2016年3月12日土曜日

日本の200年メモ

失われた20年、日本の200年
http://www.mugendai-web.jp/archives/2405
ゴードン 私がここで言いたかったことは、日本固有だと思われていることが、実は世
界の近現代史と深く関係しているグローバルな事象だということです。そのことをさら
に明らかにしようと考え、外国から導入されたミシンという道具と日本女性の関わり方
にフォーカスしてみました。それをまとめたのが、『ミシンと日本の近代―― 消費者
の創出』です。外国からもたらされた「能率と合理性」のための道具であるミシンを、
日本の女性たちが受け入れ、他方では自分たちの文化も保とうとして抵抗し、複雑に屈
折しながら生活自体を変容させていく姿が、驚くほどよく見えてきました。西洋から日
本へのミシンの導入は、近代化のグローバル展開が日本でローカル化されるプロセスだ
ったのです。それが、「日本の近現代史は、世界の近現代史と不可分だ」と私が言う意
味です。

このようにグローバルに見ていくと、「失われた20年」についてまず言えることは、長
期にわたる停滞傾向が日本だけではなく、世界の先進国において共通して起きていると
いうことです。その背景には、政治経済システムの機能不全、人口減少、少子高齢化、
強まる社会分断化の傾向など、さまざまな問題があります。現代史の観点からは、これ
らは一国の政治努力だけでどうにかなる話ではなく、成熟した先進国がたどるプロセス
であり、いずれは新興国も成熟期を迎えたときに直面する問題です。

そのグローバル性を考慮せずに、自国は特別な国だと考えると、日本にとってマイナス
に働くことがあります。例えば、ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われたバブル期に
は、アメリカにいた私の目にも日本人の自己中心的な傲慢さが感じられることがありま
した。逆に国力が低下した今は、同じことが過度な自信喪失や劣等感につながっている
ように見えます。その両方の背景には、自分の国は他の国と違って特殊なのだという思
い込みがあるように思います。
しかし、日本独自の問題と自覚されていることは、実はグローバルに普遍的な課題でも
あります。日本特殊論にとらわれず、より広い視点から意識を前向きに切り替えれば、
新しい日本の姿が見えてくるでしょう。

、、、、、、

グローバルな視野で歴史を見ることは、日本特殊論につながる情報のバイアスを修正す
ることにも役立ちますね。

ゴードン 晩婚化、少子化、高齢化の傾向が浮上したのは、非正規雇用が急激に拡大す
るはるか以前の1970年代のことでした。リーマン・ショックが起きた時点までに、不安
定な雇用形態の増加は、日本だけでなく、先進資本主義諸国の多くで既に20年以上にわ
たって進行していたのです。

――私たちはマスコミなどの情報に流されがちですが、その信憑性に対する判断力を鍛
える必要がありそうです。

アンドルー・ゴードン氏ゴードン 要するに、データをよく確かめずに「非正規雇用が
拡大して晩婚化が進んだ」「不安定な雇用形態の増加の原因は、景気低迷にある」と安
易に結びつけることは間違いのもとです。デジタル化によって大量の情報があふれる時
代だけに、情報に対する判断力をつけることは重要な課題です。

私は、ハーバード大学と東北大学がパートナーとなって進める東日本大震災のデジタル
・アーカイブを構築するプロジェクトに、ハーバード側の責任者として参画しています
。そのとき議論になったのは、情報の確度・信憑性の問題でした。
(参照:Mugendai『ノー・モア ”想定外”――東日本大震災の膨大な記録をアーカイ
ブする「みちのく震録伝」』、http://www.mugendai-web.jp/archives/735)。

Webサイトや写真、ツイートなどさまざまなリソースをアーカイブするわけですが、そ
の中には信憑性の低いWebサイトも多く混じっています。それをどうコントロールする
かが問題になったのです。そこで私は、疑わしいものであってもアーカイブに入れるべ
きだと話しました。
アーカイブは、現在の人のために役に立つものでなければならないと同時に、将来、歴
史を振り返ってみる人のためのものでもあります。20年後、30年後に、どういうデマが
震災後に流れたかを研究することも重要なテーマとなるかもしれません。あるいは、信
憑性が低いと判断されたデータの中にも、今は見えないけれど、将来明らかになる何ら
かの真理が潜んでいるかもしれません。だからどのような情報でもアーカイブ化すべき
だと主張しました。

アーカイブを正しく利活用できるか否かは、その人の情報判断力の問題です。そうであ
るのなら、情報を判断するための教育が必要になります。




上巻は織田・豊臣の全国統一から徳川家康の支配権確立までをざっとながめた上で、江
戸時代の時代精神を荻生徂徠から本居宣長を経て平田篤胤にいたる流れとして一筆書き
のような按配で描く。そして実質的には幕末から大正デモクラシーまでの時代を主に扱
っている。

本書の特色はわたしの見るところ三つある。

まず第一に、ここ200年の日本史をグローバルな19世紀、20世紀の近現代史のな
かに置いて分析するという視点。これは具体的には英語の原題に現れている。近代日本
史(Modern Japanese History)ではなく、「日本の近現代史」(A Modern History of
Japan)となっているのですね。日本人にとっては、明治維新や大日本帝国の興亡はあ
まりに特殊で他に類を見ないように思うかもしれないが、決してそうではない。「より
広範な世界の近現代史と不可分のもの」として、たまたまそれが日本という個別の地域
でどのように特殊に展開したのかという視点で考えてみたらどうだろうというのであり
ます。
日本語版への前書きで著者が述べているのは、「新しい歴史教科書を作る会」が打ち出
した、各国の歴史はそれぞれ個別独特のもので他国との安易な歴史認識の共有などあり
えないという意見への反駁である。わたしはこのアプローチは意義があり、また有効で
あるように感じた。

第二は、わたし自身にはやや違和感があったのだが、この時代を描くのにかなりジェン
ダーという概念が多用されていることである。たとえば明治、大正期の元老をはじめと
する国家支配層にとって労働者の社会主義への覚醒と並んで脅威でありおぞましいもの
として映ったのが、女は良妻賢母たるべしという「健全」な考えに従わない女たちの出
現であったというような見方を本書ではしている。もちろん間違いとは思わないが、比
重が重すぎるような気がして違和感があったのである。
たぶん、わたし自身が男であり、またこの時代の空気や風景を「坂の上の雲」的な史観
、すなわち、国家の興隆に自らを捧げることは男子の本懐であるというような見方で理
想化する偏りがあるからだと思う。ただし、かならずしもそれが悪いとも思わず、むし
ろ幸福な時代として羨望していることも事実である。この点については、本書はなんと
なく居心地が悪かったという告白にとどめてこれ以上は述べない。

第三に(わたしが一番面白いと感じたことはこれ)歴史の叙述が、わたしたちがこれま
で読んできた教科書的なものとかなり異なっているという印象である。これはうまく言
えないのだが、わたしたちが歴史ということから思い浮かべるのは、たとえば事件や政
治権力行使の連続だと思うのですね。何年にどういう戦がおこり、それにはこれこれこ
ういう背景があった。また何年にはなんたらという乱が発生し、それはこういう結果に
終った。つづいて何年には、なになにを目的として、かくかくしかじかの法律が公布さ
れたが、それは社会にかような影響をもたらした、とかなんとか。
本書は、もちろんそういう記述の側面がまったくないというのではないのだが、なんか
違った印象があるのですね。
わたしたちのなじんだ歴史は、つきつめて言えば「5W1H」ではないかと思う。何年
に誰が何処で何を何のためにどうのようにしてやりました。はい次、何年には誰が・・
・というかたまりが延々とスクロールしていく、つまり年表の詳細版が歴史というもの
であるといった。まあ、これは単にわたしの貧困な読解力のせいかもしれなくて、ほん
とうはそういう歴史の出来事の底流に脈々と流れているであろうところの民族の精神と
か意識とかが、どのように今現在のわたしたちと結びついているのかを読み取るべきな
のかも知れない。しかし、そういうことを読者につねに意識させる叙述というものがや
はり必要ではないかという気もする。
たまたま、本書と平行して『丸山眞男講義録2』(岩波書店)を読んでいるのだが、そ
のなかに下記のような記述があった。おそらく、英米の歴史叙述の文体と言うべきもの
があり、それがたとえばこの『日本の200年』にもあらわれているのかもしれない。
著者であるアンドルー・ゴードンはライシャワー研究所長だった人だそうです。日本人
のことはアメリカ人に習えでありますな。

