2016年6月30日木曜日

昭和のおやつ、ようかん他

初夏の走りにだけ店に並ぶ水ようかんや、バタークリームを使ったフランス菓子、甘さと塩気のバランスが絶妙な大福…。こんなおやつが3時に出てきたら、どんなにうれしいことでしょう。作家や文化人たちにとってのおやつは、季節の訪れを告げるものであり、暮らしにささやかな悦びをもたらすものでもありました。
 昭和の味第4弾は、そんな彼らを魅了した〝昭和のおやつ〟。往時と変わらぬ心意気で、生真面目につくられている逸品の数々をご紹介しましょう。
写真/東京・青山にある和菓子店「菊家」に飾られている写真。この店の菓子をとりわけ贔屓にしていた作家・向田邦子(むこうだくにこ)が、先代女将と語らう姿が写し出されています。
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ようかんに恋した女流俳人
中村汀女を魅了した3つのようかん

 昭和のころ、お客様にお出しする菓子といえば、筆頭にあがるのがようかんでした。充実した甘さ、日本茶との相性のよさもありますが、今より流通が発達していなかったあのころ、日もちのするようかんは、来客の多い家には欠かせないものでもあったのです。
 気どりのない言葉で、愛情のこもった句を詠んだ俳人・中村汀女(なかむらていじょ)。酒が一滴も飲めなかったこともあって、甘いおやつには目がありませんでした。
「ようかんの切り方のむずかしさよ、心のいることよ。(略)厚目にとはずんだ心意気は、これはわが胸だけが知ること。そしてまたなんと満ち足ることか。好きな客に出すのなら尚更だが、仕事終えた一休みに、自分自身に切る一きれにしてまたうれしいかぎりである」(「秋袷」―『あまカラ抄 3』冨山房百科文庫に所収―より。以下同)と、特に愛したのがようかん。味や切り方に加え、「食べて始末がいい、最後まで形がくずれない」と褒め、「ほんとはあの厚みを手にとってたべたい。煉りのほども、手にとってじかに口にするときが一番よくわかる気がする」とまで綴っています。
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 そんな汀女が推薦文を寄せるほど気に入っていたのは、兵庫県・龍野にある老舗『吾妻堂』の煉りようかん(写真上)。その姿と色を「沈んださくら色。(略)なかなかの品格です」と呼び、「私は〝もどりかけ〟の角の堅いようかんが好きなものですから、これは私向きです」と記しています。
『吾妻堂』の練りようかんは、収穫にも下ごしらえにも手間のかかる貴重な素材である播州地方産のササゲ豆を使用。また、岐阜県産の天日干し寒天を使っているため、食べると歯がめりこむほどに練りが強いのも特徴です。
「汀女が書いた〟もどりかけ〟というのは、練った熱いようかんがゆっくり固まる過程でザラメが結晶化し、シャリシャリとした歯触りになる状態です。毎日午後から練りだけに専念し、ひと晩かけて固めるため、結晶がつくのです」
 と四代目。汀女の言う品格とは、つくり手の、愚直なまでの一生懸命さを指すのかもしれません。
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 いっぽう、食べ方も含めて愛し、何日にもわたってその風味を楽しんだのは、岐阜県『「金木戸屋(かなきどや)』の笹巻ようかん(写真上)。「キャラメルの紙をむいてもうれしいものを、こんな豪華な包紙をほどいていいというのは大人の特権」(『ふるさとの菓子』丸善より抜粋。以下同)と、汀女らしいユーモアをこめて綴っています。〝包紙〟とは、アルプス山麓の熊笹のこと。この銘菓は、笹を折り曲げたところへ直接ようかん液を注ぎ、固めたものなのです。「深山の熊笹の匂いがようかんの芯までに及んでいようというもの。中味は日を経てかえって甘味をととのえ、とろりと溶ける」と、味と風味を存分に楽しみました。
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 また、「二つ割りの青竹に、透き通る柿の色、切り出して半月の形となる」と愛おしんだのが、西美濃の干し柿を原料とした柿ようかん(写真上)。宝暦5(1755)年創業の老舗『御菓子つちや』の看板商品は、まさに柿そのもの甘さです。「日が経って表面に浮く薄氷(うすらい)のような結晶にも、まさしく富有柿の甘みが溶けている」と、ここでも〝ようかんの結晶好き〟な一面がよく表れています。
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写真/昭和を代表する俳人のひとり、中村汀女。「女にとって菓子とは(略)恋人」と言い、甘いものにまつわる俳句も多く詠んだ。(写真提供:文藝春秋)

龍野『吾妻堂』の練りようかん

汀女が「沈んださくら色」と呼んだ煉りようかんは、一日に4寸のもので100本しかつくれない。龍野は、童謡「赤とんぼ」の舞台となった川縁が広がる詩情豊かな町。昭和5(1930)年、二代目が現在の地に店を構えたころの雰囲気を今も残している。●兵庫県たつの市龍野町下川原52 ☎0791-63-0140

飛驒『金木戸屋』の笹巻羊羹

昭和6(1931)年、飛驒の老舗菓匠が創案した郷土色豊かなようかん。昔は山で水を飲むときに笹を折り曲げて器にした…という話をヒントにつくったもの。天然の熊笹を開くと、笹の移り香と葉脈がくっきりとついた小豆羊羹が現れる。レトロなパッケージも魅力。●岐阜県飛驒市神岡町船津1077-1 ☎0758-82-0172

大垣『御菓子つちや』の柿羊羹

美濃の城下町・大垣の老舗店でつくられる柿羊羹は、創作以来170年の銘菓。原料は、渋柿の最高級品・堂上蜂屋柿(どうじょうはちやがき)を天日干ししたもの。干し柿特有の素朴な甘みが懐かしさを誘う。薄く切って冷やすもよし、ブランデーのおともにもよし。●岐阜県大垣市俵町39 ☎0584-78-2111(俵町本店)
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水ようかん評論家
向田邦子のとっておき

「新茶の出るころから店に並び、
うちわを仕舞う頃にはひっそりと姿を消す、
その短い命がいいのです」
(講談社文庫『眠る盃』所収「水羊羹」より)
 薄墨色の美しさと、するんとした喉ごし、口の中に余韻が残る程度のほの甘さ。自らを〝水羊羹評論家”〟と称した向田邦子が毎年心待ちにしていたのは、東京・青山『菊家』の水羊羹です。
 帳場を兼ねたガラスケースにこの菓子が並ぶのは、桜の青葉が出る季節のみ。エッセイ「水羊羹」にも書いたように、白磁のそばちょこに京根来の茶卓を出て、すだれ越しの自然光か、少し黄色っぽい電灯の下で食べるのが向田流でした。短期間だけの味だからこそ、美学をもって楽しんだのでしょう。
 今も変わらず季節限定の味を守る『菊家』。めまぐるしく変わり続ける街にあって、そこだけ昭和の風が吹いているような店構えにもなごみます。
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菊家

昭和10(1935)年、青山・骨董通り沿いに開店した菓匠。こぢんまりした店内には、向田がエッセイ『水羊羹』に著したとおり、「緋(ひ)毛(もう)氈(せん)をあしらった待合の椅子」が置かれている。上質な小豆の香りを生かした水ようかんは、店の奥の小さな工房で手づくりされている。毎年5月上~中旬の、桜の青葉が出る時期を待って店頭に並ぶ。●東京都港区南青山5-13-2 ☎03-3400-3856
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くずもちのはかなさを
愛でた中里恒子

