2016年3月30日水曜日

日本の民俗、芳賀日出男

誰しもある時ふと、「もし生まれ変わることが出来たら、、」とかなわぬ
思いを抱くことがある。現代人ばかりでなく、死からの再生は神話の時代から
永遠の人類の願いであった。冬至の太陽も、夜空の月も、稲の一粒の種まで
も自然はよみがえるではないか。人生儀礼にも、よみがえりの願望の中から
生まれてきた行事や祭が少なくない。
満60歳を迎えた者は生まれたときの干支に再びめぐりあうので還暦と言う。
60歳の定年を迎えた人が「第二の人生」の旅立ちと言われるのもそこに
人生のよみがえりの想いがうかがわれる。稲作民俗は毎年一粒の種籾から
芽生える稲によみがえりを感じてきた。人もまた祭りや郷土芸能の中で
よみがえるのだ。愛知県の豊根村では、大神楽を復活させた。その中の
「浄土入りから生まれ清まり」までは、まさに死から生へのよみがえりの
行事である。福島県東和町では、二十歳までの若者が権立と呼ばれる
木の幹を削ったものを担いで山の岩の割れ目に飛び込みそこをくぐり
抜ける、母親の胎内くぐりの儀礼がある。また、郷土芸能には、それを
苦難のすえに祭りの日に成し遂げることで強い成人に生まれ変わる、ような
意味合いがあった。更に、我々は民俗宗教として人生儀礼を人生の中に
取り入れている。結婚式は神社で行い、お寺で仏式の葬式をする人が
ほとんどである。また、正月は初詣で始まり、四季それぞれに祭りや様々な
行事がある。その根底には、自然にも神が宿り、死後も霊魂となり、
先祖の守護を行うと信じ、それらのための儀式を営む。正月には神棚を
整え、盆には盆だなをこしらえ、先祖の霊を招き、送り火や燈籠流しで
先祖を再び送り返す。祭りを行うときには、聖なる場所を清め、五穀、餅、
神酒、塩、野菜、魚などで、神の降臨を待つ。祭主の祝詞により神は
祭りの挨拶を受け、願いを聞く。そして神は人々に生きるエネルギーを
与える。それは神と人の共食いであり、芸能である。
我々の生活はケの日常が続くと、活力が失せ、怠惰になる。非日常のハレ
の機会の祭日に神と交歓し、活力を得て、日常生活に戻るのである。

宮本常一、塩の道

ここ暫らく少し先の話をしてきました。未来の社会を技術的な視点から眺めた
場合や3Dプリンタの持つ社会変革への力がどこまで及ぶかの視点などでした。
また、これらを少し深く見るにしろ、少し昔のことも多いに気になる点です。
和辻哲郎、白洲正子、司馬遼太郎、柳田國男、そして宮本常一、芳賀日出男から
受ける様々な指摘は中々に面白い。ここでは、宮本常一氏の「塩の道」より、我々の
生活視点からのアプローチについて概観したい。宮本氏が日本各地を歩き、地域の
暮らしやその生業をまとめたものが「塩の道」であるが、ここからは日本人の
生活文化を垣間見ることが出来る。日本人としての息づかいが、時の流れに沿って、
聞こえてくるようだ。

塩、そこから辿る暮らしの変化
「塩の道」の中で、大抵の食べ物は霊があり、神として祀られることがあるが、
塩には霊がない。エネルギーを宿す食べ物にはその中に霊が宿ると考えられる一方、
塩そのものはエネルギーを産まないという特質がある、と言う。しかし塩がなければ
すべての動物はその活動を止めてしまう、という作用を持っている。このことが
塩の研究があまりなされて来なかった原因だと言うのである。
日本では岩塩はほとんど取れないため、多くは海岸で生産され、平安時代までは、
朝顔形にひらいた素朴な土器を地面に立てて周囲を火で焚いて海水から塩を抽出
していた。この作業工程で、土器のひびに海水が浸透しすぐに壊れていまい土器
の存在がなかなか確認できなかった。

塩作りが、揚浜、入浜塩田、塩浜へと発展し、大量に生産できるようになると
ともに、使われる器は、土器から、石混じりの粘土へ、そして鉄、石へと変化
していく。これが鉄器に代わるまで人は相当苦労して塩を作っただろうと推測できる。
この近江も、名古屋の知多半島やその周辺で取れた塩が運ばれてきたという話を
別な先生からも聞いたことがある。

更には、山中に住む人達がどのようにして塩を手に入れていたかというと、まず
木を切り、その木にその家固有の印をつけて川に流す。川の流れにそって海岸
まで行き、その木から塩を焼き出していた。その内に、海岸に住むひととの
分業を進め、山から多めの木を流し、海岸の住民がそれで塩を焼き、一部を山の
住民に送り返すようになった。その後、薪を売って塩を買う、というサイクルが
出来上がったという。

近江で生産された優れた鉄が優れた石ノミを生み出し、優れた石工と共に
日本各地に鉄の文化を伝播させていく。その鉄で花崗岩を刻むという石工が生まれ、
鎌倉時代の石工は近江地方に分布するのはこうした経緯があったからである。
なお、湖西は近世から石や石造りで有名であったという。
例えば、木地屋というのはロクロを回してお椀などをつくるが、この木地屋の歴史を
たどると必ず滋賀県の永源寺町の筒井と君ケ畑というところに結びつく。
この地方で算出される鉄でないと木地屋のお椀が作れなかった、というほど
良い鉄を産出したからである。 

そして、近江北部などで産出された鉄釜は塩の生産を飛躍的に増加させる。
これにより、若狭湾沿岸には、鉄を使った古い揚浜が分布している。 
しかし、鉄鍋では鉄の成分が流れ出るため、白い塩は出来なかった。そのため、
石鍋の製造も盛んになる。
塩の生産は、鉄と言う力を得て、大きな流通の流れを作り出す。
塩を売る人たちの登場であり、更には、瀬戸内海の人たちは、石釜で塩を作る
ようになり、ここで生産される塩は、鉄釜からつくられる錆色のついたもの
より有利であった。 

これにより、鉄の釜で作られたいた塩は、瀬戸内の塩に圧倒され、塩を売って
歩いていた人たちは違う商売を探すことになる。山の人は灰を担いで下りて、
塩と交換することに商売を変えていく。
塩の生産の拡大により、流通範囲は次第に広がり、規模も大きくなり、その運ぶ
手段として、牛が利用されるようになる。 
なぜ馬ではなく、牛が適切な運搬手段かというと、牛は馬と違って長距離の
運搬作業に適していて、野宿ができ、細い道が歩け、道草を食べてくれるので
飼葉代がいらない。何と言っても長距離が歩け、1人で7~8頭をひくことが
出来る、などの様々な利点がある。

 信濃の塩の道の地図を見ると、鉄道や舗装された道路の無いこの時代でも、
多くの人がこのようにして、生活のため、自分の商売のため、これらの道を
通っていた。多分、このような道が日本各地の様々な物流の元として開拓されていた。
北上山中でとれる鉄を南部牛につけて関東平野にもって行き、東北の人たちは、
鉄と一緒に牛も売り、身軽になって戻っていった、道もそうであったのだろう。
愛知のほうまで分布していた南部牛は、東北の文化含め、基本的生産力の及ぼす
範囲が、実は中部地方西部にまでわたっていたことを示している。 

塩の道のなかには、人の背で運ぶ以外に方法がない道が少なからずあり、その
場合は塩だけを運んだのでは儲けがすくないので、塩魚を運んだ。 
山中の人たちは、塩イワシを買ったら、1匹を4日ぐらいに分けて食べたそうで、 
また、ニガリのある悪い塩を買って、いろいろな方法でニガリを抽出して、豆腐
をつくったという。そこには合理的で決めの細かい生活があった。  

「塩の道」は、宮本氏が日本各地で聞き知った一般の人々の伝承や生活習慣などから
解きほぐしたものであり、われわれの目に見えないところで大きな生産と文化の波が、
様々な形で揺れ動き、その表層に、記録に残っている今日の歴史がある事を
伝えている。 
さらに、この本を読みつつ、芳賀日出男氏の「日本の民俗」を読むと、そこにある
多くの写真が、「塩の道」の言葉とあわせ、強く私に迫ってくる。例えば、この中の
「暮らしと生業」の運ぶと言う一章のモノクロ写真はまさに、「運ぶ生活」を
活写している。あらためて我々日本人の生活の深さに感じいる。

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「日本人と食べもの」より

今日われわれは、塩に関して無関心になっている。 
長い歴史のなかで人がどのようにして道を開き、そしてそれが、すべてにわたって
実は海につながる道であったということをこの本から強く感じた。 
更にそれは、縄文時代にまで遡る歴史であり、現在に生活でもなお、その延長線上
にあるのだといって過言でない。この幾層にも積み上げられた日本人の生活文化の
姿が垣間見られる。 

日本列島では、過去二千年の間に人口が漸増している、という。 
大きな変動もなく、徐々に増えているのは世界でも類をみない地域なのだそうだ。 
宮本氏はその理由をいくつか挙げている。
異民族が大挙して侵攻してくることがなく、武力による侵略をほとんど受けなかった。
 
内乱では、戦争をするものと耕作するものが分かれていた。ゲリラ戦がなかった
からとも言う。 
農村社会と武家社会とは別々の世界であり、鎌倉時代からの武家の存在がなかった
更には、享保の飢饉以来、東日本では産児制限により人口は減少ぎみであったの
に対し、西日本でサツマイモを作ったところでは、2倍、3倍と増えている。
農耕の進化とともに、木の実の採取も管理されていた。 
岐阜県と福井県の境にある穴馬という村の例がある。 
嫁に行くときトチの木をもってくのだそうで、トチの木をもつことによって飢饉
から逃れられることができた。このように実にきめこまかに、食用に供しうる
ものすべてを抱え込んで生活を立てている。 
こまかな食糧確保の知恵であり、同じようなことは海でもあった。 
漁師ではタコの取れる穴の権利をもたせたりという、娘を経由した世襲制度
を紹介、母系的な名残であると指摘している。
人口の安定化のための智恵が様々な形で存在した。

食物については、古事記、日本書紀、風土記などに記載されている食用作物は
かなり豊富であり、またそれらの外来の物を上手く広めている。
イネ、ムギ、アワ、キビ、ソバ、ダイズ、アズキ、ヒエ、サトイモ、ウリ、
ダイコン、などの名前が出ている。
更に、時代が進むとサツマイモ、トウモロコシ、カボチャ、ジャガイモなど
今の我々が食用しているものがスペインやポルトガルの宣教師たちを経て、
国中に広まっている。九州から四国、中国へと民衆が中心となり、広めている。
特に、トウモロコシなどは宮本氏が歩いた全国各地の山間の村々で作られていた
と言う。サツマイモが飢饉を救ったと言う話は多いが、トウモロコシも
人口安定には大きな力となった、と言う。

また、稲はどこから来たか、という問に、米の豊作を祈ったのが始まりである神社
の建物は高床式であり、それは南方から朝鮮半島を伝って日本にやってきたと
主張している。竪穴式住居に暮らしていた縄文人は土蜘蛛と呼ばれ、弥生人が
稲作をもたらしたともいう。神殿に土間は一つもないのは米作りと神社が一体
となって南方から伝わった証であるともいう。
さらに、ソバについての記述では、いまから4000年くらい前に、北海道では
ソバをつくっていた。それは、シベリアから海を越えて樺太、北海道へと渡ってきた
と言う。アワも同様にイネよりも大分昔から北で栽培されていた。それはイネの新嘗
よりもアワの祭があったという。これのことから、農耕は北で早く発達したの
ではないだろうか、また、「続日本記」の元正天皇の霊亀2年(716)の冬に
蝦夷が馬千頭を献上したという記述があり、北では農耕や畜産が畿内など
よりも早く始まったと言う。 
北海道にはわれわれが考えているよりはるかに充実した生活があった。 

魚肉の食べ方で、山の中で魚を食べるために塩魚にする方法と、酢で保存する
という方法があった。そこで米を炊いて米に塩を混ぜ、米の間に魚を挟んで
桶などに入れて米と魚を重ねていく。そうすると、魚肉と米が発行して鮨になる。
これが鮨の原型であり鯖や鯵が多く使われ、その後鱒やあゆなども利用された。
現代の握り寿司は江戸で発達したもので、今でも関西では押しずしである。
これは熟れ鮨の名残である。熟れ鮨の入れ物は当初壺であったかもしれないが、
600年ほど前にタガの技術が中国から日本に入り、杉と竹を産出する関西地方
で樽を作る技術が定着した。大阪を中心に酒を樽に入れて作る、それを江戸に送る、
という生産と流通のしくみが展開された。江戸では送られてきた樽で漬物を
作るということが行われた。野田の醤油はその一つであった。

江戸時代を初め、各地は他の国とは関係ない形で領民の生活を成り立たせていた
のであろうから、当然藩同士の助け合いはなかった。このため、各々の藩は常に
飢饉に備え、節約に努めた、自給のための工夫をしていた。 
獣肉をほとんど食べなかったので、魚が中心であり、この魚を山の中でも食べれる
様な工夫があり、先ほどのような発酵技術やお鮨などが生れた。 
それには、味噌汁などもあった。 
野菜は普段、ごっちゃ煮、雑炊、煮込みなどで食べたが、ハレの日と日常では
差があった。 このように、如何にすれば手元にある素材を栄養にし、また美味しい
ものにしていくという、民衆の智慧があった。 

これらの仮説が正しいかどうかは分らないが、数千年に渡って暮らしてきた
私たちの祖先が間違いなくいること、そしてわたしたちの文化の底に流れて
いるものは、間違いなく祖先によって養われてきたものである。
この本からは、遠い祖先の生活の延長の先に現在の我々がいる。それを
強く感じぜずにいられない。

------- 
(暮らしの形と美)

「日本人は独自な美をわれわれの生活の中から見つけきておりますが、
それは実は生活の立て方の中にあるのだと言ってよいのではないかと思います。
生活を立てるというのは、どういうことだとなのだろうかと言うと、
自分からの周囲にある環境に対して、どう対応していったか。また、対決して
いったか。さらにはそれを思案と行動のうえで、どのようにとらえていったか。
つまり自然や環境のかかわりあいのしかたの中に生まれ出てきたものが、
われわれにとっての生活のためのデザインではないだろうかと、
こう考えております。」
と言っている。

我々の周囲を見渡せば、確かに日本人は独自な美を生活の中に見つけてきた。 
環境との関わりによって、デザインが、文化に関わる広い意味でのデサインとして
生れてきた。 

「雑草が茂るということが、日本の文化というものを決定していたのではない
と思っています。」という指摘がある。
その一つが鍬の種類が多様である事からわかる。
牛や馬を使わずに鍬で田圃の稲の刈り入れや雑草をとっていた。多くの田圃が極めて
小さくそれを丹念に耕し作物を収穫していく。その地道さと自然への愛着が生活文化の
基本となっている。いま山の背に張り付くように開拓整備された、いわゆる棚田がその
象徴かもしれない。

さらに、彼は、
日本の鋸というのは、鎌倉時代へ入ると外へ向いていた刃が内側へ向いて、手前へ引く
ようになりはじめる。日本人の性格というものをみていく場合に、たいへん大事な一つ
の基準になるのではないかと思っている。 
日本人はけっして攻撃的ではないのです。というのは、じつは草との戦いからそれが生
まれてきたのではなかったのか。」と推測する。

また、同様に、家の造り方から数学的な才能をも培ったと言う。
日本の家はほとんどがマツ、スギ、ヒノキ、クリ、ケヤキなどが建築資材として
使われている。そしてこれらの多くが針葉樹であり、真っ直ぐに長く伸びる。
これらの素材から長い気を使って家を建てる文化を作り上げた。長い直線的な構造の
建物となっていった。そのことが直線的な文化や精神形成、更には数学的な才能向上に
関係していった、という。直裁簡明の行動につながっている。

畳の発明と藁の利用
稲作からは藁が生まれ、藁の利用が重要な文化となっていく。
平安時代の家の床は板の間がほとんであった。それにござが敷かれ、
やがて畳が出てくる。これにより日本の生活の基本的なパターンが
できあがった。さらに藁の利用が広がっていく。
藁細工が様々な形で行われた。
・縄をなう
・綱を作る
・蓆を編む
・草履や草鞋を作る
たとえば草鞋は、5人家族だと年間500足必要であり、冬の仕事、
家族全体が取り組むこの仕事により日本人が器用になったのではないか。 
またこの藁もそうだが、ほかにも糸を紡いで機を織ることは、
軟文化の代表的なものと言っている。
軟文化とは、宮本氏の言葉だが、この文化の特徴は、竹細工もそうだが、
ほとんどが刃物を使わないことであり、刃物1つで様々な細工が出来る
ことでもある。このような文化が生活の底辺まで幅広く広がっていく
ことで育てられた柔軟な文化は、国民性にも現れている、という。 

生活を守る強さをもつ美
近江から西のほうでは、スギが少なく先ほどのような建築資材として使う
ことが難しかったという。その代わりが松だそうだが、その扱いが少し
面倒であった。松の節を取り除くために縦引きの鋸が出来、虫の予防の
ために紅殻を塗っていた。
例えば、司馬遼太郎の「街道をゆく」でも紹介されている。
「北小松の家々の軒は低く、紅殻格子が古び、厠の扉までが紅殻が塗られて、
その赤は須田国太郎の色調のようであった。それが粉雪によく映えて
こういう漁村がであったならばどんなに懐かしいだろうと思った。
、、、、私の足元に、溝がある。水がわずかに流れている。
村の中のこの水は堅牢に石囲いされていて、おそらく何百年経つに
相違ないほどに石の面が磨耗していた。石垣や石積みの上手さは、
湖西の特徴の1つである。山の水がわずかな距離を走って湖に落ちる。
その水走りの傾斜面に田畑が広がっているのだが、ところがこの付近
の川は眼に見えない。この村の中の溝を除いては、皆暗渠になっている
のである。この地方の言葉では、この田園の暗渠をショウズヌキという。」

このようにして、我々の生活をその場に合わせ、さらにその生活を豊かに
して行くために、一つ一つの工夫がされ、その中で新しいデザインが
活かされて来た。

2016年3月28日月曜日

司馬遼太郎メモ

第4巻
御母衣のあたりはすでに、飛騨国白川谷と言う秘境のひとはしになる。
この渓谷に住む人々の全てが室町末期に浄土真宗の門徒になり、この
宗門の法儀によって統一された単一の秘境文明を作った。かれらは1つの
宗門の門徒として谷谷が横に組織を組み、またそれまで谷谷の人々を
脅かしていた迷信の類を駆逐した。よく知られているように、浄土真宗
というのは弥陀の本願を信じ参らせる信仰以外のすべての呪術や迷信を
排除する宗旨なのである。それまでは、山々に祟りをなす山霊や妖怪
が棲んでいて、この里の暮らしはおびえに満ちたものであったかと思われる。
例えば、この御母衣ダムより少し南の本街道から入ったあたりに猿丸と言う
在所がある。その在所で起こった事件が「今昔物語」巻26に出ている。
「今昔物語」は12世紀の成立だと言われているから、ともかくも古い時代
である。その時代にこの山中の村の事件が、都へ出る飛騨の匠などの
口を通して、都に住む筆者の耳に入ったのであろう。情報の面では
当時飛騨は僻地ではなかったかもしれない。
以下、紹介する。
旅の僧がいて、どうも物語での活躍ぶりから察すると歳は若く、勇気もあり、
身動きも敏捷らしい。
「いずくともなく行き歩きけるほどに、飛騨国まで行きにけり」
山中を歩くうちに道に迷った。やがて簾をかけたように大きくたかだかとした
滝にぶつかり、その向こうに道がない。とほうに暮れているうちに、背後から
笠をかぶりものを荷った男がやってきた。白川郷の人が物の本に登場
するさいしょかもしれない。僧は救われたようにその男にこえをかけ、
道を問うた。が、男はそれを無視して、やがて滝しぶきの中に躍り込んで
消えてしまった。僧、それを見ておどろき、「これは人にあらで、鬼に
こそありけれ」と恐れたが、自分もそのあとで今の男が躍り込んだようにして
滝をくぐってみると、滝はただの一重で、ざっと暖簾をかけたような具合である事が
わかった。滝の内に道があり、やがて行くと、向こうに大きな人里が
あって、人の家が多く見えていた。白川谷の猿丸にこの僧は出くわしたのである。
里人が多く出ていた。その中から浅き上下着けた身分のよさそうな人物が
先刻の男に案内されて僧の傍に寄ってきた。
「ただ我が家へ、いざたまえ」
と浅黄上下が僧の袖を取っていった。ところが、里じゅうの人々が、口々に
「私の家にきてください」と言い騒いだが、結局は僧は浅黄上下の男の
所有になってしまった。僧は内心おもうに、「これは皆鬼なめり、我をば
いて行きて食はむずるにこそ」と悲しく思ったが、浅黄の男は、
「心得違いなさいますな。ここは楽しき世界でございます、この上は日々
何の心配もなく、満ち足りて豊かに暮らさせてさしあげます」と言った。
家を見ると、大変大きく、住んでいる男女家族の数も多く、その一族が
僧が来た事を喜んで「走り騒ぐ事かぎりなし」受け取り様によっては白川郷
の大家族住居とその家族たちを彷彿させる。
その当主は、その夜、僧に一人娘を差し出し、「これ奉る」と言い、
きょうからは自分のむすめを慈しんできたように可愛がってほしい、と言った。
僧は還俗し、烏帽子を被った。当主は毎日馳走攻めにしたから僧は太ってきた。
当主はなおも「男は宍付き肥たるこそよけれ。太りたまえ。」と日に
何度となくものを食わせたために僧はいよいよ太ってきた。ところが妻は
夫が太るのを見てめだって悲しむのである。僧は妻に「何事を思い給うぞ」
と問うが、妻は答えない。やがて僧は、自分が山の神の生贄にされる予定
だと知った。この村では、年々1人が生贄として山の神に差し出される習慣があった。
それを怠れば、紙が荒れて作物なども不作になり、人も病み、郷も静かでない。
生贄は村の者でまかなわれるが、もし旅人がまぎれこんでくれるような事があれば、
これを騙して生贄にするのである。事情が分かったが、僧は原を立てなかった。
僧は妻に神はどういう姿をしている、と聞いた。妻が答えて、「猿の形に
おわすとなむ聞く」というので、僧は山の猿の老いたものであろうとおもい、
それを退治る決意意をした。結局、股の間に刀を隠し、山中の神社に
捨て置かれてから猿に対して大活躍をしてこれを生け捕りにし、里に連れ帰って
鞭でさんざんに打ち、人前ではずかしめ、猿にたっぷり後悔させてから山へ
放つ。その後、神社も、火を放って焼いた。
その僧はその後、妻と平和に暮らし、郷の長者として栄えた。それまでは、
この白川谷のあたりには馬も犬もいなかったが、このあと、この僧がそういった
動物を飼うことによってこの里を賑やかにし、山の怪しい霊から村を
守ろうと言うので奨励した、と言うことになっている。
この説話が12世紀だとすれば、この白川谷にひたひたと浄土真宗が入って
この谷に門徒王国が出来上がるのは、15世紀である。説話では、旅の僧が
古代的な祟り神を退治する事によって村を明るくしたが、浄土真宗の
進出によって思想的にもそれらが死滅した。さらには生活の規範もモラルも
この時期に画一化された。文明が来たといって良い。




古代にあっては、ひろく越こしと呼ばれるいまの北陸三県は畿内と独立した
一勢力をなし、奈良になっても屈強の勢力がここで発生する恐れがあった。
そのために、「愛発、あちち、の関」
と言う関門が設けられていた。有乳山(あちち)のあたりにあったらしいが、
いまは所在が知れない。現在の地図で言えば、滋賀県高島郡海津を起点として
まっすぐに北上している古街道がある。それが国境と言う村から福井県に
入るのだが、その越前へ越えたあたりが山中と言う村である。このあたりの山を
有乳山といい、愛発の関と言う古関もその付近の山路を塞いで建っていたのであろう。
、、、関所は7世紀半ばごろに制度として出来た。そのなかでも、「三関」と
呼ばれて、鈴鹿、不破そして愛発がもっとも重要なものとされた。
不破の関は美濃にあり、そのあたりはのちに関が原と呼ばれた。この不破の関
から東が、畿内政権にとってあづまであり、東の辺境であった。
愛発の関は北陸から出てくる勢力に対する関門だが、軍事的に役立ったことも
あった。、、、、関を閉ざすと言うは、中央の命令である。当時の言葉で、
こげんと言った。固関の文字をあてる。「こげん、こげん」と使者が叫びつつ
官符を持って駅場を飛んだのであろう。やがて平安期になればこれら律令体制
関所が名のみとなり、それを懐かしむ歌詠みたちの歌にだけ出てくる。
、、、、関が原出ている北国街道が正当なものである。ここから木之本へ出、
余呉湖のそばをとおり、そのあと、武生、鯖江をへて福井に至る街道である。
往路は、琵琶湖の北岸の海津から北上し、愛発越えをして、敦賀に出たい。
この方が、はるかに街道として古い。私の推測にあやまりがなければ、前記の
北陸街道のうちとくに椿坂峠、栃の木峠をへて越前今庄に下りていく街道は、
織田信長が柴田勝家に命じて拓かせた物であるらしい。そこへ行くと愛発越え
は、奈良朝のころは国家が特に重視していた官道であっただけでなく、有史
以前からあったらしいと言うことは幾つかの傍証によってその様にいえる。
国土地理院の20万ぶんの1の地図をみると、海津、敦賀間のこの街道には、
「西近江路」という名称がついている。街道の中でも、最古に属する老舗
であっても、いまは利用度も少なくさびれはててしまっているため、この稿
では、仮に北国街道の脇街道と言うことにして、まず脇街道の起点である
海津へ出かけてみることにする。
琵琶湖はその北端において3つの湾を持っている。夫々の湾に湖港があり
塩津、大浦、海津がそれである。どの湾も、古代から江戸末期まで栄え、
いまはまったく機能を失い、海津などはもう漁港と言う姿さえなく
なっている様である。
江戸末期までの日本の海上交通は、「北前船」と言う言葉にそのイメージが
込められているように、日本海航路が主航路であった。大阪の物産は
瀬戸内海をへて下関まわりで日本海に出、蝦夷地まで運ばれていく。
これがために裏日本の諸港がにぎわったが、特に栄えていたのは越前敦賀
であった。米も海産物もここで荷おろしされ、後は琵琶湖でもう一度船積み
されて大津へ運ばれるのである。敦賀から琵琶湖の北岸までの間は、僅か
の距離ながら陸送でである。この陸送路が二つある。塩津にでるのを塩津街道
といい、海津に出るのは、先に述べたように西近江路である。このため、
塩津、海津の湖港はにぎわった。それが明治以降、蒸気船という堅牢な
船が出現するおよんで太平洋航路が栄え、日本海航路がすたれた。
湖港の海津がおとろえて貧寒なる湖岸の村になりはてるのは、そういう
海上交通史の変革のためである。


海は松原越しに眺めるのがもっともいいという「古今」「新古今」以来の美的視点が
牢固として我々の伝統の中にある。
この点、気比の松原を持つ敦賀は日本のどの地方より恵まれている。弓なりの
白砂の渚にざっと1万本の松が大いなる松原をなしている景観というのは、ちかごろの
日本ではもはや伝統の景観と言うより奇観ではあるまいか。
松原に、わずかに日照雨(そぼえ)のようなものがふりかかっている。松原越しの
海は、水平線が白かった。越中でも加賀でも越前でも、北陸の海は鉛のように白い
というが、この2月21日の敦賀の海はわずかに緑がかっているように思えた。
その緑の分だけ、海にも春がきているようである。
、、、、、、、、
金ヶ崎城跡は、敦賀湾を東から抱く岬である。この南北朝のころの城跡にのぼると、
敦賀湾が見下ろせる。目の下に敦賀港の港湾施設が見える。貯木場に木材がびっしり
うかんでおり、いうまでもなくソ連から運ばれてきたシベリアの木材である。
敦賀港という北海にひらいたこの湾口が、昔もいまも、シベリア沿海州からやってくる
人間や物産の受け入れ口でありつづけていることが、あたりまえのようでもあり、
伝奇的なようでもある。
江戸期、北前船が華やかだったころは、敦賀港のにぎわいは非常なものであった。
とくに北海道物産の上方への移入は、敦賀港がほぼ一手にひきうけていた。物産は
主としてニシンである。このため、敦賀の海岸にはニシン蔵がびっしりならんでいた。
そのニシン蔵の群れは10年ばかり前までそのまま残っていたが、いまはない。
そのうちの一棟だけが、市内の松原神社の境内に記念的な建築物として移築されている
。
この記念のニシン蔵は、北前船当時のにぎわいをしのぶために残されているではなく、
幕末の一時期、水戸からやってきた政治犯の牢屋として使われた事があり、
その事を記念している。


