文明の遅れを、
取り戻すという問題への取り組みであった。、、、、
政府の指導者たちは、西洋の文明に対する目を開いていた。だから、知識を世界に
求めることは初めから明治政府の方針であった。しかし廃藩置県の仕事の終わる
ころまでは、攘夷の旗印のもとに糾合された様々な思想運動、即ち水戸学風の尊王
攘夷論や山陽風の楠公崇拝や国学風の国粋主義などに凝り固まった連中に対して、
相当に強い発言権を与えていた。そのもっとも著しいのが大教宣布である。
それは一時神道を国教とするのではないかという疑念を呼び起こしたほど狂熱的な
烈しさを示したが、しかしその底力は儒教や漢学に及ばなかった。
福沢は、「学問のすすめ」を描いた。
人は生まれながらにして貴賤上下の差別を持ったものではない。万民は皆同じ位
である。しかし実際はそうでない。このため、「有様」の問題と「権利通義」の
問題とに分けて説明した。これにより、人権の平等の考えを展開した。さらには、
この考えを「国と国の間柄」に広げ、国は同等なることを説いた。
「いかに弱小であっても、一国はその独立の存在を保つ権利を持っている。
しかしその独立の権利を確保しうるのは、ただ「国中の人民の独立の気力」である。
だから「外国に対して我が国を守らんには、自由独立の気風を全国に充満せしめ、
国中の人々を貴賤上下の別なく、その国を自分の身の上に引き受け、各その国人たち
の分を盡さざるべからず」もしこの権利を侵害しようとするものが現れてくれば、
「日本国中の人民、一人残らず命を捨ててそれに抵抗すべきである。
これらの啓蒙運動により日本人に国民的国家の意義を理解させようとした。
また、「文明論之概略」では、文明を国民集団の主体的精神的な方面から捉え様
とした。「個人の知徳がどれほど進歩してようとそれが直ちに文明なのではなく、
国民一般の知徳の進歩のみが文明と呼ばれるとした。特に智の働きにおいては、
人の数よりも智力の質が重要であり、ヨーロッパの文明の優れている点を明確にした。

その2)何世紀ものあいだに、神道の神官たち、仏教の僧侶たち、儒学者たち
(それにこれら3者の役割をひとりで同時にこなした者たち)は、神道の神々と
それら神々への信仰と、仏教および儒教の伝統との統合化をはかった。
8世紀以降、仏教寺院と神道の神社がしばしば隣接して建てられるようになった。
中世には、仏はいろいろと姿を変えて神々として現れるのだとする新しい教義も
打ち出された。徳川時代の初期には、儒学者の中にも、同じように神道信仰と儒教の
信条の類似性を強調する動きがあった。
(この辺は日本倫理思想史に詳細に描かれている。神道と儒教が生活に密接な位置を
占めていた。)
グローバルな視点からみると、日本列島は、比較的発展の遅れた後進地域であった。
日本は、東アジア域外の政治関係や経済関係には、ほとんど組み込まれていなかった。
資本主義の萌芽は顕著にみられたし、政治危機の兆しも広範囲におよんでいたが、
近い将来に経済、社会、政治体制、文化が革命的な変換を経験するとは、だれにも
思いもよらなかったはずである。だが、1900年の時点になると、日本はすでに
多面的な革命を経験し、欧米以外では最初に、そして当時では唯一、産業革命を
経験した国でもあった。、、、、、、、、
近代はまた、ジェンダー役割に新たな展開と不確実性をもたらした。
20世紀の前半には、政治テロと暗殺、海外への帝国主義的侵略と進出が起き、
そして1世紀あたりの殺戮行為の発生量において史上群を抜く世紀となった20世紀
の中でも最悪の部類に入る数々の残虐行為をもたらした戦争が起きた。21世紀が
はじまる時点までに、日本はすでに世界でももっとも豊かな社会の1つになって
いたが、国民は、経済を活性化すること、若い世代を教育し年老いた世代を扶養する
こと、そして国際社会で建設的な役割を担うこと、といった新たな、しかし困難な
課題に直面した。
(この本では、女性、ジェンダーの記述がかなりある。日本の歴史関連書ではあまり
語られていないが、その視点の違いを感じる)