「葛もちほどにふりふりせず、
やわらかいとろけるやうな口當りと、
ちよつと焦がしたきな粉で
くるんである香ばしさ」
(作品社『日本の名随筆24 茶』所収
「和菓子曼まんだら」より)
「日持ちのする菓子は飽きる」と綴った作家・中里恒子。彼女が愛したのは、日本橋の老舗『長門』の久寿もち(くずもち)です。葛ではなく、わらび粉と砂糖で練り上げたそれは、昭和初期に先代が始めたもの。優しい甘みのわらびもちに、甘さのないきなこをたっぷりかけていただくと、昭和の味が口中に広がります。
 皿の上でぷるぷる揺れるさまと、懐かしいきなこの香り。とろける食感や風味が、一日二日で消えてしまうところも、中里の美意識にかなったようです。包装紙には葵の紋。『長門』が代々徳川家の菓子司だったことを伝えます。
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長門

創業は18世紀前半の享保年間。店は東京駅のほど近くに立ち、菓子はすべて建物内の工房でつくられる。小津安二郎や古今亭志ん朝も、この店の美しい生菓子や半生菓子のファンだった。昭和初期の関東では、わらびもちが一般的でなかったため、なじみのある「久寿もち」の名をつけた。竹の包みを開けると、三角形にカットしたものが12切れ。冷蔵庫で15分ほど冷やすとおいしさが増す。夕方には売り切れることも。●東京都中央区日本橋3-1-3 ☎03-3271-8662
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京都『麩嘉』の
麩まんじゅうを絶賛した獅子文六

「麩屋へ出かけて、
店頭でできたてのを食ったら、
一番うまいのではないかと思う」
(文春文庫『食味歳時記』より)
「ふまんじゅうを一番上手につくる」と、作家・獅子文六(ししぶんろく)が記した京都の「麩嘉(ふうか)」本店は、日本で最も古いといわれる生麩店。代々御所に献上し、今も料理屋に卸す生麩づくりが専門です。
その日使う分だけ手づくりして売る…という哲学ゆえ、麩まんじゅうの購入は予約のみ。むっちりつるんとした食感も上品な香りも、この本店でしか得られません。商家らしいのれんをくぐり、水を打った石の床がひんやりとする店内に足を踏み入れれば、とっておきの美味への期待が高まります。
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麩嘉(府庁前本店)

京料理に欠かせない生麩をつくり続ける老舗。のれんを掛けた店の横には井戸水が湧いていて、生麩づくりにも使われる。今も、近所の住民が水を汲みにくる姿が見られる。生麩が好きだった明治天皇の要望で、先々代が考案したという麩まんじゅうは、青海苔の粉が練り込まれた風味豊かな生麩でこし餡を包み、笹の葉でくるんだもの。餡には丹波の大納言小豆を使用。予約でのみ購入可能。●京都府京都市上京区西洞院椹木町上ル ☎075-231-1584
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女優・沢村貞子が愛した
目黒『八雲』のもち菓子

1974年4月10日
おやつ ちもと もち
1974年4月11日
おやつ ちもと 半生菓子
1974年4月15日
おやつ ちもと わらびもち
(『献立日記』より)
 毎日の食事は朝夜の2食だけ。菓子や果物などのおやつを昼食代わりにしていたのが、昭和の名女優・沢村貞子。彼女がつけていた「献立日記」には、「御菓子所ちもと」の菓子が何度も登場します。
そのひとつが、昭和40(1965)年に初代店主が考案した写真の八雲もち。まず、竹皮のこの包みに郷愁を誘われます。中にはマシュマロのような弾力の求肥もち。コクのある黒砂糖と砕いたカシューナッツが入っているのが特徴です。
餅の素材から包みに至るまで、50年間一切変わりなし。価格も手ごろな愛すべきおやつです。
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御菓子所ちもと

現在は軽井沢にある戦前からの名店「ちもと本家」から、昭和40年にのれん分けされた和菓子屋。コクのある国産黒砂糖を使用した八雲もちは、1日1000個ほどが夕方前に売り切れることも。独特の食感は、泡立てた卵白を寒天で固めた〝淡雪〟を求肥に混ぜてつくるもの。竹皮包みを留める紙縒り(しより)まで、今でも手作業でつくっている。沢村は、季節のわらびもちや桜もち、じょうよまんじゅうも好んで求めた。●東京都目黒区八雲1-4-6 ☎03-3718-4643
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川端康成のお気に入りは
愛らしいフランス菓子

「全くフランスでも滅多に味へない
本格的な良心的な作品であると感じる」
(『フランス菓子カド』推薦文より)
 西洋への憧れを形にしたような、愛らしいひと口菓子、プチ・フール。バタークリームのミルキーな甘さと洋酒の香りが広がる子の菓子は、昭和35(1960)年創業のフランス菓子店『カド』の看板商品です。
 考案したのはパリで修業を積んだ創業者の髙田壮一郎。文豪・川端康成は、その洒落たデコレーションや品よい甘さを大層気に入り、「心底から私をよろこばせる」と讃えました。
 今も、味わいや姿は当時のまま。洋画の飾られた喫茶室で、コーヒーとともにいただくのも素敵です。
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フランス菓子 カド

川端と親交のあった洋画家・髙田力蔵の息子・壮一郎が創業。川端はこの店のクッキーも大好きで、土産にもらうと缶ごと文机の下に置いてひとり占め。家族にも分けなかったという。ひと口サイズのプチ・フールは、オレンジリキュールや西洋山ハッカの薬草酒など、洋酒を使用した大人の味。店の奥の工房で、ひとつひとつていねいに手づくりされている。●東京都北区西ヶ原1-49-3 ☎03-3910-6241
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まだまだあります!
作家たちを虜にした
甘くて懐かしい〝昭和のおやつ〟

 小説や随筆をしたためる原稿用紙の傍らには、あんこ菓子やハイカラな洋菓子が欠かせない――そんな作家たちが愛した昭和のおやつが勢ぞろい。お取り寄せ可能なものや、包みの魅力的なものが多く、手土産にも喜ばれることうけあいです。
クッキー

三宅艶子が愛した
『ローザー洋菓子店』のクッキー

 ハンドメイドのハイカラ・レトロな缶に、バターと粉の香り豊かなクッキーがぎっしり。サクサクと懐かしい手づくりの味を愛したのは、東京生まれ東京育ちの小説家・三宅艶子(みやけつやこ)です。「東京の菓子」(『東京味覚地図』に寄稿)で、夜中の執筆のおともとして挙げています。販売は店頭でのみ、数日前の予約が確実です。
東京都千代田区麴町2-2 ☎03-3261-2971 
マドレーヌ

三島由紀夫が愛した
『日新堂菓子店』のマドレーヌ

 厚手のアルミカップに入った姿と甘い香りが懐かしい、リッチな味の焼き菓子。三島由紀夫は昭和39年から毎夏、下田の海でバカンスを過ごし、執筆にも勤しみました。彼が愛したのが、創業大正11(1922)年の「日新堂菓子店」。週に一度は訪れ、「日本一のマドレーヌですよ」と周囲の人々に声をかけていたほどの贔屓ぶりだったとか。取り寄せも可能です。
静岡県下田市3-3-7 ☎0558-22-2263 http://nisshindoshop.weebly.com/
だんご2

林芙美子が愛した
『三野屋』の継続だんご

 淡泊な甘みと、ひと口大のだんごが連なるかわいい姿。昭和の子供に持たせたら似合いそうな、上越生まれの名物が『三野屋(みのや)』の継続だんご。作家・林芙美子が愛し、名作『放浪記』にも登場させたことで一躍有名になりました。白餡を丸めて串にさし、表面を香ばしく焼いた素朴な味は、100年以上変わらない製法でつくられています。取り寄せも可能です。
新潟県上越市中央1-1-11 ☎025-543-2538
大福

