2017年7月24日月曜日

最古の温泉

1300年続く旅館…思わず圧倒される年月ですが、実際に日本には705(慶雲2)年から続く世界最古の老舗旅館があります。山梨県・西山温泉「慶雲館(けいうんかん)」。2011年に、ギネスブックに「世界で最も歴史のある旅館」として登録されました。実はその直前まで世界最古とされていたのは、石川県・粟津(あわづ)温泉の旅館「法師」(718年創業)でした。「慶雲館」の申請により、こちらは次点となりましたが、ギネスの上位を日本が占めることは驚くべき事実です。  
このような1000年超えの旅館が奇跡的に存続する背景には、有史以来、日本に息づく湯治(とうじ)の文化があります。「慶雲館」は天智天皇の側近・藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の息子の真人(まひと)があたりを流浪し、湯を発見したことに始まります。真人は狩猟の途中で、岩の間から湧く湯に入ってみたところ心身の疲れが回復。後日その場所に自ら湯壺をつくったといいます。霊泉の噂は村々へ広がり、さらには遠く京の都で知られるまでに。758年にはこの霊泉の夢を見た孝謙(こうけん)天皇が、はるばる訪れて入湯。時代が下っても、武田信玄や徳川家康が訪れるなど、その威光は留まるところを知りません。また、前述の旅館「法師」の開湯は白山(はくさん)で修行した泰澄大師(たいちょうだいし)として知られています。大師は白山大権現の夢のお告げで霊泉を見つけ、病に苦しむ人々に役立てるため湯治宿を建てるのです。このように健康への憧れ、長命への願いが温泉に人を引き寄せるという本質は、今も昔も何ら変わりはありません。またそこには自然に湧き出す霊泉という、大いなるものへの信仰を伴い、古い湯治場の多くに、温泉寺や温泉神社などがあります。現代のような医薬品のない時代、心身をいたわるという実益と、なぜだかわからないが元気になるという温泉の神秘に人々は魅了され、宿はそのひとつの拠りどころとなったと言えるでしょう。  
和歌山県田辺市にある龍神温泉は、歴代の紀州徳川藩主の別荘地のような場所でした。藩主が建てた「上御殿(かみごてん)」(1657年創業)は、その趣を固くなに守り、今なお私たちは奥深い自然の中でのくつろぎを、時代を超えて味わうことができます。  
ところで、日本の交通網は織豊(しょくほう)政権下から近世にかけて全国的な整備が進みましたが、物資や人の行き来が増えると、峠や河川の難所、あるいは城下町など人々の滞留の多い場所に旅籠(はたご)などの宿泊施設が増えていきます。江戸時代には参勤交代で使われる宿も不可欠でした。寛政年間に中山道(なかせんどう)の木曽奈良井宿で生まれた「ゑちご屋旅館」(長野県・塩尻)や、元禄時代に大多喜(おおたき)城下で旅籠を営んだ「大屋旅館」(千葉県・大多喜)など、各地に続くそのような老舗もまた歴史の貴重な語り部です。  
江戸時代、それまで自由な移動が許されなかった庶民が、信仰を目的とする旅を楽しむことができるようになると、温泉や宿泊施設は日常に異なる風を呼び込んでくれる魅惑の場所になっていきます。また、多くの文人墨客(ぶんじんぼっかく)が温泉地を訪れ、創作のインスピレーションを受けたり、実際にそこを舞台に詩作や執筆にいそしむことで、温泉地や宿泊施設はより多くの人々に知られ、愛されることにもなりました。  
石川県・山代温泉では、若き北大路魯山人が「あらや滔々庵(あらやとうとうあん)」などに長く滞在。温泉地という環境の豊かさ、人々が集い育む多様な文化、集積する富がもたらす余裕など、あらゆる条件が揃った老舗旅館は、日本の芸術や文化を涵養(かんよう)したともいえるでしょう。 「私は温泉にひたるのが何よりの楽しみだ。一生温泉場から温泉場へ渡り歩いて暮らしたいと思っている」と書いたのは川端康成(「湯ヶ島温泉」)。川端でなくとも、そう感じる人は少なくないのではないでしょうか。世界に誇る老舗旅館の存続は、健やかで豊かな人生を願い、自然と和すひとときを求めてきた、この国の熱情と対をなしているのかもしれません。

慶雲館 創業705年

全世界が注目!深山幽谷のなかの最古の秘湯

無色透明、ほんのりと温泉特有の香りのするやわらかな湯が1300年湧き続けています。2006年の掘削事業で日本随一の自噴泉が堀り当てられたことは、世界最古湯のますますの威風を予感させて象徴的です。
明治時代初期の慶雲館の様子
標高800mの渓谷に挟まれた一帯は、深山幽谷(しんざんゆうこく)という言葉が似つかわしく、6種の風情異なる浴場での湯浴みは太古の息吹を感じる体験です。