その3)明治国家は、宗教を統制することに関しては一貫して積極的な役割を担った。
神道の場合は、重要な伊勢神宮天皇家の間には以前から長年にわたって
結びつきがあったとはいえ、1868年以前には、いわゆる「神道」の実践
国家と密接な関係を持つことはなく、地域の集落ごとの鎮守を祀るための
分散化された地方レベルの神社を中心におこなわれていた。明治の初期には
政府は神道を司る官庁組織を日本の歴史では初めて設置した。1868年には
神祇官を設置し、次いで1870年には大教宣布にかんする詔書を発布して、
神道、すなわち「神ながらの道」を、国を導く国教とする旨を宣言した。
その後、神道を司る行政機関の格付けは下げられたが、神道こそはすべての
日本人を統合する古くからの宗教だとする認識は、その認識を普及させる
貯めの諸制度ともども、明治期の近代国家の建設者によって、紆余曲折を
ともないながら、あらたに作り出されたのである。この一連の措置により
1871年をピークとして多くの寺院や仏像、遺跡が破壊された。
(古代から戦前までの人にとって、天皇への忠誠、心の原点としても生きていた
のではないのだろうか)

その4)明治期の日本で目がくらむような速さで進行した変化は、様々な反応を
引き起こした。、、、変化に対する乱することへの恐れ、ジェンダー秩序が
混乱することへの恐れ、「われわれ日本人とは何者か」という問いへの答え
を求めたいという文化的な関心、という三つの領域で表面化した。、、、、
しかし、改革を目指そうとした様々なプロジェクトの背後に潜んでいたのは、
日本国内の住民と国外の人々を分け隔てする論理だった。この論理から、
一連の問いかけが派生した。われわれがこのような変革をおこなっている
究極の目的はいったい何なのか?我々は鉄道を建設したり、ヨーロッパ式の
憲法を採択しているが、日本人に固有なアイデンティティを持っているのか?
持っているとしたら、それはいったい何か?政教社の創立者たちは、日本が
いわゆる文明への道をたどるにつれて、西洋化が「我日本人をして国民の性格を
失わせしめ日本在来の分子を悉く打破して」しまうのではないか、と懸念した。
何よりも重要なのは、天皇に政治的、文化的なよりどころを求めることで、こうした
恐怖や不安への対処が図られてことである。
(日本人としてのアイデンティティ、明治期は外的な要因からであったが、
浮遊する現代でも、この問いかけがあるべき時期なのでは)

戦後は大きく変わる。それは物質面、精神面、あらゆる点で戦前までの共通意識が
消え去ったように思う。

その5)かって1920年代と30年代には、複数の社会的緊張、地主と
小作農の間、財閥のオーナーと困窮した労働者の間、都市と農村の間の
緊張など、は、日本を破壊的な戦争へと突き進ませることになった一触即発
の不安定要因の一環をなしていた。第2次大戦後の高度成長期になると、
新旧の社会的な分断は、以前に比べていくぶんか一触即発的でなくなった。
以前から続いていた格差や、形を変えて現れてた格差は、政府の政策に
よって制御された。
また、日本は均質的な人々が住む国であって、そこでは、拡大し続ける
近代的な中間階級の生活の恩恵と社会保障の分け前がほぼ全員にある程度
まで保障されているのだ、とする強力な文化的なイメージも、そうした格差を
緩和するのに一役買った。
マスメディアは、日本国民が抱くこのような経験の共通意識を増幅させる
ことによって戦後の社会史で重要な役割を演じた。、、、、、
このメディア漬けの環境の中で、中間階級の生活はこうあるべきだという
標準化されたイメージは広範囲に広がった。、、、、、
メディアが流す日常の番組もまた、教育水準の高い都会の中間階級の一家族
の生き方を、すべての日本人が経験していることの典型であるかのように
描き出した。、、、
通常の番組も大きなイベントの報道も、日本の戦後の近代的な生活が、
先進資本主義世界には共通なグローバルな近代文化の一環をなしている
ことを明らかにした。