種村季弘が愛した
『伊勢屋』と『虎の門 岡埜栄泉』の大福

「あんこが食べたい。豆大福が食べたい。(略)東京に出るとわざわざ深川まで行って塩大福を買って帰ったりする」と、エッセイ『雨の日はソファで散歩』に綴った作家・種村季弘(たねむらすえひろ)。下町は門前仲町の駅近く、深川不動尊への参拝客で賑わう『伊勢屋』の塩大福(写真左)は、どっしり大ぶりな庶民のおやつ。北海道の小豆とザラメによる素朴な甘さが種村を喜ばせました。
 先のエッセイは「芝の岡埜栄泉の甘みを抑えた豆大福──」と続きます。『虎の門 岡埜栄泉(とらのもん おかのえいせん)』の豆大福(写真右)は、食通をも黙らせる手土産として不動の人気を誇ります。エプロンに三角巾の女性が慣れた手つきで包んでくれるその大福は、つきたての餅にこし餡がたっぷり。塩っけのある赤えんどう豆との食べ合わせも実にいい! 開店前から客が並び、昼過ぎに完売することもある逸品です。
●『伊勢屋』東京都江東区富岡1-8-12 ☎03-3641-0695 http://www.iseya.ne.jp/
●『虎の門 岡埜栄泉』東京都港区虎ノ門3-8-24 ☎03-3433・5550
干菓子

井上靖が愛した
『森八』の長生殿

「風味絶佳(ふうみぜっか)」という言葉がふさわしい、紅と白の美しい菓子。作家・井上靖が心を寄せ、帰省の度に母への手土産として選んだのが、加賀藩御用菓子の歴史を誇る『森八(もりはち)』の干菓子、長生殿(ちょうせいでん)。口の中でほろほろほどける落雁(らくがん)は、阿波の和三盆糖に秘伝の精粉を合わせてつくる日本三名菓のひとつです。取り寄せも可能。
石川県金沢市大手10-15 ☎076-262-6251 http://www.morihachi.co.jp/
駄菓子

團伊玖磨が愛した
『石橋屋』の仙台駄菓子

 きなこねじり、みそぱん、かるめら焼――「駄菓子屋の店先は、そとを通っただけでも黒砂糖のにおいがした」(『舌の上の散歩道』朝日文庫より)。作曲家の團伊玖磨(だんいくま)が仙台へ出かけた際に寄ったのは、仙台駄菓子の名店『石橋屋』。後日、果物ゼリー菓子を取り寄せたことも記されています。写真は郷土駄菓子の詰め合わせ。取り寄せも可能です。
宮城県仙台市若林区舟丁63 ☎022-222-5415 http://www.ishibashiya.co.jp/

2016年6月29日水曜日

陰翳礼讃

個人的には島原の輪違屋での花魁の陰影の中で舞う舞であったり、八尾の越中
おわらの風の盆に舞う編み笠の女性たちの姿である。

35
もし日本座敷を1つの墨絵に喩えるなら、障子は墨色の最も淡い部分であり、床の間は
最も濃い部分である。私は数奇を凝らした日本座敷の床の間を見るごとに、いかに
日本人が陰翳の秘密を理解し、光と影の使い方に巧妙であるかに感嘆する。なぜなら、
そこにはこれという特別なしつらえがあるわけではない。要するにただ清楚な木材と
清楚な壁とを以て1つの凹んだ空間を仕切り、そこへ引き入れられた光線が
凹みのあちらこちらへ朦朧たる隈を生むようにする。にも拘らず、我々は落とし懸けの
うしろや、花活の周囲や、違い棚の下などを埋めている闇を眺めて、それが
何でもない陰であることを知りながらも、そこの空気だけがシーンと沈み切って
いるような永劫不変の閑寂がその暗がりを領しているような感銘を受ける。思うに
西洋人のいう「東洋の神秘」とは、かくのごとき暗がりが持つ無気味な静かさを
指すのであろう。われらといえども少年のころは、日の目の届かぬ茶の間や書院の
床の間の奥を見つめると、言い知れぬ怖れと寒気を覚えたものである。しかも
その神秘のカギは何処にあるのか。種明かしをすれば、畢竟それは陰翳の魔法
であって、もし隅々に作られている陰を追い除けてしまったら、
忽焉としてその床の間はただの空白に帰するのである。われわれの祖先の天才は
虚無の空間を任意に遮蔽しておのずから生ずる陰翳の世界に、いかなる壁画や
装飾にも優る幽玄味を持たせたのである。これは簡単な技巧のようであって
実はなかなか容易ではない。

たとえば床脇の窓の刳り方、落懸けの深さ、床箱の高さなど、1つ1つに目に
見えぬ苦心が払われていることは推察するに難くない
が、わけても私は、書院の障子のしろじろとしたほの明るさには、ついその前に
立ち止まって時の移るのを忘れるのである。元来書院というものは、昔は
その名の示す如く此処で書見するためにああいう窓を開けたのが、いつしか
床の間の明り取りとなったのであろうが、多くの場合、それは明り取りという
よりも、むしろ側面から射して来る外光を一旦障子の神でろ過して、適当に
弱める働きをしている。まことにあの障子の裏に照り映えている逆光の
明かりは、何という寒々とした侘しい色をしていることか。
庇をくぐり、廊下を通って、ようようそこまでたどり着いた庭の陽光は、
もはや物を照らし出す力もなくなり、血の気も失せてしまったかのように、
ただ障子の紙の色を白々と際立たせているに過ぎない。
私はしばしばあの障子の前に佇んで明るいけれども少しの眩さの
感じられない紙の面を見つめるのであるが、大きな伽藍建築の座敷などでは、
庭との距離が遠いためにいよいよ光線が薄められて、春夏秋冬、晴れた日も、
曇った日も、朝も、昼も、夕も、ほとんどそのほおじろさに変化がない。

そして縦繁の障子の桟の1とコマ毎にできている隈が、あたかも塵が溜ったように、
永久に神に沁みついて動かないのかと怪しまれる。そういう時、私はその夢のような
明るさをいぶかりながら眼をしばだだく。何か眼の前にもやもやとかげろうものが
あって、死力を鈍らせているように感じる。それはほじろい紙の反射が、床の間の
濃い闇を追い払うには力が足らず、却って闇に跳ね返されながら、明暗の区別
のつかぬ混迷の世界を現じつつあるからである。
諸君はそういう座敷に這い入った時に、その部屋にただようている光線が普通の
光線とは違うような、それが特に有難味のある重々しいもののような気持が
したことはないであろうか。あるいはまた、その部屋にいると時間の経過が
分からなくなってしまい、知らぬ間に年月が流れて、出てきたときには白髪の
老人になりはせぬかというような、「悠久」に対する一種の怖れを抱いたことは
ないであろうか。

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大きな建物の、奥の奥の部屋へ行くと、もう全く外の光が届かなくなった暗がり
の中にある金襖や金屏風が、幾間をを隔てた遠い遠い庭の光の穂先を捉えて、
ぼうっと夢のように照り返しているのをみたことはないか。その照り返しは、
夕暮れの地平線のように、あたりの闇へ実に弱弱しい金色の明かりを
投げかけているのであるが、私は黄金というものがあれほど沈鬱な美しさ
を見せるときはないと思う。そして、その前を通り過ぎながら幾度も振り返って
見直すことがあるが、正面から側面の方へ歩を移すに随って、金地の紙の表面が
ゆっくりと大きく底光りする。決してちらちらと忙しい瞬きをせず、巨人
が顔色を変えるように、きらり、と、長い間をおいて光る。時とすると、
たった今まで眠ったような鈍い反射をしていた梨地の金が、側面へ回ると、
燃え上がるように輝いているのを発見して、こんな暗い所でどうしてこれだけの
光線を集めることが出来たのかと、不思議に思う。それで私には昔の人が
黄金を仏の像に塗ったり、貴人の起居する部屋の四壁に張ったりした意味が
初めて頷けるのである。現代の人は明るい家に住んでいるので、こうした
黄金の美しさを知らない。が、暗い家に住んでいた昔の人は、その美しい色
に魅せられたばかりでなく、かねて実用的価値をも知っていたのであろう。
なぜなら光線の乏しい屋内では、あれがレフレクターの役目をしたに違いないから。