思想史の対象における相違と対応して、方法においても、ドイツ系と英米系とで大まか
な相違がある。ドイツはロゴス的把握が強く、geistig〔精神的〕であり、これに対し
て英米は、思想を独立したものとしてではなくsocial entity〔社会的実在〕の中で捉
える。つまり思想の外からの働き、思想の外への働きの相互作用の観点から思想史が書
かれる伝統をもっている。
『丸山眞男講義録2』


本書では200年間を歴史のスパンとして選択しているのだが、ヨーロッパにおける産業
革命をはじめとして、アメリカ合衆国の成立など社会変革が継続し、進化していたこの
200年という時間軸は世界史的にも同時代としての日本にとっても当然変革の波に洗わ
れ続けた時代である。

その構成として四つの時代に分割している。第一は徳川体制の成り立ちから倒幕に到る
時代。第二は近代革命(武士による革命としての明治維新)の1868年から1900年代初頭の
時代。第三は帝国日本の興隆から崩壊という1910年代から1950年の時代。第四は戦後日
本と現代日本という1952年から2000年までの時代。

こうした時代区分に違和感はさしてないものの、いくつかの気になる捉え方もある。例
えば第四部で戦後日本のスタート時期を日米講和条約締結の1952年としているのだが、
1945年8月15日の太平洋戦争の終戦を区切りとしていない。著者は日米講和条約締結以
前は貫戦期としてみているのである。そして戦後も戦前・戦中からの大企業・政党・官
僚機構という三つの組織が持続的ヘゲモニーを確立して、旧勢力が「無事に難関を切り
抜けた」という重要性とともに、膨大な中間層が戦後システムに利害関係を持ちそのエ
ネルギーを集中したことが占領期の改革の残した遺産とする考え方である。

また、アンドルー・ゴードンは、日本を特殊な国としてとらえるのではなく「日本とい
う場で、たまたま展開した特殊「近代的」な物語」を記述することであり、「特殊日本
的な物語」を語るのではないと言っている。この姿勢の対極として「新しい歴史教科書
を作る会」が発刊とともに発信したパンフレットの記述を引きつつ考え方の違いを語っ
ている。

「日本のいわゆる「歴史修正主義者」たちの集団、「新しい歴史教科書を作る会」は、
1990年代の末にアメリカのアジア学会の会員に送ったパンフレットの中で次のように主
張した。「それぞれの国は、他の国々と異なる独自の歴史認識を持っている。さまざま
な国が歴史認識を共有することは不可能である」。はたしてそうだろうか。本書は、こ
れとはちがう精神に立って、つまり、私たちのだれもが、それぞれの国の歴史について
共通理解に到達することに関心を持ち、そうした共通理解について考え、それに向けて
努力する義務を共有している、という想定に立って書かれている。・・これは、世界各
地の歴史経験が遠い過去のことか、近現代のことかにかかわらず、すべからく同じだと
主張することとは違う。歴史家の技法の本質は、さまざまな時代や場所にみられる特有
の社会構造や社会思想を分析する場合に、ユニークさを強調するあまり、それらを、他
の時代・地域の人々の経験とまったく共通点がない、隔絶した、ある特定の国だけに固
有な神秘的な本質であるかのようにとらえることなく、そうした社会思想に光を当て、
それらがどのように循環し、変遷をとげたかを跡づけることだ」

このように、特に日本版のまえがきでは鮮明に「新しい歴史教科書をつくる会」の発想
を、否定していると同時に、本書のタイトルについてアンドルー・ゴードンの考えが強
く示されている。

「本書のタイトルは、近現代性と相互関連性というふたつのテーマの重要性を表現して
いる。本書のような作品には、Modern Japanese Historyというタイトルをつけるのが
普通だろう。

しかし、そのようなタイトルをつけることは、日本的特殊性が叙述の中心
になることを示唆する、という意味を持つはずであり、「近代」と呼ばれている時代に
たまたま生じた、特殊「日本的な」物語へと読者の目を向けさせる、というニュアンス
を持つだろう。本書は、日本的であることと近代性とのあいだのそのようなバランスを
転換したいという狙いから、A Modern History of Japan を採用した。」


日本の歴史、文化や政治体制など、が外部とのつながりでまたは強制的な力によって、
どのように変化し、進化してきたのか、そんな視点からこの本を見ると今までの
歴史教科書とは違った文脈が見えてくる。これを国内の深層的な視点から見ている
和辻氏の日本倫理思想史とあわせるとさらに深みが増すように感じられる。
以下のゴードンの発言はそれを物語るものであろう。
ゴードン 私がここで言いたかったことは、日本固有だと思われていることが、実は世
界の近現代史と深く関係しているグローバルな事象だということです。そのことをさら
に明らかにしようと考え、外国から導入されたミシンという道具と日本女性の関わり方
にフォーカスしてみました。それをまとめたのが、『ミシンと日本の近代―― 消費者
の創出』です。外国からもたらされた「能率と合理性」のための道具であるミシンを、
日本の女性たちが受け入れ、他方では自分たちの文化も保とうとして抵抗し、複雑に屈
折しながら生活自体を変容させていく姿が、驚くほどよく見えてきました。西洋から日
本へのミシンの導入は、近代化のグローバル展開が日本でローカル化されるプロセスだ
ったのです。それが、「日本の近現代史は、世界の近現代史と不可分だ」と私が言う意
味です。




文字とこうした外来の思想と制度は、奈良・平安の時代(8世紀から12世紀)
に古典的日本文明の成果を生み出す基礎となった。アジア大陸との宗教面・経済面
での重要な関係は、中世期(13世紀から16世紀)を通じて継続された。
このように、近代がはじまる前の100年以上の間、日本の人々と渡来人は、
アジア大陸の様々な文化形態を導入し日本の環境に順応させる、という作業を
続けていたのである。
それらの文化形態のうち、宗教、哲学、政治にかかわる営為の中で伝統的にとりわけ
重要な位置を占めたのは、仏教と儒教だった。、、、、、、、
古代から近代にいたるまで、儒教思想の道徳観と政治観は、日本社会で重要な意味
を持ちつづけた。儒教は、支配者たちにとって、倫理的にも知的にも最高の資質を
備えた役人を登用することがいかに必要かを強調した。道徳心の涵養は、家庭内で
子供が両親、とりわけ父親にたいして孝行と尊敬の義務を果たすことからはじまる、
とされた。
広く学問を修め慈悲の心を身につけた者こそが、他人の上に立ち、導く資格を
持つものだとされた。

12
何世紀ものあいだに、神道の神官たち、仏教の僧侶たち、儒学者たち(それにこれら
3者の役割をひとりで同時にこなした者たち)は、神道の神々とそれら神々への
信仰と、仏教および儒教の伝統との統合化をはかった。8世紀以降、仏教寺院と
神道の神社がしばしば隣接して建てられるようになった。中世には、仏はいろいろと
姿を変えて神々として現れるのだとする新しい教義も打ち出された。徳川時代の
初期には、儒学者の中にも、同じように神道信仰と儒教の信条の類似性を強調する
動きがあった。

