2016年1月24日日曜日

近江の文学

「滋賀の文学地図」(朝日新聞大津支局編)にも、多くの近江文学の紹介がある。
「湖の風回廊」「におの浮巣」からまとめる。

1)湖の琴(水上勉)
余呉湖と木之本西山、大音の琴糸生産に絡む人々が寒村の娘を中心に女の哀れ
とともに、情景豊かに描かれている。
「大けな湖やな。若狭の海と変わらん」
「でもな、余呉の湖は、こんなに広い事はあらへんえ・小ちゃな湖や。まるで沼みたい
な、ふかいとこや。琵琶湖よりもおとなしゅうて、美しい湖や。」
「渡岸寺へ詣って、観音さんの美しさに見惚れたあとで、あの娘を見ましたんやな。」
渡岸寺の十一面観音がこの作品には良く出てくる。
「きくは、山の中をまだ馴染まない主人につれられて歩いて来たので、心細かったが、
急に視界が開け、南側に大きな湖と小さな沼のような湖がみえたので、びっくりした
ように眺めていた。南の琵琶湖は、白くて、海のようにひろがっているけど、北の
余呉の湖は、まるで擂り鉢の底のように低く沈んでいた。」

2)戦国幻想曲(池波正太郎)
湖北町の山本城に生まれた槍の名人勘兵衛を中心に銭ヶ岳周辺を描いた。

3)星と祭(井上靖)
娘と父親が琵琶湖で亡くなった二人が湖岸の十一面観音を巡礼。
高月や木之本町の十一面観音を美しく描いている。
「ただ、現在この十一面観音がここにあるということは、これを尊信した
この土地の人の手で、次々に守られ、次々に伝えられて、今回に至ったと
言う事であろう。架山はこれまでにこのような思いに打たれたことはなかった。」
「まず、善隆寺の観音様、そして、宗正寺の観音様、医王寺の漢音様、鶏足寺の
、、、、、。湖は月光に上から照らされ、その周辺をたくさんの十一面観音で
飾られていた。これ以上の荘厳された儀式というものは考えられなかった。」
更に、大津坂本の盛安寺の11面を拝してもいる。
「微かに笑っているようなふくよかな顔、がそこにある。京都や奈良の大寺でみる
取り澄ました顔の仏像にはない温かい息づかいが肌にふれてくる。、、、、、
湖畔にたたずむ十一面観音像の美しさは、単に造形的な美しさではない。それぞれの
生活が営まれるそれぞれの土地に、見過ごしてしまいそうな小堂があり、その
中央の厨司の中に大切にまつられ、お守りされている観音像、そこに住む人の
生活の歴史が、像の皮膚に染み込んでいる様に思われる。これが生きた息づかい
と感じられ、自然にこちらも微笑せずにはいられなくなるふくよかな微笑み
として現われるのである。盛安寺11面観音像は、その後、かっての観音堂
のすぐうしろに建設された収蔵庫のなかに、いまもひっそりと立っている。

4)竹生島心中 青山光二
心中にいたるまでの心境が美しく描かれている。
八日市、近江八幡(とくに明治末期の情景が詳しい)、長浜の町が登場する。

5)酒呑童子異聞(佐竹昭広)
伊吹山周辺の伊吹童子の言い伝えを描いた。山の伝説を調査した柳田國男
からはヤマト政権に追われた山の住人たちの悲哀ともしている。

6)日本百名山(深田久弥)
深田は50年ほどの登山歴の中から、名山としての基準を三つ設定し、それに
当てはまる百座を選んだ。三つの基準とは、山の品格、歴史、個性、
そして付随的に標高1500メートル以上。百名山の一つの伊吹山について、
「私たち山好きの間には、「老年の山」と称するのがある。若く元気な時に困難な
山登りをして易しい山は老年のためにとっておく。伊吹山もその、「老年の山」
の1つであった。いつでも行けると思うと、自然後回しになる。」
また、伊吹山は薬草の山として知られている。

7)宗方姉妹(大仏次郎)
戦後間もなく満州から引き揚げてきた宗方一家とその周辺を描いている。
長浜の曳山祭りを鮮やかな色彩の思い出として描いた。作品の中には、示唆ある言葉も
多い。
「昔の人間が造って残してくれたものは、いつまで経っても大切」
「町の中に美しい川を持つのは、都市として他に取り換えるもののない幸福
なことである。」
「日本間は、何もおいていなくとも心が鎮まるようにできている。ヨーロッパの生活は
置くものがなければいけないでしょう。欲が生活様式の基礎になって、背負ってきた荷
物がだんだん重くなって、邪魔になって、動きが取れなくなる」
また、書かれている会話の言葉が美しい。最近の簡略化し、情緒のない言葉に慣れた人
にとっては、大いに参考になるのでは。
ラリックのガラス花瓶についての美しい記述もある。
「ガラス細工にしては厚みのあるどっしりとした花瓶で、水色に葉飾りを彫刻してある
のが光の当たる調子で美しく淡い紅いの色が浮いて出るのを、宏は電燈の下で動かして
見せた。」
なお、近江には山車を伝える地域は20か所ほどある。
長浜、米原曳山、大津、日野祭り、水口曳山、大溝祭り、五個荘、安土老蘇、近江八幡
など。
さらに、大仏次郎は大の猫好きであった。家には、招き猫や眠り猫の愛像が
たくさんあったとのこと。

8)一豊の妻(永井路子)
山之内一豊の妻の話であるが、長浜坂田を描いている。
千代の性格や行動が描かれている。近江町の長野家で住まいしていた。
山内一豊の居城であった長浜城。

9)瞼の母(長谷川伸)
米原付近の番場の蓮華寺を舞台。

10)絹と明察(三島由紀夫)
彦根にある近江絹糸の労働争議を描いたモデル小説。女工哀史として有名となった。
私物検査の即時停止や結婚の自由を認めよなど人権争議となり、熾烈を極めたが、
ストから106日目組合が勝利して終結した。
「暗い階段をいくつも昇る。鉄砲狭間の三角四角、矢狭間の短冊形の、小さな
光りの破片がいくつも足下に落ちる。ついに最上階に来て、人ごみを分けて
西の窓を覗くと、琵琶湖はうららかに展け、網代の小柴が点々と見える。
眼下の湖畔に、駒沢紡績の煙突が煙をあげている。
もっとも眺めの良いのは、南の窓である。岡野はその窓辺を離れる気になれなかった。
一望の下にある犬上平野は、芹川の川向こうから、徐々にまばらになる人家の
あいだに、冬菜の畑や刈田のひろがりを際限もなくつづけ、観音寺山の霞む山頂に、
いくら巻いてもはねかえる卒業免状の紙のような、固い冬の雲の幾巻きを置いていた。
窓のすぐ上の空を鳶がめぐり、窓框かまちに光る蜘蛛の巣がキチンとした綻びのない
図形を掲げていた。その蜘蛛の網までが、追憶の正確な形を保っているように
思われたので、岡野はヘルダリアンの追想の一節を口ずさみ、こんな小春日
のなかで、詩が突然、鋭い殺人の道具に変貌する様を思い描いた。」


11)石田光成(尾崎士郎)
彦根近くの佐和山上跡を思い、敗者の光成への思いを描いている。

12)春(島崎藤村)
関西漂泊の旅から始まる自伝的な小説であり、石山、彦根、八日市などを
描いている。恋に悩み、生に悩み、芸術に悩む青年たちを通して、遂には
「自分のようなものでも生きたい」という想いで。東北に旅立っていく
自分の姿を描いている。石山寺の春が疲弊した藤村にとっての大きな慰めであった。
「職業を捨て、友達と離れて、半年の余も諸国を流浪して来たということは、
岸本が精神の内部をよく説明していた。琵琶湖に近い茶丈の生活はまだ岸本の
眼にあった。」
藤村の憧れた松尾芭蕉や紫式部への想いが石山寺への滞在ともなっている。

13)花の生涯(船橋聖一)
彦根藩井伊直弼の生涯を描いた小説。彦根の袋町、多賀大社、埋木舎、清涼寺
を描いている。
「長い雨季の終わり。
夕空は久しぶりに伊吹山の山頂まで、くっきり晴れわたって見えたが、芹川の
水は見違えるほど水嵩を増していた。堤の東は、袋町の花街である。」

14)危険な水系(斉藤栄)
琵琶湖の死体からその謎を解くミステリーだが、琵琶湖にある三つの
潮流をひんとにしたり、多賀大社のお守りをヒントとしている。

15)干拓田(早崎慶三)
近江八幡から安土をまたぐ大中の湖を描いている。
「安土に野に広がり、湖周は深い葦原で行行子と句の上で呼ばれる
葦きりが、さしひきする潮波のさまで囀り合う初夏には水辺一面
目の覚める鮮明さで、まっ黄く、ひつじぐさ科の河骨が息吹をあげる。
水面四、五寸抜き出たその一輪花の群れを、かき分けるようにして
野菜舟が櫓べそを軋らせて通う。、、、冬は鴨が舞い降り、青葦は
乾いて野晒しの骨の擦れ合う佇しみの中にも飛沫をはねて鯉の躍る
音がする。深々と納まり、ひそやかに呼吸する水郷であった。」
大中湖の干拓により追われた漁師の悲哀がある。

16)古城物語(南条範夫)
安土城を作った男の半生。安土城の鬼門櫓などの短編集。

17)安土往還記(辻邦生)
安土城を訪問したポルトガル通訳の人の語りから織田信長の心の底にある
孤独や虚無を知る。

18)筏(外村繁)
五個荘の近江商人の一族を数代にわたり描いた「草筏」「筏」「花筏」
の3部作であり、外村の私小説。外村は分家の人間であったが、この作品を
通じて近江商人の封建制やそこの人間の持つ業を描いた。
本家は、今は「てんびんの里伝統家屋博物館として母屋、書院、大蔵、米蔵
などの建物が公開されている。
「この江州の東部地方は古くから所謂近江商人の出生地として有名であった。
が、殊にこの六荘村は、中ノ庄に藤村家、橋詰に岩井家、太子堂に仲家などの
県下屈指の分限者たちが集まっているので、まるで近江商人の本場のように
言われていた。」

19)歴史を紀行する(司馬遼太郎)
蒲生郡石塔寺の石塔の由来を考える。日本の中の朝鮮文化とも言われる。

20)蒲生氏郷(海音寺潮五郎)
日野町を中心とした氏郷の武人、茶人、経済人の生涯を描く。日野商人や日野椀
から出た会津漆器などの彼の重商主義の残り香や日野鉄砲の製造もある。
墓は日野の信楽院。5月には日野祭がある。

21)小倉日記(森鴎外)
森の祖父の白仙の墓を土山町の常明寺に見つけた時の喜びが描かれている。
しかし、今はその墓碑は津和野の永明寺に移されている。
「門前より一町ばかり、田圃尽きて、将に河岸に下らんとする処に
古栄域あり。その有縁の墓碑の如きは、皆既に寺の境内に遷せり。
なお無縁の古碑二三存ぜるものありと。赴いて求むるに、幸いにして
荊棘の間に存す。表には題して森白山源綱浄墓という曰ふ。右に文久元
辛酉歳十一年七日卒、左に石州津和野医官嗣子森静泰立石と彫りたり。」
土山には、白川神社、田村神社や土山宿の本陣や旅籠が30軒ほども残っている。
広重の「土山、春の雨」や松尾芭蕉の句碑「さみだれににおの浮巣を身にいかむ」
などもある。

22)雪の下(倉光俊夫)
野洲の中主を訪れた移動演劇の人と農家の青年の交わり描いている。
農村風景の具体的な描写が特徴。

23)白拍子妓王(山田美妙)
平家物語に登場する妓王の話である。その郷里である野洲妓王寺。

24)蛍の町通信(国松俊秀)
守山の源氏蛍の復活を頑張る三人の小学生とその周囲の人々の物語。

25)幻の近江京(邦光士郎)
滋賀、奈良、京都に残存する幻の寺を舞台の推理小説。その寺が
草津にある花摘寺である。一般の滋賀里周辺の大津京とは違う仮説で展開する。

26)日野富子(平岩弓枝)
足利義政の妻富子の一生を描いた。舞台は栗東永正寺付近。

27)甲賀忍法帖(山田風太朗)
甲南町竜法師の忍者屋敷が有名。

28)まめだの三吉(中島千恵子)
信楽焼きの狸の焼き物を巡る話。

29)徳川家康(山岡荘八)
家康の伊賀越えでの信楽多良尾の助けを描いている。

30)邪宗門(高橋和巳)
新興宗教の教主千葉とその武装蜂起と壊滅までを描く。千葉が唐橋近くのボート
練習場に現われのが印象的。

31)瀬田の唐橋(徳永真一郎)
唐橋が一人称で自分の見てきた歴史を語る。

32)ぼてじゃこ物語(花登こばこ)
ぼてじゃこを皇室の献上魚の「鰉ひがい」にする物語。
なお、花登の生家は今の大津長等1丁目にあり、大津図書館にはその専門
コーナーもある。

33)芭蕉物語(麻生磯次)
野ざらし紀行にでた、晩年最後のの芭蕉、幻住寺、義仲寺が描かれている。

34)老残日記(中谷孝雄)
義仲寺無名庵主人の日記的私小説。

35)大津恋坂物語(加堂秀三)
石場の旧東海道の小さな坂(近江名所図会にもないが)周辺を描いた物語。
「奥田隆一は、大阪のテレビや映画で名前が売れ始めた俳優であった。彼が
暮らす大津市石場の自宅には、その門前から下の通りまで続く、幅2メートル
、長さ30メートルほどの急な坂があった。この坂が「恋坂」と言う名である
ことは、乳が死んだ際、母から聞かされた。
「うちや死んだお婆ちゃんみたいにな、門の坂のこと、ここはほんまに恋坂や
と思うて、坂のぼるにつれて人が愛しくなってなあ、泣く日ィもくるわ」
彼の母も祖母も道ならぬ恋に悩んだ人であった。恋坂とは、たとえ許されぬ
恋であろうと、熱い想いを胸に抱いて上り下った坂に彼女がつけた名であった。