つまり彼らはただ贅沢に黄金の箔や砂子を使ったのではなく、あれの反射
を利用して明かりを補ったのであろう。そうだとすると、銀やその他の金属は
じきに光沢が褪せてしまうのに、長く輝きを失わないで室内の闇を照らす黄金
というものが、異様に尊ばれたのであろう理由を会得することが出来る。
蒔絵というものが暗い所で見てもらうように作られていることを言ったが、
こうしてみると、ただに蒔絵ばかりではない、織物などでも昔のものに金銀
んp糸がふんだんに使ってるのは、同じ理由に基ずくことが知れる。
僧侶が纏う金襴の袈裟などは、その最もいい例ではないか。今日街中にある
多くの寺院は大体本堂を大衆向きに明るくしているから、ああいう場所では
やたらにけばけばしいばかりで、どんな人柄な高僧が着ていても有難味を
感じることはめったにないが、由緒あるお寺の古式にはかった仏事に列席
してみると、皺だらけな老僧の皮膚と、仏前の燈明の明滅と、あの金襴の
地質が、いかによく調和し、いかに荘厳味を増しているかがわかるのであって、
それというのも、蒔絵の場合と同じように、派手な織模様の大部分を闇が
かくしてしまい、ただ金銀の意図がときどき、少しずつ光るよう
になるからである。

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およそ日本人の皮膚に能衣装ほど映りのいいものはないと思う。言うまでもなく
あの衣装には随分絢爛なものが多く、金銀が豊富に使ってあり、しかもそれを
着て出る能役者は、歌舞伎俳優のように白粉を塗っていないのであるが、
日本人特有の赤みがかった褐色の肌、あるいは黄色味を含んだ象牙色の地顔
があんなに魅力を発揮するときはないのであって、私はいつも能を見に行く
度に感心する。金銀の織出しや刺繍のある袿うちきの類もよく似あうが、
濃い緑色や柿色の素襖、水干、狩衣の類、白無地の小袖、大口などもよく
似合う。たまたまそれが美少年の能役者だと、肌理の細かい、若々しい
照りを持った頬の色艶などがそのためにひとしお引き立てられて、女の肌
とは自ら違った蠱惑こわくを含んでいるように見え、なるほど昔の大名が
寵童の容色におぼれたというのはここのことだなと、合点が行く。

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然るに能楽の役者は、顔も、襟も、手も、生地のままで登場する。されば眉目
なまめかしさはその人本来のものであって、毫もわれわれの目を欺いている
のではない。故に能役者の場合は女形や二枚目の素顔に接してお座がさめた
というようなことは有り得ない。ただわれわれが感じることは、われわれと
同じ色の皮膚を持った彼らが一見似合いそうにもない武家時代の派手な衣装を
着けた時に如何にその容色が際立って見えるかという一事である。
かって私は「皇帝」の能で楊貴妃に扮した金剛厳氏を見たことがあったが、
袖口から覗いているその手の美しかったことを今でも忘れらない。私は彼の
手を見ながら、しばしば膝の上に置いた自分の手を省みた。そして彼の手が
そんなにも美しく見えるのは、手頸から指先に至る微妙な掌の動かし方、
独特の機構を込めた指の裁きにも因るのであろうが、それにしても、
その皮膚の色の、内部からぼうっと明かりがさしているような光沢は、
何処から来るのかと妖しみに打たれた。何となれば、それは何処までも普通の
日本人の手であって、現に私が膝についている手と、肌の色つやに何の
違ったところもない。不思議にも、その同じ手が舞台にあって妖しいまでに
美しく見え、自分の膝の上にあってはただの平凡な手に見える。かくのごときは
一人金剛厳氏のみではない。能においては、衣装の外へ現われる肉体はほん
のわずかな部分であって、顔と、襟首と、手首から指の先までに過ぎず、楊貴妃
のような面をつけているときは顔さえ隠れてしまうのであるが、それでいて
そのわずかな部分の色艶が異様に印象的になる。

2016年6月26日日曜日

昭和の味


文豪・文化人が愛した昭和の味(1)

 昭和――と聞くだけで、懐かしさが込みあげてくるのはなぜでしょう。平成にかわって四半世紀と少し。時間の流れも人の意識もまるで変わり、昭和は遥か遠い昔のように感じられます。その一方で、昭和の時代に日本人が築き上げたものは、現代もさまざまな形で私たちの生活を彩っています。そのひとつが〝食〟。震災や戦争を経験した昭和の前期、日本中が物質的に貧しかった時代にあっても、人々はわずかな農作物や海産物から食べることの喜びや楽しみを見いだしてきました。古きよき食の伝統を受け継ぎつつ、外から入ってきた新しい食文化も貪欲に取り入れる。日本の食卓が最も豊かだったのは、じつは昭和のこのころだったのかもしれません。
 入れ込み式の座敷にずらりと並ぶ低い食卓と座布団。隣の人と肘が当たりそうになりながら食べるとんかつ。どじょうがぐつぐつ煮える小さな鍋に、黄色いオムレツと真っ赤なケチャップ。昭和の時代に食通たちを魅了し、足繁く通ったその味や風情を守る店、今も昭和のまま時が止まったかのような、食通の作家や文化人が愛した店。あたりまえのことをていねいにコツコツと提供し続ける、そんな昭和の美しさは、「和食:日本人の伝統的な食文化」としてユネスコの無形文化遺産の登録にひと役もふた役も買ったに違いありません。
 では、そんなおいしい昭和の味へとご案内しましょう。きっとあなたも、ぐぅ~とおなかを鳴らすに違いありません!

祝世界遺産登録!和食の天才、北大路魯山人が今話題!

川端康成がひいきにした
鎌倉『つるや』のうな重

 鎌倉・長谷(はせ)の大仏へ続く通り沿いにある『つるや』。表にガラスの小さなショーウインドーが置いてあるだけの、地味な店構えです。ところが、この店のいろいろなところに、昭和時代に鎌倉に住んでいた文化人を、今も感じられるものがあるのです。
 のれんには、飛んでいる鶴と「観世音つるやのうなぎ召した艶」という句が染め抜かれています。こののれんと、箸袋に描かれた、逃げようとするうなぎをつかみながら前へ前へと走っている男の絵は、漫画家・長崎抜天(ながさきばってん)が描いたもの。うな重に使われる鎌倉彫の重箱は、作家・村松梢風(作家・村松友視の祖父)がデザインしたそう。1階の壁には、俳優の中村嘉葎雄(なかむらかつお)が描いた水墨画がかかっています。
 昭和4(1929)年に創業して以来、この店には、作家の川端康成や吉屋信子、立原正秋、評論家の小林秀雄、女優の田中絹代など、多くの鎌倉在住の文化人たちが訪れました。出前の注文も頻繁にあったといいます。
 なかでも川端康成は住まいが近く、『つるや』をひいきにしていたひとりでした。昔は隣に茶道具店があり、川端はうなぎを待つ間に骨董を見ていたそうです。晩年は店に来ることはほとんどなく、出前を注文していました。
 小林秀雄は、ゴルフの帰りに仲間と2階でうなぎを食べることが多かったとか。サイン入りの著書『本居宣長』をくれたそうです。田中絹代は、鎌倉山の住まいから、週に1回バスに乗ってきていました。「うなぎを食べると元気になる」と言っていたとのこと。東京の病院に入院したときは、東京からタクシーで来たこともあったとか。
「うちは昔から文士好みの味と言われているんですよ。さらりとした薄味ですから」と、3代目の河合吉英さん。
 確かにタレはさらさらとして、食べ飽きない味です。この味は昭和時代から変えていません。うなぎを焼くのは備長炭で、これも昔から変わらないやり方です。少し焦げ目のついたうなぎは、品のいい香りを放っています。
『つるや』の初代はうなぎの産地・浜松の人でした。「別荘が多いところなら、うなぎの出前も多いだろう」と鎌倉に店を出すことにしたといいます。初代が考えた以上に鎌倉の文化人たちに愛される店になった『つるや』は、〝鎌倉の昭和〟を今も語ってくれます。
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つるや

