2016年1月24日日曜日

和辻哲郎の世界

「和辻哲郎の日本精神史から、思う」

和辻さんの風土、古寺巡礼、日本古代文化を横断的に貫いている
のは、まだまだ、仏教思想に対する日本人の理解は、甚だ希薄であった、
と言う認識であるが、「志賀の漢人」と呼ばれる人々が多く、シナ文化
の経由の地であった志賀では、その生活文化は、少なからず、以下の様な
仏教や美術と同様に、影響を受けていたはずである。
このため、和辻哲郎の「日本精神史研究」を概観したい。
1)上代における仏教の受け入れ
当時の日本人は、ただ単純に、神秘なる力の根源としての仏像を礼拝し、
現世の幸福を満たすものとしての意識程度であるが、現世を否定せず
して、しかもより高き完全な世界を憧れる事が、彼らの理想であった。
現世は、不完全との認識を持っているが、憧憬するのは、常世の世界
であり、死なき世界である。
この時代において、仏教が伝わり、今までの「木や石の代わりに今や
人の姿をした、美しい、神々しい、意味深い「仏」が持たされる。
魔力的な儀礼に代わりに今やこの「仏」に対する帰依が求められる。
一切の美的魅力がここでは、宗教的な力に形を変えるのである。
さらに、最初に来た仏教が修行や哲理を説くようなものではなく、
むしろ、釈迦崇拝、薬師崇拝、観音崇拝の如く、現世の利益のための
願いを主としたことが幸いであった。
また、このような意識は、単に、芸術に関してのみではなく、
日本人の内的生活、思想の進展、政治の発達にも、大きな要素
となって行く。生活文化にも、同様のことが言える。
2)仏像の姿
仏像においては、「仏」という理念の人体化を意味している。
その大きなポイントは、嬰児と物菩薩像との眼の作りである。
それは恐らく、嬰児の持つ眼の清浄さ、初々しい端正さが多くの
人々を魅了しているからであろう。
ただ、時代により、その特徴は少しづつ変化する。推古の頬は、
明らかに意味ある表情を含んだ、肉のしまった成長した大人の
顔である。しかし、白鳳時代では、このような表情は全然現れて
おらず、成長した人の頬としては空虚であり、嬰児としての
柔らかい頬の円さをもっている。
しかし、我々は、仏像や菩薩像において、嬰児の再現をみるのではない。
作家が捉えたのは、嬰児そのものの美しさではなくして、
嬰児に現れた人体の美しさである。宇宙の根本原理、その神聖さ、
清浄さ、など総じて、嬰児の持たざる内容をここに現そうとしている
のである。作家が表現しようとする仏菩薩像は、経典の説くところ
のその理念である。
その円光の中に5百の化仏あり、一々の化仏に5百の化菩薩あり、
無量の諸天を従者とす、、、、ほとんど視覚の能力を超えたものである。
3)推古、天平美術
日本文化は、シナ文化と言う大きな文化潮流の中での1つである。
そして、日本の特殊性は、同じ文化潮流の中での地域的、民族的な
特殊性であることを理解しておく必要がある。
推古から天平への様式展開には、本質的な違いがある。
例えば、天平美術では、推古の持つ「抽象的な肉付け」や「抽象だが
鋼鉄の如く鋭い線」の表現から離れ、直感的な喜びの表現がある。
推古の彫刻は、人体を形作る線や面が、人体の形を作る唯一の目標とせず、
それ自身に、独立の生命を持たせている。しかし、天平彫刻では、人体を
形作る線や面は、人体の輪郭、ふくらみ、筋肉や皮膚の性質、更には、
衣の材料的性質やそれに基づく皺の寄り方、衣と身体のとの関係などを
忠実に再現することを目指している。
即ち、天平様式の根底には、仏の理念が支配しており、美術の様式と
思想的、宗教的理解には、相関の関係がある。
これは、絵画においても、同様なことが言える。
推古時代より天平時代に至る仏教美術の様式変化は、日本人の心的
生活の変遷と並行している。仏像の多くは、国民の信仰や
趣味の表現である。
型は、外から持ってこられたが、それに盛られたのは、国民の願望
であり、心情であった。それは、シナ芸術の標本ではなく、
我々祖先の芸術である。
彫刻にしろ他の歌や絵画にしろ、一般民衆もまた、これに関係していた
はずであり、特に、薬師崇拝、観音崇拝のような単純な帰依は、特殊の
教養なき民衆の心にも、極めて入りやすいものである。
造形美術の美が、その美的な法悦により、帰依の心を刺激したことは
間違いのないことと思われる。
4)歌や物語について
ここでは、仏教美術と万葉の歌が同一の精神生活の表現としているが、
個人的には、歌などについては、分からないので、万葉集、古今和歌集など
についての、言説は省いていく。
ただ、
春雨はいたくな降りそ桜花いまだ見なくに散らまく惜しも
というような感情を直接表現する歌は,分かりやすいが、
春やとき花やおそきと聞きわかむ鶯だにも鳴かずもあるかな
と言うような鶯で春を考えるというようなやや屈折した心情のは
中々に、難しい。
竹取物語などのお伽への傾向は、古事記などにもあるが、多くあった。
いなばのウサギの話、鯛の喉から釣り糸を取る海神の宮の話、
玉が女に化する天の日矛の話など。
枕草子についても、同様に省くが、
「春はあけぼの、やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこしあかりて、
紫だちたる雲の、ほそくたなびきたる」
「春はあけぼの、そらはいたくかすみたるに、やうやうしろくなりゆく
山ぎはの、すこしづつあかみて、むらさきだちたる雲の、ほそく
たな引たるなどいとおかし」
等の改作があるというが、個人的には、あまり上手くないとは、思えない。
枕草子においては、清少納言の静かで細微な観察がある情景、ある人物
の描写において、力強い特性描写を可能としている。
5)「もののあはれ」
本居宣長がこの「もののあはれ」を文芸の根本と主張した。
何事にまれ、感ずべき事にりて、心の動きて、感ずる。
「あはれ」とは、「みるもの、聞くもの、ふるる事に、心の感じて
出る、嘆息のこえ。
また、「もの」とは、「物いふ、物語、物まうまで、物見、物いみ
などいふたぐいの物にてひろくいふ時に添ふる語」と言っている。
即ち、「もののあはれ」をいかなる感情も直ちにそのままにみるべきでは
ないと言っている。それは、それ自身に、限りなく純化され浄化されようと
する傾向を持った無限的な感情でもある。
「ものあはれ」を含め、我々が体感し、共有化できることが、数百年経った
現在でも、通じ合えることは、生活文化、芸術感覚が変わっていないと
いうことでもある。楽浪(さざなみ)の志賀とも呼ばれるこの地域でも、
同じであろう。



