2016年1月24日日曜日

二十四節気

季節をよく現しているのに、二十四節気の考え方がある。
元々、二十四節気は、中国の戦国時代の頃に太陰暦による季節のズレを正し、
季節を春夏秋冬の4等区分にするために考案された区分手法の1つで、1年を
12の「中気」と12の「節気」に分類し、それらに季節を表す名前が
つけられている。
なお、日本では、江戸時代の頃に用いられた暦から採用されたが、元々二十四節気は、
中国の気候を元に名づけられたもので、日本の気候とは合わない名称や時期もある
との事。そのため、それを補足するために二十四節気のほかに土用、八十八夜、入梅、
半夏生、二百十日などの「雑節」と呼ばれる季節の区分けを取りいれたのが、
日本の旧暦となっている。
二十四節気の名称は、発明された当時の物がほぼそのまま使われている。
節気名称は実際の気温よりは太陽の高度を反映したものとなっている。このため、
日本では独自に雑節が設けられたり、本朝七十二候が作られたりした。
名称の由来を種類別に分けると以下のようになるだろう。
昼夜の長短を基準にした季節区分(各季節の中間点) - 春分・夏至・秋分・冬至
昼夜の長短を基準にした季節区分(各季節の始期) - 立春・立夏・立秋・立冬
気温 - 小暑・大暑・処暑・小寒・大寒
気象 - 雨水・白露・寒露・霜降・小雪・大雪
物候 - 啓蟄・清明・小満
農事 - 穀雨・芒種
しかし、冬の終わりから周りの変化を見ていると、特に 雨水、啓蟄、小満、
穀雨、芒種には納得感がある。草花の成長、農作業の動きが何と無く
伝わってくるからだ。冷雨が少しづつ暖かさを増し、虫や人々に次への活動
の源となっていくのだ。
東北を旅した柳田國男の文章からは、それがよく伝わってくる。
「ようやくに迎ええたる若春の喜びは、南の人のすぐれたる空想をさえも
超越する。例えば、奥羽の所々の田舎では、碧く輝いた大空の下に、
風は柔らかく水の流れは音高く、家にはじっとしておられぬような日
が少し続くと、ありとあらゆる庭の木が一斉に花を開き、その花盛りが
一どきに押し寄せてくる。春の労作はこの快い天地の中で始まるので、
袖を垂れて遊ぶような日とては一日もなく、惜しいと感歎している暇もない
うちに艶麗な野山の姿は次第にしだいに成長して、白くどんよりした
薄霞の中に、桑は伸び麦は熟していき、やがて閑古鳥がしきりに啼いて
水田苗代の支度を急がせる。」(雪国の春より)
さらに、山から流れ出てくる感のある水と拓けた大地を見ると、あらためて、
水への尊敬の念が芽生え出てくる。唐木順三、柳田國男、白洲正子、いずれも、
日本の原風景を求める中では、水に対する関心、水への尊敬の念は、
「日本文化の一つの特色を成しているようだ」と言う。
水は、生活条件の1つではあるが、同時に日本では、それが、文化や芸術の条件
でもあった、と言っている。
山水という言葉が直ちに風景を意味するということは、日本人の自然観、
風景観を物語ってもいるだろう。水墨画、墨絵には水は殆どつきものといってよい。
寒山詩の中に以下の一句がある。
「尋究無源水、源窮水不窮」
人は、結果から原因を探り、根本原因まで遡る。
水源は、探求され、解明されたが、水は相変わらず滔滔と湧き出ている。私の周辺でも
そのような光景が散見される。
先ほどの柳田國男も「雪国の春」の中で、さらに以下の様な想いを語っている。
幸い、私の周辺は、まだその自然の息ぶきが少しながら残っている。
有難い事である。
「要するに日本人の考え方を1種の明治式に統一せんとするが非なる如く
海山の景色を型に嵌めて、片寄った鑑賞を強いるのはよろしくない。
何でもこれは自由なる感動に放任して、心に適し時代に相応した新たな
美しさを発見せしむに限ると思う。島こそ小さいが日本の天然は、色彩
豊かにして最も変化に富んでいる。狭隘な都会人の芸術観をもって指導
しようとすれば、その結果は選を洩れたる地方の生活を無聊にするのみ
ならず、かねては不必要に我々の祖先の国土を愛した心持を不明なら
しめる。いわゆる雅俗の弁の如きは、いわば、同胞を離間する悪戯
であった。
意味なき因習や法則を捨てたら、今はまだ海山の隠れた美しさが、蘇る
望みがある。つとめて旅行の手続きを平易ならしむるとともに、若くして
真率なる旅人をして、いま少し自然を読む術を解せしめたい。人の国土
に対する営みも本来は咲き水の流るると同じく、おのずから向かうべき
一節の路があった。、、、、、緑一様なる内海の島々を切り開いて、
水を湛え田を作り蓮華草を播き、菜種、麦などを畠に作れば、山の土
は顕れて松の間からツツジが紅く、その麦やがて色づく時は、明るい
枇杷色が潮に映じて揺曳する。ひばりやキジが林の外に遊び、海
を隔てて船中の人が、その声を聞くようにな日が多くなる。」
人への便利さは重要であるが、このような情景との共存はありえないので
あろうか。

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