2016年3月28日月曜日

描写への注意メモ、文章読本より

季節の言葉
http://hyogen.info/depa/scene

早春・春先の表現・描写・類語
一面を覆っていた雪が溶けて、沢の水が音を立てて流れ始める春の日
[永井路子/朱なる十字架] より 詳細
小川のせせらぎの音が思いなしか明るさを増したよう
[永井路子/朱なる十字架] より 詳細
海水の色が、暗い鋼の色から少しずつ淡い緑のまざった青へ変化して、ざわざわと鍋の
中で沸騰するアクみたいに見えてくると、もう春だった
[阿部昭/千年] より 詳細
早春の陽を浴びて水がぬるむ
早春を告げるような大雪
庭が霜枯れて見えるほどまだ春も浅い
春とはいえ夕暮れになると、まだ未練がましい冬の気配が、粘り強く残っている
春の訪れを告げる雪解けの水が湿原や川にあふれてくる
日が落ちて、春先らしい小寒さが忍び寄る
春がどこともなく地上に揺れ立つ
春の初めの夜、闇の色合いや風の感触がやわらかい
桜花を催す雨が二三日しとしと続く
春ではあるが桜の蕾はまだ固く、暁の風は真冬の冷たさを持っている
執念く土へ引っ付いていた冬が、蒸されるような暖かさに居たたまれなくなって
そそくさと逃げさる。
詳細
春先に土を破ってでる若芽
若葉が新しい色彩を里にみなぎらす
雪解けの清冽な水が土壌を洗う春
[奥泉 光/石の来歴] より 詳細
日増しに春の色が濃くなる
しのびやかに軽くくすぐるように、一日ずつ近づいてくる春
[森田 たま/もめん随筆] より 詳細
ねっとりとした春である。わずかにしめっている女の脇の下を思わせる春である。
[サトウハチロー/浅草悲歌] より
春がもう豹のような忍び足で訪れていはしたものの
[三島 由紀夫/仮面の告白] より 詳細
季節は春。とはいえ四月の朝はまだ寒い。
よく晴れたいい天気だった。寒さも身を潜め、土からはぽかぽかとした暖かい空気が湧
き上がっているようだ。

梅の表現・描写・類語
白梅が2、3輪ほころび、日はうららかで春の気配がそこはかとなく漂う
梅の新しい枝が、直立して長く高く、天を刺し貫こうとする槍のように突っ立つ
[佐藤 春夫/田園の憂鬱] より 詳細
微風にのって梅の香りがにおう
紅梅の枝に蕾がほころびかけて、点々と鮮やかな紅の色が散っている
盛りを過ぎた梅の花が、雨に濡れて泣くように見える
[田山 花袋/田舎教師] より 詳細
寒さにめげず気品高く咲く梅
しいんとした午(ひる)さがりの弱い陽ざしのなかで、紅梅の花弁が鮮明
[立原 正秋/去年の梅 (1979年)] より 詳細
野梅が細長い家の飾りのように青澄んだ白い花を綻ばせる
[円地 文子/朱(あけ)を奪うもの] より 詳細
梅の花が縮こまるほどの寒さ
(梅)青空に象嵌をしたような、堅く冷たい花を仰ぎながら
[芥川 竜之介/或日の大石内蔵助] より 詳細
(梅の花の雄蘂は)一本一本が白金の弓のように身を反っていた小さい花粉の頭を雌蘂




しかし、情景描写は別に視覚だけではない、ということが、いろんな小説を読んでいる
と分かると思います。たとえば、お祭りの会場だと、屋台のいいにおいがあったり、花
火や太鼓の音が聞こえたりといったことが挙げられます。
 このように、情景描写は五感を駆使して描くことで、よりリアリティある情景を、読
み手に与えることができます。
ところが、視覚以外の情報というのは、なかなか描くのが難しいものです。前述の通り
、視覚による描写はいろんな手段で簡単に書くことが出来ますが、他の五感、例えば嗅
覚や聴覚といったものを使うとなると、実際に書こうとしている場所に近い現場に行っ
て、体感してみる必要があります。
 短編「夕焼けクローバー」という作品を書くに当たって、舞台となる「河川敷」がど
のようなものか、それを確認するため、自転車で近くの川に行ってみることにしました
。たいしたことはないですが、「取材」というものですね。
 実際はクローバーが河川敷にどのように生えているか、階段などはどういう風にある
のか、などの確認をしたかったのですが、いざ現場に行ってみると、いろんなことに気
が付きます。たとえば……