36)兇徒津田三蔵(藤枝静男)
大津京町で起こったロシア皇太子暗殺事件の犯人を扱った物語。

37)琵琶湖(横光利一)
汚染がひどくなる琵琶湖を憂い、その将来に不安を示す。
他には、「湖光島景琵琶湖めぐり(近松秋絵)」などもある。
「青年時代に読んだ田山花袋の紀行文の中に、琵琶湖の色は年々歳々死んで行く
様に見えるが、あれはたしかに死につつあるに相違ない、と言うようなことが
書いてあったのを覚えている。わたしはそれを読んで、さすが文人の眼は光っている
と、その当時感服したことがあった。今も琵琶湖の傍を汽車で通るたびに、花袋
の言葉を思い出して、一層その感を深くするのだが、私にもこの湖は見る度に
沼のようにだんだん生色をなくしていくのを感じる。」
横山利一は小学生のころと新婚時に大津に住んでいた。これはそのときの思い出
も含めて書き綴ったもの。
「思い出というものは、誰しも一番夏の日の思い出が多いであろうと思う。私は
二十歳前後には、夏になると、近江の大津に帰った。殊に、小学校時代には家が
大津の湖の岸辺にあったので、びわ湖の夏のけしきは脳中から去り難い。今も
東海道を汽車で通るたびに、大津の町へさしかかると、ひとりでいても胸がわくわくと
して、窓からのぞく顔に、微笑が自然と浮かんでくる。」
さらには、
「去年私は久しぶりに行って見たが、このあたりだけは、昔も今も変わっていない。
明治初年の空気のまだそのままに残っている市街は、恐らく関西では大津だけであり、
大津のうちでは疎水の付近だけであろう。」

38)僧興義、鮫の恩返し(小泉八雲)
三井寺の僧興義が病気になったときに魚となり、琵琶湖へと泳ぎ出し釣られて料理
される寸前に蘇生する。琵琶湖の美しさを描いている。
「水がえらい青くてきれいでの、ひと泳ぎしとうなった。、、、目の下にも、
ぐるりにも、美しい魚どもがぎょうさん泳いどる。、、、わしはそこから泳いで、
いろいろ美しいところを巡ったようじゃ。、、、青い水面に踊っておる日の光を
眺めて楽しんだり、風かげの静かな水に映る山々や木々の美しい影を、心行く
ばかり眺めたり、、、とりわけ今でも憶えておるのは、沖津島か竹生島あたりの
岸辺が、赤い垣のように水に映っているけしきじゃ。」
「鮫の恩返し」と言うのは「明暗」と言う作品の中にある話。
主人公藤太郎が竜宮を追い出されて瀬田の唐橋にいた鮫人を助け、その鮫人が
藤太郎の恋を成就させるという恩返しの話。

39)小説日本婦道記ー尾花川(山本周五郎)
大津尾花川の勤皇の志士であった川瀬太宰とその妻幸を描いている。
婦人の美徳、といっても家父長的視点からではなく人間としての美質に
焦点をあてている。
「日本の女性の一番美しいのは、連れ添っている夫も気付かないという
ところに非常に美しく現われる。、、これが日本の女性の特徴ではないか
と思ってあの一連の小説を書きました」ということ。

40)美しさと哀しみと(川端康成)
琵琶湖ホテルでの殺人を終局に描いている愛憎物語。

41)一歩の距離(城山三郎)
陸上自衛隊大津駐屯所のあった航空隊での4人の予科練生を中心とした際川や唐崎
での終戦直前の話。
「(浮御堂の光景は)小学校の遠足の日でも思わせるような、のどかな姿であった。
、、、だが、そうしたのどかさは、うつろいやすい仮のモノでしかなかったし、
彼らはそれを承知していた。平和とは常に仮のものである。平和を願うなどと言う
のは、臆病者であるどころか日本人でさえない。」
さらに、
「やっと海軍軍人になれると。だが、それは「必殺必中の兵器」つまり特攻の
募集だった。彼は予期せぬ場面で、突然、生か死かの選択を迫られたのである。
出なければ、出なければ。死ぬために来たのに、何を躊躇っているのか。
腋の下を冷たい汗が流れ続けた。手もぐっしょり汗を握った。
志願するものは、一歩前に出よ。司令のよびかけにかれは「一歩を踏み出すこと
ができなかった。それは乗りたがっていた航空機ではなかったからか。
それとも一歩を踏み出せば確実に約束される死への恐怖からか。
前に出るも出ないのも、余りに大きな決意であった。一歩の前と後ろの間には、
眼もくらむばかりの底深い谷があった。
一歩踏み出す距離はわずかであった。しかし、それぞれの人生を決定する距離
であった。若者を死に導き、あるいは生涯消えぬ苦しみを刻む距離であった。」


42)北白川日誌(岡部伊都子)
北白川廃寺跡から山中越えし、比叡平近くの池ノ谷地蔵尊、新羅善神堂、南滋賀
廃寺跡などをめぐり大津京を探し求めた。

43)金魚繚乱(岡本かの子)
大津下坂本にある実験所にきた美しい金魚を作ろうとする男とその彼女の話。
「白牡丹のような万華鏡のようなじゅんらん、波乱を重畳させつつ嬌艶に豪華に、
また粛々として上品に、内気にあどけなくもゆらぎ広ごり広ごりゆらぎ、さらにまた
広ごり」
「健一はボートの中へ仰向けに寝そべった。空の肌質きじはいつの間にか夕陽の
ほとぼりを冷まして磨いた銅鉄色に冴えかかっていた。表面に削り出しのような
軽く捲く紅色の薄雲が一面に散っていて、空の肌質がすっかり刀色に冴え返る
時分を合図のようにして、それらの雲はかえって雲母色に冴え返ってきた。健一は
ふと首をもたげてみると、まん丸の月が大津市の上に出ていた。それに対して
大津市の町の灯りの列はどす赤く、その腰を屏風のように背後の南へと拡がる
じぐざぐの屏嶺へいれいは墨色へ幼稚な皺を険立たしている。」


44)咲庵しょうあん(中山義秀)
明智光秀の一生を描いた。坂本城は下坂本付近だが、その遺構はほとんどない。

45)風流懺せん法(高浜虚子)
延暦寺横川中堂田おはなし。虚子と渋谷天台座主とのかかわりが深い。
大師堂小僧一念との出会い、一力の舞妓三千歳らとの遊び中にまた一念に会う。
一念と舞妓三千歳の幼い男女の交わりが生き生きと描かれている。
「横川は叡山の三塔のうちでも一番奥まっているので淋しいこともまた格別だ。
二三町離れた処にある大師堂の方には日によると参詣人もぼつぼつあるが、
中堂の方は年中一人の参拝者もないといってよい。大きな建物が杉を圧して
立っている。」
虚子の一句  清浄な月を見にけり峰の寺

46)乳野物語(谷崎潤一郎)
元三大師と母月子姫の天台宗の説話をベースに描いている。
比叡山横川の安養院は元三大師の母の月子姫の墓がある。また、月子姫の墓は
虎姫町三川にもある。乳野は雄琴温泉から少し山に入った純農村の集落であった。
そのときの千野の印象を谷崎は次のように書いている。
「われわれは歩き出すと間もなく乳野の里に這入ったが、ところどころに農家が
二三軒まばらに点在しているような小さな部落で、本来ならば悲しく侘しい感じのする
場所であろうが、今は新緑で、その辺一面の柿畑が眩いようにきらきらしている。
さっきからわれわれの行く手に聳えていた横川の峰は、もうここへ来ると、
そのかがやかしい柿若葉の波の上に、四条の大橋から仰ぐ東山のちかさで圧し
かぶさっているのであった。」

47)新平家物語(吉川英治)
源義経と堅田湖族とのつながりを描いてもいる。

48)仮面法廷(和久俊三)
列島改造論の盛んな時期、74年7月の湖西線の開通とローズタウンなどの
ニュータウンの開発に絡んだ詐欺事件。

49)花と匂い(伊藤整)
比良山のスキー場での男女の愛憎を描いている。
文中で比良山さんの説明がある。
「比良山と申しますのは、一つの山ではございません。比叡山の来たにつらなって、
琵琶湖の西岸に聳える武奈ヶ岳、釈迦岳、蓬莱山、打身山、権現山などを含む山地を
包括して比良山と申します。語源はアイヌ語のピラであるらしく、これは絶壁の
あるところ、または扇形にひろがった土地と言う意味だそうでございます。」
 
50)かくれ里(白洲正子)
近江を「日本文化発祥地、裏舞台」と考える白洲。
「秘境と呼ぶほど人里はなれた山奥ではなく、ほんのちょっと街道筋から
逸れた所にある。」というかくれ里を近畿26箇所えらび、古くから伝わる
宗教行事や民俗的な場所を訪れた。たとえば、明王院の「夏安居」(げあんこ)、
太鼓乗などの由来や作法、背景などを綴っている。
はじめに書かれているのが、甲賀町の油日神社である。
「駅前の通りを南へ少し行くと、大きな石の鳥居が現われる。まわりは見渡す限りの
肥沃な田畑で、南側の鈴鹿山脈のつづきには、田圃を隔てて油日岳が、堂々とした
姿を見せている。」

51)蓮如(五木寛之)
蓮如の39歳から越前に旅立つ57歳までが描かれている。堅田周辺が舞台だ。
上人御影送り、4月17日京本山本願寺から小関の等正寺、高島の最勝寺、マキノの
栄敬寺から福井へ、吉崎で10日ほど滞在し、帰りは余呉を通り、北国、中仙道
を通って5月9日に京都へ戻る。240kmを7日間で歩く。

52)安土セミリオ(井伏鱒二)
治郎作とセミリオ(キリシタンの学問所)の人間、宣教師たちが本能寺の変以後
どうしたかを描いている。当時の安土の街の様子が鮮明に描かれている。
街の中心は常楽寺周辺、港のあった常浜は水辺公園となっている。また、安土の
城は湖の直ぐ傍にあったが、いまはその後の大干拓で陸地が続く。

52)比良の水底(澤田ふじ子)
葛川渓谷滝は三の滝、今は明王谷に住む山椒魚と滝壺に落ちてきた金銅
の蔵王権現との四方山話。葛川坊村は安曇川の小さな集落だが、その風景は
見ごたえがある。地主神社があり、明王院の本堂もある。さらに、葛川参籠と
太鼓回しと言う行事が7月16日から始まる。
「人間の愚かさはこれから永代、つきることがあるまい。今後、わしはおぬしと
もう口を利かぬ。人間の愚かさについて更に深く考えたいからじゃ」
「山椒魚のわしにはなんの言葉もない。それにしても、わしはあと幾年、
生きるのであろうか。生きているのにもうあきてきたのである。」
「滝壺だけはいよいよ青味をくわえてしんと静まり、そこから流れ出る渓流が
涼しい眺めを作っていた。」
「たとえば、この世のすべてのものに共通する言葉があったとしたら生きている事が
何十倍も楽しくなるかもしれない。鳥や花はもちろんのこと。岩や水や、
それから、、、山椒魚とも話が出来たなら、、でも、やっぱり、一番欲しいのは
人間同士、分かり合える言葉か。」
閻魔王牒状 瀧にかかわる十二の短篇(朝日新聞)より

53)瓔珞品ようらくぽん(泉鏡花)
琵琶湖の夜の美しさに魅了された主人公が何度となく琵琶湖を訪れる。
天人石を探したり、夢の中で鮒になったり、無限の世界を体感する。
「水を切る船端の波の走るのが、銀を落とすと、白い瑠璃の階きざはしが、
星を鏤めてきらきらと月の下へ揺れかかって、神女の、月宮殿に朝する
姿がありありと拝まれると申します。」「霜のように輝いて、自分の影の
映るのが、あたらしいほど甲板。湖水はただ渺茫として、水や空、南無竹生島
は墨絵のよう。御堂の棟と思い当たり、影が差し、月が染みて、羽衣のひだを
みるような、、、」と夜の湖水を表現している。
瓔珞は仏像の胸や頭を飾る飾り。石山や彦根、竹生島などが背景にある。
更には、
「前後に松葉重なって、宿の形は影も留めず、深き翠みどりを一面に、眼界
唯限りなき漣さざなみなり。この処によずるまで、手を縋り、かつ足を支えた、
幹から幹、枝から枝、一足ずつ上るにつれて、何処より寄することもなく、
れん艶たる波、白帆をのせて背に近づき、躑躅を浮かべて肩に迫り、倒さかさまに
藤を宿したが、石の上に、立ち直って、今や正に、目の下に望まれた、これなん
日の本の一個所を、琵琶にくぎった水である。
妙なるかな、近江の国。卯月の末の八つ下がり、月白く、山の薄紅、松の梢に
藤をかけ、山は翠の黒髪長く、霞は里に裳もすそを曳いて、そよそよとある風の
調べは、湖の琵琶を奏づるのである。」

54)埋み火(杉本苑子)
近松門左衛門の生涯を描いている。門左衛門が若いときにいたのが、大津の
近松寺。「近松寺は高観音ともよばれ、大津の宿駅の、ほぼ西となりに位置
している。逢坂山の北尾根にあって、琵琶湖の眺望の豊かさは三井寺からの
大観に劣らなかった。近松寺から三井寺へは、三橋節子美術館、長等神社、
三井寺、円満院へと続く。

55)湖笛(水上勉)
琵琶湖とともにあるのが己が運命だと信じた京極高次の生き方を描いている。
「湖は朝も夕べも、母者のふところのように、わしが心を慰めてくれたt。
勇気付けてくれる景色であった。」
海津の宝憧院、柏原の清滝寺がぶたいであり、清滝寺の17基の墓、18基
の印塔は圧巻である。高次は、大溝城、八幡山城、大津城主となって行く。

56)虹いくたび(川端康成)
主人公の3人姉妹の生への美しさとはかなさを虹に重ねて書いたもの。
「生まれて、生きて死ぬ
 生まれて、生きて死ぬ
 いくたびの繰り返し
 人も虫も花も 虹も
 この世に生まれ出るものはすべて
 生きねばならぬ 死なねばならぬ
 理屈ではなく
 そう決まっているのだから
 いくたびのつまづきは
 いくたびの希望だから
 やがてくる死のために
 生きねばならぬ 輝いて
 生きねばならぬ」
この小説は近江と直接関係がない。しかし、琵琶湖で「彦根をすぎて米原のあいだ」
見た琵琶湖の虹が良く出てくる。
更には、八日市から愛知川に向う近江鉄道に乗ると川端が感じていたであろう故郷の
気配があったのでは。

57)雪の朝(立原正秋)
井伊直弼主人公の歴史小説。埋木舎時代と桜田門での死を描いている。
「浪士たちの叫び声が遠くなり、かわりに琵琶湖の潮鳴りを間近に聞いた。
夏の早暁の雨上がりの道を多賀社に帰っていくたか女のうしろ姿が見えた。
埋木舎が夕陽に染まり、それはこの世のものとも思えぬほどの朱に燃え上がり、、、
やがて朝が来た。

