2016年1月24日日曜日

伝統工芸への想い

「「手仕事の日本」から想う」
30年ほど前に書かれた柳宗悦の「手仕事の日本」。
もし、精神文化で理解を深めたと言うのであれば、和辻哲郎の「日本古代
文化」であり、地域の持つ文化や一般生活での具体的な形を知るという
点では、この「手仕事の日本」と思っている。終戦と言う大きな節目から
日本社会、日本人そのものが変わりつつあるのは、残念なことであるが、
意識の底流には、まだ数千年の共通的な感覚は残っているのであろう。
「手仕事の日本」で、それを感じるのも、これからの自分にとっても、
有意義なことと思っている。
以下に、「手仕事の日本」からの記述を示す。
今でも、充分考えさせられる内容であることが分かると思う。そして、
我々が如何に、自然との協奏の中にいる事を、強く感じる。
「あなた方はとくと考えられたことがあるでしょうか、今も日本が素晴らしい
手仕事の国であるという事を。
西洋では、機械の働きがあまりにも盛んで、手仕事の方は衰えてしまいました。
しかし、それに片寄りすぎては色々の害が現われます。それで各国とも手の技を
盛り返そうと努めております。なぜ機械仕事と供に手仕事が必要なので
ありましょうか。機械に依らなければ出来ない品物があると供に、機械では、
生まれないものが数々あるわけでありす。全てを機械に任せてしまうと、第一に
国民的な特色あるものが乏しくなってきます。機械は世界のものを共通に
してしまう傾きがあります。それに残念なことに、機械は兎も角利益のために
用いられるので、出来る品物が粗末になり勝ちであります。それに人間が
機械に使われてしまうためか、働く人からとかく悦びを奪ってしまいます。
こういうことが禍して、機械製品には良いものが少なくなって来ました。
(現在の高度に精密加工できる工作機械と熟練の技では、この指摘は、必ずしも
正しくはない。しかし、この文意にもあるが、昨今のグローバリぜーションの
拡大で、「国民的な特色が乏しくなる」と言う点を真摯に受け取ると、
日本文化をキチンと承継し、高めていくにはこの指摘は重要である)
しかし、残念なことに日本では、かえってそういう手の技が大切なものだと言う
反省が行き渡っていません。それどころか、手仕事などは時代に取り残された
ものだという考えが強まってきました。そのため多くの多くは投げやりに
してあります。このままですと手仕事は段々衰えて、機械生産のみ盛んに
なる時が来るでしょう。しかし、私どもは西洋でなした過失を繰り返したくは
ありません。日本の固有の美しさを守るために手仕事の歴史を更に育てる
べきだと思います。
今日眺めようというのは、他でもありません。北から中央、さては西や南に
かけて、この日本がいまどんな固有の品物を作ったり用いたりしているかという
ことであります。これは何より地理と深い関係を持ちます。気候風土と離れて
しなものは決して生まれてはこないからです。どの地方にどんなものが
あるかという事を考えると、地図がまた新しい意味を現してきます。、、、、
こんなにも様々な気候や風土を持つ国でありますから、植物だとて鳥獣だとて
驚くほどの種類に恵まれています。人間の生活とても様々な変化を示し、
各地の風俗や行事を見ますと、所に応じてどんなに異なるかが見られます。
用いる言葉とて、夫々に特色を示しております。これらのことはやがて各地で
作られる品物が、種類において形において色において、様々な変化を示す
事をかたるでありましょう。いわば、地方色に彩られていないものは
ありません。少なくとも日本の本来のものは、それぞれに固有の姿を持って
生まれました。
さてこういうような様々な品物が出来る原因を考えて見ますと、2つの大きな
基礎があることに気付かれます。一つは自然であり、一つは歴史であります。
自然と言うのは、神が仕組む天与のもであり、歴史と言うのは人間が開発した
努力の跡であります。どんなものも自然と人間との交わりから生み出されていきます。
中でも、自然こそは全ての物の基礎であるといわねばなりません。その力は
限りなく大きく終わりなく深いものなのを感じます。昔から自然を崇拝する
宗教が絶えないのは無理もありません。日rんを仰ぐ信仰や山岳を敬う信心は
人間の抱く必然な感情でありました。、、、、、、
