2016年3月28日月曜日

司馬遼太郎メモ

第4巻
御母衣のあたりはすでに、飛騨国白川谷と言う秘境のひとはしになる。
この渓谷に住む人々の全てが室町末期に浄土真宗の門徒になり、この
宗門の法儀によって統一された単一の秘境文明を作った。かれらは1つの
宗門の門徒として谷谷が横に組織を組み、またそれまで谷谷の人々を
脅かしていた迷信の類を駆逐した。よく知られているように、浄土真宗
というのは弥陀の本願を信じ参らせる信仰以外のすべての呪術や迷信を
排除する宗旨なのである。それまでは、山々に祟りをなす山霊や妖怪
が棲んでいて、この里の暮らしはおびえに満ちたものであったかと思われる。
例えば、この御母衣ダムより少し南の本街道から入ったあたりに猿丸と言う
在所がある。その在所で起こった事件が「今昔物語」巻26に出ている。
「今昔物語」は12世紀の成立だと言われているから、ともかくも古い時代
である。その時代にこの山中の村の事件が、都へ出る飛騨の匠などの
口を通して、都に住む筆者の耳に入ったのであろう。情報の面では
当時飛騨は僻地ではなかったかもしれない。
以下、紹介する。
旅の僧がいて、どうも物語での活躍ぶりから察すると歳は若く、勇気もあり、
身動きも敏捷らしい。
「いずくともなく行き歩きけるほどに、飛騨国まで行きにけり」
山中を歩くうちに道に迷った。やがて簾をかけたように大きくたかだかとした
滝にぶつかり、その向こうに道がない。とほうに暮れているうちに、背後から
笠をかぶりものを荷った男がやってきた。白川郷の人が物の本に登場
するさいしょかもしれない。僧は救われたようにその男にこえをかけ、
道を問うた。が、男はそれを無視して、やがて滝しぶきの中に躍り込んで
消えてしまった。僧、それを見ておどろき、「これは人にあらで、鬼に
こそありけれ」と恐れたが、自分もそのあとで今の男が躍り込んだようにして
滝をくぐってみると、滝はただの一重で、ざっと暖簾をかけたような具合である事が
わかった。滝の内に道があり、やがて行くと、向こうに大きな人里が
あって、人の家が多く見えていた。白川谷の猿丸にこの僧は出くわしたのである。
里人が多く出ていた。その中から浅き上下着けた身分のよさそうな人物が
先刻の男に案内されて僧の傍に寄ってきた。
「ただ我が家へ、いざたまえ」
と浅黄上下が僧の袖を取っていった。ところが、里じゅうの人々が、口々に
「私の家にきてください」と言い騒いだが、結局は僧は浅黄上下の男の
所有になってしまった。僧は内心おもうに、「これは皆鬼なめり、我をば
いて行きて食はむずるにこそ」と悲しく思ったが、浅黄の男は、
「心得違いなさいますな。ここは楽しき世界でございます、この上は日々
何の心配もなく、満ち足りて豊かに暮らさせてさしあげます」と言った。
家を見ると、大変大きく、住んでいる男女家族の数も多く、その一族が
僧が来た事を喜んで「走り騒ぐ事かぎりなし」受け取り様によっては白川郷
の大家族住居とその家族たちを彷彿させる。
その当主は、その夜、僧に一人娘を差し出し、「これ奉る」と言い、
きょうからは自分のむすめを慈しんできたように可愛がってほしい、と言った。
僧は還俗し、烏帽子を被った。当主は毎日馳走攻めにしたから僧は太ってきた。
当主はなおも「男は宍付き肥たるこそよけれ。太りたまえ。」と日に
何度となくものを食わせたために僧はいよいよ太ってきた。ところが妻は
夫が太るのを見てめだって悲しむのである。僧は妻に「何事を思い給うぞ」
と問うが、妻は答えない。やがて僧は、自分が山の神の生贄にされる予定
だと知った。この村では、年々1人が生贄として山の神に差し出される習慣があった。
それを怠れば、紙が荒れて作物なども不作になり、人も病み、郷も静かでない。
生贄は村の者でまかなわれるが、もし旅人がまぎれこんでくれるような事があれば、
これを騙して生贄にするのである。事情が分かったが、僧は原を立てなかった。
僧は妻に神はどういう姿をしている、と聞いた。妻が答えて、「猿の形に
おわすとなむ聞く」というので、僧は山の猿の老いたものであろうとおもい、
それを退治る決意意をした。結局、股の間に刀を隠し、山中の神社に
捨て置かれてから猿に対して大活躍をしてこれを生け捕りにし、里に連れ帰って
鞭でさんざんに打ち、人前ではずかしめ、猿にたっぷり後悔させてから山へ
放つ。その後、神社も、火を放って焼いた。
その僧はその後、妻と平和に暮らし、郷の長者として栄えた。それまでは、
この白川谷のあたりには馬も犬もいなかったが、このあと、この僧がそういった
動物を飼うことによってこの里を賑やかにし、山の怪しい霊から村を
守ろうと言うので奨励した、と言うことになっている。
この説話が12世紀だとすれば、この白川谷にひたひたと浄土真宗が入って
この谷に門徒王国が出来上がるのは、15世紀である。説話では、旅の僧が
古代的な祟り神を退治する事によって村を明るくしたが、浄土真宗の
進出によって思想的にもそれらが死滅した。さらには生活の規範もモラルも
この時期に画一化された。文明が来たといって良い。