58)序の舞(宮尾登美子)
女性ではじめて文化勲章を受けた日本画家上村松園の生涯をモデルにして描いた。
「序の舞」とは松園快心の作といわれる絵画の名である。
舞台は京都が主であるが、最初の子供を生んだのが坂本、そして長浜にある昌徳寺
にいる師匠、母が参詣した立ち木観音も登場する。長浜は曳山祭や八幡宮なども。
「風のない日、納屋の二階の高窓の障子を細目に開けてそっと眺めると、なだらかな
段畑の向こう、銀色に輝いている琵琶湖の水が見える。
ここは比叡山の東麓、むかし湖上を渡って集まってくる諸国の物資で賑わったという
坂本の町の、そのとりつきを山側に入った場所で、あの晩、更けて到着した津也は
闇の中に漂っている干し藁の匂いを嗅ぎ、遠くに来たものだと言う感じを強く
抱いたものであった。」

60)夜の声(井上靖)
この退廃していく社会を憂い、交通事故で神経のおかしくなった主人公を通して
その危機を救える場所として近江を描いている。
神からのご託宣で文明と言う魔物と闘うが、自分はそのために刺客に狙われている
と思い込んでいる。魔物の犯してない場所を探して、近江塩津、大浦、海津、
安曇川から朽木へと向う。朽木村でその場所を見つける。
「ああ、ここだけは魔物たちの毒気に侵されていない、と鏡史郎は思った。
小鳥の声と、川瀬の音と、川霧とに迎えられて、朝はやってくる。漆黒の
闇と、高い星星に飾られて、夜は訪れる。、、さゆりはここで育って行く。
、、、レジャーなどという奇妙なことは考えない安曇乙女として成長していく。
とはいえ、冬は雪に包まれてしまうかもしれない。が、雪もいいだろう。
比良の山はそこにある。、、、さゆりは悲しい事は悲しいと感ずる乙女になる。
本当の美しいことが何であるかを知る乙女になる。風の音から、川の流れから、
比良の雪から、そうしたことを教わる。人を恋することも知る。季節季節
の訪れが、木立ちの芽生えが、夏の夕暮れが、秋白い雲の流れが、さゆりに
恋することを教える。テレビや映画から教わったりはしない。」


ーーーーーー

61)雲と風と(永井路子)
最澄の生涯を描いた作品。山東町観音寺にある木造伝教大師最澄の坐像が
中々に趣きのある像である。生まれは坂本の生源寺で近江国分寺に入る。
桓武天皇は政教分離のために凡爵寺を建てるがその場所は南滋賀の廃寺跡
とか崇福寺跡といわれている。
「宗教と言うのは、無垢の心にふっと立ち返った瞬間の陶酔をいうのかもしれない。
信仰は、その瞬間が幾度もあったり持続したりする時に確かなものになって
いくのであろう。」

62)源氏供養(松本徹)
源氏供養は三島由紀夫も戯曲にしているが、妄語の戒めに触れた紫式部の霊を
弔うストリーであるが、ここでは「石山寺に行った私が、そこで出会った3人の
源氏読みの女性たちと一緒に想いをめぐらせる作品である。
「わたしは石山寺を歩く。石山寺のもとになったという硅灰岩を、不思議に清潔な
空間を造り出している、と感じ、桧皮葺の、柔らかく張りのある屋根、が美しい
多宝塔を眺め、寺を創めた良弁のことを思い、本堂を巡拝し、そして紫式部
供養塔を見て、彼女が供養されなければならなかったことを思ってみたわけである。
それから、宙を浮くようにして、ある月見亭に立つ。なんと眺望のよいことか。
式部も月の美しさに迷い出て、ここにたったのではないか、とわたしは想って見たりも
する。
そこへ源氏読みの女性たちが来て、口ずさんだのが、謡曲源氏供養の一節だった。
恥じかしながら弱弱と あわれ胡蝶の ひと遊び、、、、、
女性たちは紫式部と一緒に自分たちも地獄に堕ちていると言う。が、わたしは
そうは思わない。事実「源氏一品経」は、最後はこう言うのだ。「狂言綺語」
の過ちをそのまま仏の教えへを讃えるものにと替え、その教えを広める手立てに
しよう、と願った。つまり、紫式部がこの物語を書いたのは、、、紫式部自身が
観音の化身であり、仏の教えを悟らせる方便として書いた、のだと。」

63)真田太平記(池波正太郎)
信長から秀吉、徳川へと混沌とした時代のなか、だれが平和をもたらしてくれるのか、
を見極めようと頑張る忍びの者の話である。
真田一族と女忍者が主人公、甲賀の地と飯道山が舞台でもある。甲南町には、甲賀忍者
筆頭の望月出雲守の屋敷が甲賀流忍者屋敷としてある。

64)近江山河抄(白洲正子)
「奥島山の裏側へまわっていくと、突然目の間が開け、夢のような景色が現われる。
小さな湾をへだてて沖島が湖上に浮かび、長命寺の岬と伊崎島が、両方から抱く
様な形で延びている。、、奥島山の裏に、これほど絶妙な景色が秘められている
とは知らなかった。」
「現在は半島のような形で湖水の中に突き出ているが、周りが干拓されるまでは、
入り江にかかる橋でりくちとつながり、文字通りの奥島山であった。山頂へ登って
みると、湖水をへだてて、水茎の岡の向こうに三上山がそびえ、こういう所に
観音浄土を想像したのは、思えば当然の成り行きであった。
八百八段の長い石段を上り詰めると本堂、護摩堂、三重塔、鐘楼などが建ち並び、
木立ちの間から湖水と水茎の岡が茫洋とみえる。自分の考える日本人の自然観、
それを長命寺の絵図でも白洲は納得する。

65)安宅家の人々(吉屋信子)
彦根城楽々園、井伊家の下屋敷で旅館となっていた、に父の法要のため宿泊した
安宅家の人々を描いている。
「城のお堀の水のおもてに細かい雨が消えている。桜の時はさぞかしであろうが、
紅葉に雨の城跡もしめやかに詩情を漂わせていた。」
旧寺町の通りに入ると、彦根城石垣の残石を使ったという石垣や石畳の道が伸び、
両側に大きな山門が並ぶ。その佇まいはやはり城下町の風格を感じさせるものがある。
この寺町や善利組と呼ばれた足軽屋敷のあった芹橋辺り、職人町だった本町三丁目
辺り、仏壇街の七曲がり、それぞれの表情を持つ町が健在である。 

67)しらがき物語(水上勉)
信楽街を舞台とする陶工と師匠、その弟子たちをめぐる人間の業を描いている。
「風景から小説が生まれる」と水上は言うが、その書き出しも信楽の地形や
風景の説明から始まる。
「笹ヶ岳の山からのぼった弦月は、ずい分足が早い。月光はしも道から大川に
至る桑畑の上を海のように照らしている。、、一段高くなった山麓の丘に、
三玄院の傘を広げたような甍が光って見えた。」
信楽の飾り気のない良さは、農民の種壷や茶壷として、煮物の入れ物として
生まれた生活の道具が原点である。
人は一生に一度や二度は必ず焼き物に心を奪われる時があるという。
それが、本当であるなら、土に戻って行く人間はつまり、土から生まれ、
土の上で育って行くものだという証でもある。だから、土から生まれる
焼き物は同胞といえるかもしれない。その土に生命を吹き込む技が
陶芸なのであろう。

68)比良のしゃくなげ(井上靖)詩集北国より
「むかし写真画報と言う雑誌で、比良のしゃくなげの写真を見たことがある。
そこははるか眼下に鏡のような湖面の一部が望まれる北比良山系の頂で、
あの香り高く白い高山植物の群落が、その急峻な斜面を美しくおおっていた。
その写真を見たとき、私はいつか自分が、人の世の生活の疲労と悲しみを
リュックいっぱいに詰め、まなかいに立つ比良の稜線を仰ぎながら、
湖畔の小さな軽便鉄道にゆられ、この美しい山嶺の一角に辿りつく日が
あるであろう事を、ひそかに心に期して疑わなかった。絶望と孤独の日、
必ずや自分はこの山に登るであろうと。
それから恐らく10年になるだろうが、私はいまだに比良のしゃくなげを
知らない。忘れていたわけではない。年々歳々、その高い峯の白い花を瞼に
描く機会は私に多くなっている。ただあの比良の峯の頂き、香り高い花の群落
のもとで、星に顔を向けて眠る己が眠りを想うと、その時の自分の姿の
持つ、幸とか不幸とかに無縁な、ひたすらなる悲しみのようなものに触れると、
なぜか、下界のいかなる絶望も、いかなる孤独も、なお猥雑なくだらなぬものに
思えてくるのであった。」

多くの開発と言う行為の中には、自然への畏敬と尊敬の念が欠落していることが
多く、我々の知らないうちに自然がその生命を終えて行くことが見られる。
比良と琵琶湖の織り成す清々しい魅力を次代へと伝えて行く必要がある。

69)稚くて愛を知らず(石川達三)
彦根の病院の娘として生まれた女性が心、幼いまま、35歳で離婚されるまでの
過程を描いている。彦根は城の周りの物静かな文化の香りと質実剛健と言った
彦根人気質と城下町の風情に露地の持つ人間臭さが活きている。
「友紀子は人形と子供との区別がつかなかった。自分が母として責任をもち、
義務を果たしていこうとする自覚はどこにもなかった。少なくとも、彼女は
生まれてくる子供の将来について、その子をどんな大人にそだてていくか
ということについて、何もかんがえてはいなかった。」

59)桜守(水上勉)
西行の愛した吉野の山桜と同じ様に山桜や里桜の日本古来種の桜に生涯をかけた
一人の男を描いた作品。このモデルとなった笹部新太郎は岐阜県の御母衣ダムに
沈む事になっていた樹齢四百年のあずまひがんの老樹(現在荘川桜の名前で健在)
を移植した人。山桜は若葉と童子に開花し、清楚で遠くから見ると微妙な陰影を
つくり周辺に物静かな空気を醸し出す。
「村の共同墓地にある三百年は生きたであろう巨桜であった。そこは、海津の村
から敦賀の方へ山沿いの国道を少し入りかけた地点で、道の直ぐ下の墓地である。
墓地全体にかぶさるように大枝を張った桜は見事だった。、、、根元から二股に
なったこの彼岸桜は、U字型に大幹を二本伸ばし、広大な墓地に存分に枝を
はっていたが、真下の墓地は皆軍人の墓だった。、、、、村人が慈しんで育てる
巨桜もあるのだと、弥吉は思った。、、、日本に古い桜は多いけんども、海津の
桜ほど立派なものはないわ。あすこの桜は、天然記念物でもないし、役人さんも
学者さんも、しらん桜や。村の共同墓地に、ひっそりとかくれてる。けど、村の人らが
枝一本折らずに、大事に守ってきてはる。墓地やさかい、人の魂が守ってんのやな。」
「竹部の桜は近江舞子にもあった。ここは昔、といっても、五十年前になるが、
江若鉄道が出来て間無しに、向日町の苗を植えたものだ。近江舞子は、、、、
裏がすぐ山で、高い比良が空へ抜きでている。春に来たら、さぞかし
良かったであろう。」
水上勉は「在所の桜」でも御母衣ダムの桜について描いている。ここは昔2、3回
仕事の関係で通った事があるが、この本を読んでいれば、また違う感じを受けた
であろう。少し長いし、近江からは外れるが、
「この桜ではない、笹部翁の手になるもう一つの桜がある。根尾谷から谷ひとつ東
へいった庄川谷に、樹齢五百年のアズマヒガンが二本、みごとに活着し、御母衣
ダムの水面をのぞいている。根尾の巨桜とともに、忘れる事の出来ない岐阜県の
記念碑的な桜だと思う。
御母衣ダムは世間周知の長い水没反対抗争もあって有名な工事だった。湖底には、
三百六十戸の家と三つの小中学校と三つの寺が沈んでいる。二つの菩提寺の墓場
にあった巨桜を、電源開発の高碕達之助さんの依頼で、笹部翁が前代未聞の移植を
敢行したのである。世界植林史上、この桜ような活着は例を見ない。奥美濃の
とくに、庄川の春は遅いから、根尾の巨桜が散る頃は、まだ蕾だろう。私は何度も、
この桜の下に佇んでいるが、根尾の巨桜の下にいるのと、また別の感慨を覚える。
おそらく、水没反対の村人たちは、二人の老人が世間の反対を押し切って敢行した
この移植事業を、せせらわらったことだろう。補償でこじれた抗争だったから、
根付くかどうかもわかりもしない老桜に、金を使うなど不満だった事情もわかる
のだが、しかし、活着してみると、巨桜は、人間が残した大きな業績と言うものを
教える。電源は山を壊し、川を埋め、野を荒らす元凶の様に言われているが、
その総裁であった高碕氏と、桜好きの一老人が手を取り合って、前代未聞の移植工事
をやり終わった日は、8年前のジングルベルがなる12月24日であったという。
奥美濃は人影もなく、みぞれ雪が降っていた。十中八九は枯れると思われた、
この桜が、今日花を咲かせ、湖面を彩っているのだ。
ふるさとは水底となりつうつし来し
この老桜とこしえに咲け
と碑文に見える。高碕さんの歌である。
、、、去年の2月の渇水期、白川郷を訪ねたときに、氷柱と化した二本の庄川桜を
拝んだ。湖底の死んだ村が露呈して浮き上がっている。感動を覚えて古道を降りた。
古い村はそのままそこにあった。水がしずかに退くということは不思議なもので、
埋まった村の家々の土台石も墓石も、瀬戸の柿木も、南天も松の植え込みも生徒
たちがつかったプールも、学校の門石も、みな姿をとどめて露出していた。
私はそれらの意志や木にさわって歩いた。誰もいなかった。この私の一人歩きを
眺めていたのは二本の巨桜だけだった。ふるさとは水底に沈んで、二本の桜だけが
生きている。だれがこの移植行為を笑えるだろうか。花どきに、どこからともなく、
老いた夫婦がやってきて、弁当を広げる間もなく巨桜の肌にふれて泣くという。
おそらく、水没反対を叫んだ人々の家のお爺さんやお婆さんであろう。
引っ越した先の都会を逃れて、桜に会いに来る。水底に沈んだ村を偲ぶのは
この二本の桜しかない。」

70)東海道五十三次(岡本かの子)
風俗史を専攻する夫と私が東海道を旅し、その途中、東海道に取り付かれた
作楽井と言う男に出会う話。
「小唄に残っている間の土山へひょっこり出る。屋根付きの中風薬の金看板
なぞ見える小さな町だが、今までの寒山枯れ木に対して、血の通う人間に
逢う歓びは覚える。風が鳴っている三上山の麓を車行して、水無口から石部
の宿を通る。なるほど此処の酒店で、作楽井が言ったように杉の葉を丸めて
その下に旗を下げた看板を軒先に出している家がある。」
旧東海道筋の町の人々を結んで「東海道ネットワークの会」がある。

