2016年3月12日土曜日

正法眼蔵メモ

正法眼蔵随聞記の一文、
「学道の人、身心を放下して一向に仏法に入るべし。古人曰く、百尺竿頭かんとう
如何進歩と」
この出典は、「百尺竿頭かんとうすべからくこれ歩を進むべし、十方世界これ全身」
から来ている。とにかく高い竿さおの先端に立っていて、そこからさらに宙空に一歩
踏む出せと言っている。ただ、その竿は断崖絶壁に突き出しており、人生とは
そのようにバランスを取りながら竿の上を行くものだ、やっとここまで来たと言う
想いがあるものの、もう先は行き詰まりだという状況となったとき、
「すべからくこれ歩を進むべし」一歩を踏み切れと言っているのだ。そこで、
踏み出したらどうなるか、落ちて行く自分も感じない、身も心も脱け落ちたような
自分が無になってしまう。そうなった時、十方世界、つまり全宇宙が逆に自分の身
と一致する。あるいは、自分が全宇宙にまで広がっていく、と言っている。

正法眼蔵の理解は、帰納的な進め方ではなく、演繹的な進め方によれば、
すすむかもしれない。始めの言葉よりも後半のフレーズを始めへと展開していく?


現成公案
・現実は、あるがままで、なに不足ない真実であり、万物は分を守って平等であること
・現成とは、ものの姿形を現したことだ。、、、したがって公案とは万古不易の真理、
それが公案だ。だから現成これが公案、公案が現成となって現れる。

これらからは、
現実の事象や存在するものは、それを真実だとする肯定する根拠に裏付けられている。
つまりこの世の一切の存在はそのまま真理の表れだ。

「現にそうなっている事象、事物」が我々の取り組むべき問題なのである。
時代背景の認識が必要である。
この時代は、「現実がそのまま真実だ」と言えるような現状肯定の社会ではなかった。
むしろ、現実のあり方を根底的に問い直すべき変革と激動の時代であった。それは、
幾多の高僧の地道な努力から仏教が過酷な現実に苦しむ民衆の末端まで達したことに
現れ、社会の大きな変化が始まっていた。

「諸法の仏法なる時節、即ち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、
衆生あり。万法ともにわれにあらざる時節、惑いなく、悟りなく、諸仏なく、
衆生なく、生なく滅なし。仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに、生滅あり、
迷悟あり、生仏あり。しかもかくのごとくなりといえども、花は愛惜にちり、
草は棄嫌におうるのみなり。」

諸法 普段我々が認識している個々の事物
仏道 仏法に適った生き方
豊倹 豊かさと乏しさ
従来の二元的な生き方を離れ,仏法に沿った生活実践により新しい自分を創る

第一 現成公案の章より、
01
森羅万象は普遍不変の理法によって保たれつづけている。
そうした事象として、人に迷いがあり、覚りがあり、迷いとはなにか、覚り
とはなにかを知ろうとする努力があり、生があり、死があり、覚りえた人々
があり、覚りえていない人々がいる。

02
もろもろの自然の事物に自我はない。人の自我も幻想である。人は誰であっても
自己であるほかはないのだが、自己と言う意識は幻想である。迷いも覚りも
覚りえた人々も、覚り得ない人々も、生も死も、全ては空である。もろもろの
存在現象の本質は空であって、実体ではないのが存在現象の本質である。

03
仏の教えは事柄の大小や豊かさ狭さを超えていて、人の世の有り様は、仏の
教えそのままである。この世に、生があり、滅があり、迷いがあり、覚りが
あり、覚りえない人々として衆生があり、覚りえた人々として仏がいるけど、
それらはすべて空であるほかはない。
このようではあると言え、散る花を惜しみ、生茂る草を嫌うのも人の
心のありようである。すべての現象は実体ではないとはいえ心は心である。

04
自我によってすべてを認識しようとするのが迷いなのだ。もろもろの現象の
なかに自我の在りようを認識するのが覚りである。迷いを迷いとして大悟
するのが覚りえた人々であり、また、己の認識に執着するのが衆生である。
覚りの上にさらに覚りをうる人があり、迷いの中にさらに迷う人がある。
覚りえた人々がまさしく覚りをえた人々である時、その人は自分が覚りえた
人であると認識する事がない、それは身心が覚りに同一化しているからである。
そのようではあるけれども、その人は仏法を知りえた覚者であって、さらに
覚りを求めていく。

06
仏法を求めるとは、自己とは何かを問うことである。自己とは何かを問うのは、
自己を忘れることである。答を自己の中に求めないことだ。すべての現象の中に
自己を証あかすのだ。自己とはもろもろの事物のなかにあってはじめてその存在
を知るものである。覚りとは、自己および自己を認識する己をも脱落させて
真の自己を無辺際な真理の中に証すことである。こうしたことから、覚りの
姿は自らには覚られないままに現れてゆくものだ。


13
たとえば、船に乗って陸も見えない海原に出て四方を見ると、海はただ丸いと
だけ見えて、そのほかの姿に見えることがない。しかし、この大海は、丸いもの
ではなく、四角なものでもなく、目には見えない海の様相は尽くしきれない
姿をもっている。それは宮殿のように瓔珞のように見事なものである。
しかし、目の及ぶばかりには、ただ丸いと見えるだけである。

14
万象もまたそのようである。一塵の中にも形に捉われぬものにも、多くの様相が
あるけれど、学び学んで眼力の届く限りを見取り会得するのである。
森羅万象にある真の姿を知るためには、目には見える形のほかに、残りの
形相は多く極まりなく、そのように十方世界が成り立っている事を知らねば
ならない。己の周囲のみがこのようにあるわけではない、己自身も
微小な存在もこのようであること知らねばならない。

18
風性常住、無処不周なり、なにをもてかさらに和尚おうぎをつかう
「風の性は常に変わることがなく、処として周あまねからざることがない、なにゆえに
和尚は更に扇を使われる」(仏性はもともとあるもので、行き渡らないところなど
どこにもない。まずは黙って扇を使い、風を味わう行動を起こすことが肝要)

19
仏法が保っているありのままの在り様とはこのようである。仏法がまさしく伝わり
活かされる路とはこのようである。風の性は常に変わらぬ性であり、変わりなく
普遍であるから扇を使ってはいけない、扇を使わなくとも風を感じろというのは、
不変であり普遍であることの意味も知らず、風の性は己自身の性である事を
知らないのである。風の性は不変普遍であるからこそ、仏法の風は大地に黄金の
豊かさを現出させ、ガンジス河の恵みを、其の乳酪のような大きな恵みをもたらした
のである。


第三 仏性の章より
01
釈迦牟尼仏は言われた、「一切衆生、悉有仏性、如来常住、変易有ること無し」と。
すなわち、「一切衆生とは、類として存在するものであり、普遍的に存在するもの
すべてであり、仏性である、あるがままのものであり常に変わることは無い」と。
さらに、在るがままのは是事実であり、真実は是虚空である。虚空は即ち真実であり、
真実は是仏性である」とも言われている。

03
釈迦牟尼仏が言われる「一切衆生、悉有 仏性」の、この言表の主旨はどのよう
であるか。これこそは六相大鑑が弟子の南獄に問うた是汁摩物「存在するもの、
この名でないものはなにか、仏とは何か、如来「あるがまま」とはなにか」
を問う大命題である。「これはなにか」と問わねばならぬ仏教を包括しつつ
その根源を示す大説法である。これを「一切衆生は、悉く仏性を有する」などと
軽々しく浅薄に理解してはならないのだ。悉有とは、あるいは衆生と言い、有情
と言い、群生と言い、群類とも言うのであって、類として共生する衆生をいう
言葉であり、衆生は群としての存在である。
すなわち、悉有の語は仏性の語と同じであって、衆生とは悉有、万有、の一分
をも全分をも言う言葉なのだ。
「一切衆生、悉有、仏性」の言葉を、正に釈迦が説くように理解する時、釈迦は
悉有、万有、の一分である有情としての衆生の内界と外界は、すべて仏性である
悉有、万有、なのだと説いているのである。慧可、道育、道副、尼総持の四人の
弟子の夫々に与えたと伝えられている菩提達磨の皮、肉、骨、髄が達磨の全身の
一部ではないことを思えばよい、達磨の皮、肉、骨、髄は達磨の一部ではない
のである。そのとき達磨は「汝は吾が全身を得た」と言っているからだ。
知るべきである、いま仏性によって存在している有とは、具体的な存在を言う
有無の有ではない。一切の存在を意味する悉有とは、仏の語であり、仏が語る
ものであって、形而上の認識であり、形而上の言葉である。それは仏祖たる
智慧であり、仏祖の真面目である。悉有とは始まり出現する現象の有を言うのでは
ない。それは物質的な有ではない。有であり非有であり無でありながら無ではない
空としての絶対の有でもない。ましてや縁の相関作用によって起こる有や、六識、
色声香味触法また施行の対象である有ではない。心の作用や主観からする対境、
事物の本性や現象の相などにはかかわらないのである。

05
それは始めて生じる有ではない、全世界には一塵といえど新たに改めて受け取る
ものはないからである。それは個々の有ではない、すべては総合されているから
である。
それは始まりが無い有ではない、何者もすべてはそれぞれ何ものとしてあるからだ。
それはあるときに始めて生ずる有ではない。移ろう時も万象の去来も常に変わる
ことがないからである。
「尽界はすべて客塵なし、直下さらに第二人あらず。悉有それ透体脱落なり」
(人間には誰でも仏性という一つの資質、種子が備わっている。したがって、
是に目覚め、これを育むことで、人間は誰でも仏になれる。主体性が基本
としてある)