古代にあっては、ひろく越こしと呼ばれるいまの北陸三県は畿内と独立した
一勢力をなし、奈良になっても屈強の勢力がここで発生する恐れがあった。
そのために、「愛発、あちち、の関」
と言う関門が設けられていた。有乳山(あちち)のあたりにあったらしいが、
いまは所在が知れない。現在の地図で言えば、滋賀県高島郡海津を起点として
まっすぐに北上している古街道がある。それが国境と言う村から福井県に
入るのだが、その越前へ越えたあたりが山中と言う村である。このあたりの山を
有乳山といい、愛発の関と言う古関もその付近の山路を塞いで建っていたのであろう。
、、、関所は7世紀半ばごろに制度として出来た。そのなかでも、「三関」と
呼ばれて、鈴鹿、不破そして愛発がもっとも重要なものとされた。
不破の関は美濃にあり、そのあたりはのちに関が原と呼ばれた。この不破の関
から東が、畿内政権にとってあづまであり、東の辺境であった。
愛発の関は北陸から出てくる勢力に対する関門だが、軍事的に役立ったことも
あった。、、、、関を閉ざすと言うは、中央の命令である。当時の言葉で、
こげんと言った。固関の文字をあてる。「こげん、こげん」と使者が叫びつつ
官符を持って駅場を飛んだのであろう。やがて平安期になればこれら律令体制
関所が名のみとなり、それを懐かしむ歌詠みたちの歌にだけ出てくる。
、、、、関が原出ている北国街道が正当なものである。ここから木之本へ出、
余呉湖のそばをとおり、そのあと、武生、鯖江をへて福井に至る街道である。
往路は、琵琶湖の北岸の海津から北上し、愛発越えをして、敦賀に出たい。
この方が、はるかに街道として古い。私の推測にあやまりがなければ、前記の
北陸街道のうちとくに椿坂峠、栃の木峠をへて越前今庄に下りていく街道は、
織田信長が柴田勝家に命じて拓かせた物であるらしい。そこへ行くと愛発越え
は、奈良朝のころは国家が特に重視していた官道であっただけでなく、有史
以前からあったらしいと言うことは幾つかの傍証によってその様にいえる。
国土地理院の20万ぶんの1の地図をみると、海津、敦賀間のこの街道には、
「西近江路」という名称がついている。街道の中でも、最古に属する老舗
であっても、いまは利用度も少なくさびれはててしまっているため、この稿
では、仮に北国街道の脇街道と言うことにして、まず脇街道の起点である
海津へ出かけてみることにする。
琵琶湖はその北端において3つの湾を持っている。夫々の湾に湖港があり
塩津、大浦、海津がそれである。どの湾も、古代から江戸末期まで栄え、
いまはまったく機能を失い、海津などはもう漁港と言う姿さえなく
なっている様である。
江戸末期までの日本の海上交通は、「北前船」と言う言葉にそのイメージが
込められているように、日本海航路が主航路であった。大阪の物産は
瀬戸内海をへて下関まわりで日本海に出、蝦夷地まで運ばれていく。
これがために裏日本の諸港がにぎわったが、特に栄えていたのは越前敦賀
であった。米も海産物もここで荷おろしされ、後は琵琶湖でもう一度船積み
されて大津へ運ばれるのである。敦賀から琵琶湖の北岸までの間は、僅か
の距離ながら陸送でである。この陸送路が二つある。塩津にでるのを塩津街道
といい、海津に出るのは、先に述べたように西近江路である。このため、
塩津、海津の湖港はにぎわった。それが明治以降、蒸気船という堅牢な
船が出現するおよんで太平洋航路が栄え、日本海航路がすたれた。
湖港の海津がおとろえて貧寒なる湖岸の村になりはてるのは、そういう
海上交通史の変革のためである。