71)群青の湖(芝木好子)
「つづら折の湖畔をまわりきって、視界が変わり、広々とした湖の浦が現われた時、
岸辺に打ち寄せられたように小さな部落があった。風光の清らかな、寂とした、
流離の里である。」
「琵琶湖の秘した湖は、一枚の鏡のように冷たく澄んでいる。紺青というには
青く、瑠璃色というには濃く冴えて、群青とよぶのだろうか。太陽の反射が
湖面を走る一瞬に、青が彩りを変えるのを彼女は見た。」
「冬が来て、東京に雪の降る日が続くと、瑞子は琵琶湖の雪景色を思った。北の湖にし
んしんと雪が降るとあたりは白い紗幕に蔽われてゆき、群青の湖のみは白いあられをの
みもみながら、昏い湖底へ沈めていく。雪が止み、陽が射すと、雪でふちどられた湖は
蘇っていよいよあおく冴えかえる。」
「初秋の気配であった。湖水も空も縹色(はなだ)で小舟もない、鏡のような湖、、」
「湖は深海よりも透明で、藍が幾重にも層を成して底から色が立つ、、、、」
「奥琵琶湖の秘した湖は、一枚の鏡のように冷たく澄んでいる。紺青(こんじょう)と
いうには青く、瑠璃色というには濃く冴えて、群青とよぶのだろうか」
「いま 私に見えているのは、湖の生命と浄化の雪と枯葦の明るい茶なの。清らかな鎮
魂の布が織れたら、私の過去から開放され自由になれそうな気がするの。そうしたらこ
の次は、あなたをおどろかすような魅惑的な真っ赤な蘇芳(すおう)や、妖しく匂う紫
や、老いた女の情炎のような鼠茶や、いろんな色を糸に乗せて、思い切り織って
ゆきたい」。

芝木さんの文章はカラーである。情景にあわして様々な色が配色されている。
湖西はあまりかかれていないが、琵琶湖の美しさを感じて欲しい。

72)近江山河抄(白洲正子)
比良の暮雪から
ある秋の夕方、湖北からの帰り道に、私はそういう風景に接したことがあった。
どんよりした空から、みぞれまじりの雪が降り始めたが、ふと見上げると、薄墨色
の比良山が、茫洋とした姿を現している。雪を通してみるためか、常よりも一層大きく
不気味で、神秘的な感じさえした。なるほど、「比良の暮雪」とは巧い事をいった。
比良の高嶺が本当の姿を見せるのは、こういう瞬間にかぎるのだと、その時
私は合点したように思う。

わが船は比良の湊に漕ぎ泊てむ沖へな離りさ(さかりさ)夜更けにけり

比良山を詠んだものには寂しい歌が多い。
今もそういう印象に変わりはなく、堅田のあたりで比叡山が終わり、その裾に
重なるようにして、比良山が姿を現すと景色は一変する。比叡山を陽の山とすれば、
これは陰の山と呼ぶべきであろう。、、、、
都の西北にそびえる比良山は、黄泉比良坂を意味したのではなかろうか。、、、、
方角からいっても、山陰と近江平野の間に、延々10キロにわたって横たわる
平坂である。古墳が多いのは、ここだけとは限らないが、近江で有数な大塚山
古墳、小野妹子の墓がある和邇から、白鬚神社を経て、高島の向こうまで、大
古墳群が続いている。鵜川には有名な四十八体仏があり、山の上までぎっしり
墓が立っている様は、ある時代には死の山、墓の山、とみなされていたのではないか。
「比良八紘」という諺が出来たのも、畏るべき山と言う観念が行き渡って
いたからだろう。が、古墳が多いということは、一方から言えば、早くから
文化が開けたことを示しており、所々に弥生遺跡も発見されている。小野氏が
本拠を置いたのは、古事記によると高穴穂宮の時代には早くもこの地を領していた。
、、、、、
小野神社は2つあって、一つは道風、1つは「たかむら」を祀っている。
国道沿いの道風神社の手前を左に入ると、そのとっつきの山懐の丘の上に、
大きな古墳群が見出される。妹子の墓と呼ばれる唐臼山古墳は、この丘の
尾根つづきにあり、老松の根元に石室が露出し、大きな石がるいるいと
重なっているのは、みるからに凄まじい風景である。が、そこからの眺めは
すばらしく、真野の入り江を眼下にのぞみ、その向こうには三上山から
湖東の連山、湖水に浮かぶ沖つ島もみえ、目近に比叡山がそびえる景色は、
思わず嘆息を発していしまう。その一番奥にあるのが、大塚山古墳で、
いずれなにがしの命の奥津城に違いないが、背後には、比良山がのしかかるように
迫り、無言のうちに彼らが経てきた歴史を語っている。
小野から先は平地がせばまり、国道は湖水のふちを縫っていく。
ここから白鬚神社のあたりまで、湖岸は大きく湾曲し、昔は「比良の大和太」
と呼ばれた。小さな川をいくつも越えるが、その源はすべて比良の渓谷に
発し、権現谷、法華谷、金比羅谷など、仏教に因んだ名前が多い。、、、、
かっては「比良3千坊」と呼ばれ、たくさん寺が建っていたはずだが、いまは
痕跡すら止めていない。それに比べて「小女郎」の伝説が未だに人の心を
打つのは、人間の歴史と言うのは不思議なものである。

「白鬚神社は、街道とぎりぎりの所に社殿が建ち、鳥居は湖水のなかに
はみ出てしまっている。厳島でも鳥居は海中に立っているが、あんな
ゆったりした趣きはここにない。が、それははみ出たわけではなく、祭神が
どこか遠くの、海かなたからきたことの記憶に止めているのではあるまいか。
信仰の形というものは、その内容を失って、形骸と化した後も行き続ける。
そして、復活する日が来るのを域を潜めて待つ。と言うことは、
形がすべてだということができるかもしれない。
この神社も、古墳の上に建っており、山の上まで古墳群がつづいている。
祭神は猿田彦ということだが、上の方には社殿が3つあって、その背後に
大きな石室が口を開けている。御幣や注連縄まで張ってあるんのは、ここが
白鬚の祖先の墳墓に違いない。小野氏の古墳のように半ば自然に還元
したものと違って、信仰が残っているのが生々しく、イザナギノ命が、
黄泉の国へ、イザナミノ命を訪ねて行った神話が、現実のものとして
思い出される。山上には磐座らしいものが見え、明らかに神体山の様相を
呈しているが、それについては何一つ分かっていない。古い神社である
のに、式内社でもなく、「白鬚」の名からして謎めいている。猿田彦命
は、比良明神の化身とも言われるが、神様同士で交じり合うので、信用は
おけない。
白鬚神社を過ぎると、比良山は湖水すれすれの所までせり出し、打下
(うちおろし)という浜にでる。打下は、「比良の嶺おろし」から起こった
名称で、神への畏れもあってか、漁師はこの辺を避けて通るという。
そこから左手の旧道へ入った雑木林の中に、鵜川の石仏が並んでいる。
私が行った時は、ひっそりとした山道が落椿で埋まり、さむざむした風景に
花を添えていた。入り口には、例によって古墳の石室があり、苔むした
山中に、阿弥陀如来の石仏が、ひしひしと居並ぶ光景は、壮観と言う
よりほかはない。四十八体のうち、十三体は日吉大社の墓所に移されているが
野天であるのに保存は良く、長年の風雪にいい味わいになっている。この
石仏は、天文22年に、近江の佐々木氏の一族、六角義賢が、母親の
菩提のために造ったと伝えるが、寂しい山道を行く旅人には、大きな慰めに
なったことだろう。古墳が墓地に利用されるのは良く見る風景だが、
ここは山の上までぎっしり墓が立ち並び、阿弥陀如来のイメージと重なって、
いよいよ黄泉への道のように見えてくる。
ーー
越前と朝鮮との距離は、歴史的にも、地理的にも、私達が想像する以上に
近いのである。太古の昔に流れ着いた人々が、明るい太陽を求めて
南に下り、近江に辿り着くまでには、長い年月を要したと思うが、
初めて琵琶湖を発見した時の彼らの喜びと驚き想像せずにはいられない。」

73)私の古寺巡礼(白洲正子)
「10世紀のころ、比叡山に相応和尚という修行者がいた。南の谷に無動寺を
建てて、籠っていたが、正身の不動明王を拝みたいと発心し、3年間の間、
比叡の山中を放浪していた。雨の日も雪の夜も、たゆまぬ苦行に、身心とも
やせ衰え、今は死を待つばかりとなったある日の事、比良山の奥、葛川の
三の瀧で祈っていると、滔滔たる水しぶきの中に、まごうかたなき不動明王
が出現した。相応は嬉しさのあまり、滝壺に身を躍らせて抱きつくと、不動と
見たのは一片の桂の古木であった。その古木をもって、拝んだばかりの不動明王
の姿を彫刻し、明王堂を建立してその本尊とした。それが今の葛川の明王院
である。
この相応の足跡を忠実に辿っているのが、無動寺を本拠とする回峰の行者たちである。
彼らは白い死装束に身をかため、千年の昔に始祖がしたと同じ様に、一心に
不動明王を念じつつ、比叡の山中を巡礼し、最後に比良山の三の滝へ到着する。
毎年春から夏へかけて午前2時に無動寺を出発し、行者道を30キロ歩いて、
8時ごろ寺に帰る。これを百日続けて、千日をもって満行となるが、その他
京都市中の切廻り、大廻り、断食行、そして、明王院の「夏安居(げあんご)」
など、どれ一つとっても、常人には考えられない苦行の数々を経る。
それによって得るものはなにもない。しいて言えば何者動じない不動の精神、
不動明王の魂を身につけるというべきか。

74)街道をゆく(司馬遼太郎)
司馬遼太郎は、街道をゆく、の第一巻を、近江から始めましょう、
と言っている。近江には、かなりの思い入れがあるのだろう。
その一文から少し、志賀を感じてもらおう。
ーーー
近つ淡海という言葉を縮めて、この滋賀県は、近江の国と言われる
ようになった。国の真中は、満々たる琵琶湖の水である。
もっとも、遠江はいまの静岡県ではなく、もっと大和に近い、
つまり琵琶湖の北の余呉湖やら賤ヶ岳あたりをさした時代もあるらしい。
大和人の活動の範囲がそれほど狭かった頃のことで、私は不幸にして
自動車の走る時代に生まれた。が、気分だけは、ことさらにその頃の
大和人の距離感覚を心象の中に押し込んで、湖西の道を歩いてみたい。
、、、、、
我々は叡山の山すそがゆるやかに湖水に落ちているあたりを走っていた。
叡山という一大宗教都市の首都とも言うべき坂本のそばを通り、湖西の
道を北上する。湖の水映えが山すその緑にきらきらと藍色の釉薬をかけた
ようで、いかにも豊かであり、古代人が大集落を作る典型的な適地という
感じがする。古くは、この湖南地域を、楽浪(さざなみ)の志賀、と言った。
いまでは、滋賀郡という。
、、、、、
この湖岸の古称、志賀、に、、、、
車は、湖岸に沿って走っている。右手に湖水を見ながら堅田を過ぎ、
真野を過ぎ、さらに北へ駆けると左手ににわかに比良山系が押し
かぶさってきて、車が湖に押しやられそうなあやうさを覚える。
大津を北に走ってわずか20キロというのに、すでに粉雪が舞い、
気象の上では北国の圏内に入る。
小松、北小松、と言う古い漁港がある。、、、、、
北小松の家々の軒は低く、紅殻格子が古び、厠の扉まで紅殻が塗られて、
その赤は、須田国太郎の色調のようであった。
さらに、
ーーー
北小松の家々の軒は低く、紅殻格子が古び、厠の扉までが紅殻が塗られて、
その赤は須田国太郎の色調のようであった。それが粉雪によく映えて
こういう漁村がであったならばどんなに懐かしいだろうと思った。
、、、、私の足元に、溝がある。水がわずかに流れている。
村の中のこの水は堅牢に石囲いされていて、おそらく何百年経つに
相違ないほどに石の面が磨耗していた。石垣や石積みの上手さは、
湖西の特徴の1つである。山の水がわずかな距離を走って湖に落ちる。
その水走りの傾斜面に田畑が広がっているのだが、ところがこの付近
の川は眼に見えない。この村の中の溝を除いては、皆暗渠になっている
のである。この地方の言葉では、この田園の暗渠をショウズヌキという。
ーーーー
司馬遼太郎は、近江について第1巻、第4巻、第7巻、第16巻、第24巻
に書き綴っている。しかも、第24巻近江散歩では、失われ行く琵琶湖の
自然に対する人間のエゴについても、警鐘を鳴らしている。良き自然を
守るのは大変な事でもある。

75)小説「比良のシャクナゲ」(井上靖)
ここの主人が琵琶湖を賞するには、三井寺、粟津、石山、その他にも名だたる琵琶湖望
見の地は十指に余る。しかしこと比良を望むにおいては、湖畔広しと雖も、堅田に勝る
地はなく、特にここ霊峰館の北西の座敷に比肩し得るところはあるまいと自慢し、比良
の山容が一番神々しく見えるところから、この宿を霊峰館と名附けたのだと説明したこ
とがあったが、まことにこの座敷から眺める比良は美しい。

わしは家を出てタクシーをとめた時、殆ど無意識に堅田と行先を告げたのだが、わし
の採ったとっさの処置は狂っていなかった。わしはまさしく琵琶湖を、比良の山を見た
かったのだ。堅田の霊峰館の座敷の縁側に立って、琵琶湖の静かな水の面と、その向う
の比良の山を心ゆくまで独りで眺めたかったのだ。
 
堅田の浮御堂に辿り着いた時は夕方で、その日一日時折思い出したように舞っていた
白いものが、その頃から本調子になって間断なく濃い密度で空間を埋め始めた。わしは
長いこと浮御堂の廻廊の軒下に立ちつくしていた。湖上の視界は全くきかなかった。こ
ごえた手でずだ袋の中から取り出した財布の紐をほどいてみると、五円紙幣が一枚出て
来た。それを握りしめながら浮御堂を出ると、わしは湖岸に立っている一軒の、構えは
大きいが、どこか宿場の旅宿めいた感じの旅館の広い土間にはいって行った。そこがこ
の霊峰館だった。

76)額田女王(井上靖)
天智天皇とその弟の大海人皇子の兄弟に愛された女王の蒲生野の世界を描いている。
井上靖は万葉集を好きであった。
「近江の国が美しい国である事を知った。飛鳥の都でも、難波の都でも、このように
美しい自然に恵まれていなかったと思った。王宮の持っている眺望は単に美しい
ばかりではなく、かぎりなく大きく広かった。」
蒲生野は大津の対岸、安土から八日市あたりを言い、今ものびやかな平野が広がる。
額田と大海人の、この歌の碑が、蒲生野を見渡す八日市の船岡山に、巨石に
はめ込まれてある。

