2016年3月24日木曜日

日本倫理思想史メモ

上P53
神話伝説が国家統一事業よりも前のもの出ない事を示している明白な証拠は、
神代の物語が初めより大八島国を一つの統一的な国土として把握していた事である。
イザナギイザナミ二神の国土生成の物語は、一般に大地が生み出される話ではなくして
まさにこの日本の国土が生み出される話である。部族社会の組織がただ人的
関係であるのに対して、国家的社会の組織は領土的関係である、という
ことが許されるならば、この国土生成の物語は、既に明白に国家的社会の意識形態
を示している。
が、この事を更に一層顕著に示しているのは、神代の物語全体を統括するところの
主題である。それを一言にしていえば、この国土の統治者が如何にして定められたか、
という問題なのである。神代の物語はこの主題を展開するための第一段として、
まず国土生産の神々が出現するに至るまでの神統を語り、次いで前述の如くに本の
国土の清算を説き、最後にこの国土の統治者の生産に及んでいる。

P134
聖徳太子の憲法は、日本書紀が推古12年の時に、皇太子の憲法17条として
記録しているものである。、、、、、、
この憲法は、憲法と呼ばれているにかかわらず、形式の上で道徳的訓戒に
近いものである。
で法学者のうちにはこれを国法と認めない人が多かった。しかし、法律と道徳が
まだ分化していない時代の憲法に、この分化が顕著に行われた後の区別を
適用するのは、少し無理であろう。大化以後の律令にも相当顕著に道徳的色彩は
現われており、律令の道の実現の手段と考える態度は変わっていない。
もしここに法律と道徳との区別に近いものを求めるとすれば、それは、修身、斎家、
治国、平天下という段階の区別ではないであろうか。太子の憲法は、修身斎家に
関する人の道には触れずに、ただ治国平天下に関する人の道のみを
説いているのである。
その意味で、私の道を説かず、ただ公の道のみを説いていると言えるかもしれない。
そこで、憲法は、国家のことに関する限りの人の道を説いたものである、と言って
よいであろう。したがって、それは、官吏に対して、官吏としての道徳的な心がけを
説いたものである。その関心するところは公共的生活であって、私的生活ではない。
その説くところの心がけもおのずから国家の倫理的意義を説くことになる。
まず第一に力説せられているのは、共同体の原理としての「和」である。
人倫的合一を実現し、共同体を真に共同体として形成する事、それが国家の
存在理由なのである。
この思想は第1条のみではない。憲法全体を通じて鳴り響いているといってよい
であろう。
君臣上下の和、民衆の和、相互関係における和などは、様々の異なった形で繰り
返して説かれている。が特にここに注意すべき事は、ここに説かれているのが、
「和」であって、単なる柔順ではないと言うことである。事を論ぜずにただついて
来いというのではなく事を論じて事理を通じしめるためには、議論そのものが
諧和の気分の中で行われなくてはならない、と言うのである。従って盛んに事を
論じて事理を通ぜしめることこそ、最も望ましい事なのである。第十条は特に
そういう議論の場を眼中に置いたものであろう。

坂東武士の土着の倫理
「名こそ惜しけれ」
鎌倉政権の誕生。農地はそれを管理するものの所有として、旧来の律令制
による土地の所有に対する明確な否定。即ち開拓農民が京都を中心とする
公家や社寺勢力と対抗する明確な体制を整えた。
更には、己を律してその運営を一体的に実施した。
それには、当時勃興してきた大名と呼ぶさらに強力な武士集団の理がそれぞれ
創られている。

上251
武士的社会と呼んでよいような特殊な社会が形成せられたのは、班田制度の衰退、
荘園の勃興と密接に連関した、数世紀にわたる事件である。

新田開墾の活発化により荘園として各地に私有する土地が増えて行った。
これにより、その私領を守るための新たな武士という勢力が発達していく。
これを組織的にまとめて行ったのが、坂東武士の長となる鎌倉幕府であった。
幕府の基本は、武将と家人の主従関係をより強め、それを全国的な規模へと
広げたことにある。このように武士的社会と呼んでよいような特殊な社会が
形成せられたのは、班田制度の衰退、荘園の勃興と密接に連関した、数世紀
にわたる事件である。その過程の中で、「坂東武士の習」と呼ばれる「主に
対する献身を核とする強力な主従関係」が構築されていった。
「武者の習」は、眼中に国家なく家族なく、ただ主従関係においてのみ献身を
要求する道徳である。