グローバルな視点からみると、日本列島は、比較的発展の遅れた後進地域であった。
日本は、東アジア域外の政治関係や経済関係には、ほとんど組み込まれていなかった。
資本主義の萌芽は顕著にみられたし、政治危機の兆しも広範囲におよんでいたが、
近い将来に経済、社会、政治体制、文化が革命的な変換を経験するとは、だれにも
思いもよらなかったはずである。だが、1900年の時点になると、日本はすでに
多面的な革命を経験し、欧米以外では最初に、そして当時では唯一、産業革命を
経験した国でもあった。、、、、、、、、
近代はまた、ジェンダー役割に新たな展開と不確実性をもたらした。
20世紀の前半には、政治テロと暗殺、海外への帝国主義的侵略と進出が起き、
そして1世紀あたりの殺戮行為の発生量において史上群を抜く世紀となった20世紀
の中でも最悪の部類に入る数々の残虐行為をもたらした戦争が起きた。21世紀が
はじまる時点までに、日本はすでに世界でももっとも豊かな社会の1つになって
いたが、国民は、経済を活性化すること、若い世代を教育し年老いた世代を扶養する
こと、そして国際社会で建設的な役割を担うこと、といった新たな、しかし困難な
課題に直面した。

218  教育の普及
文部省は国家主義的、道徳主義的なカリキュラムを重視する方針を打ち出した。
政府は、忠孝、従順、友愛などの儒教理念の重視を打ち出したほか、忠君愛国
を打ち出した。1850年に天皇の名において発布された教育勅語は、社会と国に
尽くすことを学ぶことこそが脅威Kの目標である、という政府の信条を反映していた。
これには、人間関係に関する儒教の核心的な徳目を列記する内容も含まれた。
「汝臣民父母に孝に兄弟に友に夫婦相和し朋友相信じ恭倹己を持し博愛衆に
及ぼすべし。」また「進んで公益を広め世務を開き常に国憲を重んじ国法に
したがい一旦緩急あれば義勇公に奉ずべし」ともある。


230
明治国家は、宗教を統制することに関しては一貫して積極的な役割を担った。
神道の場合は、重要な伊勢神宮天皇家の間には以前から長年にわたって
結びつきがあったとはいえ、1868年以前には、いわゆる「神道」の実践
国家と密接な関係を持つことはなく、地域の集落ごとの鎮守を祀るための
分散化された地方レベルの神社を中心におこなわれていた。明治の初期には
政府は神道を司る官庁組織を日本の歴史では初めて設置した。1868年には
神祇官を設置し、次いで1870年には大教宣布にかんする詔書を発布して、
神道、すなわち「神ながらの道」を、国を導く国教とする旨を宣言した。
その後、神道を司る行政機関の格付けは下げられたが、神道こそはすべての
日本人を統合する古くからの宗教だとする認識は、その認識を普及させる
貯めの諸制度ともども、明治期の近代国家の建設者によって、紆余曲折を
ともないながら、あらたに作り出されたのである。この一連の措置により
1871年をピークとして多くの寺院や仏像、遺跡が破壊された。


233
明治期の日本でめがくらむような速さで進行した変化は、様々な反応を
引き起こした。、、、変化に対する乱することへの恐れ、ジェンダー秩序が
混乱することへの恐れ、「われわれ日本人とは何者か」という問いへの答え
を求めたいという文化的な関心、という三つの領域で表面化した。、、、、
しかし、改革を目指そうとした様々なプロジェクトの背後に潜んでいたのは、
日本国内の住民と国外の人々を分け隔てする論理だった。この論理から、
一連の問いかけが派生した。われわれがこのような変革をおこなっている
究極の目的はいったい何なのか?我々は鉄道を建設したり、ヨーロッパ式の
憲法を採択しているが、日本人に固有なアイデンティティを持っているのか?
持っているとしたら、それはいったい何か?政教社の創立者たちは、日本が
いわゆる文明への道をたどるにつれて、西洋化が「我日本人をして国民の性格を
失わせしめ日本在来の分子を悉く打破して」しまうのではないか、と懸念した。
何よりも重要なのは、天皇に政治的、文化的なよりどころを求めることで、こうした
恐怖や不安への対処が図られてことである。

382
日本と欧米の帝国主義のあいだには、その後、事態が展開してゆく過程で非常に
重要になるはずの、二つの違いがあった。一九二〇年代の半ば以降、中国の国民党
政権にある程度の自主権を回復させて、中国への帝国主義的進出からの後退を
はかろう、という欧米列強の意向は、日本よりもほんのわずかつよいものとなった。
そして、その時点を境に、中国への対応姿勢をめぐる日本と欧米諸国のあいだの
対立は、深まる一方となった。そしてもうひとつ重大な結果を招くことになったのは、
一九三〇年代になって、明治憲法の下で築かれた日本の政治体制が、政府指導者による
有力者間の紛争調停の努力にとって、さまたげになってしまったことだった。
要するに、一九二〇年代の終わりから三〇年代のはじめにかけて、帝国民主主義
秩序が国の内外で攻撃にさらされると、日本の指導者たちは、民主主義よりも
天皇と帝国を優先したのである。

490
新憲法は1946年11月3日に公布され、47年5月3日に施行された。
新憲法は、天皇の地位を絶対君主から「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」
へと引き下げた。日本国民に対しては、表現の自由、集会の自由、信仰の自由
などアメリカの権利の章典がかかげる市民的自由をはじめとする一連の基本的
自由を保障した。
憲法の野心的な条項は、公に認められた目標ないし理念として、それは今日まで
現代日本社会の言説と制度の枠組みを規定してきた。、、、、
GHQの命令によって実施された農地改革は、日本の農村部における社会的、
経済的権力の分配を革命的に変えた。、、、、
このような多岐にわたる思い切った措置は、日本の思想環境を一新し、社会的、
経済的な力の分布を変えた。民主化熱が日本中を覆った。民主主義と平等を
推進するための様々な計画を唱道した人は、民主主義や平等というものを、
選挙とか農地改革を超えた非常に広い意味に理解した。

558
かって1920年代と30年代には、複数の社会的緊張、地主と小作農の間、
財閥のオーナーと困窮した労働者の間、都市と農村の間の緊張など、は、
日本を破壊的な戦争へと突き進ませることになった一触即発の不安定要因
の一環をなしていた。第2次大戦後の高度成長期になると、新旧の社会的な
分断は、以前に比べていくぶんか一触即発的でなくなった。以前から続いていた
格差や、形を変えて現れてた格差は、政府の政策によって制御された。
また、日本は均質的な人々が住む国であって、そこでは、拡大し続ける
近代的な中間階級の生活の恩恵と社会保障の分け前がほぼ全員にある程度
まで保障されているのだ、とする強力な文化的なイメージも、そうした格差を
緩和するのに一役買った。
マスメディアは、日本国民が抱くこのような経験の共通意識を増幅させる
ことによって戦後の社会史で重要な役割を演じた。、、、、、
このメディア漬けの環境の中で、中間階級の生活はこうあるべきだという
標準化されたイメージは広範囲に広がった。、、、、、
メディアが流す日常の番組もまた、教育水準の高い都会の中間階級の一家族
の生き方を、すべての日本人が経験していることの典型であるかのように
描き出した。、、、
通常の番組も大きなイベントの報道も、日本の戦後の近代的な生活が、
先進資本主義世界には共通なグローバルな近代文化の一環をなしていることを
明らかにした。