77)比叡(瀬戸内晴美)
女流作家が出家し、比叡山で行をつむ話である。
比叡山での「もしかしたら、既に死んでいるのに気付いていないのだろか、
と言う厳しい修行の中で、仏に引き寄せられ、新しく生きて行く事を知る
姿を語っている。
「湖はとぎすましたような晴れた冬空を沈め、森閑と横たわっている。
そこからのぞむ比叡の山脈は湖の西に南から北に走りながらくっきりと
空をかかげ、圧倒的に、力強く、生命力にみちあふれていた。
日本仏教の根本道場と呼ぶにふさわしい威厳と神聖さを感じさせた。
琵琶湖と比叡は混然と一体化して、それを切り離す事の出来ない完璧な
1つづきの風景を形成している。俊子の目にはそのとき、山脈があくまで
雄雄しく、湖がかぎりなくおおらかにふるまっているように見えた。」
その合間に日本の文化や西行、一遍などの出家者の恋の話し、外国の風景、
や名画の話など、豊かな話題が散りばめられている。
男と秘密に旅をした堅田の町も思い出される。
「旧い家並みの家々は、どの家もどっしりと地に根を生やしたような落ち着きで
肩を並べていた。生まれてくる前に、通った事のあるような所だと、俊子は
感じていた。」
また、雪の降る日、浮御堂に立った後、隣りの料亭で鴨鍋を突付く、月が出ている。
その光景を、
「湖に薄く舞い落ちる雪が月光に染められ、金粉をまいているように湖水の面に
映っていた。湖面も月光に染められ金波がひろがる上に雪が休みなく降り続いている。
それは不思議なこの世ならぬ幻想的な光景だった。」
「人が寝とんなはる時間、夜通し車走らせて好いとる女ごの許ば通いなはる。
そぎゃんして、病気になって死にはってもよかと覚悟しとらすっと」と。
なおも責める尼僧に、「そぎゃんこと解決できるなら、だあれもなあんも
苦しむことなか。そぎゃんこと悪かことわかとって、とめられんばってん、
死ぬほどきつか思いすっと」


ーーーーーーーーー

78)幻住庵記(松尾芭蕉)
湖国を愛した芭蕉は、永眠の地も自らの意志で湖国と定め、敬愛した木曾義仲
と並んで大津義仲寺に眠っている。
芭蕉が俳人としての評価を高めたのは、「野ざらし紀行」からといわれている。
彼の言う「こだわりや束縛がなく、無心で自在であるという、軽みの世界が
明確になるからだ。
「石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山といふ。そのかみ国分寺の名を
伝ふなるべし。ふもとに細き流れを渡りて、翠微に登ること三曲(さんきょく)
二百歩にして、八幡宮たたせたまふ。神体は彌陀(みだ)の尊像とかや。
唯一の家には甚だ忌むなることを、両部(りょうぶ)光をやはらげ、利益(
りやく)の塵を同じうしたまふも、また尊し。日ごろは人の詣でざりければ、
いとど神さび、もの静かなるかたはらに、住み捨てし草の戸あり。蓬根笹(ねざさ)
軒をかこみ、屋根もり壁おちて、狐狸(こり)ふしどを得たり。幻住庵といふ。
あるじの僧なにがしは、勇士菅沼氏曲水子の伯父になんはべりしを、
今は八年(やとせ)ばかり昔になりて、まさに幻住老人の名をのみ残せり。
石山の奥、岩間の後ろに山があり、国分山という。昔の国分寺の名を今に伝えていると
いうことだ。
ふもとに流れる細い川を渡って、山の中腹にのぼっていき、曲がりくねった長い道を登
っていくと、八幡宮がある。
ご神体は阿弥陀仏の尊像だとか。神仏混淆を認めない神道の宗派からみれば、たいへん
けしからんことなのだが、神も仏もその光をやわらげ世俗の塵にまみれることで、かえ
って衆生を救済しようとされている。たいへん尊いことだ。
日ごろは人が参詣しないので、さびれた感じがかえって神々しく、もの静かである場所
の傍らに、住み捨てられた草の庵がある。
蓬・根笹が軒を囲み、屋根を盛って壁は崩れ落ちて、狐や狸にとっては寝床を得たよう
なものだ。庵の名を幻住庵という。
あるじの僧某は、菅沼曲水という清廉な膳所藩士の伯父にあたる人物であるが、今は他
界して八年ほどになり、まさに幻のうちに住む老人というべき名のみを残している。」
「今歳湖水の波に漂う。鳰の浮巣の流れとどまるべき芦の一本の陰たのもしく、いと
かりそめに入りし山の、やがて出じとさへおもいそみぬ。」

松尾芭蕉について
多くの歌をその旅の趣きに合わして歌ってきた。小説ではないが、志賀を感じる作品
として味わうのも1つである。

享保十年刊の千梅編「鎌倉海道」に、この句の初案にあたる「辛崎の松や小町が身のお
ぼろ」の句が採録されている。本句は、大津に迎えてくれた千那に対する挨拶句。

  辛崎の松や小町が身のおぼろ 芭蕉
   山は桜をしほる春雨    千那
  (発句・脇。「鎌倉海道」)

上に掲げた千那宛書簡の「辛崎の松は花より朧にて と御覚可被下候」は、旅の折の挨
拶句「辛崎の松や小町が身のおぼろ」を「辛崎の松は花より朧にて」に改案した上で世
に送り出すことを、予め千那に知らせたもの。千那は、大津・堅田の本福寺第十一世住
職で、尚白、青亜とともに「野ざらし紀行」の旅の間に芭蕉門に入った。
「辛崎の松」は歌枕で、室町時代に、比良の暮雪、堅田の落雁、三井の晩鐘、粟津の晴
嵐、石山の秋月、瀬田の夕照、矢橋の帰帆とともに「唐崎の夜雨」として「近江八景」
に選ばれた。
芭蕉が、本福寺から琵琶湖の南方を眺めたとすると、「辛崎の松」は北方約十キロほど
の彼方にあり、また、もう一つの近江八景「三井の晩鐘」として知られ、本句内の「花
」や千那の句の「桜」の地と認められる三井寺観音堂まではそれ以上の距離があって、
両者ともに視認することは到底できない。したがって、「辛崎の松は花より朧にて」の
「辛崎の松」も「花」も、本福寺に向う途中の景を拠り所にした心象風景ということに
なる。

司馬遼太郎も24巻の中で、松尾芭蕉と琵琶湖について書いている。
「かいつぶりがいませんね。
良く知られるように、この水鳥の古典な名称は、鳰である。
水にくぐるのが上手な上に、水面に浮かんだまま眠ったりもする。
本来、水辺の民だった日本人は、鳰が好きだった。鳰が眠っているのをみて、
「鳰の浮寝」などといい、また葦の間に作る巣を見て「鳰の浮巣」などとよび
我が身の寄るべなき境涯に例えたりしてきた。
琵琶湖には、とりわけ鳰が多かった。「鳰の海」とは、琵琶湖の別称である。
「淡海のうみ」という歴史的正称は別として、雅称としては「鳰の海」のほうが
歌や文章の中で頻用されてきたような気がする。
、、、、
俳句では鳰そのものは冬の季題になっている。もっとも、芭蕉が近江で作った
鳰の句は、梅雨のころである。
五月雨に鳰の浮巣をみにゆかむ
この句では初夏のものとして鳰が登場する。鳰は夏、よし、あしの茂みの中に
巣を営む。句に「鳰の浮巣」が入れば季題としても初夏に入り込むらしい。
琵琶湖とその湖畔を、文学史上、たれよりも愛したかに思われる芭蕉は、
しばしば水面のよしの原を舟で分け入った。この場合、五月雨で水かさを
増した湖で、鳰たちが浮巣をどのようにしているか、そのことを長け高い
滑稽さを感じてこの句を作ったようである。
鳰というのは、あっという間に水面から消える。
かくれけり師走の海のかいつぶり
とも、芭蕉は詠んだ。また山々にかこまれた春の琵琶湖の大観を一句に
納めたものとしては、
四方より花吹き入れて鳰の海
というあでやかな作品も残している。

79)あらくれ武道(山本周五郎)
織田信長に滅ぼされた浅井家の一武将の気概を描いている。
「この誓約を反故の如く破り捨てたばかりに、御主君長政公には、こんにちご悲運
最期をとげられたぞ。これ皆こなたの不信の為、義理も人道も踏みにじる、悪行
非道なこなたのためだ。」

80)みごもりの湖(森恒平)
五個荘七里の美しい風景を背景として、そこの娘の突然の失踪を姉がその謎をたどる
ことで、やがてその死を認め、同時に生命の蘇りを感じていく。
石馬寺、老蘇の森、海津、下丹生、瀬田、石山、高島、近江八幡、観音正寺、大津
紫香楽など近江が登場する。
「石馬寺は湖東屈指の古寺だ。規模は小さいが寺格は抽んでており、住職は代々石馬姓
を名乗った。聖徳太子が霊地を求めてここまで辿りついたとき、乗馬が化して石
となったという伝説もあるが、伝説はさておき山門の前に底黒く泥を溶き重ねた
蓮沼があって、たしかに馬の背とも見える細くまるく盛り上がった石が
水底に見える。」
「槇子は姉の虚ろな墓の前に立った。これが墓なら、あの石の馬も、足下から苔を絡め
て
蜿蜒と山頂へ伸びた夥しい石の段のどの一つもが姉の墓だ。この明神山が、衣笠山の
全部が姉の墓だ。槇子は憎むような眼になって木立ちの影に波打つように上へ上へと
犇く、くらい石段の奥を見上げて来たのだった。」

81)浄土(森敦)
福田寺(長沢御坊と言われ蓮如ゆかりの名刹)の住職の母と森の子供の頃の思い出に
晩年を迎えて再会した時の運命的で夢のような出来事を描いている。
福田寺は公家の奴振りが有名で、報恩講の時に行われる。
「芭蕉は山中温泉で曾良を先立たせると、全昌寺を訪ね前夜曾良が泊まって残した
句を見て、別離の情を新たにしている。次に天竜寺を訪れて北枝との別離を
語っている。次に永平寺を訪ねて道元の大いなる別離に感動している。
そういえば、すでに「旅立ち」の「行く春や鳥啼き魚の目は泪」が別離の句であり、
「結び」の「蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ」が別離の句である。
芭蕉はじつに会者定離を語っていたのだ。ひとり感に打たれているうちに、
わたしはいつか大谷寿子さんのことを思い出していた。」

82)夢ちがえ(渋沢龍彦)
湖東の豪族の耳の聞こえない姫が閉じ込められた部屋から見た田楽を踊る家来に
恋をして夢を見る。夢違えによって二人は結ばれるが、昔の恋人の密告により
3人は殺されてしまう。
「ふさがっていた栓が取れたように、姫の耳を恍惚たらしめた。耳ばかりではなく、
五体のすみずみにまで音は感動を与えた。感極まって、姫は涙にかきくらた
ほどである。
舞台の設定は佐々木氏で観音寺城であり、沖島であったかも。

83)クレソン(藤本恵子)
湖西線開通。ローズタウンの誕生、びわ湖総合開発など変貌していく湖西の姿が
描かれている。

84)桜の森の満開の下(坂口安吾)
血も涙もない山賊さえおののいた「美しいもの」への恐怖を鈴鹿峠の桜で描く。

85)一休さんの門(川口松太郎)
とんちの一休さんだが、悩みから脱して悟りを開いたのは、びわ湖の船の上であった。

86)ニコライの遭難(吉村昭)
日本を訪問していたロシア皇太子襲撃事件の裁判官の姿勢を基に描いた。

87)湖のほとり(田山花袋)
「湖水でとれるヒガイ、若鮎、蜆の汁、そういうもので私たちは午飯をすましたが、
昼ややすぎて餓を覚えつつあったときには、殊に一層の美味を感じた。
私たちはやがて再び汽船に乗った。少し酔った顔を風に吹かせながら、潤い湖上
を東から西へと横切っていく感じはなんとも言われなかった。、、、、
湖上から見た大津の町は、いかにも趣きに富んでいた。白亜と瓦甍、その間を
縫った楊柳の緑、その上に緩やかに靡いている逢坂山の丘陵、それも汽船の
進むに連れて次第に遠く、比叡、比良の翠らんをその前に見る様になる頃には
唐崎の根を張った松も蓮や志賀の都の址も、明智佐馬之助の自害した阪本の
城の位置もそれとさやかに差す事が出来るようになった。」
ほぼ湖の沿岸全域を訪れ、同行者との会話や蕎麦やビールなどの食べ物関係の
記述が多く、雑感的な仄々とした味わいがある。

88)山椒魚(今東光)
山椒魚は比叡山をはじめ、40編からなる短編集。
「比叡山」
「坂本の大鳥居をくぐって、石ころ路を丹海と軍平とは、ぼそぼそと話し
ながら歩いた。両側には石垣をめぐらせた山内の寺院が並んでいるが、
ことりとも音がしない。中に人が住んでいるか、どうかもわからないほど
閑寂だ。」
さらに、
ケーブルに乗り、軍平は琵琶湖を一望にして、その雄大な光景にため息を
漏らしていた。
「なあ、見なはれ、たいしたもんやおまへんか。何宗の御本山かて、日本一の
びわ湖ちゅう大きな湖水を懐に抱いている御山はありまへんやろ。
この天台宗ばかりや」そう言われてみると成る程そんな気もするのである。
「そら、まあ、もっと高いお山もありましゃろけど、日本一の湖を庭池にしてのは、
延暦寺ばっかりだっしゃろなあ」
「まったく、こんな景色を見てたら気ぃも晴れ晴れしまんな。良え坊主、出るのん
当たり前や、ちとっも浮世心が起こらんやろ」、、、、坂本で一番高い戒蔵院から
急な坂を下りる左右には何ヶ寺かの寺院がある。竹林に囲まれた見性院を探し当てると
座敷に通された。