上309
しかるに北条はこれを反駁していった。
欲は身を失うと言えり。まさなき大場が詞哉。
一旦の恩に耽りて重代の主を捨てんとや。
弓矢取身は言ば一つもたやすからず。
生ても死ても名こそ惜けれ。
この北条の言葉に、敵も味方も「道理」を認めて、一度にどっと笑ったという。
討論は大場の負けになったのである。もとよりこの描写は作者の責任に属する
ものであって、歴史的な真偽は保障の限りでないが、しかし少なくとも
作者にとっては、恩を領地の給与と同視することは、単なる「欲」に
過ぎなかった。当時の武士たちの常識は、かかる考え方を恥ずべきものとした。
重代の主君は、領地の給与という如き「一旦の恩」を超えて献身を要求しうる
権威なのである。そうなると、主君の恩はその実質を離れても存続する
ものになる。主従関係は領地関係を離れても存続しうる。恩賞は主君の
家人に対する「情」の表現であって、家人の献身的奉仕に対する代償なのではない。
恩賞を与えることのできなくなった主君でも、家人を「たのむ」という信頼の
態度においてその情を持ち続けた。この情に対応するのが家人の献身の情
であった。だから献身の情は「欲」を離れている。主君のための自己放擲が、
それ自身において貴いと感ぜられたのである。
以上の如くわれわれは、「武士の習」の核心が無我の実現にあることを
主張する。無我の実現であったからこそ、武士たちは、そこに「永代の面目」
という如き深い価値観を持つことが出来たのである。
武士たちはみづからの生活の中からこの自覚に達したのであった。
武士の習の中核が無我の実現に存するとすれば、武士に期待される行為の
仕方が一般に自己放擲の精神によって貫かれていることは当然であろう。
この精神に仏教との結びつきによって一層強められたと思われる。
「武士というものは僧などの仏の戒を守るなる如くに有るが本にて有べき也」
という頼朝の言葉は、端的にこの事態を言い表している。、、、、、
してみれば武士たちは、その主君に忠実でありさえすれば他の所行はいかに
乱暴でもよい、というわけではなかった。自己放擲の覚悟が常住坐臥に現れて
いなくてはならなかった。武士の行為の仕方として、武勇、信義、礼節、
廉恥、質素、などが重んじられて来たのは、その故であろう。、、、
武士の習は、武士階級が政権を握るにしたがって、法的にも表現せられている。
御成敗式目あるいは貞永式目がそれである。
もっともこの式目は、武士の主従関係そのものを法的に表現したものではない。
主従関係はもともと情誼社会的な関係として成立したものであって、法律的
関係ではなかった。式目は第一に、幕府がその家人を統制し、武士の間の
秩序を保つために、最小限度の違法行為とその刑罰を規定しているのであって、
家人の行為の仕方を全般的に規定しているのではない。第二にそれは「御成敗」
の式目という名が示しているように、裁判の規準を与えた法典である。
制定の目的は裁判の公平を期するにあった。

345
この時代の倫理思想を示す著作としては、なお「十訓抄」を顧みて置かなくてはならな
い。
この書は、今昔物語、宇治拾遺物語の系統をひく説話集であって、同じ流れの
古今著聞集とはほぼ製作時期をおなじくするものであるが、しかし他の著作と
著しく異なっている点は、明らかに教訓を標榜し、少年のための修身書たろうと
していることである。尤もこの傾向は本来存してはいた。十箇条の教訓を掲げて
数多くの説話を分類集録したものである。、、、、、
十訓の第一は、「可施人恵事」と題されている。人恵は仁恵の意味であるから、人間の
行為の最も根本的な仕方だといってよかろう。そう見れば、「人恵を施すべきこと」
が、「心ばせ振舞を定べし」と言い換えられている所以も理解することが出来る。
、、、、、、
十訓の第二、「可離驕慢事」、第三、「不侮人倫事」、第四、「可誡人上事」
などがそれである。作者は驕慢の意義を説明して、おのれを高く評価し他の
人を見下すこと、おのれの考を最も好しとして他を用いぬこと、おのれの主人
妻子を最上と思うこと、その他、尚古癖、通人癖などをあげている。
それは一言でいえば自負心のことであろう。これを離れなくては仁を行うこと
が出来ないのみか、次々に他の悪徳を引き寄せてくる。まず問題になるのは、
人倫、即ち仲間の人々に対する侮蔑である。心に侮蔑があれば、「いふまじき
言をもいひ、すさまじきわざをもふるまう」に至り、逆に人から嫌われ軽しめ
られるであろう。だから侮蔑心を固く警戒し、人倫を尊ぶ謙遜な心持にならなくては
ならない。