海は松原越しに眺めるのがもっともいいという「古今」「新古今」以来の美的視点が
牢固として我々の伝統の中にある。
この点、気比の松原を持つ敦賀は日本のどの地方より恵まれている。弓なりの
白砂の渚にざっと1万本の松が大いなる松原をなしている景観というのは、ちかごろの
日本ではもはや伝統の景観と言うより奇観ではあるまいか。
松原に、わずかに日照雨(そぼえ)のようなものがふりかかっている。松原越しの
海は、水平線が白かった。越中でも加賀でも越前でも、北陸の海は鉛のように白い
というが、この2月21日の敦賀の海はわずかに緑がかっているように思えた。
その緑の分だけ、海にも春がきているようである。
、、、、、、、、
金ヶ崎城跡は、敦賀湾を東から抱く岬である。この南北朝のころの城跡にのぼると、
敦賀湾が見下ろせる。目の下に敦賀港の港湾施設が見える。貯木場に木材がびっしり
うかんでおり、いうまでもなくソ連から運ばれてきたシベリアの木材である。
敦賀港という北海にひらいたこの湾口が、昔もいまも、シベリア沿海州からやってくる
人間や物産の受け入れ口でありつづけていることが、あたりまえのようでもあり、
伝奇的なようでもある。
江戸期、北前船が華やかだったころは、敦賀港のにぎわいは非常なものであった。
とくに北海道物産の上方への移入は、敦賀港がほぼ一手にひきうけていた。物産は
主としてニシンである。このため、敦賀の海岸にはニシン蔵がびっしりならんでいた。
そのニシン蔵の群れは10年ばかり前までそのまま残っていたが、いまはない。
そのうちの一棟だけが、市内の松原神社の境内に記念的な建築物として移築されている
。
この記念のニシン蔵は、北前船当時のにぎわいをしのぶために残されているではなく、
幕末の一時期、水戸からやってきた政治犯の牢屋として使われた事があり、
その事を記念している。


敦賀は越前国の西の端である。
ここから越前国の本部へ入るには、東北方蟠っている大山塊を越えねばならない。
その山塊を越える道は、上古から中世までは木の芽峠のコースしかなかった。
越前三国から出てきた継体天皇も木の芽峠の瞼をこえて敦賀に入ったであろう。
また戦国末期に越前朝倉勢を討つべく敦賀に入った織田信長の大軍は木の芽峠を
越えることなく近江の浅井氏の敵対のために敦賀から退却せざるをえなかった。
幕末に武田耕雲斎の私軍も、この木の芽峠を越えて敦賀に入ろうとし、峠の麓の
新保という村で武装解除された。
、、、、、、
木の芽峠の大山塊の下を全長13キロ、世界第5位という北陸トンネルが開通
してから道は寂れてしまったらしい。というより自動車道路として海岸道路が
ひろげられてから、みなそれを通り、わざわざ木の芽峠を越えるような車が
なくなったということもある。、、、、
この大山塊は海にまで押し寄せていて、その山足は地の骨になって海中に
落ち込んでいる。海岸道路は、潮風のしぶきをあげるようなその岩肌を開釜
してつくられており、道路としてはあたらしい。
海岸道路をゆくと、ときに右手にのしかかってくる大山塊の威圧のために海へ
押し落とされそうな気分になる。北陸において日本史にもっとも重大な影響を
与えたものはこの大山塊ではないかとおもったりした。