(27)
すなわち、草木叢林の無常である姿が、そのまま仏性なのだ。
人や物質や身心の在りようの無常の相が、そのまま仏性なのだ。
国土山河の無常の相は、そのまま仏性のは活らきのなかにある。
無上平等の覚りは仏性の活らきの本質を覚るところから無常なのだ。
大いなる涅槃はそのまま無常であることから仏性なのだ。



「一切衆生、悉有仏性、如来常住、無有変易」
涅槃経の一節。今までの解釈では、誰でも仏になる素質がある。真理はどこにでも
あって、変わることはない。
道元は、違うという。
「一切の衆生、悉有が仏性なり」と考える。「悉有」はそれ自体が仏の言葉である、
と言う。「悉有は仏性なり。悉有の一悉を衆生という」

「悉有仏性」は、「涅槃経」の師子吼菩薩品に説く「悉く仏性有り、如来は常住にして
変易(へんにゃく)あることなし(悉有仏性 如来常住 無有変易)」に基づきます。
 私どものこの命というものは、広大無辺の宇宙いっぱいのいのちです。この命という
ものは途方もない因縁によって生じているのです。太陽系も因縁生なら地球も因縁生で
あり親兄弟も因縁生ということになります。この因縁生の中で本当の自分を見いだすこ
とが「一大事因縁」と示されています。
 「悉有仏性」のことを、法華経では「諸法実相」ともいいます。 
「悉有(しつう)」は、あらゆるものに、すべてにゆきわたって確かに存在すると
いうこと。「仏性」は、仏になる可能性ですから「悉有仏性」とは、一切の衆生は
例外なくみな仏になる可能性を持っているということです。

悉有仏性は訓読みする場合は「悉く仏性有り」と読むのが通例です。ところが、
「悉く仏性あり」というと、私たちはどうしても「仏性」という何か実体がある
ように考えてしまいます。しかし、「一切衆生悉く仏性有り」といいましても
「これが仏性だ」と指し示すことはできません。故に道元禅師は「正法眼蔵」
仏性の巻で、「悉有は仏性なり」と読み変え示されるところでしょう。
原典の涅槃経の思想をさらに深めて、「悉有は仏性なり。悉有の一悉を衆生といふ」
と説き示されるのです。ここにも道元禅師の鋭い思想眼が輝きます。
すなわち「悉有」は、悉く有りという保有することではなく、天地全部が仏性
であるということなのです。また「一悉」という一は、たんなる数字の一
ではなく全ということですから、一悉を言いかえると「全悉」となるでしょう。
したがって「悉有の一悉」は、悉有の一部分ではなく「その存在の全て、
悉く」ということになります。よって道元禅師が「悉有の一悉を衆生といふ」
のは、「一切衆生(生命あるものすべて)に仏性がある、一切衆生が、
そのまま仏性である」と示されるのです。

道元禅師は「正法眼蔵」仏性の中で次のように述べられています。
「ある一類おもわく、仏性は草木の種子のごとし、法雨のうるおひしきりに
うるおすとき、芽茎(がきょう)成長し、枝葉華果も(茂)すことあり、
果実さらに種子をはらめり。かくのごとく見解(けんげ)する。凡夫の
情量なり。、、、、みな同じ万象として仏性に支えられていることになる」
(08)
意訳すれば次のようになります。
ある一群の人達は、仏性というものを草木の種と同じように考えている。
種をまくと、日光の恵みや雨のうるおいで、やがて芽を出し茎も成長し、
枝や葉が茂り、花が咲き実を結ばせる。仏性もその通りで、衆生の中に仏性
の種が宿っていて、いろいろな仏縁や良縁、つまり因縁がこれを育てると、
ついには結実して仏性があらわれる。このように思っている者が沢山
いるが、これは凡夫の勝手な憶測にすぎないのである。
つまり、自分の中に仏性という種子があって、それをうまく育てると、
やがて仏性の花が咲き、仏性の実を結ぶというのではない。
「只管打坐(しかんたざ)」とは坐った刹那に仏性そのものなのだという
ことになります。坐禅したから、その時間に応じて少しずつ仏性という
実が結ばれるというのではない。草木で例えれば、花や実だけが仏性
というのではなく、その芽も仏性現前、茎も枝葉も仏性現前です。
全部一切が仏性そのものだという受け取め方によってとらわれのない
坐禅になるのです。

正法眼蔵の「仏性」の「無常仏性」について、現代語訳では、
「無常は即ち仏性なり、有常は即ち善悪一切諸法、分別心なり」ここで六祖が
おっしゃる無常とは、外道(仏教以外の教え)や二乗(小乗)などが
推し量る事など出来ないものである。二乗や外道の始祖や末流が「無常である」
などと言っても、かれらは究め尽くしていないのである。つまり、無常が
自分から無常を説き、修行し、「さとり」を得るのは皆無常なのである。


第四身心学道
(2)
仏道を学ぶのに、先ず2つのことがある。
心を持って学び、身を持って学ぶのである。
心を持って学ぶと言うのはあらゆる処々の心を持って学ぶのである。その処々の
心とは、質多心(心意識)・汗栗駄心(心臓、精髄、心情の起こるところ)・牟栗駄心
(成長し学を積み励ましを受ける心)である。また、衆生の心に仏の心が
感応して、菩提心を起こした後、覚者の大道に従い,菩提心のなす行いを学ぶの
である。
たとえ未だ真実の菩提心が起こっていなくとも、先に菩提心を起こしている
覚者の覚りを学ぶべきである。
それは発菩提心である、赤心片々である、古仏心である、
平常心である。生死流転やむことのない迷界は心にほかならない。


菩提心とは、無常を観ずるときには吾我の心を生ぜず、無常を正しくみつめる
心もまた菩提心(切実に人生の道を求める心)といってよい」と示されています。
その菩提心をおこすことを「発菩提心」(ほつぼだいしん)といいますが
道元禅師はこれを重視します。「発菩提心」、略して発心といいますが、
道元禅師は発心し、修行し、それから身心脱落するとは示されません。
『発菩提心はそのまま得菩提心』ということになるのです。いいかげんな発心
ではどうにもなりませんが、本当の発心ならば、その発心のところに道が
得られているというのであります。けれども、その発心が一時の夏の線香花火
のようなものであれば、火が消えればそれと共に道も消えてしまいます。
それ故に、発心の連続が要求されるのです。発心さらに発心さらに・・
発心であります。道元禅師は百千万発の発心と示されるのです。
その発心が切れ間無く続くならばそれが「仏道」というわけです。
仏教では短い時間のことを「刹那」といいますが、これは時間の単位のひとつ
であって、指をはじく間の時間が64刹那という説や、一昼夜が648万刹那
(時間計算では約0.013秒)という説があります。
この一刹那にあらわれ一刹那に消えていくことを「無常」といいますが、
「無常」というのは、たとえていえば、人間の体は分子生物学によると、
6ヶ月経つと完全に細胞が入れ替わってしまうというのです。茶髪にしようと
指を染めようと、髪も爪も皮膚も血液も、そのままあり続けているのではなく、
分子レベルでいえば生死は刹那にいれかわっているということなのです。
同じように流れ続けているように見える川の水にしても全存在も同じことです。


面山和尚の言葉で言えば「一寸の坐禅は一寸の坐仏」です。線香が一寸燃える間
の坐禅であっても、只管に坐れば、たとえ初心者であっても年が若くても、
直ちに仏性そのものであり、坐仏です。
道元禅師の教えは「只管打坐(しかんたざ)」ですが、黙って坐るという形のみ
を示しているのではないのです。
只管とはよそ見をしないことです。余念のないことです。
坐禅をすればじょじょに悟ることができるとか、坐禅をすれば悟れるとかいう
のは「只管打坐(しかんたざ)」ではありません。悟ろうとか、仏性というもの
を手に入れようと思っているかぎり、悟ることはできませんし、仏性を体得して
いない証拠でもあります。生のときは生が仏性、死のときは死が仏性です。
つまり、悟りや仏性を追い求めるという姿勢ではいつになっても正法を得られるもの
ではないということになります。

「山は超古超今より大聖の所居しょこなり、賢人聖人ともに山を堂奥とせり、山を
身心とせり」(山水経)


道元においても人間や世の中の儚さを強調し、それゆえに修行に励むべき
とする言説がみられたが、それらは、無常と常住を対立的に捉えた言説であった。
このような言説が特に仏教修行をはじめたばかりの初心者や在家信者
にとって有用であるということはいうまでもないが、仏教の「無常」に関する
言説は更に、その先の事態を表現しようとする。
無常と常住を対立的に考えて、無常なる俗世を脱して常住なる仏道世界を目指せ
という言説が第一段階の言説であるとすると、この無常と対立するものとして
設定された常住は、実は無常であると理解するのである。これは仏教の実体化
批判を土台としたものであり、とりあえず、無常に対立するものとして想定された
常住なるものも、固定的ではなく、すべたは無常であることが明らかにされる。
これが第二段階である。そして、さらに、あらゆるものが無常であるという
第二段階の議論を推し進め、更に高次化した「無常」の理解を示すの
が段三段階となる。この段階においては、移りゆくこの瞬間、瞬間の中に
永遠が読み取れる。後述する「修証一等」の構造においては、修行とは
「さとり」を得るための手段ではなく、修行する一瞬一瞬が「さとり」である。
となると、「さとり」と言う永遠の真理の体得は、修行の一瞬一瞬において
行われることになる。つまり、修行の一瞬、一瞬にこそ、永遠が宿る。
無常と常住を峻別する二分法は、修行する、つまり、生きる現場から離れた
抽象的な立場であり、そのとき、その場所においては、ただ心理を顕現する
行為があるのみである。それは、まさに「永遠の今」といいえる。
これが第三段階である。