慶雲館

上御殿 創業1657年

紀州徳川家が愛でた往時の姿を山間に守り伝える

弘法大師空海が拓いた秘湯、和歌山県・龍神温泉。こんもりとした山々と清流を望む地に、紀州徳川家の祖・徳川頼宣が惚れ込んで建てた宿で、上御殿と名付けられました。
撮影 小西康夫
当時使われた「御成りの間」の姿もそのままに、現在も宿泊が可能です。それは代々の当主の手厚い管理があってのこと。磨き抜かれた江戸時代初期の空間がもたらす安らぎと、日本三美人の湯と讃えられる、名湯の心地よさにも感動がひとしおです。

上御殿

あらや滔々庵 創業1639年

惜しみなく芸術が配された美の宿

初代の荒屋源右衛門(あらやげんえもん)は、加賀大聖寺(だいしょうじ)藩主の前田利治から湯番頭を任ぜられ、以後も代々藩主を迎えてきたことからその由緒が推し量られます。
大正時代には趣味人の15代当主が、まだ無名の魯山人のパトロン的役割を担いました。館内には魯山人の書画や器はもちろんのこと、現当主好みの芸術作品もごく自然にそこに調和しています。芸術を愛し、芸術に愛された希有な宿として、隅々に美を感じる滞在が叶います。

あらや滔々庵

2017年7月13日木曜日

鮎鱧

京都には、室町時代から寺社の門前に料理を食べさせる茶屋がありました。茶屋といっても、次第に食事や酒をサービスするようになり、桃山時代後期(16世紀)には、東山には宴会ができるような料理屋があったことがわかっています。
江戸時代中期(18世紀)になると、洛中には続々と料理屋ができました。中でも『生簀料理屋』が人気で、高瀬川の近くには何軒もの店がありました。そこでは生簀に鰻や鯉、鮒などを入れておき、生きた魚を料理しました。
そのころの京都の料理屋で、魚といえば川魚。海から魚を運ぶには、内陸の都・京都は遠かったのです。たとえば、鯖街道の起点である小浜から京都・出町柳まで、十八里(約70㎞)ほどあります。鯖やぐじ(アカアマダイ)など、海の魚に塩をして、担って歩き始めると、京都でちょうどよい塩梅になる距離でした。運ぶ人は、寝ないで歩きづめに歩いたといいます。
同じく江戸中期の文人・大田南畝が著書に引用した狂歌に、京都の名物を歌った『水、水菜、女、染物、みすや針、御寺、豆腐に、鰻鱧、松茸』があります。江戸の名物、『鮭、鰹、大名屋敷、鰯、比丘尼、紫、冬葱、大根』に比べると、川魚をもっぱら料理する京都と新鮮な海の魚が使える江戸の違いがくっきり。その好みの違いは今も受け継がれています。鱧の字も見えるので、骨の多い鱧を料理する技術がすでにあったことが推測されます。

朝廷への献上品だった高貴な魚、鮎

海から遠い京都で、魚を食べようと思えば、近くの川の魚か生命力の強い海の魚、ということになります。流通事情のいい現代では考えられない輸送の苦労が、そこにはありました。
鮎は1年しか生きないことから年魚とも、香りがよいので香魚とも書きます。神功皇后(じんぐうこうごう)が釣りをして戦勝を占ったときにあがったので、鮎という字になったという話も『古事記』『日本書紀』にあり、古くから食べられてきた魚です。朝廷への献上品でもありました。現在、日本の淡水魚でいちばん食べられているのは鮎で、全漁獲量の4分の1にのぼります。鮎は中国にも韓国にもいますが、これほど珍重する国はないようです。胡瓜や西瓜を思わせる香りも、清冽な味も、短い一生も、日本人好みなのでしょう。
鮎は秋の彼岸のころ下流へ下り、河口近くの浅瀬に産卵して死んでしまいます。稚魚は海へ下って冬を越します。春になると川を遡ってきます。菜種鮎、桜鮎と呼ばれる稚鮎のときには動物性のえさを食べるので、生臭みがあり、魚田(味噌を塗って田楽仕立てにすること)にする人も。葉桜から菖蒲のころになると苔しか食べなくなり、鮎らしい香りと味になります。7月には顔が小さく見えるほどに成長します。
京都では保津川や桂川など、鮎で知られる川が多いのですが、琵琶湖にいる鮎には特徴があります。7、8㎝にしかならず、皮も薄くて、苦みもほどほど。琵琶湖を海の代わりとして、竹生島のあたりで越冬します。まだ小さいお正月ごろに獲って、氷魚と称しました。白い体の色からの名前です。塩ゆでにしたものを、昔は錦市場あたりでよく売っていたそうです。
焼き台で盛大に鮎を焼く『草口食なかひがし
書家・陶芸家で食に詳しかった北大路魯山人は、大正末期に京都・和知川から鮎を運び、東京の星岡茶寮(ほしがおかさりょう)で出して評判になりました。貨物列車に人間も乗せて、木桶に入れた鮎に柄杓で水をかけ続けさせ、生きたまま運んだのが画期的でした。京都では鮎が桂川から鮎桶で運ばれてきて、「ちゃぷんちゃぷんと水を躍らせながら担いでくるのである」と魯山人が書いています。この運び方が今のエアーポンプの働きをして、鮎を活かしていたのでしょう。魯山人は鮎の活かし方を知っていました。

