2016年3月12日土曜日

近江街道(昭和57年発行)より、その少し古き時代を感じる

約35年前の西近江路についてこの本は描いている。その時間的な経過も
合わせ、読み通すと中々に楽しい。変わらぬ場所が多いと感じるのも、
この地の良さかもしれない。

志賀町の由来
元志賀の名前が出たのは、昭和23年の中学校統合のときに、奈良時代に
相撲の行司として活躍したとされる志賀清林の埋葬の地であったことから
志賀中学校とされた。また、古来から滋賀郡に属していたこともかかわる。
明治22年の町村制の施行には、滋賀里、南滋賀、錦織など六か村が合併して
滋賀村が成立した事もある。また、江戸時代以前は、滋賀郡より志賀郡の方が
一般化していたと言うこともある。
続日本紀では、志我郡であり、その後は、志賀郡となり、後には、滋賀郡の
用例も出てくる。
地名としては、日本書紀に「志賀の漢人の慧隠」がある。志賀津(万葉集)
の付近、現在は大津市に含まれる穴太、大友、錦部などに中国移住民の
総称が「志賀の漢人」である。「志賀の高穴穂宮(古事記)」とか志賀の
唐崎(古事記)といった古い用例もみな大津市唐崎付近の湖岸一帯を
さしている。

西近江路は、仰木道の十字路を斜めに北へ進む。国鉄堅田駅を通り抜けると
あたらしい東西に走る広い道路に出る。左の道をとれば、真野から伊香立を
経て途中町へ、更に京都へと通じている。
旧街道は、再び国道161号線と合流し、真野川をこえ真野町の集落に入る。
右側の湖岸べりには、真野川によって大きな砂洲ができ、長く松林が続いている。
夏には水泳場としてにぎわう。
この真野周辺は、古くは湖岸線が今より深く入り込み、それを「真野の入り江」
といわれ、歌枕として著名な風光の地であった。平安時代末期の歌人、源俊頼
は、「うずらなく真野の入り江の浜風に、尾花すすきなみよる秋の夕暮れ」の
歌を詠んでいる。また、街道沿いにある正源寺の梵鐘には、鎌倉時代に真野庄
人々が願主となって梵鐘を神田社へ奉納、その二百年後に野洲郡中主町の兵主
神社へ移り、さらに焼く三百七十年後に地元に帰ったことなど、珍しい
銘文が刻まれている。
道は大きく左へ曲がり西へ進むが、正面に大規模な団地があり、その背後に
標高百八十七メートルの曼陀羅山が見える。この山頂には、全長七十二メートル
の前方後円墳の形態を有する和邇大塚山古墳がある。ところで、道は右へ
曲がりしばらく行くと、国道161号西近江路の分岐点がある。左側の道を
とれば、志賀町小野の集落にさしかかる。この小野の里は、古代近江を
代表する豪族小野氏の本貫の地であった。国鉄湖西線の下をくぐると、
左側の道脇に「外交始祖大徳冠小野妹子墓是より三丁余」と刻まれた石造
道標がある。この道標に導かれて進めば、新団地に囲まれるように妹子公園
がある。その頂上部分には、小野妹子の墓と伝えられる石室の露出した円墳
がある。妹子は六百七年、六百八年と日本最初の遣隋使として活躍した人であった。
小野の集落は、西近江路を挟んで形成されている。その真ん中辺りの左側を
少し入ったところに小野道風をまつった道風神社がある。静寂の中に三間社
流造りの美しい本殿の形姿を見せている。道風はいうまでもなく平安時代
末期の書家で、藤原佐理すけまさ、藤原行成とともに天下の三蹟といわれた。

さらに、街道を北へ進むと、白壁に囲まれた上品寺野手前にある左側の参道
の突き当りには小野神社がある。小野神社は、小野の鎮守であるが、その境内には
小野たかむら神社がある。これも道風と同じく三間社流造りでいずれも重要
文化財に指定されている。たかむらは平安時代前期の漢学者、歌人として
著名である。いずれにせよ、小野の集落は古代社会の文化に貢献した小野氏
を生んだ土地らしく、いまもそれを物語る貴重な遺跡が多く残されている。
小野の集落をあとにして和邇川をわたると、和邇中の家並みにはいる。
その真ん中あたりに三叉路があり、かっては西近江路の宿駅がおかれ、交通の
要衝にあたっていたところだ。左側の道をとれば、竜華から還来(もどろき)
神社前を通り伊香立途中町へ。ところで、この三叉路のちょうど真ん中には、
地名の由来にもなった榎の大木があったが、枯れてしまったので明治百年記念
に大きな石に「榎」と記した碑が建てられている。榎はかって神木として
仰がれていたので、いまも注連縄がめぐらされている。この石碑は私たちに
歴史的足跡を教えてくれる好例であろう。また、その角には木下屋という
旅館があり榎の大木があったことをしのばせている。