神奈川県鎌倉市由比ガ浜3-3-27 ☎0467-22-0727
蒸した後に、備長炭で焼いた蒲焼きは、中はしっとりとやわらかく、外は香ばしく焼き上がっている。たれの甘みが控えめなところが特徴。
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田辺聖子が描いた
道頓堀『たこ梅』のおでん

 大阪の下町生まれの田辺聖子さんは、食道楽の祖父母、父母と共に娘時代を過ごしました。ふだんの食卓には「他郷の人が捨てるような」はもの皮、うなぎの頭、くじらのコロ(皮)を使った料理が登場したといい、粗末な材料を使いながら「口の奢ったくらし」をするのが大阪庶民の自慢だったと、昭和初期を回想しています。そのせいなのか、田辺作品のなかでも庶民の味の描き方はとびきりおいしそう!
 たとえば道頓堀にある『たこ梅』。――その匂いを心ゆくまで吸いこみ、さて、酒を注文してから、いそいそと、「蛸、それからサエズリ。こんにゃく」と矢つぎ早やに頼む。――と書いた小説『春情蛸の足』(講談社文庫)。主人公の男性・杉野が「たこ梅」の名物「さえずり」(ひげくじらの舌の脂抜き)を口にする場面では、「下手(げて)にちかいたべものながら、だしと醬油でとろとろと煮かれるとおのずと気品が生まれて、嚙むほどにうっとりする旨さである」。杉野の満ち足りた気持ち、この店の「さえずり」を食べたことのある人なら大きくうなずくはずです。
 上の写真の箸の右側に見えるのが、「さえずり」と同様に人気のくじらの「コロ」。「さえずり」や「コロ」を入れて強火で炊くので、だしはあめ色、極上の味わいに。こんにゃくひとつとっても、深い鍋底に敷き詰めて、丸2日かけて味を染み込ませる。「だからうちのこんにゃくには隠し包丁が入っていない。それが自慢です」と5代目店主・岡田哲生さん。
「たこ梅」の創業は弘化元(1844)年。「たこの甘露煮」と「関東煮(かんとだき)」(おでんのこと)に酒を出す店として開業しました。当時、道頓堀は5つの芝居小屋が立ち並び、芝居見物の後にここに寄るのが人々の楽しみだったとか。
 時は平成に移り、道頓堀の風情も大きく変わりました。しかし一歩店に入れば、往時とまではいかなくても、鷹揚と時間が流れていた昭和の空気にタイムスリップできるのがこの店の素晴しさ。飴色に光るコの字形カウンター、くじらのだしでまろやかな湯気、よく煮えたおでんと酒をおいしくする錫のぐい呑み。開業から170年余り、これだけで客を気持ちよく酔わせるには並大抵の心構えでは続きません。「おでんは市井の食べもの」といいますが、その洗練を極めるのが『たこ梅』のおでんなのです。
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たこ梅

大阪府大阪市中央区道頓堀1-1-8 ☎06-6211-6201
たこの甘露煮は1串300円。自家製の辛子と好相性。内側の特殊な構造により、少し傾けただけでスッと飲める特製の錫のぐい呑みが粋。

〝若冲ロス〟もたちまち解消! ここに行けば若冲に会える!!
【COLUMN】

小説の舞台となる店には、
やっぱり理由がありました

 たとえば、大阪『自由軒』のカレー(織田作之助著『夫婦善哉』)、京都『大市』のすっぽん鍋(志賀直哉著『暗夜行路』)、嵯峨野「森嘉」の豆腐(川端康成著『古都』)……名作の舞台になった店、ここぞという場面で物語を盛り上げる店にも、実在の老舗が多いもの。なかでも織田作之助の小説『夫婦善哉』に登場する大阪・なんばの甘味処『夫婦善哉』は、「この店なくして、この物語は生まれていなかった!」とひざを打つ典型でしょうか。
 創業は明治16(1883)年、大阪・法善寺境内に文楽の太夫・木文字重兵衛が『お福』(のちに『夫婦善哉』に店名を変更)というぜんざい屋(しるこ屋)を開業。かさを増すために1人前のぜんざいをふたつの椀に分けて出す、という営業を始めました。大阪生まれ、大阪育ちの織田作之助は昭和ひと桁のあたりでこの店に出合ったと思われますが、ここで着想を得て小説『夫婦善哉』が生まれます。
 主人公は妻子持ちのだらしのない若旦那・柳吉と、北新地の人気芸者・蝶子。再会のときを経て、柳吉と共に生きていくと蝶子が覚悟するラストシーンでぜんざい屋「めおとぜんざい」が登場します。この店のぜんざいが2杯に分かれている理由を柳吉に聞かれて、蝶子はピシリと「一人より女夫(めおと)の方がええいうことでっしゃろ」。大阪の街を「私の師である」と愛した織田のこのオチはさすがのひと言。そして男女の機微を描くまでに作家の想像力をかきたてた、この店にも喝采を送りたい!
 さて、物語を読みながら、実際にモデルとなった店を空想するのも、また楽しいひとときです。たとえば山口瞳が昭和57(1982)年に発表した『居酒屋兆治』(新潮文庫)。献立は壁に短冊で貼られている設定で、モツ焼き以外の肴、夏はこんなふうに描かれます。
 御新香 冷奴 毛呂久
 もずく 枝豆 チキンロール
 いわし丸干 もやし朝鮮漬
 実店舗は山口氏の自宅のあった東京・国立のモツ焼き店『文蔵』(現在は閉店)という店だそうですが、献立とは実に説得力のある情報だと思いませんか? 献立を書きたくて小説が生まれたのかと思うほど、昭和生まれのいい店には、いい献立がそろっています。
たこ梅3織田作之助が『夫婦善哉』を刊行したのは昭和15(1940)年。着想を得た甘味処『夫婦善哉』のほか、おでんの『たこ梅』、洋食『自由軒』など大阪ミナミにあるなじみの店を書き綴ったが、今も実店舗が残るのはほんの数軒。上の写真は昭和50(1975)年ころの『たこ梅』。

あの魯山人の名茶碗を通販で購入できるという耳寄り情報
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漱石、龍之介、康成…
文豪が通った湯島のすき焼屋『江知勝』

 湯島天神のほど近く、急な切通坂を上りきると、時が戻ったかのような古い風情の看板が現れます。昭和のレトロなガラス戸を引いて玄関に入ると、「いらっしゃいませ」と仲居がそろってお出迎え。初代が越後から上京して店を構えたのが、明治4(1871)年。東京のすき焼屋の草分けともいえるのが、昔と同じ本郷湯島で、しっかりと暖簾を守る老舗『江知勝(えちかつ)』です。
 本郷に近い土地柄ということもあり、開店以来の主な客は一高や帝大のエリート学生たちでした。卒業生である森鷗外は『牛鍋』という短編小説を著し、夏目漱石、芥川龍之介の作品にも、『江知勝』を偲ぶすき焼のことが出てきます。かの川端康成も、横光利一との出会いを記した文章の中で「本郷弓町の江知勝で牛鍋を御馳走になつたのを覚えてゐる」と店の名を記しました。ハイカラなすき焼は、若い文士たちをはじめ、流行に目ざとい若者たちを虜にしていたのです。
『江知勝』のすき焼は、もちろん関東風の味つけ。醬油ベースにみりんをブレンドした秘伝の割り下は、前日から仕込んで当日ようやくできあがるというもの。どのコースの牛肉も、厳選された国産黒毛和牛Aランクのみ。目利きの料理人が、ブランドや産地にこだわらず、きめの濃やかさや脂の質を見極めて選んでいます。各部屋には担当の仲居がついていて、肉の食べごろも教えてくれます。ハフハフしながら口に運ぶ牛肉は、舌にのせた途端にとろけてしまうようなやわらかさ。さすが名店の底力を感じるすき焼です。
 また風格を感じさせる店のたたずまいも魅力のひとつ。凝りに凝った建材や銘木が約70年ものうちに落ち着きをもたらし、お店に足を踏み入れたと同時に、懐かしさに包まれるよう。『江知勝』は、いまや往時の東京に出合える詩情豊かな名所でもあるのです。
上の写真/牛肉の色が変わりかけた煮えばなが絶品。一枚一枚の牛肉が大きくて食べ応えもある。甘辛い香りに、ご飯がすすんで仕方ない!
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江知勝