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46
建武中興の事業は短期間で終わったが、その与えた思想的な影響は非常に大きかった。
室町時代の性格が鎌倉時代のそれと異なったものになってきたのは主としてそれに
基づくであろう。
建武中興が表現しているのは、武士の勃興以前の時代の精神の復活である。神話伝説
時代には、天皇尊崇や清明心の道徳が著しかった。ゆいで国家の法制が整備していく
時代には、人倫的国家の理想が強く燃え上がった。これらの倫理思想は伝統として
鎌倉時代にも生き続けているが、しかし鎌倉時代の倫理思想の主導音は、この時代
を作った武士たちの体験から生い出た武士の習いであり、またそれを地盤として
深く自覚させられた慈悲の道徳である。しかるに建武中興は、この主導音を
押えて、それ以前の伝統的なものを強く響かせ始めたのである。だからこの後、
武家の執権が再びはじまってからも、幕府の所在が鎌倉から京都に移ったのみ
ではない。文化の中心が武家的なものから公家的なものに移ったのである。
この点のみに着目していえば、室町時代は日本のルネッサンスの時代である
ということが出来る。そうしてそのルネッサンスを開始したのは、建武中興の
事業であった。
神皇正統記と太平記とは、この事業を記念する大きなモニュメントなのである。
神皇正統記は、建武中興に関与した優れた政治家北畠親房の著作である。
この本では、神話的伝統を基盤として日本は神国である、と結論付けた。
また、三種の神器神皇正統記が表現しているのは、統治の道としての正直、慈悲、知恵
であり、それは神皇正統のしるしとしての皇位の神聖な源を示すのみではなく、
さらに天皇の統治の原理として人倫的国家の理想をも示している。
これには、伊勢神道がかかわってくる。伊勢神道は清明心の伝統を受けた「正直」
の概念をもって天照大神の協議を作り上げた。皇位の神話的伝統を表現する三種
の神器に、人倫的国家の理想を結び付け、それにより武家執権のはじまる以前の
日本の統治の伝統を見出したのである。
正直、慈悲、智慧を三つにして一なる根本原理を、三種の神器の意義として力説し、
我が国の統治の原理として掲げたいる。それは「およそ政道ということは、、、、、
正直慈悲を本として決断の力あるべきなり」という文章でもわかる。皇室の
神話的伝統と律令国家における人倫的国家の理想とを、一つに合わせて力説した。

130
世阿弥にとって見物は一般の民衆をであった。「衆人の愛敬を以て一座建立の
壽福とする」という父観阿弥の態度は、そのまま猿楽の能の態度たるべきである
と考えらていた。観阿弥は「いかなる田舎山里の片ほとりにても、その心を受けて
所の風儀を一大事にかけて、芸をせし」人である。それを世阿弥は心の底から
讃歎している。猿楽の能がこのような覚悟で演じられていたのであれば、
本質的に民衆の芸術であったのだ。
それにより民衆の意識を表現する謡曲が上層の知識階級よりも、はるかに濃厚に
天皇尊崇や人倫的国家の理想などの伝統を活かしているのである。
たとえば、「弓八幡」(八幡神宮の縁起)「高砂」「養老」「「御裳裾」
(伊勢神宮の御鎮座縁起)などがある。
これらの諸作を通じて、一君万民の一つの日本国が世阿弥の強い情熱の的であったこと
を察し得ると思う。それは舞台芸術に反映せられた当時の民衆の意識なのであり、
したがって、天皇尊崇や正直慈悲の理想についての民衆的自覚に他ならないのである。
民衆は舞台の上で伊勢神宮を見、神の道を聞き、そうして天孫降臨以来の長久な
伝統に親しんだ。伊勢神宮と一般民衆との関係が広くいきわたったことは、
この時代の特徴だといってよい。
室町時代盛期における古代精神復活の動きは、謡曲や演能の力によって広く民衆の
意識に染み込んで行ったといってもよい。そういう古代精神の力は、上層の支配階級
や知識階級において新鮮さを失った後にも、民衆の意識にとってはなお新鮮であった。