この敦賀湾の東岸には、幾つかの漁村がある。海岸道路は山腹を削って造られている
ため、道路からは高見になる。はるか下に漁村があり、渚がある。
道路は南から北へ走っている。経ていく順に村の名前をあげてみると、田結、
赤崎、江良、五幡、阿曾、杉津、横浜、大比田、元比田、大谷、大良と言う具合になる
。
越前は地名のいいところで、この敦賀湾東岸の漁村も、美しい語感の地名を
持っている。漁村は、入り江ごとにある。
元来この海岸のどの集落も自給自足でなければやっていけないにちがいない。
地形上出口がないないようなところに住み着いてきた以上、僅かな地面を
耕地化して米や白菜をつくっていかねば、どこからもそういうものが
入ってこないはずである。、、、、
海岸の集落のなかでも、杉津の浜がもっとも美しい。高見の景観である。
家々は小さく、松林も小さく、寄せている波の白さは遠すぎて見えない。
あるいは、波頭があらわれるほどには、波がないのかもしれない。
白っぽく見えるのは梅の満開であり、梅ノ木が多かった。梅ノ木は実を取るための
自給自足の頃の名残であろう。ほかにミカンの木、桑の木、椿の木などが、
色合いによって判断される。
海浜の村はそれらの木々に装飾され、海風がほどよく吹いている。真言の寺の
大きな屋根も見える。越前門徒と言われるほどだから、寺を大切にしているに
ちがいない。
車を路傍に停めてぼんやり見下ろしていると、やがて壊れるかもしれないこの
美しさにたまらないほどの愛情を感じた。出口がなかったからこそ、この村は
伝統的な造形秩序がこわれずにこんにちまでやってきたのである。
、、、、、、、
元比田を過ぎると、道路は海岸に接しつつもわずかに遠ざかる。海際が険しくて
とても道路がつけられなかったのだろう。このあたりから隊道が多くなる。
そういう隊道の連続からやっと開放されたあたりが、大良の浦である。
この海岸の僻村は、自生の水仙の大群生地であることで知られている。潮風が
吹き付けてくる山の斜面にびっしりと自生しているそうだが、車の中からは
見えない。水仙にくわしい友人に聞くと室町時代にははっきり水仙があったという
から、やはり人間が持ち帰ったのかもしれない。
室町文化は、日本の生活文化の一大光源として、いまなお我々の環境についての
美意識に濃厚な影響を与え続けている。舞踊、数寄屋建築、茶道、花道という
ぐあいに考えると、我々はなお室町文化の延長の中にいるともいえる。
この水仙の里から右に折れると、道は一筋に武生にむかう。
さきに越前の地名についてふれたが、武生と言う町の地名もいい。
武生のふは府中のふである。もともとここは奈良朝以来、越前の国府の地であり、
ふるくは国府といった。やがて府中と呼ばれるようになり、戦国のころでも、
ここの城は府中城とよばれていた。しかし、武生という呼ばれ方も、相当
古くからあったらしい。
 
叡山の諸道
京都から山越しに来て浜大津に出ると、建物の間から琵琶湖の沖が見え、過ぎていく
場所によっては汀が見える。
沖や汀と言っても、海のようにぎらぎらした生命力の照り返しはない。静かに
水明かりが待ちに照り映えていて、海際の町には似合わないしだれ柳がよく似合ってい
る。
大津も浜大津も、いまから湖畔の道を北上してそこへ至る坂本も、みな上代の制で
いう近江国滋賀郡のうちである。
上代、滋賀は4つの郷からなりたっていると言う事を咲きに触れた。
「和名抄」を引いてみると、その巻7にそれが出ている。
・古市(布溜知)
・真野(末乃)
・大友(於保止毛)
・錦部(爾之古利)
「和名抄」は言うまでもなく10世紀はじめの成立だが、8世紀に生まれた最澄の少年
時代
も、右の地名のままであろう。古市がいまの大津市膳所のあたりであったろうことは、
ほぼ間違いない。
錦部は、中世以後は錦織と書き、いまは錦織(にしこおり)である。廻りに新建材の
建物が多く、西方に叡山の峰峰が屏風のように続いていると言うものの、里に
残っている自然は近江神宮の杜ぐらいしかない。
中世初期の錦部郷は、東は湖岸に沿い、西は叡山に沿って、南から北へ、細長い地形
だったろう。現在の滋賀里あたりが北限である。あとは大友郷になる。
道は北へ行く。
叡山は、絶えず左(西)にある。
地質学では叡山のような山並を地塁と呼ぶようだが、なるほど南から北へながながと
土塁のように続いている。
この地塁は京都市からながめると実に険しく、樹木もすくないため、裏と言う印象が
深い。近江側はなだらかで、別の山かと思えるほどに樹木も豊かである。
山裾もながく、ゆるやかに湖に向かって、長いビロードのスカートのように曳いている

