2016年4月23日土曜日

鉄の歴史メモ3

1.製鉄の起源を探る意味:製鉄の起源と日本文明の起源

日本の古代文明の有り様は、謎のままで明らかになっていない。その国の歴史が未だかつて明らかになっていないのは、世界中でも日本だけの特殊な事態である。
 民族の歴史が不明であるという事は、その民族の本当の意味でのアイデンティティが未確立であることを意味している。そのため、その民族は国際社会では確固とした行動をとれないばかりか、国内的には不測の事態に対応できない構造を形作る。
 一般に人類の歴史の発展過程は、多くの場合サイエンスとテクノロジーの発展過程と対応している。私は、「火を使って自然物を加工する」科学技術の獲得をもって、文明の端緒と考えている。
 日本の古代文明は、この火を使って自然物を加工する科学技術を、人類社会で最初に手に入れた文明である。1万6千年前から弥生時代まで、約1万4千年間も作り続けられた縄文式土器がそうである。
 また、日本古代文明の特殊性は、青銅器と鉄器が弥生時代から並立して存在していることである。人類史の中では、鉄器時代は青銅器時代の後にやってくる。なぜなら、これはサイエンスとテクノロジーの発展過程の問題であり、科学技術的には青銅器の後にしか鉄器は存在できなかったからである。
 したがって、日本古代文明の様相を探り、その謎を解き明かすには、本来文明の発展過程に対応しているサイエンスとテクノロジーの傾向を分析する必要に迫られる。
結局、製鉄の起源を探る意味は、製鉄の起源から日本古代文明の起源を解き明かす役割と可能性をいうのである。

2.人類の製鉄の起源の概略:中国の鉄の起源と発展過程

人類社会で製鉄技術を最も早く獲得し見事に実用化したのは、中国の古代文明だと考えられており、現在これが定説となっている。この節では、まず中国の鉄の起源とその発展過程を整理することにより、人類の製鉄の起源の概略を示したい。 
 中国の研究者によると、中国では紀元前14世紀の隕鉄が見つかっており、これはヒッタイトの紀元前12世紀を上回るという。製鉄技術の古さを言わんとしているが、恒常的な製鉄は、紀元前7世紀頃から始まったと考えられている。
古代中国の製鉄は「個体直接還元法」=「塊煉法」が使われた「低温製鉄法」である。この原理は・・・富鉄鋼(赤鉄鋼もしくは磁鉄鉱)と木炭を原料として、椀型の炉に入れて通風し、1000度近くまで熱して、鉄を固体の状態で還元する技術で、職人は、炉の中から、半熔解状態の海綿状の塊をとりだして鍛造し、性質を改善し器に鍛え上げていた。・・・と分析されている。この製法は、中国を除くと14世紀後半まで、世界中で続けられていた普遍的な製鉄技術である。
その後、中国では紀元前5世紀に、銑鉄と可鍛鋳鉄の発明があり、中国が世界で初めて銑鉄を作る技術を獲得した。この作り方は、高い炉を造り、送風の強化によって炉内温度を上げ(1146度C~1380度Cが予測される)原料の鉱石を溶かしたと考えられている。
 紀元前3世紀に個体脱炭鉄(脱炭法の開発)=白銑鉄を酸化させて脱炭し、その後さらに銑鉄版を脱炭し鉄鋼を作り、次に再加熱鋳造し、各種の器物を製作する技術を開発している。
紀元前2世紀に、炒鋼技術が発明された。これは、融化した銑鉄に送風し、1150度~1200度に熱したままでかき混ぜて酸素を送り込んで炭素を取り除く方法である。
紀元後2世紀には、ドロドロに溶かした液体の銑鉄と錬鉄を混ぜ合わせて侵炭して鋼にする技術を発明した。(炭素濃度をコントロールする技術)
 中国は、永い間これらの製鉄技術の国外流出を防いでいたが、製鉄資源の枯渇とともに東南アジアやシルクロードを逆送し、やがてヨーロッパにも伝わっていった。スウェーデンで発見されたヨーロッパで最も古い製鉄炉は、中国の炉の形をしている。
 この概略をさらに暦年的に整理すると以下のようになる。
 ・紀元前5世紀に、銑鉄と可鍛鋳鉄が発明された。
 ・紀元前3世紀に、固体脱炭鋼が発明された。
 ・紀元前2世紀に、炒鋼技術が発明された。
 ・紀元後2世紀頃、製鋼技術が発明された。
 最後の紀元2世紀後の技術が、現在の溶鉱炉による製鉄技術として、世界中に普遍化している。

3.サイエンスとテクノロジーの発展過程:科学的法則性

ここで重要な問題は、これらのサイエンスとテクノロジーの発展過程が、どのような様相の中で起こったかを分析することである。
これらの科学技術の発展過程、いわゆるなぜ中国で最初に銑鉄技術が出来上がったのかという原因について考えられる要因は、以下の要素と順番に整理できる。

①長期にわたる豊富な製陶技術があったこと。
中国では新石器時代から製陶技術が発祥したと考えられている。煙突と煙道が設けられているものは、最大1280度の高温環境を作れたと考えられている。
②青銅鋳造技術が高度に発達していたこと。
紀元前14世紀頃(商・周)時代には、すでに大型の青銅器が作られている。稀少で高価な銅や錫にかわって、安価な鉄を使う技術的基礎が作られた。
③これらを技術的基礎に白銑鉄の発明と鋳鉄のもろさを改良する焼き鈍しの技術を生み出した。銑鉄の広範な使用が始まった結果、白銑鉄、脱炭鋳鉄、可鍛鋳鉄の生産が大量に可能になった。

つまり、鉄器の制作技術の前段には、青銅器の制作技術があり、さらにその前段には陶器の制作技術があったことが分かるのである。これは、サイエンスとテクノロジーの発展過程における科学的法則性に一致する状況で、下位の技術から上位の技術へと、順番に科学が発展していることが系統的に示されている。
前にも述べたが、人類社会全般には、青銅器時代から鉄器時代がやってくるのはこの科学的法則性に基づいている。にもかかわらず、日本の場合だけ弥生時代から青銅器と鉄器が並立していることは、人類社会全般のサイエンスとテクノロジーの発展過程における科学的法則性に反する事態が起こった可能性を示唆している。

4.日本の製鉄起源をどう求めるのか:古代文明の様相を探る

それでは、日本の場合、製鉄起源をどう求めればよいのか。あるいは、製鉄技術の面から、日本の古代文明の発祥の様相をどう分析すればよいのかの問題提起を行いたい。
 現在、蓋然性が伴うと考えられる要素を以下に示した。しかし、これは全く順不同であり、優先順位をつけたものではない。

○弥生時代から製鉄が始まった(青銅器の技術とともに輸入された)
 前項で整理したように、日本の鉄器は弥生時代から確認されている。しかし青銅器と鉄器が並立していることにより、一般的な科学的法則性に反する事態となっている。したがって、もともと製鉄技術を持っていなかった日本古代文明に、中国の2つの技術(鉄器と青銅器)が伝わり、日本でも製鉄が広まった。この時、同時に2つの技術が伝わったので、日本の場合は段階的な発展過程を経ず、青銅器と鉄器が並立することになった。

○世界中の文明と同様に、日本にも古代鉄の製法があった
 古代中国の製鉄は「個体直接還元法」=「塊煉法」が使われた「低温製鉄法」である。この技術は、赤鉄鋼もしくは磁鉄鉱と木炭を原料として、椀型の炉で通風し、1000度近くまで熱して、鉄を固体の状態で還元する技術なので、日本の古代文明でも十分に可能である。世界中では、14世紀後半まで続けられていた普遍的な製鉄技術であるから、日本にもこの「低温製鉄法」が存在し製鉄を行っていた。

○縄文式土器の製造技術の上に、世界最古の製鉄技術が存在していた
 日本文明が世界最古で人類初である可能性は、縄文式土器の制作による。この土器は1万6千年前から作られていたので、中国の製陶技術より桁違いに古い時代から、日本には「製陶技術」が存在していた事になる。中国での製鉄技術の段階的な発展過程から考えれば、それより古い時代から「火を使って自然物を加工する」科学技術を持っていた日本古代文明の方が、中国より早く製鉄技術を獲得していたのではないか。

これ以外にも、製鉄の起源を巡る仮説はたてられるかも知れない。だが、いくつかの論点は整理することが出来る。

①まず、いずれの場合も、原材料(鉄資源と燃料・木炭等)無しには、語れないであろう。どの製鉄方法(仮説)をとるにしても、大量の原材料が必要になる。万物の全ての事象には、必ず原因があって結果が存在する以上、鉄器の制作には、莫大な原材料の議論が前提になると考える。

②現実的には考古学的発掘成果から「鉄器」や「制作跡」が出土することが望ましい。しかし、数千年や数万年単位の古代遺跡からの鉄資源の報告は確認出来ていない。また出たとしても、現在大陸や半島から持ち込んだとの理解(定説)があるため、検証の対象から外されている可能性がある。

③神話や伝承や地域に残されている言い伝えを検証の対象とすること。これまで、この分野はほとんど研究されてこなかったといっても過言ではない。特に戦後は架空の話しとしてすっかり捨て去られてきた。しかし、日本人はもともと文字を持たずに古くから口伝えによって物事を伝えてきたので、神話や伝承にこそ史実が含まれている可能性がある。最善の資料は「金屋子神話」である。したがい、この分野からのアプローチは欠かせないであろう。

以上、古代製鉄の起源を探るための概略をまとめた。製鉄の起源を探る意味は、製鉄の起源から、結局は、日本古代文明の起源を解き明かすことが出来ないであろうかという命題である。
サイエンスとテクノロジーの発展過程は、ほぼ絶対に文明の発展過程と何らかの形でリンクしている。しかし、日本の古記録である古事記や日本書紀及び風土記には、このサイエンスとテクノロジーの記録だけが書かれていないという、極めて不思議な出来事がある。
この問題も含めて、製鉄の起源と日本古代文明の起源を解き明かすことができれば、日本国家最大の課題であり、民族的問題の解決に道がつくであろう。
島根県立大学北東アジア地域研究センター市民研究員
山陰古代史研究会設立準備委員会代表
古代史研究家         田中 文也

鉄の歴史メモ2

日本の金属の歴史

メソポタミア地方で発
見された、これらの金属材料 と加工技術は、ヨーロッパ、アジアなどに広がり、日本へは紀元前200年頃(弥生時代初期)中国、朝鮮を経由して入ってきました。


弥生時代

日本に金属製品生産技術が定着していく過程について、次のように推察されています。 
①金属製品の使用段階・・外国より製品輸入 
②金属製品の制作段階・・金属原料を輸入し加工 

③金属原料の生産段階・・たたら等による精錬 
このように、最初は鉄製の鍛造品や青銅器製品として入ってきましたが、やがて朝鮮半島から技術者集団が移住して鋳造品や鍛造品を生産したと推測されています。 
日本の鋳物作りの最初は中国大陸から渡来した銅製品の模倣から始まり、その後銅鐸や腕輪、飾りの鋲など日本独特の製品が作られました。 
銅製品については、主に装飾品や祭器などに使われ、実用品としては鉄で作るなどの使い分けも行われたようです。 
流し込む鋳型として、最初は削りやすい砂岩などに製品の型を彫り、その窪みに流し込む開放型から始まり、次に2枚の型を合わせ、その隙間に流し込む合わせ型にするなど、石型から始まっています。 
やがて、中国渡来の鏡の模様を真似ようと、平らにした粘土に鏡を押しつけて型をとり、これに溶湯を流し込むなど、石型より形が作りやすい土型に発展しています。 
更に、現代のロストワックス法と同様に蝋で製品の形を作り、これを粘土質の土で塗り固め、焼いて蝋を流しだし、出来た隙間に溶湯を流し込むなど複雑な形状の製品も出来るようになります。 
近年よく話題になります銅鐸についても、このような石型から始まり、土型に代わっています。 
この銅鐸はこの時代を代表した優れた鋳造品といえますが、何に使用されたのか判っていません。 
多分、祭祀などに使われたと考えられますが、次の古墳時代になると、生産が途絶えています。