「日本古代文化(和辻哲郎)に思う」
私は単なる技術屋であり、歴史学者でもないし、考古学者でもない。
単に、日本人がどんな人々であったか、特に、宗教、道徳、美術
などの面で、どのような動きがあったのか、知りたいのみである。
しかし、この志賀地域は、古代からの遺跡もあり、小野神社
を含めて、古来、「志賀の漢人」と呼ばれる人々が多かった。
中々に、興味魅かれることも多い。
和辻哲郎の「日本古代文化」にしろ、どこまで理解しているか、
怪しいものであるが、自身の「今後の地域を見る眼を養う」と言う
点では、少し、整理していきたい。
1)日本人の特性
和辻は、言う。
この日本民族気概を観察するについては、まず、我々の親しむべく
愛すべき「自然」の影響が考えられなくてはならない。
我々の祖先は、この島国の気候風土が現在のような状態に確定した
頃から暫時この新状態に適応して、自らの心身状態をも変えて行った
に違いない。
もし、そうであるならば、我々の考察する時代には、既に、この
風土の自然が彼らの血肉に浸透しきっていたはずである。
温和なこの国土の気候は、彼らの衝動を温和にし彼らの願望を
調和的にならしめたであろう。
日本人は太古から魚貝と植物とを食っていたのである。
したがって、稲の耕作を学び取った後にも、食糧の上に質的変化
はなかったであろう。日本人は本来菜魚食人種としての温和な
性格を持っていたのである。
、、、
我々の祖先には熱砂から生まれるらしい強烈な幻想や広漠たる
大陸に訓練されるらしい意力粘り強さなどはなかったが、
しかしささやかな小山の愛らしい円さがいかに喜ばしく美しいか
青空に抱くかるる優美な金剛山の姿がいかに偉大荘厳であるか、
或いは、また細かな珠玉の可憐な触感がいかに微妙であり、
浅芽原のふみ心地がいかに快いかを、鋭敏に感受しうる心はあった。
(これは、白洲正子、唐木順三ほか多くの識者が示唆している
ことでもある)
2)2つの文化の存在
対朝鮮外交から、二つの有力な文化圏を想定している。
・近畿を中心とした山陰、山陽、四国などに分布している。
筑紫を経由せずに、銅鐸遺品が分布している。
・筑紫を中心とした四国、中国全土
銅矛銅剣遺品が分布している。
筑紫からの交通は大陸と潮流的にも、盛んであった。
3)倭の国?
倭人伝によると、
29の国が女王卑弥呼に服属し、残る1国が属さなかったとのこと。
人口については、色々な説があるようであるが、42万人と言う説がある。
卑弥呼が女王となったのは、その「鬼道」、呪術、であった。その
神秘的な力により、衆より選ばれる人であり、「神の如きもの」となった。
一般的に君主の起源は、宗教的であり、最古の君主の形式は呪術者との事。
この当時、宗教的な信仰は3つの面をっ持っていたとの事。
・神がかり   しかし、明確な人格神はいない。
・占い
・厄除け
統一を遂行した大和朝廷は、出雲大社の大物主神により、その権威を
裏付けさせられた。これにより、各地の子孫祭事は守られ、氏姓制度の
発達となる。天照大神と大物主神の存在、旧来の信仰との調和が必要
となり、神そのものの性質が変化する必要が出てきた。
・漠然たる神秘を持った神々が夫々に特殊な機能を持つ神に分化する。
・人文神、火の神、農業神、太陽神など、の崇拝が高まる。
・これらの神々が人格を備えた人間的な神として具象的な性質を持つ。