630
1980年代の後半、日本の民間企業の行動は国内でも国外でも、一段と活気を
帯びる。企業は一斉に猛烈な勢いで設備投資を行った。1985年から1989年
までの期間、総固定資本形成は、毎年のGNPの30パーセント近くに上ったが、
これは、高度成長がピークにあった60年代当時の投資率に匹敵する率だった。
日本人が、世界中を見まわして、自分たちの成功と幸運にますます自信を深めた
のはすこしも不思議ではなかった。、、、、、
唐津の分析は、いわゆる「日本人論」とよばれる執筆活動のジャンルにおける
言説の典型であった。日本人論の特徴は、思想、美意識、社会、経済組織、
政治文化の伝統から、脳の片側を別の側よりも頻繁に使う傾向の有無などに
かんする神経生物学的な特徴に至る様々な領域で、日本固有の独自性を強調する
ことにある。日本人論は、すくなくとも三宅雪嶺や岡倉天心などの明治中期の
思想家たちやフェノロサなどの当時の外国人観察者にまで遡る長い歴史
を持っている。日本経済が1980年代を通じて繁栄を続けるのと並行して
「日本人論」の言説をつくりだし広める文化産業も繁栄した。そうした、
言説は、従来の言説と同じように、日本人全体がひとつにまとまっていることを
強調する一方、日本社会に存在する様々な重要なちがいや緊張について
言葉を濁した。

1980年代について
・人口の高齢化に伴う福祉サービス、コスト増加も、1980年代に浮上した重要な
政治問題の一つだった。
・1980年代と90年代を通じて、平均寿命はゆっくりとではあるがさらに上昇を
続ける。一方、合計特殊出生率(平均的な女性が一生に産む子供の数)は、低下
の一途をたどった。1990年には出生率が史上最低の1.6まで低下すると、
将来さらにつづく見込みの出生率の低下をめぐって懸念の声が沸き起こった。
・さらに、人々の耳目を集めた新しい社会問題のひとつは、小中学校で残忍な
いじめが増えたことである。
・80年代の大半の時期を通じて、もてるものと持たざる者の格差が広がるという
問題は、大半の日本人の目には処理可能な、些細な問題と映った。
653
戦後の復興から予想だにしなかった豊かさに至るこの歴史は、軌跡と模範の
物語だったのか、脅威的なグローバルな怪物の登場の物語だったのか、それとも
徳の喪失と伝統的価値観の風化にかんする悲話だったのか。これらの見方
すべてが、日本国内で、そして世界中で表明された。そのすべての見方の背後に
横たわっているのは、日本を、非常に違った、さらには独特な違いを持った場所と
みなす、誤った考え方である。日本が味わってきた様々な経験は、たしかに
興味深いがさほど例外的ではない、ととらえるべきであろう。日本の経験は
近代性と豊かさとの取組みという、ますますグローバル化しつつあるテーマの、
他とはちょっと趣を異にする一つの具体的な表われだったのである。

654
日本と世界の時間の流れを1990年前後を境として区切るという発想は、説得的で
抗しがたい。ベルリンの壁が崩壊したのは1989年、二つのドイツが統一されたのは
90年だった。ソ連の帝国が分解したのは1989年で、ソ連自体が瓦解したのは
91年だった。日本では、ヨーロッパにおけるこのような革命的な変化の前後、198
9年
1月に昭和天皇が死んだ。同じ年の7月、自民党は参議院選挙で惨敗した。
自民党の議席が参議院で過半数を割ったのは、結党以来初めてのことであった。
1990年には、80年代の投機的なバブルが劇的な形ではじけて、10年以上に
およぶ経済不況が始まった。90年代の世界的な文脈も、日本国内の時代的な精神も
ともに80年代とは大きく変わった。

・「長崎市民の会」は天皇に関する一切のタブーの廃止を求める署名活動を展開した。
これには40万人近くの署名が集まった。このような行動は、戦前には思いも
よらなかったはずである。、、、、
・新天皇自身は、天皇の役割を象徴的なもに限定する戦後憲法の規定を尊重することを
誓った。様々な世論調査の結果は国民の圧倒的多数が、象徴的な君主としての
天皇を支持しており、それ以上でもそれ以下でもなかった。
・嘆かわしい若者の行動のいくつかが90年代の社会問題化した。それにたいしては
このような道徳観念の欠如が広まった背景には物質主義が強まり家族関係が希薄
になったことによって心が危機状態に置かれている、ともいう。

共産党宣言と日本の200年
マルクスとエンゲルスは、この有名な『宣言』の冒頭で「ヨーロッパに亡霊が出る――
共産主義という亡霊が。ヨーロッパの老大国は、こぞってこの亡霊を退治すべく神聖な
同盟を結んだ」と共産主義の影響力を誇った。
ブルジョア階級は、世界市場の開拓を通して、あらゆる国々の生産と消費を国籍を超え
たものとした。
反動派の悲嘆を尻目に、ブルジョア階級は、産業の足元から民族的土台を切り崩してい
った。民族的な伝統産業は破壊され、なお日に日に破壊されている。
それらの産業は新しい産業に駆逐され、この新たな産業の導入がすべての文明国民の
死活問題となる。(『共産党宣言』)
実際には、それは当時イギリスに亡命していた数人のドイツ人が結成した共産主義者
同盟という小さな結社の合意文書で、正式に綱領として採択されたわけでもない。
このころ共産主義運動も社会主義運動も、ほとんど実態のない「亡霊」にすぎなかった
。
資本主義も当時はグローバルではなく、世界のGDPに占める貿易額の比率は10%にも満
たなかった。
20世紀初頭には現在の半分ぐらいの比率に達したが、1930年代のブロック経済化でグロ
ーバル化は逆転し、植民地の独立によって貿易の比重は下がった。
それが戦前と同じ水準に戻ったのは70年代だった。
マルクスとエンゲルスの時代には、グローバル資本主義は遠い夢だったが、
トム・フリードマンにとっては自明の現象だ。彼らにとっては文明とはアメリカのこと
であり、それによって世界をフラット化する資本主義は、無条件に世界を進歩させるも
のだ。
それを批判する「反グローバリズム」の運動が、マルクスを教祖とあおぐのは滑稽
である。
彼がグローバル化を否定したことは一度もない。それどころか彼は資本主義が「民族的
な伝統産業を破壊」して世界市場を統合するダイナミズムを「資本の文明化作用」
と呼んで肯定したのだ。


グローバル化とフラット化
 『フラット化する世界』ではフラット化時代の富は次の基本的な三つの条件を
満たす国が手に入れる可能性が高いと主張している。
すなわち、第一に、フラットな世界に効率的に接続できるインフラを持つこと。
第二に、イノベーションを行って高い付加価値を生み出すような人材が育成できること
。
第三に、適切なガバナンス―たとえば、適切な税制、投資・商取引に関する適切な
法律、研究支援、知的財産権に関する法律の整備、そして国民に適切なインセンティブ
を与えるリーダーシップ―によって、フラット化を促進し管理することを挙げている
(下巻 p.81)。
ヒト・モノ・カネやサービスがそれを必要とする先に自由に移動していく、あるいは
サービスを提供していくことは、消費者の立場からすれば、よりよい財・サービス
をより安価に享受できるようになったことを意味する。同時に、企業側から見れば、
世界中のライバルが市場シェアを奪おうと熾烈な競争が展開されていると映る。
このような状況は全体として見れば、経済の効率性を上昇させ、既得権者による
レント(余剰)を削るという点で望ましい流れであると言える。
フリードマンは、アメリカにはフラット化の最大の恩恵を受ける資格があるとして
いるが、アメリカも盤石ではない。冷静に考えれば、第二次世界大戦前の学問水準
はヨーロッパの方が高かったし、戦後40年間の短いアメリカの優位性もヨーロッパ
の科学者を大量に受け入れたからであると考えれば、アメリカが楽観できる状況
にあるとは決して言えないはずである。
グローバル化とフラット化の意味は、世界中で才能のある人間には成功する
チャンスが与えられるようになったということである。だからこそ、ビル・ゲイツ
も「アメリカの田舎で凡人として生まれるより、中国の天才として生まれたい」
(上巻 p.318)と言うようになったのである。