275
早雲寺殿二一箇条 これは法律というより道徳訓である。

279
朝倉敏景一七箇条

291
甲陽軍鑑 信玄家法などからなる法律的規定である。

367
徳川家康による儒学の奨励
第一この問題は新しく支配階級としておのれを固定しようとしている武士たちの社会の
精神的指導権に関している。儒教は久しく摂取されていたが、しかしまだ指導権を
握ってはいなかった。武士が初めて政権を握ったころに精神的指導の権威を担って
いたのは、明らかに仏教である。それは伝統的な教権を維持していたのみならず、
さらに武士の勃興に呼応して新しい鎌倉仏教を創りだすほどに活力に充ちていた。
しかし、家康は仏教の持っていた精神的指導権を儒教の方に移したのである。
第二に、この変革は儒教がみずから武士に働きかけ、あるいは仏教と戦って
引き起こしたのではなく、逆に武士の方から儒教に働きかけ、あるいは仏教と
戦って引き起こしたのである。、、、
すなわち新興の武士たちは武力によって仏教の精神的指導権を崩壊させたのである。
家康は仏教の復興がこれからは障害になると考え、儒教を以て武士階級の精神的指導を
企てた。その具体的な取り組みを示すのが、本佐録である。
本佐録は儒道の大意を和文によって通俗的に説いたものであるが、しかしその説き方
には、時代を反映するらしい顕著な特色がある。著者は、日本が上代の2千年の間、
平和に治まっていたのに反し、何故近年に至って興亡が激しいかを問題とし、
唐人に逢ってその説明を求めた。唐人は答えて言った、その理は時と所によって
変わるものではない、天道に従うものは長久であり、天道に逆らう者は亡びると。
著者はここで天道の理をさとり、堯舜の道、五倫の教えに帰依した。日本では
神武帝が堯舜の道を守って国を治めて以来、この道の伝統の続く限り、天下は
平和に治まっていたのであった。然るにこの道は、仏教によって妨げられ、
ついで天道を知らない儒者によって妨げられた。これが天下の乱れた原因である。
天下を上代の如く治めるには、天道を知ることが何よりも肝要である。
これが著者の得たさとりでもあった。そして天道の形而上学的解決を神道に
結び付けたのである。
「日本のあるじ天照大神は、一切の奢移を斥けて天下の万民にあわれみをかけた。
神武天皇はこのおきてを守って道を行ったが故に、皇統は絶えることなく栄えている。
この天照大神のおきてが神道なのであって、「正しきをもはらとして、万民を
あわれむ」ことを極意とする。

江戸時代の儒学者
401 中江藤樹
その思想の神髄は「考」を以て「万事万物の道理」とした。

422  熊沢番山
主著「集義和書」では、儒教の形而上学的原理よりはむしろ儒教の人倫の教えに
その関心を集中した。
皇室と文化の絆との結合を説き、室町時代の教養の基本が生きている。日本の
第1期の天皇尊崇の伝統も、第2期の人倫的理想の伝統も、すべてが生きている。

450 山鹿素行
主著「山鹿語類」では、君道、臣道、父子道、兄弟・夫婦・朋友の道、士道、
聖学などからなり、君臣の道を重点に置いて、それを基本に士道を詳述している。
あるべき人倫組織として、必然的に士農工商の別の存する社会を論じ、
その田産の制、町人の制、商工のありかた、礼教の立て方などを詳細に述べた。

482
士道の考えが優勢になったといっても、それは主として知識層の間でのことであって、
広範な層に染み込んでいる献身の道徳の伝統を打破し去ることはできなかった。
この伝統は義経記、曽我物語において活発に生き続けさらに舞本や浄瑠璃などを通じて
一般の民衆にも染み込んで行った。そうしてそれらはそのままに江戸時代に流れ込み
武士の間にも、民衆の間にも、きわめて優勢な思想として残っていたのである。
だから献身の道徳としての武士の道が、江戸時代初期における常識となっていた
ことは、否定しがたい事実である。