山中に泉が多く、小さな川が縦間をくぐって幾筋もながれ、優しさと豊かさという
母性の神秘を感じさせる。
上代、土地の人々は、この山を、
「ひえ」とよんでいた。
ひえという地名が、どういう普通名詞からきたのか、よくわからない。
最澄の誕生よりもずっと早くに、この山を祀る祠や寺が、現在、坂本の
日吉大社の地にしずまっていた。
この山の神は、大山咋神という。既に、古事記が712年の成立だから、この山の神
の鎮座はすくなくともそれ以前のことである。
もっとも、神社の諸紀ではさらにふるいが、はぶく。
ただ、「扶桑明月集」に天智天皇7年に祭神がもう1神ふえたとあることは、まず
信じていい。大和の三輪山の祭神大己貴神(おおなむちのかみ)が天皇の意志で
勧請され、ひえの神は二柱となった。、、、
その地が、上代の大友郷であり、そのうちの小地域の名称である坂本であることは
言うまでもない。もっとも、最澄の生まれた坂本という土地の名は、叡山が栄えて
から出来た地名である。ときに阪本とも書かれる。中世以後、坂本には叡山の僧侶
が多数住み、仏師その他も住んで1つの宗教都市を成していたことは、後にふれる。
以上、叡山と言う山の事を述べてきたつもりである。「ひえ」は平安期に入って、
「比叡」の2字が当てられるようになり、その字音に引きずれれて「ひえい」
とよばれるようになった。
穴太に入った。
古代、信じるかどうかは別にして「志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや)」が
おかれた地という。

日本人とは何か
P96
蓮如上人は浄土教の教えをベースに親鸞の教えを加えて行ったのが真宗教団である。
真宗教団が他の宗旨とはちがうのが、一般民衆の暮らし方まで入っていったこと。
例えば、合掌つくりで今は有名な五箇山(ごかやま)の道宗という人が京都の
蓮如のところまでその説法を聴きに行き、南無阿弥陀仏と唱えれば極楽にいけると
聞いてきたり、生活の作法まで暮らしの様々な事を教えてもらってきた。
真宗のよさは、その生活としての宗教である点であり、親鸞の「歎異抄」のような
優れた形而上学をベースとしている事にある。

P131
昔仏教を受け入れたとき、まず人間の形をした彫刻に芸術的なショックを受けた。
さらに、伽藍を造ったのは、仏教のための寺院ではなく、中国が役所の建物に
仏様を入れたにあわして、日本も中国風の役所を造り、その中に仏像を入れた。
もともと「寺」と言う漢字は仏教寺院の意味ではなく、役所の意味から始まっている。

P142
無常の遊子 
無常は仏教の思想用語としては、
「万物が生滅変転して常住ではないと」と考えた。
日本人は無常と言う哲学的なテーマを芸術として消費する。その例が
万葉集などの歌に詠まれている。また、「方丈記」は随筆文だが、哲学論文ではない。