初期の石の鋳型合わせ型土型
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古墳時代 

古墳時代(西暦300~600年)の遺跡から鉄製 の刀や斧などが出土していますが、その中の斧の分析結果から炭素や珪素を含んだ鋳鉄製であることが判明し、日本で作られた最も初期の鉄鋳物であると推定されています。又、この時代は大陸から原料の地金を輸入し、溶解鋳造していたようです。 
鉱石からの精錬については、福岡の太宰府で1600年前の製鉄炉跡が発掘されています。これは山の斜面に穴を掘り、底に木炭の粉と石英を練り合わせたものを詰め、その上に木炭と砂鉄を積み重ね、土を被せて点火し、自然通風で精錬したものと推定されています。この炉は弥生後期から古墳時代の製鉄跡と考えられています。 又、この時代は大和朝廷が全国の権力基盤を強化し た時期であり、日本の鉄の歴史に重要な時期であったと考えられています。 
それは全国各地に同じような古墳が数多く建設されたこと、又、同じような古墳が出土していること、更に、鉄製武器などの副葬品が増加していることから伺えます。 応神陵古墳や、仁徳陵古墳のように巨大な古墳などの土木工事ができた最大の背景は「鉄」であったと考えられています。 
尚、このような鉄資材は朝鮮から輸入されたとする意見と、吉備、出雲から運ばれたという意見に別れているようです。 古墳後期になると、日本書紀や古今和歌集などの記事から、鉄生産時の送風技術が、これまでの自然通風から人工的な送風に進歩しています。

1600年前の福岡太宰府製鉄炉跡古墳と出土した鉄器
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奈良、平安時代 

平安時代における鋳物生産の中心は河内の丹南で、その後、全国各地に広がっていったようです。   銅鋳物について、この時代は宗教に関連した鋳物である鐘楼、灯籠、奈良の大仏など大型の鋳物が数多く作られています。 
しかし、鉱石からの鉄の精錬については、ハッキリとはしておりません。製鉄跡としては岡山県の福本たたら、石生天皇たたら、更に群馬県の沢製鉄遺跡などがあり、自然通風や吹子を使う型などいろいろあったようです。この「たたら」と言う方は江戸時代になってからですが、「たたら製鉄」とは砂鉄と木炭を原料として鉄を作る技術であり、この時代がたたらの誕生期であったろうと考えられています。 
鉄鋳物については、鍋、釜などの日用品、更に、鋤、鍬などの農耕具などが作られるようになりました。
日本各地への鋳物業伝播
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鎌倉~安土桃山時代

群馬県では平安~鎌倉初期の金井製鉄遺跡が発掘されており、山の斜面を利用した大規模なものです。発掘品の分析結果から炭素や珪素を含んだ銑鉄状のものが生産されていたことが判り、かなり高温の精錬が行われるようになったと推定されます。
これまでの製鉄炉は地面を掘りかためた平炉でしたが、鎌倉中期になると出雲国飯石郡菅谷鉱山において、初めて粘土を積み上げた製鉄炉が築造され、これが室町時代に中国地方一帯に普及しました。 
このような製鉄技術の進歩によって、鉄鋳物製品はそれまで僧侶や富豪などしか所持できなかったものが、鎌倉期に入ると庶民まで所持できるようになりました。 
室町時代には芸術品としても価値のある茶の湯の釜が作られ、数々の名品が後世に残されています。 
銅鋳物についてみますと、鎌倉の大仏さまがあります。500年前の奈良の大仏さまの制作に比べ数々の技術的な進歩がみられます。 先ず第1に奈良大仏は中国大陸の技術を取り入れて作られましたが、鎌倉大仏は我が国の鋳造技術を結集して作られたこと、 
第2に模型として石と土で台座を築き、その上に木の柱を何本も立てて縄を巻き付け土を塗り土像を作りましたが、鎌倉大仏は木造の大仏を作り(現代の木型)、それを木型として鋳造しています。 
第3にどちらも8回に分けて鋳造していますが、その接続方法に鎌倉大仏では「いがらくり法」という、鉤状の頑丈な方法を用いています。

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江戸時代

鉄鋳物の生産については、原料の鉄を生産する たたら吹き製鉄技術の進歩が欠かすことが出来ません。 
江戸時代はこのたたら製鉄の完成期といわれています。たたら製鉄の発展は如何に高温を得るかの技術にかかっており、そのためには送風技術の発達が重要となります。江戸時代中期に「天秤ふいご」が出現したことがその転機となっています。 
当時の鉄産地としては但馬、因幡、出雲、備中、備後、日向及び仙台などがあげられています。 
又、鋳造業の栄えた地域としては、

盛岡、水沢、仙台、山形、新潟、佐野、高崎、川口、 甲府、上田、松本、高岡、金沢、福井、小浜、岐阜、 豊川、岡崎、西尾、碧南、名古屋、桑名、彦根、 京都、三原、広島、高松、高知、柳井、佐賀、
などが上げられます。 
幕末になると黒船到来など諸外国などの脅威を受け、国防のため大砲の鋳造や軍艦の建造などが必要となります。 
大砲の鋳造ではこれまでの溶解炉「こしき炉」では能力不足であり、大型の反射炉が各藩で争って築造されました。 
最初に作ったのは佐賀藩で、続いて薩摩、水戸、江戸などで築造されました。 
又、原料の鉄についても「たたら炉」では能力不足となり、釜石に洋式高炉が10基ほど建設され、銑鉄の供給は急速に増大しました。 
軍艦の建造には機械部品としての鋳物の製造技術が外国から導入されることになり、コークスを原料とする洋式のキュポラが持ち込まれ、蒸気動力による送風機を使った近代的な鋳物工場が誕生することになります。

たたらの構造こしき炉

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「参考文献」
鋳物五千年の歴史(日本鋳物工業新聞社)/たたら(玉川大学出版部)/鉄のメルヘン(アグネ)
鋳物の技術史(社団法人 日本鋳造工学会)/ 鋳物の実際知識 (綜合鋳物センター)


鉄を制する者が天下を制する。」
歴史の鉄則としてよく言われる事ですが、古代日本の権力闘争の歴史を読み解く上でも鉄の流れを押さえておく事は重要です。今回は中国大陸―朝鮮半島―日本列島における鉄の流れを押さえておきたいと思います。
まずは最初に弥生時代~古墳時代の列島の鉄の分布を見ておきます。
 グラフで概観を捉えてみてください。
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下記グラフを見ても弥生時代から古墳前期に北九州が列島において圧倒的に鉄の先進地域だったことがわかります。
画像の確認
 この鉄がどのように半島で広まり、列島に入ってきたか?
るいネットに鉄関係の投稿をしてきましたのでダイジェストで紹介していきます。
FarEast_3c01.jpg
 まずは中国での製鉄の歴史を押さえておきます。
 中国の鉄の歴史は東から伝わった製鉄の技術にそれまでの製銅の歴史を応用して紀元前10世紀に始まる。紀元前4世紀から6世紀の春秋戦国時代に鉄は各地に広がり、武器や農工具として需要が広まっていく。紀元前2世紀の秦王朝は鉄官という役職を定め、前漢の時代には全国49ヶ所に配置した。1世紀、後漢の時代には既に大量生産を始めており、漢は当時、最も進んだ製鉄大国になっていた。
東アジアの鉄の歴史①~中国の製鉄の起源は紀元前9世紀
東アジアの鉄の歴史②~中国の製鉄の歴史(紀元前1世紀には製法が完成)
 次に朝鮮半島です。
製鉄起源は明確ではない。無文土器時代の中期(前4世紀~)、中国戦国文化と接触し、鋳造鉄器が出現する。その後、鋳造鉄器の製作が始まった。前漢(B.C202年~)の武帝は朝鮮北部に進攻し、楽浪郡など漢四郡を設置した(B.C108年)。
これが契機となって鉄資源の開発が促され、鉄生産が一層進展したと見なされている。
これ等は中国植民地政権の影響が及ぶ朝鮮北部に限定され、且つこの時期から、鉄製品に鍛造品が出現する。
半島北部の資源分布の特性で、鉄鉱石を原料とする間接製鉄法が主であったとされる。半島の高品位な鉄鉱石は黄海道西部から平安道の西北に集中し、東南部と南西部に高品質な砂鉄が分布していた。

朝鮮半島の製鉄の歴史は中国への供給を目的に、紀元前1世紀頃からおそらくは中国の鉄技術が人と共に大量に注入された事と思われる。中心は辰韓(後の新羅)弁韓(伽耶連合)にあり、戦乱に明け暮れた1世紀から3世紀の半島は鉄を巡る争いに終始していたとも言える。
それまで何もなかった南部朝鮮の国力はわずか500年の間に大国中国や高句麗と対抗できるまでに高揚し、ついに8世紀には新羅が半島を統一する。この朝鮮半島の情勢に中国の鉄が絡んでいた事はほぼ間違いなく、最終的に新羅が唐の力を得て半島を統一したのも鉄資源と生産を担う新羅や伽耶の中心地を押さえていたからである。

東アジアの鉄の歴史③~朝鮮半島への鉄の伝播
★朝鮮半島で最も鉄で栄えたのが伽耶をはじめとする金官伽耶である。
鉄器文化を基盤に、3世紀後半から3世紀末頃までに建国された金官加耶をはじめとする加羅諸国は、4世紀にはその最盛期を迎えたと思われる。たとえば、金海大成洞遺跡からは4世紀のものとされる多量の騎乗用の甲冑や馬具が見つかっている。
金官加耶がすでに4世紀には強力な騎馬軍団をもっており、政治的・軍事的色彩の濃い政治組織や社会組織を備えた国家だったことを伺わせる。
金官伽耶は倭国との関係も強く、九州王朝(磐井)を後背部隊として従え、新羅へ深く攻め入る。この時代(3世紀~4世紀)の伽耶地方と九州は伽耶の鉄を介してひとつの国の単位になっていた可能性が高い