・川の土手に桜の木が並んでいる
・春なので桜の花びらは散っている
・生えている雑草の中にも、タンポポやオオイヌノフグリといった、自分でも知ってい
る草花が生えている
・桜の木の下では3人の親子が花見をしている
・釣竿を持った少年や大人が河川敷のそばを歩いている
・川と反対側は、最初は建物があったのに、徐々にそれが田んぼに変わっていき、しば
らくすると大きな国道が走る橋が見える
・遠くから電車が走る音がする
・土手の道路は、トラック一台がぎりぎり通れる幅で、自転車も何台か通っている
・空き缶などのゴミが落ちていて、それを近所の人が拾ったり、草を刈ったりして清掃
活動がされていたりする
・工事中の看板がある
・クローバーは、雑草の中にも小さな集団をつくっている

 といった感じです。
 よくよく考えれば当たり前の情報もあるのですが、それがいざ情景描写を書こうとな
ると、案外抜けているものです。
後は、これらの情報を小説に盛り込んでいくのです。ただ、これを一気に書き並べ立て
ると、後半どんな情景だったか忘れてしまうのではと思います。情景描写ばかりだと、
読むほうも読みにくいでしょう。
 私の場合、まずは絶対に頭に入れておいて欲しい情報は最初に入れています。具体的
には、人物がどこにいるのかの「場所」、それがいつなのかの「時間」、そして
「季節」ですね。
 残った情報については、台詞をはさみながら「天気はどうなのか」「周囲の状況はど
うなのか」などを随所に入れていきます。時間が経ったり、移動したりすると変わるも
のもありますから、それも時々入れていきます。
こうして、おそらく今まで作った小説で唯一取材を行った小説、「夕焼けクローバー」
が出来ました。
 とにかく時間の進行をゆっくりするために、上記の情報を随時にがんがん取り入れた
形となり、書き終った段階では「これは入れすぎかな」とも思いました。しかし、案外
この情景描写の取入れが良かったみたいです。感想でも情景描写についてのことが書か
れていました。

 何でもそうですが、やはり実際に体験してみることが大切です。たとえこの地球上に
ない異世界を描くとしても、読者が想像しやすいのはリアルにある世界観です。
 情景描写を書くのに困ったら、イメージに近い場所に行ってみること。是非とも、
「情景描写取材」をやってみてください。

【描写の種類】
 一人称形式と三人称形式での描写の違いを考えていく。同じようにも思えるが、やは
り、人称が違うということは描写にも違いがあるはずである。
些細なことであっても、だ。

 一人称
『まず目に入ったのは、木。 木。 見回してみても、見えるのは木だけだ。
知っているぞ。こういうのを森っていうんだ。
「……どこだよ、ここ」
 あまりに暗いと思って空を見上げると、空には黒雲が立ち込めていて、今にも化物が
その黒雲の間から現れそうだ。周囲は木々が生い茂り、ぼくが立っているこの場だけが
石で造られたステージのような場所だ。誰かが手入れをしているのか草一本
生えていない。
ぼくが立っている石のステージには、何やら不気味な紋が描かれている。赤と黒で線
が引かれていて、なんとなく魔術めいたものを感じる。』
                          『世界最弱の希望』より 

 三人称
『街灯以外に明かりはなく、両脇に並ぶ商店はみなシャッターを下ろしている。等間隔
に並ぶ街灯だけが、ここに人がいることを主張している。本来なら車が通っているはず
の道路も、今は自転車すら通っていない。そんなある種の気味の悪さが漂う道を、さち
は歩く。
きょろきょろと周囲の様子をうかがう。いくら見回してみても、営業している店は
見つからなかった。田舎の商店街で、普段からそれほど活気づいているとは
言えないのだが、人っ子一人いないなんてことはまずない。おかしいな、と思いつつ、
さちは歩くことをやめない。』
                          『未発表作:タイトル未定』
 一人称の例。これは異世界に飛ばされた「ぼく」が初めて見た異界の森について語っ
ている場面である。
 描写の順番は、おそらく見知らぬ土地に立たされた者が見るだろう、と推測できる順
番になるようにした。
 木(正面)→木(周囲)→空(上)→石のステージ(下)
 三人称の例。こちらは 全体→一部→全体 という順番に書いた。ここでは書かれて
いないが、描写されているのは商店街である。
 目線としては「さち」の目線を意識している。
 正面から見た時、街頭以外の明かりがないので、視界は暗い。だから、その暗さを第
一に表現する。次に、目を凝らすと気付く、シャッターが下ろされているという事実。
そして最後に、見回すことで再確認したことを書いている。