前にも述べました通り、寒暖の2つを共に育つこの国は、風土に従って多種多様な
資材に恵まれています。例を植物にとるといたしましょう。柔らかい桐や杉を
始めとして、松や桜やさては、堅い欅、栗、楢。黄色い桑や黒い黒柿、節のある
楓や柾目の檜、それぞれに異なった性質を示してわれわれの用途を待っています。
この恵まれた事情が日本人の木材に対する好みを発達させました。柾目だとか
木目だとか、好みは細かく分かれます。こんなにも木の味に心を寄せる国民は
他にないでしょう。しかしそれは全て日本の地理からくる恩恵なのです。
私たちは日本の文化の大きな基礎が、日本の自然である事をみました。
何者もこの自然を離れて存在することが出来ません。
(このような指摘は、様々な人が言ってきた。
例えば、和辻哲郎は、言う。
「この日本民族気概を観察するについては、まず、我々の親しむべく
愛すべき「自然」の影響が考えられなくてはならない。
我々の祖先は、この島国の気候風土が現在のような状態に確定した
頃から暫時この新状態に適応して、自らの心身状態をも変えて行った
に違いない。もし、そうであるならば、我々の考察する時代には、既に、
この風土の自然が彼らの血肉に浸透しきっていたはずである。
温和なこの国土の気候は、彼らの衝動を温和にし彼らの願望を
調和的にならしめたであろう。」と。
そして、美濃和紙や各地の和紙、有田から備前などの焼き物、木曾檜の
木工品など結構好きで、旅したときはその地方の工芸品を見たり、
買ったりしてきたが、それらがその地域の自然と切り離しては、成り立たない、
と言うことをその度に、感じたものである。)
しかし、もう1つ他に
大きな基礎をなしているものがあります。それは一国の固有な歴史であります。
歴史とは何なのでしょうか。それはこの地上における人間の生活の出来事であります。
それが積み重なって今日の生活を成しているのであります。、、、、、、
どんなものも歴史のお陰を受けぬものはありません。
天が与えてくれた自然と、人間が育てた歴史と、この二つの大きな力に
支えられて、我々の生活があるのであります。
我々は日本人でありますから、出来るだけ日本的なものを育てるべきだと思います。
丁度シナの国ではシナのものを、インドではインドのものを活かすべきなのと、
同じであります。西洋の模造品や追従品でないもの、すなわち故国の特色あるものを
作り、またそれで、暮らすことに誇りを持たねばなりません。たとえ西洋の
風を加味したものでも、充分日本で咀嚼されたものを尊ばねばなりません。
日本人は日本で生まれた固有のものを主にして暮らすのが至当でありましょう。
故国に見るべきものがないなら致し方ありません。しかし幸いなことに、
まだまだ立派な質を持ったものが各地に色々と残っているのであります。
それを作る工人たちもすくなくありません。技術もまた相当に保たれている
のであります。ただ残念なことにまえにも述べたとおり、それらのものの
値打ちを見てくれる人が少なくなったため、日本的なものはかえって等閑に
されたままであります。誰からも遅れたものに思われて、細々とその仕事を
続けているような状態であります。それ故今後何かの道でこれを保護しない
限り、取り返しのつかない損失が来ると思われます。それらのものに
再び固有の美しさを認め、伝統の価値を見直し、それらを健全なものに
育てることこそ、今の日本人に課せられた重い使命だと信じます。
(ここ数年、伝統工芸品、工芸品への理解が高まり、各地で若い職人と
大学などとのコラボやデザイナーの積極参加で伝統工芸の技や素材を
活用した新しい製品造りが盛んになっている。私の近くでも、京都の
工芸のスキルを織物や木工品に適用して、今までにない形でのものの
提供を図っている人々が多くなっている。日本文化の発信として、国
全体としての取り組みが少しづつ具体的な形になって来たのであろう。
また、民間でも、企業ベースで、地域の工芸技術を活用した様々な
製品が創出されている。これを更に大きなうねりとすることが柳さんたちの
想いを結実することとなろう。それは、また、最近忘れ去れつつある
日本文化の見直しとその原点の認識を更に、多くの人に理解してもらい、
より精細な文化創造物を生み出すことの推進力にもなる