第5  即心是仏
(14)
即心是仏とは、普遍の理法に目覚め、修行し、覚り、覚りの中に不生不滅を覚った
諸覚者のことである。未だ目覚め、修行し、覚り、覚りの中に不生不滅を覚らない
者は、即心是仏ではない。そして、たとえ一瞬のうちに目覚め覚るのも即心是仏
である。たとえ極小極微の事象のなかに目覚め覚るのも即心是仏である。たとえ、
無量の年月のうちに目覚め覚るのも即心是仏である、たとえ自らの一念において
目覚め修証するのも即心是仏である。たとえほんの僅かなあいだ目覚め覚るのも
即心是仏である。このようであるものを、たわけどもが、長い間修行して覚るのは
即心是仏ではないなどというのは、こうしたやからが即心是仏すなわち真の諸仏
にあったことが無いからである。いまだ諸仏というものを知らないのである。
いまだ真の仏法を学んだことがないのである、即心是仏を説き明かす正しい
師に会ったことがないのである。
ここに言う諸仏とは、釈迦牟尼仏なのだ。釈迦牟尼仏が、これこそ即心是仏なのだ。
過去、現在、未来、にわたる諸仏が、皆それぞれに仏となったとき、彼らは
かならず釈迦牟尼仏となるのである。これが即心是仏である。

第六 行仏威儀
(1)
諸覚者はかならずその一挙一動にわたって威儀を具えるものだ、これが行仏である。
行仏とは修行の功に報われて得られる真理と一如となった報身仏ではない。
即ち、種種の身に変じて衆生の前に現れ済度する応化仏ではない、いうところの
自ずと法楽を得る自受用身仏ではない、また他受用身仏ではない。妄想を払って
活らく始覚、本来具えている成仏を求める智慧が活らき始める本覚ではない、
仏智が自ずと現れる性覚ではない、学問知解など全て不要とする無覚ではない、
これらのような仏は、まったく行仏とは異なる。
(2)
知るべきである、諸覚者の修行にあたっては、身体の感覚に依拠することは
ないのである。
覚りを超越した覚りへの道に日々をあげて修行するのは、ただ行仏のみである。
自性仏とか自性清浄とか言っている類が、夢にも見ないところである。
この行仏は、人々の前に姿相となって現れるのでありから、行為に先立って現れる。
人を導く活らきが言葉に先立って漏れ出るのであって、行仏は時を運ばない、
所を選ばない、日々の行いすべてにわたるのだ。行仏でなければ、覚りに縛られ
自己に縛られることから未だ抜け出ることなく、宗門に閉じこもる仏魔法魔の
ためにその仲間とされてしまう。

第七 一顆明珠
(10)
一顆の明珠は、名として明確な名詞ではないが、言いえている言葉であり、仏道では
真理を開示する言葉として認められて来た。一顆明珠の言葉は永遠と直通する言葉
として開かれている。往古にわたって永遠は果てなく、永遠なる今は常に到来
している。
今あるこの身、今あるこの心、これが明珠である。また、自然はかれこれの草木の
自然ではない、自然としての山河ではない、明珠としての草木「修行者はこれを如何に
会得したらよいでしょ」。この言葉は、たとえ僧の言葉遊びに似て見えても、大いなる
力量の発揮であり、また大いなる道理を示している。一尺の水が進めば一尺の波を
起こす。いうところの「1丈の珠は一丈を明らかにす」である。
(15)
この明珠という始めのない存在は時間空間に無限である。尽十方世界一顆明珠である、
二粒三粒という数を以って現す一粒ではない。人の全身は是普遍のの仏法そのもの
であり正伝する普通の仏法を保持する一隻の眼そのものであり、全身は真実そのもの
であり、全身これ此れの一句「尽十方世界是一顆明珠」そのもであり、全身これ
光明そのもであり、全身はこれ全心そのもの心相不二であり、全身がそのまま是の
ような全身であるとき、全身は曇りない全身である。円いものが転がるようであり、
車の果てしなく回るごときである。尽十方世界は明珠に表現され是のように現成
しているからこそ、この現象世界に現れる観音や弥勒があり、現実の身を持って
普遍の仏法を説きえた往古から今にいたる覚者たちがいるのである。

第八 心不可得
(1)
釈迦牟尼仏は言った。「過去の心は捉えようがなく、現在の心は捉えようがなく、
未来の心は捉えようがない」と。
是は仏祖が究めたところであって、心の流れは捉えられないという見所に立って心を
認識した。そうであるが、それは仏祖たち自身の心の流れの動機や根拠は捉えられない
と言い表しているのである。この現在の思慮分別は、捉えられないと言い表している
のである。さらに日常の二十四時間を使ってする全活動の、その動機や根拠は
捉えられないと言い表しているのだ。諸仏祖は覚りの奥所に入って、心不可得を
会得するのだ。
(07)
このように、修行する雲水たちよ、かならず勤学でなければならない、安易に学んで
いてはならない、勤学であったのは、仏祖たちである。徳山は「画に描いた餅は
飢えを満たさない」と歎いたが、金剛経も画に描いた餅である。およそ心不可得とは、
画に描いた餅を一枚買い、ひらりと一口に噛み砕くようなものである。

第九 古仏心
(02)
これまであげた四十人の仏祖は、すべて古仏であるといっても、心もあり身もあり、
それぞれの光明がありそれぞれの世界がある。

(07)
古仏心とはこうした心の場を言うのであるから、それは花開く万木百草である、
古仏の古今を貫きえた言葉である、この言葉は、古仏が古今の全時間空間を
問うているのである。この言葉において全世界は生起する、それは古仏の日の当たる
面、月光の当たる面である、明るい面また暗い面である、古仏の肉体である。
さらにまた古今に通じる心の修行となることもあるだろう、覚りが古今を通じる
心となることもあるだろう。古今を通じる心と言うのは、古仏の心は古今の時間
空間に渡るからである。古仏の心と覚りは必ず古今の事物現象の真相に通じる
のであるから、古今に通じる心はただの竹椅子のようであり、呼びようのない
ものである。尽大地に一個の仏法を会得する人を求めることは出来ない。仏法とは
森羅万象を保つ普遍の理法であるが、「仏」は覚りである「法」は森羅万象である、
1つで二つ、二つで一つである。



弁道話(はんとうわ)
01
この無雑純粋な遊戯の境地に入るには、端坐参禅を正門とするのである。この法は、
人々のそれぞれに資質としてはもともと豊かに具わっているのであるが、まだ
座禅修行をなさぬなら現れず、身心にその境地を確証しないならば会得されることはな
い。
坐禅によって獲得されたものは解き放とうすれば逆に手一杯になってはなれない、
それは多いと少ないといった分量とは関係がないのである。、、、、
一切の衆生は必ず己自身であるほかはないが、坐禅の中にあっては、どのような知覚分
別も
空相として現れるほかはなく、方角や根拠が現れることはないので、坐禅の修行の
妨げにはならないのである。

16
すなわち、修行と覚りとは一如ではないと思うのは、そのまま外道の見解である。
仏法にあって、修行と覚りとは必ず同時であり等しいのだ。
常に初心の覚りがあって上での修行であるから、初心の坐禅修行はそのまま本証
の全体なのだ。このところから、坐禅修行にあたって指導を与えるのにも、修行のほか
に覚りや解脱を期待してはならないと教えるのである。坐禅によって体得するものは、
己に属する本来の普遍的な明証であるからなのだ。このように己の修行によるほかは、
ない明証であるから、その覚りに優劣や規格はなく、覚りがあって上での修行
であるから、すでに仏法修行に入ったものには初心というものはないのである。
 
 
 
和辻哲郎の日本精神史研究より、
P156 沙門道元
道元は、「正法眼蔵」を現し、「直下承当の道は、参師問答と工夫座禅が
必須であると説いている。
宗教の真理は、あらゆる特殊、あらゆる差別、あらゆる価値をしてあらしむ
所の根源である。それは、分別を事とする「世の智慧」によっては捉まれない。
ただ一切分別の念を棄て去った最も直接なる体験においてのみ感得せられる。

その精進の方法は、
「行」の実践
あらゆる旧見、吾我の判別、吾我の意欲を放棄して、仏祖の言語行履に従うこと。
「行」の中核は、専心打坐である。
煩悩の克服が真理体現の絶対条件となる。
そして、真理を修行体得しようとするものは、第1に導師をを選ぶことであり、
正しい師に面接し、その人柄を見ることが必要となる。
第二に重大なのは、その師に従い、一切の縁を投げ捨て、寸暇を惜しんで、
精進求道すること。
「正法眼蔵仏性」において、
「一切衆生、悉有仏性、如来常住、無有変易」の涅槃経の言葉を重視する。