【各感覚器官による情景描写】
・視覚
 背景を描く時、順番を重要視する必要があると思う。必ずしもそれに倣う必要がある
かと聞かれれば、ぼくとしては返答に困るところだが、「無難で自然な描写」という観
点から考えていく。
一人称では、語り手が目にした順番。
 三人称では、大きいものから小さなものへ。
 というのが無難で自然な描写だと考えられる。どういうことか。
 一人称では「人の顔」を例に考えてみる。
 自分が人と出会った時、まず見るのはどの部位だろうか。おそらく、多くの人は次の
順番で見るだろう。
 全体の輪郭→目→鼻→口→耳→髪
ここで髪型が奇抜だったり、髪色が奇抜だったら、髪を全体の輪郭よりも先に認識し
ようとしてしまうかもしれない。また、耳が髪に隠れていたら見るなどという
以前の問題だ。
 ここで重要なのは 全体の輪郭→目→鼻→口 の部分。
全体の輪郭、というのは体格を顔よりも先に認識するから一番にもってきているが、
顔だけで考えれば、もっともインパクトの強い部位は目である。
 すると視線はインパクトの強い部分にひきつけられ、後に流れる動作で全体を認識し
始める。とはいえ、人の体には個人差というものが存在し、口が大きい人、鼻が高い人
、ほりが深い人、耳が大きい人、それぞれに特徴がある。そういう人に関してはそこか
ら見てしまうだろう。
ここで言いたいのは、顔を描写する時はイ、ン、パ、ク、ト、の、強い順に描写するべ
きだということだ。そうすると、その語り手がどこに気を取られているのか、というこ
とが分かる。
胸が大きい女性と会った語り手が、顔よりも胸を先に語り出したら、その語り手は胸
に気を取られている、ということが伝えられるのである。そういう描写をしない描写も
使えるようになりたいものだ。

三人称では大きいものから小さいものへ描写をするのが妥当ではなかろうか。
 簡単に言ってしまえば、一人称の描写とほぼ同じである。大きいものほど目に早く
入る、ということだ。ただやはり、ここでも例外というものは存在していて、
存在感溢れる存在、というものは一番に描写した方が良い。もしくは全体を書いたのち
、
その存在をさらに強調する形をとるのも良いか。
 そこは個人の采配である。
パーティ会場で考えてみよう。
 まず描写するのは、会場全体の様子だろう。来場している人の数や、状態(立ってい
るか座っているか、話しているかそうでないか、など)だ。
 次に来場している人の様子だ。楽しげにいる人もいれば、もしかしたら退屈している
かもしれない。そういう描写を入れて、視点を小さくする。
 ここで存在感溢れる人がいるならば、その人にスポットを当て、その人に対する印象
を周りの人に語らせると、スポットはその人に当てていながら、ある程度広い範囲も描
写することが可能になる。
逆に、個人から会場全体に描写する視点を広げた場合どうなるだろうか。
 ぼく個人の感想では、なんだか痒いところに手が届かない、という感覚を覚えるだろ
う。個人についてはわかったけれど、どんな会場にいるの? まわりはどうなの? 少
しくらい書いてよ、ということだ。読み進めれば書いていて想像が膨らむのだが、それ
までは勝手に人数を想定しているから、その想像と現実が食い違った場合に些細な違和
感を覚えるのである。
ここで少し、息抜きとして特殊な例を挙げてみよう。某ライトノベルの描写なのだが
、語り手がインパクトを受けたものを語る、という観点から考えればその最上級
なんじゃないか、と思えるようなものだ。
 どのようなものか。引用したいが、さすがに法に触れるので、簡単に説明をする。

 語り手(男)が学校から帰る途中、同級生の女子と話していた。その女子は委員長の
中の委員長、委員長の申し子と呼べるほど校則を遵守している。スカートの丈も膝下数
センチを守っている。
 話していると一陣の風が吹いた。風はお約束のように女子のスカートをめくり、お約
束のように語り手はその女子のスカートを拝むことになる。その時間、一秒。その一秒
の出来事を、語り手は二段組み構成のページで、4,5ページにわたり語っている(手元
にその作品がないので、正確なページ数が書けない)。下着の細かい装飾についてまで
語っている。非常に熱く語っている。