伽耶諸国の歴史(2)~鉄と共に栄えた金官伽耶
★大伽耶が押さえた5世紀~6世紀の半島の鉄
金官伽耶の衰退と同時に連合を組んで伽耶地方を押さえたのが大伽耶連合である。
加耶諸国の中心勢力の交替は、倭と加耶との交流にも大きな変化をもたらした。五世紀後半以降、加耶諸国との関係では、金官加耶の比重が大きく低下し、新たに大加耶との交流が始まった。須恵器(陶質土器)、馬具、甲冑などの渡来系文物の系譜は、五世紀前半までは、金海・釜山地域を中心とした加耶南部地域に求められる。この時期、加耶諸国の新しい文物と知識を持って、日本列島に渡来してくる人々が多かった。出身地を安羅とする漢氏(あやうじ)や金海加耶を出身とする秦氏(はたうじ)などは、ヤマト朝廷と関係を持ったため、その代表的な渡来氏族とされている。大伽耶連合も562年には新羅に併合され、ここで伽耶の鉄の歴史は終止符を迎える。
伽耶諸国の歴史(3)~半島内での進軍と衰退
 最後に日本の鉄の状況を押さえておきます。
日本の鉄の歴史は5世紀半から6世紀を境に大きな変化を迎える
それまでの鉄は専ら、半島から鉄素材を輸入し、渡来人の鍛冶技術を注入して畿内、九州中心に鍛冶工房を営み、国内の鉄を調達していた。弥生時代には鍛冶工房は方々にあったが、まとまった製鉄施設は確認されていない。
>今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れるが(広島県カナクロ谷遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ると、5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当であろう
日立金属HP
6世紀に変化をもたらしたのも渡来人集団であろう。
>古事記によれば応神天皇の御代に百済(くだら)より韓鍛冶(からかぬち)卓素が来朝したとあり、また、敏達天皇12年(583年)、新羅(しらぎ)より優れた鍛冶工を招聘し、刃金の鍛冶技術の伝授を受けたと記されている。その技術内容は不明だが、鉄鉱石を原料とする箱型炉による製鉄法ではなかっただろうか。この中には新しい吹子技術や銑鉄を脱炭し、鍛冶する大鍛冶的技術も含まれていたかもしれない。
日立金属HP
日本の鋼資源の特徴は火山地帯に恵まれる為、砂鉄が世界的にも極めて多い地域である。その活用は古くは縄文時代まで遡ると言われているが、6世紀以降に、出雲、関東、東北の海岸線を中心にこの砂鉄の産地を中心にたたら製鉄の技術が確立されてきた
たたら製鉄の獲得によって自前で鉄製品を生産できるようになった日本が、7世紀を境に律令制を組み込み、国家としての自立を成し、朝鮮半島や中国への依存を少なくしていく。
結果的には鉄の自給がその後の日本の独立性を高める事になり、奈良時代以降の中国、朝鮮半島に対しての対等外交のベースになったのではないかと思われる。

鉄の自給が作り出した国家としての基盤
鉄の自給が作り出した国家としての基盤
 
田野健 HP ( 48 設計業 )09/02/19 AM10 【印刷用へ
日本の鉄の歴史は5世紀半から6世紀を境に大きな変化を迎える。

それまでの鉄は専ら、半島から鉄素材を輸入し、渡来人の鍛冶技術を注入して畿内、九州中心に鍛冶工房を営み、国内の鉄を調達していた。弥生時代には鍛冶工房は方々にあったが、製鉄施設は確認されていない。先日淡路島で発見された大規模な垣内遺跡も鉄の2次加工を行う鍛冶工房である。

>今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れるが(広島県カナクロ谷遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ると、5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当であろう。
リンク~日立金属HP)

6世紀に変化をもたらしたのも渡来人集団であろう。
>古事記によれば応神天皇の御代に百済(くだら)より韓鍛冶(からかぬち)卓素が来朝したとあり、また、敏達天皇12年(583年)、新羅(しらぎ)より優れた鍛冶工を招聘し、刃金の鍛冶技術の伝授を受けたと記されている。その技術内容は不明だが、鉄鉱石を原料とする箱型炉による製鉄法ではなかっただろうか。この中には新しい吹子技術や銑鉄を脱炭し、鍛冶する大鍛冶的技術も含まれていたかもしれない。
リンク~日立金属HP)

日本の鋼資源の特徴は火山地帯に恵まれる為、砂鉄が世界的にも極めて多い地域である。その活用は古くは縄文時代まで遡ると言われているが、6世紀以降に、この砂鉄の産地を中心にたたら製鉄の技術が確立されてきた。出雲、関東、東北の海岸線を中心に砂鉄が多く採取できる。(砂鉄の分布リンク
たたら製鉄は砂鉄を用い、低温で鉄を完全溶融せずに製品に加工する手法で小規模から製鉄を行う事ができる。多くの木炭資源を用い、鉄1トンを製造するのに6倍もの木炭を使用する。豊富な木材資源と再生力がある日本列島だから可能になった手法とも言える。たたら製鉄はその後改良を重ね、室町時代には大量生産に移行し、17世紀の江戸時代には大鍛冶技術として完成する。

謎と言われているのが、たたら製鉄の伝来ルートである。朝鮮半島、中国のいずれの鉄生産地にもない製造法であり、日本独自の製鉄技術ではないかという説もある。日本のたたら製鉄に近似した製法はアフリカのマンダラ地方とインド中央部にしか確認できていない。
鉄技術の多くを朝鮮半島から取り入れながら、たたら製鉄の手法そのものは遠くインドまで戻らなければならないことから謎と言われているが、おそらく中国、朝鮮半島のいずれかの鉄職人が当時の技術(直接製鉄法)を応用して発見したのではないかと思われる。

たたら製鉄の獲得によって自前で鉄製品を生産できるようになった日本が、7世紀を境に律令制を組み込み、国家としての自立を成し、朝鮮半島や中国への依存を少なくしていくことは歴史的にも符合している。或いは、563年にそれまで鉄資源を全面的に依存していた任那が新羅に併合されたことで鉄の調達がいよいよ難しくなった事も外圧として国内の統合を加速したのかもしれない。

しかし、結果的には鉄の自給がその後の日本の独立性を高める事になり、奈良時代以降の中国、朝鮮半島に対しての対等外交のベースになったのではないかと思われる。

※課題:たたら製鉄の初期生産力とはいかなるものか?(依存と自給は併存していたのか?)

製鉄の原料には鉄鉱石と砂鉄がありますが、私はてっきりと砂鉄を原料とする製造方法のほうが古いのだと思い込んでいました。

ところが、≪奈良時代以前の製鉄原料は鉄鉱石が主流≫だったのです。
≪奈良時代以前には鉄鉱石を主として、場所によっては砂鉄を使用する状況でしたが、鎌倉時代以降には砂鉄のみを利用して鉄を作るようになりました。≫
日本では、鉄鉱石はすぐに枯渇してしまったようです。

http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/saguru2-11.html

≪古代吉備を探るⅡ 
連載第11回 限りある資源を大切に
文/岡山県古代吉備文化財センター 上栫 武≫
 ≪奈良時代以前の製鉄原料は鉄鉱石が主流で、その豊富な埋蔵量が「まがね吹く 吉備」たらしめたと言えるでしょう。≫
 ≪奈良時代以前には鉄鉱石を主として、場所によっては砂鉄を使用する状況でしたが、鎌倉時代以降には砂鉄のみを利用して鉄を作るようになりました。つまり、文字史料から変化が読み取れた平安時代は、ちょうど原料が鉄鉱石・砂鉄両用から砂鉄のみに一本化する過渡的段階にあたると判断できます。≫
 ≪砂鉄は花崗岩(かこうがん)の風化残留物で、中国山地を中心とする花崗岩地帯で大量に採取できます。「たたら」が中国山地を中心に発展した背景には、砂鉄の豊富な存在があげられます。対して鉄鉱石は産出場所・量が限られるため、枯渇(こかつ)が生産の枷(かせ)となります。713年、備前北半部の花崗岩地帯が美作として分国されました。分国のせいで備前では鉄鉱石が枯渇した時に、代わりの原料となる砂鉄が十分に調達できなくなったと言えます≫

http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp020103.htm
≪弥生時代の確実な製鉄遺跡が発見されていないので、弥生時代に製鉄はなかったというのが現在の定説です。≫
しかし、≪・・・5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当と思われます。≫
≪弥生時代末期の鉄器の普及と、その供給源の間の不合理な時間的ギャップを説明するため、当時すべての鉄原料は朝鮮半島に依存していたという説が今までは主流でした。≫

≪いずれにしても、我が国における製鉄技術は、6世紀頃に画期を迎えたことは確かでしょう。≫
≪この6世紀の画期は朝鮮半島からの渡来工人の技術によってもたらされたものでしょう≫

引用は不充分でしょうが、確認したいことは次のことです。
① 日本では、製鉄は弥生時代後半から始まっていたようだ。
② 鉄原料は朝鮮半島に依存していたようだ。(ただし、日本にも遺跡はあった)
③ 日本では、製鉄の原料は鉄鉱石から砂鉄に移行した。


日本には鉄鉱石はそれほど埋蔵されていないようです。
たとえば、前回問題にした勿禁(ムルクム)の鉄鉱山は、今では採掘は中止されているようですが、最近まで行なわれていたようです。
最初に検索した時に、渡来人の研究をしている方たちの掲示板
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/keijiban13.htm
の、製鉄集団の渡来’(2006年3/6)を目にして「韓国製鉄・鍛冶遺跡探訪の旅」を知りました。
http://kkuramoto.web.infoseek.co.jp/kankoku.kaji.htm

・佳村里製鉄遺跡・・・慶尚南道 梁山・・6世紀・・製鉄遺跡は共通して山の端で平野が開ける小高い丘に立地している。
・凡魚里製鉄遺跡・・・慶尚南道 梁山
・≪勿禁邑鉄鉱山・・・慶尚南道 梁山
洛東江に面していて鉄鉱石は船で搬送されていた。
最近まで採鉱されていたが今は採算が取れず鉄鉱石は止めている、との事だった。≫

梁山(ヤンサン)の製鉄遺跡は6世紀のものだそうですから、勿禁邑鉄鉱山はずいぶんと長いこと稼動していたことになります。それでは余りに長すぎますから、当時の鉄鉱山は別の場所だったかもしれません。
それにしても、鉄鉱山は梁山(ヤンサン)地区にあったのでしょうから、日本の吉備の埋蔵量と比べると、雲泥の差であったことは想像できます。

鉄は当時大変な貴重品で、戦略物資だったようです。
弥生時代末期以降の鉄器の普及は朝鮮半島の鉄鉱石と技術者のおかげかもしれません。
ということは、古代日本にとって南朝鮮が領土の一部ということは、経済生産活動に構造上必要なことであったといえるでしょう。
失うようなことがあれば、大変な打撃となるわけです。
技術者だけを連れてきても、日本では鉄鉱石の埋蔵量が少ないために、すぐに壁に突き当たるはずです。

 白村江の敗戦により、日本は朝鮮の鉄鉱石を原料に使用できなくなり、(あっという間に、わずかな日本の鉄鉱山は枯渇し、交易で鉄鉱石または製品を輸入することはできたにしても)豊富に存在した砂鉄に製鉄の原料を移行せざるを得なくなったのでしょう。
 技術革新は行なわれたのでしょうが、最初は大変だったでしょう。
石油が入らなくなり、石炭に戻ったようなものだったかもしれません。(わかりませんが、多少はそういう状況に近かったのではないでしょうか)
 古事記の神功皇后のところでは、朝鮮・新羅が宝の国とされていました。
宝とは金とか銀とかの貴金属を指しているのかと考えましたから、ずいぶんと大げさな表現だと感じていました。しかし、鉄が宝だったと思えば納得できるのです。

さて、日本列島を揺るがす製鉄技術の導入は、247年の戦争が契機になったと思われます。(5世紀以前に製鉄は始まっていたはずです。大きな技術革新は5,6世紀だとしても)
当時、北九州は卑弥呼と卑弥弓呼の奴国があり、南朝鮮と緊密な関係で、既に製鉄文明を謳歌していたでしょう。(たぶん)
関門海峡はまるで封鎖されたような状況にあり、(実際に封鎖していたというのではありませんが、思いつきでいいますと、難民の流入があってもおかしくはありません。ちょっかいは熊襲だけではなかったかもしれません)瀬戸内以東と北九州の格差は大きかったと考えています。
この247~250年ごろが、日本列島の寒気の底でした。穀物生産も瀬戸内以東では最悪であったでしょう。
この格差是正がこの247年の戦争だったといえるのです。(今から思えば)