千夜千冊正法眼蔵より、
http://1000ya.isis.ne.jp/0988.html

聖書のように読むのには、昭和27年発行の鴻盟社の『本山版正法眼蔵』縮刷本を愛用
した。本山版というのは95巻本をいう。


すでに書いたように、この『正法眼蔵』にはいくつかの写本があるのでどれをもって定
番とするかは決めがたいのであるが、ここでは75巻本をテキストに、以下に列挙した
。ところどころに勝手な解説をつけた。全部を埋めなかったのは、それが道元流である
からだ。何かのためのプログラム・ガイドにされたい。

序 「辨道話」。これは『正法眼蔵』本文に序としてついているのではないが、長らく
序文のように読まれてきた。「打坐して身心脱落することを得よ」とある。この言葉こ
そ、『正法眼蔵』全75巻あるいは全95巻の精髄である。

一 「現成公按」。有名な冒頭巻だが、「悟上に得悟する」か、「迷中になお迷う」か
を迫られている気になってくる。道元は、仏祖が迷悟を透脱した境涯で自在に遊んだこ
とをもって悟りとみなした。それが「仏道を習ふといふは自己を習うなり、自己を習ふ
といふは自己を忘るるなり」の名文句に集約される。


二 「摩訶般若波羅蜜」。『正法眼蔵』は般若心経を意識している。しかし道元は「色
即是空・空即是色」をあえて解体して、「色是色なり、空是空なり」とした。『正法眼
蔵』はあらゆる重要仏典の再編集装置であるといってもいい。
三 「仏性」。
四 「身心学道」。
五 「即心是仏」。
六 「行仏威儀」。
七 「一顆明珠」。39歳のときの1巻。道元の好きな「尽十方世界是一顆明珠」にち
なんでいる。よく知られる説教「親友に譲るものは最も大切な明珠であるべきだ」とい
うくだりは、仏典の各所にも名高い。ぼくは親友(心友)に何を譲れるのだろうか。
八 「心不可得」。
九 「古仏心」。

「大悟」。いったい何が悟りかと、仏教に遠い者も近い者も、それをばかり訊ねたがる
。ぼくの周辺にもそんな連中が少なくない。しかし道元は、「仏祖は大悟の辺際を跳出
し、大悟は仏祖より向上に跳出する面目なり」と言ってのけた。これでわからなければ
、二度と悟りなどという言葉を口にしないほうがいいという意味だ。

   
十一「坐禅儀」。
十二「坐禅箴」。
十三「海印三昧」。
十四「空華」。ここは世阿弥の「離見の見」を思い出せるところ。道元はそれを「離却
」といった。
十五「光明」。ここにも「尽十方界無一人不是自己」のフレーズが出てくる。尽十方界
に一人としてこれ自己なるざるなし、である。華厳は十方に理事の法界を見たのだが、
道元は十方に無数の自己の法界を見た。
十六「行持」。「いま」こそを問題にする。「行持のいまは自己に去来出入するにあら
ず。いまといふ道は、行持よりさきにあるにはあらず。行持現成するをいまといふ」。
さらに道元は「ひとり明窓に坐する。たとひ一知半解なくとも、無為の絶学なり、これ
行持なるべし」とも書いた。一方、「仏祖の大道、かならず無上の行持あり、道環して
断絶せず」は、露伴の連環につながっているところ。
十七「恁麼」。「いんも」と訓む。「そのような、そのように、どのように」というよ
うなまことに不埒で曖昧な言葉だ。これを道元はあえて乱発した。それが凄い。「恁麼
なるに、無端に発心するものあり」というように。また「おどろくべからずといふ恁麼
あるなり」というふうに。
十八「観音」。
十九「古鏡」。鏡が出てきたら、禅では要注意だ。きっと「君の禅を求める以前の相貌
はどこに行ったのか」と問われるに決まっているからだ。
二十「有時」。道元はつねに「無相の自己」(フォームレス・セルフ)を想定していた
。その無相の自己が有るところが有時である。これを、時間はすなわち存在で、存在は
すなわち時間であると読めば、ハイデガーやベルグソンそのものになる。
   
二一「授記」。
二二「全機」。
二三「都機」。ツキと読む。月である。『正法眼蔵』のなかで最もルナティックな一巻
だ。「諸月の円成すること、前三々のみにあらず、後三々のみにあらず」。道元は法身
は水中の月の如しと見た。
二四「画餅」。ここは寺田透が感心した巻だった。「もし画は実にあらずといはば、万
法みな実にあらず。万法みな実にあらずば仏法も実にあらず。仏法もし実になるには、
画餅すなわち実なるべし」という、絶対的肯定観が披瀝される。
二五「渓声山色」。前段に「香巌撃竹」(きょうげんきゃくちく)、後段に「霊雲桃花
」を配した絶妙な章だ。百丈の弟子の香巌は師が亡くなったので兄弟子の為山(イはさ
んずい偏)を尋ねるのだが、そこで、「お前が学んできたものはここではいらない。父
母未生已前に当たって何かを言ってみよ」と言われて、愕然とする。何も答えられない
ので、何かヒントがほしいと頼んだが、兄弟子は「教えることを惜しみはしないが、そ
うすればお前はいつか私や自分を恨むだろう」と突っぱねた。そのまま悄然として庵を
結んで竹を植えて暮らしていたところ、ある日、掃除をしているうちに小石が竹に当た
って激しい音をたてた。ハッとして香巌は水浴して禅院に向かって祈った。これが禅林
に有名な香巌の撃竹である。「霊雲桃花」では、その竹が花になる。
二六「仏向上事」。
二七「夢中説夢」。
二八「礼拝得髄」。41歳のころの執筆。きわめて独創的な女性論・悪人論・童子論に
なっている。ぼくも近ごろはやっとこういう気分になってきた。7歳の童子に対しても
何かを伝えたいなら礼をもってするべきだというのだ。
二九「山水経」。ぼくの『山水思想』(五月書房)はこの一巻に出所したといってよい
。曰く、「而今の山水は古仏の道、現成なり」「空劫已前の消息なるがゆゑに、而今の
活計なり」「朕兆未萌の自己なるがゆゑに、現成の透脱なり」。これ以上の何を付け加
えるべきか。
三十「看経」。
   
三一「諸悪莫作」。ふつう仏教では「諸悪莫作」を「諸悪、作(な)す莫(なか)れ」
と読む。道元はこれを「諸悪作ることなし」と読んだ。もともと道元は漢文を勝手に自
分流に編集して読み下す名人なのだが、この解読はとりわけ画期的だった。諸悪など作
れっこないと言ったのだ。
三二「伝衣」。
三三「道得」。禅はしばしば「不立文字」「以心伝心」といわれるが、それにひっかか
ってはいけない。言葉にならずに何がわかるか、というのが道元なのだ。それを「道得
」という。道とは「言う」という意味である。
三四「仏教」。「仏心といふは仏の眼精なり、破木なり、諸法なり」と、3段に解く。
道元の得意の編集だ。そのうえで「仏教といふは万像森羅なり」とまとめた。ここには
十二因縁も説く。
三五「神通」。
三六「阿羅漢」。
三七「春秋」。しばしば引かれる説法だ。暑さや寒さから逃れるにはどうしたらいいか
という愚問に、正面きって暑いときは暑さになり、寒いときは寒さになれと教えた。絶
対的相待性なのである。
三八「葛藤」。かつてここを読んで愕然とした。「葛藤をもて葛藤に嗣続することを知
らんや」のところに刮目させられたのだ。煩悩をもって煩悩を切断し、葛藤をもって葛
藤を截断するのが仏性というもので、だからこそ仏教とは、葛藤をもって葛藤を継ぐも
のだというのである!
三九「嗣書」。
四十「栢樹子」。
   
四一「三界唯心」。
四二「説心説性」。心性を説く。しかしそこは道元で、一本の棒を持たせて、その棒を
も持ったとき、縦にしたとき、横にしたとき、放したとき、それぞれを説心説性として
自覚せよとした。デザイナーの鉛筆もそうあるべきだった。そこを「性は澄湛にして、
相は遷移する」とも綴った。
四三「諸法実相」。
四四「仏道」。
四五「密語」。密語とは何げない言葉のことをいう。その微妙に隠れるところの意味が
わからずには、仏心などとうてい見えてはこないというのだ。たとえば、師が「紙を」
と言う。弟子が「はい」と寄ってくる。師が「わかったか」。弟子は「何のことでしょ
うか」。師「もう、いい」と言う。これが曹洞禅というものである。
四六「無情説法」。
四七「仏経」。
四八「法性」。道元は37歳で興聖寺をおこしたが、比叡山から睨まれていた。そこで
熱心なサポーターの波多野義重の助力によって越前に本拠を移す。そして44歳のとき
、この1巻を綴った。「人喫飯、飯喫人」。人が飯を食えば、飯は人を食うというのだ
。飯を食わねば人ではいられぬが、人が人でいられるのは飯のせいではない。飯を食え
ば飯に食われるだけである。道元はこれを書いて越前に立脚した。
四九「陀羅尼」。ここは陀羅尼の意味を説明するのだが、それを道元は前巻につづけて
、寺づくりは「あるがままの造作」でやるべきこと、それこそが陀羅尼だというメタフ
ァーを動かした。たいした事業家なのである。
五十「洗面」。