89)志賀寺上人の恋(三島由紀夫)
「春になって、花見の季節になると、志賀の里を訪れる都人士が多くなった。上人は
何の煩わしさをも感じなかった。今更こういう人たちに掻き乱される心境ではなかった
からである。上人は杖を携えて草庵をでた。湖水のほとりへ行った。午後の光りに
ようよう夕影のさしてくる頃で、湖の波は静かであった。上人は水想観を成して、
湖畔に一人佇んでいたのである。」
志賀寺は崇福寺の別称で、奈良時代には十大寺の一つとして隆盛を誇った大寺で、
現在は滋賀里にその旧跡が少し認められる。
ひたすらに浄土を想い描き、その中でのみ生き抜こうとしていたものの、抗いきれない
恋によって現世に引きずり戻されていく人間の心の葛藤を描いている。
「私には実は、その独特な恋の情緒よりも、その単純な心理的事実に興味があった。
そこでは、恋愛と信仰の相克が扱われている。、、、、、
来世と今世がその席を争いあって、大袈裟に言えば、彼らは自分の考えている
世界構造が崩れるか崩れないか、というきわどいところで、この恋物語を
成り立たせたのである。」

90)七つ街道ー近江路フェノロサ先生(井伏鱒二)
「フェノロサの墓を見るために大津の法明院を訪ねた。この寺は三井寺の塔頭
だが、本山よりまだ高みの、まだ見晴らしのいいところにある。、、、、
森閑とした寺であった。西川さんが交渉すると、雛僧が案内に立って、
茶席の雨戸を開けて見せた。フェノロサがビゲロー博士と一緒に住んでいた
「時雨亭」という茶席である。」
日本文化へのフェノロサの傾倒は凄まじいもので、「時分が死んだら遺骨は
三井寺に葬って欲しい。もし他の場所に葬られたら、きっと盗まれた釣鐘の
ように、三井寺に帰りたいと、と泣き叫ぶだろう」という書簡にも現われている。
「墓は玉垣で囲まれている五輪の塔で、裏山への登り口にある。直ぐ近くに
ビゲロー博士の墓と、両博士の略歴を刻んだ平べったい角石が据えてある。
その文字も遺言に従ったとのことで、「フェノロサ先生」は「飛諾洛薩先生」と
綴り、「フランシスコ」は「仏蘭西栖格」という文字に綴ってある。」

91)湖光島影ー琵琶湖めぐり(近松秋江)
「比叡山延暦寺の、今、私の坐っている宿院の二階の座敷の東の窓の机に向って
遠く眼を放っていると、老杉躁鬱たる尾峰の彼方に琵琶湖の水が古鏡の面の
如く、五月雨晴れの日を受けて白く光っている。、、、空気の澄明な日などには
瓦甍粉壁が夕陽を浴びて白く反射している。やがて日が比良比叡の峰続きに
没して遠くの山下が野も里も一様に薄暮の底に隠れてしまうと、その人家
の群がっている処にぽつりぽつり明星のごとき燈火が山を蔽おた夜霧を透して
瞬きはじめる。」
近松浄瑠璃の愛読者であったこともあり、内部的には、情念的な性質を持っており、
異常な情念と妄執の作品が多い。

92)観光バスの行かない、、、(岡部伊都子)
23編の随筆集
眉高き十一面観音
「一歩、薄暗い堂内にはいって、思わず「まあ」と声を上げる。正面にすらりと立った
美しいお人。それはその前に献じられたばらんの葉をかきわけて、今にもこちらに
歩み寄りそうなゆらめく気配を感じさせた。これは美しいお方に会ったものだ。
まだその眉目を判然と見極めもせぬ先にこみあげてくる印象。それはこんな方が
こんな所にいらしたのかという、悲しみにも煮た感動なのである。
電燈に照らし出された面を、近づいてよく仰ぐ。まことに、けざやかな眉を高く
あげた美女である。近づく者をおどろいたように見つめている瞳。斜視の
魅力とでもいおうか、右目は真ん中にあるが左は鼻筋に瞳がよっている。
人間的な、肉厚い唇と、ノーブルな鼻の形。はえぎわの髪のゆたけさも、情の濃さ
をあらわしている。耳朶に目立って大きなイヤリングがついているのも,
宝冠の飾り紐が、左右に長く垂れなびいているのも、完全に美しい女性を意識させる。
十一面の冠が相当大きく、頂天の菩薩面までいれると二メートル以上は
あるかもしれない。
漣の芯まで一本造りの木造だが蓮弁は新しくつくられたものとか。冠中央の
阿弥陀仏も後補のものだというが、全身、不思議なほどに滑らかで、痛みが
ほとんどみられない。」

93)湖笛(水上勉)
京極高次が京極家を再興するまでの紆余曲折を描いた。
高次は、大溝5000石からスタートし、九州の役後に5000石加増される。天正18年(1590
)
の小田原征伐の功により近江八幡の八幡山城28000石、文禄4年(1595)に大津城6万石
に
封じられ、近江国内を順次異動していく。大名として頭角を現していき、京極家復興を
成し遂げることになる。
その中でも、秀吉への謀反の心はある。
その中で、
*高次殿、あんたは、生きねばならぬ。生きるということは、白い一本道をのんきに歩
くことではない。迷い迷うて歩くのが生きるというものじゃ。・・・・みんな同じ心の
人間じゃ。  上・p187

*小さい我を張っていては道にふみ迷う。小我を捨てて、大我に生きることが、世に出
る者の根本義じゃ。・・・・眼を閉じて、大きく活眼をひらかれい。 上・p188

*人間、死んでしまえば、それでお終いではないか。生きてこそ、苦しみの解かれもす
る喜びが味わえるというのに。死によって解放されるのはずるいと思う。  上・p189

*強い者は、運命を甘んじてうけ、運命の中に自分を見出して生きてゆく。運命にさか
らうことはたやすい。自滅の道がたどりやすいようにの・・・・  下・p181

琵琶湖を背景にした様々な描写が良い。
*今しも杉木立が割れて、扇子を半ばすぼめたような視界がひらけている。前方に白い
空がみえる。いや、空ではなかった。空の色と見まがうばかりの湖の水面がのぞいてい
るのだった。 上・p5

*黒一色の葦の平原の向こうに、いま巨大な丸鏡を置いたように光る湖面がある。 上
・p89

*賤ヶ岳の東は、白い山襞が紺青の琵琶湖すれすれに落ちこんでいる。水ははるか南の
彼方まで、まるで雪の上に紺青の染料をしたたらせたように鮮明に浮いていた。 上・
p128

*長命寺裏のなだらかな丘陵が湖へつき出して、ぽつんと点のように沖島だけがみえる
。 上・p129

*湖面は大溝の出鼻をとりまいて、半紙を敷いたように白かった。 上・p201

*折から五月の緑に囲まれた湖面は、藍を溶かしたように美しかった。 上・p210

*いつみても変わりないはずの琵琶の水が、今日は冷たく沈んでいるような気がした。
 上・p313

*陽の輝きはじめた湖面は朱をとかしたような色の中で、こまかいちりめん皺を光らせ
はじめた。
  下・p83

*湖面へ桟橋がつき出ていて、いま、暮色になずみはじめた水面に点々と?のさし竹が
ういてみえる。 下・p111

*琵琶湖は山の奥の暗い湖じゃと思うておった・・・  下・p112

*高次は、整然とひろがる町並みを眺めたあと、遠い湖面を見やった。冬の朝である。
清澄な空気は、陽を受けて、いま橙色に湖面の小波を輝かし、遠い山影をくっきりとう
かべている。  下・p258

琵琶湖の表情がおもしろい。

ほかに比良に関しては、「雁の死」「比良の満月」があります。

『雁の寺』の最終章となる第4部「雁の死」です。
舞台は、京都府と滋賀県の県境、慈念の父がいることがわかった琵琶湖西岸の比良に移
ります。
比良というと、井上靖が何度か舞台として取り上げている土地です。物語の場所として
、文学的な香りを感じさせるところのようです。というよりも、水上勉も井上靖も、共
に琵琶湖を背景にした多くの作品を残しています。作風は異なります。しかし、その底
流には、土地の雰囲気や匂いが取り込まれています。しかも、水上勉の方が、土地と風
土に根差した生活が描かれているように思われます。
月光の中、完成間近の三重塔の中で、慈念と父の親子二人が、母だ誰かということを巡
って緊迫したやりとりがなされます。今この地にいる女が母ではないか、と慈念は父に
迫りま。それを最後まで否定する父。この物語の見せ場です。