(以前に書いていますが、この戦争は、「記・紀」では『神武東征』として書かれていますが、実際の進路は逆で、スサノヲと兄・五瀬命が明石・須磨から北九州・奴国に攻め込んだものです。スサノヲは正面衝突では敗北しますが、奇襲によって、卑弥呼・卑弥弓呼を破ります。
卑弥呼・卑弥弓呼は亡くなり奴国は乱れますが、卑弥弓呼の娘・トヨが卑弥呼になり収まります。しかし、スサノヲは卑弥呼トヨを孕ませ(妊娠させ)たために、御子を産むために卑弥呼トヨは瀬戸内海を渡りスサノヲの元に行こうとします。・・・と同時に列島は温暖化に向かいます。・・以前に書いています。付け加えると、卑弥呼と同時かどうかはわかりませんが、農耕集団、製鉄集団も加わっていたのではないでしょうか)

 スサノヲは、後に半島に行ったものと思います。(以前は行く必要がないと考えていましたが、その必要はあったでしょう)
 どういう形態になったかは、わかりませんが、南朝鮮を押さえたはずです。そうでないと、鉄が日本に流入しないでしょう。
 鉄鉱山、製鉄所、技術者などを支配しようとしたはずです。
 スサノヲが朝鮮に渡っていたなら制圧していたはずです。(支配形態としてはゆるいものだったかもしれませんが)

 大和朝廷の朝鮮半島・任那に対する執着は、鉄に起因するところが大きいのではないか、というのが今回の仮説です。
 まとめると、概要文のようになります。
「古代日本での、製鉄の原料は、鉄鉱石から砂鉄に移ります。日本には鉄鉱石の埋蔵は少量でしたが、砂鉄は豊富にあったからです。
しかし、日本の鉄器文明の最初の契機は、朝鮮半島の鉄鉱石だったようです。
247年の北九州でのスサノヲと卑弥弓呼の戦争と、663年の白村江の戦いは、鉄に対する希求の表れだったと思えます。」

 

鉄の歴史メモ1

日本における鉄の歴史 ①日立金属のHPより

この頃、「鉄」が気になってしかたがない。
今回は
日立金属のページから
http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp020101.htm
引用ばかりですが、先ずひととおり、お勉強しよう。

稲作と鉄の伝来
●鉄の使用の始まり
現在のところ、我が国で見つかった最も古い鉄器は、縄文時代晩期、つまり紀元前3~4世紀のもので、福岡県糸島郡二丈町の石崎曲り田遺跡の住居址から出土した板状鉄斧(鍛造品)の頭部です。鉄器が稲作農耕の始まった時期から石器と共用されていたことは、稲作と鉄が大陸からほぼ同時に伝来したことを暗示するものではないでしょうか。

石崎曲り田遺跡から出土した板状鉄斧
(出典:「弥生の鉄文化とその世界」北九州市立考古博物館)
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弥生時代前期(紀元前2~3世紀)から次第に水田開発が活発となり、前期後半には平野部は飽和状態に達して高地に集落が形成されるようになります。
さらに土地を巡る闘争が激しくなり、周りに濠を回らした環濠集落が高台に築かれます。京都府の丹後半島にある扇谷遺跡では幅最大6m、深さ4.2m、長さ850mに及ぶ二重V字溝が作られていますが、そこから鉄斧や鍛冶滓が見つかっています。弥生時代前期後半の綾羅木遺跡(下関市)では、板状鉄斧、ノミ、やりがんな、加工前の素材などが発見されています。しかし、この頃はまだ武器、農具とも石器が主体です。
◎水田開発で人口が増え、おまけに海のかなたからやってくる人々で満員になっちゃったんだね。だから新しい土地を求めて日本各地に散らばっていったのか。神武もその中の一派だったんでしょうね。東北あたりは又別のルートで日本列島に来たみたいだけど、、、。
朝鮮半島との交流
弥生時代中期(紀元前1世紀~紀元1世紀)になると青銅器が国産されるようになり、首長の権力も大きくなって北部九州には鏡、剣、玉の3点セットの副葬が盛んになります。朝鮮半島南部との交易も盛んで、大陸からの青銅器や土器のほかに、鉄器の交易が行われたことが釜山近郊の金海貝塚の出土品から伺われます。

弥生時代中期中頃(紀元前後)になると鉄器は急速に普及します。それによって、稲作の生産性が上がり、低湿地の灌漑や排水が行われ、各地に国が芽生えます。
後漢の班固(ad32~92)の撰になる『前漢書』に「それ楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国となる。歳時を以て来り献じ見ゆと云う」との記事がありますが、当時倭人が半島の楽浪郡(前漢の植民地)を通じて中国との交流もやっていたことが分かります。実際、弥生中期の九州北部の墓から楽浪系の遺物(鏡、銭貨、鉄剣、鉄刀、刀子、銅製品など)が多数出土しています。
この中に有樋式鉄戈(てっか)がありますが、調査の結果によると鋳造品で、しかも炭素量が低いので鋳鉄脱炭鋼でないかと推定されています。

◎専門的になりすぎて分かりにくいのでこのままながします。

福岡県春日市の門田遺跡から出土した有樋式鉄戈(てっか)
(出典:「弥生の鉄文化とその世界」北九州市立考古博物館)
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●鉄の加工の始まり

鍛冶工房
ここでいう鉄の加工とは、後世まで引き継がれる鉄の鍛冶加工のことです。鉄器の製作を示す弥生時代の鍛冶工房はかなりの数(十数カ所)発見されています。中には縄文時代晩期の遺物を含む炉のような遺構で鉄滓が発見された例(長崎県小原下遺跡)もあります。 弥生時代中期中頃の福岡県春日市の赤井手遺跡は鉄器未製品を伴う鍛冶工房で、これらの鉄片の中に加熱により一部熔融した形跡の認められるものもあり、かなりの高温が得られていたことが分かります。 
赤井手遺跡で見つかった鉄素材片
(出典:「弥生の鉄文化とその世界」北九州市立考古博物館)
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発掘例を見ると、鉄の加工は弥生時代中期(紀元前後)に始まったと見てまず間違いないでしょう。しかし、本当にしっかりした鍛冶遺跡はないのです。例えば、炉のほかに吹子、鉄片、鉄滓、鍛冶道具のそろった遺跡はありません。また、鉄滓の調査結果によれば、ほとんどが鉄鉱石を原料とする鍛冶滓と判断されています。鉄製鍛冶工具が現れるのは古墳時代中期(5世紀)になってからです。

鉄器の普及この弥生時代中期中葉から後半(1世紀)にかけては、北部九州では鉄器が普及し、石器が消滅する時期です。ただし、鉄器の普及については地域差が大きく、全国的に見れば、弥生時代後期後半(3世紀)に鉄器への転換がほぼ完了することになります。

さて、このような多量の鉄器を作るには多量の鉄素材が必要です。製鉄がまだ行われていないとすれば、大陸から輸入しなければなりません。『魏志』東夷伝弁辰条に「国、鉄を出す。韓、ワイ(さんずいに歳)、倭みな従ってこれを取る。諸市買うにみな鉄を用い、中国の銭を用いるが如し」とありますから、鉄を朝鮮半島から輸入していたことは確かでしょう。
では、どんな形で輸入していたのでしょうか?
鉄鉱石、ケラのような還元鉄の塊、銑鉄魂、鍛造鉄片、鉄テイ(かねへんに廷、長方形の鉄板状のもので加工素材や貨幣として用いられた)などが考えられますが、まだよく分かっていません。
日本では弥生時代中期ないし後期には鍛冶は行っていますので、その鉄原料としては、恐らくケラ(素鉄塊)か、鉄テイの形で輸入したものでしょう。銑鉄の脱炭技術(ズク卸)は後世になると思われます。

●製鉄の始まり
日本で製鉄(鉄を製錬すること)が始まったのはいつからでしょうか?

弥生時代に製鉄はなかった?
弥生時代の確実な製鉄遺跡が発見されていないので、弥生時代に製鉄はなかったというのが現在の定説です。
今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れますが(広島県カナクロ谷遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ますと、5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当と思われます。
古代製鉄所跡の発掘現場(6世紀後半の遠所遺跡群)
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弥生時代に製鉄はあった?
一方で、弥生時代に製鉄はあったとする根強い意見もあります。それは、製鉄炉の発見はないものの、次のような考古学的背景を重視するからです。
1)弥生時代中期以降急速に石器は姿を消し、鉄器が全国に普及する。
2)ドイツ、イギリスなど外国では鉄器の使用と製鉄は同時期である。
3)弥生時代にガラス製作技術があり、1400~1500℃の高温度が得られていた。
4)弥生時代後期(2~3世紀)には大型銅鐸が鋳造され、東アジアで屈指の優れた冶金技術をもっていた。


最近発掘された広島県三原市の小丸遺跡は3世紀、すなわち弥生時代後期の製鉄遺跡ではないかとマスコミに騒がれました。そのほかにも広島県の京野遺跡(千代田町)、西本6号遺跡(東広島市)など弥生時代から古墳時代にかけての製鉄址ではないかといわれるものも発掘されています。

弥生時代末期の鉄器の普及と、その供給源の間の不合理な時間的ギャップを説明するため、当時すべての鉄原料は朝鮮半島に依存していたという説が今までは主流でした。しかし、これらの遺跡の発見により、いよいよ新しい古代製鉄のページが開かれるかもしれませんね。
島根県今佐屋山遺跡の製鉄炉近くで見つかった鉄滓(和鋼博物館)
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*鉄滓は鉄を製錬した時の不純物。


◎「ひもろぎ逍遥」に葦の根に鉄バクテリアが集まってできる「スズ鉄・古代鉄」について書いてあります。
http://lunabura.exblog.jp/i30

とてもエクサイティングな内容です。本当に古い昔から、鉄をみつけていたのですね。
「スズ鉄」は日本各地にその痕跡があります。でもやっぱり、採れるのは少量だったようです。

●6世紀頃に画期を迎えた製鉄技術
いずれにしても、我が国における製鉄技術は、6世紀頃に画期を迎えたことは確かでしょう。それ以前に弥生製鉄法があったとしても、恐らく小型の炉を用い、少量の還元鉄を得て、主に鍛冶で錬鉄に鍛えるというような、原始的で、非常に小規模なものだったと思われます。この6世紀の画期は朝鮮半島からの渡来工人の技術によってもたらされたものでしょう。

古事記によれば応神天皇の御代に百済(くだら)より韓鍛冶(からかぬち)卓素が来朝したとあり、また、敏達天皇12年(583年)、新羅(しらぎ)より優れた鍛冶工を招聘し、刃金の鍛冶技術の伝授を受けたと記されています。

その技術内容は不明ですが、恐らく鉄鉱石を原料とする箱型炉による製鉄法ではなかったでしょうか。この中には新しい吹子技術や銑鉄を脱炭し、鍛冶する大鍛冶的技術も含まれていたかもしれません。
この官制の製鉄法は、大和朝廷の中枢を形成する大和、吉備に伝えられ、鉄鉱石による製鉄を古代の一時期盛行させたのではないでしょうか。
一方、出雲を中心とする砂鉄製錬の系譜があります。
これがいつ、どこから伝えられたか分かりませんが、恐らく6世紀の技術革新の時代以前からあったのでしょう。やがて、伝来した技術のうち箱型炉製鉄法を取り入れて、古来の砂鉄製鉄と折衷した古代たたら製鉄法が生まれたのではないでしょうか。
古代製鉄の謎は、我が国古代史の謎と同じようにまだ深い霧に包まれています。