敦賀は越前国の西の端である。
ここから越前国の本部へ入るには、東北方蟠っている大山塊を越えねばならない。
その山塊を越える道は、上古から中世までは木の芽峠のコースしかなかった。
越前三国から出てきた継体天皇も木の芽峠の瞼をこえて敦賀に入ったであろう。
また戦国末期に越前朝倉勢を討つべく敦賀に入った織田信長の大軍は木の芽峠を
越えることなく近江の浅井氏の敵対のために敦賀から退却せざるをえなかった。
幕末に武田耕雲斎の私軍も、この木の芽峠を越えて敦賀に入ろうとし、峠の麓の
新保という村で武装解除された。
、、、、、、
木の芽峠の大山塊の下を全長13キロ、世界第5位という北陸トンネルが開通
してから道は寂れてしまったらしい。というより自動車道路として海岸道路が
ひろげられてから、みなそれを通り、わざわざ木の芽峠を越えるような車が
なくなったということもある。、、、、
この大山塊は海にまで押し寄せていて、その山足は地の骨になって海中に
落ち込んでいる。海岸道路は、潮風のしぶきをあげるようなその岩肌を開釜
してつくられており、道路としてはあたらしい。
海岸道路をゆくと、ときに右手にのしかかってくる大山塊の威圧のために海へ
押し落とされそうな気分になる。北陸において日本史にもっとも重大な影響を
与えたものはこの大山塊ではないかとおもったりした。

この敦賀湾の東岸には、幾つかの漁村がある。海岸道路は山腹を削って造られている
ため、道路からは高見になる。はるか下に漁村があり、渚がある。
道路は南から北へ走っている。経ていく順に村の名前をあげてみると、田結、
赤崎、江良、五幡、阿曾、杉津、横浜、大比田、元比田、大谷、大良と言う具合になる
。
越前は地名のいいところで、この敦賀湾東岸の漁村も、美しい語感の地名を
持っている。漁村は、入り江ごとにある。
元来この海岸のどの集落も自給自足でなければやっていけないにちがいない。
地形上出口がないないようなところに住み着いてきた以上、僅かな地面を
耕地化して米や白菜をつくっていかねば、どこからもそういうものが
入ってこないはずである。、、、、
海岸の集落のなかでも、杉津の浜がもっとも美しい。高見の景観である。
家々は小さく、松林も小さく、寄せている波の白さは遠すぎて見えない。
あるいは、波頭があらわれるほどには、波がないのかもしれない。
白っぽく見えるのは梅の満開であり、梅ノ木が多かった。梅ノ木は実を取るための
自給自足の頃の名残であろう。ほかにミカンの木、桑の木、椿の木などが、
色合いによって判断される。
海浜の村はそれらの木々に装飾され、海風がほどよく吹いている。真言の寺の
大きな屋根も見える。越前門徒と言われるほどだから、寺を大切にしているに
ちがいない。
車を路傍に停めてぼんやり見下ろしていると、やがて壊れるかもしれないこの
美しさにたまらないほどの愛情を感じた。出口がなかったからこそ、この村は
伝統的な造形秩序がこわれずにこんにちまでやってきたのである。
、、、、、、、
元比田を過ぎると、道路は海岸に接しつつもわずかに遠ざかる。海際が険しくて
とても道路がつけられなかったのだろう。このあたりから隊道が多くなる。
そういう隊道の連続からやっと開放されたあたりが、大良の浦である。
この海岸の僻村は、自生の水仙の大群生地であることで知られている。潮風が
吹き付けてくる山の斜面にびっしりと自生しているそうだが、車の中からは
見えない。水仙にくわしい友人に聞くと室町時代にははっきり水仙があったという
から、やはり人間が持ち帰ったのかもしれない。
室町文化は、日本の生活文化の一大光源として、いまなお我々の環境についての
美意識に濃厚な影響を与え続けている。舞踊、数寄屋建築、茶道、花道という
ぐあいに考えると、我々はなお室町文化の延長の中にいるともいえる。
この水仙の里から右に折れると、道は一筋に武生にむかう。
さきに越前の地名についてふれたが、武生と言う町の地名もいい。
武生のふは府中のふである。もともとここは奈良朝以来、越前の国府の地であり、
ふるくは国府といった。やがて府中と呼ばれるようになり、戦国のころでも、
ここの城は府中城とよばれていた。しかし、武生という呼ばれ方も、相当
古くからあったらしい。
 
叡山の諸道
京都から山越しに来て浜大津に出ると、建物の間から琵琶湖の沖が見え、過ぎていく
場所によっては汀が見える。
沖や汀と言っても、海のようにぎらぎらした生命力の照り返しはない。静かに
水明かりが待ちに照り映えていて、海際の町には似合わないしだれ柳がよく似合ってい
る。
大津も浜大津も、いまから湖畔の道を北上してそこへ至る坂本も、みな上代の制で
いう近江国滋賀郡のうちである。
上代、滋賀は4つの郷からなりたっていると言う事を咲きに触れた。
「和名抄」を引いてみると、その巻7にそれが出ている。
・古市(布溜知)
・真野(末乃)
・大友(於保止毛)
・錦部(爾之古利)
「和名抄」は言うまでもなく10世紀はじめの成立だが、8世紀に生まれた最澄の少年
時代
も、右の地名のままであろう。古市がいまの大津市膳所のあたりであったろうことは、
ほぼ間違いない。
錦部は、中世以後は錦織と書き、いまは錦織(にしこおり)である。廻りに新建材の
建物が多く、西方に叡山の峰峰が屏風のように続いていると言うものの、里に
残っている自然は近江神宮の杜ぐらいしかない。
中世初期の錦部郷は、東は湖岸に沿い、西は叡山に沿って、南から北へ、細長い地形
だったろう。現在の滋賀里あたりが北限である。あとは大友郷になる。
道は北へ行く。
叡山は、絶えず左(西)にある。
地質学では叡山のような山並を地塁と呼ぶようだが、なるほど南から北へながながと
土塁のように続いている。
この地塁は京都市からながめると実に険しく、樹木もすくないため、裏と言う印象が
深い。近江側はなだらかで、別の山かと思えるほどに樹木も豊かである。
山裾もながく、ゆるやかに湖に向かって、長いビロードのスカートのように曳いている

山中に泉が多く、小さな川が縦間をくぐって幾筋もながれ、優しさと豊かさという
母性の神秘を感じさせる。
上代、土地の人々は、この山を、
「ひえ」とよんでいた。
ひえという地名が、どういう普通名詞からきたのか、よくわからない。
最澄の誕生よりもずっと早くに、この山を祀る祠や寺が、現在、坂本の
日吉大社の地にしずまっていた。
この山の神は、大山咋神という。既に、古事記が712年の成立だから、この山の神
の鎮座はすくなくともそれ以前のことである。
もっとも、神社の諸紀ではさらにふるいが、はぶく。
ただ、「扶桑明月集」に天智天皇7年に祭神がもう1神ふえたとあることは、まず
信じていい。大和の三輪山の祭神大己貴神(おおなむちのかみ)が天皇の意志で
勧請され、ひえの神は二柱となった。、、、
その地が、上代の大友郷であり、そのうちの小地域の名称である坂本であることは
言うまでもない。もっとも、最澄の生まれた坂本という土地の名は、叡山が栄えて
から出来た地名である。ときに阪本とも書かれる。中世以後、坂本には叡山の僧侶
が多数住み、仏師その他も住んで1つの宗教都市を成していたことは、後にふれる。
以上、叡山と言う山の事を述べてきたつもりである。「ひえ」は平安期に入って、
「比叡」の2字が当てられるようになり、その字音に引きずれれて「ひえい」
とよばれるようになった。
穴太に入った。
古代、信じるかどうかは別にして「志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや)」が
おかれた地という。

日本人とは何か
P96
蓮如上人は浄土教の教えをベースに親鸞の教えを加えて行ったのが真宗教団である。
真宗教団が他の宗旨とはちがうのが、一般民衆の暮らし方まで入っていったこと。
例えば、合掌つくりで今は有名な五箇山(ごかやま)の道宗という人が京都の
蓮如のところまでその説法を聴きに行き、南無阿弥陀仏と唱えれば極楽にいけると
聞いてきたり、生活の作法まで暮らしの様々な事を教えてもらってきた。
真宗のよさは、その生活としての宗教である点であり、親鸞の「歎異抄」のような
優れた形而上学をベースとしている事にある。

P131
昔仏教を受け入れたとき、まず人間の形をした彫刻に芸術的なショックを受けた。
さらに、伽藍を造ったのは、仏教のための寺院ではなく、中国が役所の建物に
仏様を入れたにあわして、日本も中国風の役所を造り、その中に仏像を入れた。
もともと「寺」と言う漢字は仏教寺院の意味ではなく、役所の意味から始まっている。

P142
無常の遊子 
無常は仏教の思想用語としては、
「万物が生滅変転して常住ではないと」と考えた。
日本人は無常と言う哲学的なテーマを芸術として消費する。その例が
万葉集などの歌に詠まれている。また、「方丈記」は随筆文だが、哲学論文ではない。

P159
西洋人の小説は、相手の人間をつかみ出して描写する場合、相手の背中まで書く。
背中の格好を描写するのではなく、ラードの匂いがした、ケンブリッジの煉瓦色
の襟巻きで駝鳥のように長い首を保護している、安いラム酒が皮膚に沁み込んでいる、
眼の乾いたような中年の婦人がダイヤの指輪を6分もかけて、大型昆虫の幼虫のような
中指からゆっくりとはずす、など書き手の眼球の中に相手の皮膚や脂肪のぬめり
までとらえて書いてしまう。
人が初めての人に会う場合、小説に表す情景は、互いに生物として見、次に人間と
して見る。基本的には、動物が同居の動物に対して警戒し、そのために観察する。
日本人は眼に訴え、耳で聞くが、手を握るなど、触覚を介する事が少ないが、小説
を書く場合は、ぬっめとしたものが必要である。これがないと小説で言いたい事が
充分に伝わらない。

P197
徒然草から見る芸への見方の変遷。平安朝から室町時代にかけて、
個人の技芸が尊重された時代と芸に秀でた人が軽く見られた時代がある。
さらに、鎌倉時代には、「数奇」という一人1人がが趣向を発揮すること
への観念が強まる。
例えば、一般庶民を大規模にただで使った権力者は日本にはいなかった。
秀吉の大阪城築城でも、賃金としてお米を渡したように、個人性を意識した
観念はかなり古くから日本にあったのでは、という。
さらに、芸の延長にある近代化、工業化が日本では上手くなしえたのは、
この芸を重んじる風土があったと言う。
しかし、社会体制が安定してくると、芸のあるものは、組織から疎んじられる
様になる。多くの会社では本当に能力のある人は排除され、中途半端な能力の
人間しか残らない。同様に社会全体が守勢の時代は、リーダーシップを落とし、
先ずは上からぼんくらになっていく。ぼんくらでないと上にいけないという
制度を作ってしまう。その下の人間もぼんくらの競争となる。
日本では、中間管理職が一番よく分かっているが、欧米では、トップの能力が
凄く高い。あらゆる情報とそれを活かす能力をもっている。

P230
蓮如は講を作った。いままで自分の身の上などを心配してもらえなかった連中が
身の上話ができるという嬉しさが隣村の人間と交流が出来ることも含め、
横の連携を深めた。その典型例が一向宗の権力に対する抵抗である。
しかし、真宗では、坊主が貴族化していく。説教の時の化粧や「おでいさま、
おもうさま、おひいさま」などの公家言葉が使われた。

P234
都会が持つべき特性は、その多様性である。色々な要素が雑多に入ってきて、
エネルギーが蓄積され、好奇心が旺盛なところである。さらに、都会は
一種の聖域としてのハレの場所としての機能をもつべきであり、田舎は
時々出かけていくケの場所としての機能をもち、そのバランスが全体の文化
発展を支える。これからの日本も、多極化が必要と言われるが、人口が100万人
に近い規模の地方都市を全国的に活用して多極集中を進めるのが望ましい。
これは文化を育てると言う経済面からも重要な点である。その都市が持つ
いい伝統を上手く活かし、東京とは一味違う多様性のある文化や生活環境
を整えていく事が日本全体の文化や生活をアップする事になる。

P256
日本では、絶対的な権力、権威を1つのものに与える事を嫌う。基本は、
相対的な世界なのである。二つのもの、人、方法などを絶えず考えておく事により、
その安定的な進め方を好む。

P291
日本の近代化にとって不可欠なものは何か?
伊藤博文はヨーロッパの近代国家からそれを支えているのは、キリスト教と
考えた。キリスト教が最重要な精神の基軸と想った。
しかし、日本における仏教、神道はその力を持っているとは考えなかった。
そこで、「万世一系の天皇之を統治す」と明治憲法の中で明確に提示した。
日本人の持つ無神論的な神仏信仰では、キリスト教の持つ圧倒的な影響力
と同等の役割は果たせないという想いの現われである。
さらに、「万世一系の天皇之を統治す」だけではその国家基盤が弱いので、
伝統的な神道を祭事的な形として、天皇を主とする一神教(天照大神=天皇)
を国家基盤のシステムとして創りあげた。

P319
天然の無常
所行すなわち世間一切のもの、そして万象のことごとくは、生じたり滅したり
してとどまることなく移り変わって、常住、つまり一定のままではない。
これは人の中だけではなく、自然すべてに言えることである。
平家物語、方丈記、更に蓮如の「白骨の御文章(ごぶんしょう)」の
「朝ニハ紅顔アリテ、夕ニハ白骨トナレル身ナリ」に見られる無常感覚。
P321
吉田松陰の留魂録の一節
今日死を決するの安心は四時の順環において得る所あり。けだし彼の禾稼(かか)
を見るに、春種し、夏苗し、秋刈り、冬蔵す。秋冬に至れば人皆其の歳功の成る
を悦び、酒を造り禮を為り、村の声あり。未だ曾て西成に臨んで歳功を終わる
を哀しむものを聞かず。吾れ行年三十、一事成ることなくして死して禾稼の未だ
秀でず実らざるに似たれば惜しむべきに似たり、しかれども義卿の身をもって言えば
これまた秀実の時なり、何ぞ必ずしも哀しまん。何となれば人寿は定まりなし、禾稼
の必ず四時を経る如きに非ず。十歳にして死するものは十歳中自ずから四時あり。
二十は自ら二十の四時あり。三十は自ら三十の四時あり。五十、百は自ら五十、百
の四時あり。十歳を以って短しとするはけいこして霊椿たらしめんと欲するなり。
百歳を以って長しとするは霊椿をしてけいこたらしめんと欲するなり。斉しく
命に達せずとす。

いくら歳をとって死んでも、それは春夏秋冬があるように、若くして四時の順環、
人生の節目がきちんとある。

P342
清沢満之、哲学者と宗教学者として明治に足跡を残したが、その知名度は低い。
また、「歎異抄」を広く哲学的な視点を加え、世に紹介した。
今親鸞とも呼ばれている。それは、彼が日本の土着思想でもっとも純化の度合いの
高い親鸞思想にドイツ哲学を加味し、まったく知的な思想、教学を作り上げたから。

P362
日本は明治憲法から3権分立を明確にしていたが、いつもまにか超法規的な
統帥権なるものが出てきた。これを生み出したのは、当時の政治家や国民の
未成熟な点が多いが、軍部では、これを使い超法規的に日本国を統治できる、
と言う考えを持っていた。これにより、それまでの憲法解釈による天皇機関説は
無効とした。

P381
明治時代は人の行動、企業の行動もダイナミックであった。毎日新聞が日銀総裁
になりそうな人をわが社で日本経済を主導していくために雇おうとした。
社会全体がより大きな行動を取りたいという空気があった。今の日本では、一人の
天才は自分たちに害するとの意識で、秀才の互助組織的な動きをする。日本人全体の
器量が小さくなっている。

P425
空海の三教指帰
自始至今(初めより今に至るまで)
曾無端首(曾かって端首無し)
従今至始(今より始めに至るまで)
安有定数(安いずくむぞ定まれる数有らむ)
如環擾擾於四生(環たまきの如くして四生に擾擾じょうじょうたり)

今現在から大昔、原初に至っても、何年前だと数量的に把握できるものではない。
それは無限。その無限なものが環のようにぐるぐる回っている。
輪廻の説明がある。

P438
道元だけが道元の思想に忠実で、その後の曹洞宗は民間信仰になっていく。
臨済宗は公家や大名に取り入っていたので、領地などの保護を受けていたが、
曹洞宗は農民層にしか入っていけなかった。農村には、古代的な性格が残っており、
病気の治療、御札渡し、お盆の対応などを全て実施した。そのため、曹洞宗は
今日14000寺もある。本願寺が西、東いずれも10000寺前後であるから
かなり大きい。その元は江戸時代の農民層である。

松陰は常に「狂」ということを言ってきた。その「狂」はわが思想を現実化する
するときには、「狂」にならざるを得ないという意味であり、精神病理的な言葉ではな
い。そのような「狂」は、歴史や社会が古びてどうしようもないときに発すべき言葉で
あり、日本では明治維新しかなかった。さらに、そのような革命が行われるにしても、
3つの人物がきちんと対応しないと上手くはいかない。
最初は思想家であり、次はその思想に殉じて行く人、最後は革命を実際の社会的な
基盤とするための現実的な処理能力を持った人が必要となる。
さらには、この「狂」を活かしていく社会的な行動がある。集団狂気の場の形成です。
これがあって、社会的な大きな動きとなる。これは蓮如の北陸での活動にも言える
のであり、一向一揆は社会的な底辺の人々のエネルギーを吸収したからあれほどの力を
持った。集団的な場の形成が「浄土来迎」という形で、皆に「狂」の行動をとらした
のかもしれない。人間の本質的な部分をとらえると素晴らしい力となる。
しかし、それが現状とは大きくずれても集団の場では、より過激な意見を主張する
のが、勝つという空気が出てくる。
陸軍が中心に、世界大戦に突入していったことはこれになるでは、また、戦後左翼の
運動の中でも単なる「狂」の動きがあったが、それだけでは何もできない。
現状の把握が必要なのである。しかし、思想的な発狂や集団発狂の横行があるのは
この100年の日本歴史である。
 
第1巻
司馬遼太郎は、街道をゆく、の第一巻を、近江から始めましょう、
と言っている。近江には、かなりの思い入れがあるのだろう。

その一文から少し、志賀を感じてもらおう。
ーーー
近つ淡海という言葉を縮めて、この滋賀県は、近江の国と言われる
ようになった。国の真中は、満々たる琵琶湖の水である。
もっとも、遠江はいまの静岡県ではなく、もっと大和に近い、
つまり琵琶湖の北の余呉湖やら賤ヶ岳あたりをさした時代もあるらしい。
大和人の活動の範囲がそれほど狭かった頃のことで、私は不幸にして
自動車の走る時代に生まれた。が、気分だけは、ことさらにその頃の
大和人の距離感覚を心象の中に押し込んで、湖西の道を歩いてみたい。
、、、、、
我々は叡山の山すそがゆるやかに湖水に落ちているあたりを走っていた。
叡山という一大宗教都市の首都とも言うべき坂本のそばを通り、湖西の
道を北上する。湖の水映えが山すその緑にきらきらと藍色の釉薬をかけた
ようで、いかにも豊かであり、古代人が大集落を作る典型的な適地という
感じがする。古くは、この湖南地域を、楽浪(さざなみ)の志賀、と言った。
いまでは、滋賀郡という。
、、、、、
この湖岸の古称、志賀、に、、、、
車は、湖岸に沿って走っている。右手に湖水を見ながら堅田を過ぎ、
真野を過ぎ、さらに北へ駆けると左手ににわかに比良山系が押し
かぶさってきて、車が湖に押しやられそうなあやうさを覚える。
大津を北に走ってわずか20キロというのに、すでに粉雪が舞い、
気象の上では北国の圏内に入る。
小松、北小松、と言う古い漁港がある。、、、、、
北小松の家々の軒は低く、紅殻格子が古び、厠の扉まで紅殻が塗られて、
その赤は、須田国太郎の色調のようであった。
ーーーーー
また、白洲正子も、近江については、「かくれ里」など、数冊の本を
書いている。その中でも、「近江山河抄」では、この志賀周辺を
「比良の暮雪」の章で、更に、詳細に書き綴っている。

同様に、その一文から、もう少しこの周辺を感じてもらおう。
ーーーー
今もそういう印象に変わりはなく、堅田のあたりで比叡山が終わり、
その裾野に重なるようにして、比良山が姿を現すと、景色は一変する。
比叡山を陽の山とすれば、これは、陰の山と呼ぶべきであろう。
ヒラは古く牧、平とも書き、頂上が平らなところから出た名称
と聞くが、それだけではなかったように思う。、、、、、、
が、古墳が多いと言うことは、一方から言えば早くから文化が開けた
ことを示しており、所々に弥生遺跡も発見されている。、、、、、、
小野神社は二つあって、一つは道風、一つは?を祀っている。
国道沿いの道風神社を手前に左に入ると、そのとっつきの山懐の
岡の上に、大きな古墳群が見出される。妹子の墓と呼ばれる唐白山
古墳は、この岡の尾根続きにあり、老松の根元に石室が露出し、
大きな石がるいるいと重なっているのは、みるからに凄まじい
風景である。が、そこからの眺めはすばらしく、真野の入り江
を眼下にのぞみ、その向こうには三上山から湖東の連山、湖水に
浮かぶ沖つ島山も見え、目近に比叡山がそびえる景色は、思わず
嘆声を発してしまう。

描写への注意メモ、文章読本より

季節の言葉
http://hyogen.info/depa/scene

早春・春先の表現・描写・類語
一面を覆っていた雪が溶けて、沢の水が音を立てて流れ始める春の日
[永井路子/朱なる十字架] より 詳細
小川のせせらぎの音が思いなしか明るさを増したよう
[永井路子/朱なる十字架] より 詳細
海水の色が、暗い鋼の色から少しずつ淡い緑のまざった青へ変化して、ざわざわと鍋の
中で沸騰するアクみたいに見えてくると、もう春だった
[阿部昭/千年] より 詳細
早春の陽を浴びて水がぬるむ
早春を告げるような大雪
庭が霜枯れて見えるほどまだ春も浅い
春とはいえ夕暮れになると、まだ未練がましい冬の気配が、粘り強く残っている
春の訪れを告げる雪解けの水が湿原や川にあふれてくる
日が落ちて、春先らしい小寒さが忍び寄る
春がどこともなく地上に揺れ立つ
春の初めの夜、闇の色合いや風の感触がやわらかい
桜花を催す雨が二三日しとしと続く
春ではあるが桜の蕾はまだ固く、暁の風は真冬の冷たさを持っている
執念く土へ引っ付いていた冬が、蒸されるような暖かさに居たたまれなくなって
そそくさと逃げさる。
詳細
春先に土を破ってでる若芽
若葉が新しい色彩を里にみなぎらす
雪解けの清冽な水が土壌を洗う春
[奥泉 光/石の来歴] より 詳細
日増しに春の色が濃くなる
しのびやかに軽くくすぐるように、一日ずつ近づいてくる春
[森田 たま/もめん随筆] より 詳細
ねっとりとした春である。わずかにしめっている女の脇の下を思わせる春である。
[サトウハチロー/浅草悲歌] より
春がもう豹のような忍び足で訪れていはしたものの
[三島 由紀夫/仮面の告白] より 詳細
季節は春。とはいえ四月の朝はまだ寒い。
よく晴れたいい天気だった。寒さも身を潜め、土からはぽかぽかとした暖かい空気が湧
き上がっているようだ。

梅の表現・描写・類語
白梅が2、3輪ほころび、日はうららかで春の気配がそこはかとなく漂う
梅の新しい枝が、直立して長く高く、天を刺し貫こうとする槍のように突っ立つ
[佐藤 春夫/田園の憂鬱] より 詳細
微風にのって梅の香りがにおう
紅梅の枝に蕾がほころびかけて、点々と鮮やかな紅の色が散っている
盛りを過ぎた梅の花が、雨に濡れて泣くように見える
[田山 花袋/田舎教師] より 詳細
寒さにめげず気品高く咲く梅
しいんとした午(ひる)さがりの弱い陽ざしのなかで、紅梅の花弁が鮮明
[立原 正秋/去年の梅 (1979年)] より 詳細
野梅が細長い家の飾りのように青澄んだ白い花を綻ばせる
[円地 文子/朱(あけ)を奪うもの] より 詳細
梅の花が縮こまるほどの寒さ
(梅)青空に象嵌をしたような、堅く冷たい花を仰ぎながら
[芥川 竜之介/或日の大石内蔵助] より 詳細
(梅の花の雄蘂は)一本一本が白金の弓のように身を反っていた小さい花粉の頭を雌蘂




しかし、情景描写は別に視覚だけではない、ということが、いろんな小説を読んでいる
と分かると思います。たとえば、お祭りの会場だと、屋台のいいにおいがあったり、花
火や太鼓の音が聞こえたりといったことが挙げられます。
 このように、情景描写は五感を駆使して描くことで、よりリアリティある情景を、読
み手に与えることができます。
ところが、視覚以外の情報というのは、なかなか描くのが難しいものです。前述の通り
、視覚による描写はいろんな手段で簡単に書くことが出来ますが、他の五感、例えば嗅
覚や聴覚といったものを使うとなると、実際に書こうとしている場所に近い現場に行っ
て、体感してみる必要があります。
 短編「夕焼けクローバー」という作品を書くに当たって、舞台となる「河川敷」がど
のようなものか、それを確認するため、自転車で近くの川に行ってみることにしました
。たいしたことはないですが、「取材」というものですね。
 実際はクローバーが河川敷にどのように生えているか、階段などはどういう風にある
のか、などの確認をしたかったのですが、いざ現場に行ってみると、いろんなことに気
が付きます。たとえば……

・川の土手に桜の木が並んでいる
・春なので桜の花びらは散っている
・生えている雑草の中にも、タンポポやオオイヌノフグリといった、自分でも知ってい
る草花が生えている
・桜の木の下では3人の親子が花見をしている
・釣竿を持った少年や大人が河川敷のそばを歩いている
・川と反対側は、最初は建物があったのに、徐々にそれが田んぼに変わっていき、しば
らくすると大きな国道が走る橋が見える
・遠くから電車が走る音がする
・土手の道路は、トラック一台がぎりぎり通れる幅で、自転車も何台か通っている
・空き缶などのゴミが落ちていて、それを近所の人が拾ったり、草を刈ったりして清掃
活動がされていたりする
・工事中の看板がある
・クローバーは、雑草の中にも小さな集団をつくっている

 といった感じです。
 よくよく考えれば当たり前の情報もあるのですが、それがいざ情景描写を書こうとな
ると、案外抜けているものです。
後は、これらの情報を小説に盛り込んでいくのです。ただ、これを一気に書き並べ立て
ると、後半どんな情景だったか忘れてしまうのではと思います。情景描写ばかりだと、
読むほうも読みにくいでしょう。
 私の場合、まずは絶対に頭に入れておいて欲しい情報は最初に入れています。具体的
には、人物がどこにいるのかの「場所」、それがいつなのかの「時間」、そして
「季節」ですね。
 残った情報については、台詞をはさみながら「天気はどうなのか」「周囲の状況はど
うなのか」などを随所に入れていきます。時間が経ったり、移動したりすると変わるも
のもありますから、それも時々入れていきます。
こうして、おそらく今まで作った小説で唯一取材を行った小説、「夕焼けクローバー」
が出来ました。
 とにかく時間の進行をゆっくりするために、上記の情報を随時にがんがん取り入れた
形となり、書き終った段階では「これは入れすぎかな」とも思いました。しかし、案外
この情景描写の取入れが良かったみたいです。感想でも情景描写についてのことが書か
れていました。