近江(滋賀)は比良山系や伊吹山などの山並と琵琶湖を中心とする水の世界が
上手く混在し、更には古代からの遺跡や神社などの文化土壌の深さから
多くの文学作品に登場している。
最近、旅の企画などに関わっているが、単に目に映る光景に感動するだけではなく、
文学に登場する同じ場所を作者の視点で描きこんだ文から、新しい感動が
あると感じ始めている。五感の全てを動員するのが文学であり、私たちの感じ
切れていない世界を現出してくれるし、時を深く感じれるのも文学作品からである。
今近江に関係する作品を少しづつ洗い出しているが、既に70作品以上もある。
今回は、その中から、私的に気になった作品を紹介していきたい。
1)星と祭(井上靖)
娘と父親が琵琶湖で亡くなった二人が湖岸の十一面観音を巡礼。
高月や木之本町の十一面観音を美しく描いている。
この作品は、人間としての業や弱さが淡々として描かれており、個人的にも
考えさせられる。
「ただ、現在この十一面観音がここにあるということは、これを尊信した
この土地の人の手で、次々に守られ、次々に伝えられて、今回に至ったと
言う事であろう。架山はこれまでにこのような思いに打たれたことはなかった。」
「まず、善隆寺の観音様、そして、宗正寺の観音様、医王寺の漢音様、鶏足寺の
、、、、、。湖は月光に上から照らされ、その周辺をたくさんの十一面観音で
飾られていた。これ以上の荘厳された儀式というものは考えられなかった。」
十一面漢音については、白洲正子、和辻哲郎の作品があり、その美しさを
教えてもらったのは、こちらからだが、現地を訪問した時、この作品を思い出す。
2)竹生島心中 青山光二
心中にいたるまでの心境が美しく描かれている。
八日市、近江八幡(とくに明治末期の情景が詳しい)、長浜の町が登場する。
3)宗方姉妹(大仏次郎)
戦後間もなく満州から引き揚げてきた宗方一家とその周辺を描いている。
長浜の曳山祭りを鮮やかな色彩の思い出として描いた。作品の中には、示唆ある
言葉も多い。
「昔の人間が造って残してくれたものは、いつまで経っても大切」
「町の中に美しい川を持つのは、都市として他に取り換えるもののない幸福
なことである。」
「日本間は、何もおいていなくとも心が鎮まるようにできている。ヨーロッパ
の生活は置くものがなければいけないでしょう。欲が生活様式の基礎になって、
背負ってきた荷物がだんだん重くなって、邪魔になって、動きが取れなくなる」
また、書かれている会話の言葉が美しい。最近の簡略化し、情緒のない言葉に
慣れた人にとっては、大いに参考になるのでは。
ラリックのガラス花瓶についての美しい記述もある。
「ガラス細工にしては厚みのあるどっしりとした花瓶で、水色に葉飾りを彫刻
してあるのが光の当たる調子で美しく淡い紅いの色が浮いて出るのを、宏は
電燈の下で動かして見せた。」
4)春(島崎藤村)
関西漂泊の旅から始まる自伝的な小説であり、彦根、八日市などを
描いている。
5)干拓田(早崎慶三)
近江八幡から安土をまたぐ大中の湖を描いている。
「安土に野に広がり、湖周は深い葦原で行行子と句の上で呼ばれる
葦きりが、さしひきする潮波のさまで囀り合う初夏には水辺一面
目の覚める鮮明さで、まっ黄く、ひつじぐさ科の河骨が息吹をあげる。
水面四、五寸抜き出たその一輪花の群れを、かき分けるようにして
野菜舟が櫓べそを軋らせて通う。、、、冬は鴨が舞い降り、青葦は
乾いて野晒しの骨の擦れ合う佇しみの中にも飛沫をはねて鯉の躍る
音がする。深々と納まり、ひそやかに呼吸する水郷であった。」
大中湖の干拓により追われた漁師の悲哀がある。
6)安土往還記(辻邦生)
安土城を訪問した通訳の人の語りからその素晴らしさを味わう。
7)筏(外村繁)
五個荘の近江商人の一族を数代にわたり描いた。今は雛人形などで、昔の
華やかさが垣間見られるが、消化の佇まいは近江八幡の商人屋敷と同様に
歴史の流れをあらためて感じる。
8)歴史を紀行する(司馬遼太郎)
蒲生郡石塔寺の石塔の由来を考える。日本の中の朝鮮文化とも言われる。
司馬遼太郎の「街道をゆく」の第一巻は湖西から始めようとの本人の
希望があったと言う。他にも3冊ほど近江について描いているが、第1巻
は私の住まい近くでもあり、新旧の違いをこの本からも感じられて面白い。
9)雪の下(倉光俊夫)
野洲の中主を訪れた移動演劇の人と農家の青年の交わり描いている。
農村風景の具体的な描写が特徴。
10)瀬田の唐橋(徳永真一郎)
唐橋が一人称で自分の見てきた歴史を語る。
11)ぼてじゃこ物語(花登こばこ)
ぼてじゃこを皇室の献上魚の「鰉ひがい」にする物語。
なお、花登の生家は今の大津長等1丁目にあり、大津図書館にはその専門
コーナーもある。
12)僧興義、鮫の恩返し(小泉八雲)
三井寺の僧興義が病気になったときに魚となり、琵琶湖へと泳ぎ出し釣られて料理
される寸前に蘇生する。琵琶湖の美しさを描いている。
「水がえらい青くてきれいでの、ひと泳ぎしとうなった。、、、目の下にも、
ぐるりにも、美しい魚どもがぎょうさん泳いどる。、、、わしはそこから泳いで、
いろいろ美しいところを巡ったようじゃ。、、、青い水面に踊っておる日の光を
眺めて楽しんだり、風かげの静かな水に映る山々や木々の美しい影を、心行く
ばかり眺めたり、、、とりわけ今でも憶えておるのは、沖津島か竹生島あたりの
岸辺が、赤い垣のように水に映っているけしきじゃ。」
「鮫の恩返し」と言うのは「明暗」と言う作品の中にある話。
主人公藤太郎が竜宮を追い出されて瀬田の唐橋にいた鮫人を助け、その鮫人が
藤太郎の恋を成就させるという恩返しの話。
13)一歩の距離(城山三郎)
陸上自衛隊大津駐屯所のあった航空隊での4人の予科練生を中心とした際川や唐崎
での終戦直前の話。
「(浮御堂の光景は)小学校の遠足の日でも思わせるような、のどかな姿であった。
、、、だが、そうしたのどかさは、うつろいやすい仮のモノでしかなかったし、
彼らはそれを承知していた。平和とは常に仮のものである。平和を願うなどと言う
のは、臆病者であるどころか日本人でさえない。」
14)かくれ里(白洲正子)
近江を「日本文化発祥地、裏舞台」と考える白洲。
「秘境と呼ぶほど人里はなれた山奥ではなく、ほんのちょっと街道筋から
逸れた所にある。」というかくれ里を近畿26箇所えらび、古くから伝わる
宗教行事や民俗的な場所を訪れた。たとえば、明王院の「夏安居」(げあんこ)、
太鼓乗などの由来や作法、背景などを綴っている。
15)安土セミリオ(井伏鱒二)
治郎作とセミリオ(キリシタンの学問所)の人間、宣教師たちが本能寺の変以後
どうしたかを描いている。当時の安土の街の様子が鮮明に描かれている。
街の中心は常楽寺周辺、港のあった常浜は水辺公園となっている。また、安土の
城は湖の直ぐ傍にあったが、いまはその後の大干拓で陸地が続く。
16)比良の水底(澤田ふじ子)
葛川渓谷滝は三の滝、今は明王谷に住む山椒魚と滝壺に落ちてきた金銅
の蔵王権現との四方山話。葛川坊村は安曇川の小さな集落だが、その風景は
見ごたえがある。地主神社があり、明王院の本堂もある。さらに、葛川参籠と
太鼓回しと言う行事が7月16日から始まる。
「人間の愚かさはこれから永代、つきることがあるまい。今後、わしはおぬしと
もう口を利かぬ。人間の愚かさについて更に深く考えたいからじゃ」
「山椒魚のわしにはなんの言葉もない。それにしても、わしはあと幾年、
生きるのであろうか。生きているのにもうあきてきたのである。」
「滝壺だけはいよいよ青味をくわえてしんと静まり、そこから流れ出る渓流が
涼しい眺めを作っていた。」
「たとえば、この世のすべてのものに共通する言葉があったとしたら生きている事が
何十倍も楽しくなるかもしれない。鳥や花はもちろんのこと。岩や水や、
それから、、、山椒魚とも話が出来たなら、、でも、やっぱり、一番欲しいのは
人間同士、分かり合える言葉か。」
閻魔王牒状 瀧にかかわる十二の短篇(朝日新聞)より
17)桜守(水上勉)
西行の愛した吉野の山桜と同じ様に山桜や里桜の日本古来種の桜に生涯をかけた
一人の男を描いた作品。このモデルとなった笹部新太郎は岐阜県の御母衣ダムに
沈む事になっていた樹齢四百年のあずまひがんの老樹(現在荘川桜の名前で健在)
を移植した人。山桜は若葉と同時に開花し、清楚で遠くから見ると微妙な陰影を
つくり周辺に物静かな空気を醸し出す。
「村の共同墓地にある三百年は生きたであろう巨桜であった。そこは、海津の村
から敦賀の方へ山沿いの国道を少し入りかけた地点で、道の直ぐ下の墓地である。
墓地全体にかぶさるように大枝を張った桜は見事だった。、、、根元から二股に
なったこの彼岸桜は、U字型に大幹を二本伸ばし、広大な墓地に存分に枝を
はっていたが、真下の墓地は皆軍人の墓だった。、、、、村人が慈しんで育てる
巨桜もあるのだと、弥吉は思った。、、、日本に古い桜は多いけんども、海津の
桜ほど立派なものはないわ。あすこの桜は、天然記念物でもないし、役人さんも
学者さんも、しらん桜や。村の共同墓地に、ひっそりとかくれてる。けど、村の人らが
枝一本折らずに、大事に守ってきてはる。墓地やさかい、人の魂が守ってんのやな。」
水上勉は「在所の桜」でも御母衣ダムの桜について描いている。ここは昔2、3回
仕事の関係で通った事があるが、この本を読んでいれば、また違う感じを受けた
であろう。少し長いし、近江からは外れるが、
「この桜ではない、笹部翁の手になるもう一つの桜がある。根尾谷から谷ひとつ東
へいった庄川谷に、樹齢五百年のアズマヒガンが二本、みごとに活着し、御母衣
ダムの水面をのぞいている。根尾の巨桜とともに、忘れる事の出来ない岐阜県の
記念碑的な桜だと思う。
御母衣ダムは世間周知の長い水没反対抗争もあって有名な工事だった。湖底には、
三百六十戸の家と三つの小中学校と三つの寺が沈んでいる。二つの菩提寺の墓場
にあった巨桜を、電源開発の高碕達之助さんの依頼で、笹部翁が前代未聞の移植を
敢行したのである。世界植林史上、この桜ような活着は例を見ない。奥美濃の
とくに、庄川の春は遅いから、根尾の巨桜が散る頃は、まだ蕾だろう。私は何度も、
この桜の下に佇んでいるが、根尾の巨桜の下にいるのと、また別の感慨を覚える。
おそらく、水没反対の村人たちは、二人の老人が世間の反対を押し切って敢行した
この移植事業を、せせらわらったことだろう。補償でこじれた抗争だったから、
根付くかどうかもわかりもしない老桜に、金を使うなど不満だった事情もわかる
のだが、しかし、活着してみると、巨桜は、人間が残した大きな業績と言うものを
教える。電源は山を壊し、川を埋め、野を荒らす元凶の様に言われているが、
その総裁であった高碕氏と、桜好きの一老人が手を取り合って、前代未聞の移植工事
をやり終わった日は、8年前のジングルベルがなる12月24日であったという。
奥美濃は人影もなく、みぞれ雪が降っていた。十中八九は枯れると思われた、
この桜が、今日花を咲かせ、湖面を彩っているのだ。
ふるさとは水底となりつうつし来し
この老桜とこしえに咲け
と碑文に見える。高碕さんの歌である。
、、、去年の2月の渇水期、白川郷を訪ねたときに、氷柱と化した二本の庄川桜を
拝んだ。湖底の死んだ村が露呈して浮き上がっている。感動を覚えて古道を降りた。
古い村はそのままそこにあった。水がしずかに退くということは不思議なもので、
埋まった村の家々の土台石も墓石も、瀬戸の柿木も、南天も松の植え込みも生徒
たちがつかったプールも、学校の門石も、みな姿をとどめて露出していた。
私はそれらの意志や木にさわって歩いた。誰もいなかった。この私の一人歩きを
眺めていたのは二本の巨桜だけだった。ふるさとは水底に沈んで、二本の桜だけが
生きている。だれがこの移植行為を笑えるだろうか。花どきに、どこからともなく、
老いた夫婦がやってきて、弁当を広げる間もなく巨桜の肌にふれて泣くという。
おそらく、水没反対を叫んだ人々の家のお爺さんやお婆さんであろう。
引っ越した先の都会を逃れて、桜に会いに来る。水底に沈んだ村を偲ぶのは
この二本の桜しかない。」
18)夜の声(井上靖)
この退廃していく社会を憂い、交通事故で神経のおかしくなった主人公を通して
その危機を救える場所として近江を描いている。
神からのご託宣で文明と言う魔物と闘うが、自分はそのために刺客に狙われている
と思い込んでいる。魔物の犯してない場所を探して、近江塩津、大浦、海津、
安曇川から朽木へと向う。朽木村でその場所を見つける。
「ああ、ここだけは魔物たちの毒気に侵されていない、と鏡史郎は思った。
小鳥の声と、川瀬の音と、川霧とに迎えられて、朝はやってくる。漆黒の
闇と、高い星星に飾られて、夜は訪れる。、、さゆりはここで育って行く。
、、、レジャーなどという奇妙なことは考えない安曇乙女として成長していく。
とはいえ、冬は雪に包まれてしまうかもしれない。が、雪もいいだろう。
比良の山はそこにある。、、、さゆりは悲しい事は悲しいと感ずる乙女になる。
本当の美しいことが何であるかを知る乙女になる。風の音から、川の流れから、
比良の雪から、そうしたことを教わる。人を恋することも知る。季節季節
の訪れが、木立ちの芽生えが、夏の夕暮れが、秋白い雲の流れが、さゆりに
恋することを教える。テレビや映画から教わったりはしない。」
湖西には、このような場所がまだ残っている。そして、この様な自然に
感化され、陶芸家、木工芸家、画家などが移り住んできている。
19)近江山河抄(白洲正子)
近江を更に深く描いているのが「近江山河抄」であり、大津から湖西、湖東
湖北と描かれており、その場所と時の流れをもう少し深く感じられるのでは
ないだろうか。
「奥島山の裏側へまわっていくと、突然目の間が開け、夢のような景色が現われる。
小さな湾をへだてて沖島が湖上に浮かび、長命寺の岬と伊崎島が、両方から抱く
様な形で延びている。、、奥島山の裏に、これほど絶妙な景色が秘められている
とは知らなかった。」
「現在は半島のような形で湖水の中に突き出ているが、周りが干拓されるまでは、
入り江にかかる橋でりくちとつながり、文字通りの奥島山であった。山頂へ登って
みると、湖水をへだてて、水茎の岡の向こうに三上山がそびえ、こういう所に
観音浄土を想像したのは、思えば当然の成り行きであった。
八百八段の長い石段を上り詰めると本堂、護摩堂、三重塔、鐘楼などが建ち並び、
木立ちの間から湖水と水茎の岡が茫洋とみえる。自分の考える日本人の自然観、
それを長命寺の絵図でも白洲は納得する。