「手作りへの思いとモノづくり日本」
最近、手作り品、手仕事の品への評価が高まっている。
そこには、機械的に作られ安さのみを追求した合理性の完成品への
反発と人間性欠如への抵抗がある。また、それらを望む成熟社会で
生きてきた余力と目利きのよさを背景とする顧客層の拡大が
大きい。京都では、伝統工芸品として、何百件の認定品がある。
また、それらを活かしきる技術が継承してきたことも大きい。最近、
デザイナーと上手く組み、イタリアを中心とするヨーロッパに日本の
伝統工芸品として、認知度を更にアップさせ、ビジネスとしても、成功
している職人が増えつつある。この人たちは、職人と言うよりも、工芸
作家と呼ぶべきかもしれない。
最近、お話を聞いた「桶」製品も自然との調和を基本とする日本人特有の
繊細さと素材を徹底的に活かしきる技の集大成から新局面を迎えつつある。
全体の持つフォルムや美しい杉の香り出し、1点の隙もないその滑らかな
側板のつながりなど、その基本的な技を「桶」と言う常識の中で具現化
するだけでなく、テーブルや街灯、花瓶へと進化させている。
私たちには、素材の放つ高野槇、木曾サワラ、木曾檜、吉野杉の匂いを感じ、
滑らかな手触り、そのフォルムの美しさを見て、手作りの凄さを
身をもって知っている。それは、多くの工芸品と呼ばれるものにある
自然との調和を原点とした日本人の持つ共通した特性であり、まだ我々の
中に、存在している事をあらためて認識する。
多分、手作りとしての繊細さと素材を活かしきることへの情熱が、
「ものづくり日本」の原点ではないのだろうか。確かに明治以降、西洋
の技術と考え方を基本として、工業国への邁進を進めてきたとは言え、
精神的な基盤としての日本人の特性は、脈々と受け継がれてきた。
それが、今の日本を支えていると思う。
これを理解するため、工芸品、民芸品に強い想いを持っていた柳宗悦
について考えて見たい。
伝統工芸品と民芸品の違いが良く質されるが、
伝統工芸は、法律的には通産省認定の産地で工芸士資格保持者が作った物
という定義がある。広義では日常民具の域を超越した、技巧的な産品という
意味の工芸品である。そして、民芸品は日常民具の範囲内で、美術的価値を
持っていてはいけないとされている。柳宗悦の「民衆的工芸」による定義
があるが、あくまでも民具に焦点を当てただけで、民具が美術品以上に評価
され、美術品同等に高価で取引される事を良しとしたわけではない。
更に言えば、「伝統工芸品」とは、日常生活の中で古くから使われてきた
工芸品であり、今もなお伝統的な原材料を使い、伝統的な技術・技法により
手工業的に製造されている工芸品となる。
柳宗悦率いる「民芸運動」の中で、彼らが訴えたのも「用の美、使われてこその