その6)1980年代の後半、日本の民間企業の行動は国内でも国外でも、
一段と活気を帯びる。企業は一斉に猛烈な勢いで設備投資を行った。
1985年から1989年までの期間、総固定資本形成は、毎年のGNPの
30パーセント近くに上ったが、これは、高度成長がピークにあった60年代
当時の投資率に匹敵する率だった。
日本人が、世界中を見まわして、自分たちの成功と幸運にますます自信を深めた
のはすこしも不思議ではなかった。、、、、、
唐津の分析は、いわゆる「日本人論」とよばれる執筆活動のジャンルにおける
言説の典型であった。日本人論の特徴は、思想、美意識、社会、経済組織、
政治文化の伝統から、脳の片側を別の側よりも頻繁に使う傾向の有無などに
かんする神経生物学的な特徴に至る様々な領域で、日本固有の独自性を強調する
ことにある。日本人論は、すくなくとも三宅雪嶺や岡倉天心などの明治中期の
思想家たちやフェノロサなどの当時の外国人観察者にまで遡る長い歴史
を持っている。日本経済が1980年代を通じて繁栄を続けるのと並行して
「日本人論」の言説をつくりだし広める文化産業も繁栄した。そうした、
言説は、従来の言説と同じように、日本人全体がひとつにまとまっていることを
強調する一方、日本社会に存在する様々な重要なちがいや緊張について
言葉を濁した。

特に、以下の指摘は個人としても意識してきたことでもある。
その7)日本と世界の時間の流れを1990年前後を境として区切るという発想は、
説得的で抗しがたい。ベルリンの壁が崩壊したのは1989年、二つのドイツが
統一されたのは90年だった。ソ連の帝国が分解したのは1989年で、ソ連自体
が瓦解したのは91年だった。日本では、ヨーロッパにおけるこのような革命的な
変化の前後、1989年1月に昭和天皇が死んだ。同じ年の7月、自民党は参議院選挙
で惨敗した。自民党の議席が参議院で過半数を割ったのは、結党以来初めてのことであ
った。1990年には、80年代の投機的なバブルが劇的な形ではじけて、10年
以上におよぶ経済不況が始まった。90年代の世界的な文脈も、日本国内の時代的な
精神もともに80年代とは大きく変わった。
・「長崎市民の会」は天皇に関する一切のタブーの廃止を求める署名活動を展開した。
これには40万人近くの署名が集まった。このような行動は、戦前には思いも
よらなかったはずである。、、、、
・新天皇自身は、天皇の役割を象徴的なもに限定する戦後憲法の規定を尊重することを
誓った。様々な世論調査の結果は国民の圧倒的多数が、象徴的な君主としての
天皇を支持しており、それ以上でもそれ以下でもなかった。
・嘆かわしい若者の行動のいくつかが90年代の社会問題化した。それにたいしては
このような道徳観念の欠如が広まった背景には物質主義が強まり家族関係が希薄
になったことによって心が危機状態に置かれている、ともいう。
(1989年は個人的にも忘られない年である。仕事、社会的な動きでもこの年を
1つの契機として静かに変革は進んで行った。この文にもあるように天皇への意識も
変わり、日本人としての良さも過去の遺物としてどこかに忘れ去られていく、
そんな感じが強くなった。)

なお、現在メディアなどで盛んに言われていることは、すでに1980年代に顕著
になりつつあった。これは、読売新聞の連載である「昭和時代」にも多く指摘
されている。
この本での指摘が40年弱経っても、解決されるどころか、ますます悪い方向へ
行っている現実を見れば、政治の不在、社会解決の努力がどこにあったのか、
考えさせられる。

幾つかの関連の指摘を抜き出せば、
・人口の高齢化に伴う福祉サービス、コスト増加も、1980年代に浮上した重要な
政治問題の一つだった。
・1980年代と90年代を通じて、平均寿命はゆっくりとではあるがさらに上昇を
続ける。一方、合計特殊出生率(平均的な女性が一生に産む子供の数)は、低下
の一途をたどった。1990年には出生率が史上最低の1.6まで低下すると、
将来さらにつづく見込みの出生率の低下をめぐって懸念の声が沸き起こった。
・さらに、人々の耳目を集めた新しい社会問題のひとつは、小中学校で残忍な
いじめが増えたことである。
・80年代の大半の時期を通じて、もてるものと持たざる者の格差が広がるという
問題は、大半の日本人の目には処理可能な、些細な問題と映った。