 何でもそうですが、やはり実際に体験してみることが大切です。たとえこの地球上に
ない異世界を描くとしても、読者が想像しやすいのはリアルにある世界観です。
 情景描写を書くのに困ったら、イメージに近い場所に行ってみること。是非とも、
「情景描写取材」をやってみてください。

【描写の種類】
 一人称形式と三人称形式での描写の違いを考えていく。同じようにも思えるが、やは
り、人称が違うということは描写にも違いがあるはずである。
些細なことであっても、だ。

 一人称
『まず目に入ったのは、木。 木。 見回してみても、見えるのは木だけだ。
知っているぞ。こういうのを森っていうんだ。
「……どこだよ、ここ」
 あまりに暗いと思って空を見上げると、空には黒雲が立ち込めていて、今にも化物が
その黒雲の間から現れそうだ。周囲は木々が生い茂り、ぼくが立っているこの場だけが
石で造られたステージのような場所だ。誰かが手入れをしているのか草一本
生えていない。
ぼくが立っている石のステージには、何やら不気味な紋が描かれている。赤と黒で線
が引かれていて、なんとなく魔術めいたものを感じる。』
                          『世界最弱の希望』より 

 三人称
『街灯以外に明かりはなく、両脇に並ぶ商店はみなシャッターを下ろしている。等間隔
に並ぶ街灯だけが、ここに人がいることを主張している。本来なら車が通っているはず
の道路も、今は自転車すら通っていない。そんなある種の気味の悪さが漂う道を、さち
は歩く。
きょろきょろと周囲の様子をうかがう。いくら見回してみても、営業している店は
見つからなかった。田舎の商店街で、普段からそれほど活気づいているとは
言えないのだが、人っ子一人いないなんてことはまずない。おかしいな、と思いつつ、
さちは歩くことをやめない。』
                          『未発表作:タイトル未定』
 一人称の例。これは異世界に飛ばされた「ぼく」が初めて見た異界の森について語っ
ている場面である。
 描写の順番は、おそらく見知らぬ土地に立たされた者が見るだろう、と推測できる順
番になるようにした。
 木(正面)→木(周囲)→空(上)→石のステージ(下)
 三人称の例。こちらは 全体→一部→全体 という順番に書いた。ここでは書かれて
いないが、描写されているのは商店街である。
 目線としては「さち」の目線を意識している。
 正面から見た時、街頭以外の明かりがないので、視界は暗い。だから、その暗さを第
一に表現する。次に、目を凝らすと気付く、シャッターが下ろされているという事実。
そして最後に、見回すことで再確認したことを書いている。

【各感覚器官による情景描写】
・視覚
 背景を描く時、順番を重要視する必要があると思う。必ずしもそれに倣う必要がある
かと聞かれれば、ぼくとしては返答に困るところだが、「無難で自然な描写」という観
点から考えていく。
一人称では、語り手が目にした順番。
 三人称では、大きいものから小さなものへ。
 というのが無難で自然な描写だと考えられる。どういうことか。
 一人称では「人の顔」を例に考えてみる。
 自分が人と出会った時、まず見るのはどの部位だろうか。おそらく、多くの人は次の
順番で見るだろう。
 全体の輪郭→目→鼻→口→耳→髪
ここで髪型が奇抜だったり、髪色が奇抜だったら、髪を全体の輪郭よりも先に認識し
ようとしてしまうかもしれない。また、耳が髪に隠れていたら見るなどという
以前の問題だ。
 ここで重要なのは 全体の輪郭→目→鼻→口 の部分。
全体の輪郭、というのは体格を顔よりも先に認識するから一番にもってきているが、
顔だけで考えれば、もっともインパクトの強い部位は目である。
 すると視線はインパクトの強い部分にひきつけられ、後に流れる動作で全体を認識し
始める。とはいえ、人の体には個人差というものが存在し、口が大きい人、鼻が高い人
、ほりが深い人、耳が大きい人、それぞれに特徴がある。そういう人に関してはそこか
ら見てしまうだろう。
ここで言いたいのは、顔を描写する時はイ、ン、パ、ク、ト、の、強い順に描写するべ
きだということだ。そうすると、その語り手がどこに気を取られているのか、というこ
とが分かる。
胸が大きい女性と会った語り手が、顔よりも胸を先に語り出したら、その語り手は胸
に気を取られている、ということが伝えられるのである。そういう描写をしない描写も
使えるようになりたいものだ。

三人称では大きいものから小さいものへ描写をするのが妥当ではなかろうか。
 簡単に言ってしまえば、一人称の描写とほぼ同じである。大きいものほど目に早く
入る、ということだ。ただやはり、ここでも例外というものは存在していて、
存在感溢れる存在、というものは一番に描写した方が良い。もしくは全体を書いたのち
、
その存在をさらに強調する形をとるのも良いか。
 そこは個人の采配である。
パーティ会場で考えてみよう。
 まず描写するのは、会場全体の様子だろう。来場している人の数や、状態(立ってい
るか座っているか、話しているかそうでないか、など)だ。
 次に来場している人の様子だ。楽しげにいる人もいれば、もしかしたら退屈している
かもしれない。そういう描写を入れて、視点を小さくする。
 ここで存在感溢れる人がいるならば、その人にスポットを当て、その人に対する印象
を周りの人に語らせると、スポットはその人に当てていながら、ある程度広い範囲も描
写することが可能になる。
逆に、個人から会場全体に描写する視点を広げた場合どうなるだろうか。
 ぼく個人の感想では、なんだか痒いところに手が届かない、という感覚を覚えるだろ
う。個人についてはわかったけれど、どんな会場にいるの? まわりはどうなの? 少
しくらい書いてよ、ということだ。読み進めれば書いていて想像が膨らむのだが、それ
までは勝手に人数を想定しているから、その想像と現実が食い違った場合に些細な違和
感を覚えるのである。
ここで少し、息抜きとして特殊な例を挙げてみよう。某ライトノベルの描写なのだが
、語り手がインパクトを受けたものを語る、という観点から考えればその最上級
なんじゃないか、と思えるようなものだ。
 どのようなものか。引用したいが、さすがに法に触れるので、簡単に説明をする。

 語り手(男)が学校から帰る途中、同級生の女子と話していた。その女子は委員長の
中の委員長、委員長の申し子と呼べるほど校則を遵守している。スカートの丈も膝下数
センチを守っている。
 話していると一陣の風が吹いた。風はお約束のように女子のスカートをめくり、お約
束のように語り手はその女子のスカートを拝むことになる。その時間、一秒。その一秒
の出来事を、語り手は二段組み構成のページで、4,5ページにわたり語っている(手元
にその作品がないので、正確なページ数が書けない)。下着の細かい装飾についてまで
語っている。非常に熱く語っている。

この異常ともとれる語り手の下着への執着は、語り手の性格をよくあらわしていると思
う。この主人公は下着以外にほとんど語っていない。これも描写をしない描写だろう。
 つまり人鳥は、一人称小説の場合は語り手の性格すら、描写には影響するということ
が言いたいわけである。

 細かい描写法は個人の感性次第だろう。比喩を用いるのも良いし、端的に書くのも良
い。比喩をするにしても、わかりやすい比喩にするか、芸術性を高めた比喩にするか、
という問題もある。語り手がいるなら、比喩もキャラクタを表現するギミックになって
くる。
さらに言えば、世界観にあった描写をする必要があるだろう。剣と魔法のファンタジ
ーで、たとえば現実の政治を例に挙げられたりしたら、一気に読者が現実に引き戻され
て世界観を壊してしまう。

【視覚以外の情報】
 今までは視覚に重点を置いて書いてきた。次に考えるのは、視覚以外のことである。
人の五感を働かせることで感じることができる部分に関しての状況だ。

・嗅覚
 人はほとんどの情報を視覚から得ている、視覚による情報に頼っている、と言われて
いるが、実は嗅覚から得られる情報というものは、視覚以上に敏感に察知・認識
している。
人が何かにおいを嗅いだ時、瞬時にそのにおいが何のにおいであるかを理解するはず
だ。どこからともなく漂ってくる香り・異臭に対し、敏感にそれが何のにおいであるか
を理解しているだろうと思う。かすかににおってくるものでも、それが何なのか
はわかる。また嗅覚には状況の変化に気付くきっかけになったり、精神的な変化
のきっかけになる。
たとえば火災が起きた時、火災現場から異臭が発せられる。それはとても独特な臭い
で、それを感じればすぐにどこかで火がおきていることがわかる。また家庭で食事の時
間となった時、出来上がりが近づくにつれ、料理の香りが濃厚となって、完成に近付い
ていることとそれが何の料理であるのかということがわかる。これは視覚には頼らない
情報だ。

 精神的変化のきっかけになる、というのはどういうことか。
 アロマ(芳香)という言葉を最近耳にすることが多いと思う。アロマをなぜ使用する
かといえば、まず空間を香りによってコーディネイトするためだ。さらにその理由は、
その香りが好きだからだったり、リラックスができたり、やる気が出てきたりと、自身
の気持ちを操作することができるためだ。
 自分にあったアロマの使用=香りをかぐ、という行為にはリラックス効果があり、ま
た認知症の治療にも用いられるなど、人に良い影響を与える。ただし、香りの種類によ
っては時間帯の問題で逆効果になったりもするが。
 逆に自分が不快になるような「臭い」を嗅いだ場合、文字通り不快になる。いらいら
したり、気分がわるくなったり、体がだるくなったりと、悪い影響が出てくる。
 ただ、においに対する慣れはとてもはやくやってきて、いつの間にか感じなくなって
いたりする。そこにも注意することが大切だ。
その場に漂うにおいにも意識は向けておきたい。
・聴覚
つまり、音である。声、足音、衣擦れの音、風の音、川のせせらぎ、電子音、爆音、
音には様々の種類があって、常に何かしらの音がしている。先に挙げた『タイトル未定
』では音の描写も、先の例のにおいの描写も気温の描写もない。
 ただ、街灯しか明かりがなく、車の通っておらず、自転車もなく、普段から活気のな
い商店街で、現在そこにいるのは一人の少女だけ、となると、どうしようもなく静かで
あることは確かだ。そこに聞こえるのは風の音と、さちの足音くらいのものだろう。
 音というのは、周囲の状況から判断することもある(小説において)。ただ、少しで
も書いておくと具体性が出てきて、より忠実な想像をすることができる。
 不気味な雰囲気を醸すことも、景気のよさを醸すことも、場合によっては登場人物の
心境を象徴的に表すことだって可能だ。

 音もにおいと同じような効果を人に与える。良い効果、悪い効果、ともに。
 さらに音に関する描写の有無は、臨場感という点において非常に重要だ。そこに聞こ
える音がどのような音なのか、何から発せられる音なのか、その描写をすると臨場感が
出てくる。臨場感はその世界に引き込む為には大切な要素であるから、それが出てきて
いるか否かという問題の重要性がわかるだろう。
擬音というものが存在する。カチッ、とか、ビチャ、とか、バシャ、とか、そういう
音を表現するために用いる言葉のことだ。擬音には正しい描写というものはない。蛙の
鳴き声は、一般的に「ゲロゲロ」「ゲコゲコ」「グァグァ」などと表現されることが多
いが、それにこだわる必要はどこにもない。むしろ、それ以外の表現をする方が、世界
観に即している場合だってあるはずだ。独特な表現を用いると、それが世界観に即して
いれば、とても印象的な表現となる。

・触覚
 痛覚、快感、熱などの刺激を感知する感覚。痛覚や快感は説明の必要もないだろう。
熱はただ触れた時に感じる熱だけでなく、気温もそれにあたる。その場所は暖かいのか
寒いのか、それともそのような感覚をあまり覚えない、自身にとっての常温なのか。
 ものを触れば、それの触感がある。硬いか柔らかいか、すべすべなのかザラザラなの
か。ぬめりけの有無など。
 情景描写の場合は主に気温が大切な要素だ。気温の描写をすれば、たとえば服装に関
する描写がなくてもある程度は想像することができる。
 また季節を同時にあらわせば、季節に対するその土地の温度がわかり、その場所の土
地柄も表現することができる。

 風が吹いていることも表現すると面白いだろう。風の強さは単純に風の強さだけを表
しているのではなく、そのあとの展開を示唆するものになることもある。展開を示唆す
るものは風よりも天候で多く用いられるが、それは後述。
 展開を示唆する他に、やはり風にも登場人物の心境を表現する効果がある。単純に風
が吹いているから風が吹いている、と書く場合と、心境を表現したいから風が吹いてい
る描写をするのとは使い分けたい。

・味覚
 果たして味覚で情景描写をすることはあるのだろうか。はなはだ疑問である。
 しかし、これを味覚に限定せず、口という器官にその範囲を広げれば、できなくもな
いかもしれない。が、人鳥にはどうも思いつかない。なにかアイディアがあれば、教え
ていただけるととてもうれしい。

以上のように、視覚による情景の表現以外にも五感を用いた表現が存在する。五感を用
いた表現は、読者に臨場感を与え、物語の世界に引き込む。より現実感を与える描写と
して重要なものだ。
 何気なく外を歩いている時、少し周りを見渡して、どのような場所なのかを考えてみ
ると面白いだろう。

・天候
 五感ではないが、大切な要素。
 晴れ、雨、曇り、雪、嵐、にも様々なものがある。雨を表現するだけでも、たくさん
の表現がある。雨が降っているにしても、その程度がわからないと想像のしようがない
。申し訳程度に降る雨なのか、土砂降りの雨なのか、雨が降っている状況が大切でかつ
、その程度も大切な要素なら確実に書く必要がある。雨の程度は必ずしも書く必要はな
いだろうが、程度を示しておくと、今までの描写同様、リアルな描写となる。
 雨が降れば水たまりができる。
 雪が降れば積もったり、凍ったりするかもしれない。
 曇りなら視界はやや暗くなる。
 天候がその情景に与える影響は大きい。天候に関する描写がない場合、読者は基本的
に晴れ~曇りの天候を想像する。「~」の部分は雲の量の差に個人差があるだろうとい
うことで、特に深い意味はない。
 ただ、快晴なら快晴と書いておくのも大切。単純に晴れという想像だけでも通じる部
分はあるのだが(人鳥自身、それで通すことも多い)、天候を描写することが大切にな
る場面も多々あるので、そこはきちんと書くようにしよう。
 
 
文章読本より
人の表情は、刻々と感情を映して変化し、その印象も時間の
経過と共に変化していく。
「正直を言うと、彼はその女の顔を、初めにちょっと見たときは、
「ちょっと綺麗だな」と思った。が、つくづくと見ているうちに、だんだん
方々にアラが出てきて、美人でもなんでもないと感じ出した。ただ、
背恰好がきやしやで、顎筋のすらりとした、胴のくびれた、尻の大きい、
脚の長い、西洋の女が和服を着たような一種の味わいのある全体の肉付き
が、美人であるかの如く人の目を欺くだけで、橙のように円い顔の造作を、
一つ一つ吟味すると何処と言って取り得がない。鼻は高いけれども
獅子鼻だし、眉毛は細く長く尻のほうが軽薄そうに下がっているし、
いやに色の紅い薄い唇が蓮っ葉らしく大きく切れて、しかも、三日月型
上のほうへしゃくれているし、悪く言えば牛屋の女中にだってこのくらいな
御面相はいくらでもある。それに、なんぼ芸人の仲間とは言え、少女の
くせに若い男を向こうに回して、こまっしょくれた冗談口を叩いているのが、
頗るつきのすれかっらしのように見えて、菊村はあまりいい気持がしなかった。」

重々しいまぶたの裏に冴えた大きな眼球のくるくると回転するのが見えて、
生え揃った睫毛の蔭から男好きのする瞳が、細く陰険に光っている。
蒸し暑い部屋の暗がりに、厚みのある高い鼻や、蛞蝓のように潤んだ
唇や、ゆたかな輪郭の顔と髪とが、まざまざと漂って、病的な佐伯の
官能を興奮させた。

人間の印象は顔のみならず、服装や、ちょっとした癖や歩き方や、様々な
全体的印象から生まれ、その人全体の雰囲気を形造ります。もちろんそれが
集約的に現われているのが顔ですが、顔を描くときに、小説家はただオブジェ
として顔を描くのではなく、同時にその人物の全体的印象の把握に努めていることは
容易にうかがえます。文学はどんな細部をも活き活きと描き出し詳細に
人物描写をしますが、重要なのは、女性の服装であって、女性の服飾美も作家の
一部であり、豪華なご馳走の一部でもあった。

自然描写
「圧しつけられるように蒸し暑い日だった。大気は熱でキラキラ輝き、しかも
ひどく静かである。木々の葉は眠たげに垂れ、動くモノとては、葦草の上の
てんとうむしと、日光にあって身をもがくように草の上で突然にくるくる
と丸まった、一枚の縮みかけた葉しかなかった。
一切のものがきらめき、光り、しぶきをとばした。木の葉、枝、幹、全てが
濡れて光った。地面や、草や、葉の上に落ちる水滴は、幾千の美しい真珠と
なって飛び散った。小さな雫は、しばらく引かかっているかと思うと、大きな
雫となって落ち、他の滴と合わさって小川になり、小さな溝に注ぐと、
大きな穴に流れ込んだり、小さな穴からまた出てきたりして、塵や木屑や
葉っぱごと流れていき、それを地の上に置いたりまた浮かべたり、くるっと
回しては、また地の上に置いたりした。芽の中にいた以来はなればなれに
なっていた葉たちは、濡れてまたくっつきあった。乾いて枯れそうになっていた
苔は、水を吸って柔らかく、緑色に、つややかになった。まるで吸煙草のように
なってくずれていた地衣類は、かわいい耳を広げ、だんすのように厚ぼったく
なり、絹のように光った。昼顔はその白い杯を縁まであふれさせて、
お互いにぶつかりあっては、葦草の頭の上に水をこぼした。太った黒い
蝸牛は、心地よさげに這い出て、うれしそうに空をのぞいた。

明け方の風物の変化は非常に早かった。しばらくして、彼が振り返って
見た時には山頂の彼方から橙色の曙光が昇ってきた。それがみるみる
濃くなり、やがて褪せはじめると、辺りは急に明るくなって来た。
萱は平地のものに比べ、短く、その所々に大きな山ウドが立っていた。
彼方にも此方にも、花をつけた山独活が1本づつ、遠くの方まで
所々に立っているのが見えた。その他、女郎花、吾亦紅、萱草、
松虫草なども萱に混じって咲いていた。小鳥が啼きながら、投げた石
のように弧を描いてその上を飛んで、また萱の中に潜り込んだ。
中の海の彼方から海へ突き出した連山の頂が色づくと、美保関の白い
燈台も陽を受け、はっきりと浮かび出した。間もなく、中の海の
大根島にも陽が当たり、それが赤蝦を伏せたように平たく、大きく見えた。
但し、ふもとの村は未だ山の陰で、遠いところより却って暗く、沈んでいた。

その村の東北に一つの峠があった。
その旧道には桜やブナなどが暗いほど鬱蒼と茂っていた。そうしてそれらの
古い幹には藤だの、山葡萄だの、あけびだのの蔓草が実にややこしい方法で
絡まりながら蔓延していた。私が最初そんな蔓草に注意し出したのは、藤の花が
思いがけない樅の枝からぶら下がっているのに、びっくりして、それから
やっとその樅に絡み付いている藤づるを認めてからであった。そういえば、
そのような藤づるの多いことったら。それらの藤づるに絡み付かれている
樅の木が前より大きくなったので、その執拗な蔓がすっかり木肌にめり込んで、
いかにもそれを苦しそうに身悶えさせているのなどを見つめていると、
私は不気味になって来てならない位だった。(堀辰雄 美しい村)

すでに樹も草もない、岩石の聚落である。深く嶮しい岩場の裂け目へ、
青い実は勢いよくはずんでは落ちていく。下がっては登り、牙をむいて
立ちはだかっては急に低まる岩層のはずれ、屈曲して互いに寄り添っては
気難しく離れたがる岩脈の陳列場だった。それは、この島の流人たりあるいは
島民たちが移り住む前からしつらえられた庭、海底火山の爆破が湧き
登らせた溶岩の遺跡だった。波状の自由を与えられた岩石。鉱物の形に
押し込まれた波である。岩の峡谷の底へたどり着くと、波濤の高まり
も見えなかった。海は数重の奇岩の向こう側で、残念そうにどよめく
ばかりだった。濡れた砂粒が指の先から滴らせた砂の塔。猫に食い捨て
られたネズミの腹部。その他、どうにでも形容できそうな、岩石部落は
自然の興奮状態を古典的な見事さで起伏させていた。
(夫々の心理描写にどすぐろい感覚と官能がいつも心理の裏側にある)
彼女はこれらの文字と数字を読み直す。死ぬ事。彼女は昔から死ぬのが
怖かった。大事な事は、真正面から死を見つけないことである。
ただ、必要かくべからざる動作をあらかじめ考えて置けばそれでいい。
水を注ぎ、粉を溶かし込み、一気に飲んで、寝台の上に横になり、
眼をつむる。それから先を見ようとはしないこと。なぜこの眠りを
他のすべての眠り以上に怖れるのか。からだが震えるのは、明け方が
寒いからである。テレーズは階段を下り部屋の前で立ち止まる。
女中はけだものが唸るようないびきをかいている。テレーズは扉を開ける。
鎧戸の隙間から暁の光りが流れ込んでいる。幅の狭い鉄の寝室が闇の中で
白く見える。小さな二つの拳が毛布の上に置かれている。まだ形の
整わぬ横顔が枕の中に溺れている。この大きすぎる枕には見覚えがある。
自分の枕だ。

(客観的な心理描写は作家が天井からのぞき、夫々の人物にレントゲンを当てるが
ごとく、その心理の行き違いを描く事にある)
彼は、いつものように自動車の中で夫妻の間にはさまって腰掛けていたが、
座り具合がわるく少し席をひろげようとしたとたんに、自分の片腕を夫人の
腕の下にすべりこました。彼は自分と言うよりむしろ腕そのものがやったこの
動作にびっくりした。その腕をすぐにひっこめることが出来なかった。
夫人にはそれが機械的な動作であることがわかった。目立たせたくないので、
彼女もまた腕をひっこめようとしなかった。彼は、マオのこまかい心遣い
を察した。そして、これにけっして甘えてはいけないと思った。
2人はおそろしく窮屈な気持で、じっと動かずに居た。

(初歩の小説家ほど心理描写の危険な毒素を知らずに装飾的にこれを乱用します。
しかし、心理描写というものは心理描写の虚しさと恐ろしさを一番知った
人がはじめて完全に出来る。
心理描写の装飾的な面白さに囚われてはいけない。

一人称三人称の使い方ー人称を省く
顔を急いで洗って、部屋に入って見ると、綺麗に掃除がしてある。目はすぐに
机の上の置いてある日記に惹かれた
。きのう自分の実際に遭遇した出来事よりは、
それを日記にどう書いたと言うことが、当面の問題であるように思われる。記憶は
記憶を呼び起こす。そして純一は一種の不安に襲われてきた。それはきのうの
出来事についての、夕べの心理上の分析には大分行き届かない処があって、
全体の判断も間違っているように思われるからである。彼の思想から見ると書
の思想から見るとで、同一の事相が別様の面目を呈してくる。
ゆうべの出来事はゆうべのだけの出来事ではない。これから先はどうなるだろう。
自分のほうに恋愛のないのは事実である。ただし、あの奥さんに、もう自分を
引き寄せる力がないかどうか、それは余程疑わしい。ゆうべなにもかも過ぎ去った
ように思ったのは、瘧の発作の後に、病人が全快したように思う類ではあるまいか。
またあのなぞの目が見たくなることがありますまいか、ゆうべ夜が更けてからの
心理状態とは違って、なんだかもう少しあの目の魔力が働きだしてきたかとさえ
思われるのである。

擬音は日常会話を活き活きとさせ、それに表現力を与えるが、表現が類型化し、
事物を事物のまま人の耳に伝達するだけの作用しかなく、言語本来の機能を
果たせない。しかし、巧みな擬音詞は感覚的な世界を読者に伝えられる場合もある。
「山田ががたがたと言う間に、きんきんした勝代の声が短く挟まって、鈍感な
豚を棒で突付いて檻へ追い込む感じだ。山田はいらだってだんだんと凄んで行き、
筋書き通りである。そしておそらく予定の待ち人である巡査が来た。
玄関の沸騰はしゅんとなる。そしても一度激していった。男、男、勝代、三人の
スタッカットのような短いやり取りが交わされた。
梨花は勝代の声を聞くに忍びないあせりから、ばけつと箒を取って二階の掃除
へ逃れようとする。泊り客が来ているという今さっきの主人の口裏などすっかり
忘れて、高窓へばんばんとはたきをかける。ついで往来へ向いた9尺四枚を
ぱんと叩く。叩いてからつと明けると、これは又どうしたことだ。お向こう
の鶴もとの玄関にも勝手口にも背広の男たちが寄せ掛けて、その人たちの
乗ってきたらしい自転車がものものしく往来に置かれている。(幸田文)

形容詞は文章の中で、一番古びやすいと言う。それは形容詞が作家の感覚や
個性と最も密着しているからである。鴎外の文章が古びないのは、形容詞の
使い方が少ないからでもある。しかし、豪華なはなやかな文体は形容詞を
抜きにしては考えられない。
「桂子はこの鋼鉄の廊門のような堅く老い黒ずんだ木々の枝に浅黄色の
若葉が一面に吹き出ている坂道に入るとき、ふとゴルゴンゾラのチーズを
想い出した。脂肪が腐ってひとりでに出来た割れ目に咲く、あの薔薇の華の
何と若々しく妖艶な縁であろう。世の中にはほとんど現実とは見えない
何とも片付けられない美しいものがあると桂子は思った。
桂子は一人になって寂しい所を歩いていると、チーズのような何か強い
濃厚なものが欲しくなった。講習所の先生として、せん子などを相手に
お茶請けを麦落雁ぐらいな枯淡なもので済ますときの自分を別人のように
思う。外国へ行ってから向こうの食物に嗜味を執拗にされたためであろうか。
雨は止んで、陽射しが黒薔薇色の光線を漏斗形に注ぐと、切れ切れに
残っている茨垣が急に膠質の青臭い匂いを強く立てた。桂子は針の形を
していながら、色も姿も赤子のように幼い棘の新芽を、生意気にも
可愛らしく思った。」

光は変化する。その変化を書き取ることも中々に難しい。
「祖母の部屋は、私の部屋のように直接海に面しては居ないが、三つの異なった
方角から、即ち堤防の一角と、中庭と、野原とから、そとの明かりを受ける
様になっており、かざりつけも私の部屋と違って、金銀の細線を配し薔薇色
の花模様を刺繍した何脚かの肘掛椅子があり、そうした装飾からは、気持のいい、
すがすがしい匂いが、発散しているように思われ、部屋に入るときにいつも
それが感じられるのであった。そして、一日のさまざまな時刻から集まってきた
かのように、異なった向きからはいってくるそうしたさまざまな明かりは、
壁の角度をなくしてしまい、ガラス戸棚にうつる波打ち際の反射と並んで、
箪笥の上に、野道の草花を束ねたような色取りの美しい休憩祭壇を置き、
いまにも再び飛び立とうとする光線の、ふるえながらたたまれた温かい
翼を、内壁にそっと休ませ、太陽が葡萄蔓のからんだように縁取っている
小さい中庭の窓の前の、田舎風の四角な絨毯を温泉風呂のように温かくし、
肘掛け椅子からその花模様をちらした絹をはがしたり飾り紐を取り外したり
するように見せながら、家具の装飾の魅力や複雑さを却って増すのであるが、
丁度そんな時刻に、散歩の支度の着替えの前に一寸横切るその部屋は、外光の
さまざまな色合いを分散するプリズムの様でもあり、私の味わおうとしている
その日の甘い花の蜜が、酔わすような香気を放ちながら、溶解し、飛び散る
のがまざまざと目に見える蜜蜂の巣の様でもあり、銀の光線と薔薇の花びら
とのふるえおののおく鼓動の中に溶け入ろうとしている希望の花園のようでもあった。