永平寺山門
五一「面授」。いったい何を教えとして受け取るか。結局はそれが問題なのである。い
かに師が偉大であろうと、接した者がバカチョンになることのほうが多いのは当然なの
だ。しかし面授は僅かな微妙によって成就もするし失敗もする。道元は問う、諸君は愛
惜すべきものと護持すべきものを勘違いしているのではないか。
五二「仏祖」。
五三「梅花」。「老梅樹、はなはだ無端なり」。老いた老梅が一気に花を咲かせること
がある。疲れた者が一挙に活性を取り戻すことがある。「雪裏の梅花只一枝なり」。道
元は釈迦が入滅するときに雪中に梅花一枝が咲いた例をあげ、その一花が咲こうとする
ことが百花繚乱なのだということを言う。すでにここには唐木順三が驚いた道元による
「冬の発見」もあった。
五四「洗浄」。
五五「十方」。
五六「見仏」。自身を透脱するから見仏がある。「法師に親近する」とはそのことだ。
相手を好きになるときに自身を解き、相手に好かれるときに禅定に入る。が、それがな
かなか難しい。
五七「遍参」。仏教一般では「遍参」は遍歴修行のことをいう。しかし道元は自己遍参
をこそ勧めた。そこに遍参から「同参」への跳躍がある。
五八「眼晴」。
五九「家常」
六十「三十七品菩提分法」。
   
六一「竜吟」。あるときに僧が問うた、「枯木は竜吟を奏でるでしょうか」。師が言っ
た、「わが仏道では髑髏が大いなる法を説いておる」。それだけ。
六二「祖師西来意」。
六三「発菩提心」。越前に移った道元はいよいよ永平寺を構えるという事業に乗り出し
た。その心得をここに綴っている。そしてその事業の出発点を「障壁瓦礫、古仏の心」
というふうに肝に銘じた。そこにあるものを寄せ集めた初心を忘れるなということだ。
六四「優曇華」。
六五「如来全身」。
六六「三昧王三昧」。仏教が最も本来の三昧とする自受用三昧のことである。道元は三
昧を一種としないで、つねに多種化した。
六七「転法輪」。
六八「大修行」。
六九「自証三昧」。ここにも岩田慶治が好んだ「遍参自己」が出てくる。「遍参知識は
遍参自己なり」と。先達や師匠のあいだをめぐって得られる知識は、自分をめぐりめぐ
って得た知識になっているはずなのである。
七十「虚空」。
七一「鉢盂」。「ほう」と訓む。飯器のようなものだが、禅林ではこれを仏祖の目や知
恵の象徴に見立てて、編集稽古する。このときたいてい「什麼」(しも)が問われる。
「什麼」は「なにか」ということで、この「なにか」には何でもあてはまる。それゆえ
、何でもいいわけではなくなってくる。その急激な視野狭窄に向かって、道元が「それ
以前」を問うのである。
七二「安居」。
七三「他心通」。
七四「王索仙陀婆」。寛元4年(1249)、大仏寺は日本国越前永平寺となった。開寺に
あたって道元は寺衆に言った、「紙衣ばかりでもその日の命を養へば、是の上に望むこ
となし」と。
七五「出家」。道元は53歳の8月に入滅した。あれだけの大傑としては、早死にであ
ろう。遺偈は「十四年、第一天を照らし、趺跳(ふちょう)を打箇して大千を触破す。
噫、渾身もとむる処なく、活きながら黄泉に陥つ」というものだった。


随聞記の2巻に記されている「南泉斬猫」と言う公案がある。
南泉は、弟子の僧たちが猫を巡って論争をしているのを見て、
この猫について的確に一句言い取ること(道得)が出来るのなら
猫を斬り殺さないが、出来なければ、斬り殺すと迫り、弟子たちが道得できず
にいると猫を斬り殺してしまった。
これについて、道元は、「此斬猫、即是仏行也」と評価した。
「今の斬猫ハ、是即仏法ノ大用、或ハ一転語ナリ。若もし一転語ニ非あらズハ、
山河大地妙浄明心トモ云ベカラズ、又即心是仏トモ云ベカラズ。即此一転
語ノ言下ニテ、猫体仏身ト見あらわれ、又此語ヲ聞テ、学人モ頓ニ悟人スベシ。
現代語訳
南泉が行った斬猫とは、仏法の大いなるはたらきであり、または、「一転語」
(一語を下して学人を迷いからさとりへと導くこと)である。もし、此れが
「一転語」でないならば、「山河大地が清浄な心である」(清らかな心で
見られた山河大地は心理の現われである)と言うこともできないし、また
「心が仏である」(自己の心は本来、仏としてさとっている)と言うことは
出来ない(斬猫の行為とは真理の現われであり、そのように斬猫は悟りの心
によってなされた絶対的な行為である)。すなわち、この一転語となる行為の
もとで、猫の身は仏身として顕現する。また、その行為に接した弟子たちも
速やかに真実のさとりに入る事が出来るのだ。」
そのとき、仏身としての猫にとっては、斬られることが仏の行いであり、
そして、その猫を南泉が斬ることも、仏の行いである。すべてのものが
仏として現われ、仏の行いをなすのである。衆生を「悟り」へと導く
慈悲行為であり、絶対的に善なる世界を思考する行為であり、南泉の行為は
修行者たちの迷いを一刀両断に切り捨て、「悟り」の世界を示す事になる。
しかし、この猫を斬り殺すという行為が不殺生を犯す行為であることについての
論考している。

P51
無常仏性とは世界のありとあらゆるものが一瞬一瞬に変化すると言う意味
で無常でありつつ、同時に、その一瞬が永遠の悟りと一体の、修行をなす
「永遠の今」として常住という事態である。

P65
修証一等とは何か、
「仏法には、修証これ一等なり、いまも証上の修なる故に、初心の弁道
すなわち本証の全体なり。かるがゆえ、修行の用心をさづくるにも、
修のほかに証をまつおもひなかれとをしふ。
現代訳
仏法では、修行と悟りは等しい。今行っている修行も、本来的な悟りに
基づいたものであるから、初心者の修行も本来的な悟りを余すところなく
現している。それゆえに、修行の心構えを授けるにあたっては、修行に
徹するだけで、悟りを期待してはならないと教えるのだ。

発心して、修行を始めたその時点では、自己が既に悟りを得ているという
その実感はない。そこで、とりあえあずは悟りを、現在の自己とは離れた
ところに、いわば、目的として設定し、それを求めて修行生活が開始される。
そして修行中のある瞬間に「縁起ー無自性ー空」を体得する。そのとき初めて
修行者は時分が悟りを体得する以前からすでに「空」の次元に身を置いていたと
自覚する。
既にあった「空」の次元を自身の身心を持って体現する事である。

P106
道元は、仏因となる仏性さえあれば、いつかは悟れる、とする考えは
「自然外道」として厳しく批判する。
仏性の有無を問う事にのみ腐心するような仏性理解は、個物に内在するもの
のみとして捉えてしまう事への危険性を意識していたからである。


-----
http://honjoutarou.blog107.fc2.com/blog-entry-108.html
莫作について
「諸悪莫作(しょあくまくさ) 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう) 自浄其意(じじょう
ごい) 是諸仏教(ぜしょぶっきょう)」
過去における真実を得られた方々が、言われた言葉に『諸悪莫作衆善奉行』があります

 諸悪莫作----さまざまの悪というものをなす事なく
 衆善奉行----さまざまの善い事を実際に行うべきである。

諸悪莫作衆善奉行を行えば、自然にその心が清くなっていく。
過去において、たくさんの真実を得られた方々がおられるけれども、その方々が共通に
説かれた教えは、この『諸悪ヲ作サズ、衆善ヲ行ナウ』と言うことに衝きます。
釈尊の説かれた教えは、釈尊が初めて説かれたところではあるけれども、その考え方と
は、非常に古い時代からあったと言う事が信仰の基礎になっています。
釈尊の説かれた教えは、単に釈尊が生きられた時代に初めて始まった事ではない。
その考え方・その原理は、ほとんど無限と言っていいくらい古い時代からすでに現存し
ていた。
そしてまた、無限と言っていいくらい今後も続くものだと言う信仰である。
釈尊の前に六人の真実を得られた方々があって、釈尊をあわせて七人の仏がいるという
考え方です。


私は、この巻を読むまでは、「諸悪莫作」は、「もろもろの悪をなすことなかれ」とい
う戒めの言葉だと思っていた。

 道元禅師もこの巻のなかで、仏の教えをはじめて聞いたときにこのように聞こえるの
は正しいことだと言っておられる。むしろ、このように聞こえないのは、魔説だと言っ
ておられる。

 しかし、この言葉は菩提語であり、その願いをもって仏が修行された力によって「も
ろもろの悪はなさず」が現成し、全世界、全宇宙を支配しているとされる。


 「莫」は、「なかれ」とも読むが「なし」とも読む。
 この言葉が漢訳される前の仏典ではどのように書かれていたのだろうか。

 原始仏典の一つである「ダンマパダ(真理の言葉)」では、パーリ語で、
 「すべての悪をなさず、
  善いことを実現し、
  自分の心を清らかにすること。
  これが目覚めた人たちの教えである。」
 と書かれているそうである。(中村元さんの日本語訳です。)
--------
P156
「諸悪莫作」を「諸悪なすことなかれ」ではなく、「諸悪がつくられざる」と
読む事を必然とする。本来の次元へ自己を帰順させることが悟りであると考える。
すなわち、本来の自分に帰還するならば、仏法への背反は存在しない。つまり、
悪はもはや存在しない。それを道元は、「諸悪はすでにつくられずなりゆえ」
と言っている。