東京都文京区湯島2-31-23 ☎03-3811-5293
一高、帝大の卒業生である川端康成が、昭和28(1953)年に『江知勝』を訪れた際に記した芳名録が今も残されている。
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山口瞳や池波正太郎が愛でた
目黒『とんき』のとんかつ

 ジュワー、サクッサクッ、トントントン――。油で揚げる音、とんかつやキャベツを切る音。『とんき』の店内ではさまざまな音が聞こえます。カラッとした薄手の衣に包まれた豚肉の旨み。昭和の戦前から変わらない味を求めて、昔も今も、開店と同時に満席になるという人気ぶり。山口 瞳や池波正太郎といった食通として知られた作家たちも、庶民的な「とんき」のとんかつをこの上なく愛しました。
 L字形の広いカウンター席から厨房の中を眺めると、白衣と白いコック帽を着用した調理人たちが各々持ち場を守り、ていねいに調理しているのがわかります。とんかつは、ひと口で食べることができるように十字に切り分けて出されますが、食べる人の性別・年齢などを瞬時に判断してひと口の大きさを変えているのだとか! 小分けに切るとたくさんご飯を食べてもらえるから、という心にくい配慮です。言葉には出さずとも日本人らしい細やかな心配りが、この店のおいしさを支えています。

とんき 目黒店

東京都目黒区下目黒1-1-2 ☎03-3491-9928
山口瞳は著書『酒食生活』(角川春樹事務所・ハルキ文庫)でこう書いています。――僕等は目黒のトンカツのとんきへ行くことにした。トンカツもアブラ物だが、これは日本料理である。――う~ん、なるほど!

とらや、美しき和菓子のすべて【ニッポンの老舗】
マッチ2
【COLUMN】

作家たちが愛する店には
「昭和の心意気」がありました!

 ガンコ親父のいる店こそ、味は確かという通念があったのも今は懐かしい昭和の話。ビクビクしながら暖簾をくぐった経験は、昭和生まれなら一度はあるはずです。あの池波正太郎でさえ、〝おやじがぎょろりと私をにらみつけた〟など名店主にまつわる逸話を残しています。あのころ、店主の「守る味がある以上は、自分も筋を通すし、客もそうあるべき」という考えを客は承知して店に通っていたものです。
 そんな個性の強い店主たちは、店の顔ともいえる看板やロゴにも突出したものを求めたのでしょう。上の写真をじっくり見てみてください。今では見ることも少なくなった店オリジナルのマッチですが、これだけでその店の雰囲気、店主の顔までもが想像できそうではありませんか?

マッチひとつ見ても、
美意識の高さがうかがえます

 さらに興味深いのは、このデザインの多くが名のあるデザイナーによるものではないこと。創業者が筆を握ったのか、もしくは看板屋や意匠屋に注文をつけて共作したのか。いずれにしても、自分の店はこうありたい、という美意識が備品に至るまで浸透していたのは明らかで、そこにまず反応したのが感度の高い作家たちでした。
 たとえば、白洲正子さんは東京・上野の西洋料理店「ぽん多本家」、向田邦子さんは東京・日本橋の洋食屋「たいめいけん」、田辺聖子さんは神戸・三宮の洋食店「欧風料理もん」が行きつけの店でした。「ぽん多本家」の初代島田信二郎さんは西洋料理出身、店が「とんかつ屋」と呼ばれるのを嫌い、今もメニューはカツレツのまま。「たいめいけん」の初代茂出木心護(もでぎしんご)さんは凧好きのシャレ者。2代目が店に凧の博物館を設立…と、惹かれ合う店と作家の間柄にはどこか似ているところがあるよう?
 どの店も現在は創業時の主から代替わりしていますが、その心意気はそのまま。人間らしい店づきあいが昭和から続く繁盛店です。
上の写真/創業地の横浜にちなみ、背景に中国美人が描かれているシウマイの『崎陽軒』/裏には小槌のマークがある、かやくご飯が名物の大阪『大黒』/東京下町風の粋なあしらいは上野の老舗洋食店『ぽん多本家』/店のスケッチは水墨画家・熊谷敏雄による京都の欧風料理店『丸太町東洋亭』/豚の腹に店名を仕込んだ目黒の『とんき』。この愛嬌が昭和らしさ!/神戸の『欧風料理もん』のマッチは版画家・川西英がデザイン/型染作家・鳥居敬一郎作は東京・日本橋の『たいめいけん』/銀座の焼き鳥店『伊勢廣』は鳥を象形文字化したデザインを採用/客入りを期待して江戸の縁起文字で全面を埋めた『駒形どぜう』/湯島天神の男坂・女坂にちなみ、2色ぞろいと気風がいいのはすき焼の『江知勝』
※現在は提供していないマッチもあります

沖縄の焼き物、やちむんにキュン!
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白洲正子が通った
きつねうどんの『権兵衛』

 昭和2(1927)年に創業、同21年から現在の京都・祇園でそば屋を営む『権兵衛』。店の開く日は、通りの先までふんわりとおだしの香りがただよいます。それに誘われてつい暖簾をくぐってしまった人も多いはず。『権兵衛』には人を安心させる昭和の〝におい〟があるのです。
 自慢のおだしは、京都=薄味のイメージを覆す、くっきりと輪郭のある味わい。「1杯で満足してもらうためには、そば屋のだしはこのぐらい強くないと」と4代目、味舌輝明(ましたてるあき)さん。品書きにも奇をてらったものはなく、だからこそ一杯のどんぶりに勝負をかける潔い姿勢が、昭和が生んだ名店と呼ばれるゆえんです。おいしいものに貪欲な白洲正子さんが好んで通ったという話にも納得です。
写真/瀬戸焼の丼で提供されるきつねうどんには、甘く煮含めた小ぶりのお揚げが2枚。料理によっては輪島の漆器も使われる。箸は奈良杉の利休箸。手に触れるものへの配慮も、この店の美意識の表れ。
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権兵衛

京都府京都市東山区祇園町北側254 ☎075-561-3350
親子丼も絶品! こちらも白洲さんの好物だったそう。
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平松洋子さんが愛する
『チョウシ屋』のコロッケパン

 銀座3丁目の路地、いかにも昭和の肉屋といった店構え。こここそが、昼どきや夕方にはコロッケパンやメンチカツを求める人が並ぶ『チョウシ屋』。歌舞伎座に近いこともあり、役者にもファンが多いと聞きます。
 洋食店のコックだった当主の祖父が精肉店を始めた昭和2(1927)年からのコロッケは、「料理本に載るような基本のレシピ」とか。平松洋子さんが著書『サンドウィッチは銀座で』(文春文庫)でかぶりつくいたのも、このコロッケパンです。
 食パンかコッペパンのどちらかを選んだら、からしと特製ソースを塗って揚げたてのコロッケを挟むだけ。この、レタスの1枚も、キャベツのせん切りもない潔さが、昭和の名店の心意気を表しています。
写真/コロッケ1個を8枚切りの食パン(あるいはコッペパン)で挟んだコロッケパン。注文を受けてからつくるので、「ソース多めに」や「からし抜きで」といったリクエストも可能。包装紙には、家紋と牛、豚のイラストが。
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ちょうしや