●古代のたたら
砂鉄か、鉄鉱石か
近世たたら製鉄では鉄原料として、もっぱら砂鉄を用いていますが、古代では鉄鉱石を用いている例が多いようです。
次の図は中国地方における古代から中世にかけての製鉄遺跡の分布とその使用鉄原料を示したものですが、鉄鉱石を使っているのは古代の山陽側(とくに備前、備中、備後)と、ここには示していませんが、琵琶湖周辺に限られているようです。山陰側その他は、ほとんど砂鉄を用いています。このことは製鉄技術の伝来ルートに違いがあることを暗示しているのかもしれません。
古代~中世の製鉄遺跡における使用鉄原料
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炉の形状
炉の形状は古墳時代の段階では円形、楕円形、方形、長方形と多様です。古代(8~9世紀)になると長方形箱型炉に次第に統一されていきます。
一方、東国では8世紀初頭より半地下式竪型炉が現れ、9世紀には日本海沿岸地域にも広まって、東日本を代表する製鉄炉となっていき、10世紀には九州にも拡散が認められます。この竪型炉は各地での自給的生産を担っていましたが、中世には衰微します。このような西日本と東日本の炉形の違いはなぜ生じたのでしょうか?東と西で製鉄のルーツが違うのでしょうか?まだまだ分からないことが多いのです。

各種古代製鉄炉の分布
出典:古代の製鉄遺跡(製鉄と鍛冶シンポジウム、於広島大学)土佐雅彦、1995、12月 
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中世のたたら
中国山地への集中と炉の大型化
中世になると鉄の生産は、主に中国地方、特に近世たたら製鉄の発達した中国山地に集中するようになります。鉄原料はほとんど砂鉄です。

11世紀から13世紀にかけて広島県大矢遺跡など見られるように炉の大型化、地下構造の発達などの画期を迎えます。長方形箱型炉の炉床は舟底形となり、炉体も長さ2m、幅1m程度と近世たたらの規模に近づいてきます。14世紀後半から15世紀に入ると、広島県の石神遺跡や島根県の下稲迫遺跡(しもいなさこいせき)のように本床、小舟状遺構を持ち、近世たたらに極めて近い炉形、地下構造となります。
時代が下るにつれて大型化する傾向が分かります。


メソポタミア地方で発

日本の金属の歴史
見された、これらの金属材料 と加工技術は、ヨーロッパ、アジアなどに広がり、日本へは紀元前200年頃(弥生時代初期)中国、朝鮮を経由して入ってきました。

弥生時代

日本に金属製品生産技術が定着していく過程について、次のように推察されています。 
①金属製品の使用段階・・外国より製品輸入 
②金属製品の制作段階・・金属原料を輸入し加工 

③金属原料の生産段階・・たたら等による精錬 
このように、最初は鉄製の鍛造品や青銅器製品として入ってきましたが、やがて朝鮮半島から技術者集団が移住して鋳造品や鍛造品を生産したと推測されています。 
日本の鋳物作りの最初は中国大陸から渡来した銅製品の模倣から始まり、その後銅鐸や腕輪、飾りの鋲など日本独特の製品が作られました。 
銅製品については、主に装飾品や祭器などに使われ、実用品としては鉄で作るなどの使い分けも行われたようです。 
流し込む鋳型として、最初は削りやすい砂岩などに製品の型を彫り、その窪みに流し込む開放型から始まり、次に2枚の型を合わせ、その隙間に流し込む合わせ型にするなど、石型から始まっています。 
やがて、中国渡来の鏡の模様を真似ようと、平らにした粘土に鏡を押しつけて型をとり、これに溶湯を流し込むなど、石型より形が作りやすい土型に発展しています。 
更に、現代のロストワックス法と同様に蝋で製品の形を作り、これを粘土質の土で塗り固め、焼いて蝋を流しだし、出来た隙間に溶湯を流し込むなど複雑な形状の製品も出来るようになります。 
近年よく話題になります銅鐸についても、このような石型から始まり、土型に代わっています。 
この銅鐸はこの時代を代表した優れた鋳造品といえますが、何に使用されたのか判っていません。 
多分、祭祀などに使われたと考えられますが、次の古墳時代になると、生産が途絶えています。

初期の石の鋳型合わせ型土型
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古墳時代 

古墳時代(西暦300~600年)の遺跡から鉄製 の刀や斧などが出土していますが、その中の斧の分析結果から炭素や珪素を含んだ鋳鉄製であることが判明し、日本で作られた最も初期の鉄鋳物であると推定されています。又、この時代は大陸から原料の地金を輸入し、溶解鋳造していたようです。 
鉱石からの精錬については、福岡の太宰府で1600年前の製鉄炉跡が発掘されています。これは山の斜面に穴を掘り、底に木炭の粉と石英を練り合わせたものを詰め、その上に木炭と砂鉄を積み重ね、土を被せて点火し、自然通風で精錬したものと推定されています。この炉は弥生後期から古墳時代の製鉄跡と考えられています。 又、この時代は大和朝廷が全国の権力基盤を強化し た時期であり、日本の鉄の歴史に重要な時期であったと考えられています。 
それは全国各地に同じような古墳が数多く建設されたこと、又、同じような古墳が出土していること、更に、鉄製武器などの副葬品が増加していることから伺えます。 応神陵古墳や、仁徳陵古墳のように巨大な古墳などの土木工事ができた最大の背景は「鉄」であったと考えられています。 
尚、このような鉄資材は朝鮮から輸入されたとする意見と、吉備、出雲から運ばれたという意見に別れているようです。 古墳後期になると、日本書紀や古今和歌集などの記事から、鉄生産時の送風技術が、これまでの自然通風から人工的な送風に進歩しています。

1600年前の福岡太宰府製鉄炉跡古墳と出土した鉄器
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奈良、平安時代 

平安時代における鋳物生産の中心は河内の丹南で、その後、全国各地に広がっていったようです。   銅鋳物について、この時代は宗教に関連した鋳物である鐘楼、灯籠、奈良の大仏など大型の鋳物が数多く作られています。 
しかし、鉱石からの鉄の精錬については、ハッキリとはしておりません。製鉄跡としては岡山県の福本たたら、石生天皇たたら、更に群馬県の沢製鉄遺跡などがあり、自然通風や吹子を使う型などいろいろあったようです。この「たたら」と言う方は江戸時代になってからですが、「たたら製鉄」とは砂鉄と木炭を原料として鉄を作る技術であり、この時代がたたらの誕生期であったろうと考えられています。 
鉄鋳物については、鍋、釜などの日用品、更に、鋤、鍬などの農耕具などが作られるようになりました。
日本各地への鋳物業伝播
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鎌倉~安土桃山時代

群馬県では平安~鎌倉初期の金井製鉄遺跡が発掘されており、山の斜面を利用した大規模なものです。発掘品の分析結果から炭素や珪素を含んだ銑鉄状のものが生産されていたことが判り、かなり高温の精錬が行われるようになったと推定されます。
これまでの製鉄炉は地面を掘りかためた平炉でしたが、鎌倉中期になると出雲国飯石郡菅谷鉱山において、初めて粘土を積み上げた製鉄炉が築造され、これが室町時代に中国地方一帯に普及しました。 
このような製鉄技術の進歩によって、鉄鋳物製品はそれまで僧侶や富豪などしか所持できなかったものが、鎌倉期に入ると庶民まで所持できるようになりました。 
室町時代には芸術品としても価値のある茶の湯の釜が作られ、数々の名品が後世に残されています。 
銅鋳物についてみますと、鎌倉の大仏さまがあります。500年前の奈良の大仏さまの制作に比べ数々の技術的な進歩がみられます。 先ず第1に奈良大仏は中国大陸の技術を取り入れて作られましたが、鎌倉大仏は我が国の鋳造技術を結集して作られたこと、 
第2に模型として石と土で台座を築き、その上に木の柱を何本も立てて縄を巻き付け土を塗り土像を作りましたが、鎌倉大仏は木造の大仏を作り(現代の木型)、それを木型として鋳造しています。 
第3にどちらも8回に分けて鋳造していますが、その接続方法に鎌倉大仏では「いがらくり法」という、鉤状の頑丈な方法を用いています。

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江戸時代

鉄鋳物の生産については、原料の鉄を生産する たたら吹き製鉄技術の進歩が欠かすことが出来ません。 
江戸時代はこのたたら製鉄の完成期といわれています。たたら製鉄の発展は如何に高温を得るかの技術にかかっており、そのためには送風技術の発達が重要となります。江戸時代中期に「天秤ふいご」が出現したことがその転機となっています。 
当時の鉄産地としては但馬、因幡、出雲、備中、備後、日向及び仙台などがあげられています。 
又、鋳造業の栄えた地域としては、

盛岡、水沢、仙台、山形、新潟、佐野、高崎、川口、 甲府、上田、松本、高岡、金沢、福井、小浜、岐阜、 豊川、岡崎、西尾、碧南、名古屋、桑名、彦根、 京都、三原、広島、高松、高知、柳井、佐賀、
などが上げられます。 
幕末になると黒船到来など諸外国などの脅威を受け、国防のため大砲の鋳造や軍艦の建造などが必要となります。 
大砲の鋳造ではこれまでの溶解炉「こしき炉」では能力不足であり、大型の反射炉が各藩で争って築造されました。 
最初に作ったのは佐賀藩で、続いて薩摩、水戸、江戸などで築造されました。 
又、原料の鉄についても「たたら炉」では能力不足となり、釜石に洋式高炉が10基ほど建設され、銑鉄の供給は急速に増大しました。 
軍艦の建造には機械部品としての鋳物の製造技術が外国から導入されることになり、コークスを原料とする洋式のキュポラが持ち込まれ、蒸気動力による送風機を使った近代的な鋳物工場が誕生することになります。

たたらの構造こしき炉

↑戻る
「参考文献」
鋳物五千年の歴史(日本鋳物工業新聞社)/たたら(玉川大学出版部)/鉄のメルヘン(アグネ)
鋳物の技術史(社団法人 日本鋳造工学会)/ 鋳物の実際知識 (綜合鋳物センター)