生命力の高い鱧は京都で手に入る貴重な海の魚

鱧の名前の謂れは、はむ(食う、嚙む)からとも、はみ(蝮)に似ているからとも。大きいものは2m以上になります。生命力が強く、流通が発達する前は、大阪や明石、淡路から京都まで生きて届いた貴重な海の魚でした。祇園祭や大阪の天神祭にはかかせない食材で、祇園祭は別名鱧祭りともいいます。
「梅雨の水を飲んで太る」といわれて、入梅から祇園祭の7月が旬です。また、8月の産卵後9月下旬から11月末までも、黄金鱧といって脂がのる第二の旬です。
鱧の新しいメニューを繰り出してくる『祇園大渡』
鱧は縄文時代から食べられていました。各地の貝塚から鱧の骨が出てくるのです。平安時代には干物にして朝廷に献上されていました。江戸中期の寛政7(1795)年に出た『海鰻百珍(はむひゃくちん)』には、100種類以上もの鱧の料理法が載っていて、骨切りにも言及しています。天保11(1840)年の『包丁里山海見立角力』という食材の番付では、鱧が東方(魚)の関脇で、人気のほどがわかります。最高位の大関が鯛、西方(野菜)の大関は椎茸、勧進元は鰹だし、差添人はだし昆布です。この時代、相撲に横綱はありませんから、鱧は魚の第2位。人気がしのばれます。明治時代以降、きものの問屋が多く集まる室町通あたりでは、祇園祭に来る客を鱧寿司などでもてなしたため、鱧の知名度が上がりました。
祇園にしむら』は、鱧切りでなく柳刃で骨切りをする。
ぎょっとする外見に似ず、鱧の身は白くて美しく、脂もほどよくて、だしは濃厚。鯛と並んで、京都の人が好きな食材です。味もよいのですが、なにしろ精の強い魚なので、それを食べることで夏をつつがなくやり過ごしたいという期待も込められていたに違いありません。
鱧も鮎も時期によって味の違いがはっきりわかる魚です。食べて京都の季節を感じる魚、それが鱧と鮎なのです。
左/まるで清流を泳いでいるような焼き鮎の姿は、『光安』。右/『阪川』の鱧しゃぶ。ほんの少し火が入ったところが美味。

2017年7月3日月曜日

国家的な祭祀の場となってきた伊勢神宮と出雲大社。その本殿建築は日本最古の様式を今に伝えていますが、構造は異なります。比べてみると、その特徴が明快です。

伊勢神宮は“穀倉”に基づく「唯一神明造り」

一般的な神社建築のひとつが「神明造り」ですが、そのなかでも伊勢神宮の正殿はほかでは用いられない特別な様式であるため、「唯一神明造り」と一般に呼ばれています。 これは古代の高床式穀倉が宮殿形式に発展したもの。屋根は「切妻」(本を伏せたような傾斜の屋根)の茅葺で、出入り口は「平入り」、柱を地中に埋める掘立式で、棟持柱が特徴。檜の素木を材にした直線的でほとんど装飾のない簡素な美しさが、2000年もの間〝常若〟であり続ける伊勢神宮を象徴しています。

出入り口はこの向きに

屋根の傾斜面側に出入り口がある「平入り」という形式。

同じようでいて違う内宮と外宮。「千木」の様式も異なります

内宮の千木の先端は地面と水平の内削ぎで、風穴はふたつ半。外宮は、先端は地面に垂直に切られた外削ぎで風穴はふたつ。神域の通行も右側通行(内宮)と左側通行に区別されるなど、内宮と外宮で違いがある。

出雲大社は“住居”に近い「大社造り」

出雲大社の本殿の構造は「大社造り」。屋根の頂部の棟から、両側に屋根が流れ、妻(山形が見えるほう)に出入り口がある「妻入り」が特徴のひとつです。内部は奥行き、間口ともに約11mの正方形の空間で、中央には神聖な「心御柱」が立ち、ほか9本の柱で田の字形につくられています。
柱は礎石の上に立っていますが、鎌倉時代以前は根元が地面に埋まった掘立柱形式でした。屋根は檜皮葺、棟の上には鰹木と千木が上がっています。礎石から千木の先端までの高さが約24m。古代はさらに高かった可能性があり、平安時代から鎌倉時代にかけては倒壊が7度に及んだことが記録に残っています。
現在の本殿は、時代によって細部に変化している部分がありますが、基本的な様式は古代のものと変わっていません。日本の住居の起源とする見方もあり、日本建築史を語る上でも貴重な存在なのです。

檜皮葺の屋根が重厚。軒の厚さは約1m!