P159
西洋人の小説は、相手の人間をつかみ出して描写する場合、相手の背中まで書く。
背中の格好を描写するのではなく、ラードの匂いがした、ケンブリッジの煉瓦色
の襟巻きで駝鳥のように長い首を保護している、安いラム酒が皮膚に沁み込んでいる、
眼の乾いたような中年の婦人がダイヤの指輪を6分もかけて、大型昆虫の幼虫のような
中指からゆっくりとはずす、など書き手の眼球の中に相手の皮膚や脂肪のぬめり
までとらえて書いてしまう。
人が初めての人に会う場合、小説に表す情景は、互いに生物として見、次に人間と
して見る。基本的には、動物が同居の動物に対して警戒し、そのために観察する。
日本人は眼に訴え、耳で聞くが、手を握るなど、触覚を介する事が少ないが、小説
を書く場合は、ぬっめとしたものが必要である。これがないと小説で言いたい事が
充分に伝わらない。

P197
徒然草から見る芸への見方の変遷。平安朝から室町時代にかけて、
個人の技芸が尊重された時代と芸に秀でた人が軽く見られた時代がある。
さらに、鎌倉時代には、「数奇」という一人1人がが趣向を発揮すること
への観念が強まる。
例えば、一般庶民を大規模にただで使った権力者は日本にはいなかった。
秀吉の大阪城築城でも、賃金としてお米を渡したように、個人性を意識した
観念はかなり古くから日本にあったのでは、という。
さらに、芸の延長にある近代化、工業化が日本では上手くなしえたのは、
この芸を重んじる風土があったと言う。
しかし、社会体制が安定してくると、芸のあるものは、組織から疎んじられる
様になる。多くの会社では本当に能力のある人は排除され、中途半端な能力の
人間しか残らない。同様に社会全体が守勢の時代は、リーダーシップを落とし、
先ずは上からぼんくらになっていく。ぼんくらでないと上にいけないという
制度を作ってしまう。その下の人間もぼんくらの競争となる。
日本では、中間管理職が一番よく分かっているが、欧米では、トップの能力が
凄く高い。あらゆる情報とそれを活かす能力をもっている。

P230
蓮如は講を作った。いままで自分の身の上などを心配してもらえなかった連中が
身の上話ができるという嬉しさが隣村の人間と交流が出来ることも含め、
横の連携を深めた。その典型例が一向宗の権力に対する抵抗である。
しかし、真宗では、坊主が貴族化していく。説教の時の化粧や「おでいさま、
おもうさま、おひいさま」などの公家言葉が使われた。

P234
都会が持つべき特性は、その多様性である。色々な要素が雑多に入ってきて、
エネルギーが蓄積され、好奇心が旺盛なところである。さらに、都会は
一種の聖域としてのハレの場所としての機能をもつべきであり、田舎は
時々出かけていくケの場所としての機能をもち、そのバランスが全体の文化
発展を支える。これからの日本も、多極化が必要と言われるが、人口が100万人
に近い規模の地方都市を全国的に活用して多極集中を進めるのが望ましい。
これは文化を育てると言う経済面からも重要な点である。その都市が持つ
いい伝統を上手く活かし、東京とは一味違う多様性のある文化や生活環境
を整えていく事が日本全体の文化や生活をアップする事になる。

P256
日本では、絶対的な権力、権威を1つのものに与える事を嫌う。基本は、
相対的な世界なのである。二つのもの、人、方法などを絶えず考えておく事により、
その安定的な進め方を好む。

P291
日本の近代化にとって不可欠なものは何か?
伊藤博文はヨーロッパの近代国家からそれを支えているのは、キリスト教と
考えた。キリスト教が最重要な精神の基軸と想った。
しかし、日本における仏教、神道はその力を持っているとは考えなかった。
そこで、「万世一系の天皇之を統治す」と明治憲法の中で明確に提示した。
日本人の持つ無神論的な神仏信仰では、キリスト教の持つ圧倒的な影響力
と同等の役割は果たせないという想いの現われである。
さらに、「万世一系の天皇之を統治す」だけではその国家基盤が弱いので、
伝統的な神道を祭事的な形として、天皇を主とする一神教(天照大神=天皇)
を国家基盤のシステムとして創りあげた。