鉄を制する者が天下を制する。」
歴史の鉄則としてよく言われる事ですが、古代日本の権力闘争の歴史を読み解く上でも鉄の流れを押さえておく事は重要です。今回は中国大陸―朝鮮半島―日本列島における鉄の流れを押さえておきたいと思います。
まずは最初に弥生時代~古墳時代の列島の鉄の分布を見ておきます。
 グラフで概観を捉えてみてください。
画像の確認
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下記グラフを見ても弥生時代から古墳前期に北九州が列島において圧倒的に鉄の先進地域だったことがわかります。
画像の確認
 この鉄がどのように半島で広まり、列島に入ってきたか?
るいネットに鉄関係の投稿をしてきましたのでダイジェストで紹介していきます。
FarEast_3c01.jpg
 まずは中国での製鉄の歴史を押さえておきます。
 中国の鉄の歴史は東から伝わった製鉄の技術にそれまでの製銅の歴史を応用して紀元前10世紀に始まる。紀元前4世紀から6世紀の春秋戦国時代に鉄は各地に広がり、武器や農工具として需要が広まっていく。紀元前2世紀の秦王朝は鉄官という役職を定め、前漢の時代には全国49ヶ所に配置した。1世紀、後漢の時代には既に大量生産を始めており、漢は当時、最も進んだ製鉄大国になっていた。
東アジアの鉄の歴史①~中国の製鉄の起源は紀元前9世紀
東アジアの鉄の歴史②~中国の製鉄の歴史(紀元前1世紀には製法が完成)
 次に朝鮮半島です。
製鉄起源は明確ではない。無文土器時代の中期(前4世紀~)、中国戦国文化と接触し、鋳造鉄器が出現する。その後、鋳造鉄器の製作が始まった。前漢(B.C202年~)の武帝は朝鮮北部に進攻し、楽浪郡など漢四郡を設置した(B.C108年)。
これが契機となって鉄資源の開発が促され、鉄生産が一層進展したと見なされている。
これ等は中国植民地政権の影響が及ぶ朝鮮北部に限定され、且つこの時期から、鉄製品に鍛造品が出現する。
半島北部の資源分布の特性で、鉄鉱石を原料とする間接製鉄法が主であったとされる。半島の高品位な鉄鉱石は黄海道西部から平安道の西北に集中し、東南部と南西部に高品質な砂鉄が分布していた。

朝鮮半島の製鉄の歴史は中国への供給を目的に、紀元前1世紀頃からおそらくは中国の鉄技術が人と共に大量に注入された事と思われる。中心は辰韓(後の新羅)弁韓(伽耶連合)にあり、戦乱に明け暮れた1世紀から3世紀の半島は鉄を巡る争いに終始していたとも言える。
それまで何もなかった南部朝鮮の国力はわずか500年の間に大国中国や高句麗と対抗できるまでに高揚し、ついに8世紀には新羅が半島を統一する。この朝鮮半島の情勢に中国の鉄が絡んでいた事はほぼ間違いなく、最終的に新羅が唐の力を得て半島を統一したのも鉄資源と生産を担う新羅や伽耶の中心地を押さえていたからである。

東アジアの鉄の歴史③~朝鮮半島への鉄の伝播
★朝鮮半島で最も鉄で栄えたのが伽耶をはじめとする金官伽耶である。
鉄器文化を基盤に、3世紀後半から3世紀末頃までに建国された金官加耶をはじめとする加羅諸国は、4世紀にはその最盛期を迎えたと思われる。たとえば、金海大成洞遺跡からは4世紀のものとされる多量の騎乗用の甲冑や馬具が見つかっている。
金官加耶がすでに4世紀には強力な騎馬軍団をもっており、政治的・軍事的色彩の濃い政治組織や社会組織を備えた国家だったことを伺わせる。
金官伽耶は倭国との関係も強く、九州王朝(磐井)を後背部隊として従え、新羅へ深く攻め入る。この時代(3世紀~4世紀)の伽耶地方と九州は伽耶の鉄を介してひとつの国の単位になっていた可能性が高い

伽耶諸国の歴史(2)~鉄と共に栄えた金官伽耶
★大伽耶が押さえた5世紀~6世紀の半島の鉄
金官伽耶の衰退と同時に連合を組んで伽耶地方を押さえたのが大伽耶連合である。
加耶諸国の中心勢力の交替は、倭と加耶との交流にも大きな変化をもたらした。五世紀後半以降、加耶諸国との関係では、金官加耶の比重が大きく低下し、新たに大加耶との交流が始まった。須恵器(陶質土器)、馬具、甲冑などの渡来系文物の系譜は、五世紀前半までは、金海・釜山地域を中心とした加耶南部地域に求められる。この時期、加耶諸国の新しい文物と知識を持って、日本列島に渡来してくる人々が多かった。出身地を安羅とする漢氏(あやうじ)や金海加耶を出身とする秦氏(はたうじ)などは、ヤマト朝廷と関係を持ったため、その代表的な渡来氏族とされている。大伽耶連合も562年には新羅に併合され、ここで伽耶の鉄の歴史は終止符を迎える。
伽耶諸国の歴史(3)~半島内での進軍と衰退
 最後に日本の鉄の状況を押さえておきます。
日本の鉄の歴史は5世紀半から6世紀を境に大きな変化を迎える
それまでの鉄は専ら、半島から鉄素材を輸入し、渡来人の鍛冶技術を注入して畿内、九州中心に鍛冶工房を営み、国内の鉄を調達していた。弥生時代には鍛冶工房は方々にあったが、まとまった製鉄施設は確認されていない。
>今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れるが(広島県カナクロ谷遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ると、5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当であろう
日立金属HP
6世紀に変化をもたらしたのも渡来人集団であろう。
>古事記によれば応神天皇の御代に百済(くだら)より韓鍛冶(からかぬち)卓素が来朝したとあり、また、敏達天皇12年(583年)、新羅(しらぎ)より優れた鍛冶工を招聘し、刃金の鍛冶技術の伝授を受けたと記されている。その技術内容は不明だが、鉄鉱石を原料とする箱型炉による製鉄法ではなかっただろうか。この中には新しい吹子技術や銑鉄を脱炭し、鍛冶する大鍛冶的技術も含まれていたかもしれない。
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日本の鋼資源の特徴は火山地帯に恵まれる為、砂鉄が世界的にも極めて多い地域である。その活用は古くは縄文時代まで遡ると言われているが、6世紀以降に、出雲、関東、東北の海岸線を中心にこの砂鉄の産地を中心にたたら製鉄の技術が確立されてきた
たたら製鉄の獲得によって自前で鉄製品を生産できるようになった日本が、7世紀を境に律令制を組み込み、国家としての自立を成し、朝鮮半島や中国への依存を少なくしていく。
結果的には鉄の自給がその後の日本の独立性を高める事になり、奈良時代以降の中国、朝鮮半島に対しての対等外交のベースになったのではないかと思われる。

鉄の自給が作り出した国家としての基盤
鉄の自給が作り出した国家としての基盤
 
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日本の鉄の歴史は5世紀半から6世紀を境に大きな変化を迎える。

それまでの鉄は専ら、半島から鉄素材を輸入し、渡来人の鍛冶技術を注入して畿内、九州中心に鍛冶工房を営み、国内の鉄を調達していた。弥生時代には鍛冶工房は方々にあったが、製鉄施設は確認されていない。先日淡路島で発見された大規模な垣内遺跡も鉄の2次加工を行う鍛冶工房である。

>今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れるが(広島県カナクロ谷遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ると、5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当であろう。
リンク~日立金属HP)

6世紀に変化をもたらしたのも渡来人集団であろう。
>古事記によれば応神天皇の御代に百済(くだら)より韓鍛冶(からかぬち)卓素が来朝したとあり、また、敏達天皇12年(583年)、新羅(しらぎ)より優れた鍛冶工を招聘し、刃金の鍛冶技術の伝授を受けたと記されている。その技術内容は不明だが、鉄鉱石を原料とする箱型炉による製鉄法ではなかっただろうか。この中には新しい吹子技術や銑鉄を脱炭し、鍛冶する大鍛冶的技術も含まれていたかもしれない。
リンク~日立金属HP)

日本の鋼資源の特徴は火山地帯に恵まれる為、砂鉄が世界的にも極めて多い地域である。その活用は古くは縄文時代まで遡ると言われているが、6世紀以降に、この砂鉄の産地を中心にたたら製鉄の技術が確立されてきた。出雲、関東、東北の海岸線を中心に砂鉄が多く採取できる。(砂鉄の分布リンク
たたら製鉄は砂鉄を用い、低温で鉄を完全溶融せずに製品に加工する手法で小規模から製鉄を行う事ができる。多くの木炭資源を用い、鉄1トンを製造するのに6倍もの木炭を使用する。豊富な木材資源と再生力がある日本列島だから可能になった手法とも言える。たたら製鉄はその後改良を重ね、室町時代には大量生産に移行し、17世紀の江戸時代には大鍛冶技術として完成する。

謎と言われているのが、たたら製鉄の伝来ルートである。朝鮮半島、中国のいずれの鉄生産地にもない製造法であり、日本独自の製鉄技術ではないかという説もある。日本のたたら製鉄に近似した製法はアフリカのマンダラ地方とインド中央部にしか確認できていない。
鉄技術の多くを朝鮮半島から取り入れながら、たたら製鉄の手法そのものは遠くインドまで戻らなければならないことから謎と言われているが、おそらく中国、朝鮮半島のいずれかの鉄職人が当時の技術(直接製鉄法)を応用して発見したのではないかと思われる。

たたら製鉄の獲得によって自前で鉄製品を生産できるようになった日本が、7世紀を境に律令制を組み込み、国家としての自立を成し、朝鮮半島や中国への依存を少なくしていくことは歴史的にも符合している。或いは、563年にそれまで鉄資源を全面的に依存していた任那が新羅に併合されたことで鉄の調達がいよいよ難しくなった事も外圧として国内の統合を加速したのかもしれない。

しかし、結果的には鉄の自給がその後の日本の独立性を高める事になり、奈良時代以降の中国、朝鮮半島に対しての対等外交のベースになったのではないかと思われる。

※課題:たたら製鉄の初期生産力とはいかなるものか?(依存と自給は併存していたのか?)

 

2016年4月22日金曜日

志賀の里、清明と穀雨のころ

猫たちとこの里を感じる。

雲が全てを覆い隠していた。
比良山系の頂のいまだ残る雪もまったくその雲の中に隠れ、わずかに杉の木立ちが
山の瀬戸際の切れ切れの底から顔を出している。
湖も一番手前の砂浜をわずかに見える程度で立ち尽くす雲の群れの中に隠されていた。
春を迎えるに辺り自然も色々と都合があるのであろうか、寒い冬の日と暖かい
春の日を交互に人間界に見せてくる。それは少し湿っているが、霞んだ蒼い空と
雨の日を交互に見せても来るのと同じ理由かもしれない。

清明は、4月5日ごろ。万物がすがすがしく明るく美しいころだ。
「暦便覧」には「万物発して清浄明潔なれば、此芽は何の草としれるなり」と
記されている。ここから西の地方では、様々な花が咲き乱れ、お花見シーズンになる。
全てが柔らかな光に照らされ、早朝の比良の山には、うっすらとした霞がたなびく。
春霞の中、樹々に清々しい新緑が芽吹きはじめる。その中で、山椒の花が開花し、
このごく短い期間に自宅で手摘みされた花山椒は、収穫もわずかで貴重な季節の
食材となり、やがて来る色とりどりの食べ物への先駆けとなる。

ラジオから河口恭吾の桜が流れている。
「僕がそばにいるよ 君を笑わせるから 桜舞う季節かぞえ 君と歩いていこう
 、、、、、
 まぶしい朝は何故か切なくて 理由をさがすように君を見つめていた
 涙の夜は月の光に震えていたよ
 二人で
、、、、、、、、、
いつもそばにいるよ 君を笑わせるから やわらかな風に吹かれ
君と歩いていこう、、、、、
君がいる 君がいる いつもそばにいるよ」

そして、この歌のような清純な世界とは対極にある生存への涙ぐましい世界もある。
春は冬の間凍りついていた多くの活動を一斉に解き放していた。
外の少し残る肌寒さが我が家では、一段とその強く感じられるが、若きエネルギーの
充満する家ではむしろ心地よい日々なのかもしれない。
そして、「桜」と言うこの季節には極めて多くの思い出を残すキーワードも徐々に
眼につき始めている。残念ながら我が家の桜はさくらんぼであり、その花と実を
つけるのはもう少し時間が必要であるが、世間は桜と多くの花々の到来を
告げ始めていた。
・桜さく比良の山風吹くままに
 花になりゆく志賀の浦なみ     御京極
・桜咲く比良の山風ふくなへに
 花のさざ波寄する水海       大納言定国