資本主義における信頼
フリードマンによれば、このようなグローバル化とフラット化の流れの中では、
「人間が自分の潜在能力を自由に認識できる世界」をつくり出そうというイマジネーシ
ョン
が重要であり、そのイマジネーションを持った多くの人材を育てること、そして、
そういった「開かれた社会」を保証する制度が不可欠だということになる。
とりわけ、制度の前提としての「信頼」が重要であると指摘している。
フラット化した世界では、不特定多数の、明らかに異文化のパートナーとビジネス
を行うことが当たり前になる。その際、ビジネス・プロセスや、法体系が整備
されており、時の政権の判断で契約が覆されるというような不確実性が排除されて
いれば、先が予測でき、信頼が生まれることになるし、イノベーションを促進する
ことになるであろう。つまり、制度が「ある」だけでは不十分であり、その制度が
適切に機能するという「信頼」が重要なのである。
この点で、開発途上国が様々な制度を導入して法文化しても、「信頼」が得られなけ
ればフラット化した世界のプラットホームにはなれないし、それらの国にいる有能な
人材はむしろ流失してしまうことになる。「共同作業を行う相手によって、
付加価値がどんどん生まれ、複雑な問題が次々と解決されるフラットな世界では、
高度な信頼のある社会がいっそう有利になる」(下巻 pp.69-70)ゆえんである。
信頼が重要であるという観点は、フリードマンに限られたものではない。
『「みんなの意見」は案外正しい』はさらに踏み込んで次のような議論をしている。
すなわち、スロウィッキーは、中世までは、血縁や共同体、信仰を共にする同志に
限定されていた信頼関係が、資本主義の勃興と共に、個人的関わりのない人とも信頼関
係
を結ぶことが可能になった経緯について解説している。これは、他人であっても、
協調して信頼関係を築くことが互いのメリットになることを理解することによって
初めて可能になるメカニズムである。
「(金銭を媒介とするような)こういう非人間的な側面は、通常資本主義では避けられ
ない不幸な代償だととらえられている。血縁とか感情に基づく関係の代わりに、
マルクスが『金銭的な結びつき』と呼んだものだけに基づく関係が生まれるからだ。
だが、この非人間性こそが資本主義の美点なのだ。」(pp.135-136)
資本主義が発展していくためには、不特定多数の間で信頼関係が結ばれる必要が
ある。しかし、それを制度化する機構としては、金銭的関係だけでは不十分である。
教育機関があり、金融機関があり、司法制度、会計監査制度、市場といった制度補完
が重要だ。長期的に繰り返し行う取引関係であれば、信頼関係は培われるだろうし、
それは守られるであろうが、一回限りの取引でも信頼関係が成り立つためには、
法律による規制や教育による補完がなければ維持することは難しいのである。 


共産党宣言
第1章 ブルジョワとプロレタリア より     永江良一 :訳

ブルジョワジーは、たえず生産用具を革命的に変え、そのことによって生産関係を
革命的に変え、それにより社会関係全体を革命的に変えることなくしては、生存する
ことができません。
それとは反対に、古い生産様式をその形を変えることなく保持することが、それ以前
のすべての産業階級の第一の生存条件でした。たえず生産を革命的に変え、間断なく
あらゆる社会状態をかき乱し、果てしなく不安定にし動揺させ続けることが、ブルジョ
ワ
時代をそれ以前のあらゆる時代から区別する特徴となっています。古めかしく敬うべき
偏見や意見をひきずった、あらゆる固定し堅く氷ついた関係はさっさと廃止しされ、
新しく形成された関係はみんな固定化するまえに古くさいものとなってしまうのです。
あらゆる堅牢なものが溶けて霧散し、あらゆる聖なるものが世俗のものとなり、
人はついには自分たちのほんとうの生活状態および仲間との関係に、醒めた感覚で
直面せざるをえなくなります。

自分たちの生産物のためのたえず拡大する市場に対する必要性から、ブルジョワジー
は地球の全表面を駆り立てられます。ブルジョワジーはどこにでも巣をかけ、
どこにでも住み着き、どことも関係を確立しなければならないのです。
ブルジョワジーは、世界市場の開発を通して、どこの国でも生産と消費に世界主義的
性格を与えます。反動家にははなはだお気の毒ですが、ブルジョワジーは産業の足元
から、それがよって立っていた国民的基盤を掘り崩しました。古くからあった国民的な
産業すべては破壊されてしまったか、あるいは日々破壊されています。
そうした産業は新しい産業に押しのけられ、新しい産業を導入することはすべての文明
諸国の死活問題となっています。産業はもはやその土地の原料を使うだけではなく、
はるか遠く離れた地域からもってきた原料を使い、その生産物は国内だけでなく、
世界のいたるところで消費されるのです。その国の生産物で満足していた古い欲望に
かわって、満足させるには離れた土地や風土の生産物が必要な新しい欲望が
あらわれます。
古い局地的で国民的な隔離と自足にかわって、あらゆる方面との交易が、諸国民の
普遍的な相互依存があらわれるのです。そして物質的生産と同じことが、知的生産に
おいても生じます。個々の国民の知的創造は共有の資産となります。国民的な一面性や
偏狭さはますます不可能となり、多くの国民的な局地的な文学から、一つの世界文学
があらわれるのです。
ブルジョワジーは、あらゆる生産用具を急激に改良することで、限りなく便利になった
交通手段によって、あらゆる国民を、たとえもっとも野蛮であっても、文明へと
ひきいれるのです。商品の安い価格は、野蛮人のひどく頑固な外国人嫌いも屈伏させる
重砲隊なのです。ブルジョワジーはあらゆる国民に、滅亡を覚悟し、ブルジョワ的
生産様式の採用を強制し、そのど真中にいわゆる文明を導入すること、すなわち
ブルジョワそのものになることを強制します。要するに、ブルジョワジーは自分の姿
に似せて世界を創造するのです。

ブルジョワジーは農村を都市の規則に服従させました。ブルジョワジーは多数の都市
をつくりだし、農村人口に比べ都市人口を著しく増加させ、そうやって人口の
いちじるしい部分を農村生活の白痴状態から救い出したのです。
農村を都市に依存させたのと同じように、ブルジョワジーは野蛮および半野蛮な国を
文明国に、農業国をブルジョワ国に、東洋を西洋に依存させたのです。

ブルジョワジーは、人口、生産手段、財産の分散した状態をだんだん廃止して
いきます。人口を密集させ、生産手段を集中し、財産を少数の手に集めて
しまいました。
このことの必然的結果は政治的中央集権でした。ばらばらの利害、法律、政府、
課税制度をもつ独立した、ないしゆるく結び付いた地方は、集まって一つの政府、
一つの法体系、一つの国民的階級利害、一つの国境、一つの関税をもつ一つの国民
となったのです。

ブルジョワジーは、その百年に満たない支配の間に、先行する世代のすべてを
合わせたよりも、もっと大規模な、もっと膨大な生産力を作り出しました。
自然の力を人間に服属させること、機械、工業や農業への化学の応用、蒸気船、鉄道、
電信、全大陸を耕作のために掃き清めること、河川を運河とすること、魔法で地から
涌き出たような全人口、以前のどの世紀も、社会的労働のふところにこのような
生産力がまどろんでいるということを、予想すらしませんでした。

そこで、わかったのは、ブルジョワジーが立脚している土台である生産手段と交換手段
は、封建社会の中で生まれたということです。こういう生産手段と交換手段の発展
がある段階になると、封建社会の生産や交換がおこなわれてきた諸条件、農業と工場制
手工業の封建的組織、要するに、封建的所有関係は、既に発展している生産力とは
もはや両立できなくなり、足枷となりました。こういう関係は粉々に粉砕しなけれ
ならなくなり、粉々に粉砕されたのです。

