2017年8月6日日曜日

こうもり穴、百間堤

平成25年(2013)10月15・16日に滋賀県を通過した台風26号は、県内各地に多くの被害をもたらしました。大津市北小松の北比良山系から楊梅滝(第116回)を経て流れ下る滝川も、JR湖西線の鉄橋付近で氾濫し、周辺の別荘地は床下まで浸水しました。JR湖西線蓬莱駅付近から北小松駅付近にかけては、比良山系と琵琶湖に挟まれた狭隘な地形で、山地から流れ出る大小の河川が小規模で急な扇状地を形成しています。過去に幾多の被害に見舞われた集落は、扇状地の扇頂部の斜面と湖岸に沿った平坦地に集まっています。こういった洪水や干ばつ被害から集落を守った江戸時代の大規模な治水工事の歴史遺産を、訪ねてみることにしましょう。

四ツ子川の「百間堤」(大津市大物地先)

百間堤
百間堤
 JR湖西線志賀駅から線路に沿う道を高島市方向に1kmほど進むと、大物(だいもつ)の集落に入ります。集落内の道を山手(西側)に進んで国道161号を越え、湖西道路志賀バイパスの下をくぐり抜けます。山手の別荘地帯には進まず、右折して志賀バイパスの側道を高島市方向に進み、左折して山に向かう林道に入ります。坂道をしばらく登ると突然左手に巨大な石塁群が姿を現します。この石塁が四ツ子川の百間堤(ひゃっけんつつみ)です。
地元住民による案内板
地元住民による案内板
 「大物区有文書」や『近江国滋賀郡誌』(宇野健一1979)・『志賀町むかし話』(志賀町教育委員会1985)などによると、四ツ子川が嘉永5年(1852)7月22日卯刻(現在の暦でいうと9月6日朝6時頃)に暴風雨で大規模に氾濫し、下流の田畑や人家数戸が流失する被害が出ました。四ツ子川は集落の上側(西側)で左折して流れているため、それまでも暴風雨や大雨でしばしば洪水を起こしていて、下流の集落や田畑に被害をもたらしていました。そのため、住民は藩への上納米の減額をたびたび役所に願い出ていました。そこで、当時大物村を治めていた宮川藩(現在の長浜市宮司町に所在)の藩主堀田正誠は、水害防止のために一大石積み工事を起こすことにしました。若狭国から石積み名人の「佐吉」を呼び寄せて棟梁とし、人夫は近郷の百姓の男女に日当として男米1升、女米5合で出仕させました。1m前後の巨石を用いて長さ百間(約180m、ただし実測では約200mあります)、天場幅十間(約18m)、高さ五~三間(5.5~9m)の大堤を、5年8ヵ月の歳月をかけて完成させました。
集落用の用水路
集落用の用水路
 百間堤は崩壊することなく現在でも当時の姿をとどめ、その迫力には驚かされます。また、下流の生活用水や水田の水源用に堤を横断して造られた水路は、石造建築の強さと優しさが表れています。百間堤に続く下流部の堤は女堤(おなごつつみ)とよばれ、女性でも運べる程度の石で造られています。

こうもり穴(大津市八屋戸地先)

こうもり穴出口
こうもり穴出口
 JR蓬莱駅から県道558号を北に進み、八屋戸の交差点を左折して山手(西側)の守山集落に入ります。玄関先に守山石(蓬莱産付近でのみ産出する縞模様を持つチャート)の庭石が据えられた民家が並ぶ細い道路をぬけ、やがて蓬莱山への登山道となる車道を進みます。集落を抜けると、車道は山腹を横断する湖西道路の下をくぐり抜け、山腹の山荘住宅に向かう道と山頂に向かう山道に分かれます。この山道の右手に「こうもり穴」とよばれるトンネルがありました。
 湖西道路の建設工事に先立ち、昭和59年(1984)に周辺の発掘調査が行われました(滋賀県教育委員会・財団法人滋賀県文化財保護協会1986『国道161号線バイパス・湖西道路関係遺跡調査報告Ⅲ 木戸・荒川坊遺跡 こうもり穴遺跡』)。山道にそって斜面をさかのぼるように、長さ約310mのトンネルが見つかりました。そのうちの約245m分は完全なトンネルで、ひと1人がかろうじて立って歩けるほどの幅と高さでした。トンネルの内部は所々にロウソクを立てたと思われる穴や窪みもありましたが、土器などの人工遺物は見つかりませんでした。
 地元の住民もこの「こうもり穴」の存在は知っていましたが、いつ掘られたのか、その由来や何のためトンネルなのか、地元の古文書にも残されていませんでした。現在では、山腹を貫く長さ300m以上のこの謎のトンネルは、江戸時代終わり頃に水不足を解消するために掘られた隧道と推定されています。『志賀町むかし話』には、「水不足の守山の、水探し事業のために掘られたもの」と記されています。平成4年(1992)頃までは中を歩くことができたようですが、現在ではトンネル入口(西側)は埋まってしまったようです。唯一、トンネル出口(東側)の痕跡が、湖西道路の下に残されています。

周辺のおすすめポイント

山中の歓喜寺薬師堂
山中の歓喜寺薬師堂
 百間堤のある四ツ子川の谷をはさんだ西の尾根の中腹に、平安時代に最澄が開基したと伝えられている歓喜寺(かんきじ)の薬師堂がひっそりとたたずんでいます。お堂に向かって左手には斜面を切り開いて平地を造成し、石垣や堀切で区切られたいくつかの郭や庭園跡が残されていて、繁栄した様子がうかがえます。歓喜寺は、元亀3年(1572)の元亀争乱で焼失してしまいますが、文禄元年(1592)に村人が薬師像を土中から見つけたため、薬師堂が建立されたとされ、今日に至っています。また、薬師堂の東側山頂には歓喜寺城跡も残されています。(濱 修)

アクセス

◆百間堤
【公共交通機関】JR湖西線志賀駅・比良駅下車徒歩30分

◆こうもり穴
【公共交通機関】 JR湖西線志賀駅下車徒歩15分