多かったシナからの帰化人。これにより、仏教の伝来、政治体制、
衣食住等の生活技術の導入、そして文字の発達(特に、日本書紀の
記述など)が進んだ。特に、漢字の日本語化は日本人の仕事として、
重要である。
(湖西地域は、多分、朝鮮からの帰化人が多く、その遺跡も
多数ある。昔から大いに関係ある地域であるようだ。)
4)上代の宗教心
以下の様な形式を持っていた。
・呪術は精霊をを追い払う。
・神がかりの漠然たる神秘力
・大祓い
これらをキチンと実行するための儀式が出てくる。
・斎瓦をもって神を祀る。
・矛、盾などによる武器による。
・武器そのもの、特に刀剣を」神として祀る。
・鏡を祀る。
これにより、神代史のもっとも重大な説話は、全て、鏡、玉、矛、
剣のどの尊崇空生まれた。
古い儀式からは、単に「祭られる神、自然神」が生まれ、新しい
儀式からは、「神を祀る神、君主としての神、英雄神」が生まれ、
最後に造化神が生まれた。
2つの文化圏からその神話は、並存する。
イザナギの尊は天照大神をを生んでこの神に高天原を統治させる。
⇒大和朝廷の権威の由来
スサノオの尊は大国主の神を産み「地上の国の君主」とした。
⇒多くの神社と民衆から崇められた出雲の大神
しかし、全体性の権威のため、皇室尊崇の宗教として、「皇祖神」
が出てくる。
5)その道徳観
基本は、皇国連綿の道が天下を収めたと言われる。
それは、人間の行為の道徳的意義を天皇への順従という形で、
全体性への帰属が根本となる。
上代の人倫としての罪には、5つあるとのこと。
①畔放ち  溝埋め。農村の共同体、共同作業としては重要
②屁戸   衛生的な面では重要。
③生剥逆剥 家畜などに対する残虐な行為
④上通下通婚 婚姻関係のタブー
⑤馬婚、牛紺、犬紺など 畜犯する。
上代人の善悪の価値とは、「よし」と「あし」で言い表している。
・「よし」は清さであり、「清明心」の概念。
これは「キヨキアカキ」と読まれる。清さは明るさ、明朗性であり、
暗さに対する。汚れなき明るい心である。
更に、清く明るい心とは、共同体の内部において己を全体に帰属せしめ、
なんらの後ろめたい気持ちにも煩わせぬ明朗な心境である。
それに対して、穢い暗い心とは、主我的な衝動によって全体から背き
、後ろめたい気持ちによってひそかに心を悩ますような心境である。
6)造形美術
鏡、武具装飾、埴輪、石壁画、石棺等は全て上代人にとって、美術品
として独立したものではないが、もっとも重大な生活の契機となる
ものである。
・シナの様式を模倣したもの  鏡、瓦、武器、など
・外来の様式を混地得ない   埴輪、石壁画、陶棺など
特に、これらの中でも、鏡が重要である。
その文様は色々あるが、十二支の文字や鳥獣、玄武、清龍、朱雀など
に注意が必要である。
注意すべきは、線、文様の性質の変化である。
和辻哲郎の言う
「この日本民族気概を観察するについては、まず、我々の親しむべく
愛すべき「自然」の影響が考えられなくてはならない。
我々の祖先は、この島国の気候風土が現在のような状態に確定した
頃から暫時この新状態に適応して、自らの心身状態をも変えて行った
に違いない。」
には、大いに納得できる。これが学術的にどうかは、別にして、
時代が、社会が、変わろうと、今の自分含め、人との交流において、
まずは、考えるべきことかもしれない。