513
水戸光圀 大日本史
光圀の目指したのは、正確な日本史を作ることであった。
ここに書かれた史実はおのずから武家幕府の立場を超えた悠遠な日本国の姿を示し、
政権の転変を超えて持続する皇位の伝統を明にした。

517 新井白石 讀史輿論(愚管抄、神皇正統記とともに有名)
白石は頼朝の秩序回復の功績を承認することにより、武家勃興の歴史的必然性
を認容したのである。
愚管抄、神皇正統記が武家の政権を否認しつつ摂関政治を当然のものとして是認
しているのに対して、白石はその摂関の専横を朝威の衰えへの最大の原因と
している。それは、朝威の盛んであった時代、大家の改新を中心とする時代を
理想に近い時代としている。

537   荻生徂徠

547  賀茂真淵  国意考」「歌意考」「語意考」など
国の模範は古にあると主張し、儒教のために様々な仕方が損なわれた。
国のあるべき姿は儒教渡来以前の道を求める必要がある。天皇尊崇を明確にし、
古学による最古の伝統に復帰することが重要と説いた。
17世紀以降の我が国の儒学の発達を踏まえつつ、そこに動いてきた古学の
精神、歴史的関心、古文辞への愛着なども取り込むことによって、天皇尊崇
の伝統の復活を18世紀にもたらした。

556  本居宣長  「古事記伝」
皇国のいにしえの意を考えることにより、古事記の解読を始めた。
天皇尊崇の感情は千数百年をへて特殊な形態となっていた。宣長はそれを天皇尊崇の
立場の源流への遡行をもって、歴史的認識を古事記の研究から明確にした。

588
町人道徳と町人哲学
家康は道義の勝利として理解させるために、儒教の君子道徳を鼓吹して、武士を士君子
に転じようと努めた。士農工商の身分の別は、そういす道徳的な支柱の上に
立てられたのである。
日本の17世紀は町人の政治的な屈服を以て始まっているのである。しかしそれにも
関わらず、17世紀後半に華々しく花を開いた元禄の文化は、主として町人の
創りだしたものであった。政治以外において、武士階級の功績に属するものは
ほとんどない。
家康の文化政策によって振興された儒学でさえ、主として民間で発達したものである。
1つの時代の意識形態は支配階級によって作り出される、という命題は、ここに
通用しない。


享保年に書かれた「町人考見録」がある。
ここには、「町人心、商人心」という概念が形成されている。すなわち、おのれ
を抑制し、家職家業に忠実である態度が目指しているのは、「家の富、家の幸福」
である。
町人はいやしい身分とされるが、その代わり天下や国のことを心配せずともよい。
ただ家のことだけに意を注げばよいのである。
石田梅厳のその1人であり、倹約は仁の本であると説き、その本として「正直」
が人の道と説いている。
「心を儘にして性を知り、性を知れば点を知る。天を知れば事理おのずから明白なり」
というのが、彼の独特の心学修養のやり方であった。特に出発点として「心を知る」
ことを重要視し、日常の生きた心理を把握することに努めたのは、彼のいちじるしい
特徴であるとともに、やがて彼の流派の特色ともなった。彼においては心は、
物と対立した別な領域なのではない。心は物の主体的な側面であり、物は心の
客観的な側面である。志向されるものなくして心はなく、志向する働きなくして
物はない。
「形が直に心なり」。
ここに生きた心理の把握あるということ、またそういう傾向が心学の名の由来
であることを、我々は忘れてはならない。

625
19世紀に入り、日本でも歴史的情勢の急激な変化を感じ始めた。
この情勢は日本人の公民的自覚を刺激した。外交の圧迫に対しては、日本は1つの
国である。日本を1つの国と考えれば、その統一を表現するものは、将軍でなくして
天皇である。このことは、17世紀の末には民間の儒学者たちによって考えられ、
18世紀の中頃には、竹内式部や山縣大武におけるような実践運動につながった
勤王論として現れた。この傾向を最初にはっきりさせたのは後期水戸学であった。