P319
天然の無常
所行すなわち世間一切のもの、そして万象のことごとくは、生じたり滅したり
してとどまることなく移り変わって、常住、つまり一定のままではない。
これは人の中だけではなく、自然すべてに言えることである。
平家物語、方丈記、更に蓮如の「白骨の御文章(ごぶんしょう)」の
「朝ニハ紅顔アリテ、夕ニハ白骨トナレル身ナリ」に見られる無常感覚。
P321
吉田松陰の留魂録の一節
今日死を決するの安心は四時の順環において得る所あり。けだし彼の禾稼(かか)
を見るに、春種し、夏苗し、秋刈り、冬蔵す。秋冬に至れば人皆其の歳功の成る
を悦び、酒を造り禮を為り、村の声あり。未だ曾て西成に臨んで歳功を終わる
を哀しむものを聞かず。吾れ行年三十、一事成ることなくして死して禾稼の未だ
秀でず実らざるに似たれば惜しむべきに似たり、しかれども義卿の身をもって言えば
これまた秀実の時なり、何ぞ必ずしも哀しまん。何となれば人寿は定まりなし、禾稼
の必ず四時を経る如きに非ず。十歳にして死するものは十歳中自ずから四時あり。
二十は自ら二十の四時あり。三十は自ら三十の四時あり。五十、百は自ら五十、百
の四時あり。十歳を以って短しとするはけいこして霊椿たらしめんと欲するなり。
百歳を以って長しとするは霊椿をしてけいこたらしめんと欲するなり。斉しく
命に達せずとす。

いくら歳をとって死んでも、それは春夏秋冬があるように、若くして四時の順環、
人生の節目がきちんとある。

P342
清沢満之、哲学者と宗教学者として明治に足跡を残したが、その知名度は低い。
また、「歎異抄」を広く哲学的な視点を加え、世に紹介した。
今親鸞とも呼ばれている。それは、彼が日本の土着思想でもっとも純化の度合いの
高い親鸞思想にドイツ哲学を加味し、まったく知的な思想、教学を作り上げたから。

P362
日本は明治憲法から3権分立を明確にしていたが、いつもまにか超法規的な
統帥権なるものが出てきた。これを生み出したのは、当時の政治家や国民の
未成熟な点が多いが、軍部では、これを使い超法規的に日本国を統治できる、
と言う考えを持っていた。これにより、それまでの憲法解釈による天皇機関説は
無効とした。

P381
明治時代は人の行動、企業の行動もダイナミックであった。毎日新聞が日銀総裁
になりそうな人をわが社で日本経済を主導していくために雇おうとした。
社会全体がより大きな行動を取りたいという空気があった。今の日本では、一人の
天才は自分たちに害するとの意識で、秀才の互助組織的な動きをする。日本人全体の
器量が小さくなっている。

P425
空海の三教指帰
自始至今(初めより今に至るまで)
曾無端首(曾かって端首無し)
従今至始(今より始めに至るまで)
安有定数(安いずくむぞ定まれる数有らむ)
如環擾擾於四生(環たまきの如くして四生に擾擾じょうじょうたり)

今現在から大昔、原初に至っても、何年前だと数量的に把握できるものではない。
それは無限。その無限なものが環のようにぐるぐる回っている。
輪廻の説明がある。

P438
道元だけが道元の思想に忠実で、その後の曹洞宗は民間信仰になっていく。
臨済宗は公家や大名に取り入っていたので、領地などの保護を受けていたが、
曹洞宗は農民層にしか入っていけなかった。農村には、古代的な性格が残っており、
病気の治療、御札渡し、お盆の対応などを全て実施した。そのため、曹洞宗は
今日14000寺もある。本願寺が西、東いずれも10000寺前後であるから
かなり大きい。その元は江戸時代の農民層である。