この異常ともとれる語り手の下着への執着は、語り手の性格をよくあらわしていると思
う。この主人公は下着以外にほとんど語っていない。これも描写をしない描写だろう。
 つまり人鳥は、一人称小説の場合は語り手の性格すら、描写には影響するということ
が言いたいわけである。

 細かい描写法は個人の感性次第だろう。比喩を用いるのも良いし、端的に書くのも良
い。比喩をするにしても、わかりやすい比喩にするか、芸術性を高めた比喩にするか、
という問題もある。語り手がいるなら、比喩もキャラクタを表現するギミックになって
くる。
さらに言えば、世界観にあった描写をする必要があるだろう。剣と魔法のファンタジ
ーで、たとえば現実の政治を例に挙げられたりしたら、一気に読者が現実に引き戻され
て世界観を壊してしまう。

【視覚以外の情報】
 今までは視覚に重点を置いて書いてきた。次に考えるのは、視覚以外のことである。
人の五感を働かせることで感じることができる部分に関しての状況だ。

・嗅覚
 人はほとんどの情報を視覚から得ている、視覚による情報に頼っている、と言われて
いるが、実は嗅覚から得られる情報というものは、視覚以上に敏感に察知・認識
している。
人が何かにおいを嗅いだ時、瞬時にそのにおいが何のにおいであるかを理解するはず
だ。どこからともなく漂ってくる香り・異臭に対し、敏感にそれが何のにおいであるか
を理解しているだろうと思う。かすかににおってくるものでも、それが何なのか
はわかる。また嗅覚には状況の変化に気付くきっかけになったり、精神的な変化
のきっかけになる。
たとえば火災が起きた時、火災現場から異臭が発せられる。それはとても独特な臭い
で、それを感じればすぐにどこかで火がおきていることがわかる。また家庭で食事の時
間となった時、出来上がりが近づくにつれ、料理の香りが濃厚となって、完成に近付い
ていることとそれが何の料理であるのかということがわかる。これは視覚には頼らない
情報だ。

 精神的変化のきっかけになる、というのはどういうことか。
 アロマ(芳香)という言葉を最近耳にすることが多いと思う。アロマをなぜ使用する
かといえば、まず空間を香りによってコーディネイトするためだ。さらにその理由は、
その香りが好きだからだったり、リラックスができたり、やる気が出てきたりと、自身
の気持ちを操作することができるためだ。
 自分にあったアロマの使用=香りをかぐ、という行為にはリラックス効果があり、ま
た認知症の治療にも用いられるなど、人に良い影響を与える。ただし、香りの種類によ
っては時間帯の問題で逆効果になったりもするが。
 逆に自分が不快になるような「臭い」を嗅いだ場合、文字通り不快になる。いらいら
したり、気分がわるくなったり、体がだるくなったりと、悪い影響が出てくる。
 ただ、においに対する慣れはとてもはやくやってきて、いつの間にか感じなくなって
いたりする。そこにも注意することが大切だ。
その場に漂うにおいにも意識は向けておきたい。
・聴覚
つまり、音である。声、足音、衣擦れの音、風の音、川のせせらぎ、電子音、爆音、
音には様々の種類があって、常に何かしらの音がしている。先に挙げた『タイトル未定
』では音の描写も、先の例のにおいの描写も気温の描写もない。
 ただ、街灯しか明かりがなく、車の通っておらず、自転車もなく、普段から活気のな
い商店街で、現在そこにいるのは一人の少女だけ、となると、どうしようもなく静かで
あることは確かだ。そこに聞こえるのは風の音と、さちの足音くらいのものだろう。
 音というのは、周囲の状況から判断することもある(小説において)。ただ、少しで
も書いておくと具体性が出てきて、より忠実な想像をすることができる。
 不気味な雰囲気を醸すことも、景気のよさを醸すことも、場合によっては登場人物の
心境を象徴的に表すことだって可能だ。

 音もにおいと同じような効果を人に与える。良い効果、悪い効果、ともに。
 さらに音に関する描写の有無は、臨場感という点において非常に重要だ。そこに聞こ
える音がどのような音なのか、何から発せられる音なのか、その描写をすると臨場感が
出てくる。臨場感はその世界に引き込む為には大切な要素であるから、それが出てきて
いるか否かという問題の重要性がわかるだろう。
擬音というものが存在する。カチッ、とか、ビチャ、とか、バシャ、とか、そういう
音を表現するために用いる言葉のことだ。擬音には正しい描写というものはない。蛙の
鳴き声は、一般的に「ゲロゲロ」「ゲコゲコ」「グァグァ」などと表現されることが多
いが、それにこだわる必要はどこにもない。むしろ、それ以外の表現をする方が、世界
観に即している場合だってあるはずだ。独特な表現を用いると、それが世界観に即して
いれば、とても印象的な表現となる。