緻密な檜皮が、屋根の木材を風雨から守る。檜皮は職人により竹の釘で丹念に留められている。

千木や鰹木を守る伝統の「ちゃん塗り」

屋根の装飾に施された漆黒の塗装は「ちゃん塗り」という伝統技法。銅板を保護する役目が。

なんと伊勢と出雲は鳥居の形も異なります!

伊勢神宮の鳥居は立てた柱を結ぶ材(貫)は短く、上に載る材(笠木)に傾斜がない。出雲大社は笠木とその下の材(島木)に反りがあり、貫は円柱を貫いている。

2017年7月1日土曜日

生姜糖

神話と民藝の里「出雲」と、手仕事とコーヒーの町「松江」。山陰きっての散策パラダイスを旅してみませんか?和樂8・9月号の出雲・松江特集と合わせてお読みください。

來間屋生姜糖本舗

300年変わらぬシンプルな甘さ。生姜(しょうが)の辛みと香りをきかせた銘菓は板チョコのような形。これを手で小さく割っていただきます。
「かつては松江城のお殿様やお姫様たちも召し上がったそうですよ。その当時から材料も製法もまったく変えずにつくり続けています」
優しい甘さとキリッとした生姜の辛みが特徴の「生姜糖(しょうがとう)」。口に入れるとサラサラ溶けて、新鮮な生姜の香りが口いっぱいに広がります。コーヒーにも抹茶にも合うし、紅茶にひとかけら落とすのもたまらなくおいしい――この銘菓をつくっているのが、正徳5(1715)年創業の老舗「來間屋生姜糖本舗(くるまやしょうがとうほんぽ)」。スサノヲノミコトがヤマタノオロチを退治した伝説が伝わる斐伊川(ひいかわ)の近くで、300年前から店を構えています。
趣のある看板が目印。店内には昭和のはじめと思われるころの写真も。
「生姜糖の材料は、ここ出西地方でしか収穫できない幻の“出西生姜(しゅっさいしょうが)”と水と砂糖だけ。材料を煮詰め、型に流して固めればできあがり…というシンプルなお菓子です」と話すのは、11代目当主の來間 久(くるまひさし)さん。
えっ、それだけですか?…と思わず口にしてしまったところ、「つくっているところを見てみますか?」と有難いお言葉。白衣にマスクに白帽子の完全装備で工房に入れていただきました。
水と砂糖と生姜の絞り汁を煮たて、少し冷まして透明になったものを、板チョコのようなかたちの銅型に流します。
ものの数分で固まったところを型からはずすと、板チョコ状の生姜糖の出来上がり。キラキラと輝いてとってもきれい!
いちど溶けた砂糖を再結晶させているからだそうで、その出来立てをパリンと割って口に入れると、サクッとほどけてフレッシュな味わいです。が、「まだ味が若いでしょう? 少したつと辛みが落ち着いておいしい生姜糖になりますよ」と來間さん。このあとは、工房のみなさんが丁寧に薄紙で包み、袋や箱につめて…とすべて手作業で仕上げます。
「袋や箱のデザインも昔のまま。看板やパッケージに使われている來間屋の文字デザインも、何代目かの当主が考えたそうです」
レトロなパッケージは昔のまま。生姜糖1枚袋入り473円、1枚箱入り486円(ともに税込み)。2枚3枚セットや抹茶糖とのセット、小さく割って個包装したものも人気です。
そんな來間屋生姜糖本舗が建っているのは、「木綿街道」と呼ばれる古い町並みの一角。江戸後期に木綿の集散地として栄えた地域で、商家の面影を残す黒瓦(くろがわら)やなまこ壁、出雲格子(いずもごうし)と呼ばれる格子窓の町家が並んでいます。江戸の風情を伝える町を散策しながら、真っ白な生姜糖をひとかけ口に放り込めば、懐かしくて優しい甘さで心が満たされる。これが300年変わらぬ手づくりの味なのです。
11代目当主の來間久さんとお母さまの定子さん。お店の最寄り駅は、出雲と松江をつなぐローカル線“一畑電車(いちばたでんしゃ)”の雲州平田駅(うんしゅうひらたえき)。

來間屋生姜糖本舗
(くるまやしょうがとうほんぽ)

住所 島根県出雲市平田町774
TEL 0853-62-2115
営業時間 9時~19時 
定休日 不定休