それから、さて、ところで、実は、など説話的な言葉を文書の始めに使う
事が多いが、親しみは増すが、文章の格調を落とすので、できる限り
少なく使う事。

志賀の石

旧志賀町は、以前風の街と描いたが、石の街でもある。神社の狛犬、石灯篭、家の基礎
石、
車石など様々な形で使われて来た。小野にある古墳には縦横3メートル以上の石版が
壁や天井に使われている。古代から近世まで石の産地として頑張ってきている。
例えば、南小松は江州燈籠と北比良は家の基礎石等石の切り出し方にも特徴があったよ
うで、
八屋戸も守山石の産地でも有名であった。此処で、文献などから志賀地域の様子を
概観していく。


4.車道とは

昭和6年から8年にかけて京津国道改良工事が施工された。逢坂峠切り下げ工事中(昭
和6年5月)、在来道路下から車石列が出土している。この時、目撃した人は、「二列
の敷石の幅は一間ほどある、昔の車は大きく一間位の幅があった」と証言している。ま
た、また同年12月頃、日ノ岡峠道の壁面に「旧舗石」とはめ込み、二列の車石を復元
している。その中心軌道幅は136、7cmある。車石列が出土した頃に復元されてい
るから、かつての車道の幅に正しく復元されていると考えるのが妥当のように思われる
。が、確証がない。昭和9年に、出土車石についての詳しい報告が出されている(『滋
賀県史蹟調査報告』第6冊)が、石の大きさや、えぐられた溝幅、溝の深さの記録はあ
るものの軌道幅の計測が欠落している。

文化年間の車石敷設工事の仕様書は、古文書(比留田家文書や横木村文書)に残されて
いる。それによると、牛道は、3尺(90cm)とってあり、その両脇に、2尺5寸の
車石を据える溝を掘るよう記されている。牛道よりに、標準大つまり二尺の車石を据え
、真ん中に車輪が通ると考えると、軌道幅は4尺5寸(135cm)ほどになる。筆者は、
この5尺が軌道幅であっただろうと考えるが、さらに検討の余地がある。

5.車石の石材

現地調査の結果、東海道でよく見られるのは、第1に木戸石(滋賀県志賀町)であり、
第2に、藤尾石(大津市藤尾)であり、次いで少数の白川石(京都市北白川)であった
。他に、チャート製のものが見られる。

(1)木戸石(比良花崗岩)

木戸石は、白川石と同じく、色の白い黒雲母花崗岩である。白川石に比べると、粗目で
黒雲母の散らばり具合や色合いに特徴があり、見慣れてくると比較的簡単に判別するこ
とができる。また、木戸石は、白川石に比べ早く赤いさびができやすいように思われる
。木戸石といっても北小松、近江舞子、南小松、比良から志賀にかけて比良山系の花崗
岩(山陽帯比良花崗岩)で、谷によって石の質はちがっている。

つまり、比良付近には、以上のような粗目の黒雲母花崗岩だけでなく、細粒、中粒黒雲
母花崗岩や石英ひん岩(石質の緻密な青石)もみられ、いずれも車石の石材として使用
されている。

(2)藤尾石

藤尾石は、衣笠山から長等山、藤尾にいたる大岩脈から産出する石英斑岩であり、細か
い石基や長石の地に大きな石英の粒が斑状にみられる。岩質が硬く、敷石や石垣石とし
てよく使用される石である。われたところをちょっとみると、ざらめ状になっており、
褐色や灰色・青・緑などの地に石英の斑点がみられ、判別しやすい。花の模様に見える
ことから「花紋石」の俗称がある。

この石製の車石は、三条街道の東、横木~大谷にかけて、とくに横木付近でよく見られ
る。これは、この地の付近に藤尾石の採石場があったことから当然のことと思われる。

(3)白川石

それでは、これまで考えられていた白川石製の車石はどうだろうか。

白川石は、比叡山から大文字山の間で産出する花崗岩(山陽帯比叡花崗岩)である。一
般的に中目の黒雲母花崗岩で、鉄分が少なくあまり「さび」が出ないといわれる。また
、すべての白川石がそうではないが、石英や長石、黒雲母の他に副成分として、シャー
プペンシルの芯のような長柱状の褐簾石を含むことがあり、それが判別の決め手になる
と言われている。つまり、京都近辺で褐簾石が含まれていればまず白川石と決めて間違
いないという(京都滋賀自然観察会編『総合ガイド⑧比叡山・大原・坂本』)。

(4)その他―チャート

京都周辺には、全国的にもチャートが多いと言われる。チャートは、河原でよく見られ
る。触るとなめらかで、息をかけたり水にぬれたりするとつやが出て美しい。鉄よりも
固く、鉄片で打ち続けると、削られた鉄の小片が摩擦熱で瞬間的に燃える。火打ち石に
よる火起こしの原理である。当然、加工には向かない。出っ張りを少しずつうちかいて
加工するぐらいである。

したがって、チャートを石材として使用したとは考えられないし、事実文献にも記され
ていない。ただ、工事中、車道に岩盤があったり、所有石(ところあり石)あったりし
たところは、それらの石を使用している。川の中を通ることになっていた四ノ宮河原な
どでは、河原の硬いチャートが使われたであろうことは十分に考えられる。

このチャートの車石は、その硬さ故に外の花崗岩製、石英斑岩製の車石とちがい、溝が
浅いことが特徴である。深くて3cmほどである。また、他の車石の溝に細かい筋がみ
られるのとはちがい、一見して筋が見られない。指で溝面をさわって感じるぐらいであ
る。


3.滋賀郡北部(旧志賀町域)の石工たち
明治十三年(1880)にまとめられた『滋賀県物産誌』に
は、県内の各町村における農・工・商の軒数や特産物など
が記録されている?。明治時代の資料であるとはいえ、産
業革命によって生産流通体制に大きな変化が生じる以前の
記録であり、江戸時代後期の様相を類推する手がかりにな
るものである。ただし、『滋賀県物産誌』の記述は、たと
えば長浜町のような戸数の多い町については「百般ノ工業
ヲナセリ」と「工」の業種の内訳がまったく不明な場合も
あって、滋賀県内の石工を網羅的に記録している訳ではな
い点には留意しておく必要がある。
『滋賀県物産誌』の石工に関する記述の中で特筆すべき
は、滋賀郡北部の状況である。この地域では「木戸村」の
項に特産物として「石燈籠」「石塔」などが挙げられてい
るなど、石工の分布密度は他地域に比べて圧倒的である。
木戸村・北比良村では戸数の中において「工」の占める比
率も高く、明治時代初めにおける滋賀県の石工の分布状況
として、この地域が特筆されるべき状況であったことは疑
いない。
江戸時代の石造物の刻銘等の資料を見てみても、当該地
域の優位性を窺い知ることができる。管見に触れた資料を
表1に記したが、その中で比較的よく知られている資料と
して、『雲根志』などを著した木内石亭が郷里の大津市幸
神社に、文化二年(1805)に奉納した石燈籠の「荒川村石
工 今井丈左衛門」という刻銘がある。
滋賀郡から琵琶湖を隔てた湖東地域においても、東近江
市五個荘川並町の観音正寺への登山口に建てられている常
夜燈に「石工 南比良 孫吉」という刻銘があり、「享保
二十乙卯歳(1735)正月」という紀年は、近江における石
工銘資料としては、比較的早い段階のものである。この
「孫吉」は、享保十五年(1730)に八幡堀の石垣が築き直
された際の施工業者としても「石屋比良ノ孫吉」として名
前が見える?。また、『近江神崎郡志稿』には、寛政五年
(1793)に滋賀郡南比良村の「石や七右衛門」が、東近江
市五個荘金堂町の大城神社の石鳥居再建を請け負ったこと
が記録されている?。
湖北地域でも、安永十年(1781)に「志賀郡荒河村 石
屋 嘉右衛門」が長浜市早崎所在の竹生島一の鳥居の注文
を受けたことが、竹生島宝厳寺文書から確認できる?。な
お、居住地が明示されていない刻銘資料であるが、野洲市
三上山中腹の妙見宮跡地に残る文化六年(1809)建立の石
燈籠に刻銘のある「石工 志賀郡 嘉右衛門」や、大津市
建部大社の文政九年(1826)建立の石燈籠に刻銘された「石
工 嘉右衛門」も、同一人物もしくはその家系に連なる石
工である可能性がある。
また、明治時代に下る資料では、野洲市永原の朝鮮人街
道沿いにある「明治十三年(1880)九月」建立の大神宮常
夜燈に「製造人 西江州木戸村 仁科小兵ヱ」と刻銘され
た事例などが挙げられる。
これらの資料から、少なくとも江戸時代中期以降には、
滋賀郡北部は石造物の製作において近江を代表する存在で
あり、石鳥居のような大規模な製品を中心に、琵琶湖を隔
てた遠隔地の村々からも、この地域の石工に発注すること
が多かったものと考えられるのである。
なお、江戸時代に東海道の京・大津間に敷設された車石
については、文化二年(1805)の工事に際して、主として
木戸石が使用され、これにかかわった人物として「南小松
村治郎吉」と「木戸村嘉左衛門」が連名で石運送に関する
請状を提出したことが紹介されている?。また、日野町大
窪に所在する南山王日枝神社には、豪商として著名な「京
都 中井良祐光武季子 中井正治右門橘武成」が寄進した
「文化十二年(1815)乙亥三月建」の石燈籠に「斯奇石所
出江州志賀郡南舩路村獲之以造 京都石工近江屋久兵衛」
と刻まれた例もあり、京都の石工が滋賀郡北部で石材を得
たケースがあったことが分かる。
以上のように、滋賀郡北部は「木戸石」に代表される良
質な花崗岩産地として、近世における石造物の一大産地だ
ったのである?。
4.「石場」の石工とその周辺
江戸時代には松本村に含まれる存在であった「石場」の
石工については、筆者が以前に近江の近世石工について概
観した時点では、『近江輿地志略』の記事は知られている
ものの、刻銘や文書資料によって具体的にその作例を確認
できる事例を未見であった?。しかしながら、近年刊行さ
れた『石山寺の古建築』において、石山寺宝蔵の文化五年
(1808)建立板札に記された「石細工 石場住 小松屋久
助」と、石山寺境内の明治三十八年(1905)石碑にある「大
津市石場 鐫刻 奥村利三郎」という2例が紹介された?。
また、愛荘町史編纂事業にともなう文書資料調査の中で、
正徳三年(1713)に石場の石工に、石燈籠が発注された記
録が確認されている?。
これらの新出資料に刺激を受け、筆者が改めて大津市周
辺の石造物を調査してみたところ、草津市野路町所在の新
宮神社において、宝暦三年(1753)建立の石燈籠に「石場
 作人市兵衛」と刻銘がある事例を確認できた。また、石
場に隣接する大津市松本に所在する平野神社の宝暦甲戌
年(1754)建立の石燈籠には「作人市兵衛」とあり、これ
も同一人物である可能性が高いと考えられる。また、大き
く時代は下るが、草津市新浜町龍宮神社の明治三十四年
(1901)の狛犬に「大ツ石場 石工石市」とあるのも、同
一系譜に属する石工であるのかもしれない。江戸時代には
対岸の草津市矢橋と結ぶ渡船場として賑わった石場の石工
の作例が、琵琶湖を隔てた草津市域において見られること
は興味深い。 
ところで、現在の大津警察署付近の打出浜に建てられて
いた弘化二年(1845)建設の大常夜燈(通称「石場の常夜
燈」)は、現在はびわ湖ホール西のなぎさ公園内に移設さ
れて残されている。この常夜燈の基壇部分には、発起人で
ある「伴屋傳兵衛 船持中」をはじめ多くの人名等が刻ま
れているが、その中に「石工棟梁 近江屋源兵衛 肝煎市
治郎」と製作に関わった石工の銘も読みとれる。石工の居
住地が明示されていないが、この明示されていないという
事実から、石場の地から遠くない場所に居住していた石工
であることが推定される。
実は、この「近江屋源兵衛」の居住地については、京都
市北野天満宮境内に建てられた「天保十四年(1843)癸卯
九月」銘の石燈籠に「大津石工 近江屋源兵衛」と刻まれ
た資料によって、確認することができる?。「大津梅寿講」
が奉納したこの石燈籠には、講のメンバーと考えられる多
くの町人たちの名前が刻まれているが、その中にも「近江
屋源兵衛」の名前がみられる。『大津市志』に記されてい
る安政元年(1854)の冥加金上納者の中に名前の見える「近
江屋源兵衛」も、おそらく同一人物と考えてよいのであろ
う?。これらの資料から「近江屋源兵衛」は、大津に居住
する町人のひとりであったことが分かるのである。
石場の常夜燈の現在地から西へ約400mの地点に位置す
る大津市指定文化財「小舟入の常夜燈」は、石場の常夜燈
よりも先行する文化五年(1808)の建立であるが、こちら
には「石工 池田屋嘉七」銘が確認できる。この「池田屋
嘉七」については、これまで他の作例は知られておらず、
建立者が「京都恒◯藤講」であり、京都の町人も多く名前を
連ねていることから、地元の石工ではない可能性も考えら
れたが、筆者が改めて周辺の寺社に存在する石造物の刻銘
を調査してみたところ、逢坂一丁目の若宮八幡神社境内の
文政七年(1824)建立の石燈籠や、木下町に所在する和田
神社の慶應二年(1866)の狛犬に「石工 嘉七」銘の類例
があり、これらの資料にも居住地の明示はないものの、近
隣に居住する石工であったと推定して間違いないと考える
に至った。
以上のように、石場とその周辺には江戸時代に石工が居
住し、よく知られている「石場の常夜燈」や「小舟入の常
夜燈」は、近隣地域に居住する石工がその製作にあたった
ものであることを確認することができた。
ところで、江戸時代の石場には瓦職人が居住しており、
その中には膳所藩御用達の瓦師であった「清水九太夫」も
いたことが、大津市内やその周辺地域に残された瓦の刻銘
等によって確認されている?。江戸時代における近江の石
工は、石材産地に居住地を構える場合が多いのに対して、
石材産地ではない石場に居住していた石工は、瓦職人と同
様に膳所城下あるいは大津宿といった都市における需要に
答えるべき存在として活躍した「都市居住型」の石工で
あったと位置づけることができよう。
5.田たな上かみ
地域の石工たち
上記のほか、『近江輿地志略』には記述がないが、現在
の大津市域に居住していた石工として、栗太郡田上地域の
石工たちについても取り上げておきたい。
『滋賀県物産誌』には、栗太郡羽栗村の項に「農 六三
軒(傍ラ製茶及ヒ炭焼採薪ヲ事トスルアリ或ハ石工ヲ業ト
ス)」と、兼業農家であった石工について記載がある。刻
銘資料では、「文政九丙戌(1826)八月」に「羽栗邑 石
工市右ヱ門」が石山寺境内の敷石を施工したことが確認で
き、同じく石山寺門前の「文政七甲申年八月十八日」銘の
石燈籠に銘のある「石工 市右衛門」も同一人物であろう
と考えられる。時代は下るが、大津市田上地域の中野に所
在する荒戸神社境内の明治四年(1871)建立の石燈籠にも
「羽栗 石工市右エ門」と刻まれたものがあり、石山寺に
作例を残した「市右衛門」の子孫によるものであろう。
この羽栗村の石工のほかにも、東海道の唐橋東詰に存在
する寛政十二年(1800)銘の道標に見られる「田上 治兵
衛」の事例が早くから知られている?。この「治兵衛」は、
『近江栗太郡志』に紹介されている文化十四年(1817)の龍
門村八幡神社棟札に「田上森村住 石屋治兵衛」という資
料があることから、羽栗村の西に接する森村の石工であっ
たことが分かる?。
ところで、この道標と同じ交差点の北西角にある明治
十三年(1880)建立の常夜燈には「石工浅川喜久松」とい
う刻銘がある。草津市新浜町の龍宮神社の明治三十九年に
建てられた石燈籠には、同一人物と考えられる「石工 森
村 浅川喜久松」という刻銘があり、この「浅川喜久松」
は「治兵衛」からやや時代は下るが、同じ森村の石工であっ
たことが確認できる。「浅川喜久松」の作例は、ほかにも
田上枝天満宮にある明治二十六年の狛犬の「石工 浅川喜
久松」銘や、年代不明ながら石山南郷町の立木観音の石段
の柵に「モリ村 石工喜久松」と刻まれた例を確認してい
る。
また、東海道から草津市野路町の新宮神社への参道に建
てられた文政八年(1825)建立の石燈籠には「中ノ 石工
増兵衛」という石工銘があり、この「中ノ」も田上地域の
中野村を指すものと考えられる。
以上のように、『滋賀県物産誌』に石工の居住が記録さ
れている「羽栗村」のほかにも、花崗岩産出地域である田
上地域には、江戸時代後期から明治時代にかけて、いくつ
かの村に石工が居住していたことが刻銘資料等から確認で
きるのである。
6.まとめにかえて
以上、現在の大津市域に居住していた石工たちについて、
主として石造物の刻銘を資料として、大きく3地域にまと
めて紹介してきた。最初に述べたとおり、筆者が実際に訪
れて刻銘を確認済みの石造物は、大津市内に数多く存在す
る資料のごく一部に過ぎない。そして、本稿で紹介した刻
銘資料は、大半がこれまで紹介されていなかったものであ
ることから推定すれば、未発見の刻銘資料は今回紹介した
資料の何倍にも上ることは疑いない。現在の調査状況を発
掘調査に例えていえば、遺跡のごく一部を試掘調査したに
すぎない段階であり、大津市域で活躍していた石工たちの
状況について、全体像を正しくイメージできているかどう
か不安な部分もある。本稿を読まれた方々が、身近な場所
にある石造物を確認されて、新たな刻銘資料を発見される
機会があれば、ご教示いただければ幸いである。
(たいなか ようすけ)

? a.田井中洋介「伊勢国千種村の石工忠右衛門の銘を持つ近江
所在の石灯籠二例」『滋賀県地方史研究』第15号 2005
b.田井中洋介「石造品の刻銘」『近江八幡の歴史』第二巻 近
江八幡市 2006
c.田井中洋介「湖東地域の石工に関する研究ノート―愛知川
町域に所在する二例の石工銘から―」『滋賀県地方史研究』第
16号 2006
d.田井中洋介「近世後期における近江の石工についての研究
ノート―蒲生郡七里村の石工「金三郎」とその周辺―」『考古
学論究』小笠原好彦先生退任記念論集刊行会 2007
e.田井中洋介「近江八幡の石工「西川與左衛門」とその周
辺」『淡海文化財論叢 第二輯』 淡海文化財論叢刊行会 2007
f.田井中洋介「近江の石工たち―江戸時代後期を中心に―」
『紀要』第15号 滋賀県立安土城考古博物館 2007
g. 田井中洋介「甲賀の石工についての研究ノート」『紀要』第
16号 滋賀県立安土城考古博物館 2008
? 寒川辰清『近江輿地志略』(宇野健一『新註近江輿地志略 
全』弘文堂書店 1976)
? 杉江 進「公儀「穴太頭」と諸藩「穴生役」」『日本歴史』第
717号 吉川弘文館 2008
? 『滋賀県市町村沿革史』第五巻 滋賀県市町村沿革史編さん委
員会 1962
? 福尾猛市郎『滋賀縣八幡町史』蒲生郡八幡町 1940
? 大橋金造『近江神崎郡志稿』下巻 滋賀県神崎郡教育会 1928
? 早崎観縁「竹生嶋一の鳥居の建立について」『滋賀県地方史研
究紀要』第13号 滋賀県地方史研究家連絡会 1988
? 樋爪 修「京津間の車石敷設工事」『大津市歴史博物館 研究
紀要1』1993
? 『志賀町史』第二巻(樋爪 修・杉江 進ほか 滋賀県志賀町
 1999)には、旧志賀町域に江戸時代に居住していた石工につい
て、地元区有文書等に基づく記述があり、すでに江戸時代前期に
は石の切り出しが行われていたことなどが確認できる。町史編纂
事業で調査された地元の文書資料を活用して、刻銘資料と総合的
に研究を行えば、当該地域の石工について、より具体的に明らか
にできるものと考えられる。
? 註(1)文献f
? 『石山寺の古建築』大本山石山寺 2006
? 愛荘町立歴史文化博物館長 門脇正人氏の御教示を受け、町史
編纂室の皆様の御厚意によって資料を確認させていただいた。具
体的な資料の内容については、機会を改めて紹介したい。
? 佐野精一「近世・京石工の系譜」『日本の石仏』8号 1978
? 『大津市志』上巻 大津市私立教育会 1911
? 樋爪 修・青山 均『かわら―瓦からみた大津史―』大津市歴
史博物館 2008
? 木村至宏『近江の道標』(民俗文化研究会 1971)。なお、この
文献には石工銘を「石工 京白川 太郎右衛門 田上 治兵衛」
と記しているが、現地で道標を実見すると「田上」と「治兵衛」
の間には判読困難な2文字が存在している。龍門村八幡神社棟札
の記述を踏まえて、この判読困難な2文字を現地で再検討したと
ころ、私見では「森村」と読んでよいものと考えている。なお、
同じ道標に名前の刻まれている「京白川 太郎右衛門」は、現在
のところ他に作例が知られておらず、いかなる存在であったのか
不明である。
? 中川泉三『近江栗太郡志』巻四 滋賀縣栗太郡役所 1926

吉野葛、谷崎潤一郎メモ

まだ山国は肌寒い4月の中旬の、花曇のしたゆうがた、白々と遠くぼやけた空の下を
川面に風の吹く道だけ細かいちりめん波を立てて、幾重にも折り重なった遥かな山の
峡から吉野川が流れてくる。その山と山の隙間に、小さな可愛い形の山が二つ、
ぼうっと夕靄に霞んで見えた。それが川を挟んで向かい合っていることまでは見分ける
ベくもなかったけれども、流れの両岸にあるのだということを、私は芝居で
知っていた。

川はちょうどこの吉野山の麓あたりからやや打ち拓けた平野に注ぐので、水勢の激しい
渓流の趣きが、「山なき国を流れけり」と言うノンビリとした姿に変わりかけている。
そして、上流の左の岸に上市の町が、後ろに山を背負い、前に水を控えた一とすじ
みちの街道に、屋根の低い、斑に白壁の点綴する素朴な田舎家の集団を成している
のが見える。

街道に並ぶ人家の様子は、あの橋の上から想像したとおり、いかにも素朴で
古風である。ところどころ、川べりの方の家並みが欠けて片側町になっているけど、
大部分は水の眺めを塞いで、黒い煤けた格子造りの、天井裏のような低い二階のある家
が両側に詰まっている。歩きながら薄暗い格子の奥を覗いて見ると、田舎家には
お定まりの裏口まで土間が通っていて、その土間の入り口に、屋号や姓名を白く
染め抜いた紺の暖簾を吊っているのが多い。店家ばかりでなく、しもうたやでも
そうするのが普通であるらしい。いずれも表の構えは押しつぶしたように軒が垂れ、
間口が狭いが暖簾の向こうに中庭の木立ちがちらついて、離れ家なぞのあるのも
見える。おそらくこの辺の家は、50年以上、中には百年二百年もたっているので
あろう。が、建物の古い割に、何処の家でも障子の紙が皆新しい。いま張り替えた
ばかりのような汚れ目のないのが、貼ってあって、ちょっとした小さな破れ目も
花弁型の紙で丹念に塞いである。それが澄み切った秋の空気の中に、冷え冷えと白い。

とにかくその障子の色のすがすがしさは、軒並みの格子や建具の煤ぼけたのを、
貧しいながら身だしなみのよい美女のように、清楚で品良く見せている。私は
その紙の上に照っている日の色を眺めると、さすがに秋だなと言う感を深くした。
実際、空はくっきりと晴れているのに、そこに反射している光線は、明るいながら
眼を刺すほどでなく、身に沁みるように美しい。日は川の方へ廻っていて、町の
左側の障子に映えているのだが、その照り返しが右側の方の家々の中まで届いている。

キザ柿、御所柿、美濃柿、色々な形の柿の粒が、一つ一つ戸外の明かりをその
つやつやと熟しきった珊瑚色の表面に受け止めて、瞳のように光っている。
饂飩屋の硝子の箱の中にある饂飩の玉までが鮮やかである。往来には軒先に
筵を敷いたり、蓑を置いたりして、それに消し炭が干してある。何処かで
鍛冶屋の槌の音と精米機のさあさあと言う音が聞こえる。

背山の方は、尾根がうしろの峰に続いて、形が整っていないけれども、妹山
の方は全く独立した1つの円錐状の丘が、こんもりと緑葉樹の衣を着ている。

山が次第に深まるに連れて秋はいよいよたけなわになる。われわれはしばしば
くぬぎの木の中に入って、一面に散り敷く落葉の上をかさかさ音を立てながら
行った。この辺、楓が割合に少なく、かつ一所にかたまっていないけれど、
紅葉は今が真っ盛りで、蔦、櫨、山漆などが、杉の多い峰の此処彼処に
点々として、最も濃い紅から最も薄い黄色にいたる色とりどりな葉を見せている。
一口に紅葉というものの、こうして眺めると、黄の色、渇の色も、紅の色も、
その種類が実に複雑である。同じ黄色い葉のうちにも、何十種と言う様々な
違った黄という違った色がある。野州塩原の秋は、塩原中の人の顔が赤く
なると言われているが、そういう一と色に染まる紅葉も美観ではあるが、
此処の様なのも悪くはない。「繚乱」という言葉や、「千紫万紅」という
言葉は、春の野の花を形容したものであろうが、此処の秋のトーンである
ところの黄を基調にした相違があるだけで、色彩の変化に富むことは
おそらく春の野に劣るまい。そうしてその葉が、峰と峰との裂け目から谷間
へ流れ込む光の中を、時々金粉のようにきらめきつつ水に落ちる。

この辺で谷は漸く狭まって、岸が嶮しい断崖になり、激した水が川床の
巨岩にぶつかり、あるいは真っ青な淵を湛えている。うたたねの橋は、
木深い象谷の奥から象の小川がちょろちょろ微かなせせらぎになって、その淵
へ流れ込むところに懸かっていた。義経がここでうたたねをした橋だと
いうのは、多分、構成のこじつけであろう。が、ほんの一筋
清水の上にに渡してある、きゃしゃな、危なげなその橋は、ほとんど木々の
茂みに隠されていて、上に屋形船のそれのような可愛い屋根がついているのは、
雨よりも落葉を防ぐためではないか。そうしなかったら、今のような季節
には忽ち木の葉で埋まってしまうかと思われる。橋の袂に2軒の農家があって、
その屋根の下を半ば我が家の物置に使っているらしく、人のとおれる路を
残して薪の束が積んである。ここは、樋口と言う所で、そこから道は2つにわかれ
一方は川の岸を菜摘の里へ、一方はうたたねの橋を渡り、桜木の宮を経て
西行庵の方へ出られる。

気がついてみると、いつの間にか私たちのいく手には高い峰が眉近く聳えていた。
空の領分は一層狭く縮められて、吉野川の流れも、人家も、道も、ついそこで
行き止まりそうな渓谷であるが、人里というものは狭間があれば何処までも
伸びていくものと見えて、その3方を峰の嵐で囲まれた、袋の奥のような
窪地の、せせこましい川べりの斜面に暖を築き、草屋根を構え、畑を作って
いるところが菜摘の里であるという。