・触覚
 痛覚、快感、熱などの刺激を感知する感覚。痛覚や快感は説明の必要もないだろう。
熱はただ触れた時に感じる熱だけでなく、気温もそれにあたる。その場所は暖かいのか
寒いのか、それともそのような感覚をあまり覚えない、自身にとっての常温なのか。
 ものを触れば、それの触感がある。硬いか柔らかいか、すべすべなのかザラザラなの
か。ぬめりけの有無など。
 情景描写の場合は主に気温が大切な要素だ。気温の描写をすれば、たとえば服装に関
する描写がなくてもある程度は想像することができる。
 また季節を同時にあらわせば、季節に対するその土地の温度がわかり、その場所の土
地柄も表現することができる。

 風が吹いていることも表現すると面白いだろう。風の強さは単純に風の強さだけを表
しているのではなく、そのあとの展開を示唆するものになることもある。展開を示唆す
るものは風よりも天候で多く用いられるが、それは後述。
 展開を示唆する他に、やはり風にも登場人物の心境を表現する効果がある。単純に風
が吹いているから風が吹いている、と書く場合と、心境を表現したいから風が吹いてい
る描写をするのとは使い分けたい。

・味覚
 果たして味覚で情景描写をすることはあるのだろうか。はなはだ疑問である。
 しかし、これを味覚に限定せず、口という器官にその範囲を広げれば、できなくもな
いかもしれない。が、人鳥にはどうも思いつかない。なにかアイディアがあれば、教え
ていただけるととてもうれしい。

以上のように、視覚による情景の表現以外にも五感を用いた表現が存在する。五感を用
いた表現は、読者に臨場感を与え、物語の世界に引き込む。より現実感を与える描写と
して重要なものだ。
 何気なく外を歩いている時、少し周りを見渡して、どのような場所なのかを考えてみ
ると面白いだろう。

・天候
 五感ではないが、大切な要素。
 晴れ、雨、曇り、雪、嵐、にも様々なものがある。雨を表現するだけでも、たくさん
の表現がある。雨が降っているにしても、その程度がわからないと想像のしようがない
。申し訳程度に降る雨なのか、土砂降りの雨なのか、雨が降っている状況が大切でかつ
、その程度も大切な要素なら確実に書く必要がある。雨の程度は必ずしも書く必要はな
いだろうが、程度を示しておくと、今までの描写同様、リアルな描写となる。
 雨が降れば水たまりができる。
 雪が降れば積もったり、凍ったりするかもしれない。
 曇りなら視界はやや暗くなる。
 天候がその情景に与える影響は大きい。天候に関する描写がない場合、読者は基本的
に晴れ~曇りの天候を想像する。「~」の部分は雲の量の差に個人差があるだろうとい
うことで、特に深い意味はない。
 ただ、快晴なら快晴と書いておくのも大切。単純に晴れという想像だけでも通じる部
分はあるのだが(人鳥自身、それで通すことも多い)、天候を描写することが大切にな
る場面も多々あるので、そこはきちんと書くようにしよう。
 
 
文章読本より
人の表情は、刻々と感情を映して変化し、その印象も時間の
経過と共に変化していく。
「正直を言うと、彼はその女の顔を、初めにちょっと見たときは、
「ちょっと綺麗だな」と思った。が、つくづくと見ているうちに、だんだん
方々にアラが出てきて、美人でもなんでもないと感じ出した。ただ、
背恰好がきやしやで、顎筋のすらりとした、胴のくびれた、尻の大きい、
脚の長い、西洋の女が和服を着たような一種の味わいのある全体の肉付き
が、美人であるかの如く人の目を欺くだけで、橙のように円い顔の造作を、
一つ一つ吟味すると何処と言って取り得がない。鼻は高いけれども
獅子鼻だし、眉毛は細く長く尻のほうが軽薄そうに下がっているし、
いやに色の紅い薄い唇が蓮っ葉らしく大きく切れて、しかも、三日月型
上のほうへしゃくれているし、悪く言えば牛屋の女中にだってこのくらいな
御面相はいくらでもある。それに、なんぼ芸人の仲間とは言え、少女の
くせに若い男を向こうに回して、こまっしょくれた冗談口を叩いているのが、
頗るつきのすれかっらしのように見えて、菊村はあまりいい気持がしなかった。」