633  会沢正志斎  新論
これは幕末勤王論に強い影響を与え、頼山陽の日本外史に比肩するといわれる。
新論が攘夷思想を枢軸としていることは、その序文を見ても明らかである。そこでは
まず、「西荒ばん夷」が神州をうかがうことを説き、それにもかかわらず「彼は
商船なり漁船なり、深思大過をなすものにあらず」と説くもののあることを嘆き、
この危機に対する対策として、国家の持ちむべき所を述べるものだという。
一は国体、二は形勢、三は虜情、四は守御、五は長計である。一言にしていえば
彼は、欧米人の圧迫に対しては、国民的自覚を喚起しようとしたのである。

652  頼山陽 日本外史
この史書により数世紀来の天皇尊崇の感情の流れに総合的な表現を与えた。
第1には、水戸の大日本史編纂事業の理念を受け継ぎ、さらに18世紀を通じて
諸学者の間に流れてきた歴史的関心を明確にした。日本の歴史を顧みることは
封建的な束縛を超えて国民的自覚を促すことになった。
第2に、その叙述においてすでに久しい間日本人が尊重し、感激の目で見守って
きたものを新しく捉え直した。例えば、太平記や平家物語などの主役を新しい形で
表現した。第3には、18世紀までに使用されてきた漢文の使用によりその効果を
高めた。第4には、武家幕府の事情を描くにあたって、竹内式部などの勤王討幕の
気分を含ませた。

665  平田篤胤
「鬼神新論」や「霊の真柱」により国学の代表として平田神道を作り上げた。
ここでは世界の成り立ちや「世の中の万事の主宰神」や死後の魂の行方などが
主要な問題となり、これを国学の正統思想と考えた。

679 吉田松陰
「講孟余話」では、「人と生れて人の道を知らず、臣と生れて臣の道を知らず、子と生
れて子の道を知らず、士と生れて士の道を知らず、ただ恥ずべきの至りならずや」
という。

これらの活動から、
日本人が欧米の圧迫によって日本を1つの全体として自覚するとともに、その矛を
幕府の封建制に向け、武士社会成立以前の国民的統一を回復しようとする主張に
変わっていったのである。その際日本の第1期以来の天皇尊崇の感情が、儒教、
国学、歴史など色々な出口からでて、国民的統一の指導原理となった。

731
明治時代の倫理思想
封建制の崩壊、国民的国家の樹立は、開国の方針とは全然逆の攘夷の立場において
成就したと信じていた人も少なくなかったであろう。然るに明治維新の思想的立場を
表示した五箇条の御誓文は、全然攘夷の立場などを放棄して、ヨーロッパの近代
国家に追いつこうとする規制を示したものであった。、、、
しかし王政復古は、単に武家執権の以前に帰ったというだけではなかった。それは
開国と必然に結びついている近代的国民国家への急激な転向であった。その際
皇位の伝統は、国民的統一を表示するものとして実際に作用する力を持って
いたのである。
開国の事実と、封建組織の崩壊、国民的国家の形成の事実とを、密接に連関したものと
認め、そこに明治時代の社会の最も著しい特徴を見出すのである。
右のような特徴を明治時代の初期に逸早く反映したのは、明六社の人々の思想
であった。
福沢諭吉、加藤弘之、中村敬宇、西村茂樹、西周、津田眞道、森有禮、神田孝平など。
特に福沢諭吉の想いは、二世紀半にわたる鎖国状態がもたらした文明の遅れを、
取り戻すという問題への取り組みであった。、、、、
政府の指導者たちは、西洋の文明に対する目を開いていた。だから、知識を世界に
求めることは初めから明治政府の方針であった。しかし廃藩置県の仕事の終わる
ころまでは、攘夷の旗印のもとに糾合された様々な思想運動、即ち水戸学風の尊王
攘夷論や山陽風の楠公崇拝や国学風の国粋主義などに凝り固まった連中に対して、
相当に強い発言権を与えていた。そのもっとも著しいのが大教宣布である。
それは一時神道を国教とするのではないかという疑念を呼び起こしたほど狂熱的な
烈しさを示したが、しかしその底力は儒教や漢学に及ばなかった。
福沢は、「学問のすすめ」を描いた。
人は生まれながらにして貴賤上下の差別を持ったものではない。万民は皆同じ位
である。しかし実際はそうでない。このため、「有様」の問題と「権利通義」の
問題とに分けて説明した。これにより、人権の平等の考えを展開した。さらには、
この考えを「国と国の間柄」に広げ、国は同等なることを説いた。
「いかに弱小であっても、一国はその独立の存在を保つ権利を持っている。
しかしその独立の権利を確保しうるのは、ただ「国中の人民の独立の気力」である。
だから「外国に対して我が国を守らんには、自由独立の気風を全国に充満せしめ、
国中の人々を貴賤上下の別なく、その国を自分の身の上に引き受け、各その国人たち
の分を盡さざるべからず」もしこの権利を侵害しようとするものが現れてくれば、
「日本国中の人民、一人残らず命を捨ててそれに抵抗すべきである。
これらの啓蒙運動により日本人に国民的国家の意義を理解させようとした。
また、「文明論之概略」では、文明を国民集団の主体的精神的な方面から捉え様
とした。「個人の知徳がどれほど進歩してようとそれが直ちに文明なのではなく、
国民一般の知徳の進歩のみが文明と呼ばれるとした。特に智の働きにおいては、
人の数よりも智力の質が重要であり、ヨーロッパの文明の優れている点を明確にした。
 