しかし、自分が奇異に思うことは、そういう風に常に恋い慕ったのは、主として
母方であって、父に対しては差ほどではなかった一事である。そのくせ
父は母より前に亡くなっていたから、母の姿は万一にも記憶に存する可能性
があっても、父のは全くないはずであった。そんな点から考えると、自分の
母を恋うる気持は唯漠然たる「未知の女性」に対する憧憬、つまり少年期の
恋愛の萌芽と関係がありしないか。なぜなら自分の場合には、過去に母
であった人も将来妻となるべき人も、等しく「未知の女性」であって、
それが目にみえぬ因縁の糸で自分に繋がっていることは、どちらも同じなのである。
けだしこういう心理は自分のような境遇でなく、誰にも幾分か潜んでいるだろう。
、、、、、
その幻は母であると同時に妻でもあったと思う。だから自分の小さな胸の中に
ある母の姿は、年老いた婦人でなく、永久に若く美しい女であった。あの
馬方三吉の芝居に出てくるお乳の人の重井、立派な打掛を着て、大名の姫君に
仕えている華やかな貴婦人、自分の夢に見る母はあの三吉の母の様な人であり、
その夢の中では、自分はしばしば三吉になっていた。

そんな話を聞きながら、私は暫く手の上にある一果の露の玉に見入った。そして
自分の手のひらの中に、この山間の霊気と日光とが凝り固まった気がした。
昔田舎ものが今日へ上ると、都の土を一握り紙に包んでお土産にしたと聞いている
が、私がもし誰かから、吉野の秋の色を問われたら、この柿の実を大切に持ち帰って
示すだろう。

もう三,四十年は経っているはずのその紙は、こんがりと遠火にあてたような色に
変わっていたが、紙質は今のものよりもきめが緻密で、しっかりとしていた。
津村はその中に通っている細かい丈夫な繊維の筋を日に透かして見て、「かかさんも
おりともこのかみをすくときはひびあかぎれに指のさきちぎれるようにてたんとたんと
苦ろういたし候」という文句を思い浮かべると、その老人の皮膚にも似た一枚
の薄い紙片の中に、自分の母を生んだ人の血が籠っているのを感じた。母も
恐らくは新町の館でこの文を受け取ったとき、やはり自分が今したようにこれを
肌身につけ、押し頂いたであろうことを思えば、「昔の人の袖の香ぞする」
その文殻は、彼には二重に床しくも貴い形見であった。

そしてなつかしい村の人家が」見え出したとき、何よりも先に彼の眼を惹いたのは
此処彼処の軒下に乾してある紙であった。あたかも漁師町で海苔を乾すような
具合に、長方形の紙が行儀良く板に並べて立てかけてあるのだが、その真っ白な
色紙を散らしたようなのが、街道の両側や丘の段々の上などに、高く低く、寒そうな
日にきらきらと反射しつつあるのを眺めると、彼は何がなしに涙が浮かんだ。此処が
自分の祖先の地だ。自分は今、永い間夢に見ていた母の故郷の土を踏んだ。この
悠久な山間の村里は、大方母が生まれた頃も、今目の前にあるような平和な景色
をひろげていただろう。40年前の日も、つい昨日の日も、此処では同じに明けて
同じに暮れていただろう。津村は「昔」と壁一重の隣りへ来た気がした。ほんの一瞬開
眼をつぶって再び見開けば、何処かその辺のすがきの内に、母が少女の群れに
交じって遊んでいるかもしれなかった。

枠の中の白い水が、蒸篭のように作ってある簾の底へ紙の形に沈殿すると、娘は
それを順繰りに板敷き並べては、やがてまた枠を水の中に漬ける。表に向いた小屋の
板戸が開いているので、津村は一藁の野菊のすがれた垣根の外に佇みながら、見る間に
2枚3枚と漉いていく娘の鮮やかな手際を眺めた。姿は州なりとしていたが、田舎娘
らしくがっちりと堅肥りした、骨太な、大柄な児であった。その頬は健康そうに
張り切って、若さでつやつやしていたけれども、それよりも、津村は、白い水に
浸っている彼女の指に心を惹かれた。なるほど、これでは、「ひびあかぎれに指の先
ちぎれるよう」なのも道理である。が、寒さにいじめつけられて赤くふやけている
痛々しいその指にも、日増しに伸びる年頃の発育の力を抑えきれないものがあって、
一種いじらしい美しさが感じられた。

ただ二つ三つ覚えていることといえば、当時あの辺はまだ電燈が来ていないので、
大きな囲炉裏を囲みながらランプの下で家族たちと話をしたのが、いかにも
山家らしかったこと。囲炉裏には樫、椚、桑などをくべたが、桑が一番火の
持ちが良く、熱も柔らかだというので、その切り株を夥しく燃やして、とても
都会では思い及ばぬ贅沢さに驚かされたこと。囲炉裏の上の梁や屋根裏が、かっかと
燃え上がる火に、塗りたてのコールターのように真っ黒くてらてら光っていたこと。
そして、最後に、夜食の膳に載っていた熊野鯖と言うものが非常に美味で
あったこと。それは熊野浦で採れた鯖を、笹の葉に刺して山越しで売りに
来るのであるが、途中5,6日か1週間ほどの間に自然に風化されて乾物になる。


道は大台ケ原山に源を発する吉野川の流れにそうて下り、それがもう1本の渓流と
合する二の股という辺りに来て2つに分かれ、一つは真っ直ぐに入りの波へ、
一つは右に折れて、そこからいよいよ三の公の谷へ這いいる。しかし、入りの波
へ行く本道は「道」には違いないが、右へ折れる方は木深い杉林の中に、わずかに
それと人の足跡を辿れるくらいな筋がついているだけである。おまけに前夜降雨
があった、二の股川の水嵩がにわかに増え、丸木橋が落ちたり、崩れかかったり
していて、激流の逆巻く岩の上を飛び飛びに、時には四つばい這わないと越える事が
出来ない。二の股川の奥にオクタマガワがあり、それから地蔵河原を渡渉して、
最後に三の公川に達するまで、川と川のとの間の道は、何丈と知れぬ絶壁の削り
たった側面を縫うて、あるところでは道が全く欠けてしまって、向こうの崖から
こちらの崖へ丸太を渡したり、桟を打った板を懸けたり、それらの丸太や板を
宙で繋ぎあわして、崖の横腹を幾曲がりも迂回したりしている。
そういうわけでその谷間の秋色素晴らしい眺めであったけれども、足下ばかり
見つめていた私は、おりおりの眼の前を飛び立つ四十雀の羽音に驚かされたくらいで
恥ずかしながらその風景を細叙する資格がない。だが案内者の方はさすがに
慣れたもので、刻み煙草を煙管の代わりに椿の葉を巻いて口に咥え、嶮しい
道を楽に越えながら、あれはなんとう滝、あれは何という岩、とはるかな谷底
を差して教えてくれる。

大津の城と道

以下の城の詳細がある。多くは「近江與地志略」「淡海録」に記載されている。
1)膳所城  近江名所図会にもあり。

2)大津城

3)坂本城

4)宇佐山城  宇佐八幡宮の後ろにある。志賀の城と記載されている。石垣が遺構と
してある。

5)細川城  朽木近く細川町にある。

6)小父母山城(こいもやま) 真野途中線周辺にあった。

7)生津城(なまず)  伊香立にあった。

8)真野城  小野駅の近く

9)堅田城、堅田藩陣屋 陣屋は文政絵図にて分かっている。

10)衣川城  衣川2丁目の公園

11)源満仲館  仰木の辻が下

12)伊庭氏砦  仰木

13)雄琴城  雄琴2丁目

14)山中城  山中町

15)壷笠山城  比叡山山中、壷笠山の山城

16)松本城  本宮2丁目

17)馬場城  馬場1丁目

18)石山城  石山寺近く

19)千町城(せんじょう) 石山団地の南

20)淀城  大石淀町

21)大石館  大石東町

22)関津城(せきのつ)田上関津町にあり

23)田上城(たなかみ) 田上里村にあり

24)森城   田上森町にあり

25)羽栗城  田上羽栗まちにあり

26)中野城  上田上中野町の荒戸神社

27)瀬田城  瀬田唐橋の東側、臨湖庵
 
 
 
大津の道
近江與地志略」にも記載あり。
1)東海道 
鎌倉から江戸時代の初期までに概ね完成。大津、京都間での車石敷設もある。
逢坂には常夜灯含め名残がある。
逢坂関、札の辻、平野神社、義仲寺、膳所城、粟津番所、瀬田唐橋、浄光寺、
野神社跡、一里塚跡碑

2)西近江路(北国道)
最も早く開かれた街道。
札の辻、北国橋、熊野川橋、柳が崎交差点、隣松園前、4つ谷川橋、両社の辻、
比叡辻、高橋川橋、横川道分岐点、天神川橋、堅田駅、小野駅

3)途中越え(龍華越え、若狭街道)
花折峠、葛川かつらかわ谷、朽木谷を経て、今津の保坂へ通じる。

4)伊香立越え
新知恩院、近くに八所神社がある。

5)仰木越え(篠峰越え きさがみね)
京都から北国への間道。
上仰木の道標、「滝壷」鳥居、仰木峠、

6)本坂(表参道)
古事記の「近淡海国の日枝の山に坐し」とある。「大山くい神」が信仰の対象。
日吉大社石鳥居の横から根本中堂まで上る道。
石仏群、花摘堂跡、亀塔、根本中堂

7)雲母坂きらら(西坂)
延暦寺東塔から左京区の修学院までの道。

8)黒谷越え(八瀬越え)
延暦寺西塔から左京区の八瀬に至る道。

9)白鳥越え(青山越え)
穴太から比叡山無動寺の南、青山、壷笠山、白鳥山を経て、左京区修学院に至る道。

10)山中越え(志賀の山越え、今路越え)
滋賀里から志賀峠を越えて、山中町を経て、北白川へ至る道。
この路は「志賀の山越え」といわれた。多くの和歌集に荷詠まれている。
滋賀里駅から八幡神社をへて、百穴古墳、志賀の大仏を通り、崇福寺跡の
近くを通る。よこての地蔵を過ぎると琵琶湖が見え、景観が拡がる。
無動寺道の道標と石燈籠があり、更にまっすぐ進むと西教寺の石物を見て
地獄谷を経て、北白川にはいる。

11)如意越え
三井寺より如意が岳を越えて京都の鹿ケ谷に至る道。
池ノ谷地蔵、間宮神社の鳥居を過ぎ、大文字山道をへて、如意寺楼門の滝を
過ぎて鹿ケ谷へ行く。

12)小関越え
北国町から小関峠を越え、横木1丁目までの4キロほどの間道であり、
古くから京都と北国をむすび逢坂越えと並行している。
また、大津と京都の物資運搬道でもあり、観音巡礼の路ともなった。
長等神社横の小関越え道標を過ぎ、小関峠から普門寺から疎水の横をとおる。

13)牛尾越え
大津の国分から牛尾山を経て、京都山科の小山にいたる道。
元は牛尾観音への参道であった。

14)岩間越え(醍醐越え、巡礼道)
石山寺から岩間寺をへて、醍醐山町の上醍醐寺に至る道。
西国三十三所観音の巡礼道として開かれた。

15)曾束越え
大石曾束より瀬田川を渡って宇治の仁尾に至る道。
今は、曽束大橋を渡り、猿丸神社へ向かえる。

16)宇治田原越え(禅定寺越え)
大石田原町より禅定寺に至る道。古代の大津と奈良を結ぶ重要な道であった。

17)不動道
田上山系の太神山たなかみにある不動寺(堂は懸崖造りで10メートルほどの何本も
の柱に支えられている)への道。
田上枝町から天神川にそって、東へ向う。迎え不動や泣き不動などの途中にある。

未来の作り方

最近、未来のつくり方(池田純一著)を読んだ。シリコンバレーで活躍して来た
メンバーの生き様、考え方などからアメリカの持つ「未来を考える力」の
源をまとめているが、やや体系的な面での不足もあるのだろうか、馴染まない
点もある。しかし、各テーマの中に出てくるキーフレーズは、これから来る
社会を技術的な視点から考える上では、大いに参考となる。
気になったいくつかのキーフレーズでは、これから起こる社会の動きを知る
上で面白いと思った。

1)アメリカの強さ
90年代の初頭にインターネットに絡む様々な想いや考えが出て来た。
情報スーパーハイウェイ、netscapeによるネットコミュニティ化など
90年代の夢を20年かけて地道に実現して来たアメリカ。
「未来を創る」事への気の長さがその根底にある。そして、その気の長さが
次の20年、未来へつながる。
20年経ったら必ず現実化するという信条がアメリカの強さでもある。
今から20年後の世界を、未来をビジョンとして語る事が出来るのだ。
夢、そして構想が新たな科学的技術的な知見を得るだけで、実現するわけではない。
企業のような組織的マネジメントが必要であり、ユーザーの参加も不可欠である。
構想の実現は社会と言う基盤の中で醸成され、現実化し、成長していく。
単眼的短期的な発想と行動しか出来ない日本の政治屋が多い中、誰に期待を
すればよいのか?

2)シンギュラリティの存在
カーツワイルの説くシンギュラリティとは、ネットワーク上に分散するコンピュータ
の演算能力が増加し続けやがて、地球上の演算能力の総和が人間の持つ演算能力を
凌駕してしまう臨界点。是が2045年に起こると予想している。
この予想される世界に先んじて、googleはgoogleXを設立し、ロボット工学、AI、
生命科学、宇宙工学など多岐にわたる最先端の科学や技術の成果に取り組んでいる。
是を「ムーンショット」、「×10」と言う考え方で積極的な推進をしている。

レイ・カールワイル氏が語る
もし仮に人間と同レベルの知能を持つコンピュータが生まれたら、その後は今の
技術レベルで10年かかるテクノロジー進化が例えば1時間はおろか1分で成し
遂げれると言うのは理論的に可能であると私も思います。
知能というものを情報を学習して記憶し自ら考えて答えを出す能力と定義
するならば、情報量(知識量)の時点では既にコンピュータは人間を超えて
います。なぜなら、2013年の時点でGoogleの検索エンジンには既に30兆ページの
WEBページがインデックスされており(2008年では1兆ページだったそうですが、
5年間で30倍に増えたそうです)、Googleコンピューターはこれら30兆のWEB
ページのすべてを人間よりも遥かに正確に記憶している計算になります。
例えば、あなたがある一つのキーワード、
仮に「パーマネントトラベラー」という語句でGoogle検索したら
この30兆ページのWEBページデータベースを1秒くらいですべて参照して、
そのキーワードにマッチした検索結果をすべて拾ってこのブログを検索結果の
2ページ目とかに表示させるわけです。
もう既にこの時点でコンピューターはWEBから拾える情報の数量では世界人口
すべての人間のインターネット情報量に勝っています。
恐らく10年後には世界の大学図書館の書物はすべてデジタル化されてクラウド
に蓄積されてデータベース化されているでしょう。

そして、数10年後の世界を見るという視点では、2052年(今後40年の
グローバル予測、40年前に出た「成長の限界」のバージョンアップ版?)
をあわせて見ていくと面白い。
「2052年」著作の出発点となる問題意識は、ランダースによると、「成長
の限界」による警告にもかかわらず、人類は十分な対応を行わないまま40年が過ぎた

という点にある、とのこと。
例えば、
「問題の発見と認知」には時間がかかり、「解決策の発見と適用」に時間
がかかる。、、、そのような遅れは、私たちが「オーバーシュート(需要
超過)」と呼ぶ状態を招く。オーバーシュートはしばらくの間なら持続可能
だが、やがて基礎から崩壊し、破綻する」(序文)

「しきりに未来について心配していた10年ほど前、私は、人類が直面
している難問の大半は解決できるが、少なくとも現時点では、人類に何らか
の手立てを講じるつもりはないということを確信した」(1章)

「持続可能性と幸福」実現に向けては、以下の5つの課題、問題をキチンと
精査することが必要とのこと。
・資本主義は終焉するのか?
・経済成長は終わるのか?
・緩やかな民主主義は終わるのか?
・世代間の調和は終わるのか?
・安定した気候は終わるのか?

記述されている40年後の世界については、気候変動、人口と消費、エネルギー
問題、食料事情、社会環境、時代精神など実に膨大な記述がなされている。
それらすべてを要約することは出来ないし、する気もないが、枠組みに
関する最重要なポイントとして、以下の点を理解しておくことは肝要と思う。

①都市化が進み、出生率が急激に低下するなかで、世界の人口は予想より
早く2040年直後にピーク(81億人)となり、その後は減少する。
②経済の成熟、社会不安の高まり、異常気象によるダメージなどから、生産性
の伸びも鈍化する。しかし、生産年齢人口をベースとする粗労働生産性は着実
に伸びる。
③人口増加の鈍化と生産性向上の鈍化から、世界のGDPは予想より低い
成長となる。それでも2050年には現状の2.2倍になる。
④資源枯渇、汚染、気候変動、生態系の損失、不公平といった問題を解決
するために、GDPのより多くの部分を投資に回す必要が生じる。このため
世界の消費は、2045年をピークに減少する。
⑤資源と気候の問題は、2052年までは壊滅的なものにはならない。
21世紀半ば頃には、歯止めの利かない気候変動に人類は大いに苦しむ
ことになる。しかし、農業技術等の進化により 、食料生産量は増加する。
⑥インターネットの拡大は、「外在化した集合意識」として、大衆の影響
力が大きくなる。また、多様で流動的な環境により、安定した拠り所や
制限もほとんどなく、開放的で、様々な機会に恵まれ、意識も大きく
変わっていく。⇒特に、この部分がシンギュラリティと絡んでどのような
姿になっていくか。
⑦米国、米国を除くOECD加盟国(EU、日本、カナダ、その他大半
の先進国)、中国、BRISE(ブラジル、ロシア、インド、南アフリカ、
その他新興大国10カ国)、残りの地域(所得面で最下層の21億人)
の大枠で分析しているが、予想外の敗者は現在の経済大国、中でも
アメリカ(次世代で1人当たりの消費が停滞する)。勝者は中国となる。
BRISEはまずまずの発展を見せるが、残りの地域は貧しさか
ら抜け出せない。 日本はほとんど考慮外?

3)更なる社会変化
ティールの「ゼロ・トゥ・ワン」では今あるほとんどのサイトがサービス
化と言う情報の横流しであり、そこからは新しいモノは、何も生まれない。
ゼロから新しい1を生み出すことがこれからの社会に必要だ、と言っている。
社会にとって、価値ある生産とは何か、現在のインターネットは本質的には、
何も生み出さない、と考えている。
ドットコムバブルがはじけ、シリコンバレーでは次のようなことが起業の
「新しい常識」となった。
①漸進主義
②リーンスタートアップ
③革新より改良
④販売よりも製品
ティールはこのすべてに反論して以下のように主張する。
①大きな賭けをしろ 
②成功するための計画を持て
③競争するな
④販売は製品と同じくらい大切
以下で、彼の考えが簡潔に説明されている。もっとも刺激的なのは、競争は
「存在しないチャンスがあるかのような妄想を抱かせる」資本主義の対極にある
という主張だ。そして「独占」こそすべての成功企業の条件であると言い、
独占状態を永続的に維持するには先行優位ではなく後発優位に着目すべしと説く。
彼は人間を次の二軸で四つのタイプに分類する。
一つの軸は未来に対して曖昧なイメージを持っているか、具体的なイメージを
持っているか。
もう一つの軸は楽観主義か悲観主義か。世界を変えるビジョナリーは「未来に対して
具体的なイメージを持った楽観主義者」だという。未来に対して曖昧なイメージしか
もっていないと無為か無謀に陥り、未来に悲観的だと享楽か逃避に走る。
起業家はまず、「偶然」という他力を拒絶しなければならない、というのがティール
の考えだ。「人生はポートフォリオじゃない」という名言も出てくる。
そのこころは、人は自分の人生を分散することはできないから、圧倒的な価値を生み
出すものにすべてをつぎ込む覚悟でやれということである。どんなに能力があっ
ても起業向きでない人間が起業する必要はない。
彼にとってビジネスは人類のためにかつてないほどの価値を生むことであり、誰かを
叩き潰すことではない。
目的は何か? そのために競争や起業がどうしても必要なのか? ほかにベストな道は
ないのか? 起業家にかぎったことではない。個人から国まで、私たちは目的と手段を
いとも簡単にすり替えて目的化した手段の奴隷となっている。たとえば「便利になれば
なるほど時間が足りなくなる」「効率化すればするほどデフレが悪化する」といった現
象は、「時間の余裕を生み出す」「利益を出す」という目的が「便利」「効率化」とい
う手段にいつのまにかとってかわられることによって起きているのではないか。
競争は善、という思い込みから離れると、これまで道理だと思っていたことが簡単に
ひっくりかえる。ほかにも、機械は人間を代替するか?これは、以前に「機械との
競争」でも取り上げた。ダイバーシティはいいことか? これも、以前に「多様な
意見はなぜ正しいのか」でも考えた。社会起業家は社会の課題を解決できるか?
製品がずばぬけてよければ営業は必要ないか?
と言っている。
(次へ)
さらに、幾つかのキーフレーズが、次への想いとなる。

4)インターネットの更なる拡大がもたらすもの
インターネットの拡大により個人、団体、企業との関わりは大きく変わってきた。
特に消費社会での様々な評価サイトや個人レベルでの評価の重み、など日本でも
5年ほど前から顕著になっている。facebookや幾つかのコミュニティサイトが
社会の基盤のかなりの部分を占め、個人と企業とのつながりもインターネット上での
膨大なデータから更に強まっている。2005年ぐらいから拡大始めた「人を中心
とするインターネット」は人がインターネット上で様々な活動を行う事が主であった。
人の表現力やコミュニケーション力を充実させる事は一定の収束に向い、今は
「データ」と「モノ」がソーシャルネットの上でつながり、IoT、さらに
現在の人が中心のネットと合わせて混在した世界となっている。
更に、その重要な動きの1つがマッシブと言う概念である。膨大な数の人々が同時に
リアルでコミュニケーションし、そのために最適なインターフェイスを提供する事が
今後の満足度をあげるポイントとなる。マッシブは、「膨大な数の個体が凝縮した
群体」であり、従来の均一的なマスとは大きく異なる。そのため、個体と群体
の間にも様々なつながりが出来る。
そして、とスマホの拡大普及によって従来の交換体形とは異なる経済の
体形が可能となってきた。
すでに社会にある資産、資源の中で稼働率が低いものを利用者間で融通させる
事が容易になってきた。8年ほど前からシェアという概念で認知され多くのサービス
が出て来たが、日本では意外とサービス利用は限定されているようである。
このサービス普及には、技術的な革新性よりも文化的な土壌が優先して
いるようである。
永年培われた生活文化は、新しいツールが出て来たといっても、それが使う側に
よほどの便益を与えないと難しい。携帯やスマホが多く受け入れられたのは、
使う人々が今までにない便利さを感じたからであろう。シェアサービスが
受け入れらるかは、習慣や使う側の文脈がないものに対しては、難しいのであろう。
ただ、この有限と見られ始めた様々な資源を効率よく、有益に使うための
インフラとしては広範なレベルでの活動として今後も進めることが求められる。

2010年に「シェア」という邦訳が出て、日本でもその動きが活発となったが、
現在のシェアサービス」は、国内で一部見られるものの、積極的な拡大や活用は
余り見られない。しかし、郊外を見れば、最近頑張っている幾つかのシェアの
サービスがある。
規模的には、5年前にサービスしていたものよりも大きくなっている。
しかも、旧来の「ものや活動」をベースとするサービスから「人」をベースとする
サービスにそのビジネス主体が変わってきている。
以下の最近のそのようなサービスを紹介する。
①Airbnb (エアビーアンドビー、エアビーエンビー)
宿泊施設を貸し出す人向けのウェブサイトである。192カ国の33000の都市で
一晩に100万人以上が利用している
日本での登録物件は8月時点で1.3万件と多いとはいえない。
このサイトの利用者は利用に際して登録して、本人のオンラインプロファイルを作成す
る必要がある。すべての物件はホストと関連付けられており、ホストのプロファイルに
は他利用者からのお勧め、泊まったことのあるゲストからのレビュー、また、
レスポンス・レーティングやプライベートなメッセージングシステムも含んでいる。
②Uber (ウーバー)。
スマートフォンを活用したハイヤー・タクシーの即時手配サービスを提供する。
すでに世界42カ国、150ほどの都市で即時手配サービスを実施している。
すでに日本に進出済み。本格運用は2014年3月から台数限定、東京都山手線内側
の南半分限定でハイヤーの手配サービスを行っている。
ウーバーが新たに始めるのは、タクシーを手配する「uberTAXI」、ハイグレードタクシ
ーを手配する「uberTAXILUX」の2種類。ウーバーと契約したタクシーにはウーバーから
支給されるiPad miniと携帯電話が常備され、ウーバーユーザーからの呼び出しに対応
する。タクシー側のメリットも明快だ。空車で「流し」をしている際に顧客を獲得でき
るチャンスとなるため、稼働率を引き上げる効果を期待できる。
ウーバーは効率的なタクシーの運用に寄与するので、二酸化炭素の排出量を減らすこ
とにつながる。ウーバーはクルマだけのサービスではない。すでに米国の一部都市では
自転車で小さな荷物をデリバリーするサービスをやっている。
東京であれば、日本交通をはじめ、大手タクシー会社はスマホアプリを運用しているた
め、すでにスマホで迎車サービスを使っている人にとっては、あまり便利さを感じない
かもしれない。むしろ埼玉、千葉などの郊外や地方都市に出張した際に、ウーバーで
簡単にタクシーを呼ぶことができれば、かなり便利だろう。
③Meetrip
Meetripは地元ユーザ(またはガイド)と旅行者をつなげるスマートフォンアプリ
である。
Facebook認証をしてサインアップしたら、地元ガイドは簡単にツアー計画を作
成できる。例えば、旅行者には知られていない古い街並みを探索する3時間のツアー、
地元で最も人気な麺を楽しむランチなどだ。旅行者はおもしろそうなツアーを見つけて
申し込むことができる。ガイドと連絡を取り合うことで、自分だけの完璧なツアーを練
り上げることができるし、値段を含むツアーの詳細は後から変更できるので調整の
余地もある。
Meetripは、アクティビティより「人」に焦点を当てている。
地元の人たちがMeetripを使う動機はいろいろ考えられる。遠くから来た旅行者との
交流や外国語の会話や練習、または地元の特別な場所を旅行者に紹介することなど。
これらはどれも、地元の人たちがアプリを最初に使い始める理由だ。
しかし時間が経つにつれ、Meetripが彼らの大きな収入源になる可能性がある。
④trippiece
テレビで見かけたあの絶景、いつかはこの目で見てみたい!そんな気持ちを持ったこと
はありませんか?
トリッピースは「みんなで旅をつくる」がコンセプトのソーシャル旅行サービス。
ユーザーの「旅に行きたい」想いが投稿され、それに共感した仲間が集まり、みんなで
旅をつくる。
トリッピースの旅の良いところは、あなたが行きたい場所に行けることとなによりも
日常生活では出会うことのなかった、同じ興味・価値観を持った人達と出会えること。
トリッピースの旅とは?
トリッピースではユーザー自らが行きたい旅の企画ページを作って共有することが
でき、その旅の企画に共感したユーザーが集まり、みんなで旅のプランを作っていく。
旅のプランが具体化されたら、トリッピースと提携している旅行会社がその企画をツア
ー化してご提供する。
⑤KitchHike
ごはんを作る人(COOK・クック)とそれを食べたい人(HIKER・ハイカー)をつなぐ
日本発のウェブサービス。例を挙げると、COOKは「トルコに住むGulsahです。
地中海風のフルコースを用意しますよ」と登録。サイトを見て「Gulsahさんの
ごはんを食べたい!」と思ったHIKERが、日付などを指定して連絡を取る。
HIKERはごちそうになったあと、写真付きのレビューも投稿できる。
COOKは提供する料理に自ら値段をつけ(最低価格10ドルより)、HIKERはお代
を支払う。お金のやりとりはPaypalもしくはクレジットカードで行われ、
KitchHikeはその間から手数料をもらう仕組み。現在は英語版のみ提供で、
日本、タイ、カナダなど、13カ国からの登録があり、今後も世界中でサービス
を展開していく予定。
Airbnbでは「家」という元手が必要だが、KitchHIkeで必要なのは料理をつくる「人」
そのものであり、宿泊するのはためらわれる家でも、食卓を囲むことならずっとハード
ルは低くなると言う発想がある。