日本人の心のDNAはどこから

少しづつ、その行動は我々の世代では理解できないような形で目の前や
ニュースなどのメディアの中には出てきてはいるが、東北や神戸の震災など、
また他の天災などにあった時の日本人の行動が、他の国に比べるとその秩序
だった動きと抑制的な行動は外国のメディアで報道されることが多いようだ。
またそれは私自身の日本人としてのDNAでもあるのか、最近そんな思いが
よく頭をかすめていく。
少し分厚いが、和辻哲郎氏の「日本倫理思想史」にそのヒントのようなものを
感じた。これは古代から近世明治時代までの日本人の倫理観の流れをまとめた
物であり、この中のいくつかの文が中々に面白く、ここではそのいくつかを
見ることで、自分なりの考えに参考としたい。

1、まずは聖徳太子の憲法にその源があるか
聖徳太子の憲法は、日本書紀が推古12年の時に、皇太子の憲法17条として
記録しているものである。、、、、、、
この憲法は、憲法と呼ばれているにかかわらず、形式の上で道徳的訓戒に
近いものである。
で法学者のうちにはこれを国法と認めない人が多かった。しかし、法律と道徳が
まだ分化していない時代の憲法に、この分化が顕著に行われた後の区別を
適用するのは、少し無理であろう。大化以後の律令にも相当顕著に道徳的色彩は
現われており、律令の道の実現の手段と考える態度は変わっていない。
もしここに法律と道徳との区別に近いものを求めるとすれば、それは、修身、斎家、
治国、平天下という段階の区別ではないであろうか。太子の憲法は、修身斎家に
関する人の道には触れずに、ただ治国平天下に関する人の道のみを
説いているのである。
その意味で、私の道を説かず、ただ公の道のみを説いていると言えるかもしれない。
そこで、憲法は、国家のことに関する限りの人の道を説いたものである、と言って
よいであろう。したがって、それは、官吏に対して、官吏としての道徳的な心がけを
説いたものである。その関心するところは公共的生活であって、私的生活ではない。
その説くところの心がけもおのずから国家の倫理的意義を説くことになる。
まず第一に力説せられているのは、共同体の原理としての「和」である。
人倫的合一を実現し、共同体を真に共同体として形成する事、それが国家の
存在理由なのである。
この思想は第1条のみではない。憲法全体を通じて鳴り響いているといってよい
であろう。
君臣上下の和、民衆の和、相互関係における和などは、様々の異なった形で繰り
返して説かれている。が特にここに注意すべき事は、ここに説かれているのが、
「和」であって、単なる柔順ではないと言うことである。事を論ぜずにただついて
来いというのではなく事を論じて事理を通じしめるためには、議論そのものが
諧和の気分の中で行われなくてはならない、と言うのである。従って盛んに事を
論じて事理を通ぜしめることこそ、最も望ましい事なのである。第十条は特に
そういう議論の場を眼中に置いたものであろう。

この17条、いずれも今の自分たちの行動、考えの基本として有効であり、日々の
基本としても重要と思うが。

2.さらにそれは室町時代へとつながる
建武中興の事業は短期間で終わったが、その与えた思想的な影響は非常に大きかった。
室町時代の性格が鎌倉時代のそれと異なったものになってきたのは主としてそれに
基づくであろう。
建武中興が表現しているのは、武士の勃興以前の時代の精神の復活である。
神話伝説時代には、天皇尊崇や清明心の道徳が著しかった。ついで国家の法制が
整備していく時代には、人倫的国家の理想が強く燃え上がった。これらの倫理思想
は伝統として鎌倉時代にも生き続けているが、しかし鎌倉時代の倫理思想の主導音は、
この時代を作った武士たちの体験から生い出た武士の習いであり、またそれを地盤
として深く自覚させられた慈悲の道徳である。しかるに建武中興は、この主導音を
押えて、それ以前の伝統的なものを強く響かせ始めたのである。だからこの後、
武家の執権が再びはじまってからも、幕府の所在が鎌倉から京都に移ったのみ
ではない。文化の中心が武家的なものから公家的なものに移ったのである。
この点のみに着目していえば、室町時代は日本のルネッサンスの時代である
ということが出来る。そうしてそのルネッサンスを開始したのは、建武中興の
事業であった。
神皇正統記と太平記とは、この事業を記念する大きなモニュメントなのである。
神皇正統記は、建武中興に関与した優れた政治家北畠親房の著作である。
この本では、神話的伝統を基盤として日本は神国である、と結論付けた。
また、三種の神器神皇正統記が表現しているのは、統治の道としての正直、慈悲、知恵
であり、それは神皇正統のしるしとしての皇位の神聖な源を示すのみではなく、
さらに天皇の統治の原理として人倫的国家の理想をも示している。
これには、伊勢神道がかかわってくる。伊勢神道は清明心の伝統を受けた「正直」
の概念をもって天照大神の協議を作り上げた。皇位の神話的伝統を表現する三種
の神器に、人倫的国家の理想を結び付け、それにより武家執権のはじまる以前の
日本の統治の伝統を見出したのである。
正直、慈悲、智慧を三つにして一なる根本原理を、三種の神器の意義として力説し、
我が国の統治の原理として掲げたいる。それは「およそ政道ということは、、、、、
正直慈悲を本として決断の力あるべきなり」という文章でもわかる。皇室の
神話的伝統と律令国家における人倫的国家の理想とを、一つに合わせて力説した。