西近江路には、江戸時代の思想家で、近江聖人といわれた中江藤樹所縁の伝承が
おおい。この榎の宿にも、いまも語り継がれている話がある。
和邇中の集落をあとにして道は、湖西線の下をくぐり湖岸に向かい、そこで
国道161号と合流して、中浜、北浜の細長い家並みを通る。
近世では、西近江路の街道筋を中心に「和邇九が郷」といわれ、それには
小野、栗原、中村、高城、今宿、南浜、中浜、北浜、南船路の各村が含まれた。
そのうち、北浜、中浜、南浜は、琵琶湖岸に接し和邇浜と呼ばれていた。
ここでは、琵琶湖特有の?が捕れる浜となっていた。江戸時代初期に
あたる寛永年間にできた「毛吹草」に諸国名物の一つとして「和邇崎のイサザ?」
とあり、すでにこの地の名産として知られていた。
?はうきごりの幼魚にあたり、体長約5センチぐらいの淡水魚で、飴煮や?汁に
する。その淡水魚独特の素朴な味覚は、いまも捨て難いものがある。
鮒寿司、氷魚などとともに湖国料理を代表するものといえよう。

北浜の集落から西近江路を北へ進むと、目の前に高い比良の山並がたちはだかる。
この比良山系は、南から蓬莱山、鳥谷山、堂満岳、釈迦岳、武奈ヶ岳など
千メートルを越す山々で形成されている。眼下に琵琶湖をもつ比良山系は、
それぞれ山容が変化に富むとともに、四季折々異なった景色を見せ、
登山者に親しまれ愛されてきた。
一方、それを眺める山としても著名であった。春になっても山並の頂上部に
まだ雪を残したその景観は素晴らしく、「比良の暮雪」として近江八景の
一つに数えられ、江戸時代の名所や浮世絵版画に登場している。
また、「比良の高嶺、比良の山嵐、比良の山」といった歌枕として万葉集、
新古今和歌集など多くの歌集にも見ることが出来る。

西近江路は、国鉄湖西線を再びくぐり、北船路の八所神社の前へ出る。
この八所神社の由来は、日吉社の神官祝部行丸が、織田信長の比叡山
焼き討ちの時、その難をのがれて、日吉社七体のご神体をこの地に
運び、元来の地主神と合わせて八神をまつったことによると言われている。
ところで、北船路は比良の山上にある小女郎池への登り口にあたる。
蓬莱山と権現山とのほぼ中間にあるこの池は、およそ千メートルも高い
ところにあって、今も水をたたえている。この池を見るにつけ比良の
山のもつ神秘性をうかがわせる。小女郎池は、竜神の住む池として地元の
人々から畏敬され、干ばつになると、かっては雨乞いの行事が行われた。
今も山麓の集落との結びつきが強い池である。

道は、八屋戸守山の集落の手前で、左に入り右へ曲がるが、その角には
「左京大津」と刻まれた自然石の道標がある。
この守山は、明治7年に隣りの北船路村と合わせて、八屋戸村となった
ところだ。守山は、比良山系の一つ蓬莱山への登り口としてしられている。
この集落の真ん中を通る坂道を上がれば、標高500メートル付近に文政11年に
勧請した湖上航行の安全の神をまつる金毘羅神社がある。更に進むと金毘羅峠を
越えて蓬莱山へと道は続く。また、守山の集落は、湖岸の八屋戸浜に接している
が、この浜から江戸時代には薪炭、石材などが湖東、大津方面まで舟で
運び出されていたのである。さて、道は守山の集落を跡にすると、再び国道
161号と合流して北へ進む。道の左側には比良山系が屏風のように立ちはだかり、
右側には琵琶湖を眼下に見下ろし、その景観は素晴らしい。