いずれにしろ、これらのシェアサービスがシェアリング・エコノミーとして社会の
基盤となっていくには、それらを受け入れる生活文化の存在と特に日本で見られる
何事にも、規制をかけるやり方の変更、新たな法整備や大胆な規制緩和、
が必要となる。

5)社会基盤への影響
ローレンス・レッシングは「CODE]の中で、ITを政治の中に組み込み、IT
の下で自由、平等を考えITを社会の運営モデルと提唱した。インターネットは
社会的な統治基盤の一部として考え、特に公共的な価値としての「公開性」を
重視している。このように、ITをベースとして、法と統治、技術が三位一体
となった新しい社会を提唱している。子の中では、「四つの社会的力」を
言っている。それは、「市場、規範、法、そしてアーキテクチャ」である。
レッシグによれば、われわれの社会において、人のふるまいに影響を及ぼすものには、
(1)法、(2)規範、(3)市場、(4)アーキテクチャ(またはコード)という4種類あるが、
サイバー空間においては、とくに4番目の「アーキテクチャ」が重要な
規制手段だという。
実空間での事例として、「公共空間における携帯電話の利用」を取り上げる。
車内、病院、劇場など公共的な空間において、携帯電話の利用はさまざまな方法
で規制されている。
①法律による規制
自動車運転中の携帯電話利用は、「道路交通法」によって禁止されており、違反者に
はきびしい罰則が科せられる。これによって、運転中のドライバーのふるまいは規制さ
れている。
②規範による規制
電車やバスなどの車内での携帯利用に関しては、車内のアナウンスや、乗客の冷たい
視線などの「規範」によって、とくに音声通話利用というふるまいは規制されている。
③市場による規制
喫茶店、レストランなどでは、携帯電話が利用できるスペースを設け、それ以外の場
所では携帯電話はできないようにしているところもある。これは、市場の中で、携帯電
話をできる空間を制限しているという意味では、市場による規制といえるだろう。
④アーキテクチャによる規制
劇場、病院などの一部では、建物内に携帯電波をシャットアウトする装置が設置され
ている場所がある。これは、アーキテクチャによる規制といえる。

サイバー空間においても、これと同じような4種類の規制が加えられている。
①法律による規制
著作権法、名誉毀損法、わいせつ物規制法などは、サイバー空間にも適用され、違反
者には罰則を課することができる。
②規範による規制
アニメに関するコミュニティサイトで、だれかが民主政治のあり方に関する議論を始
めたら、たちまちフレーミングの嵐(炎上)にあうだろう。
③市場による規制
インターネットの料金体系はアクセスを制約する。商用サイトにおいて、人の集まら
ない電子会議室は閉鎖されてしまうだろう。
④アーキテクチャによる規制
サイバー空間の現状を決めるソフトウェアとハードウェアは、利用者のふるまいを規
制する。たとえば、一部のサイトでは、アクセスするのに、IDとパスワードを
要求される。
レッシグの独創性は、この4番目のアーキテクチャが、利用者にも知られることなく、
利用者のふるまいを規制していること、また、実空間以上に、インターネット上で
アーキテクチャによる規制力が無際限に大きくなり得ることを発見した点にある。
それが行き過ぎると、インターネットから自由が奪われてしまう恐れがあるのだ。
そうした事態を防ぐためには、アーキテクチャの規制を管理できるような対策を講じる
必要がある。それは、私見によれば、①から④までのそれぞれにおける対応が必要
ではないかと思われる。
更には、理念を実現するための起業と社会変革を実現するためのインターネットという
ツールの活用。社会を変革するなどと口先だけの政治屋が多い中、特に日本では政治屋
はいるが政治家がいない中、自身の持つ社会的理念を社会基盤となるインターネット
を活用して企業を育て、それによって社会そのものを変えていこうというアプローチ
は素晴らしいと思う。残念ながら、このようなアプローチは今の日本ではほとんど無い
様に思える。
(次へ)
 
6)企業のあり方
前項の社会基盤への影響は、その存在の1つである企業のあり方も
変えつつあると言う。
2010年ぐらいからベネフィトコーポレーションと言う考えが明確
になってきた。従来の企業と大きく違うのは、株主の利益最大を目的とした
組織、法人ではなく、ステイクホルダー、企業活動にかかわる全ての関係者、
顧客、社員、取引先、地域、行政、への貢献の拡大である。
これからはベネフィトコーポレーションの基本スタンスで、従来の企業と
ノンプロフィトコーポレーション(NPC)の良さを持った組織が重要となる。
逆な面で言えば、日本の従来からNPO法人といわれる組織もこのベネフィット
コーポレーションに近づく必要がある。
ベネフィットコーポレーションとなるためには、会社は明白な社会的/環境的
使命と、株主だけではなく社員やコミュニティー、そして環境の利害を考慮する
ための法的拘束力のある受託者としての責任を有する必要がある。会社はまた、
持続可能性および労働者の好待遇についての〈B Lab〉の誓約を採用するために、
定款の改正をする必要がある。
この組織が何を認証するかというと、「当該企業が、社会問題や環境問題の解決に
貢献するという存在である」ということ。この認証を受けられれば、CSRというが、
企業の存在意義そのものが肯定される。すごい法制度である。
日本ではアウトドア用品メーカーのパタゴニアが有名。
この考えを理解するには、ヴェブレンのいう「習慣の重要性」と「製作者本能」
の概念に注目する必要がある。
人間は、生来より外部環境に働きかけて必要なものを作り生存して来た。
その「つくる」と言う本能が製作者本能と言っている。
その技術の知識や智慧が製作者の集まった共同体に蓄積されてきた。しかし、
産業革命により自らの製作をせずとも商品の購入と言う行為で生存する事が出来る。
これにより消費社会と言うものが現出して来た。すなわち、思考習慣(制度)
は環境の変化と技術による変化によって変化していく。
また、創るという行為を環境や技術の変化から見てみると、3Dプリンター
として、広く社会基盤に浸透しつつある事を認識しておくべきである。
今はビジネス的な実利面が中心に、この進化が進んでいるように見えるが、
より深く社会に直結した社会基盤として進むと思われる。
企業が{つくる」と言う従来からの考え方も大きく変わってくる。
将来の姿はどうなるのか
3Dプリンターに関する講演の記事の抜粋から、少し考えてみる。
「3Dプリンターによってアイデアの“触れる化”が実現 田中氏は、企業による
大量生産⇒個人による適量生産、消費の楽しさ⇒創ることの楽しさの発見、
特定企業による排他的なプロジェクト⇒異なるバックグラウンドを持った全員
参加型のプロジェクトといった、社会や心の変化を若者が集う大学で
感じられるという。
3Dプリンターで何ができるのだろうか。その方向性として2つの説を紹介している。
1つ目は、製造業に新しい産業革命が起こるという説(メイカームーブメント)。
大規模な生産設備や作業人員は不要になり、1人で製造業に参加できるようになる。
2つ目は新しい情報文化が始まるという説(FabLab:ファブラボ)。情報の中にモノの
データが流通するネットワーク端末のひとつとして捉えることで社会構造が変化する。
例えばFabLabは、世界60カ国250箇所でネットワーク化された地域の市民実験工房と
して利用されている。そこでは、3Dプリンター以外にも大小のミリングマシンや
レーザーカッター、デジタル刺繍ミシン、3Dスキャナーなど、さまざまなデジタル
工作機械が設置され、小学生から大学の研究者まで多様な人々が出会い、新たに
生まれたニーズの可能性を形にしている」という。
ファブラボについての紹介がある。
https://www.youtube.com/watch?v=YTwt7ji3EgY

7)今また分散化と旧きよき共同社会へ向けて
分散化された社会への回帰
ネットワーク化の進化発展が分散化を推し進める。
これにより、文化や社会構造までが新しい普遍的な組織編制の可能性を高める。
分解、再構成が既存の組織や社会の仕組みに適用される事により、更に進歩主義的
(プログレッシブ)な社会改革がソーシャル化以後、個体の大群化されたより
複雑なつながりを持ってそれぞれの持つ機能や組織を活かすために創れていく。
そのためには、組織原理に精通し、技術的な思考の高い人々がその推進を
担っていく必要がある。

これらの動きから、思うのが、宇沢弘文氏の「社会的共通資本」の考え方である。
社会的共通資本は、一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、
ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある
社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置を
意味する。社会的共通資本は、一人一人の人間的尊厳を守り、魂の自立
を支え、市民の基本的権利を最大限に維持するために、不可欠な役割
を果たすものである。
しかも、社会的共通資本は、たとえ私有ないしは私的管理が認められて
いるような希少資源から構成されていたとしても、社会全体にとって
共通の財産として、社会的な基準にしたがって管理・運営される。
(政府が一元的に管理的を行うものではないと言っている。)
社会的共通資本はこのように、純粋な意味における私的な資本ない
しは希少資源と対置されるが、その具体的な構成は先験的あるいは
論理的基準にしたがって決められるものではなく、あくまでも、
それぞれの国ないし地域の自然的、歴史的、文化的、社会的、
経済的、技術的諸要因に依存して、政治的なプロセスを経て
決められるものである。
このため、彼の考えは農業、都市のあり方、教育、医療分野、
金融分野まで幅広いテーマを含んでいる。
社会的共通資本はいいかえれば、分権的市場経済制度が円滑に機
能し、実質的所得分配が安定的となるような制度的諸条件であると
いってもよい。それは、ソースティン・ヴェブレソが唱えた制度主義
の考え方を具体的な形に表現したものである。
したがって、社会的共通資本は決して国家の統治機構の一部として
官僚的に管理されたり、また利潤追求の対象として市場的な条件に
よって左右されてはならない。
社会的共通資本の各部門は、職業的専門家によって、専門的知見に
もとづき、職業的規範にしたがって管理・維持されなければならない、
と言っている。
社会的共通資本は自然環境、社会的インフラストラクチャー、制
度資本の三つの大きな範疇にわけて考えることができる。自然環境
は、大気、水、森林、河川、湖沼、海洋、沿岸湿地帯、土壌などで
ある。社会的インフラストラクチャーは、道路、交通機関、上下水
道、電力・ガスなど、ふつう社会資本と呼ばれているものである。
なお、社会資本というとき、その土木工学的側面が強調されすぎる
ので、ここではあえて、社会的インフラストラクチャーということ
にしたい。制度資本は、教育、医療、金融、司法、行政などの制度
をひろい意味での資本と考えようとするものである。

大共同社会
ジョン・デューイは、産業革命により出現した大社会の状況を反省し、それ以前の
共同社会を新たなる視点で構築する事を考えた。しかし、その基本はラジオなどの
メディアを基盤とする社会構築への試みであったが、ラジオを含め社会基盤
となるには充分な力を持っていなかった。だが、是を現在のインターネットが
基盤となった社会に適用すれば、その理念は生きてくる。
この点を広く検証したのが、トーマス・フリードマンの「フラット化する世界」
であろう。彼は、グローバリゼーションが広まり、世界がフラット化しつつある
要素には、10項目があると言っている。
更に、これらの要素を最適な形で有効に活用するには、以下の3つの集束
が必要となる。
1)グローバルなプラットホームが形成され、共同作業が可能となる。
これらを上手くこなす仕組み、
フラットな世界への接続可能なインフラ、
プラットホームを活用できる教育体制、
プラットホームの利点欠点を活かせる統治体制、
を構築できた国が先進的な活動と富、権力を得ることが
出来る。
2)水平化を推進する力
水平な共同作業や価値創出のプロセスに慣れている多様な人材が必要である。
3)新たなるメンバーの参加
中国やロシアなど政治、経済などの壁により、参加できなかった30億人
以上のメンバーの参加が可能となった。

面白いのは、これらが実行されることにより、世界レベルでの変革となるが、
その基本は、「共産党宣言」に指摘されてぃることである。
「昔ながらの古めかしい固定観念や意見を拠り所にしている一定不変の凍り
ついた関係は一掃され、新たに形作られる物もすべて固まる前に時代遅れになる。
固体は溶けて消滅し、神聖は汚され、人間はついに、人生や他者との関係の実相
を、理性的な五感で受け止めざるを得なくなる。、、、、、そうした産業を駆逐
した新しい産業の導入が、全ての文明国の死活を左右する。、、、、、、、
どの国もブルジョアの生産方式に合わさざるを得ない。一言で言うなら、
ブルジョアは、世界を自分の姿そのままに作り変える。」

フラット化要件での集束が推進されるには、
すべてが「指揮・統制」(コマンド&コントロール)から「接続・共同」
(コネクト&コラボレート)に切り替わることが重要となる。
このため、個人のアイディンティの整理なほど、個人の持つ力が
重要となる。
旧来のようなラインでの単調な仕事をこなしたり、トップダウンからの
指示を的確に実行するだけの旧来型のミドルクラスは、機械や低賃金の
労働者などに取って代わられ、以下の様な新しいミドルクラスが必要となる。
①共同作業のまとめ役
②様々な技術の合成役
③複雑なものを分かりやすくする説明役
など とのこと。

いずれにしろ、この本で言うムーアの法則に準じて発達、拡大する技術進歩と
それによる社会の変革はどこまで進むのであろうか、楽しい様で怖い意識も
湧き上がって来る。
 
原文
最近、未来の作り方(池田純一著)を読んだ。シリコンバレーで活躍して来た
メンバーの生き様、考え方などからアメリカの持つ「未来を考える力」の
源をまとめているが、やや体系的な面でノ不足もあるのだろうか、馴染まない
点もある。しかし、各テーマの中に出てくるキーフレーズは、これから来る
世界を技術的な視点から考えるには、大いに参考となる。
気になったいくつかのキーフレーズでは、これから起こる社会の動きを知る
上で面白いと思った。

1)アメリカの強さ
90年代の初頭にインターネットに絡む様々な想いや考えが出て来た。
情報スーパーハイウェイ、netscapeによるネットコミュニティ化など
90年代の夢を20年かけて地道に実現して来たアメリカ。
「未来を創る」事への気の長さがその根底にある。そして、その気の長さが
次の20年、未来へつながる。
20年経ったら必ず現実化するという信条がアメリカの強さでもある。
今から20年後の世界を、未来をビジョンとして語る事が出来るのだ。
夢、そして構想が新たな科学的技術的な知見を得るだけで、実現するわけではない。
企業のような組織的マネジメントが必要であり、ユーザーの参加も不可欠である。
構想の実現は社会と言う基盤の中で醸成され、現実化し、成長していく。

2)シンギュラリティの存在
カーツワイルの説くシンギュラリティとは、ネットワーク上に分散するコンピュータ
の演算能力が増加し続けやがて、地球上の演算能力の総和が人間の持つ演算能力を
凌駕してしまう臨界点。是が2045年に起こると予想している。
この予想される世界に先んじて、googleはgoogleXを設立し、ロボット工学、AI、
生命科学、宇宙工学など多岐にわたる最先端の科学や技術の成果に取り組んでいる。
是を「ムーンショット」、「×10」と言う考え方で積極的な推進をしている。

レイ・カールワイル氏が語る
もし仮に人間と同レベルの知能を持つコンピュータが生まれたら、その後は今の
技術レベルで10年かかるテクノロジー進化が例えば1時間はおろか1分で成し
遂げれると言うのは理論的に可能であると私も思います。
知能というものを情報を学習して記憶し自ら考えて答えを出す能力と定義するならば、
情報量(知識量)の時点では既にコンピュータは人間を超えています。
なぜなら、2013年の時点でGoogleの検索エンジンには既に30兆ページのWEBページがイ
ンデックスされており(2008年では1兆ページだったそうですが、5年間で30倍に増えた
そうです)、
Googleコンピューターはこれら30兆のWEBページのすべてを人間よりも遥かに正確に記
憶している計算になります。
例えば、あなたがある一つのキーワード、
仮に「パーマネントトラベラー」という語句でGoogle検索したら
この30兆ページのWEBページデータベースを1秒くらいですべて参照して、そのキーワー
ドにマッチした検索結果をすべて拾ってこのブログを検索結果の2ページ目とかに表示
させるわけです。
もう既にこの時点でコンピューターはWEBから拾える情報の数量では世界人口すべての
人間のインターネット情報量に勝っています。
恐らく10年後には世界の大学図書館の書物はすべてデジタル化されてクラウドに蓄積さ
れてデータベース化されているでしょう。

そして、数10年後の世界を見るという視点では、2052年(今後40年のグ
ローバル予測、40年前に出た「成長の限界」のバージョンアップ版?)をあわせて
見ていくと面白い。
「2052年」著作の出発点となる問題意識は、ランダースによると、「成長の限界」
による警告にもかかわらず、人類は十分な対応を行わないまま40年が過ぎた、
という点にある、とのこと。
例えば、
「問題の発見と認知」には時間がかかり、「解決策の発見と適用」に時間
がかかる。、、、そのような遅れは、私たちが「オーバーシュート(需要
超過)」と呼ぶ状態を招く。オーバーシュートはしばらくの間なら持続可能
だが、やがて基礎から崩壊し、破綻する」(序文) 

「しきりに未来について心配していた10年ほど前、私は、人類が直面
している難問の大半は解決できるが、少なくとも現時点では、人類に何らか
の手立てを講じるつもりはないということを確信した」(1章) 

「持続可能性と幸福」実現に向けては、以下の5つの課題、問題をキチンと
精査することが必要とのこと。
・資本主義は終焉するのか?
・経済成長は終わるのか?
・緩やかな民主主義は終わるのか?
・世代間の調和は終わるのか?
・安定した気候は終わるのか?

記述されている40年後の世界については、気候変動、人口と消費、エネルギー
問題、食料事情、社会環境、時代精神など実に膨大な記述がなされている。
それらすべてを要約することは出来ないし、する気もないが、枠組みに
関する最重要なポイントとして、以下の点を理解しておくことは肝要と思う。
 
①都市化が進み、出生率が急激に低下するなかで、世界の人口は予想より
早く2040年直後にピーク(81億人)となり、その後は減少する。 
②経済の成熟、社会不安の高まり、異常気象によるダメージなどから、生産性
の伸びも鈍化する。しかし、生産年齢人口をベースとする粗労働生産性は着実
に伸びる。 
③人口増加の鈍化と生産性向上の鈍化から、世界のGDPは予想より低い
成長となる。それでも2050年には現状の2.2倍になる。 
③資源枯渇、汚染、気候変動、生態系の損失、不公平といった問題を解決
するために、GDPのより多くの部分を投資に回す必要が生じる。このため
世界の消費は、2045年をピークに減少する。 
④資源と気候の問題は、2052年までは壊滅的なものにはならない。
21世紀半ば頃には、歯止めの利かない気候変動に人類は大いに苦しむ
ことになる。しかし、農業技術等の進化により 、食料生産量は増加する。
⑤インターネットの拡大は、「外在化した集合意識」として、大衆の影響
力が大きくなる。また、多様で流動的な環境により、安定した拠り所や
制限もほとんどなく、開放的で、様々な機会に恵まれ、意識も大きく
変わっていく。⇒特に、この部分がシンギュラリティと絡んでどのような
姿になっていくか。
⑥米国、米国を除くOECD加盟国(EU、日本、カナダ、その他大半
の先進国)、中国、BRISE(ブラジル、ロシア、インド、南アフリカ、
その他新興大国10カ国)、残りの地域(所得面で最下層の21億人)
の大枠で分析しているが、予想外の敗者は現在の経済大国、中でも
アメリカ(次世代で1人当たりの消費が停滞する)。勝者は中国となる。
BRISEはまずまずの発展を見せるが、残りの地域は貧しさか
ら抜け出せない。 日本はほとんど考慮外?

3)更なる社会変化
ティールの「ゼロ・トゥ・ワン」では今あるほとんどのサイトがサービス
化と言う情報の横流しであり、そこからは新しいモノは、何も生まれない。
ゼロから新しい1を生み出すことがこれからの社会に必要だ、と言っている。
社会にとって、価値ある生産とは何か、現在のインターネットは本質的には、
何も生み出さない、と考えている。
ドットコムバブルがはじけ、シリコンバレーでは次のようなことが起業の
「新しい常識」となった。
①漸進主義
②リーンスタートアップ
③革新より改良
④販売よりも製品
ティールはこのすべてに反論して以下のように主張する。
①大きな賭けをしろ 
②成功するための計画を持て
③競争するな
④販売は製品と同じくらい大切
以下で、彼の考えが簡潔に説明されている。もっとも刺激的なのは、競争は
「存在しないチャンスがあるかのような妄想を抱かせる」資本主義の対極にある
という主張だ。そして「独占」こそすべての成功企業の条件であると言い、
独占状態を永続的に維持するには先行優位ではなく後発優位に着目すべしと説く。
彼は人間を次の二軸で四つのタイプに分類する。
一つの軸は未来に対して曖昧なイメージを持っているか、具体的なイメージを
持っているか。
もう一つの軸は楽観主義か悲観主義か。世界を変えるビジョナリーは「未来に対して
具体的なイメージを持った楽観主義者」だという。未来に対して曖昧なイメージしか
もっていないと無為か無謀に陥り、未来に悲観的だと享楽か逃避に走る。
起業家はまず、「偶然」という他力を拒絶しなければならない、というのがティール
の考えだ。「人生はポートフォリオじゃない」という名言も出てくる。
そのこころは、人は自分の人生を分散することはできないから、圧倒的な価値を生み
出すものにすべてをつぎ込む覚悟でやれということである。どんなに能力があっ
ても起業向きでない人間が起業する必要はない。
彼にとってビジネスは人類のためにかつてないほどの価値を生むことであり、誰かを
叩き潰すことではない。
目的は何か? そのために競争や起業がどうしても必要なのか? ほかにベストな道は
ないのか? 起業家にかぎったことではない。個人から国まで、私たちは目的と手段を
いとも簡単にすり替えて目的化した手段の奴隷となっている。たとえば「便利になれば
なるほど時間が足りなくなる」「効率化すればするほどデフレが悪化する」といった現
象は、「時間の余裕を生み出す」「利益を出す」という目的が「便利」「効率化」とい
う手段にいつのまにかとってかわられることによって起きているのではないか。競争は
善、という思い込みから離れると、これまで道理だと思っていたことが簡単にひっくり
かえる。
ほかにも、機械は人間を代替するか?これは、以前に「機械との競争」でも取り
上げた。ダイバーシティはいいことか? これも、以前に「多様な意見はなぜ正しいの
か」
でも討議した。社会起業家は社会の課題を解決できるか? 製品がずばぬけてよければ
営業は必要ないか?
と言っている。

4)インターネットの更なる拡大がもたらすもの
インターネットの拡大により個人、団体、企業との関わりは大きく変わってきた。
特に消費社会での様々な評価サイトや個人レベルでの評価の重み、など日本でも
5年ほど前から顕著になっている。facebookや幾つかのコミュニティサイトが
社会の基盤のかなりの部分を占め、個人と企業とのつながりもインターネット上での
膨大なデータから更に強まっている。2005年ぐらいから拡大始めた「人を中心
とするインターネット」は人がインターネット上で様々な活動を行う事が主であった。
人の表現力やコミュニケーション力を充実させる事は一定の収束に向い、今は
「データ」と「モノ」がソーシャルネットの上でつながり、IoT、さらに
現在の人が中心のネットと合わせて混在した世界となっている。
更に、その重要な動きの1つがマッシブと言う概念である。膨大な数の人々が同時に
リアルでコミュニケーションし、そのために最適なインターフェイスを提供する事が
今後の満足度をあげるポイントとなる。マッシブは、「膨大な数の個体が凝縮した
群体」であり、従来の均一的なマスとは大きく異なる。そのため、個体と群体
の間にも様々なつながりが出来る。
そして、とスマホの拡大普及によって従来の交換体形とは異なる経済の
体形が可能となってきた。
すでに社会にある資産、資源の中で稼働率が低いものを利用者間で融通させる
事が容易になってきた。8年ほど前からシェアという概念で認知され多くのサービス
が出て来たが、日本では意外とサービス利用は限定されているようである。
このサービス普及には、技術的な革新性よりも文化的な土壌が優先して
いるようである。
永年培われた生活文化は、新しいツールが出て来たといっても、それが使う側に
よほどの便益を与えないと難しい。携帯やスマホが多く受け入れられたのは、
使う人々が今までにない便利さを感じたからであろう。シェアサービスが
受け入れらるかは、習慣や使う側の文脈がないものに対しては、難しいのであろう。
ただ、この有限と見られ始めた様々な資源を効率よく、有益に使うための
インフラとしては広範なレベルでの活動として今後も進めることが求められる。

2010年に「シェア」という邦訳が出て、日本でもその動きが活発となったが、
現在のシェアサービス」は、国内で一部見られるものの、積極的な拡大や活用は
余り見られない。しかし、郊外を見れば、最近頑張っている幾つかのシェアの
サービスがある。
規模的には、5年前にサービスしていたものよりも大きくなっている。
しかも、旧来の「ものや活動」をベースとするサービスから「人」をベースとする
サービスにそのビジネス主体が変わってきている。
以下の最近のそのようなサービスを紹介する。
①Airbnb (エアビーアンドビー、エアビーエンビー)
宿泊施設を貸し出す人向けのウェブサイトである。192カ国の33000の都市で
一晩に100万人以上が利用している
日本での登録物件は8月時点で1.3万件と多いとはいえない。
このサイトの利用者は利用に際して登録して、本人のオンラインプロファイルを作成す
る必要がある。すべての物件はホストと関連付けられており、ホストのプロファイルに
は他利用者からのお勧め、泊まったことのあるゲストからのレビュー、また、
レスポンス・レーティングやプライベートなメッセージングシステムも含んでいる。
②Uber (ウーバー)。
スマートフォンを活用したハイヤー・タクシーの即時手配サービスを提供する。
すでに世界42カ国、150ほどの都市で即時手配サービスを実施している。
すでに日本に進出済み。本格運用は2014年3月から台数限定、東京都山手線内側
の南半分限定でハイヤーの手配サービスを行っている。
ウーバーが新たに始めるのは、タクシーを手配する「uberTAXI」、ハイグレードタクシ
ーを手配する「uberTAXILUX」の2種類。ウーバーと契約したタクシーにはウーバーから
支給されるiPad miniと携帯電話が常備され、ウーバーユーザーからの呼び出しに対応
する。タクシー側のメリットも明快だ。空車で「流し」をしている際に顧客を獲得でき
るチャンスとなるため、稼働率を引き上げる効果を期待できる。
ウーバーは効率的なタクシーの運用に寄与するので、二酸化炭素の排出量を減らすこ
とにつながる。ウーバーはクルマだけのサービスではない。すでに米国の一部都市では
自転車で小さな荷物をデリバリーするサービスをやっている。
東京であれば、日本交通をはじめ、大手タクシー会社はスマホアプリを運用しているた
め、すでにスマホで迎車サービスを使っている人にとっては、あまり便利さを感じない
かもしれない。むしろ埼玉、千葉などの郊外や地方都市に出張した際に、ウーバーで
簡単にタクシーを呼ぶことができれば、かなり便利だろう。
③Meetrip
Meetripは地元ユーザ(またはガイド)と旅行者をつなげるスマートフォンアプリ
である。
Facebook認証をしてサインアップしたら、地元ガイドは簡単にツアー計画を作
成できる。例えば、旅行者には知られていない古い街並みを探索する3時間のツアー、
地元で最も人気な麺を楽しむランチなどだ。旅行者はおもしろそうなツアーを見つけて
申し込むことができる。ガイドと連絡を取り合うことで、自分だけの完璧なツアーを練
り上げることができるし、値段を含むツアーの詳細は後から変更できるので調整の
余地もある。
Meetripは、アクティビティより「人」に焦点を当てている。
地元の人たちがMeetripを使う動機はいろいろ考えられる。遠くから来た旅行者との
交流や外国語の会話や練習、または地元の特別な場所を旅行者に紹介することなど。
これらはどれも、地元の人たちがアプリを最初に使い始める理由だ。
しかし時間が経つにつれ、Meetripが彼らの大きな収入源になる可能性がある。
④trippiece
テレビで見かけたあの絶景、いつかはこの目で見てみたい!そんな気持ちを持ったこと
はありませんか?
トリッピースは「みんなで旅をつくる」がコンセプトのソーシャル旅行サービス。
ユーザーの「旅に行きたい」想いが投稿され、それに共感した仲間が集まり、みんなで
旅をつくる。
トリッピースの旅の良いところは、あなたが行きたい場所に行けることとなによりも
日常生活では出会うことのなかった、同じ興味・価値観を持った人達と出会えること。
トリッピースの旅とは?
トリッピースではユーザー自らが行きたい旅の企画ページを作って共有することが
でき、その旅の企画に共感したユーザーが集まり、みんなで旅のプランを作っていく。
旅のプランが具体化されたら、トリッピースと提携している旅行会社がその企画をツア
ー化してご提供する。
⑤KitchHike
ごはんを作る人(COOK・クック)とそれを食べたい人(HIKER・ハイカー)をつなぐ
日本発のウェブサービス。例を挙げると、COOKは「トルコに住むGulsahです。
地中海風のフルコースを用意しますよ」と登録。サイトを見て「Gulsahさんの
ごはんを食べたい!」と思ったHIKERが、日付などを指定して連絡を取る。
HIKERはごちそうになったあと、写真付きのレビューも投稿できる。
COOKは提供する料理に自ら値段をつけ(最低価格10ドルより)、HIKERはお代
を支払う。お金のやりとりはPaypalもしくはクレジットカードで行われ、
KitchHikeはその間から手数料をもらう仕組み。現在は英語版のみ提供で、
日本、タイ、カナダなど、13カ国からの登録があり、今後も世界中でサービス
を展開していく予定。
Airbnbでは「家」という元手が必要だが、KitchHIkeで必要なのは料理をつくる「人」
そのものであり、宿泊するのはためらわれる家でも、食卓を囲むことならずっとハード
ルは低くなると言う発想がある。