「和辻哲郎の古寺巡礼から思う事」
和辻哲郎の風土からも思うが、ヨーロッパの風土、インドの風土、中国の
文化に対する造詣の深さには、感服する。
この古寺巡礼にも、仏教文化を中心とした造詣をベースとした様々な示唆が
見られる。私自身、全くの実力不足ではあるが、古寺巡礼を通したその想い、
感想から、日本人としての原点?について、少し、記述する。
全然、ずれている事も含め、勝手な個人的想いとしてではあるが。
和辻哲郎の基本的日本文化への想いは、最後に良く書かれている。
これらの
文化現象を生み出すに至った母胎は、我国の優しい自然であろう。
愛らしい、親しみやすい、優雅な、そのくせこの自然とも同じく
底知れぬ神秘を持った我国の自然は、
人体の姿に表せばあの観音(ここでは中宮寺観音)となるほかにない。
自然に酔う甘美な心持ちは日本文化を貫通して流れる著しい特徴であるが、
その根は、あの観音と共通に、この国土の自然から出ているのである。
葉木の露の美しさも鋭く感受する繊細な自然の愛や一笠一杖に身を託して
自然に溶け合って行くしめやかな自然との抱擁やその分化した官能の
陶酔、飄逸なこころの法悦は、一見、この観音と甚だしく異なるように
思える。しかし、その異なるのは、ただ、注意の向かう方向の相違である。
捕らえられる対象こそ差別があれ、捕らえにかかる心情には、極めて近く
相似るものがある。母であるこの大地の特殊な美しさは、その胎より出た
同じ子孫に賦与した。我国の文化の考察は、結局我国の自然の考察に歸て
行かなくてはならぬ。
・その基本意識
人間生活を宗教的とか、知的とか、道徳的とか言う風に泰然と区別してしまう
ことは、正しくない。それは、具体的な1つの生活をバラバラにし、生きた全体
として掴むことを不可能にする。しかし、1つの側面をその美しい特徴によって、
他と区別して観察すると言うことは、それが、全体の一側面であることを
忘れられない限り、依然としてひつようなことである。
芸術は衆生にそのより高き自己を指示する力の故に、衆生救済の方便として
用いられる可能性を持っていた。仏教が芸術と結びついたのは、この可能性
を実現したのである。しかし、芸術は、たとえ方便として利用されたとしても、
それ自身で、歩む力を持っている。だから、芸術が僧院内でそれ自身の活動
を始めると言うことは、何も不思議なことではない。
芸術に恍惚とするものの心には、その神秘な美の力が、いかにも、浄福のように
感ぜられたであろう。宗教による解脱よりも、芸術による恍惚の方が如何に
容易であるかを思えば、かかる事態は、容易に起こり得たのである。
仏教の経典が佛菩薩の形像を丹念に描写している事は、人の知る通りである。
何人も阿弥陀経を指して教義の書とは呼び得ないであろう。これは、まず、
第一に浄土における諸仏の幻像の描写である。また、人びとも法華寺経
を指してそれが幻像のでないといいえまい。それは、
まず、第一に佛を主人公とする大きな戯曲的な詩である。観無量寿経の如きは、
特に詳細にこれらの幻像を描いている。佛徒は、それの基づいてみづからの
眼を持ってそれらの幻像を見るべく努力した。観佛は、彼らの内生の
重大な要素であった。仏像がいかに刺激の多い、生きた役目を務めたかは、
そこから容易に理解される。
観世音菩薩は、衆生をその困難から救う絶大な力と慈悲とを持っている。
彼に救われるには、ただ、彼を念ずればよい。彼は境に応じて、時には、仏身
を現じ、時には、梵天の身を現ずる。また、時には、人身も現じ、時には、
獣身をさえも現在ずる。そうして、衆生を度脱し、衆生に無畏を施す。
かくのごとき菩薩は、如何なる形貌を備えていなくてはならないか。
まず、第一にそれは、人間離れした超人的な威厳を持っていなければならない。
と同時に、もっとも人間らしい優しさや美しさを持っていなく絵ならぬ。
それは、根本においては、人ではない。しかし、人体を借りて現れることで、
人体を神的な清浄と美とに高めるのである。