重々しいまぶたの裏に冴えた大きな眼球のくるくると回転するのが見えて、
生え揃った睫毛の蔭から男好きのする瞳が、細く陰険に光っている。
蒸し暑い部屋の暗がりに、厚みのある高い鼻や、蛞蝓のように潤んだ
唇や、ゆたかな輪郭の顔と髪とが、まざまざと漂って、病的な佐伯の
官能を興奮させた。

人間の印象は顔のみならず、服装や、ちょっとした癖や歩き方や、様々な
全体的印象から生まれ、その人全体の雰囲気を形造ります。もちろんそれが
集約的に現われているのが顔ですが、顔を描くときに、小説家はただオブジェ
として顔を描くのではなく、同時にその人物の全体的印象の把握に努めていることは
容易にうかがえます。文学はどんな細部をも活き活きと描き出し詳細に
人物描写をしますが、重要なのは、女性の服装であって、女性の服飾美も作家の
一部であり、豪華なご馳走の一部でもあった。

自然描写
「圧しつけられるように蒸し暑い日だった。大気は熱でキラキラ輝き、しかも
ひどく静かである。木々の葉は眠たげに垂れ、動くモノとては、葦草の上の
てんとうむしと、日光にあって身をもがくように草の上で突然にくるくる
と丸まった、一枚の縮みかけた葉しかなかった。
一切のものがきらめき、光り、しぶきをとばした。木の葉、枝、幹、全てが
濡れて光った。地面や、草や、葉の上に落ちる水滴は、幾千の美しい真珠と
なって飛び散った。小さな雫は、しばらく引かかっているかと思うと、大きな
雫となって落ち、他の滴と合わさって小川になり、小さな溝に注ぐと、
大きな穴に流れ込んだり、小さな穴からまた出てきたりして、塵や木屑や
葉っぱごと流れていき、それを地の上に置いたりまた浮かべたり、くるっと
回しては、また地の上に置いたりした。芽の中にいた以来はなればなれに
なっていた葉たちは、濡れてまたくっつきあった。乾いて枯れそうになっていた
苔は、水を吸って柔らかく、緑色に、つややかになった。まるで吸煙草のように
なってくずれていた地衣類は、かわいい耳を広げ、だんすのように厚ぼったく
なり、絹のように光った。昼顔はその白い杯を縁まであふれさせて、
お互いにぶつかりあっては、葦草の頭の上に水をこぼした。太った黒い
蝸牛は、心地よさげに這い出て、うれしそうに空をのぞいた。

明け方の風物の変化は非常に早かった。しばらくして、彼が振り返って
見た時には山頂の彼方から橙色の曙光が昇ってきた。それがみるみる
濃くなり、やがて褪せはじめると、辺りは急に明るくなって来た。
萱は平地のものに比べ、短く、その所々に大きな山ウドが立っていた。
彼方にも此方にも、花をつけた山独活が1本づつ、遠くの方まで
所々に立っているのが見えた。その他、女郎花、吾亦紅、萱草、
松虫草なども萱に混じって咲いていた。小鳥が啼きながら、投げた石
のように弧を描いてその上を飛んで、また萱の中に潜り込んだ。
中の海の彼方から海へ突き出した連山の頂が色づくと、美保関の白い
燈台も陽を受け、はっきりと浮かび出した。間もなく、中の海の
大根島にも陽が当たり、それが赤蝦を伏せたように平たく、大きく見えた。
但し、ふもとの村は未だ山の陰で、遠いところより却って暗く、沈んでいた。

その村の東北に一つの峠があった。
その旧道には桜やブナなどが暗いほど鬱蒼と茂っていた。そうしてそれらの
古い幹には藤だの、山葡萄だの、あけびだのの蔓草が実にややこしい方法で
絡まりながら蔓延していた。私が最初そんな蔓草に注意し出したのは、藤の花が
思いがけない樅の枝からぶら下がっているのに、びっくりして、それから
やっとその樅に絡み付いている藤づるを認めてからであった。そういえば、
そのような藤づるの多いことったら。それらの藤づるに絡み付かれている
樅の木が前より大きくなったので、その執拗な蔓がすっかり木肌にめり込んで、
いかにもそれを苦しそうに身悶えさせているのなどを見つめていると、
私は不気味になって来てならない位だった。(堀辰雄 美しい村)