多くの文化関連メンバーからは「日本文化の基本は室町時代にできた」と聞く。
一般庶民までの浸透の程度はわからないが、倫理面でも同じようなことが
言えるのかもしれない。
それについては以下のような文もある。

世阿弥にとって見物は一般の民衆をであった。「衆人の愛敬を以て一座建立の
壽福とする」という父観阿弥の態度は、そのまま猿楽の能の態度たるべきである
と考えらていた。観阿弥は「いかなる田舎山里の片ほとりにても、その心を受けて
所の風儀を一大事にかけて、芸をせし」人である。それを世阿弥は心の底から
讃歎している。猿楽の能がこのような覚悟で演じられていたのであれば、
本質的に民衆の芸術であったのだ。
それにより民衆の意識を表現する謡曲が上層の知識階級よりも、はるかに濃厚に
天皇尊崇や人倫的国家の理想などの伝統を活かしているのである。
たとえば、「弓八幡」(八幡神宮の縁起)「高砂」「養老」「「御裳裾」
(伊勢神宮の御鎮座縁起)などがある。
これらの諸作を通じて、一君万民の一つの日本国が世阿弥の強い情熱の的であったこと
を察し得ると思う。それは舞台芸術に反映せられた当時の民衆の意識なのであり、
したがって、天皇尊崇や正直慈悲の理想についての民衆的自覚に他ならないのである。
民衆は舞台の上で伊勢神宮を見、神の道を聞き、そうして天孫降臨以来の長久な
伝統に親しんだ。伊勢神宮と一般民衆との関係が広くいきわたったことは、
この時代の特徴だといってよい。
室町時代盛期における古代精神復活の動きは、謡曲や演能の力によって広く民衆の
意識に染み込んで行ったといってもよい。そういう古代精神の力は、上層の支配階級
や知識階級において新鮮さを失った後にも、民衆の意識にとってはなお新鮮であった。

3.やはり我々の心には儒学の何かが生きているのか
徳川家康による儒学の奨励
第一この問題は新しく支配階級としておのれを固定しようとしている武士たちの社会の
精神的指導権に関している。儒教は久しく摂取されていたが、しかしまだ指導権を
握ってはいなかった。武士が初めて政権を握ったころに精神的指導の権威を担って
いたのは、明らかに仏教である。それは伝統的な教権を維持していたのみならず、
さらに武士の勃興に呼応して新しい鎌倉仏教を創りだすほどに活力に充ちていた。
しかし、家康は仏教の持っていた精神的指導権を儒教の方に移したのである。
第二に、この変革は儒教がみずから武士に働きかけ、あるいは仏教と戦って
引き起こしたのではなく、逆に武士の方から儒教に働きかけ、あるいは仏教と
戦って引き起こしたのである。、、、
すなわち新興の武士たちは武力によって仏教の精神的指導権を崩壊させたのである。
家康は仏教の復興がこれからは障害になると考え、儒教を以て武士階級の精神的指導を
企てた。その具体的な取り組みを示すのが、本佐録である。
本佐録は儒道の大意を和文によって通俗的に説いたものであるが、しかしその説き方
には、時代を反映するらしい顕著な特色がある。著者は、日本が上代の2千年の間、
平和に治まっていたのに反し、何故近年に至って興亡が激しいかを問題とし、
唐人に逢ってその説明を求めた。唐人は答えて言った、その理は時と所によって
変わるものではない、天道に従うものは長久であり、天道に逆らう者は亡びると。
著者はここで天道の理をさとり、堯舜の道、五倫の教えに帰依した。日本では
神武帝が堯舜の道を守って国を治めて以来、この道の伝統の続く限り、天下は
平和に治まっていたのであった。然るにこの道は、仏教によって妨げられ、
ついで天道を知らない儒者によって妨げられた。これが天下の乱れた原因である。
天下を上代の如く治めるには、天道を知ることが何よりも肝要である。
これが著者の得たさとりでもあった。そして天道の形而上学的解決を神道に
結び付けたのである。
「日本のあるじ天照大神は、一切の奢移を斥けて天下の万民にあわれみをかけた。
神武天皇はこのおきてを守って道を行ったが故に、皇統は絶えることなく栄えている。
この天照大神のおきてが神道なのであって、「正しきをもはらとして、万民を
あわれむ」ことを極意とする。