そういう封建的関係があったところには、自由競争が入り込み、それとともに、それに
適した社会的および政治的制度と、ブルジョワ階級の経済的および政治的支配があらわ
れたのです。

同じような運動が私たちの目の前で進行しています。ブルジョワ的生産関係、交換
関係、所有関係をもつ近代的ブルジョワ社会、このように巨大な生産手段や交換手段
を魔法のように呼び起こした社会は、自分の呪文で呼び出した地下世界の力をもはや
思うようにできなくなった魔法使いのようです。ここ数十年の歴史は、近代の生産条件
に対する、ブルジョワとその支配の生存条件である所有関係に対する、近代の生産力
の反乱の歴史にほかなりません。周期的にぶり返しては、ブルジョワ社会全体を
審判に付し、度重なるごとに激しくなっていく、商業恐慌のことをあげておけば
十分でしょう。こういう恐慌では、今ある生産物だけでなく、これまでに作り出された
生産力の大部分が、周期的に破壊されるのです。こういう恐慌では、以前の
どの時代でも馬鹿げている思われたような疫病、過剰生産という疫病が突発します。
社会は突然、一時的な野蛮状態に逆戻りし、まるで飢饉とか全般的荒廃戦争であらゆる
生活手段の供給が途絶えたかのようになり、工業も商業も破壊されたように見えます。
なぜでしょうか。あまりに文明化しすぎ、あまりに生活手段が多すぎ、あまりに
工業も商業も発達しすぎたからです。社会が自由にできる生産力は、もはやブルジョワ
的所有の条件を促進しようとはせず、反対に、生産力はこういう条件には強力に
なりすぎ、生産力は足枷をかけられるのですが、生産力が足枷を乗り越えると
たちまち、ブルジョワ社会全体に混乱をもたらし、ブルジョワ的所有の存在を
危機にさらすのです。
ブルジョワ社会の条件は、それが作り出す富を容れるのには狭すぎるのです。
ではブルジョワジーはこの恐慌をどうやって乗り越えるのでしょうか。
一方では、大量の生産力を強制的に破壊することによって、もう一方では、新しい市場
を獲得し、古い市場をさらにいっそう掘りつくすことによってなのです。
言うなれば、もっと広範囲でもっと破壊的な恐慌への道を開くことによって、恐慌を
避ける手段を縮小することによってなのです。

ブルジョワジーが封建制を打ち倒すのに使った武器が、今ではブルジョワジーそのもの
に向けられているのです。
、、、

プロレタリアートの発展のもっとも一般的な諸段階を描写するなかで、私たちは現存す
る社会で荒れ狂う、多かれ少なかれ隠された内乱を跡づけて、内乱が公然たる革命を
勃発させ、ブルジョワジーの暴力的打倒が、プロレタリアートの支配の基礎を築く
ところにまで、到達しました。
既にみてきたように、これまで、あらゆる社会形態は、抑圧階級と被抑圧階級の対立
に基礎を置いてきました。しかし、ある階級を抑圧するためには、少なくとも奴隷的
生存を続けることができるだけの条件が、その被抑圧階級に保証されなければ
なりません。
農奴制の時代に農奴はコミューンの成員にまで成り上がり、同じように、
プチ・ブルジョワは、封建的絶対主義の軛のもとで、なんとかブルジョワへと
発展したのでした。
反対に、近代的労働者は、工業の進展とともに勃興するのではなくて、自身の階級の
生存条件はますます沈み込んでいくのです。労働者は貧困者となり、貧困状態は
人口や富の発展よりも急速に発展します。そしてここに、ブルジョワジーがもはや、
社会の支配階級であり、自分たちの生存条件を支配的法則として社会に押しつける
には、不適格であることが明らかになるのです。ブルジョワジーはその奴隷制の
奴隷に生存を保証する能力を欠き、奴隷から養われるかわりに、奴隷を養わなくては
ならないような状態にまで奴隷を落とさざるをえないのだから、支配するには
不適格なのです。社会はもはやブルジョワジーのもとで生きていくことが
できません。言い換えると、ブルジョワジーはもはや社会と両立できないのです。

ブルジョワ階級の存在と支配の本質的条件は、資本の形成と増大です。そして資本
の条件は賃労働です。賃労働はもっぱら労働者の間の競争を当てにしています。
ブルジョワジーは不本意ながら工業の進歩の促進者なのですが、この工業の進歩は、
競争による労働者の孤立を、結社による革命的連携で置き換えます。だから近代工業
の発展は、ブルジョワジーの足元から、ブルジョワジーが生産し生産物を専有
してきた基盤そのものを取り除きます。
ですからブルジョワジーが生産したものは、なによりもまず、自分の墓掘り人
なのです。ブルジョワジーの没落とプロレタリアートの勝利は、等しく避けられない
ことなのです。
 
日本の200年から思うこと
この本では、200年間を歴史のスパンとして、ヨーロッパにおける産業革命を
はじめとして、アメリカ合衆国の成立など社会変革が進化していたこの時期に、
同時代としての日本にとっても当然変革の波に洗われ続けた時代として描いている。
その構成として四つの時代に分割している。第一は徳川体制の成り立ちから倒幕に
到る時代。第二は近代革命(武士による革命としての明治維新)の1868年から
1900年代初頭の時代。第三は帝国日本の興隆から崩壊という1910年代から
1950年の時代。第四は戦後日本と現代日本という1952年から2000年
までの時代であるが、1980年代前後を働き盛りとして生き抜いた人間としては、
その社会、政治変化は、回顧の想いも含め興味深く読める。
また、アンドルー・ゴードン氏は、日本を特殊な国としてとらえるのではなく
「日本という場で、たまたま展開した特殊「近代的」な物語」を記述することであり、
「特殊日本的な物語」を語るのではないと言っている。
日本の歴史、文化や政治体制など、が外部とのつながりでまたは強制的な力によって、
どのように変化し、進化してきたのか、そんな視点からこの本を見ると今までの
歴史教科書とは違った文脈が見えてくる。これを国内の深層的な視点から見ている
和辻氏の日本倫理思想史とあわせるとさらに深みが増すように感じられる。

以下のゴードン氏の発言はそれを物語るものであろう。
「私がここで言いたかったことは、日本固有だと思われていることが、実は世
界の近現代史と深く関係しているグローバルな事象だということです。そのことをさら
に明らかにしようと考え、外国から導入されたミシンという道具と日本女性の関わり方
にフォーカスしてみました。それをまとめたのが、『ミシンと日本の近代―― 消費者
の創出』です。外国からもたらされた「能率と合理性」のための道具であるミシンを、
日本の女性たちが受け入れ、他方では自分たちの文化も保とうとして抵抗し、複雑に屈
折しながら生活自体を変容させていく姿が、驚くほどよく見えてきました。西洋から日
本へのミシンの導入は、近代化のグローバル展開が日本でローカル化されるプロセスだ
ったのです。それが、「日本の近現代史は、世界の近現代史と不可分だ」と私が言う意
味です」。
さらに言えば、2000年以降は、インターネットの拡大による情報の拡散の速さや
物理的なものの移動と量の大きさや速さが格段に進んできた。出来れば、2000年
以降の具体的な記述があるとさらに面白く読めるのでは、と思う。