・聖林寺11面観音より
切れの長い、半ば閉じた眼、厚ぼったい瞼、ふくよかな唇、鋭くない鼻、
全てわれわれが見慣れた形相の理想化であって、異国人らしいあともなければ、
また超人を現す特殊な相好があるわけでもない。しかもそこには、神々しい威厳と
人間のものならぬ美しさが現されている。
薄く開かれた瞼の間からのぞくのは、人のこころと運命を見通す観自在のまなこである

、、、、、、この顔を受けて立つ豊かな肉体も、観音らしい気高さを欠かない。
、、、四肢のしなやかさは、柔らかい衣の皺にも腕や手の円さにも十分現されていなが
ら、
しかも、その底に強靭な意思のひらめきを持っている。殊に、この重々しかるべき五体
は、
重力の法則を超越するかのようにいかにも軽やかな、浮現せる如き趣を見せている。
これらのことがすべて気高さの印象の素因なのである。
・百済観音について
漢の様式の特有を中から動かして仏教美術の創作物に趣かせたものは、漢人固有の情熱
でも思想でもなかった。、、、、、、
抽象的な天が具体的な仏に変化する。その驚異を我々は、百済観音から感受するのであ
る。
人体の美しさ、慈悲の心の貴さ、それを嬰児の如く新鮮な感動によって迎えた過渡期の
人々は、人の姿における超人的存在の表現をようやく理解し得るに至った。
神秘的なものをかくおのれに近いものとして感じることは、彼らにとって、世界の光景

一変するほどの出来毎であった。
・薬師寺聖観音について
美しい荘厳な顔である。力強い雄大な肢体である。、、、、、、
つややか肌がふっくりと盛り上がっているあの気高い胸。堂々たる左右の手。
衣文につつまれた清らか下肢。それらはまさしく人の姿に人間以上の威厳を
表現したものである。しかも、それは、人体の写実的な確かさに感服したが、
、、、、、、、、
もとよりこの写実は、近代的な個性を重んじる写生とはおなじではない。
一個人を写さずして人間そのものを写すのである。
なお、和辻哲郎がその美しさを認めている像には、
薬師寺の薬師如来と夢観音あるが、ここでは、省く。
中宮寺観音は、すでに、和辻哲郎の全体の意識の大きな要因として、
記述した。
・阿弥浄土図について
まことにこの書こそ、真実の浄土図である。そこには、宝池もなく宝楼もなく
宝樹もない。また、軽やかに空を飛翔する天人もいない。ただ大きい弥陀の
三尊と上下の端に装飾的に並べられた小さい人物とがあるのみである。
しかも、そこに、美しい人間の姿をかりて現されたものは、弥陀の浄土と
呼ばれるにふさわしいものである。