すでに樹も草もない、岩石の聚落である。深く嶮しい岩場の裂け目へ、
青い実は勢いよくはずんでは落ちていく。下がっては登り、牙をむいて
立ちはだかっては急に低まる岩層のはずれ、屈曲して互いに寄り添っては
気難しく離れたがる岩脈の陳列場だった。それは、この島の流人たりあるいは
島民たちが移り住む前からしつらえられた庭、海底火山の爆破が湧き
登らせた溶岩の遺跡だった。波状の自由を与えられた岩石。鉱物の形に
押し込まれた波である。岩の峡谷の底へたどり着くと、波濤の高まり
も見えなかった。海は数重の奇岩の向こう側で、残念そうにどよめく
ばかりだった。濡れた砂粒が指の先から滴らせた砂の塔。猫に食い捨て
られたネズミの腹部。その他、どうにでも形容できそうな、岩石部落は
自然の興奮状態を古典的な見事さで起伏させていた。
(夫々の心理描写にどすぐろい感覚と官能がいつも心理の裏側にある)
彼女はこれらの文字と数字を読み直す。死ぬ事。彼女は昔から死ぬのが
怖かった。大事な事は、真正面から死を見つけないことである。
ただ、必要かくべからざる動作をあらかじめ考えて置けばそれでいい。
水を注ぎ、粉を溶かし込み、一気に飲んで、寝台の上に横になり、
眼をつむる。それから先を見ようとはしないこと。なぜこの眠りを
他のすべての眠り以上に怖れるのか。からだが震えるのは、明け方が
寒いからである。テレーズは階段を下り部屋の前で立ち止まる。
女中はけだものが唸るようないびきをかいている。テレーズは扉を開ける。
鎧戸の隙間から暁の光りが流れ込んでいる。幅の狭い鉄の寝室が闇の中で
白く見える。小さな二つの拳が毛布の上に置かれている。まだ形の
整わぬ横顔が枕の中に溺れている。この大きすぎる枕には見覚えがある。
自分の枕だ。

(客観的な心理描写は作家が天井からのぞき、夫々の人物にレントゲンを当てるが
ごとく、その心理の行き違いを描く事にある)
彼は、いつものように自動車の中で夫妻の間にはさまって腰掛けていたが、
座り具合がわるく少し席をひろげようとしたとたんに、自分の片腕を夫人の
腕の下にすべりこました。彼は自分と言うよりむしろ腕そのものがやったこの
動作にびっくりした。その腕をすぐにひっこめることが出来なかった。
夫人にはそれが機械的な動作であることがわかった。目立たせたくないので、
彼女もまた腕をひっこめようとしなかった。彼は、マオのこまかい心遣い
を察した。そして、これにけっして甘えてはいけないと思った。
2人はおそろしく窮屈な気持で、じっと動かずに居た。

(初歩の小説家ほど心理描写の危険な毒素を知らずに装飾的にこれを乱用します。
しかし、心理描写というものは心理描写の虚しさと恐ろしさを一番知った
人がはじめて完全に出来る。
心理描写の装飾的な面白さに囚われてはいけない。

一人称三人称の使い方ー人称を省く
顔を急いで洗って、部屋に入って見ると、綺麗に掃除がしてある。目はすぐに
机の上の置いてある日記に惹かれた
。きのう自分の実際に遭遇した出来事よりは、
それを日記にどう書いたと言うことが、当面の問題であるように思われる。記憶は
記憶を呼び起こす。そして純一は一種の不安に襲われてきた。それはきのうの
出来事についての、夕べの心理上の分析には大分行き届かない処があって、
全体の判断も間違っているように思われるからである。彼の思想から見ると書
の思想から見るとで、同一の事相が別様の面目を呈してくる。
ゆうべの出来事はゆうべのだけの出来事ではない。これから先はどうなるだろう。
自分のほうに恋愛のないのは事実である。ただし、あの奥さんに、もう自分を
引き寄せる力がないかどうか、それは余程疑わしい。ゆうべなにもかも過ぎ去った
ように思ったのは、瘧の発作の後に、病人が全快したように思う類ではあるまいか。
またあのなぞの目が見たくなることがありますまいか、ゆうべ夜が更けてからの
心理状態とは違って、なんだかもう少しあの目の魔力が働きだしてきたかとさえ
思われるのである。