いずれにしろ、これらのシェアサービスがシェアリング・エコノミーとして社会の
基盤となっていくには、それらを受け入れる生活文化の存在と特に日本で見られる
何事にも、規制をかけるやり方の変更、新たな法整備や大胆な規制緩和、が必要となる
。


5)社会基盤への影響
ローレンス・レッシングは「CODE]の中で、ITを政治の中に組み込み、IT
の下で自由、平等を考えITを社会の運営モデルと提唱した。インターネットは
社会的な統治基盤の一部として考え、特に公共的な価値としての「公開性」を
重視している。このように、ITをベースとして、法と統治、技術が三位一体
となった新しい社会を提唱している。子の中では、「四つの社会的力」を
言っている。それは、「市場、規範、法、そしてアーキテクチャ」である。
レッシグによれば、われわれの社会において、人のふるまいに影響を及ぼすものには、
(1)法、(2)規範、(3)市場、(4)アーキテクチャ(またはコード)という4種類あるが、
サイバー空間においては、とくに4番目の「アーキテクチャ」が重要な
規制手段だという。
実空間での事例として、「公共空間における携帯電話の利用」を取り上げる。
車内、病院、劇場など公共的な空間において、携帯電話の利用はさまざまな方法
で規制されている。
①法律による規制
自動車運転中の携帯電話利用は、「道路交通法」によって禁止されており、違反者に
はきびしい罰則が科せられる。これによって、運転中のドライバーのふるまいは規制さ
れている。
②規範による規制
電車やバスなどの車内での携帯利用に関しては、車内のアナウンスや、乗客の冷たい
視線などの「規範」によって、とくに音声通話利用というふるまいは規制されている。
③市場による規制
喫茶店、レストランなどでは、携帯電話が利用できるスペースを設け、それ以外の場
所では携帯電話はできないようにしているところもある。これは、市場の中で、携帯電
話をできる空間を制限しているという意味では、市場による規制といえるだろう。
④アーキテクチャによる規制
劇場、病院などの一部では、建物内に携帯電波をシャットアウトする装置が設置され
ている場所がある。これは、アーキテクチャによる規制といえる。

サイバー空間においても、これと同じような4種類の規制が加えられている。
①法律による規制
著作権法、名誉毀損法、わいせつ物規制法などは、サイバー空間にも適用され、違反
者には罰則を課することができる。
②規範による規制
アニメに関するコミュニティサイトで、だれかが民主政治のあり方に関する議論を始
めたら、たちまちフレーミングの嵐(炎上)にあうだろう。
③市場による規制
インターネットの料金体系はアクセスを制約する。商用サイトにおいて、人の集まら
ない電子会議室は閉鎖されてしまうだろう。
④アーキテクチャによる規制
サイバー空間の現状を決めるソフトウェアとハードウェアは、利用者のふるまいを規
制する。たとえば、一部のサイトでは、アクセスするのに、IDとパスワードを
要求される。
レッシグの独創性は、この4番目のアーキテクチャが、利用者にも知られることなく、
利用者のふるまいを規制していること、また、実空間以上に、インターネット上で
アーキテクチャによる規制力が無際限に大きくなり得ることを発見した点にある。
それが行き過ぎると、インターネットから自由が奪われてしまう恐れがあるのだ。
そうした事態を防ぐためには、アーキテクチャの規制を管理できるような対策を講じる
必要がある。それは、私見によれば、①から④までのそれぞれにおける対応が必要
ではないかと思われる。
更には、理念を実現するための起業と社会変革を実現するためのインターネットという
ツールの活用。社会を変革するなどと口先だけの政治屋が多い中、特に日本では政治屋
はいるが政治家がいない中、自身の持つ社会的理念を社会基盤となるインターネット
を活用して企業を育て、それによって社会そのものを変えていこうというアプローチ
は素晴らしいと思う。残念ながら、このようなアプローチは今の日本ではほとんど無い
様に思える。

更には、2010年ぐらいからベネフィトコーポレーションと言う考えが明確になって
きた。
従来の企業と大きく違うのは、株主の利益最大を目的とした組織、法人ではなく、
ステイクホルダー、企業活動にかかわる全ての関係者、顧客、社員、取引先、
地域、行政、への貢献の拡大である。
これからはベネフィトコーポレーションの基本スタンスで、従来の企業と
ノンプロフィトコーポレーション(NPC)の良さを持った組織が重要となる。
Bコーポレーションとなるためには、会社は明白な社会的/環境的使命と、株主だけで
はなく社員やコミュニティー、そして環境の利害を考慮するための法的拘束力のある受
託者としての責任を有する必要があります。会社はまた、持続可能性および労働者の好
待遇についての〈B Lab〉の誓約を採用するために、定款の改正をする必要がある。
この組織が何を認証するかというと、「当該企業が、社会問題や環境問題の解決に
貢献するという存在である」ということ。この認証を受けられれば、CSRというが、
企業の存在意義そのものが肯定される。すごい法制度である。
日本ではアウトドア用品メーカーのパタゴニアが有名です。
この考えを理解するには、
ヴェブレンのいう「習慣の重要性」と「製作者本能」の概念に注目する必要がある。
人間は、生来より外部環境に働きかけて必要なものを作り生存して来た。
その「つくる」と言う本能が製作者本能と言っている。
その技術の知識や智慧が製作者の集まった共同体に蓄積されてきた。しかし、
産業革命により自らの製作をせずとも商品の購入と言う行為で生存する事が出来る。
これにより消費社会と言うものが現出して来た。すなわち、思考習慣(制度)
は環境の変化と技術による変化によって変化していく。
http://ir.iwate-u.ac.jp/dspace/bitstream/10140/3079/1/al-no84p103-125.pdf

しかし、創るという行為を実際に見える形にするという点では、3Dプリンター
として、広く社会基盤が進んでいる。今はビジネス的な実利面が中心に、この進化が
進んでいるように見えるが、より深く社会に直結した社会基盤として進むと思われる。
法人の考え方も大きく変わってくる。

6)今また分散化と旧きよき共同社会へ向けて
分散化された社会への回帰
ネットワーク化の進化発展が分散化を推し進める。
これにより、文化や社会構造までが新しい普遍的な組織編制の可能性を高める。
分解、再構成が既存の組織や社会の仕組みに適用される事により、更に進歩主義的
(プログレッシブ)な社会改革がソーシャル化以後、個体の大群化されたより
複雑なつながりを持ってそれぞれの持つ機能や組織を活かすために創れていく。
そのためには、組織原理に精通し、技術的な思考の高い人々がその推進を
担っていく必要がある。

大共同社会
ジョン・デューイは、産業革命により出現した大社会の状況を反省し、それ以前の
共同社会を新たなる視点で構築する事を考えた。しかし、その基本はラジオなどの
メディアを基盤とする社会構築への試みであったが、ラジオを含め社会基盤となるには
充分な力を持っていなかった。だが、是を現在のインターネットが基盤となった
社会に適用すれば、その理念は生きてくる。



-------
80年代から2040年代まで7つのステージがあるのでは、と提起している。
特に2020年代からのステージ5から7までは生命体としての境界が人、
モノなど区別がなくなってくる。


第三世界
open societyを提唱したカール・ポバーは、人間の外部に客観的に存在する物理的
世界を「第1の世界」、人間の内面に存在する精神世界を「第二の世界」、
人間が定めたルールや法則によって構築された世界を「第三世界」と言っている。


レイ・カーツワイル氏の動画
シンギュラリティ理論の動画はこちら
http://www.ted.com/talks/ray_kurzweil_announces_singularity_university?languag

e=jaシ
 
三年前に「シェア(共有からビジネスを生み出す新戦略)」の本が出たときに数回
のセミナーがあったが、的外れな質問、回答もあり、シェアの理解がいま一つ
であると感じた。また、大津の「結」にも見られるように地域での相互扶助の
仕組みは、多くの地方で存在していたが、70年代、80年代と物質的な豊富さ
とともに、リアルの世界では一層薄れてきたようである。
ここでは、「シェア」での指摘事項と現在のシェアサービスの動きを概観してみたい。

1.「シェア」から考える。
シェアには3つのパターンがあるとのこと。
①プロダクトサービスシステム
所有よりも利用の考え方で、その製品から受けたサービスを利用した分にだけ支払う
コインランドリー、車、あまり使われていない私有物をシェアにより最大限に活用出
来る。
②再配分市場
中古品、私有物を必要とされていない人から必要な人へ配り直す、または交換する。
 服、本、などリユース、リサイクル、リペア
③コラボ的ライフスタイル
同じような目的を人のための時間、空間、技術など眼に見えにくい資産を共有する。
いずれも、参加メンバー、扱う量などを問わなければ、我々の身近にはある
サービスである。
また、これをビジネス化、社会適用するためには、幾つかの条件が必要とも言う。
①クリティカルマスの存在
 十分な消費活動を実現するためのある程度以上の数が必要であり、
 社会承認を得るためのイノベータ的な消費者を確保する必要がある。
②余剰キャパシティの活用
 車、自転車のような眼に見えるものに限らず、時間、スキル、空間なども
 その対象となる。
③共有資源(コモンズ)の尊重
 共通の興味を持つ人が価値を生み出しコミュ二ティを作るための新しい
 コンセプトが必要となる。公共サービスの再定義が必要でもある。
④他者との信頼
 程度の差はあるものの、見知らぬ誰かを信用しなければ成り立たない。
 参加者が同列で、共有資源を自己管理できることが必要要件でもある。

以前には、③、④がその条件を満たしていたが、最近は、①、②となり、今後は、
③、④を如何に「人に当然の意識化させる」のか?様々な事例として上がっている
サービスが日本の中で実現できる要件となるのでは。
紹介されているサービスには、NPO、民間企業でも、あまり人、モノ、金を
掛けずに出来るものもある。
・ご近所とのモノの貸し借りをするサイト
   http://new.neighborgoods.net/
・自分の部屋、家を貸してあげるサイト
   http://www.airbnb.com/
・物ぶつ交換(日本でも小さいサイトは結構あるようです)
   http://www.livlis.com/(これもTwitterで交換する日本でのサービス)
・自転車の共有サービス(日本では有効と思うのですが)
   http://www.velib.paris.fr/
・スキル交換などを主としたコミュニティサイト
   http://ourgoods.org/
最近ではメジャーになった車シェアのzipcar、旅行者のためのカウチサーフィン、など
多数存在する。
日本では、先ほどの①から④の条件は満足している、と思う。戦後、やや希薄となった
③、④も基礎的な意識の中では、十分、存在する。そして、更に進む生産と消費をする
人口の圧倒的な減少は、シェア(共有)化を推し進める原動力でもある。情報流通の
速さと合わせ、実現のための外部環境は整っている。一歩の踏み出しだけである。
個人としても、スキルのシェア化、ご近所との貸し借り、または物々交換は、地域活性
化と合わせ、是非実現したいサービスでもある。

2.現在の「シェアサービス」は?
最近頑張っている幾つかのシェアのサービスがある。規模的には、3年前にサービス
していたものよりも大きくなっている。しかも、旧来の「ものや活動」をベースとする
サービスから「人」をベースとするサービスにそのビジネス主体が変わってきている。
以下の最近のそのようなサービスを紹介する。

1)Airbnb (エアビーアンドビー、エアビーエンビー)
宿泊施設を貸し出す人向けのウェブサイトである。192カ国の33000の都市で
80万以上の宿を提供している。
このサイトの利用者は利用に際して登録して、本人のオンラインプロファイルを作成す
る必要がある。すべての物件はホストと関連付けられており、ホストのプロファイルに
は他利用者からのお勧め、泊まったことのあるゲストからのレビュー、また、
レスポンス・レーティングやプライベートなメッセージングシステムも含んでいる。

2)Uber (ウーバー)。
スマートフォンを活用したハイヤー・タクシーの即時手配サービスを提供する。
すでに世界42カ国、150ほどの都市で即時手配サービスを実施している。
すでに日本に進出済み。本格運用は2014年3月から台数限定、東京都山手線内側
の南半分限定でハイヤーの手配サービスを行っている。
ウーバーが新たに始めるのは、タクシーを手配する「uberTAXI」、ハイグレードタクシ
ーを手配する「uberTAXILUX」の2種類。ウーバーと契約したタクシーにはウーバーから
支給されるiPad miniと携帯電話が常備され、ウーバーユーザーからの呼び出しに対応
する。タクシー側のメリットも明快だ。空車で「流し」をしている際に顧客を獲得でき
るチャンスとなるため、稼働率を引き上げる効果を期待できる。
ウーバーは効率的なタクシーの運用に寄与するので、二酸化炭素の排出量を減らすこ
とにつながる。ウーバーはクルマだけのサービスではない。すでに米国の一部都市では
自転車で小さな荷物をデリバリーするサービスをやっている。
東京であれば、日本交通をはじめ、大手タクシー会社はスマホアプリを運用しているた
め、すでにスマホで迎車サービスを使っている人にとっては、あまり便利さを感じない
かもしれない。むしろ埼玉、千葉などの郊外や地方都市に出張した際に、ウーバーで
簡単にタクシーを呼ぶことができれば、かなり便利だろう。

3)Meetrip
Meetripは地元ユーザ(またはガイド)と旅行者をつなげるスマートフォンアプリ
である。
Facebook認証をしてサインアップしたら、地元ガイドは簡単にツアー計画を作
成できる。例えば、旅行者には知られていない古い街並みを探索する3時間のツアー、
地元で最も人気な麺を楽しむランチなどだ。旅行者はおもしろそうなツアーを見つけて
申し込むことができる。ガイドと連絡を取り合うことで、自分だけの完璧なツアーを練
り上げることができるし、値段を含むツアーの詳細は後から変更できるので調整の
余地もある。
Meetripは、アクティビティより「人」に焦点を当てている。
地元の人たちがMeetripを使う動機はいろいろ考えられる。遠くから来た旅行者との
交流や外国語の会話や練習、または地元の特別な場所を旅行者に紹介することなど。
これらはどれも、地元の人たちがアプリを最初に使い始める理由だ。
しかし時間が経つにつれ、Meetripが彼らの大きな収入源になる可能性がある。

4)trippiece
テレビで見かけたあの絶景、いつかはこの目で見てみたい!そんな気持ちを持ったこと
はありませんか?
トリッピースは「みんなで旅をつくる」がコンセプトのソーシャル旅行サービス。
ユーザーの「旅に行きたい」想いが投稿され、それに共感した仲間が集まり、みんなで
旅をつくる。
トリッピースの旅の良いところは、あなたが行きたい場所に行けることとなによりも
日常生活では出会うことのなかった、同じ興味・価値観を持った人達と出会えること。
トリッピースの旅とは?
トリッピースではユーザー自らが行きたい旅の企画ページを作って共有することが
でき、その旅の企画に共感したユーザーが集まり、みんなで旅のプランを作っていく。
旅のプランが具体化されたら、トリッピースと提携している旅行会社がその企画をツア
ー化してご提供する。

5)KitchHike
ごはんを作る人(COOK・クック)とそれを食べたい人(HIKER・ハイカー)をつなぐ
日本発のウェブサービス。例を挙げると、COOKは「トルコに住むGulsahです。
地中海風のフルコースを用意しますよ」と登録。サイトを見て「Gulsahさんの
ごはんを食べたい!」と思ったHIKERが、日付などを指定して連絡を取る。
HIKERはごちそうになったあと、写真付きのレビューも投稿できる。
COOKは提供する料理に自ら値段をつけ(最低価格10ドルより)、HIKERはお代
を支払う。お金のやりとりはPaypalもしくはクレジットカードで行われ、
KitchHikeはその間から手数料をもらう仕組み。現在は英語版のみ提供で、
日本、タイ、カナダなど、13カ国からの登録があり、今後も世界中でサービス
を展開していく予定。
Airbnbでは「家」という元手が必要だが、KitchHIkeで必要なのは料理をつくる「人」
そのものであり、宿泊するのはためらわれる家でも、食卓を囲むことならずっとハード
ルは低くなると言う発想がある。

ローカル志向の時代

最近、「ローカル志向の時代(松永桂子著)の本を目にし、一読した。
社会は変わりつつある、価値も変わる、人とのゆるやかなつながりや安心感など、
貨幣的価値に還元できないものが重要となり、これまでとは異なるライフスタイル、
価値観、仕事、帰属意識が生み出されつつある。都市と農村のフラット化、新たな
スタイルの自営業、進化する都市のものづくり、地場産業、地域経営、などの視点
から現在の「ローカル志向」を解き明かすために、地域をベースにして、消費、
産業から個人と社会の方向性について考えた本である。

とくに、地域経営の在り方についてものづくり、まちづくりは人とその基盤となる
風土、文化、更には景色が大きくかかわっている、という。
さらに言えば、30年ほど前に充分に理解したとは言えないが、この本の最後に
紹介のある山崎正和氏の「柔らかい個人主義の時代の誕生」を読んだ時の感触が
いま眼前により具体的な形として広がっている、そんな思いにかられた。

1.若者の働き方の変化
地域への関わりの世代の広がりは私自身のNPOや地域活性化支援への関わりからも、
とくにここ4、5年変わってきている事を感じる。例えば、滋賀県では十数年前から
地域の課題を解決したり、解決しようとする人たちの支援をするなどのために地域
プロデューサを毎年育成して来たが、以前は60代の定年後の次の何かをしたい人
がほとんどであったが、4、5年前からは20代から40代の現役メンバーが多く
なってきた。彼らの志向は自分たちの住む地域をもっと理解し、何かをやりたい、
という意識が極めて強い。
また、身近なところでも、Iターン、Uターンの若い人が増えている。

最近の若者の意識については、この本にもあるが、電通が2015年8月にした調査が
面白い。その調査では、
電通総研、「若者×働く」調査を実施
「電通若者研究部(ワカモン)との共同で「若者×働く」調査を実施しました。
この調査は、週に3日以上働いている18~29歳の男女3,000名を対象とし、30~49歳の
男女2,400名のデータと比較することで、若者の現在の働き方、働く目的、働くことに
対する意識などを明らかにしました。
本調査の主な結果は以下のとおりです。
1. 若者の約3割が非正規雇用。女性では約4割。
2. 働く上での不満は、給料などの待遇面、有給休暇の取りづらさ、仕事の内容など。
3. 働く目的はまず先に生活の安定。働くのなら「生きがい」も得たい。
4. 現在の働き方は堅実に、理想は柔軟な働き方をしてみたい。
5. 約4割が働くのは当たり前だと思っているが、約3割はできれば働きたくない
と思っている。安定した会社で働きたいが、1つの会社でずっと働いていたいという
意識は低い。
6.「社会のために働く」と聞いてイメージする「社会」は「日本」と「身近な
コミュニティー」。
7. 若者は「企業戦士」「モーレツ社員」という言葉を知らない。
特に、5から7項の結果は我々世代と大分違う様でもある。

その中でも、
約4割が働くのは当たり前だと思っているが、約3割はできれば働きたくないと
思っている。安定した会社で働きたいが、1つの会社でずっと働いていたいという
意識は低い。働くことへの意識については、18~29歳の約4割が「働くのは当たり
前だと思う」(39.1%)
一方で、「できれば働きたくない」(28.7%)が約3割に上ることが分かった。
仕事に対する価値観でも「仕事はお金のためと割り切りたい」(40.4%)など、
消極的なマインドがある中で、「自分の働き方はできる限り自分で決めたい」
(28.4%)という意識がある。会社や仕事の選び方は「できるだけ安定した会社
で働きたい」(37.1%)という意識が強いが、「1つの企業でずっと働いていたい
と思う」という意識は17.3%。周囲や社会とのかかわり方では、
「できるだけ価値観が共有できる仲間とだけ仕事がしたい」(32.9%)、
「社会に貢献できる仕事・会社を選びたい」(23.2%)となっている。
「できるだけ安定した会社で働きたい」という項目は、女性18~29歳で44.3%と高い。

「社会のために働く」と聞いてイメージする「社会」は「日本」と「身近な
コミュニティー」「社会」という言葉がイメージするものとして、18~29歳では
「日本社会」(41.9%)、「会社や所属している集団」(39.2%)、「住んでいたり、
関わりのある地域」(34.8%)、「友だちや家族」(34.1%)が上位に挙がった。
社会=日本というイメージと同時に、友だちや家族といった身近な「社会」も
想起されていることが分かる。女性18~29歳は「会社や所属している集団」
(42.6%)が最も高く、身近なコミュニティーを社会としてイメージしている。
「企業戦士」の認知率は、40~49歳が53.6%であるのに対し18~29歳は31.2%。また
「モーレツ社員」は、40~49歳が54.4%であるのに対し18~29歳は21.7%と、年代により
大きな差が見られた。
これらの言葉は、高度成長期に仕事に熱中する、企業のために粉骨砕身で働く
サラリーマンの像を表した言葉であり、世代ギャップがあることが分かる。」

時代の変化と意識の変化を感じる調査結果でもある。

また、後述でも伝えるが、Iターンで成功している地域の人の言葉を幾つか、
・「人生は一度きり。価値あることに時間を使いたいですし、一緒に働く仲間にも
価値ある時間を過ごしてほしい」。
・「一番読まれているのはアート関連の記事ではなく、“神山で暮らす”という
コンテンツでした。いわば古民家が2万円で借りられるというような賃貸物件情報で、
他コンテンツの5~10倍のアクセス数があり、ここから神山町への移住需要が顕在化
してきたのです」。
・町のサイトには「移住者は自分がやりたいことを実現するために、目的を
持ってやってきていた」とある。

2.「柔らかな個人主義の誕生」より
この本は、1984年に刊行され、60年代と70年代についての分析が中心であるが、著者
の「消費」の定義の仕方など、現在でも十分に通用する内容ではあるが、個人的には
組織の中で一途に仕事に打ち込んでいた自分にとってのこれからの社会への個人の
関わりの変化を感じさせる内容であった。池田内閣の所得倍増計画の下で高度経済成長
を目指していた60年代の日本社会が、その目的を遂げた後、どのように変化していった
のか。70年代に突入して増加し始めた余暇の時間が、それまで集団の中における一定の
役割によって分断されていた個人の時間を再統一する道を開いた。
つまり、学生時代は勉学を、就職してからは勤労を、という決められた役割分担の時間
が減少したことにより、余暇を通じて本来の自分自身の生活を取り戻す可能性が
開けたということである。

こうした余暇の増加、購買の欲望の増加とモノの消耗の非効率化の結果、個人は大衆
の動向を気にかけるようになる。以前は明確な目的を持って行動できた
(と思っていたが)人間は、70年代において行動の拠り所を失う不安を感じ始める。
こうして、人は、自分の行動において他人からの評価に沿うための一定のしなやかさを
持ち、しかも自分が他人とは違った存在だと主張するための有機的な一貫性を持つこと
が必要とされる。それを「柔らかい個人主義の誕生」と考える。
今読み返しても、その言葉をなぞっても、決してその古さを失っていない。
まずは、
・けだし、個人とは、けっして荒野に孤独を守る存在でもなく、強く自己の同一性に固
執するものでもなくて、むしろ、多様な他人に触れながら、多様化していく自己を統一
する能力だといへよう。

・皮肉なことに、日本は60年代に最大限国力を拡大し、まさにそのことゆえに、70年代
にはいると国家として華麗に動く余地を失ふことになった。そして、そのことの最大の
意味は、国家が国民にとって面白い存在ではなくなり、日々の生活に刺激をあたへ、個
人の人生を励ましてくれる劇的な存在ではなくなった、といふことであった。

・いはば、前産業化時代の社会において、大多数の人間が「誰でもない人(ノーボディ
ー)」であったとすれば、産業化時代の民主社会においては、それがひとしなみに尊重
され、しかし、ひとしなみにしか扱はれない「誰でもよい人(エニボディー)」に変っ
た、といへるだらう。(中略)これにたいして、いまや多くの人々が自分を「誰かであ
る人(サムボディー)」として主張し、それがまた現実に応へられる場所を備へた社会
がうまれつつある、といへる。

・確実なことは、、、ひとびとは「誰かである人」として生きるために、広い社会の
もっと多元的な場所を求め始める、といふことであらう。それは、しばしば文化サーヴ
ィスが商品として売買される場所でもあらうし、また、個人が相互にサーヴィスを提供
しあふ、一種のサロンやヴォランティア活動の集団でもあるだらう。当然ながら、多数
の人間がなま身のサーヴィスを求めるとすれば、その提供者もまた多数が必要とされる
ことになるのであって、結局、今後の社会にはさまざまなかたちの相互サーヴィス、あ
るいは、サーヴィスの交換のシステムが開発されねばなるまい。

・もし、このやうな場所が人生のなかでより重い意味を持ち、現実にひとびとがそれに
より深くかかはることになるとすれば、期待されることは、一般に人間関係における表
現といふものの価値が見なほされる、といふことである。すなはち、人間の自己とは与
へられた実体的な存在ではなく、それが積極的に繊細に表現されたときに初めて存在す
る、といふ考へ方が社会の常識となるにほかならない。そしてまた、さういふ常識に立
って、多くのひとびとが表現のための訓練を身につければ、それはおそらく、従来の家
庭や職場への帰属関係をも変化させることであらう。

・ここれで、われわれが予兆を見つつある変化は、ひと言でいへば、より柔らかで、小
規模な単位からなる組織の台頭であり、いひかへれば、抽象的な組織のシステムよりも
、個人の顔の見える人間関係が重視される社会の到来である。そして、将来、より多く
の人々がこの柔らかな集団に帰属し、具体的な隣人の顔を見ながら生き始めた時、われ
われは初めて、産業か時代の社会とは歴然と違ふ社会に住むことにならう。

この30数年前に語られた言葉がインターネットの深化に伴い、現在起きていることで
あり、それに対する個人の生きる指標でもあるようだ。

3.百姓への勧め
若い人の意識の変化は確かに多くなりつつあるが、まだ現状維持や保守的な行動の
若者が多いのも事実である。この本でも言っている上野さんの「ゴー・バック・トゥ・
ザ百姓ライフ」、即ち、多様な生業を組み合わせた生活への意識変化も必要なので
あろう。
ここに「元東大教授 上野千鶴子さんと社会学者 古市憲寿さん」の対談の記事
があり、彼らの指摘もまた事実であることも考える必要がある。