765
西村茂樹の書いた「日本道徳論」がある。
その第1段には、「道徳学は現今日本において何ほど大切なる者なるか」と題し、
維新後の日本における道徳的標準の亡失を論じている。江戸時代の日本は儒道を
道徳の標準としていたが、維新の際これを廃棄し、代わりに神儒混淆の教えを
立てようとしたが、いずれも現今の「人智開達の度」に伴いうるものではない。
これが道徳論を書かせたという。
道徳学実施の仕組みとその条目の大意は、全く西洋哲学の法に従うべきとしている。
そのため、具体的な実施のための協会設立を提唱し、5つの具体的な事業を考えた。
第1は、「亡論を破す」であり、第2は「旧俗を矯正す」であり様々な悪習を
正すこと、第3は「防護の法を立つ」、第4は「善事を励む」、第5は「国民の
品性を作る」とし、町村における相互扶助の組織から、一身、家族、社会、
国民の立場における様々な道徳的心がけに至るまで継続的な努力を続けた。
儒教と西洋哲学との精粋をとり、両者の一致するところに道徳学の基礎を求めた
活動は成果を上げた。
教育勅語はこれら多くの人の活動を基盤として発布されたが、道徳のことに関して、
何か非常に権威ある教えへ、自由に批議するすることのできない教えとして、
国民に与えられた。こういう勅語を出しうる天皇は、憲法の規定した国の元首
としての天皇ではなく、国民の尊崇の対象としての天皇ではなくてはならない。
これは国民の全体性の表現者としての天皇であって、神話の時代には「日の御子」
として表象された。その伝統が、はるかに開花した後代においても、なお
感情の上に活きているのである。
勅語の第1段においては水戸学風の国体の考を掲げ、第2段において当時の
道徳的常識を反映した教えを説き、第3段においてこの教えが日本の伝統に
合するとともに普遍的に通用しうることを主張したものである。
さらに、国民道徳が井上鉄哲郎の「国民道徳概論」などで強く言われ始めた。
道徳の根本原理は普遍的であるが、それを実行する手段方法は国民によって
異なる。国民道徳はその国民が歴史的に作り出した特有の道徳であって、
実践の場合はこれによるほかはない。即ち普遍的な道徳もただ国民的道徳
を通じてのみ実行されるというのである。
明治維新によって遅まきながら近代的国民国家に追いついてきた日本にとって
この「国民」なるものがなんであるかを深く把捉すべき必要性に迫られていた。
その必要性は、日清日露の戦役によって日本人が新しい国民国家の立場に
目覚めるに従い、一層緊急となっていた。しかし国民という概念自身が曖昧
であるように、この問題は決して精密に追い詰められていないのである。
一つの文化共同体としての国民。言語を同じくし、歴史的運命を同じくし、
宗教、芸術、学問などを同じくし、特に政治的運命の共同において相ともに
一つの国家を形成している国民。そういう人間の団結、即ち一つの全体を
言い表す言葉として、国民という言葉が十分生きて用いられ、また生きて
理解されているかというと、我々はすぐには然りと答えることが出来ぬ。
その点において日本人はヨーロッパ人よりもはるかに遅れているであろう。
況やこの一全体としての国民と、それに属する個々の成員との関係、あるいは、
その全体の内部における成員相互の間の関係、などについては、ほとんど
立ち入って問題とされことがなかった。

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