更には、ドナルド・キーンの言う、
「美の本質的要素としての、この非永続性は、長い間日本人によって、暗黙の
うちに重視されてきた。開花期が長い梅や、ゆっくりしおれてゆく菊
よりも、早々と散り果てる桜の方が、はるかにこの国で尊ばれるゆえん
である。西洋人は、永遠の気を伝えんがために、神々の寺院を大理石
で建てた。それに反して伊勢神宮の建築の持つ本質的な特色は、その
非永続性にほかならない」を、かみしめる頃でもある。

また、二十歳を超えたであろう老猫もいう。
「もう考えるのも面倒くさいほどの昔は、この辺も湖と比良山と周辺の森や林
だけだった。見えるのは、お寺と萱葺の家が数10軒肩を寄せ合うようにある
だけだったし、俺たちも近くの漁港の余った魚をノンビリと食べて変わらぬ
日々を過ごしていた。周りの景色も白と灰色の世界からこの時分は畑の緑が
少し色をつけ、やがて緑色一色になり、一面が色とりどりのカラーの世界、
動物と植物が支配し、人間は片隅で動いていた。そんなのが同じ様に続いたよ。
白さ舞う冬からピンクや薄緑の草木の春となり、燃え立つ緑と湖のコントラスト
の強い夏、最後には抜ける蒼さの下に広がる赤や黄色の秋、それが限りなく
続いていた」。40年ほど前まではその様々に色を変え、姿を変える自然の
中を茶色に塗られた2両続きの木造列車が走り抜けていた、と言う。

今の様なコンクリートのそっけもない列車ではなく、まるでどこでも乗り降り
自由なそのごとごとした揺れと音の列車は猫たちにとっても楽しい動くモノ
でもあった。初めはそのような動くモノに警戒したものの、やがて猫たち
にとっても、それを見ることが一つの楽しみとなった。
菜の花が咲き乱れる中を、桜が舞い落ちる季節を、雪が吹き付ける寒空の下を、
しっとりと降り注ぐ雨の中を、比良山と琵琶湖の間を縫うように毎日欠かさず
走るその姿に一種の感動を覚えるのだ。
さらに、「それは今も続くけど、やがて丘に沿って人間の家が上へ上へと伸びて
グロテスクな世界が支配し始めたし、田圃や畑も姿を変えていったね、
面白くないけど」。

だが、生活の中に琵琶湖と比良の山並が滑り込んで、その古さと新しさの調和
を活かしている場所でもある。多くの古代文化の遺跡や古墳など形あるものは、
数百年の時により、消え去り埋没したかもしれないが、人は人をベースとする文化
は継続して残っていくし、自然も、皆生きていく。
千年前、都人が愛でたであろう情景は、今もここにある。

穀雨(こくう)とは、二十四節気の第6番目であり、4月20日ごろである。
田畑の準備が整い、それに合わせて春の雨の降るころであり、穀雨とは、
穀物の成長を助ける雨のことである。そして、穀雨の終わりごろ(立夏直前)
に八十八夜がある。春雨が地面に染み入り、芽を出させる頃となり、各地の
竹林では筍が収穫の時期を迎える。街の奥にある竹林でも、筍が元気な姿を
見せる。筍の魅力は、春を感じる独特の香りとコリコリとした独特の歯応え
であり、それを楽しむ方法はここの郷土料理にはたくさんあるが、中でもよく
親しまれているのが佃煮。細かく刻み、木耳(きくらげ)や椎茸などと混ぜ
合せることで、食感が更に引き立つ。その味は、食べたものでしか分からない。

すでに彼方此方から桜の開花や花見の様子が伝えられていたが、このあたりは
少し遅い様で穀雨前後に桜も満開となる。公園や坂を少し下った道沿いの桜も
まだ固く蕾のままである。
しかし、農作業はすでに始まり、田圃にも水が張られ、気の早い蛙は日夜その
独唱に励んでいる世でもある。水を湛え始めた田圃にも生気が蘇り、畦道にも
命の息吹が見えていた。ハコベの緑に加えタンポポの小さな黄色が幅を利かして
いたし、紫の小さな花々がその横に一団となって咲いている。
気の早い人はすでにトラクターの騒がしい音を畑や田圃一杯に響かせている。

猫たちは、地元の長老猫から聞いたすでに数週間前には終わっていたが、
比良八講の様子をまるで本人がその場で見てきたかのように話すのを春の
まどろみの中で、うつらうつらと聞いていた。

その日3月26日の様子は、
近江舞子は白く長い砂浜と幾重にも重なるように伸びている松林に静かな時間を
重ねていたね。冬の間は、この砂の白さも侘しさが増すのであるが、比良山系の
山に雪が消えるこの頃になると一挙に明るさを取り戻すようだ。
山々もここから見ると蓬莱山、武奈岳などが何層にも重なり合い和邇から見える
景観よりも変化に富んだ顔を見せる。その幾層もの連なりには微かな雪化粧が
残っているものの、すでに木々の緑がそのほとんどを支配し始めていたよ。
途中で、子供たちの声とともに和太鼓の激しい響きが聞こえてきた。
その響きにあわせてやや凹凸のある道を進んでいくと、左手に紅白の幕が風に
揺られるように手招きしている。そして、松林の切れたその光を帯びた先に護摩法要
のための杉の枝を積み上げた小山が見えた。小山といっても2メートルのほどの
高さのものであるが、周囲をしめ縄で仕切られ、祭壇が置かれているのを見ると、
比良八講の四字がたなびく旗とともに目の前に大きく浮かんでくる。

護摩壇の先には、蒼い湖が広がり沖島の黒い姿が見えている。陽射しはこれら全てに
容赦なく注ぎ込まれ、更なるエネルギーを与えているようにも感じられた。
やがて、法螺貝とそれに先導された僧や行者が念仏を唱える音、人のざわつきの音、
道を踏みしめるなどの様々な音とともに横を緩やかな風とともに通り過ぎていった。
そして、それに連なる祈祷を受ける人々の一団が思い思いの歩みで現われる。
背筋をキチンと伸ばしただ一直線に護摩法要の祭壇を見ている老人、数人で
談笑しながら歩む中年の女性たち、孫と手を携えている老婆、各人各様の想い
が明るく差し込む木洩れ陽の中で踊っているようだ。
俺も隠れながらその集団についていった。

そこには、信仰の重さは感じられないけど、明るさがあったね。
法螺貝が止み一つの静寂が訪れ、次へと続き僧や修験者の読経が始まり、
やがてあじゃりの祈祷となる。あじゃりの読経する声は1つのリズムとなり、
護摩法要の祭壇を包み込み、その声が一段と高まり、水との共生をあらためて
想いの中に沸き立たせていく。その声が参列する人の上を流れ、蒼い空の下でやや
霞を増した比良の山並に吸い込まれていく頃、護摩木を湛えた杉の小山に火
がかけられいくんだ。
杉の小山から吐き出される煙はその強さと濃さを増しながら青き天空へと消えて
行くが、その煙が徐々に渦を巻き、龍がとぐろを巻くが如き姿となっていく。
下から燃え上がる炎と渦を巻き上げながら舞う煙が一体となって龍の姿を現し、
ゴーと言う音ともに比良の山並みに向かっていく。ここに護摩法要は最高潮となり、
周りを取り巻く人々も跪き般若心経を唱え始める。俺は無信仰だから横で
様子を見ていただけど、人間も結構いいことするな、と想ったよ。

雨がやみ、それと同時に自然界に新たな成長の季節が訪れた。
松尾芭蕉も詠んでいる。
山々にかこまれた春の琵琶湖の大観を一句に納めたものとして、
「四方より花吹き入れて鳰の海」、春の琵琶湖である。
木々や草花はいっせいに華やかな色彩とかおりをまき散らし、トチノキの
枝は小刻みに震えながら、円錐形の花キャンドルを支えていた。
白いヤマニンジンの花笠が道端をびっしりと覆っている。つるバラが
庭塀を這いあがり、深紅のシャクヤクがテッシュペパーのような花弁
開いている。りんごの木は花びらを振り落としはじめ、その後にビーズ
のような小さな実をのぞかせている。

比良の若葉山の姿は、やはりこのあたりから見るのが良いように思った。
山並みの傾斜と直立する杉の木々との角度、これに対する見るものの位置が
あたかもころあいになっているのである。
その上に昔もこの通りであったととも言われぬが明るい新樹の緑色に混じった
杉の樹の数と高さがわざわざ人が計画したもののように好く調和している。
猫たちの考えでは、山は山の自然に任せておけば、永くこの状態は
保ちえられると思っている。琵琶湖の水蒸気はいつでも春の木々を紺青にし、
これを取り囲むような色々の雑木に花なき寂しさを補わしめるような複雑な
光の濃淡を与える。山に分け入る人は、単によきときに遅れることなく、
静かに昔の山桜の陰に立って、鑑賞しておりさえすればよいのであって、
自然の絵巻きは季節がこれを広げて見せてくれるようになっているのだ。

そんな事を考えながら、雑木林を抜け、街のはずれの竹林の中を落ち葉の
かさかさする音と踏みしめる足元の心地よさを味わっていた。
通り過ぎる家々の壁はその陽射しの中で新しい灰色、キチンと刈り込まれた
生垣の緑色、庭の芝生も黄緑の色を濃くしていた。それに対抗する様にユキヤナギ
の木々が5弁で雪白の小さな花を枝全体につけてその白さを誇っているよう
に繁っている。雑草が一本も生えていない花壇には、クロッカスの紫の花が
行儀よく2列をなしている。家々は春の装いの最中なのだ。