「古市」ただ、無頼は「頼らない」とも読める。無頼を「何かに頼らないこと」とする
と、最近、そういう生き方への憧れは若者を含めすごく広がっている気はします。既存
の企業などに頼らず、もっと自由に生きてもいいのでは、と。ここ10年ぐらい、会社
に勤めず、独力でスキルアップするような働き方はある種のブームです。
「上野」ただ、無頼というのは、いわば無保険・無保障人生。簡単に勧められない。
「古市」たしかに、専門的な能力がなければ「無頼」はうまくいかないと思います。
そして一つの組織に属していれば安定という時代でもない。僕自身も友人と会社を経営
しながら、趣味のように大学院に通っています。
ただ、企業にしがみついて生きようという人も依然多い。
「上野」安全と安心が希少になってきたから、よけいに何かにしがみつきたいの
でしょう。「就活」や「婚活」に必死になるのが、その表れでしょうね。
「古市」たしかに、新入社員のアンケートでも、定年まで同じ会社にいたいという人
が最近増えていますし、専業主婦志向も強まっていますね。
「上野」一方で、労働市場で最も割を食った非正規労働の中高年既婚女性たちは、
1990年代後半からどんどん起業しています。背景には、NPO法ができて任意団体
が作りやすくなったこと、介護保険法で助け合いボランティアがビジネスになった
ことがある。起業は若者だけの動きじゃない。
「古市」労働市場で一人前として働けないから、自分たちで、ということですね。
起業といえばITにばかり注目が集まるけど、裏側にはこうした女性たちがいる
のですね。
「上野」資本力のない女と若者は労働集約型か知識集約型の産業で起業するしかない。
この20年、グローバル競争に勝ち抜くという口実で政官財や労働界が労働の規制緩和
にゴーサインを出しました。その結果、格差社会でワーキングプアが男性にも大量に生
まれた。日本では移民の代わりに女性と若者が使い捨ての低賃金労働力になってきた。
フリーターが「不利だー」になったのね。起業は労働市場で相対的に不利な人たちの
選択肢。
「古市」自由になる代わりに、格差がどんどん広がっていく気がします。そこでは無頼
が、政策決定者側にとっても都合のいいキーワードになっている。今後、みんなが何も
のにも頼れない「無頼」にならざるを得ないのでしょうか。
「上野」もちろん全人生を会社に預けるような働き方をする人たちも、一部に残る
でしょう。でも、会社ごと心中することになるかもね。
「古市」自由に生きるためには、どこかでベースみたいなものがないと難しいというこ
とですね。
「上野」脱サラした人たちを見てきたけど、イヤな仕事を断れなくなったり仕事の質を
保つのが難しい。だから、「フリーになりたい」という転職相談には反対してきた。
「会社は無能なあなたを守ってくれる。荒野で一生戦うエネルギーと能力があるか」
って。
「古市」フリーとは定義上「自由」であるはずなのに、不安定だからこそ何かに従わな
きゃいけない。一方で、今の日本では、特に男性サラリーマンは全人生を会社にささげ
ることが求められ、働き方が自由に選べない。それがジレンマですね。
「上野」昔の日本は違った。土地の気候風土に合わせて稲作、裏作、機織り、季節労働
と多様な活動を組み合わせて生計を立てるのが「百姓(ひゃくせい)」だと言ったのは
中世史家の網野善彦さん。百姓は「種々の姓」のことだから。だからゴー・バック・
トゥ・ザ百姓ライフ、よ。

確かに、若者を中心に社会への参加意識の変化は、特に東北の震災以降大きく変わり
つつあるようだが、この対談にもあるようにさらに保守的な意識と行動も増えている
ようだ。この2人の言葉もかみしめておく必要はある。

4.Iターン事例から
この本にも紹介のある事例についてもう少し詳細に書くと、

1)海士町(あまちょう)
島根県から、フェリーで約2時間半。お世辞にもアクセスがいいとはいえない隠岐島諸
島の一つ、海士町は1島1町の島だ。その便の悪さにも関わらず、ここ11年間で人口約
2,400人(2014年10月現在)の2割に当たるIターン者数を誇るという素晴らしいい島。
各種メディアでもよく取り上げられている。
海士町での背景
高齢化、人口減少等、何かと問題先進県と言われる島根県の離島にあって、この島の
青年団は、平成のはじめくらいから「お前らどうするんだ」と島の年配者から
プレッシャーをかけられていた。そこに山内町長の登場。財政的な危機を自らの給与
を50%カットして乗り切る姿勢、そして「私が責任を取るから、なんでもやって
みなさい」と、どんなチャレンジもサポートする意気込みが役場の職員にも伝わり、
何でもやってみようという機運が高まった。
だが、海士町が単に行政主導だけでここまで来たのではない。行政と民間の立場、
みんな一丸となって地域をよくしていく。その中で、行政ができることはベストを
尽くしてサポートする。そのような流れで今の結果を出している。
幾つかの事例を示すと、

①ものづくりへの対応
海士町では、ある一つの「商品」というよりは「ブランド」ひいては「産業」を生み
出してきた。しかし、多くの自治体が6次産業化に取り組んでいる中、なぜ海士町は
うまくいっているのか?そのポイントは「全部自分たちでやること」らしい。
農協や漁協を通すと、コストがかかる。それを自分たちでやってしまえば、その分雇用
も生まれる、とポジティブに考える。春香も隠岐牛も多くのサンプルを自分たちで
研究開発、市場調査などすべて島の人たちでやった。

②ひとづくり
ものづくりが一定の成果を出し始めた頃、次に取り組むべき課題が「ひとづくり」だっ
た。人口流出が激しい海士町では、高校が廃校の危機にあった。廃校になれば、高校生
になったら島外に出なければならず、人口の更なる流出が起こる他、家計負担も大きく
なる。そこで、島外から高校生を受け入れる「島留学」を開始。この島は半農半漁で、
綺麗な水もあるため、ほぼ自給自足生活できる。つまり、小さな社会がそこにある。そ
れを活かして、島を丸ごとキャンパスにして、地域総あげで教育を行うことで特色を出
して行った。
③学習センターの設置
島では質の高い教育が受けられない、というのが常識となっていた。それをカバーする
取り組みとして学習センターが設置された。小学校から高校生まで一貫して、学習支援
をする、いわば公設の塾のようなもの。しかし、ただの学習塾ではない。町のヘッド
ハントにより移住してきた豊田さんと藤岡さんという、その道のプロ達が指導にあたり
高校と連携してカリキュラムを工夫する他、「夢ゼミ」という、キャリアデザイン、
生き方のコーチングまである。

移住者を惹き付ける一番の魅力は、
海士町の移住者が多いのは、見ず知らずの人が突然アポを入れても時間を割いてくれ、
真剣に夢を語ってくれる。「私でもなにかできそう」と、自分も既に島の一員である
かもしれないという錯覚に陥る。
対応は、365日24時間。漁業に興味がある、という移住希望者がいれば、朝5時からの
漁に連れて行ったりすることもあるという。そうやって、外の人と内の人の間に入って
あげることで、島へ入って来るハードルを低くする。ここまでが役所の仕事という境目
はない。制度より、システムより、補助金より、これらの地道で人間味あふれる
サポートが、移住者に「受け入れてもらえた」と感じさせ、彼らを惹き付ける要因の
一つである。

2)徳島県神山町の場合
徳島市内から車で約40分、人口約6000人の徳島県神山町。今この町に、IT系の
ベンチャー企業やクリエイター達が続々と集結している。過疎化が進む神山町が取り
組んだのは、観光資源などの「モノ」に頼って観光客を一時的に呼び込むこと
ではなく、「人」を核にした持続可能な地域づくりである。具体的な取り組み内容
と実際の成果について“「人」をコンテンツとしたクリエイティブな田舎づくり”を
ビジョンに掲げるNPO法人グリーンバレーが中心となって動いている。

2004年12月に設立されたグリーンバレーは、1992年3月設立の神山町国際交流協会を
前身とするNPO法人だ。「人」をコンテンツとしたクリエイティブな田舎づくりや
後述する「創造的過疎」による持続可能な地域づくりなどをビジョンに掲げた活動を
展開している。
グリーンバレーはこれまで環境と芸術という2つの柱を建て、徳島県に自らビジョン
を提案し、プロジェクトを進めてきた。

まず環境面については、米国生まれのアドプト・プログラムという仕組みを日本で初
めて採用して道路を作った。アドプト・プログラムは、住民団体や企業が、道路や河川
といった公共施設の一区間を引き受けて、行政に代わってお世話をするものだ。そして
芸術面では、国際芸術家村を神山町に作ることにした。
1999年10月から神山アーティスト・イン・レジデンス(KAIR)というプログラムを実施
し、神山町に芸術家を招聘し、その制作の支援を住民がやっていこうという活動が
町に大きな変化を起こしていった。

神山町のプログラムは資金が潤沢ではないので、有名なアーティストに来てもらえ
ない、住民が始めたプログラムなので専門家がいない、などの課題があった。
そこで神山町では発想を転換した。“アートを高められなくても、アーティストを高
めることはできるのではないか”。つまり観光客をターゲットにするのではなく、制作
に訪れる芸術家自身をターゲットにしようと考えた。
「欧米のアーティストから『日本に制作に行くのなら神山町だ』と言われるような場所
作りを目指した。そのために、やってきたアーティストたちの滞在時の満足度を上げ、
神山町の“場の価値”を高めることに注力する取り組みを1999年から7~8年間続けた。

そこでグリーンバレーは、2007年10月に神山町から移住交流支援センターの運営を
受託、2008年6月には総務省からの資金援助を得て「イン神山」というWebサイトを
立ち上げ、神山町からの情報発信を開始した。
“神山で暮らす”というコンテンツがウケた
サイトでは当然、アート関連の記事を作り込んでいったが、公開後に意外なことが起
こった。「一番読まれているのはアート関連の記事ではなく、“神山で暮らす”という
コンテンツだった。いわば古民家が2万円で借りられるというような賃貸物件情報で、
他コンテンツの5~10倍のアクセス数があり、ここから神山町への移住需要が顕在化
してきた。
グリーンバレーには、アーティストたちを神山町に呼び込むための活動を通して、
移住希望者と物件オーナーとのマッチングや空き家自体の発掘などのノウハウが
貯まってきていた。実際にサイト公開後の2010年から2012年までの3年間で、神山町
移住交流支援センターでは37世帯71名(うち子供17名)の移住を支援した。

町に必要な人材をピンポイントで逆指名する「ワークインレジデンス」
移住者の大きな特性は、平均年齢が30歳前後だということ。そうした若い世代に
ついては「神山町が必要とする人たちを選んでいる」という。
神山町移住交流支援センターでは過疎化、少子高齢化、産業の衰退という課題解決の
ために移住支援を行っているが、こうした課題に対する答えを持ってる人、例えば
子供を持つ夫婦や起業家の人などを優先的にお世話をする。
これが「ワークインレジデンス」という取り組みだ。町の将来に必要だと思われる職業
を持つ働き手や起業家を、空き家を一つのツールにして、ピンポイントで逆指名する。

地域再生で一番大切なことは、「そこにどんな人が集まるか、集められるか」。
それを実践しているのが、神山町のようだ。

5.その他
この本は、ローカル志向という点で、新しい自営業、地域経営、地場の産業など
かなり幅広いテーマでまとめられている。
以下にその章立てを示すが、個人的に今興味があるのが、若者を中心の意識変化と
それに対する地域経営をテーマにしたもであり、そこからのキーフレーズについて、
今回は書いているので、少し記事内容は限定的である。他のテーマなどに興味ある
方は、関係ある章を読んでもらうことをお勧めする。

第1章  場所のフラット化
1-1    古くて新しい商店街
1-2    消費社会の変容と働き方の変化
第2章    「新たな自営」とローカル性の深まり
2-1    古くて新しい自営業
2-2    自営の人びとが集う場
2-3    経済性と互酬性のはざまで
第3章  進化する都市のものづくり
3-1    中小企業の連携の深まり
3-2    新たな協業のかたち
第4章  変わる地場産業とまちづくり
4-1    デザイン力を高める地場産業
4-2    ものづくりとまちづくり
4-3    外部者からみえる地域像
第5章  センスが問われる地域経営
5-1    小さなまちの地域産業政策
5-2    「価値創造」の場としての地域
5-3    「共感」を価値化する社会的投資
終 章  失われた20年と個人主義の時代

特に気になった文について少し紹介する。
・「これまでも、地域の自然、風土、文化はまちづくりの思想の根底に据えられて
きました。他方、地域経済を支える産業は風景や景観、風土や文化とのかかわりから
論じられることは少なく、むしろ自然や文化に対置してとらえられてきたふしが
あります。」

ローカル志向という流れの中では、地域の経済といえどもその風景、風土、文化、
さらに景観も考えた総合的なアプローチが重要となって来るのでは、と思う。

・「地域に産業があることにより、多様な人々がひきつけられ、多様な人々が
まじり合うことによって、町の姿が演出されます。そして豊かな生活空間を創出して
いくことにもつながっていきます。円熟した景観や風景がそれを物語ることになる
でしょう。
しかし、それは単に内なる視点だけでは構築されず、外部者からの意味づけがあって
意味を持つわけです。生活者の視点だけでなく、旅行者的な外部の視点で地域を捉える
ことは、観光まちづくりを進めるうえでも重要になってくるのではないでしょうか。」

この指摘は今個人的にも企画している事業にも当てはまることであり、この本にも
紹介のある中川理氏の考えも大いに参考となる。



ローカル志向の時代
働き方、産業、経済を考えるヒント
松永桂子/著

豊かさが示すところは時代によって変わる。いま、価値を持ち始めているのは、人との
ゆるやかなつながりや安心感など、貨幣的価値に還元できないもの。そして、これまで
とは異なるライフスタイル、価値観、仕事、帰属意識が生み出されつつある。
都市と農村のフラット化、新たなスタイルの自営業、進化する都市のものづくり、地場
産業、地域経営、クラウドファンディングetc.
いま、日本社会の底流で何が起きているのか――。現在の「ローカル志向」を解き明か
すために、「地域」をベースにして、経済や消費、産業の領域から個人と社会の方向性
について考える。
目次

まえがき
第1章  場所のフラット化
1-1    古くて新しい商店街
1-2    消費社会の変容と働き方の変化
第2章    「新たな自営」とローカル性の深まり
2-1    古くて新しい自営業
2-2    自営の人びとが集う場
2-3    経済性と互酬性のはざまで
第3章  進化する都市のものづくり
3-1    中小企業の連携の深まり
3-2    新たな協業のかたち
第4章  変わる地場産業とまちづくり
4-1    デザイン力を高める地場産業
4-2    ものづくりとまちづくり
4-3    外部者からみえる地域像
第5章  センスが問われる地域経営
5-1    小さなまちの地域産業政策
5-2    「価値創造」の場としての地域
5-3    「共感」を価値化する社会的投資
終 章  失われた20年と個人主義の時代
あとがき

「地域内経済循環」について
? 「地域内乗数効果local multiplier effect」・・・イギリスのNEF
(New Economics Foundation)が提唱する概念。
? ナショナル・レベルで考えられてきたケインズ政策の枠組みへの 批判。
? 地域再生または地域経済の活性化=その地域において資金が
多く循環していること。
? ①灌漑irrigation・・・資金が当該地域の隅々にまで循環すること による経済効果
が発揮されること。
? ②漏れ口を塞ぐplugging the leaks・・・資金が外に出ていかず、 内部で循環する
ことによってその機能が十分に発揮されること。
? 「地域内乗数3(LM3)」・・・資金循環の最初の3回を対象として
乗数効果を測定する方法。NEFはこれまで10の地域コミュニ ティを対象に地域内
乗数効果の実験を実施。(福士(2009)、中
島(2005))。

「地域内経済循環」について(続き)
? 日本での類似例・・・長野県飯田市の試み
? 「若者が故郷に帰ってこられる産業づくり」
?
→「経済自立度」70%を目標に掲げる。
? 経済自立度・・・地域に必要な所得を地域産業から
の波及効果でどのくらい充足しているかを見るもの。
・・・具体的には、南信州地域の産業(製造業、農林業、
観光業)からの波及所得総額を、地域全体の必要
所得額(年1人当たり実収入額の全国平均×南信
州地域の総人口)で割って算出。08年推計値は
52.5%
、09年推計値は45.2%
。「コミュニティ経済」という視点の重要性
? ①「経済の地域内循環」 ・・・ヒト・モノ・カネが地
域内で循環するような経済
→グローバル化に対しても強い。
・②「生産のコミュニティ」と「生活のコミュニティ」の
再融合
・③経済が本来もっていた「コミュニティ」的(相互扶
助的)性格
・④有限性の中での「生産性」概念の再定義
・・・労働生産性から環境効率性へ


若者のローカル志向の背景には「自給期待」があり、その先は「自分達の生きる場を自
分達で作っていく」につながっている
  
303 ( 39 九州 会社員 ) 14/02/19 PM07 【印刷用へ】
■若者のローカル志向の先にあるもの

若者の「ローカル志向」が進んでいる。千葉大学・広井良典教授は、

>経済構造の変化によって社会的な課題を解決する「空間的単位」が小さくなった事が
要因でしょう。
リンク

と分析する。

 背景には、1970年の豊かさ実現による、「私権社会から共認社会への転換」があり、
更に、2008年のリーマンショック、2011年の東日本大震災を経て、市場社会やそれを導
いてきたマスコミや学者、政治家に対する不信から、「自分達で自分達が生きていく場
を作っていく」という「自給期待」が顕在化していると考えられます。

 若者のローカル志向は地元への就職という形で顕在化していますが、その先には地元
の諸問題を、「行政に代わって自分達で解決していく」という流れに発展していくよう
に思います。

■「自分達で地域の問題を解決していく」の実践例

 広島県安芸高田市川根では、大水害という危機を契機に、「もう行政には頼れない」
「自分達で出来る事は自分達でやろう!」と、災害復興だけではなく、産業、福祉、教
育などあらゆる分野で自治活動が進められています。

 このような活動に、今後、ローカル志向の若者達が参画し、「自分達で自分達が生き
ていく場を作っていく」事が実現されていく事がイメージできます。

共同売店ファンクラブブログより引用します
リンク

川根振興協議会は、地域の諸問題を住民の手で解決しようと1971年に設立された自治組
織で、辻駒さんはその会長であり、広島県の安芸高田市地域振興推進員も努めておられ
ます。

川根(旧・川根村)は、19の集落におよそ260戸、人口600人ほどの地域です。川根村は
1956年(昭和の大合併)に高宮町へ、さらに2004年(平成の大合併)に安芸高田市へと
合併されています。最初の合併後、役場、学校、病院、商店街などが次々と消えていき
、2000人いた人口は3分の1に。過疎化、高齢化が深刻となっていました。

大きな転機となったのは1972年、広島を襲った集中豪雨がもたらした大水害で、川根地
区は孤立し、大きな被害を被ります。この時、「もう行政には頼れない、自分たちでで
きることは自分たちでやらねば」という危機感と自治意識を強く持ち、災害復興だけで
はなく、産業、福祉、教育などあらゆる分野で自治活動を進めていきます。

川根の取り組みは、やがて高宮町全体に広がります。そして、地域住民が加入する振興
会が、それぞれに予算と権限を持ち、町役場と役割分担をしあうという「高宮方式」は
、地域自治のモデルとして全国に知られるようになります。

この川根地区に万屋(よろずや)という店があります。万屋は、住民の共同出資によっ
て誕生した「共同売店」です。7年前、農協の合併に伴う合理化で、高田郡農協は川根
地区にあった農協売店の閉鎖を決定しました。地域に一つしかない売店がなくなるとい
うのは大変なことです。特に、お年寄り、車に乗れない人、立場の弱い人は、その地域
では誰かの助けなしには生きていけないということです。

閉鎖の話を聞いてすぐ、辻駒さんは農協の組合長の元へ行き、「どうしても廃止するな
ら、その施設をくれ」と言ったそうです。そして地域の人たちに出資を呼びかけます。
しかし、始めはみんな心配して、「出資して赤字になったらどうするんだ、また出資し
ろ、というんだろう」と言ったそうです。

その時、辻駒さんは、「みんながそれほど心配するなら大丈夫。店がつぶれないように
、店で買い物するでしょうから。車に乗れない高齢者を支えるためにも、町に買い物に
行くのを10回のうち、7回にして店を利用すればちゃんと儲かる」と説得してまわった
。

その結果、1戸1000円の出資に260戸の全戸が応じて、農協は「万屋」として、またガソ
リンスタンドは「油屋」という、地域による「直営売店」に生まれ変わりました。

実際の経営は、協議会の副会長でもある岡田さんの建設会社に依頼。また、たとえ1000
円ではあってもきちんと「株券」を発行して、一人ひとりが「株主」であり、みんなの
店だという意識を持つよう工夫しているようです。


「ローカル志向」(メモ)Add Stardivot
広井良典「日本救う若者のローカル志向」『毎日新聞』2013年12月9日夕刊

「若者のローカル志向」を「最近の若者は”内向き”になったとか、”外”に出ていく
覇気がないといった批判がなされることがよくあるが、これほど的外れな意見はないと
思っている」という。「ローカル志向」の「もっとも根本的な背景」について、広井氏
は次のように述べている;
すなわち高度成長期を中心に、拡大・成長の時代においては、工業化というベクトルを
駆動因として世の中が「一つの方向」に向かって進み、その結果、各地域は”進んでい
る-遅れている”という時間軸にそって位置づけられることになる(東京は進んでいる
、地方は遅れている等々)。ところがポスト成長の時代においては、そもそもそうした
一元的な時間座標が背景に退き、逆に各地域のもつ独自の個性や風土的多様性に人々の
関心が向かうようになる。単純化していえば、時間軸よりも「空間軸」が前面に出る時
代になっていくのである。
ただし、「ローカル志向」と「各地域のもつ独自の個性や風土的多様性」と必ずしも関
係があるものではないという意見もあり。大澤真幸氏*1は阿部真大*2『地方にこもる若
者たち』の書評で*3、この本を要約しつつ、次のように述べている;
 「地元にもどる」とか「地方にこもる」と言うとき、「地元」「地方」といった語に
よって現在の若者たちが指示している対象、こうした語によってイメージされている社
会の実態は、かつて「東京志向」が主流だったときに前提となっていた「地方/東京」
「田舎/都会」の二項対立の中で指し示されている地方・故郷・田舎とは、まったく違
っている。このことが、本書の前半である「現在篇」によって明確に示される。
 人生の理想は東京で実現すると信じていたかつての若者が、それでも、故郷や田舎に
帰ってくるのは、そこに、東京では得られなかった濃密な共同性や愛すべき自然環境が
あると見なした場合である。
 ところが、阿部が大学生たちに、「地元と聞いて思い出すものは何ですか?」という
アンケートをとったときに返ってくる答えは、「イオン」「ミスド(ミスタードーナツ
)」「マック」「ロイホ(ロイヤルホスト)」などである。この答えは驚きである。な
ぜなら、これらのものに、地元的な固有性はいささかもないからである。むしろ、これ
らは、それぞれの地方に固有な特殊性が、とりわけ希薄なものばかりである。ミスドも
マックも、日本中、どこにでもある(場合によっては、世界中にある)。とすると、若
者たちは、「地元がいい」と言いつつ、特に地元にもどらなくてもいくらでも見つかる
ような場所や施設を思い浮かべていることになる。
 それならば、彼らは、地元の何に魅力を感じているのか。かつてだったら、田舎に回
帰する者たちは、その地域に根ざした共同性や人間関係に愛着をもっていた。しかし、
阿部の調査は、ここでも、過去のイメージがあてはまらないことを示している。その調
査によると、地方にいる若者たちの圧倒的な多数が、つまり調査対象となった若者のお
よそ4分の3が「地域の人間関係は希薄である」と答えている。他の人間関係について
は、希薄だと答えている者の率は、はるかに低いので(満足していない者の比率は、家
族関係に関しては、およそ5分の1、友人関係については1割未満しかいない)、彼ら
は、地域の人間関係に対して、ことのほか背を向けている、ということになる。地域の
共同性が好きでもないのに、わざわざ地方にとどまっているのだ(ついでに指摘してお
けば、本書の後半に、2012年におこなわれた、東日本大震災で被災した3県の調査
が紹介されており、それによると、「近所の人」が頼りになったと答える人の率が最も
低いのは、人口10万代の地方中小都市で、通念に反して、大都市の方が「近所の人」
への信頼度が高い)。
 地元のイメージが託されているものは、どこにでもある施設で、地元の地縁共同体に
も参加意識をもてないのだとすると、若者たちはなぜ地元を志向するのだろうか。阿部
が調査をもとに結論していることは、わりと穏当なものである。すなわち、1990年
代以降のモータライゼーションが生み出した、大型ショッピングモールが立ち並ぶ郊外
が、地方の若者たちにとって「ほどほどの楽しみ」を与えてくれるためだ、と。要する
に、駐車場が完備した、国道沿いのイオンモールで遊べば、そこそこ満足できる、とい
うわけだ。地方都市は、余暇の楽しみのための場所がない田舎と刺激が強すぎる大都市
との中間にある「ほどほどパラダイス」になっている、というのが、本書の前半の「現
代篇」の最も重要な主張である。さらに、あまり明示的には語られていないことを付け
加えておけば、そのほどほどパラダイスで鍵となっている人間関係は友人関係、もっと
はっきり言うと、中学や高校のときの同級生の関係であろう。
かくして、「ローカル志向」は三浦展氏のいう「ファスト風土化」に大接近することに
なる(『ファスト風土化する日本』*4)。しかし、大澤氏は「1990年代以降のモー
タライゼーションが生み出した、大型ショッピングモールが立ち並ぶ郊外が、地方の若
者たちにとって「ほどほどの楽しみ」を与えてくれるため」という理由づけにはかなり
不満なようだ。ドラマ『あまちゃん』に言及しつつ、
地元志向の、一筋縄ではいかない複雑さや深さは、たとえば、今年(2013年)大ヒ
ットした「あまちゃん」のことを考えただけでも、思い至ることができるだろう。「あ
まちゃん」の脚本を書いた宮藤官九郎は、00年代の初頭から、郊外的な「地元」にこ
だわり続けてきた。
(略)
その宮藤官九郎の、現在のところの到達点が、「あまちゃん」であろう。「あまちゃん
」は、主人公のアキが、母の春子に連れられて、地元北三陸に帰ってくるところから始
まる。いや、北三陸は、アキにとって、普通の意味での地元ではない。彼女は、東京の
世田谷で生まれ育っており、北三陸には一度も行ったことがなかったのだから。しかし
、北三陸は、すぐに、アキにとって、地元以上の地元、ごく短期間暮らしただけなのに
、世田谷よりもはるかに懐かしく愛情を感じる地元になる。
 アキと春子が帰ってきた北三陸には、やはり、地元を超える地元を象徴する人物、夏
ばっぱ(アキの祖母)がいる。夏は、北三陸という地元を一度も離れたことがない。い
や、彼女は、ただ地元に定住しているだけではない。夏は、逆に、深く潜る人である。
海女という仕事が、夏の「地元を超える地元」への志向を表現している。
 夏の最愛の夫(アキの祖父)の忠兵衛が、また興味深い人物だ。遠洋漁業を生業とし
ていて、1年に10日ほどしか地元にもどらない忠兵衛が目指す先は、東京どころでは
ない。彼は、東京とか日本とかといった領域が意味をもたないような、グローバルで普
遍的な空間(大洋)を移動する。しかし、その自由な移動のためには、地元を超える地
元に根を張る夏が必要だ。こうした両極の短絡的な結びつきは、どのようにして可能に
なるのか。そのように考えていくと、地元への志向ということに、まだまだ汲(く)み
尽くせない謎や深みがあることがわかってくる。
と述べている。ここで重要なのは(多分)「ローカル」と「グローバル」との関係だろ
う。グローバル化と「ローカル志向」との関係については、(全く別の側面ではあるが
)「グローバル化と資本のフレキシビリティ」*5(『ソシオロジカル・スタディーズ』
所収)でも言及していたのだった。