ゴードン氏が言いたかったことが本文にもあるが、日本人として長く培われてきた
「心のDNA」を、日本人固有の物として継承していきたい。
「戦後の復興から予想だにしなかった豊かさに至るこの歴史は、軌跡と模範の
物語だったのか、脅威的なグローバルな怪物の登場の物語だったのか、それとも
徳の喪失と伝統的価値観の風化にかんする悲話だったのか。これらの見方
すべてが、日本国内で、そして世界中で表明された。そのすべての見方の背後に
横たわっているのは、日本を、非常に違った、さらには独特な違いを持った場所と
みなす、誤った考え方である。日本が味わってきた様々な経験は、たしかに
興味深いがさほど例外的ではない、ととらえるべきであろう。日本の経験は
近代性と豊かさとの取組みという、ますますグローバル化しつつあるテーマの、
他とはちょっと趣を異にする一つの具体的な表われだったのである。」

その記述からもう少し日本の外的な流れの中での動きを見ていくと、
その1)文字とこうした外来の思想と制度は、奈良・平安の時代(8世紀から12
世紀)に古典的日本文明の成果を生み出す基礎となった。アジア大陸との宗教面・
経済面での重要な関係は、中世期(13世紀から16世紀)を通じて継続された。
このように、近代がはじまる前の100年以上の間、日本の人々と渡来人は、
アジア大陸の様々な文化形態を導入し日本の環境に順応させる、という作業を
続けていたのである。
それらの文化形態のうち、宗教、哲学、政治にかかわる営為の中で伝統的にとりわけ
重要な位置を占めたのは、仏教と儒教だった。、、、、、、、
古代から近代にいたるまで、儒教思想の道徳観と政治観は、日本社会で重要な意味
を持ちつづけた。儒教は、支配者たちにとって、倫理的にも知的にも最高の資質を
備えた役人を登用することがいかに必要かを強調した。道徳心の涵養は、家庭内で
子供が両親、とりわけ父親にたいして孝行と尊敬の義務を果たすことからはじまる、
とされた。広く学問を修め慈悲の心を身につけた者こそが、他人の上に立ち、
導く資格を持つものだとされた。

これに関し、以下の日本倫理思想史で和辻氏が書いている記述を読むともう少し
その背景がわかるのでは、と思う。
「明治時代の倫理思想」について描いている。
封建制の崩壊、国民的国家の樹立は、開国の方針とは全然逆の攘夷の立場において
成就したと信じていた人も少なくなかったであろう。然るに明治維新の思想的立場を
表示した五箇条の御誓文は、全然攘夷の立場などを放棄して、ヨーロッパの近代
国家に追いつこうとする規制を示したものであった。、、、
しかし王政復古は、単に武家執権の以前に帰ったというだけではなかった。それは
開国と必然に結びついている近代的国民国家への急激な転向であった。その際
皇位の伝統は、国民的統一を表示するものとして実際に作用する力を持って
いたのである。開国の事実と、封建組織の崩壊、国民的国家の形成の事実とを、
密接に連関したものと認め、そこに明治時代の社会の最も著しい特徴を見出す
のである。
右のような特徴を明治時代の初期に逸早く反映したのは、明六社の人々の思想
であった。福沢諭吉、加藤弘之、中村敬宇、西村茂樹、西周、津田眞道、森有禮、
神田孝平など。
特に福沢諭吉の想いは、二世紀半にわたる鎖国状態がもたらした文明の遅れを、
取り戻すという問題への取り組みであった。、、、、
政府の指導者たちは、西洋の文明に対する目を開いていた。だから、知識を世界に
求めることは初めから明治政府の方針であった。しかし廃藩置県の仕事の終わる
ころまでは、攘夷の旗印のもとに糾合された様々な思想運動、即ち水戸学風の尊王
攘夷論や山陽風の楠公崇拝や国学風の国粋主義などに凝り固まった連中に対して、
相当に強い発言権を与えていた。そのもっとも著しいのが大教宣布である。
それは一時神道を国教とするのではないかという疑念を呼び起こしたほど狂熱的な
烈しさを示したが、しかしその底力は儒教や漢学に及ばなかった。
福沢は、「学問のすすめ」を描いた。
人は生まれながらにして貴賤上下の差別を持ったものではない。万民は皆同じ位
である。しかし実際はそうでない。このため、「有様」の問題と「権利通義」の
問題とに分けて説明した。これにより、人権の平等の考えを展開した。さらには、
この考えを「国と国の間柄」に広げ、国は同等なることを説いた。
「いかに弱小であっても、一国はその独立の存在を保つ権利を持っている。
しかしその独立の権利を確保しうるのは、ただ「国中の人民の独立の気力」である。
だから「外国に対して我が国を守らんには、自由独立の気風を全国に充満せしめ、
国中の人々を貴賤上下の別なく、その国を自分の身の上に引き受け、各その国人たち
の分を盡さざるべからず」もしこの権利を侵害しようとするものが現れてくれば、
「日本国中の人民、一人残らず命を捨ててそれに抵抗すべきである。
これらの啓蒙運動により日本人に国民的国家の意義を理解させようとした。
また、「文明論之概略」では、文明を国民集団の主体的精神的な方面から捉え様
とした。「個人の知徳がどれほど進歩してようとそれが直ちに文明なのではなく、
国民一般の知徳の進歩のみが文明と呼ばれるとした。特に智の働きにおいては、
人の数よりも智力の質が重要であり、ヨーロッパの文明の優れている点を明確にした。

その2)何世紀ものあいだに、神道の神官たち、仏教の僧侶たち、儒学者たち
(それにこれら3者の役割をひとりで同時にこなした者たち)は、神道の神々と
それら神々への信仰と、仏教および儒教の伝統との統合化をはかった。
8世紀以降、仏教寺院と神道の神社がしばしば隣接して建てられるようになった。
中世には、仏はいろいろと姿を変えて神々として現れるのだとする新しい教義も
打ち出された。徳川時代の初期には、儒学者の中にも、同じように神道信仰と儒教の
信条の類似性を強調する動きがあった。
(この辺は日本倫理思想史に詳細に描かれている。神道と儒教が生活に密接な位置を
占めていた。)
グローバルな視点からみると、日本列島は、比較的発展の遅れた後進地域であった。
日本は、東アジア域外の政治関係や経済関係には、ほとんど組み込まれていなかった。
資本主義の萌芽は顕著にみられたし、政治危機の兆しも広範囲におよんでいたが、
近い将来に経済、社会、政治体制、文化が革命的な変換を経験するとは、だれにも
思いもよらなかったはずである。だが、1900年の時点になると、日本はすでに
多面的な革命を経験し、欧米以外では最初に、そして当時では唯一、産業革命を
経験した国でもあった。、、、、、、、、
近代はまた、ジェンダー役割に新たな展開と不確実性をもたらした。
20世紀の前半には、政治テロと暗殺、海外への帝国主義的侵略と進出が起き、
そして1世紀あたりの殺戮行為の発生量において史上群を抜く世紀となった20世紀
の中でも最悪の部類に入る数々の残虐行為をもたらした戦争が起きた。21世紀が
はじまる時点までに、日本はすでに世界でももっとも豊かな社会の1つになって
いたが、国民は、経済を活性化すること、若い世代を教育し年老いた世代を扶養する
こと、そして国際社会で建設的な役割を担うこと、といった新たな、しかし困難な
課題に直面した。
(この本では、女性、ジェンダーの記述がかなりある。日本の歴史関連書ではあまり
語られていないが、その視点の違いを感じる)

その3)明治国家は、宗教を統制することに関しては一貫して積極的な役割を担った。
神道の場合は、重要な伊勢神宮天皇家の間には以前から長年にわたって
結びつきがあったとはいえ、1868年以前には、いわゆる「神道」の実践
国家と密接な関係を持つことはなく、地域の集落ごとの鎮守を祀るための
分散化された地方レベルの神社を中心におこなわれていた。明治の初期には
政府は神道を司る官庁組織を日本の歴史では初めて設置した。1868年には
神祇官を設置し、次いで1870年には大教宣布にかんする詔書を発布して、
神道、すなわち「神ながらの道」を、国を導く国教とする旨を宣言した。
その後、神道を司る行政機関の格付けは下げられたが、神道こそはすべての
日本人を統合する古くからの宗教だとする認識は、その認識を普及させる
貯めの諸制度ともども、明治期の近代国家の建設者によって、紆余曲折を
ともないながら、あらたに作り出されたのである。この一連の措置により
1871年をピークとして多くの寺院や仏像、遺跡が破壊された。
(古代から戦前までの人にとって、天皇への忠誠、心の原点としても生きていた
のではないのだろうか)