和辻哲郎から見る風土と日本人、文明生態史観より
梅棹忠夫の文明の生態史観を読んだ。
多くの学者が、西洋と東洋という括りで、アジア対ヨーロッパと言う
慣習的な座標軸で、その発達や文化の違いを論じてきたが、ここでは、
中様と言う考え、例えばイスラム文化などを別世界と考える、を提言
している。そして、さらに、現代の資本主義による高度の近代文明を
持つ地域を第一地域と分類する。第二地域はそれ以外になるのだが、
中国世界、インド世界、ロシア世界、地中海・イスラム世界の4つの
大共同体を考える。
この視点から、各地域で複雑に絡み合い、対立する各地域の文明を
生きた現実世界として、統一的に整理している。
特に、その基盤となるのが、風土に起因しているとの指摘は、和辻の
言っている3つの地域類型と同じ発想とは、中々に面白い。
和辻の風土ほどの深さは無いものの、現代を認識しながらの視点は
考えるべきことでもある。

ーーーーーーーーー
日本が、明治時代を経て、西洋化、文明化?したとは、言え、その本質は
変わっていないはず。様々な人々が、其々の視点で述べている。
和辻哲郎は、モンスーン地域、沙漠地域、そして、地中海を中心とする
牧場地域などを自身の観た感触と全体感覚で、まとめている。
インターネットのよる電脳世界となった今でも、人間が、その生活空間から
脱し得ない限り、この風土との関係はきれないはずである。

我々は、風土において
我々自身を見、その自己了解において我々自身の自由なる形成に向かったのである。
我々はさらに風土の現象を文芸、美術、宗教、風習等あらゆる人間生活の
表現のうちに見出す事が出来る。

1)風土を人間存在の1つとして規定する
人間を根本的に把握する為には、個であるとともにまた全である如き人間存在の
根本構造を押さえベキである。
2)人間存在の二重性格がまず、人間の本質として把握されるならば、時間性と
同時に空間性が見出されねばならない。
3)人間の創る様々な共同態、結合態は、一定の秩序において内的に展開する
ところの体系である。
4)人間存在の空間的、時間的構造は風土性、歴史性として己を現して来る。

以上から、
主体的な人間存在が己を客体化する契機は、ちょうどこれらの風土に在するのである。
そして、人間存在の風土的規定は、(^-^)/、、、するための連関(^-^)/
となる。
従って、主体的なる人間存在の型としての風土の型は、風土的、歴史的現象の
解釈のみえられる。人間の存在認識と構造の把握は、風土の型を捉える必要がある。

ここでは、類型を3つに分類している。
・モンスーン地域
一般的にモンスーン地域の人間の構造は、その風土の激しさから受容的忍従
的と考える。その構造は湿潤。特にインドの人間において文化的に、歴史的
感覚の欠如、感情の檄性、意力の弛緩として現れている。
インドの想像力の特性は、(^-^)/本生評である。そこでは、あらゆる生物が、人間
含めての衆生がその共通の生にて描かれる。
即ち、様式的には、全体として明白さを欠き、非構造的である。
これは、西洋の人間中心主義的な芸術的統一とは全く異なる。
・沙漠地域
沙漠を人間のあり方として考えると、人間が個人にして同時に社会的で
あり、その具体性においてはただ人間の歴史的社会にのみ現出する。
沙漠の本質は、乾燥、と考える。従って、渇きであり、水を求める生活となる。
これにより、対抗的戦闘的な関係が在する。特にそれは、その共同体において
明白である。
沙漠の民の特性は、思惟の乾燥性、意力の強固さ、道徳性傾向の強烈さ、
感情生活の空疎(心情優しさや暖かさの欠如)と言われている。
・牧場地域
これは、ヨーロッパを中心とした風土であるが、湿潤と乾燥との総合と
考えられる。ただ、乾燥期の特徴は、地中海、特に、イタリアによく
現れているが、フランスやドイツではまた異なる風土が存在する。
そのため、その地域の文化形成は、歴史的、風土的な制約をうけるものの、
その風土的な限界を超えて形成できる事を、ギリシャやイタリアの文化
から、知り得るものでもある。