松陰は常に「狂」ということを言ってきた。その「狂」はわが思想を現実化する
するときには、「狂」にならざるを得ないという意味であり、精神病理的な言葉ではな
い。そのような「狂」は、歴史や社会が古びてどうしようもないときに発すべき言葉で
あり、日本では明治維新しかなかった。さらに、そのような革命が行われるにしても、
3つの人物がきちんと対応しないと上手くはいかない。
最初は思想家であり、次はその思想に殉じて行く人、最後は革命を実際の社会的な
基盤とするための現実的な処理能力を持った人が必要となる。
さらには、この「狂」を活かしていく社会的な行動がある。集団狂気の場の形成です。
これがあって、社会的な大きな動きとなる。これは蓮如の北陸での活動にも言える
のであり、一向一揆は社会的な底辺の人々のエネルギーを吸収したからあれほどの力を
持った。集団的な場の形成が「浄土来迎」という形で、皆に「狂」の行動をとらした
のかもしれない。人間の本質的な部分をとらえると素晴らしい力となる。
しかし、それが現状とは大きくずれても集団の場では、より過激な意見を主張する
のが、勝つという空気が出てくる。
陸軍が中心に、世界大戦に突入していったことはこれになるでは、また、戦後左翼の
運動の中でも単なる「狂」の動きがあったが、それだけでは何もできない。
現状の把握が必要なのである。しかし、思想的な発狂や集団発狂の横行があるのは
この100年の日本歴史である。
 
第1巻
司馬遼太郎は、街道をゆく、の第一巻を、近江から始めましょう、
と言っている。近江には、かなりの思い入れがあるのだろう。

その一文から少し、志賀を感じてもらおう。
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近つ淡海という言葉を縮めて、この滋賀県は、近江の国と言われる
ようになった。国の真中は、満々たる琵琶湖の水である。
もっとも、遠江はいまの静岡県ではなく、もっと大和に近い、
つまり琵琶湖の北の余呉湖やら賤ヶ岳あたりをさした時代もあるらしい。
大和人の活動の範囲がそれほど狭かった頃のことで、私は不幸にして
自動車の走る時代に生まれた。が、気分だけは、ことさらにその頃の
大和人の距離感覚を心象の中に押し込んで、湖西の道を歩いてみたい。
、、、、、
我々は叡山の山すそがゆるやかに湖水に落ちているあたりを走っていた。
叡山という一大宗教都市の首都とも言うべき坂本のそばを通り、湖西の
道を北上する。湖の水映えが山すその緑にきらきらと藍色の釉薬をかけた
ようで、いかにも豊かであり、古代人が大集落を作る典型的な適地という
感じがする。古くは、この湖南地域を、楽浪(さざなみ)の志賀、と言った。
いまでは、滋賀郡という。
、、、、、
この湖岸の古称、志賀、に、、、、
車は、湖岸に沿って走っている。右手に湖水を見ながら堅田を過ぎ、
真野を過ぎ、さらに北へ駆けると左手ににわかに比良山系が押し
かぶさってきて、車が湖に押しやられそうなあやうさを覚える。
大津を北に走ってわずか20キロというのに、すでに粉雪が舞い、
気象の上では北国の圏内に入る。
小松、北小松、と言う古い漁港がある。、、、、、
北小松の家々の軒は低く、紅殻格子が古び、厠の扉まで紅殻が塗られて、
その赤は、須田国太郎の色調のようであった。
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また、白洲正子も、近江については、「かくれ里」など、数冊の本を
書いている。その中でも、「近江山河抄」では、この志賀周辺を
「比良の暮雪」の章で、更に、詳細に書き綴っている。

同様に、その一文から、もう少しこの周辺を感じてもらおう。
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今もそういう印象に変わりはなく、堅田のあたりで比叡山が終わり、
その裾野に重なるようにして、比良山が姿を現すと、景色は一変する。
比叡山を陽の山とすれば、これは、陰の山と呼ぶべきであろう。
ヒラは古く牧、平とも書き、頂上が平らなところから出た名称
と聞くが、それだけではなかったように思う。、、、、、、
が、古墳が多いと言うことは、一方から言えば早くから文化が開けた
ことを示しており、所々に弥生遺跡も発見されている。、、、、、、
小野神社は二つあって、一つは道風、一つは?を祀っている。
国道沿いの道風神社を手前に左に入ると、そのとっつきの山懐の
岡の上に、大きな古墳群が見出される。妹子の墓と呼ばれる唐白山
古墳は、この岡の尾根続きにあり、老松の根元に石室が露出し、
大きな石がるいるいと重なっているのは、みるからに凄まじい
風景である。が、そこからの眺めはすばらしく、真野の入り江
を眼下にのぞみ、その向こうには三上山から湖東の連山、湖水に
浮かぶ沖つ島山も見え、目近に比叡山がそびえる景色は、思わず
嘆声を発してしまう。

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