その4)明治期の日本で目がくらむような速さで進行した変化は、様々な反応を
引き起こした。、、、変化に対する乱することへの恐れ、ジェンダー秩序が
混乱することへの恐れ、「われわれ日本人とは何者か」という問いへの答え
を求めたいという文化的な関心、という三つの領域で表面化した。、、、、
しかし、改革を目指そうとした様々なプロジェクトの背後に潜んでいたのは、
日本国内の住民と国外の人々を分け隔てする論理だった。この論理から、
一連の問いかけが派生した。われわれがこのような変革をおこなっている
究極の目的はいったい何なのか?我々は鉄道を建設したり、ヨーロッパ式の
憲法を採択しているが、日本人に固有なアイデンティティを持っているのか?
持っているとしたら、それはいったい何か?政教社の創立者たちは、日本が
いわゆる文明への道をたどるにつれて、西洋化が「我日本人をして国民の性格を
失わせしめ日本在来の分子を悉く打破して」しまうのではないか、と懸念した。
何よりも重要なのは、天皇に政治的、文化的なよりどころを求めることで、こうした
恐怖や不安への対処が図られてことである。
(日本人としてのアイデンティティ、明治期は外的な要因からであったが、
浮遊する現代でも、この問いかけがあるべき時期なのでは)

戦後は大きく変わる。それは物質面、精神面、あらゆる点で戦前までの共通意識が
消え去ったように思う。

その5)かって1920年代と30年代には、複数の社会的緊張、地主と
小作農の間、財閥のオーナーと困窮した労働者の間、都市と農村の間の
緊張など、は、日本を破壊的な戦争へと突き進ませることになった一触即発
の不安定要因の一環をなしていた。第2次大戦後の高度成長期になると、
新旧の社会的な分断は、以前に比べていくぶんか一触即発的でなくなった。
以前から続いていた格差や、形を変えて現れてた格差は、政府の政策に
よって制御された。
また、日本は均質的な人々が住む国であって、そこでは、拡大し続ける
近代的な中間階級の生活の恩恵と社会保障の分け前がほぼ全員にある程度
まで保障されているのだ、とする強力な文化的なイメージも、そうした格差を
緩和するのに一役買った。
マスメディアは、日本国民が抱くこのような経験の共通意識を増幅させる
ことによって戦後の社会史で重要な役割を演じた。、、、、、
このメディア漬けの環境の中で、中間階級の生活はこうあるべきだという
標準化されたイメージは広範囲に広がった。、、、、、
メディアが流す日常の番組もまた、教育水準の高い都会の中間階級の一家族
の生き方を、すべての日本人が経験していることの典型であるかのように
描き出した。、、、
通常の番組も大きなイベントの報道も、日本の戦後の近代的な生活が、
先進資本主義世界には共通なグローバルな近代文化の一環をなしている
ことを明らかにした。

その6)1980年代の後半、日本の民間企業の行動は国内でも国外でも、
一段と活気を帯びる。企業は一斉に猛烈な勢いで設備投資を行った。
1985年から1989年までの期間、総固定資本形成は、毎年のGNPの
30パーセント近くに上ったが、これは、高度成長がピークにあった60年代
当時の投資率に匹敵する率だった。
日本人が、世界中を見まわして、自分たちの成功と幸運にますます自信を深めた
のはすこしも不思議ではなかった。、、、、、
唐津の分析は、いわゆる「日本人論」とよばれる執筆活動のジャンルにおける
言説の典型であった。日本人論の特徴は、思想、美意識、社会、経済組織、
政治文化の伝統から、脳の片側を別の側よりも頻繁に使う傾向の有無などに
かんする神経生物学的な特徴に至る様々な領域で、日本固有の独自性を強調する
ことにある。日本人論は、すくなくとも三宅雪嶺や岡倉天心などの明治中期の
思想家たちやフェノロサなどの当時の外国人観察者にまで遡る長い歴史
を持っている。日本経済が1980年代を通じて繁栄を続けるのと並行して
「日本人論」の言説をつくりだし広める文化産業も繁栄した。そうした、
言説は、従来の言説と同じように、日本人全体がひとつにまとまっていることを
強調する一方、日本社会に存在する様々な重要なちがいや緊張について
言葉を濁した。

特に、以下の指摘は個人としても意識してきたことでもある。
その7)日本と世界の時間の流れを1990年前後を境として区切るという発想は、
説得的で抗しがたい。ベルリンの壁が崩壊したのは1989年、二つのドイツが
統一されたのは90年だった。ソ連の帝国が分解したのは1989年で、ソ連自体
が瓦解したのは91年だった。日本では、ヨーロッパにおけるこのような革命的な
変化の前後、1989年1月に昭和天皇が死んだ。同じ年の7月、自民党は参議院選挙
で惨敗した。自民党の議席が参議院で過半数を割ったのは、結党以来初めてのことであ
った。1990年には、80年代の投機的なバブルが劇的な形ではじけて、10年
以上におよぶ経済不況が始まった。90年代の世界的な文脈も、日本国内の時代的な
精神もともに80年代とは大きく変わった。
・「長崎市民の会」は天皇に関する一切のタブーの廃止を求める署名活動を展開した。
これには40万人近くの署名が集まった。このような行動は、戦前には思いも
よらなかったはずである。、、、、
・新天皇自身は、天皇の役割を象徴的なもに限定する戦後憲法の規定を尊重することを
誓った。様々な世論調査の結果は国民の圧倒的多数が、象徴的な君主としての
天皇を支持しており、それ以上でもそれ以下でもなかった。
・嘆かわしい若者の行動のいくつかが90年代の社会問題化した。それにたいしては
このような道徳観念の欠如が広まった背景には物質主義が強まり家族関係が希薄
になったことによって心が危機状態に置かれている、ともいう。
(1989年は個人的にも忘られない年である。仕事、社会的な動きでもこの年を
1つの契機として静かに変革は進んで行った。この文にもあるように天皇への意識も
変わり、日本人としての良さも過去の遺物としてどこかに忘れ去られていく、
そんな感じが強くなった。)

なお、現在メディアなどで盛んに言われていることは、すでに1980年代に顕著
になりつつあった。これは、読売新聞の連載である「昭和時代」にも多く指摘
されている。
この本での指摘が40年弱経っても、解決されるどころか、ますます悪い方向へ
行っている現実を見れば、政治の不在、社会解決の努力がどこにあったのか、
考えさせられる。

幾つかの関連の指摘を抜き出せば、
・人口の高齢化に伴う福祉サービス、コスト増加も、1980年代に浮上した重要な
政治問題の一つだった。
・1980年代と90年代を通じて、平均寿命はゆっくりとではあるがさらに上昇を
続ける。一方、合計特殊出生率(平均的な女性が一生に産む子供の数)は、低下
の一途をたどった。1990年には出生率が史上最低の1.6まで低下すると、
将来さらにつづく見込みの出生率の低下をめぐって懸念の声が沸き起こった。
・さらに、人々の耳目を集めた新しい社会問題のひとつは、小中学校で残忍な
いじめが増えたことである。
・80年代の大半の時期を通じて、もてるものと持たざる者の格差が広がるという
問題は、大半の日本人の目には処理可能な、些細な問題と映った。

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