外国人の見た日本人と日本文化

外国人の見た日本人と日本文化

桂離宮の紹介で有名なブルーノ・タウト、多くの小説を書いた小泉八雲、
さらには滋賀に関係の深いフェノロサら、彼らの見た日本人と日本文化への
傾聴、傾倒から日本のそれを違った視点で見ることが出来るのでは、と思う。
1.タウトの場合、
タウトによれば、日本文化の本質は、
「簡潔、明確、清純」にあるという。
その典型例が伊勢神宮(外宮)や桂離宮であり、そこに見出される本質は、
日本各地に根づく伝統的な日本家屋や工芸品、さらには一般庶民の生活
様式の中に生き続けているといっている。
ブルーノ・タウトは「画帖 桂離宮」のなかで「部屋そのもの調和的な落ち着きは、
言葉ではとうてい言い表すことができない。わずかに用材、塗装、極めて
控えめな襖絵、また襖絵のないところでは襖紙、これらの見事な調和を語る
のがせいぜいである。
外国人の目にいかにも珍しく思われるのは、障子を閉めきった部屋には深い
静けさを湛えているのに、障子をあけると絵のような庭があたかも家屋の
一部ででもあるかのように突然、私たちの眼の前に 圧倒的な力をもって現れ
出ることである。一般に部屋の壁面は庭の反射を映じるようにあらかじめ
考慮せられている。そしてこのことは部屋全体にとって支配的な意味を持ち、
庭の光はくすんだ金銀の色の襖紙に強く反射するからである、と書いている。
さらには、都市の街並みに関しても、その醜悪さ、絶望的な全体感、など多く
の日本を理解する外国人たちが酷評する一方、地方の町村の家並みに関しては、
日本の伝統が生きているがゆえに高い評価となっている。
これはタウトの時代でなくとも、蜘蛛の巣の如くはりめぐらされた電線と複雑
怪奇な原色の看板が立ち並ぶ街中では今でも変わりなくその絶望的な景観
をさらしている。
タウトにとっての日本美は、神道にもとづく様式にあり、仏教伝来と共に入ってきた
中国由来の装飾的な様式は「未消化の輸入品で日本的でない」と見做す。
しかし、日本の民芸の良さを積極的に推し進めた柳宗悦とは多少の食い違いを
見せていた。その場の記録は残っていないのだが、のちにタウトが「柳の民芸」に
文句をつけたことは「げてものかハイカラか」というエッセイに残っている。
タウトは柳にもリーチにも敬意を払っていたし、とりわけ浜田庄司、富本憲吉、河井
寛次郎らの陶芸を褒めていた。なかでも富本の陶芸趣向を絶賛していた。しかし
「柳の民芸」には、使いっぱなしの「使い勝手の味」ばかり求めている傾向が強すぎて
「それらが持つ質感」が追求されていない物だとみなしたのだ。一方、柳のほうも
タウトのデザインは「頭から生まれている」という不満をもっていた。
このタウトと柳の食い違いには、なかなか興味深いものがある。
しかし、タウトの場合は、やはり他国人の視点、文化視点の違い、が
強いのでは、と感じる。
これは、柳宗悦の「手仕事の日本」の一文からも垣間見られる。
「、、、、さてこういうような様々な品物が出来る原因を考えて見ますと、
2つの大きな基礎があることに気付かれます。一つは自然であり、一つは
歴史であります。自然と言うのは、神が仕組む天与のもであり、歴史と
言うのは人間が開発した努力の跡であります。どんなものも自然と人間との
交わりから生み出されていきます。
中でも、自然こそは全ての物の基礎であるといわねばなりません。その力は
限りなく大きく終わりなく深いものなのを感じます。昔から自然を崇拝する
宗教が絶えないのは無理もありません。自然を仰ぐ信仰や山岳を敬う信心は
人間の抱く必然な感情でありました。、、、、、、
前にも述べました通り、寒暖の2つを共に育つこの国は、風土に従って多種
多様な資材に恵まれています。例を植物にとるといたしましょう。柔らかい
桐や杉を始めとして、松や桜やさては、堅い欅、栗、楢。黄色い桑や黒い黒柿、
節のある楓や柾目の檜、それぞれに異なった性質を示してわれわれの用途を
待っています。この恵まれた事情が日本人の木材に対する好みを発達させました。
柾目だとか木目だとか、好みは細かく分かれます。こんなにも木の味に心を
寄せる国民は他にないでしょう。しかしそれは全て日本の地理からくる
恩恵なのです。私たちは日本の文化の大きな基礎が、日本の自然である事を
見ました。何者もこの自然を離れて存在することが出来ません」。
更には、和辻哲郎の指摘にも相通じる。
「この日本民族気概を観察するについては、まず、我々の親しむべく
愛すべき「自然」の影響が考えられなくてはならない。
我々の祖先は、この島国の気候風土が現在のような状態に確定した
頃から暫時この新状態に適応して、自らの心身状態をも変えて行った
に違いない。もし、そうであるならば、我々の考察する時代には、既に、
この風土の自然が彼らの血肉に浸透しきっていたはずである。
温和なこの国土の気候は、彼らの衝動を温和にし彼らの願望を
調和的にならしめたであろう」と。
そして、美濃和紙や各地の和紙、有田から備前などの焼き物、木曾檜の
木工品など結構好きで、旅したときはその地方の工芸品を見たり、
買ったりしてきたが、それらがその地域の自然と切り離しては、成り立たない、
と言うことをその度に、感じたものである。
2.小泉八雲のばあい
彼の「日本の面影」からいくつかの面白い一文が見られる。これらから
今の我々を見るとどうなのであろうか。
「神道は西洋科学を快く受け入れるが、その一方で、西洋の宗教にとっては、
どうしてもつき崩せない牙城でもある。異邦人がどんなにがんばったところで、
しょせんは磁力のように不可思議で、空気のように捕えることのできない、
神道という存在に舌を巻くしかないのだ」。
特にキリスト文化の中で育まれた彼らにとって、万物がすべて、神という考え、
そのものがまず理解できないのではないだろうか。
更には、
「この村落は、美術の中心地から遠く離れているというのに、この宿の中には、
日本人の造型に対するすぐれた美的感覚を表してないものは、何ひとつとしてない。
花の金蒔絵が施された時代ものの目を見張るような菓子器。飛び跳ねるエビが、
一匹小さく金であしらわれた透かしの陶器の盃。巻き上がった蓮の葉の形をした、
青銅製の茶托。さらに、竜と雲の模様が施された鉄瓶や、取っ手に仏陀の獅子の
頭がついた真鍮の火鉢までもが、私の目を楽しませてくれ、空想をも刺激してくれる
のである。実際に、今日の日本のどこかで、まったく面白味のない陶器や金属製品
など、どこにでもあるような醜いものを目にしたなら、その嫌悪感を催させるものは、
まず外国の影響を受けて作られたと思って間違いない」。
旅する中で、特に近世などから栄えた街の中で見る家並み、ふと出された茶器の彩と
形に懐かしい心を感じるときがある。八雲は、それを自身の生活と地元の人々との
肌触りから感じたのではないだろうか。
「日本人のように、幸せに生きていくための秘訣を十分に心得ている人々は、他の
文明国にはいない。人生の喜びは、周囲の人たちの幸福にかかっており、そうである
からこそ、無私と忍耐を、われわれのうちに培う必要があるということを、日本人
ほど広く一般に理解している国民は、他にあるまい」。
この心のDNAは確かに受け継がれている。しかし、少しづつそれも消し去られよう
ともしている。
3.日本人の心を守ったフェノロサ
明治という変革と混乱の中で、廃仏毀釈という愚行を止めさせ、仏像や日本画を中心
とする日本文化の素晴らしさを日本人にあらためて認識させたのが、彼である。
特に、廃仏毀釈の大波にもまれていた日本、仏教文化は壊滅的な状態であった。
岡倉天心の言葉でいえば、「遺跡は血に染まり、緑の苔まで生臭い、鬼や霊が
古庭で吠えている」。明治という今までの社会の慣習、体制、文化が消えて行き、
仏像や仏教も消えてもよいのでは、という考えがあった情勢の中で、
実体としての仏像が壊されていくという現実があった。
明治維新後の日本は盲目的に西洋文明を崇拝し、日本人が考える“芸術”は
海外の絵画や彫刻であり、日本古来の浮世絵や屏風は二束三文の扱いを受けていた。
写楽、北斎、歌麿の名画に日本人は芸術的価値があると思っておらず、狩野派、
土佐派といったかつての日本画壇の代表流派は世間からすっかり忘れ去られていた。
世相としても、例えば、当時の日本人について、ベルツの日記では、
「今の日本人は過去についてしきりに恥じている。中には、我々日本人に歴史
はありません。今から始まるのです、と言う人さえいる」と書かれている。
フェノロサ、岡倉天心は、日本人の精神がよりどころをなくし、その精神が浮遊する
ということを嘆き、フェノロサは「日本の伝統美術は西洋に匹敵する」と説いた。
これらにより、「日本独自の文化と精神にしっかりとした誇りを持つことが西洋と
対等に付き合うこととなる」とあらためて明治政府や関係者の意識の見直しを迫った。
彼の業績の1つに、法隆寺・夢殿の開扉がある。
内部には千年前の創建時から『救世(くせ)観音像』(等身大の聖徳太子像)がある
ものの、住職でさえ見ることができない“絶対秘仏”だった。法隆寺の僧侶達は、「開
扉すると地震が襲いこの世が滅びます」と抵抗したが、フェノロサは政府の許可証を
掲げて「鍵を開けて下さい!」と迫った。押し問答を経てようやく夢殿に入ると、
僧侶達は恐怖のあまり皆逃げていった。観音像は布でグルグル巻きにされている。
フェノロサは記す。
「長年使用されなかった鍵が、錠前の中で音を立てた時の感激は、何時までも
忘れることが出来ない。厨子(仏像のお堂)の扉を開くと、木綿の布を包帯
のように幾重にもキッチリと巻きつけた背丈の高いものが現れた。
布は約450mもあり、これを解きほぐすだけでも容易ではない。ついに巻きつけてある
最後の覆いがハラリと落ちると、この驚嘆すべき世界に比類のない彫像は、数世紀を
経て我々の眼前に姿を現したのである。
救世観音は穏やかに微笑んでいた。立ち会った者はその美しさに驚嘆し声を失う。
世界は滅ばなかった」。
また、私の好きな聖林寺の十一面観音もまたフェノロサによって1887年に秘仏
の封印が解かれた。
三井寺法明院の緩やかな小路を杉の木立ちの木漏れ日の中を進むとそれほど大きいとは
言えない彼の墓所をみる。木製の日本語の案内板と英文で書かれた石碑の奥、静寂の
なかにフェノロサの墓石がひっそりとたたずむ。滋賀の人間として琵琶湖を愛し、
仏に帰依した彼に感動を禁じ得ない。
4.そのほか
イザベラ・バードは明治の初めに日本に来た。その「日本紀行」には、当時の日本人の
生活と我々の心根が描かれている。
「上陸してつぎにわたしが感心したのは、浮浪者がひとりもいないこと、そして通り
で見かける小柄で、醜くて、親切そうで、しなびていて、がに股で、猫背で、胸の
へこんだ貧相な人々には、全員それぞれ気にかけるべきなんらかの自分の仕事という
ものがあったことです」。
さらに、
「日本の女性は独自の集いを持っており、そこでは実に東洋的な、品のないおしゃべり
が特徴のうわさ話や雑談が主なものです。多くのことごと、なかんずく表面的なこと
において、日本人はわたしたちよりすぐれていると思いますが、その他のことにおいて
は格段にわたしたちより遅れています。この丁重で勤勉で文明化された人々に混じって
暮らしていると、彼らの流儀を何世紀にもわたってキリスト教の強い影響を受けて
きた人々のそれと比べるのは、彼らに対してきわめて不当な行為であるのを忘れるよう
になります。わたしたちが十二分にキリスト教化されていて、比較した結果がいつも
こちらのほうに有利になればいいのですが、そうはいかないのです」。
当時の日本人の心根、立ち振る舞いがそこはかとなく伝わってくる。
ファン・オーフルメール・フィッセルの「日本風俗備考・1」には考えさせられる。
「日本人は完全な専制主義の下に生活しており、したがって何の幸福も満足も
享受していないと普通想像されている。ところが私は彼ら日本人と交際してみて、
まったく反対の現象を経験した。
専制主義はこの国では、ただ名目だけであって実際には存在しない。、、、、
自分たちの義務を遂行する日本人たちは、完全に自由であり独立的である。奴隷制度
という言葉はまだ知られておらず、封建的奉仕という関係さえも報酬なしには
行われない。
勤勉な職人は高い尊敬を受けており、下層階級のものもほぼ満足している。
、、、日本には、食べ物にこと欠くほどの貧乏人は存在しない。また上級者と下級者
との間の関係は丁寧で温和であり、それを見れば、一般に満足と信頼が行きわたってい
ることを知ることができよう」。
これは江戸時代訪れた彼の言葉である。今に照らしてみていかがであろうか。
イザべラの言葉と合わせ感じるのは、素朴さと勤勉さであろう。今日、われわれが
失いかけているものでもある。