P223
道元の因果観
・不昧因果
・深信因果
・善因善果
・悪因悪果
深信因果の巻では、「およさ因果の道理、歴然としてわたくしなし。造悪のものは
堕し、修善のものはのぼる。蒙厘もたがわざるなり」(因果の道理は明白であり、
不動のものである。悪を為す者は地獄や畜生道、餓鬼道に堕ち、善を為す者は
人間や天に生まれ変わり、ほんの少しの誤りもない)と言われている。
しかし、12巻本では、「不昧因果(因果の理は明々白々であり自分のなしたこと
の報いは自分が受けると言う事が強調され、過去、現在、未来の三世を
貫く因果応報がが説かれている。
因果同時について、
「諸悪莫作」の巻で「この善の因果、同じく奉行の現成公案なり。因はさき、果は
のちになるにあらざれども、因円満し、果円満す。因等法等、果等法等なり。
因にまたれて果感ずといえども、前後にあらず、前後等の道あるゆえに。」という
言葉はまさにこの因果同時を意味している。
また、「衆善奉行(もろもろの善を修行せよ)」では、善である因も善である果も
等しく「奉行(修行)」によって顕現されたものであり、因も果も等しく、
その意味で、前後関係ではなく、同時であると述べている。修行と悟りとは、お互いが
因となり果となりあっており、それを時間的な表現によって示すならば、
因果同時であり、修証一等ともなる。


存在の代表としてあげられているのが、春の松、秋の菊、諸仏、露中灯篭、払子シュ杖
そして、自己である。松や菊は、「渓声山色」の巻で、「春松の操アリ、秋菊の秀
ある、即是(真理の端的な現れ)なるのみ」といわれる。
露柱灯篭、払子シュ杖は「有事」の巻で、「有事シュ杖払子ほっす、有事露柱灯篭
のようにそれぞれの存在の実相を現す。ここでは、諸仏、自己も松も菊もすべて
同等の資格で並列されている。


P234
百丈野狐の公案
道元が晩年に新たに執筆した12巻にある。
百丈の説法を説く老人が実は遠い昔百丈山で修行していた層であるが、不落因果
の間違いにより、畜生たる野狐に落ちるが、百丈の言葉によって救済される。
「しかあればしりぬ。あしく祇対するによりて野狐身とならずいふべからず。
この因縁のなかに、脱野狐身ののち、いかなりとはいはず。さだめて破袋に
つつめる真珠あるべきなり。しかあるに、すべていまだ仏法を見聞せざるとも
がらいはく、野狐を脱しをはりぬれば、本覚の性海に帰するなり。迷妄によりて
しばらく野狐に堕生すといへども、大悟すれば、野狐身はすでに本性に帰するなり。
(野狐の身を脱した後でも、どうなるかは言っていない。野狐の身であった
時にも真珠のような円満な仏性をもっている。仏法をしない者は野狐の身を脱し
たら、本性の海に帰すると言っている。迷妄によってしばらく野狐に堕ちたと
言っても、開悟すれば、野狐の身は本性に回帰する)」



ーーーーー
有事の有は存在であり、時は時間である。
時間には客観的な時間と主観的な時間がある。
人はその思いによって、時間が長く思えたり、短くなったりすることを経験的に
知っている。

⇒これはポジティブ心理でも重要な要素としてとらえている「フロー体験」である。
ここでいう有事の基本を考えることにより、フロー体験の心構えが見えてくる。

さらに、ここでは覚りや仏法にしろ、皆、時という中で、姿を現したものである。
もし、時間というものを考えなければ、海や山もその存在が確かめられない。
山や海、すべてが時の現した姿そのものである。

02
時は即ち存在であり、存在はみな時である。
今という時の一日について考えよ。三頭八ひの阿修羅像はそのまま現在の時である。
阿修羅の姿はそのまま時であるから今という眼前の一日と全く同じである。一日
二十四時間が長いか短いか広いか狭いか、きっぱり量りもせずに、人はこれを一日
と言っている。日常の一日が朝に来て、夜になれば去るはっきりしたものであるから
人はこれに疑いを持たず、しかし疑いを持たないからと言って知っている
わけではない。
このように、人は見当がつかない諸所の物事にいちいち疑いを持つとは限らないから、
また疑いというものは対象を定まった像に結ぶことがないことによって「疑い」
であるから、本来はっきりとわからない状態の「疑う前」と疑いを持った今の
「疑い」とは必ずしも一致することがない。知っているようで実は知らない
ということも、定まらないままの形相としてやはり時であるほかはない。

06
この一条の道理だけではすまない。いうところの山を登り河を渡ったとき、
その時に自分が存在していたのだから、その時の自分にはその時があった
はずである。自分がその時に存在したのだから、その存在からその時は
離れることがないはずである。時というものが去来するものでないとして、
山に登った時は有事の今である、時というものが去来するものであるとして、
自分に有事の今がある、即ちそれぞれに有事である。有事は去来とは関係がない、
有事には間断がない。これが有事である。架の山に登り河を渡ったときは、
今の邸宅住いしている時を呑み込みもしないだろうし、吐き出しもしないだろう。

08
そうであるから、松も時である、竹も時である。時とは飛び去るものとだけ理解
してはならない、飛び去ることが時のはたらきとだけ考えてはいけない。
時というものがもし飛び去るだけであったなら、飛び去った跡に時ではない
隙間ができるはずだ。有事という真理に耳を傾けないのは、時とは過ぎ去る
者とだけ考えるからである。要をとっていえば、全世界にある処の全存在は
連なりながら時である。時は即ち存在であり存在はすべて時であることによって
わが実存は時である。吾有事である。
(私というものが、本当にあるのか、あるいは時計の針で生きているのか、
内面的な感情で生きているのか、実感でいきているのか、そういうことを
考えること自体、すべて時の中にある。時という漠然としているように見えるけれど、
決して過ぎ去っていくものではない。宇宙とは永遠の今そのものだ。
自分もまた永遠の今そのものだ。そこのところを修行することによって、我々は
永遠の今という瞬間の中で、永遠そのものと合体し一致した体験を得ることが出来る。
そこに禅の極意がある。それが究極の覚り、即ち真理そのもである。)

18
山も時である、海も時である。時でないなら山も海も存在しない、普遍の理法
によって保持されている尽十方世界そのものの山海が今現在の時でないと
考えてはならない。時がもし壊れれば尽十方世界である山海も壊れる。時が
もし壊れるものでないならば尽十方世界である山海も壊れることがない。
この道理により明星のように覚りは出現する。真理は出現する。仏道は
出現する。釈迦の伝法は出現する。これが時である。時の本質の現在化
でなかったならば、こうした出現はない。


ーーーーーー
古鏡
いったい、本当の自分は何かのか、を問うている。
これは、6つの美徳から24の自身の強みを見つけるというポジティブの肝心な
点でもある。己を理解しないと先へは進めない。


01
諸覚者諸仏祖が受け継ぎ伝えてきたのは古鏡である。古鏡は鏡を見る顔と
鏡の面に見られる顔とが同じであり、顔と鏡に映す顔とが等しい覚りの眼の
証である。古鏡には胡人が来れば胡人が現れ、数限りない人々が現れ、
漢人が来れば、漢人が現れ、一瞬も万年にわたる出来事も現れる。
古えには古えの世が現れ、今の時には今が現れ、覚者が来れば、覚者が
表れ、仏祖が来れば仏祖が現れる。古鏡は諸存在諸現象の実相空相のすべて
を映すのだ。

ーーーーー
山水経
「而今の山水は、古仏の道現成なり。
ともに法位に住して、究尽の功徳を成せり。空劫巳前の消息なるがゆえに。
而今の活計なり。朕兆未崩の自己なるがゆえに、現成の透脱なり。
山の諸功徳高広なるをもて、乗雲の道徳、かならず山より涌達す。
順風の妙功、さだめて山より透脱するなり。」
道元さまがお示しになった正法眼蔵九十五巻の中で経のつく巻はこの山水経
以外にはありません。道元さまはこの巻を仁治元年十月十八日、興聖宝林寺
において修行僧達にお説きになりました。現在で申せば十一月、晩秋の頃でしょうか。

巻の冒頭の一節こそ道元さまが「山水経」で説かんとされたまとめであり、
最も大切な一節であります。特に「而今の山水は、古仏の道現成なり」
の一句こそ全てであります。
その而今とは(にこん)と読み、単にいわゆる「今」ではなく、すでに触れた有時
の巻で問題とされた而今であります。つまり無限の過去から現在に到る今であり、
永遠の未来をひっくるめた今であります。時間空間をあげて而今の他に何もない、
それは無限の過去を経過してきた存在であり、同時に無限の未来を将来する存在
でもあります。時間は空間をはなれては存在しない。また、空間のなき時間も
有り得ないのであります。それで時間といっても、空間といっても、自己と
いっても全く同一物であり、これを「而今」という言葉で言い表しているので
あります。二千五百年前にお釈迦様がインドで法を説き、七百余年前道元禅師
が法を説かれましたが、それが脈々として現在にあるのであります。
眼前の山水も而今なる山水として真理の現成であり、仏さまやお祖師さまの仏法
の現成であります。山も水もあるがままにあるべきようにあって、さまざまな姿
を現しているのであります。このことが「古仏の道現成なり、ともに法位に住して、
究尽の功徳を成せり」であり、山は山、水は水で究尽の功徳を成しており、
山は三世十法尽くしており、水は全宇宙を尽くしているのであります。
悟りの姿であります。本来の自己、悟りの相であります。
それはこの世界の成立以前の消息であって、それが今も生きてはたらいているので
あります。万物の兆しもない、いにしえからのことであり、その現成は古今を
貫くものであります。而今であります。
山水は一大経巻そのものであり真理そのものであります。悟りを体現した仏の眼
に映ずる山水、仏心に映ずる山水であります。諸法実相であります。それは山は山
として高く広く、水は水としてすみわたって清く、本来のはたらきを現成したもので、
一つ一つが宇宙の実相、真理を物語る究尽の功徳を現成しているのであります。
ここに今一度道元さまのお詩を紹介させていただきます。
「峯の色 谷のひびきもみなながら
  わが釈迦牟尼の 声と姿と」
 