・日本の場合
日本でもモンスーン的な風土類型を逃れる事はできない。
受容的、忍従的である。ただ、その受容的性格は、少し違う。
まずは、熱帯的、寒帯的であり、しかも、季節的、突発的でもある。
所謂、台風的なのである。
しめやかな激情、戦闘的な快活なのである。

しかし、これらを、個人にして社会である事に関して見ると、
共同体の作り方に現れて来る。
家族としての、間、は先ほどの3つの類型とは、明白に違う。
(^-^)/家がその共同体としての家族的な生活の基本となる。
(^-^)/家は家族の全体性を意味する。
家族の全体性が個々の成員よりも先に位置付けられるのである。
家こそが、先ほどのしめやかな激情、戦闘的な快活と言う間柄
を顕著に発達させたのである。
そのため、日本におけるうちとそとは、重要な意味を持つ。
それは、
個人の心の内と外であり、
家屋の内外であり、
国あるいは町の内外である。
これが、ヨーロッパと大きく違うところである。日本人は外形的には
ヨーロッパの生活を取り入れたが、家に規定されている個人主義的
社交的なる公共生活は、全く取り入れていないと言える。
これは、宗教的な信念や人間としての隔てなき結合の尊重となている。
すなわち、日本の人間がその全体性を自覚する道も、実は、家の全体性を
通じてなされる。
古代から、人間の全体性は、まず、神として把握されてきた。そして、
それは、国家という枠組みが出来ていない古代では、最も、素朴的な
全体性の把握であるが、不思議にも、その素朴な活力が国史を通じて
行き続けている。それを示す歴史的な証左は、多く見られる。例えば、
明治維新、天皇の存在など。
原始社会における宗教的な全体把握が高度文化の時代になお社会変革の
動力として行き続けているのである。
すなわち、日本の国民は皇室を宗家とする一大家族なのである。

日本の家に、図らずも、その表徴が見える。
それは、各々の室が独立性を保った家としてに作りになっている
ヨーロッパの建物と比較するとよく分かる。そこでは、カフェが茶の間であり、
往来は廊下である。鍵を持って個人が社会から己を隔てる一つの関門を出れば、
そこには、共同の食堂や共同の庭がある。
日本には、明らかに、家、がある。廊下は全然往来となることはなく、その
関門としてお玄関は内と外を別にしている。我々は、玄関に入る時は、
脱ぎ、履くことを要する。食堂や茶の間はあくまでも私人的であり、
共同の性格を帯びることはない。家は毅然と外なる町に対して己を区別
しているが、しかし、その内部においては、室の独立という如きは、全然
ないのである。室を隔てるのは、襖と障子であるが、防御的対抗的、
へだて、の表現はない。すなわち、へだて、の意志が他の人によって
常に尊重されるという相互の信頼に基づくのである。襖や障子は、むしろ、
隔てなき意志を表現しつつ、そのへだてなさの上において、ただ室を仕切る
だけのものなのである。
表面的には、精錬されたビル群が林立しようと、根本的に、日本の源流は
しっかりと生きていいる。


(^-^)/芸術の風土的性格
古寺巡礼には、ここで指摘の事がベースとなっており、基本的な考え方は
理解しておく必要がある。

人間の本性に根ざし従ってあらゆるところに働ける芸術創作力が
如何にして民族と時代とにより異なる種々の芸術を創り出すのか?
ここでは、2つの問題を指摘している。
・(^-^)/ところによって異なる芸術
・(^-^)/ときによって異なる芸術
それが明確に現れているのが、庭園への取り組みである。
ヨーロッパの庭園は、ただ、自然のままの風景であるが、日本の庭園は、
決して自然のままではない。
また、絵画や工芸品の表現でも、大きな違いがある。
ヨーロッパの規則正しい模様に対して、日本のそれは、一見デタラメの様であるが、
規則正しい模様以上の妙味がある。これは、茶の湯、歌舞伎、そして仏教美術
にさえも現れている。

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