美しさ、日常にあってこその工芸品」である。
陶芸の分野では、河合寛二郎、浜田庄司、バーナードリーチなどが運動
(というか思想)に賛同している。
日本では、出来のいい工芸品は美術品として扱われることも多いので、その辺の格差が
ない分、なんだか桐の箱に鎮座させて「もったいなくて使えない」とか「傷なんかつけ
たら鑑定で金額が下がるから」などの理由で使わないのだろうが、本末転倒の極みと
いえよう。
更には、国の伝統工芸品として指定を受けるためには、「主として日常生活で使われて
いる」「製造過程の大部分が手作り」「伝統的技術または技法(およそ100年以上)
によって製造」「伝統的に使用されてきた原材料を使用」「一定の地域で、ある程度
の産地を形成」という5つの要件が必要となる。
柳宗悦は、昭和初期に興った民芸運動の中心的存在と言っていいだろう。
 彼は"民芸"という言葉を使った(作った)。民芸とは、簡単に言えば日常的に使う
道具、民衆的工芸という意味。 著者は20年近くの歳月をかけて、北海道を
除く全国(沖縄含む)に赴いて調査したという。
「手仕事の日本」と言う本では、次第に日本各地から失われてゆく伝統的な手仕事
(民芸品)を記録している。現代では民芸品というと高価な芸術品というイメージが
あるけれども、柳のいう民芸品とは、あくまでも(当時)庶民が日常的に使っている
道具、いわゆる実用品・日用品である。彼の審美眼に適った道具とそれらに
施された美しさを探っている。
しかし、本書はたんに手仕事を記録し紹介する本ではなく、手仕事を通じてその
背景にある日本的な美、日本的な文化と精神、日本と各地方のあり方、日本及び
日本人の指針を書いたでもある。
日常生活ではまず見ることがないけれど、いまでも民芸品として作られている物
もあれば、郷土館か博物館へ行かなければもはや見れないような物もある。
文章だけではいったいどんな物なのか想像できないような物もある。例えば、
囲炉裏関係の道具とか背負籠、蓑や雪帽子等、いまの生活には必要なくなり、
廃れたものもある。職人は自分の仕事に誇りを持っているため、仕事を疎かに
しない。自分の名を誇るのではなく、仕事を誇るからだと言う。
この場合、味わいは愛着とは違う。 古くなっても使用に耐えられる美しい物と
古くなると使えなくなり醜くなる物があると言えよう。
柳宗悦にとっての美しさとは何なのか。端的に言えば、著者は"健康な美しさ"だ
と言う。変に懲りすぎると美しくない物が多い。また、見てくれに走って、使い勝
手が悪かったりする。 良い物は見た目がシンプルな物が多いように思われる。
シンプルでムダがない。
以下の様なコミュニティもある。参考に、
https://m.teshigoto.biz/sanchi/map/index