ーーーーー
生死の巻
道元は、その92巻で、生死についても言っている。
「生死の中に仏あれば生死なし。また曰く、生死の中に中に仏なければ生死に
まどわず」生死は、生と死という2つを論じているのではない。
仏教では、生死は、生き死にのあるこの煩悩の現世を言っている。
生死の中には、元々、仏がある。すなわち、絶対的な真実を
掴んでいればすでに、現世を越えている事となり、今更、
生きる死ぬと言うことを迷う必要はない。逆に、生も死も
只それだけの事実で、ことさら悟りや救いがある訳でもない
と観念していれば、生だ死だと騒ぐ必要もない。

そして、
「生より死にうつると心うるは、これあやまり也。生は、ひと時のくらいにて、
すでにさきあり、のちあり。」
生と死は、分けて考えてはいけない。その事実を事実として徹底的に受け入れること。
先ほどの道元が詠んだ歌の境地でもある。
生きていると言うことは、死と比べて生きているといことではない。そこには、
絶対的な今しかない。

死を迎える心とは、
「生きたらばただこれ生、滅来たらばこれ滅にむかいてつかうべし。
いとうことなかれ、ねがことなかれ」
我々は、既に、生と死の中にいる。それであれば、いまさら、死や死後の成仏を願う
こともない。生の中にいて、生以外のものを願うことはできないし、死の中にいて
死以外のこともありえない。

元々、生きている日々は、最後の死へ近づく日々でもある。
「健康、健康と騒ぎ立てる」が、要するに、生きていることが本人にとって、一番
悪いのかもしれない。
達するべき己の境地とは、
「ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいえに投げ入れて、仏のかたより
おこなわれて、これにしたがいもていくとき、ちからももいれず、こころもついや
さずして、生死をはなれ、仏となる。」
これは、正法眼蔵の、「生死の巻」にある、最大の真髄を言っている。
全部の自分を捨ててしまう時、本当の真相が露わになり、それが、人間を向こうから
明らかにしてくれる。だから、力んでしまうことはない。そのまま生死を離れ、
仏となることが出来る。大事なのは、ただわが身、その心をも、放ちそして
忘れること。

生死を分ける戦争のような狂気がない現在、この、「生死の巻」をキチンと理解
することの出来る人は少ない。私自身も言葉としての認識しか出来ない。
しかし、戦争時、これを真剣に、わが身で処した人々は、少なくないはずである。
昨年のような大きな病気になっても、わが身では、まだまだ、不十分。
健康な人が生死を意識しないのを、少し意識するようになったぐらいかもしれない。

正法眼蔵の、「生死の巻」
「この生死は、すなはち仏の御いのちなり。これをいとひすてんとすれば、
すなはち仏の御いのちをうしなはんとする也。
これにとどまりて生死に著すれば、これも仏の御いのちをうしなふなり。
…いとふことなく、したふことなき、このときはじめて仏のこころにいる。
ただし、心を以てはかることなかれ、ことばを以ていふことなかれ。
ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、
仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをも
いれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる。」

「仏となるに、いとやすきみちあり、もろもろの悪をつくらず、生死に
著するこころなく、一切衆生のために、あはれみふかくして、上をうやまひ
下をあはれみ、よろずをいとふこころなく、ねがふ心なくて、心におもう
ことなく、うれふることなき、これを仏となづく。」

この巻は正法眼蔵九十五巻の中では大変短い巻である。
しかし、道元の生死に対する見方が、短い巻の中に言い尽くされている。
この巻の書き出しの言葉は「生死のなかに仏あれば生死なし」であり、
これは修証義のはじめの言葉でもある。私たちにとって生死の問題
を究明することは重要で、だれしもこれを避けてはならない問題。
この世に生を受けたるものはいつか必ず死をむかえるのもこれは事実
であり、そして如何に死を迎えるかということが大切である。
それは如何に生きるかということでもある。

正法眼蔵諸悪莫作の巻には「生を明らめ死を明らめるは仏家一大事の
因縁なり」とあり、つまりこれこそが仏教の根本問題である。

「生死の中に仏あれば生死なし」という言葉の中に道元の生死観
が言い尽くされている。この言葉の意味は、生死というのは真理であり、
真理の外に生死はないということである。
ここでいう「中」とは「即」という意味であり、「仏」とは「真理」
という意味であります。ここに引用させていただいた言葉の大意
を現代語に訳して置く。(道元の詠み方より)

「この生死は仏の御生命であり、真理であります。これを厭い捨て
ようとすれば、仏の御命を失うことになります。生死の問題に
執着すれば、これも仏の御命を失うことになります。・・・生死を
厭うことも慕うこともなくなればそれは仏の心、つまり真理の世界
にいるのであります。身心を投げ出して生死に執着せず、」
仏の家に我が身心を投げ入れ、仏におまかせし、仏さまに導びかれて
ゆくならば、己は力をも入れず、心をも働かさなくて、それでいて
生死を離れることができ、仏となるのであります。

「仏となるに易しい方法があります。それはいわゆる悪の心を起こし、
悪行を行わず、生死に執着せず、全てのものに対して哀れみをかけ、
上を敬い、下を哀れみ、あらゆるものごとを厭い嫌うことなく、
願い慕うことなく、心に迷い煩うことなく、憂うることのない、
このような人を仏といい、外に仏はないのであります。」

これが現代語訳であり、生き死ぬということ、つまり生滅ということは
大宇宙の動かすことの出来ない真理であり、無常こそ世の道理である。
このことがわかり、而今を全機に生きるならば「生死なし」である。
これは物質的な生死は人間だれしも避けられないが、それを厭いまた
願うという執着の心を離れ、生が来れば生を、死が来れば死を心静かに
受けるという、仏に任せきりの境地に到るならば、それは
心安らかで、まさに悟りの境地というべき。

「生まれてはつひに死すべきことぞのみ、さだめなき世のさだめ
なりけり」という古歌がある。生も大宇宙の真理、死も
大宇宙の真理、一日一日、今日今時を如何に生きるかということ
が私たちに与えられた永遠のテーマであり、日々仏法僧の
三宝に帰依する生活を送りたいもの。
ーーーー
梅花の巻
01
仲冬の第一句を示す。
瑳ささたり牙牙たり老梅樹、
忽ち開花す一花両花
三四五花無数花。
清誇るべからず、香誇るべからず。
散じては春の容を作なして草木を吹く、
なつ僧個々頂門禿かぶろなり。
まくさちに変怪する狂風暴雨、乃至大地に交みちみてる雪漫々たり。
老梅樹、はなはだ無端なり、寒凍摩もさとして鼻孔酢し。

老梅樹は角立ち屈曲し、
一花二花と花を開く、
さらに三花四花五花と、いや無数の花を開く。
その清らかさを誇ることなく、
その香りを誇ることもない。
繚乱とした老梅樹の姿は、
春の息吹を草木に吹きかけ、
禅僧たちの禿げ頭にも春風をそよがせる。
突として春風はにわかに狂風暴雨と変わり、
大地に滔々と降って雪漫々となる。
老梅樹の活動は、まことに思いがけないものだ、
凍った鼻に清らかな香りが甘酸っぱい。

、、、変転する老梅樹の容姿によって古仏の本質が見事に言い表されている。

04
先師古仏は上堂して衆に示した。
く曇、眼晴を打失するとき、雪裏の梅花ただ一枝なり。
而今到処に荊棘を成す、却って春風の繚乱と吹くを笑う。
(釈迦が目を閉じるとき、
雪の中に梅花が只一枝咲いている。
今到る処、荊いばらを成している。
雪の中の梅花は、
却って繚乱と春風に吹かれて笑って咲いている。

13
三花四花五花六花の中とは、無数の花の中である。
宇宙は無数の花々に覆われ、処々の現象は花の中に包まれているのだ。
このように、花には、内なる本性が深く広く具わり、外に表れる
本性も高大であることを開明している。花の表裏は、それぞれの
花が発するところである。しかし、只一枝と示されていることから、仏教が
どのように広まろうと、異なる枝はなく、異なる種類もないことが示される。
一枝が現成する時処を今というのであって、それは時間空間を
超える釈迦の教えである。釈迦の教えは只一枝であることから、嫡嫡と
伝えられるのである。
 
ーーーーー
弁道話の巻
禅としての基本である「脚下を照顧せよ」はここでいう「修証一如」と通じる。
これを明確に言っているのが、弁道話である。
日常での行いに修行があり、覚りがある、これが道元の基本的な考え方である。
「行、住、座、臥」という普段の人間の行動すべてが修行とした。
⇒ポジティブでも、生活行動のすべてが自身のポジティブアップにつながると考えてい
る。