道は、びわ湖バレイの道路の前を越えると、左側の少し高台に相撲技の始祖という
志賀清林をまつる墓と相撲公園がある。清林は、木戸に生まれ、聖武天皇の勅命
を受けて相撲の四十八手の基本作法を編み出したといわれる。
道は、再び北へ木戸川を越え、左側の旧道に入る。木戸の集落が続き、樹下神社
山道と交差する。この辺が木戸集落の真ん中で、かっては木戸の宿があった。いまも、
当時の旅館の屋号や常夜燈が残されている。ここは、志賀の中枢部であり、樹下神社の
祭礼も「五ヶ祭り」と言われ、周辺の大物、荒川、木戸、守山、北船路の旧木戸荘の
人々によって行われている。木戸は石の産地としてもしられ、江戸時代初期の
「毛吹草」にも名産の一つに木戸石が見える。
木戸の集落をすぎると、国道161号と合流し、荒川の集落から大物の家並みに入る。
この集落には、歴史的に有名な二つの寺院がある。一つは右側の道を下った所にある
超専寺であり、親鸞が流罪となり越後に向かうとき大物の三浦義忠が一考を泊めた。
そのとき、各地から親鸞を慕って多くの人がきて、義忠も親鸞の人柄に惚れ、
出家した。これにより「明空」の縫合を授かった。
このため、親鸞ゆかりの旧跡とみられ、参拝者も多い。
また、左側の道を登れば、薬師堂がある。
大物をすぎると道は、ほぼまっすぐに北へ延び、右側には琵琶湖岸に位置する南比良
北比良の集落を見下ろす事が出来る。
この湖岸線は比良浦、比良湊とよばれ、「新拾遺集」の
「ふけゆけば嵐やさえてさざ波の比良の湊に千鳥鳴くなり」をはじめ、多くの
詩歌が詠まれている。

道は、湖岸から参道が続く天満宮社の前を通り、坂道を登るようにして水のない
比良川をわたる。この比良川の下流にあたるところは、大きな三角州が形成され、
その中に内湖をだいている。内湖と琵琶湖の間には細長い浜が数キロも続く。比良川系
から流し出された白い砂と緑の松とが好対照をみせ、独特の景観をみせている。
古くから西近江路の景勝地として知られていた。
昭和25年選定の琵琶湖八景では、「雄松崎の白汀」とよばれ、近年では琵琶湖随一
の水泳場として最もにぎわうところである。
道は、南小松の集落をあとに国道と合流して北へと進むと、左側の比良山系に一筋の
滝を見ることが出来る。比良の山中には、滝が多い。なかでもこの小松山に
かかる揚梅の滝は、落差がおおよそ80メートルあり、水しぶきをあげながら
落花する姿は雄大である。また、この滝は白布を引くように見えるので、布引の滝
とも言われている。江戸時代の享保19年に編纂された「近江興地志略」には
「滝壺5間四方ばかり滝の辺、岩に苔生じ小松繁茂し、甚だ壮観なり」とあり、
滝の状況を記すとともに、比良山系のなかでも景勝地の1つであった事を
示している。揚梅の滝への道は、北小松の集落が登り口になっている。
その道筋に楊梅滝道の道標があるが、それには児童文学者の巌谷小波の
「涼しやひとあしごとに滝の音」の句が刻まれている。

西近江路は、楊梅の滝に水源を持つ滝川を越え、樹下神社の前辺りで国道と
分岐する。右側の狭い旧街道に入る。旧街道には、北小松の集落の家並みが
細長く続き、道の左に溝をとるなど街道の面影をよくとどめている。
この集落の右側には、すぐに琵琶湖に接し、古くから小松津とよばれ、
湖上輸送の船着場として知られる。「堀川後百首」にも「さざなみや
小松にたちて見渡せば、みほの岬に田鶴むれてなく」の歌がある。
そして北小松は水陸の輸送の便に恵まれ、明治13年当時は船63隻
旅籠が七軒もあった。
みちは、長い集落を通り過ぎると再び国道と合流する。この付近から
比良山地と湖が接近している。道は湖の際を通り、やがて志賀町と高島町
の境をなす鵜川にさしかかる。このあたりは、かって鵜を使っていたところから
川名と旧村名のその名がついたといわれている。


古来より西近江路の交通の要衝としての志賀周辺は様々な道標がありました。
そんな中ででも、白髪神社の道標が7つほど現存しています。
古来白鬚神社への信仰は厚く、京都から遙か遠い当社まで数多くの都人たちも参拝
されました。その人たちを導くための道標が、街道の随所に立てられていました。
現在その存在が確認されているのは、7箇所(すべて大津市)です。
建てられた年代は天保7年で、どの道標も表に「白鬚神社大明神」とその下に距離
(土に埋まって見えないものが多い)、左側面に「京都寿永講」の銘、右側面に
建てられた「天保七年」が刻まれています。
二百数十年の歳月を経て、すでに散逸してしまったものもあろうと思われますが、
ここに残されている道標は、すべて地元の方の温かい真心によって今日まで受け
継がれてきたものです。その最後の道標が八幡神社の参道の手前にあります。
http://shirahigejinja.com/douhyou.html
http://kaidouarukitabi.com/map/rekisi/nisioomi/nisioomimap1.html


近江祭り
http://www.eonet.ne.jp/~oumimatsuri/

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