東京都中央区銀座3-11-6 ☎03-3541-2982
親子で切り盛りする店は、内装も昭和のころのまま。お昼時には行列もできるが、少々待ってでも味わう価値あり! 揚げたては言わずもがな、だが、冷めたコロッケパンをオーブントースターやホットサンドメーカーであたため直しても美味。
撮影/石井宏明、小池紀行(パイルドライバー)、小寺浩之、小西康夫、ハリー中西

ああ!昭和の味!小津安二郎が愛した焼き鳥の「伊勢廣」

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文豪・文化人が愛した昭和の味(3)

 江戸時代や明治時代を語るように、すでに「昭和時代」と呼ばれるあのころ…。ていねいな暮らし、シンプルな暮らしが見直されている今、〝昭和の食〟も注目されています。決して「今はなき…」ではないけれど、懐かしくてあたたかい、そんな〝昭和の食〟は、文豪や文化人など、たくさんの食いしん坊たちによってにぎわい、書き残されました。〝昭和の食〟第3弾は、文化人たちが愛した味をご紹介します。
上の写真/東京・京橋のオフィス街。その裏路地にひっそりとたたずむ焼き鳥の『伊勢廣』。夕刻になって看板にあかりが点ると、待ちかねたように黒塗りの車が到着し、スーツ姿のビジネスマンや外国人客が店の中に吸い込まれていきます。小津安二郎が愛した店は、今も映画のワンシーンのような風景のなか、のれんを掲げます。
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小津安二郎がひいきにした
東京・京橋の焼き鳥『伊勢廣』

 高層ビルがそびえるオフィス街の谷間、中央通りの裏路地にある、まるで小津映画の舞台にでもなりそうな風情ある木造2階建て。それこそが焼き鳥屋の『伊勢廣(いせひろ)』です。
 大正10(1921)年、鶏肉の専門店としてスタート。昭和初期には、当時では珍しい焼き鳥屋を営み始めました。たった4席の小さな店でしたが、毎朝にわとりを丸ごとさばくため、品質と鮮度はどこにも負けない。しかも鶏肉以外の食材にもとことんこだわり、ねぎは千住のねぎ専門問屋から、しいたけやししとうは築地の料亭に卸す八百屋で、塩も自ら探した静岡の職人による塩を使用。すべての食材を鶏肉の水準に合わせた最高級のものに揃えたところ、たちまち評判を呼んですぐに4席では足りなくなりました。
 小津安二郎が『伊勢廣』に通ったのは昭和28(1953)年ごろ。好んだ席は、店の奥にあった畳の小上がりだったと当代は語ります。「昭和27年に嫁いできた母が小津先生とお会いしています。いつも静かに召し上がって、静かにお帰りになっていたようです」
 創業時から「焼鳥フル・コース」は変わりません。1本目は火の通りが早くて客を待たせずに出せるお通し代わりの笹身。上にのせたおろしたてのわさびの香りが鼻に抜けます。そしてレバー、砂肝、ねぎ巻き、団子、かわ、もも肉、合鴨、手羽と続きます。一番人気は団子です。串に刺せないおいしいすべての部位を、つなぎを使わずに少量の塩と麻の実を入れて、1本に旨味を凝縮しています。
 食材に関するこだわりは、よき時代の「ほぼ原形どおりです」と、当代は姿勢を正します。きびきび立ち働く店員と昭和の美味。小津安二郎が食したコースもそのまま。カウンターでその焼き鳥とお酒をやっている0うちに、常連に愛され続けている理由がわかるような気がします。
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伊勢廣 本店

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小津安二郎の鎌倉でのお気に入りは
『光泉』のいなりずしでした

 小津監督の好物は、北鎌倉にもありました。
「小津先生の印象は、大きくてこわいおじさんでした」と笑うのは、JR北鎌倉駅前『光泉(こうせん)』店主の高井洋子さん。女学生のころの思い出だそう。
 『光泉』のいなりずしは、甘みが控えめな油揚げと、まろやかな酸味の酢飯の組み合わせが品のよい印象。小津作品によく出演した俳優・笠智衆(りゅうちしゅう)も、ここのいなりずしが好物でした。
「もともと、小津先生のお母様がお好きで、先生がお求めくださるようになりました」(高井さん)
――森と昌子ちやん くる 光泉から稲荷すしをとつて麦酒をのむ――『全日記 小津安二郎』(フィルムアート社より)
 小津の日記のように、いなりずしでビールを飲めば、昭和がよみがえってくるに違いありません。
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光泉

神奈川県鎌倉市山ノ内501 ☎0467-22-1719
いなりずし、いなりずしとかんぴょう入りのり巻きとかっぱ巻きのセットの2種類の持ち帰りのみで営業する『光泉』。笹の葉模様の包み紙も昭和な気分。
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伊丹十三といえばラーメン…ではなく、
東京・日本橋『たいめいけん』のオムライス!

 西洋料理を日本人好みに仕立てた〝洋食〟。昭和が生んだこの料理の普及に努めたのが、昭和6(1931)年創業『たいめいけん』の初代、茂出木心護(もでぎしんご)氏です。
〝昔は洋食屋といえば軒や亭がつくもの。「けん」と名乗る以上は昔の洋食屋の心意気は守っていく〟という思いは、現在も1階で提供され続けているコールスローとボルシチの価格(なんと50円!)にも象徴されています。
 伊丹監督がひいきにしていたオムライスの中身は、創業当時からのシンプルなハムライス。卵3個と、たっぷりのバターを贅沢に使った王道の逸品です。伊丹映画の『タンポポ』で披露した半熟のオムレツをご飯にのせた斬新なオムライスは、監督が二代目当主の協力を得てつくりあげたもの。同店の人気メニューとなりました。
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たいめいけん

東京都中央区日本橋1-12-10 ☎03-3271-2463 https://www.taimeiken.co.jp/
気軽に〝昭和の洋食〟が食べられる1階、真っ白なテーブルクロスがかかったテーブルで洋食フルコースなどを楽しみたい2階と、フロアによって雰囲気もメニューも異なる『たいめいけん』。とはいえその料理は、どちらも〝正統派昭和の味〟を守る。1階の「タンポポオムライス(伊丹十三風)」を含め、オムライスは6種類。それぞれ食べ比べるのも楽しい。
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シウマイ弁当

中坊公平は横浜『崎陽軒』の
シウマイ弁当にニンマリ

――待ちかねたように好物のシューマイ弁当のフタをとり、ニンマリする。――「背負ったものを、切り落し」(『アンソロジー、お弁当』パルコ 所収」
 ひもをほどいて掛け紙とふたを外すと、独特の香りが立ちのぼる『崎陽軒(きようけん)』のシウマイ弁当(同店ではシューマイのことをシウマイと呼びます)。この香りをかぐだけで、昭和のあのころに戻ったかのようです。経木(きょうぎ)の折(おり)には、ぎっしり並んだシューマイとおかずと白いご飯。「そうそう、これこれ!」と、つい顔がほころびます。
 横浜出身でなくてもなぜか懐かしさを感じてしまう『崎陽軒』は、明治41(1908)年、駅構内でサイダーやミルク、餅などを販売したことから始まりました。大正4(1915)年に駅弁の製造販売を開始し、昭和3(1928)年には列車の中でも食べやすいひと口サイズで、冷めてもおいしいシウマイを開発。横浜名物をと、南京町(今の横浜中華街)の点心職人との試行錯誤の末につくり出したものでした。
 そして昭和29(1954)年、ついにシウマイをおかずにした弁当を発売します。焼き魚と玉子焼き、かまぼこという幕の内弁当の基本を踏襲し、シウマイや甘く煮たたけのこ、鶏の唐揚げなどを加えました。幕の内らしい俵形ご飯の上には、黒ごまと小梅がひとつ。この装いがまさに昭和の風情ですが、平成の現在も1日に約1万9000食を売るという、長年駅弁界日本一の座を守り続ける弁当なのです。
 冷めてから食べることを前提に開発されたシウマイは、豚肉と干帆立の貝柱が入った餡をごく薄い皮で包んだもの。ご飯は炊くのではなく、蒸気で蒸すことによって時間が経ってももっちり。そして駅弁としての工夫は料理だけではありません。今では珍しくなった経木の折もそのひとつ。水分をよく吸う板目(年輪)をふたに、水分を吸いすぎない目の粗い柾目(まさめ)は底部分に使うなど、とても800円の弁当の容器とは思えない完成度! アツアツのご飯やできたてのおかずを詰めることができるのも、経木の折詰めだからこそなのです。
 少しでもおいしく食べてもらうために、手間を惜しまず工夫を積み重ねる。お母さんがつくるお弁当のような優しさが、懐かしい昭和の味の基本なのかもしれません。
崎陽軒