擬音は日常会話を活き活きとさせ、それに表現力を与えるが、表現が類型化し、
事物を事物のまま人の耳に伝達するだけの作用しかなく、言語本来の機能を
果たせない。しかし、巧みな擬音詞は感覚的な世界を読者に伝えられる場合もある。
「山田ががたがたと言う間に、きんきんした勝代の声が短く挟まって、鈍感な
豚を棒で突付いて檻へ追い込む感じだ。山田はいらだってだんだんと凄んで行き、
筋書き通りである。そしておそらく予定の待ち人である巡査が来た。
玄関の沸騰はしゅんとなる。そしても一度激していった。男、男、勝代、三人の
スタッカットのような短いやり取りが交わされた。
梨花は勝代の声を聞くに忍びないあせりから、ばけつと箒を取って二階の掃除
へ逃れようとする。泊り客が来ているという今さっきの主人の口裏などすっかり
忘れて、高窓へばんばんとはたきをかける。ついで往来へ向いた9尺四枚を
ぱんと叩く。叩いてからつと明けると、これは又どうしたことだ。お向こう
の鶴もとの玄関にも勝手口にも背広の男たちが寄せ掛けて、その人たちの
乗ってきたらしい自転車がものものしく往来に置かれている。(幸田文)

形容詞は文章の中で、一番古びやすいと言う。それは形容詞が作家の感覚や
個性と最も密着しているからである。鴎外の文章が古びないのは、形容詞の
使い方が少ないからでもある。しかし、豪華なはなやかな文体は形容詞を
抜きにしては考えられない。
「桂子はこの鋼鉄の廊門のような堅く老い黒ずんだ木々の枝に浅黄色の
若葉が一面に吹き出ている坂道に入るとき、ふとゴルゴンゾラのチーズを
想い出した。脂肪が腐ってひとりでに出来た割れ目に咲く、あの薔薇の華の
何と若々しく妖艶な縁であろう。世の中にはほとんど現実とは見えない
何とも片付けられない美しいものがあると桂子は思った。
桂子は一人になって寂しい所を歩いていると、チーズのような何か強い
濃厚なものが欲しくなった。講習所の先生として、せん子などを相手に
お茶請けを麦落雁ぐらいな枯淡なもので済ますときの自分を別人のように
思う。外国へ行ってから向こうの食物に嗜味を執拗にされたためであろうか。
雨は止んで、陽射しが黒薔薇色の光線を漏斗形に注ぐと、切れ切れに
残っている茨垣が急に膠質の青臭い匂いを強く立てた。桂子は針の形を
していながら、色も姿も赤子のように幼い棘の新芽を、生意気にも
可愛らしく思った。」

光は変化する。その変化を書き取ることも中々に難しい。
「祖母の部屋は、私の部屋のように直接海に面しては居ないが、三つの異なった
方角から、即ち堤防の一角と、中庭と、野原とから、そとの明かりを受ける
様になっており、かざりつけも私の部屋と違って、金銀の細線を配し薔薇色
の花模様を刺繍した何脚かの肘掛椅子があり、そうした装飾からは、気持のいい、
すがすがしい匂いが、発散しているように思われ、部屋に入るときにいつも
それが感じられるのであった。そして、一日のさまざまな時刻から集まってきた
かのように、異なった向きからはいってくるそうしたさまざまな明かりは、
壁の角度をなくしてしまい、ガラス戸棚にうつる波打ち際の反射と並んで、
箪笥の上に、野道の草花を束ねたような色取りの美しい休憩祭壇を置き、
いまにも再び飛び立とうとする光線の、ふるえながらたたまれた温かい
翼を、内壁にそっと休ませ、太陽が葡萄蔓のからんだように縁取っている
小さい中庭の窓の前の、田舎風の四角な絨毯を温泉風呂のように温かくし、
肘掛け椅子からその花模様をちらした絹をはがしたり飾り紐を取り外したり
するように見せながら、家具の装飾の魅力や複雑さを却って増すのであるが、
丁度そんな時刻に、散歩の支度の着替えの前に一寸横切るその部屋は、外光の
さまざまな色合いを分散するプリズムの様でもあり、私の味わおうとしている
その日の甘い花の蜜が、酔わすような香気を放ちながら、溶解し、飛び散る
のがまざまざと目に見える蜜蜂の巣の様でもあり、銀の光線と薔薇の花びら
とのふるえおののおく鼓動の中に溶け入ろうとしている希望の花園のようでもあった。


それから、さて、ところで、実は、など説話的な言葉を文書の始めに使う
事が多いが、親しみは増すが、文章の格調を落とすので、できる限り
少なく使う事。

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