弁道話(はんとうわ)
諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿のく菩提を証するに、最上無為の妙術あり。
これただ、ほとけ仏にさずけてよこしまなることなきは、すなわち自受三昧、
その標準也。この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり。
01
諸諸の仏祖には、みな方便によらぬ法が具わっており、無上の覚りを明らめるに
あたって、作為にわたらぬ最も優れた妙術がある。人は人それぞれでありながら、
この妙術が、仏祖から仏祖に授け伝えられて誤ることがないのは、それが
ただただ己が受用し一人一人が己の煩悩から開放してゆくことに、準拠
しているからである。
この無雑純粋な遊戯の境地に入るには、端坐参禅を正門とするのである。この法は、
人々のそれぞれに資質としてはもともと豊かに具わっているのであるが、まだ
座禅修行をなさぬなら現れず、身心にその境地を確証しないならば会得される
ことはない。
坐禅によって獲得されたものは解き放とうすれば逆に手一杯になってはなれない、
それは多いと少ないといった分量とは関係がないのである。、、、、
一切の衆生は必ず己自身であるほかはないが、坐禅の中にあっては、どのような
知覚分別も空相として現れるほかはなく、方角や根拠が現れることはないので、
坐禅の修行の妨げにはならないのである。
ここに教えようとする坐禅は、証の上に森羅万象を包括せしめ、あらゆる繋縛を
抜け出て生仏一如と修行するものである。この生仏一如という重大な関門を
超越して修証ともに脱落するとき、どのような諸縁、諸境界の節目にも関わり
はなくなるのである。

13
われわれにはもともと無上の覚りがかけているのではない。それは常に己自身
に具わっているのであるが、まともに体験されず身心によって承認し得ない
ところから、みだりに知的な認識や観察的な知識を用いることが習慣となっており、
このような己の知覚が作ったものを追いかけることから、真の覚りをうっかり
と見逃しているのである。このような主観と客観の入り混じる知見によって、空花
はいく通りにも表れるのである。それをあるいは無明、行識、名色、六処、
触、受、愛、取、有、生、老、死の十二の因縁による輪廻転生だと思い、欲界
の四悪趣、須弥四州、六欲天、色界の四禅天、大梵天、阿那含天の七有、無色界
の四空処天など、二十五有の境界だと考えるのだが、これは覚りではなく、声聞、
縁覚、菩薩、人、天の三乗とか五乗とか、仏は有であるか仏は無であるかなどと
処々の見解は尽きることがないのである。このような知識を習うことが、仏法
修行の正道と思ってはならないのだ。しかるに、いまやまさしく仏印によって
万事を放下し、ひたむきに坐禅するとき、迷いとか悟りとか情識によって量ろうと
する辺際を離れて、凡聖の別にかかわらず、何らの規格をも超越した世界に逍遥
して、大いなる覚りを受用するのである。それは方便にすぎない文字の中に
拘っている者たちが、参入し得ないところである。

⇒「無明、行識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老、死」十二の因縁。
 欲界の四悪趣、須弥四州、六欲天、
 色界の四禅天、大梵天、阿那含天の七有、
 無色界の四空処天など、
 二十五有の境界だと考える」

十二支縁起の要素
無明(むみょう、巴: avijj?, 梵: avidy?) - 過去世の無始の煩悩。煩悩の根本が
無明なので代表名とした。明るくないこと。迷いの中にいること。
行(ぎょう、巴: sa?kh?ra, 梵: sa?sk?ra) - 志向作用。物事がそのようになる
力=業
識(しき、巴: vi????a, 梵: vij??na) - 識別作用=好き嫌い、選別、差別の
元
名色(みょうしき、n?ma-r?pa) - 物質現象(肉体)と精神現象(心)。実際の形と、そ
の名前
六処(ろくしょ、巴: sa??yatana, 梵: ?a??yatana) - 六つの感覚器官。眼耳鼻
舌身意
触(そく、巴: phassa, 梵: spar?a) - 六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触
れること。外界との接触。
受(じゅ、vedan?) - 感受作用。六処、触による感受。
愛(あい、巴: ta?h?, 梵: t????) - 渇愛。
取(しゅ、up?d?na) - 執着。
有(う、bhava) - 存在。生存。
生(しょう、j?ti) - 生まれること。
老死(ろうし、jar?-mara?a) - 老いと死。
http://enjoy.pial.jp/~esmusssein/butu_utyuu.html
輪廻とは,「1.宇宙の形態的構成」で示したように,有情と,有情のカルマによって
形成される自然界の両者が,このようなとめどのない生成と消滅を繰り返している様を
いう。
六道とは,地獄界・餓鬼界・動物界・人間界・阿修羅界・天界の六つの世界をいう。
地獄界・餓鬼界・動物界・人間界・阿修羅界の五悪趣は,欲界のみに属する。
天界は欲界・色界・無色界のものがある。
有情のカルマの色調には六つのタイプがあり,これら六つの世界はそれぞれの
タイプのカルマが生み出す世界である。


ポジティブの6つの美徳と24の構成項目について、比較すると面白い。
6つの美徳には、「知恵と知識」「勇気」「愛情と人間性」「正義」「節度」
「精神性と超越性」がある。
そして、この美徳を構成しているものが以下の24項目となり、個人の性格
の強みとなる。
セリグマンの「世界で1つだけの幸せ」から自分の強みを見つけて欲しい。
1.知恵と知識
①好奇心と関心
・常に世界に対する好奇心を持っている。
・直ぐに退屈してしまう。
②学習意欲
・何か新しい事を学ぶとわくわくする。
・わざわざ博物館や教育関連の施設などに出かけたりはしない。
③判断力、批判的思考、偏見のなさ
・話題に対してきわめて理性的な考え方が出来る。
・即断する傾向にある。
④独創性、創意工夫
・新しいやり方を考えるのが好きだ。
・友人のほとんどは自分より想像力に富んでいる。
⑤社会的な知性、個人的知性
・どんな社会的状況でも適応する事が出来る。
・他の人が何を感じているかをさっちするのは余り得意ではない。
⑥将来の見通し
・常に物事を見て全体を理解する事が出来る。
・他人が自分にアドバイスを求める事はめったにない。
2.勇気
⑦武勇と勇敢さ
・強い反対意見にも立ち向かう事がよくある。
・苦痛や失望にくじけてしまうことがよくある。
⑧勤勉、粘り強さ、継続的努力
・やりはじめたことは必ずやり終える。
・仕事中に横道にそれる。
⑨誠実、純粋、正直
・約束は必ず守る。
・友達から「地に足がついている」といわれた事がない。
3.人間性と愛情
⑩思いやりと寛大さ
・この1ヶ月間に自発的に身近な人の手助けをした。
・他人の幸せに自分の幸せと同じくらい興奮する事はめったにない。
⑪愛する事と愛される事
・私には、自分のこと以上に、私の感情や健康を気遣ってくれる人がいる。
・他の人からの愛情をうまく受け入れられない。
⑫協調性、義務感、チームワーク、忠誠心
・グループの中にいるときが一番良い仕事ができる。
・所属するグループの利益のために自己の利益を犠牲にすることには抵抗がある。
4.正義
⑬公平さと公正さ
・その人がどんな人であろうと全ての人を公平に扱う。
・好ましく思わない人の場合、その人を公平にあつかうことは難しい。
⑭リーダーシップ
・口うるさくすることなく、いつでも人々に共同で何かをさせることが出来る。
・グループ活動を企画するのは余り得意ではない。
5.節度
⑮自制心
・自分の感情をコントロールできる。
・ダイエットは続いたことがない。
⑯慎重さ、思慮深さ、注意深さ
・肉体的な危険をともなう活動は避ける。
・友人関係や人間関係で、ときどき不適切な選択をしてしまう。
⑰謙虚さと慎み深さ
・人が自分の事をほめると話題を変える。
・自分の業績についてよく人に語る。
6.精神性と超越性
⑱審美眼
・ここ1ヶ月間に音楽、美術、演劇、映画、スポーツ、科学、数学など
の素晴らしさに打たれたことがある。
・この1年間美しいものを創り出していない。
⑲感謝の念
・どんなささいなことであっても、必ず「ありがとう」と言う。
・自分が人より幸福であると思うことがめったにない。
⑳希望、楽観主義、未来に対する前向きな姿勢
・物事をいつも良いほうに考える。
・やりたいことのために、ジックリ計画を立てることなどめったにない。
21)精神性、目的意識、信念、信仰
・私の人生には強い目的がある。
・人生における使命はない。
22)寛容さと慈悲深さ
・いつも過ぎたことは水に流す。
・いつも相手と五分になろうとする。
23)ユーモアと陽気さ
・いつも可能なかぎり仕事と遊びを織り交ぜている。
・面白い事はめったに言わない。
24)熱意、情熱、意気込み
・やることは全てにのめりこむ。
・塞ぎこむ事が多い。

16
すなわち、修行と覚りとは一如ではないと思うのは、そのまま外道の見解である。
仏法にあって、修行と覚りとは必ず同時であり等しいのだ。
常に初心の覚りがあって上での修行であるから、初心の坐禅修行はそのまま本証
の全体なのだ。このところから、坐禅修行にあたって指導を与えるのにも、修行のほか
に覚りや解脱を期待してはならないと教えるのである。坐禅によって体得するものは、
己に属する本来の普遍的な明証であるからなのだ。このように己の修行によるほかは、
ない明証であるから、その覚りに優劣や規格はなく、覚りがあって上での修行
であるから、すでに仏法修行に入ったものには初心というものはないのである。


0 件のコメント:

コメントを投稿