『とと姉ちゃん』ファンも必見! 「民藝」のスーパースター物語

DMA-photo_yanagi_663民藝の父、柳宗悦
「用の美」と称えられ、素朴な美しさで広く親しまれている民藝――。今ではすっかりおなじみになっていますが、民藝は大正時代の末に登場した新しい美意識です。生みの親は柳宗悦であり、彼と同じ美に対する認識をもっていた陶芸家の濱田庄司や河井寬次郎らとの語らいの中から、民衆的工芸を略した「民藝」という言葉がつくられたのです。その民藝の7大スーパースターを、2回に分けてご紹介しましょう。

この人がいなかったら
生活を豊かにする「用の美」は
生まれなかった!

民藝の父・柳宗悦(やなぎむねよし)

 まずは、「民藝の父」と称される柳宗悦の足跡を簡単に振り返ってみましょう。
 明治22(1889)年に東京麻布で生まれた柳は、学習院高等科のころ、後に文豪として名を馳せる武者小路実篤や志賀直哉らと文芸雑誌『白樺』を発刊。『白樺』は小説のみならず、西洋美術を積極的に取り上げ、その中心的役割を担ったのが柳でした。
 その後、東京帝国大学哲学科を卒業した柳は宗教学者として世に出ます。当時、柳はイギリスの宗教詩人で画家であったウィリアム・ブレイクの、おのれの直観を重視する思想に大きな影響を受け、芸術と宗教に基づいた独自思想をもつようになります。
 このころ、柳の人生は朝鮮から訪れた青年によって大きく旋回します。手みやげであった李朝の小さな染付の壺を見た柳は、そこにまったく新しい美を発見。朝鮮の民衆雑器への興味を募らせて朝鮮半島へ行き、多種多様な工芸があることに感銘を受けます。
 さらに、江戸時代に諸国を遊行した僧・木喰(もくじき)がつくった仏像に惹かれた柳は、日本各地を訪ね歩く旅の途で、地方色豊かな工芸品の数々や固有の工芸文化があることを知ります。そのころ出会ったのが濱田や河井で、彼らと美について語らううち、「名も無き民衆が無意識のうちにつくり上げたものにこそ真の美がある」という民藝の考え方が定まるのです。
 民藝の特性を柳は「実用性、無銘性、複数性、廉価性、地方性、分業性、伝統性、他力性」の言葉で説明。柳の求める美は民藝運動へとつながり、研究や批評をするだけでなく、全国に残る手仕事を訪ね歩き、生活全般にわたって用いることによって実践。蒐集した民藝品を展示する「日本民藝館」を東京の駒場につくり、その功績を伝えています。
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民藝と出合い、独自の造形を追求し、
生涯を一陶工としてまっとう

河井寛次郎(かわいかんじろう)

 中学生のころから陶芸家を志していた河井寬次郎は、島根県の安来(やすき)から東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科へ進学。2学年下には濱田庄司がいて、卒業後に技師として入所した京都市立陶磁器試験場では同僚として、ともに釉薬の研究にいそしみます。
 やがて、京都市五条坂に工房「鐘溪窯(しょうけいよう)」と住居を構えた河井は、初の個展で東洋古陶磁の技法を駆使した作品を発表し、技術と完成度の高さで好評を博します。しかし、河井自身は次第にみずからの作陶に疑問を抱きはじめ、同時期に柳宗悦から酷評を受けたことも、迷いに拍車をかけたとされます。
 その後、濱田がイギリスから持ち帰ったスリップウエアと呼ばれる陶器を見た河井は、日用の器に自分の本分を見出し、疑問を解消。濱田を介して柳と出会うと、過去のわだかまりを超えて理解し合い、民藝運動へとのめり込んでいくことになります。
 人気を博した中国古陶磁のスタイルから、日本民窯のモチーフをふんだんに取り入れるようにして、河井の作風は一変。「用の美」を意識した、暮らしに溶け込んだ品々を数多く生み出します。
 第二次世界大戦の最中は作陶が中断されますが、戦後に再開すると、ため込んでいたエネルギーを放出するかのように意欲作を連発。生命感にあふれた力強い器や、不思議な造形を手がけ、民藝の枠を超えた新たな美へ作風を広げます。
 その芸術性は国内外で高く評価されるようになり、文化勲章や人間国宝に推挙されるも、ことごとく辞退。河井は最期まで賞や名誉に関心を示すことなく、一陶工としてやきものと向き合ったのです。
河井

河合寛次郎の作品は、どこかモダンでオリジナル性が光ります!

右上/河井が愛した赤い釉薬の「辰砂筒描角筥」1950年 右下/「白地丸文隅切鉢」1939年 左上/戦後のエネルギッシュな作風を代表する「三色打薬茶碗」1963年 左下/3種類の粘土を重ねてつくられた「練上手鶉文角鉢」1934年(写真はすべて日本民藝館)
DMA-濱田庄司photo

柳宗悦の右腕として
民藝運動を支えた
イギリス仕込みの陶芸家

濱田庄司(はまだしょうじ)