崎陽軒 本社

神奈川県横浜市西区高島2-12-6 ☎0120-882-380 http://www.kiyoken.com/
「懐かしさを変えてはいけない」と、シウマイは90年ほど前の登場当時のレシピのまま。切り昆布や生姜、そして箸休めにするか食後のデザートとして食べるか迷うあんずまで、絶妙なラインナップ! 横浜の景色をブルーのシルエットに、中華街のシンボルでもあるドラゴンを真っ赤に描いたシュウマイ弁当の現在の掛け紙は4代目。青のひょうちゃん(醬油入れ)は、昭和30年に登場した初代で漫画家の横山隆一によるもの。ひょうちゃん誕生60周年の2015年には、赤いちゃんちゃんこを着た還暦バージョンも登場した。
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湯川秀樹が好んだのは
京都『丸太町東洋亭』のビーフカレー

 洋食店『丸太町東洋亭』の創業者・山本豊次郎は、明治時代に世界見物を体験したとか。それゆえ、この店を満たす〝舶来のにおい〟はすべて本物。大正7(1918)年の創業以来、料理は立派な石炭ストーブでつくられます。効率とは無縁のストーブ料理は、食べる側にも余裕があってこそ。ゆったりと流れる時間もこの店の味のうちです。
 さて、ここのカレーライス(ビーフカレー)のとりこになったのが、店に近い京都大学理学部に在籍していた湯川秀樹先生。野菜と果物が入ったルーは、裏ごしされてなめらかに。別鍋で煮込んだ牛肉とそのルーを合わせれてビーフカレーは完成。口にすれば、とても贅沢につくられたことがわかります。カレーが庶民の食べ物になる前に生まれたレシピは、驚きに満ちたおいしさです。
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丸太町東洋亭

京都府京都市上京区河原町通丸太町上ル東側桝屋町370 ☎075-231-7055
カレーライスは昼のみのメニュー。ライスの上にカレーがかかる従来のスタイルではなく、カレーは鉄鍋で温めたまま供される。この心配りも古くから続く店ならでは。
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早川良雄が「ゲイジュツの味」と書いた
なにわ名物『大黒』のかやくご飯

 戦後日本のグラフィックデザイン界を牽引したグラフィックデザイナー、早川良雄は食通としても知られる人物。そんな彼が著書『大阪の味』のなかで「見た目のきれいごと」にあふれた食べ物を嘆き、「人間の舌を小馬鹿にしない親切な食べもの」の味がすると、なにわ名物『大黒(だいこく)』のかやくご飯を賞しました。このエッセイを寄稿したのが昭和48(1973)年のこと。今ではこの店のような、正しい〝おふくろの味〟が食べられる店は貴重になってしまいました。
『大黒』の創業は明治35(1902)年。戦前は道頓堀川の大黒橋の筋にあったのでこの名がついたといいます。創業当時、道頓堀には芝居小屋が立ち並び、店は花街にあったため、客の多くは芸者や芸人。手短に食事を済ませられる、おかずとご飯が一緒になった「かやくご飯」が重宝がられました。『大黒』のかやくご飯の具は、油気を担う「薄上げ」(油揚げ)、香りの「ごぼう」、歯ごたえの「こんにゃく」と3種類のみ。芸に携わる人の歯を汚さないために具を細かく刻むという配慮も、すべて初代が考えたもの。簡素かつ薄味ながら、だしの奥に味わいが重なり、飽きがきません。
 かやくご飯目当てに、地元のみならず遠方から人が通うのだから、「ほかにも専門店ができないのが不思議ですね」と2代目の木田節子さんにうかがうと、「うちの味はほかでは出せませんよ。だって、こんな大きな鉄釜(3升炊き)で炊いている店はどこにもないはずです。それに、鉄釜に長年のだしの味が染み付いていますもん」ときっぱり。加えて、まねのできない味の理由は、米と具、だしの配合の「勘どころ」だと言います。
「しゃもじの当たり具合でわかります。お米の乾燥具合も季節によって変わりますからね。今日はだしが多いかな、と思ったらそこで引いたり、逆に足したり。うちは具のかさ加減もすべて目分量で、それは昔からの測る道具を使うからなんですよ」
 いつ来ても変わらないと言ってもらうために、そのつど丹精して米を炊く。単純な作業のなかから生まれるおいしさ、その尊さを嚙みしめたくて、昭和の文豪・文人たちも、現代の私たちも、この店に通うのでしょう。
上の写真/かやく御飯(中サイズ、漬け物付き)、白みそ汁(豆腐)、なすの丸煮、南京の煮付に、ぬた。汁ものはほかに赤みそがあり、冬季にはかす汁が加わる。
大黒

大黒

大阪府大阪市中央区道頓堀2-2-7 ☎06-6211-1101
店内には8人掛けと6人掛けの長テーブルだけ。みなで肩を寄せ合いながら、熱々のご飯をかきこむ風景は温かくもあり、懐かしい。檀一雄や池波正太郎もこの店がお気に入りだった。かやくご飯は持ち帰り可能。
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荻昌弘が絶賛したのは
上野『ぽん多本家』のロースカツレツ

 重厚な木のドアを開けると、ジャーっというカツレツを揚げる音と、トントントンと小気味よくキャベツを刻む音だけが響いています。店内に漂うほどよい緊張感に、昭和の名店に来たことを実感するのです。
 ここ『ぽん多本店』のロースカツレツは、驚くほど淡く上品なきつね色。「何もつけないで召し上がる方も多いですよ」という4代目主人の島田良彦さんの言葉に従い、ソースなしで口に運ぶと、肉ははっとするほどやわらかく、濃厚な旨みが広がります。
 明治38(1905)年創業、東京・上野の老舗洋食店『ぽん多』のロースカツレツに惚れ込んだ文化人は多く、食通の荻昌弘も絶賛、噺家・柳家小さんなども常連でした。ロース肉の脂身を徹底的に落とし、肉の〝芯〟のみを使用。切り落とした脂身からつくる自家製ラードで、低温から徐々に温度を高めてじっくり揚げていきます。初代が考案したこの調理法と味を頑固に守り、4代目は今日も揚げ鍋の前に立ち続けます。
――とんかつはヒレよりも、ロースを選ぶ。豚は、脂(あぶら)であって、はじめてウマい。――荻昌弘『味で勝負』毎日新聞社より
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ぽん多本家

東京都台東区上野3-23-3 ☎03-3831-2351 
ロースカツレツは、ひと口で食べやすいよう12等分し、繊細なキャベツのせん切りを添えた美しいひと皿。1階はカウンター4席、2階はテーブル席、3階には個室が。
撮影/石井宏明、小池紀行(パイルドライバー)、小寺浩之、小西康夫、篠原宏明、ハリー中西

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