江戸時代には、中江藤樹、熊沢番山、らがいる。この中で番山は、「皇室と文化の
絆との結合を説き、室町時代の教養の基本が生きている。日本の第1期の天皇
尊崇の伝統も、第2期の人倫的理想の伝統も、すべてが生きている」と言っている。
他にも、山鹿素行、新井白石 讀史輿論(愚管抄、神皇正統記とともに有名)
荻生徂徠、賀茂真淵(国意考」「歌意考」「語意考」など)、本居宣長(「古事記伝」
天皇尊崇の感情は千数百年をへて特殊な形態となっていた。宣長はそれを天皇尊崇の
立場の源流への遡行をもって、歴史的認識を古事記の研究から明確にした)
等がその論を争っていた。

4.町人道徳と町人哲学は如何に
士道の考えが優勢になったといっても、それは主として知識層の間でのことであって、
広範な層に染み込んでいる献身の道徳の伝統を打破し去ることはできなかった。
この伝統は義経記、曽我物語において活発に生き続けさらに舞本や浄瑠璃などを通じて
一般の民衆にも染み込んで行った。そうしてそれらはそのままに江戸時代に流れ込み
武士の間にも、民衆の間にも、きわめて優勢な思想として残っていたのである。
だから献身の道徳としての武士の道が、江戸時代初期における常識となっていた
ことは、否定しがたい事実である。
家康は道義の勝利として理解させるために、儒教の君子道徳を鼓吹して、武士を士君子
に転じようと努めた。士農工商の身分の別は、そういす道徳的な支柱の上に
立てられたのである。
日本の17世紀は町人の政治的な屈服を以て始まっているのである。しかしそれにも
関わらず、17世紀後半に華々しく花を開いた元禄の文化は、主として町人の
創りだしたものであった。政治以外において、武士階級の功績に属するものは
ほとんどない。
家康の文化政策によって振興された儒学でさえ、主として民間で発達したものである。
1つの時代の意識形態は支配階級によって作り出される、という命題は、ここに
通用しない。
享保年に書かれた「町人考見録」がある。
ここには、「町人心、商人心」という概念が形成されている。すなわち、おのれ
を抑制し、家職家業に忠実である態度が目指しているのは、「家の富、家の幸福」
である。
町人はいやしい身分とされるが、その代わり天下や国のことを心配せずともよい。
ただ家のことだけに意を注げばよいのである。
石田梅厳のその1人であり、倹約は仁の本であると説き、その本として「正直」
が人の道と説いている。
「心を儘にして性を知り、性を知れば点を知る。天を知れば事理おのずから明白なり」
というのが、彼の独特の心学修養のやり方であった。特に出発点として「心を知る」
ことを重要視し、日常の生きた心理を把握することに努めたのは、彼のいちじるしい
特徴であるとともに、やがて彼の流派の特色ともなった。彼においては心は、
物と対立した別な領域なのではない。心は物の主体的な側面であり、物は心の
客観的な側面である。志向されるものなくして心はなく、志向する働きなくして
物はない。
「形が直に心なり」。
ここに生きた心理の把握あるということ、またそういう傾向が心学の名の由来
であることを、我々は忘れてはならない。

千数百年の心の流れ、これを理解することは表面的な流れに惑わされる現代では
なお、一層必要と思われるのだが、中々にいかないようである。