 柳宗悦、河井寬次郎とともに民藝運動を初期から推進した濱田庄司は、近現代の日本を代表する陶芸家です。
 みずから「京都で道をみつけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った」と振り返っているように、濱田の作陶家としての生涯は4つの土地を抜きにして語ることはできません。
 東京高等工業学校窯業科に入学した濱田は上級生であった河井寬次郎という終生の友を得て、卒業後は河井と同じく京都市立陶磁器試験場に入所します。
 このころ、個展で出会ったイギリス人陶芸家、バーナード・リーチを千葉県我孫子の柳宗悦の家に訪ねたことから、柳とも親交を深め、大正9(1920)年にリーチとともに渡英。セント・アイヴスのリーチのもとで作陶生活に没頭した約3年半の間に、濱田はその土地固有の素材を用いることと、伝統を生活や作陶に生かすことを学びます。
 帰国後、濱田はまっすぐ京都の河井邸に向かい、そのまま滞在。柳と河井を引き合わせ、この3人が中心となって民藝運動を推進することになるのです。
 濱田の日本での作陶は、沖縄の壺屋と栃木県益子で始まります。沖縄には長期滞在し、イギリスで学んだ作陶法を実践し、伝統的な壺屋焼にならった作を残しています。また、生活に根差した制作の場を求めて移住した益子では多くの古民家を邸内に移築し、作陶に没頭。ほとんど手轆轤(てろくろ)のみでつくるシンプルな造形と、釉薬の流描による大胆な模様などの作風を追求しました。
 柳の没後、濱田は「日本民藝館」第2代館長に就任。終生を民藝に捧げたといっても過言ではありません。
濱田

生活に根差した作陶意識を反映した、濱田庄司の堅実で力強い器

いずれも作陶の拠点であった益子の土と釉薬をもちいたもので、力強く健康的な作風に特徴がある。右上/「柿釉青流描角鉢」1954年 右下/「白釉黒流描鉢」1960年代 左上/「藍塩釉櫛目鉢」 1958年 左下/「白釉鉄絵丸文壺」1943年(写真はすべて日本民藝館)
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日本と西洋を結び、
民藝運動を海外に紹介した
イギリス人陶芸家

バーナード・リーチ

 陶芸家としてはもちろんのこと、民藝運動における様々な橋渡し役を務めたバーナード・リーチは、日本の民藝の発展を考えるうえで欠くことのできないイギリス人です。
 香港で生まれ、誕生後間もなく母と死別したリーチは日本にいた祖父のもとで暮らした経験がありました。イギリスに移り、ロンドン美術学校に通っているとき、詩人で彫刻家の高村光太郎と知り合い、小泉八雲の著書を読んだことから日本への憧れを強く抱くようになります。
 明治42(1909)年、22歳になっていたリーチはついに来日。文芸雑誌『白樺』の同人と交流を深め、リーチが開いていたエッチング教室に通っていた柳宗悦とはウィリアム・ブレイクや陶磁器に関する話で盛り上がり、芸術に関する思想的な影響や刺激を与え合う生涯の友となります。
 また、樂焼に興味をもったリーチは、六世尾形乾山に入門。大正6(1917)年には千葉県我孫子の柳邸内に窯を築いて、陶芸家としての活動をスタートさせています。
 約10年の日本滞在の後、リーチは濱田庄司を伴って帰国。イギリス南西部のコーンウォール半島のセント・アイヴスに日本風の登窯を築き、リーチ工房を設立します。イギリス現代陶芸の祖として、また、民藝運動の思想を海外へ普及させる伝道師として、大きな役割を担いました。
 リーチの作風は西洋陶器の伝統的な手法であるスリップウエアと、東洋陶磁の技術を融合させたところが特徴です。身近な人物や旅先の風景などを題材にしたエッチングや素描作品も残されています。
リーチ

イギリス人のセンスと日本の民藝との絶妙なハーモニーが光る!

右上/躍動感に満ちたうさぎが印象的な「楽焼莵文皿」1919年 右下/リーチ工房でつくられた「ガレナ釉線彫水注」1922年 左上/「楽焼緑釉筒描茶器」1919年 左下/エッチング作品「岩図(軽井沢)」1919年(写真はすべて「日本民藝館」)
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