最近、旅の企画などに関わっており、facebookでも文学の舞台となった場所の写真と
簡単なコメントを投稿しているが、結構多くの人がアクセスしてくる。
旅は、単に目に映る光景に感動するだけでは、何と無く味気ない。
文学に登場する同じ場所を作者の視点で描きこんだ文と自分の感じた情景がより
深い印象を残すのではないか、と思い始めている。五感の全てを動員するのが文学
であり、私たちの感じ切れていない世界を現出してくれるし、時の流れを深く感じれる
のも文学作品からである。今回はその第2回目の紹介である。
1)浄土(森敦)
福田寺(長沢御坊と言われ蓮如ゆかりの名刹)の住職の母と森の子供の頃の思い出に
晩年を迎えて再会した時の運命的で夢のような出来事を描いている。
福田寺は公家の奴振りが有名で、報恩講の時に行われる。
「芭蕉は山中温泉で曾良を先立たせると、全昌寺を訪ね前夜曾良が泊まって残した
句を見て、別離の情を新たにしている。次に天竜寺を訪れて北枝との別離を
語っている。次に永平寺を訪ねて道元の大いなる別離に感動している。そういえば、
すでに「旅立ち」の「行く春や鳥啼き魚の目は泪」が別離の句であり、「結び」の
「蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ」が別離の句である。芭蕉はじつに会者定離を
語っていたのだ。ひとり感に打たれているうちに、わたしはいつか大谷寿子さん
のことを思い出していた。」
「会者定離」、噛み締め甲斐のあることばです。
2)琵琶湖(横光利一)
汚染がひどくなる琵琶湖を憂い、その将来に不安を示す。
他には、「湖光島景琵琶湖めぐり(近松秋絵)」などもある。
「青年時代に読んだ田山花袋の紀行文の中に、琵琶湖の色は年々歳々死んで行く
様に見えるが、あれはたしかに死につつあるに相違ない、と言うようなことが
書いてあったのを覚えている。わたしはそれを読んで、さすが文人の眼は光っている
と、その当時感服したことがあった。今も琵琶湖の傍を汽車で通るたびに、花袋
の言葉を思い出して、一層その感を深くするのだが、私にもこの湖は見る度に
沼のようにだんだん生色をなくしていくのを感じる。」
横山利一は小学生のころと新婚時に大津に住んでいた。これはそのときの思い出
も含めて書き綴ったもの。
「思い出というものは、誰しも一番夏の日の思い出が多いであろうと思う。私は
二十歳前後には、夏になると、近江の大津に帰った。殊に、小学校時代には家が
大津の湖の岸辺にあったので、びわ湖の夏のけしきは脳中から去り難い。今も
東海道を汽車で通るたびに、大津の町へさしかかると、ひとりでいても胸が
わくわくとして、窓からのぞく顔に、微笑が自然と浮かんでくる。」
さらには、
「去年私は久しぶりに行って見たが、このあたりだけは、昔も今も変わっていない。
明治初年の空気のまだそのままに残っている市街は、恐らく関西では大津だけであり、
大津のうちでは疎水の付近だけであろう。」
最近、琵琶湖八珍が選ばれた。しかし、それら湖魚の多くはその数が激減している。
魚が棲み難くなっているのであろう。水、琵琶湖の存在の有難さを、もっと、
感じるべきであろう。
3)瓔珞品ようらくぽん(泉鏡花)
琵琶湖の夜の美しさに魅了された主人公が何度となく琵琶湖を訪れる。
天人石を探したり、夢の中で鮒になったり、無限の世界を体感する。
「水を切る船端の波の走るのが、銀を落とすと、白い瑠璃の階きざはしが、
星を鏤めてきらきらと月の下へ揺れかかって、神女の、月宮殿に朝する
姿がありありと拝まれると申します。」「霜のように輝いて、自分の影の
映るのが、あたらしいほど甲板。湖水はただ渺茫として、水や空、南無竹生島
は墨絵のよう。御堂の棟と思い当たり、影が差し、月が染みて、羽衣のひだを
みるような、、、」と夜の湖水を表現している。
瓔珞は仏像の胸や頭を飾る飾り。石山や彦根、竹生島などが背景にある。
更には、
「前後に松葉重なって、宿の形は影も留めず、深き翠みどりを一面に、眼界
唯限りなき漣さざなみなり。この処によずるまで、手を縋り、かつ足を支えた、
幹から幹、枝から枝、一足ずつ上るにつれて、何処より寄することもなく、
れん艶たる波、白帆をのせて背に近づき、躑躅を浮かべて肩に迫り、倒さかさまに
藤を宿したが、石の上に、立ち直って、今や正に、目の下に望まれた、これなん
日の本の一個所を、琵琶にくぎった水である。
妙なるかな、近江の国。卯月の末の八つ下がり、月白く、山の薄紅、松の梢に
藤をかけ、山は翠の黒髪長く、霞は里に裳もすそを曳いて、そよそよとある風の
調べは、湖の琵琶を奏づるのである。」
4)比良のしゃくなげ(井上靖)詩集北国より
「むかし写真画報と言う雑誌で、比良のしゃくなげの写真を見たことがある。
そこははるか眼下に鏡のような湖面の一部が望まれる北比良山系の頂で、
あの香り高く白い高山植物の群落が、その急峻な斜面を美しくおおっていた。
その写真を見たとき、私はいつか自分が、人の世の生活の疲労と悲しみを
リュックいっぱいに詰め、まなかいに立つ比良の稜線を仰ぎながら、
湖畔の小さな軽便鉄道にゆられ、この美しい山嶺の一角に辿りつく日が
あるであろう事を、ひそかに心に期して疑わなかった。絶望と孤独の日、
必ずや自分はこの山に登るであろうと。
それから恐らく10年になるだろうが、私はいまだに比良のしゃくなげを
知らない。忘れていたわけではない。年々歳々、その高い峯の白い花を瞼に
描く機会は私に多くなっている。ただあの比良の峯の頂き、香り高い花の群落
のもとで、星に顔を向けて眠る己が眠りを想うと、その時の自分の姿の
持つ、幸とか不幸とかに無縁な、ひたすらなる悲しみのようなものに触れると、
なぜか、下界のいかなる絶望も、いかなる孤独も、なお猥雑なくだらなぬものに
思えてくるのであった。」
5)東海道五十三次(岡本かの子)
風俗史を専攻する夫と私が東海道を旅し、その途中、東海道に取り付かれた
作楽井と言う男に出会う話。
「小唄に残っている間の土山へひょっこり出る。屋根付きの中風薬の金看板
なぞ見える小さな町だが、今までの寒山枯れ木に対して、血の通う人間に
逢う歓びは覚える。風が鳴っている三上山の麓を車行して、水無口から石部
の宿を通る。なるほど此処の酒店で、作楽井が言ったように杉の葉を丸めて
その下に旗を下げた看板を軒先に出している家がある。」
旧東海道筋の町の人々を結んで「東海道ネットワークの会」がある。
6)群青の湖(芝木好子)
「つづら折の湖畔をまわりきって、視界が変わり、広々とした湖の浦が現われた時、
岸辺に打ち寄せられたように小さな部落があった。風光の清らかな、寂とした、
流離の里である。」
「琵琶湖の秘した湖は、一枚の鏡のように冷たく澄んでいる。紺青というには
青く、瑠璃色というには濃く冴えて、群青とよぶのだろうか。太陽の反射が
湖面を走る一瞬に、青が彩りを変えるのを彼女は見た。」
「冬が来て、東京に雪の降る日が続くと、瑞子は琵琶湖の雪景色を思った。北の湖にし
んしんと雪が降るとあたりは白い紗幕に蔽われてゆき、群青の湖のみは白いあられをの
みもみながら、昏い湖底へ沈めていく。雪が止み、陽が射すと、雪でふちどられた湖は
蘇っていよいよあおく冴えかえる。」
「初秋の気配であった。湖水も空も縹色(はなだ)で小舟もない、鏡のような湖、、」
「湖は深海よりも透明で、藍が幾重にも層を成して底から色が立つ、、、、」
「奥琵琶湖の秘した湖は、一枚の鏡のように冷たく澄んでいる。紺青(こんじょう)と
いうには青く、瑠璃色というには濃く冴えて、群青とよぶのだろうか」
「いま 私に見えているのは、湖の生命と浄化の雪と枯葦の明るい茶なの。清らかな鎮
魂の布が織れたら、私の過去から開放され自由になれそうな気がするの。そうしたらこ
の次は、あなたをおどろかすような魅惑的な真っ赤な蘇芳(すおう)や、妖しく匂う紫
や、老いた女の情炎のような鼠茶や、いろんな色を糸に乗せて、思い切り織って
ゆきたい」。
芝木さんの文章はカラーである。情景にあわして様々な色が配色されている。
湖西はあまりかかれていないが、琵琶湖の美しさを感じて欲しい。
7)私の古寺巡礼(白洲正子)
「10世紀のころ、比叡山に相応和尚という修行者がいた。南の谷に無動寺を
建てて、籠っていたが、正身の不動明王を拝みたいと発心し、3年間の間、
比叡の山中を放浪していた。雨の日も雪の夜も、たゆまぬ苦行に、身心とも
やせ衰え、今は死を待つばかりとなったある日の事、比良山の奥、葛川の
三の瀧で祈っていると、滔滔たる水しぶきの中に、まごうかたなき不動明王
が出現した。相応は嬉しさのあまり、滝壺に身を躍らせて抱きつくと、不動と
見たのは一片の桂の古木であった。その古木をもって、拝んだばかりの不動明王
の姿を彫刻し、明王堂を建立してその本尊とした。それが今の葛川の明王院
である。
この相応の足跡を忠実に辿っているのが、無動寺を本拠とする回峰の行者たちである。
彼らは白い死装束に身をかため、千年の昔に始祖がしたと同じ様に、一心に
不動明王を念じつつ、比叡の山中を巡礼し、最後に比良山の三の滝へ到着する。
毎年春から夏へかけて午前2時に無動寺を出発し、行者道を30キロ歩いて、
8時ごろ寺に帰る。これを百日続けて、千日をもって満行となるが、その他
京都市中の切廻り、大廻り、断食行、そして、明王院の「夏安居(げあんご)」
など、どれ一つとっても、常人には考えられない苦行の数々を経る。
それによって得るものはなにもない。しいて言えば何者動じない不動の精神、
不動明王の魂を身につけるというべきか。
8)比叡(瀬戸内晴美)
女流作家が出家し、比叡山で行をつむ話である。
比叡山での「もしかしたら、既に死んでいるのに気付いていないのだろか、
と言う厳しい修行の中で、仏に引き寄せられ、新しく生きて行く事を知る
姿を語っている。
その合間に日本の文化や西行、一遍などの出家者の恋の話し、外国の風景、
や名画の話など、豊かな話題が散りばめられている。
男と秘密に旅をした堅田の町も思い出される。
「旧い家並みの家々は、どの家もどっしりと地に根を生やしたような落ち着きで
肩を並べていた。生まれてくる前に、通った事のあるような所だと、俊子は
感じていた。」
また、雪の降る日、浮御堂に立った後、隣りの料亭で鴨鍋を突付く、月が出ている。
その光景を、
「湖に薄く舞い落ちる雪が月光に染められ、金粉をまいているように湖水の面に
映っていた。湖面も月光に染められ金波がひろがる上に雪が休みなく降り続いている。
それは不思議なこの世ならぬ幻想的な光景だった。」
「人が寝とんなはる時間、夜通し車走らせて好いとる女ごの許ば通いなはる。
そぎゃんして、病気になって死にはってもよかと覚悟しとらすっと」と。
なおも責める尼僧に、「そぎゃんこと解決できるなら、だあれもなあんも
苦しむことなか。そぎゃんこと悪かことわかとって、とめられんばってん、
死ぬほどきつか思いすっと」
これらの幾つかから近江の良さを感じて欲しい。



「京阪鉄道沿線の関係文学」
京阪鉄道とは縁もゆかりもないが、色々と近江関連文学を集めていると
結構その舞台となる場所に駅が多くある。ここを訪れ、石山坂本沿線の
施設・観光と合わせて小説の中の社会、生活などを感じてもらうのも
面白いのでは、と思う。 今回、石山駅から坂本駅までの間で所縁の
小説30ほどを紹介しよう。
1)石山寺駅
岩間寺
・石山寺
 ①春(島崎藤村)
関西漂泊の旅から始まる自伝的な小説であり、石山、彦根、八日市などを
描いている。恋に悩み、生に悩み、芸術に悩む青年たちを通して、遂には
「自分のようなものでも生きたい」という想いで。東北に旅立っていく
自分の姿を描いている。石山寺の春が疲弊した藤村にとっての大きな慰めであった。
「職業を捨て、友達と離れて、半年の余も諸国を流浪して来たということは、
岸本が精神の内部をよく説明していた。琵琶湖に近い茶丈の生活はまだ岸本の
眼にあった。」
藤村の憧れた松尾芭蕉や紫式部への想いが石山寺への滞在ともなっている。
②源氏供養(松本徹)
源氏供養は三島由紀夫も戯曲にしているが、妄語の戒めに触れた紫式部の霊を
弔うストリーであるが、ここでは「石山寺に行った私が、そこで出会った3人の
源氏読みの女性たちと一緒に想いをめぐらせる作品である。
「わたしは石山寺を歩く。石山寺のもとになったという硅灰岩を、不思議に清潔な
空間を造り出している、と感じ、桧皮葺の、柔らかく張りのある屋根、が美しい
多宝塔を眺め、寺を創めた良弁のことを思い、本堂を巡拝し、そして紫式部
供養塔を見て、彼女が供養されなければならなかったことを思ってみたわけである。
それから、宙を浮くようにして、ある月見亭に立つ。なんと眺望のよいことか。
式部も月の美しさに迷い出て、ここにたったのではないか、とわたしは想って
見たりもする。
そこへ源氏読みの女性たちが来て、口ずさんだのが、謡曲源氏供養の一節だった。
恥じかしながら弱弱と あわれ胡蝶の ひと遊び、、、、、
女性たちは紫式部と一緒に自分たちも地獄に堕ちていると言う。が、わたしは
そうは思わない。事実「源氏一品経」は、最後はこう言うのだ。「狂言綺語」
の過ちをそのまま仏の教えへを讃えるものにと替え、その教えを広める手立てに
しよう、と願った。つまり、紫式部がこの物語を書いたのは、、、紫式部自身が
観音の化身であり、仏の教えを悟らせる方便として書いた、のだと。」
③幻住庵記(松尾芭蕉)
湖国を愛した芭蕉は、永眠の地も自らの意志で湖国と定め、敬愛した木曾義仲
と並んで大津義仲寺に眠っている。
芭蕉が俳人としての評価を高めたのは、「野ざらし紀行」からといわれている。
彼の言う「こだわりや束縛がなく、無心で自在であるという、軽みの世界が
明確になるからだ。
「石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山といふ。そのかみ国分寺の名を
伝ふなるべし。ふもとに細き流れを渡りて、翠微に登ること三曲(さんきょく)
二百歩にして、八幡宮たたせたまふ。神体は彌陀(みだ)の尊像とかや。
唯一の家には甚だ忌むなることを、両部(りょうぶ)光をやはらげ、利益(
りやく)の塵を同じうしたまふも、また尊し。日ごろは人の詣でざりければ、
いとど神さび、もの静かなるかたはらに、住み捨てし草の戸あり。蓬根笹(ねざさ)
軒をかこみ、屋根もり壁おちて、狐狸(こり)ふしどを得たり。幻住庵といふ。
あるじの僧なにがしは、勇士菅沼氏曲水子の伯父になんはべりしを、
今は八年(やとせ)ばかり昔になりて、まさに幻住老人の名をのみ残せり。
石山の奥、岩間の後ろに山があり、国分山という。
昔の国分寺の名を今に伝えているということだ。
ふもとに流れる細い川を渡って、山の中腹にのぼっていき、曲がりくねった
長い道を登っていくと、八幡宮がある。
ご神体は阿弥陀仏の尊像だとか。神仏混淆を認めない神道の宗派からみれば、
たいへんけしからんことなのだが、神も仏もその光をやわらげ世俗の塵に
まみれることで、かえって衆生を救済しようとされている。たいへん尊いことだ。
日ごろは人が参詣しないので、さびれた感じがかえって神々しく、
もの静かである場所の傍らに、住み捨てられた草の庵がある。
蓬・根笹が軒を囲み、屋根を盛って壁は崩れ落ちて、狐や狸にとっては
寝床を得たようなものだ。庵の名を幻住庵という。
あるじの僧某は、菅沼曲水という清廉な膳所藩士の伯父にあたる人物であるが、
今は他界して八年ほどになり、まさに幻のうちに住む老人というべき名のみ
を残している。」
「今歳湖水の波に漂う。鳰の浮巣の流れとどまるべき芦の一本の陰たのもしく、いと
かりそめに入りし山の、やがて出じとさへおもいそみぬ。」
瀬田川リバークルーズ
2)唐橋前駅
建部大社
・瀬田の唐橋
④邪宗門(高橋和巳)
新興宗教の教主千葉とその武装蜂起と壊滅までを描く。千葉が唐橋近くのボート
練習場に現われのが印象的。
⑤瀬田の唐橋(徳永真一郎)
唐橋が一人称で自分の見てきた歴史を語る。
⑥鮫の恩返し(小泉八雲)
「鮫の恩返し」と言うのは「明暗」と言う作品の中にある話。
主人公藤太郎が竜宮を追い出されて瀬田の唐橋にいた鮫人を助け、その鮫人が
藤太郎の恋を成就させるという恩返しの話。
唐橋焼窯元
3)京阪石山駅
4)粟津駅
5)瓦ヶ浜駅
膳所焼美術館
6)中ノ庄駅
7)膳所本町駅
大津市科学館
膳所城跡公園
8)錦駅
9)京阪膳所駅
・義仲寺
⑦芭蕉物語(麻生磯次)
野ざらし紀行にでた、晩年最後のの芭蕉、幻住寺、義仲寺が描かれている。
⑧老残日記(中谷孝雄)
義仲寺無名庵主人の日記的私小説。
竜が丘俳人墓地
10)石場駅
⑨大津恋坂物語(可堂秀三)
石場の旧東海道の小さな坂(近江名所図会にもないが)周辺を描いた物語。
「奥田隆一は、大阪のテレビや映画で名前が売れ始めた俳優であった。彼が
暮らす大津市石場の自宅には、その門前から下の通りまで続く、幅2メートル
、長さ30メートルほどの急な坂があった。この坂が「恋坂」と言う名である
ことは、乳が死んだ際、母から聞かされた。
「うちや死んだお婆ちゃんみたいにな、門の坂のこと、ここはほんまに恋坂や
と思うて、坂のぼるにつれて人が愛しくなってなあ、泣く日ィもくるわ」
彼の母も祖母も道ならぬ恋に悩んだ人であった。恋坂とは、たとえ許されぬ
恋であろうと、熱い想いを胸に抱いて上り下った坂に彼女がつけた名であった。
びわ湖ホール
11)島ノ関駅
12)浜大津駅
⑩ぼてじゃこ物語(花登こばこ)
ぼてじゃこを皇室の献上魚の「鰉ひがい」にする物語。
なお、花登の生家は今の大津長等1丁目にあり、大津図書館にはその専門
コーナーもある。
⑪琵琶湖(横山利一)
汚染がひどくなる琵琶湖を憂い、その将来に不安を示す。
他には、「湖光島景琵琶湖めぐり(近松秋絵)」などもある。
「青年時代に読んだ田山花袋の紀行文の中に、琵琶湖の色は年々歳々死んで行く
様に見えるが、あれはたしかに死につつあるに相違ない、と言うようなことが
書いてあったのを覚えている。わたしはそれを読んで、さすが文人の眼は光っている
と、その当時感服したことがあった。今も琵琶湖の傍を汽車で通るたびに、花袋
の言葉を思い出して、一層その感を深くするのだが、私にもこの湖は見る度に
沼のようにだんだん生色をなくしていくのを感じる。」
横山利一は小学生のころと新婚時に大津に住んでいた。これはそのときの思い出
も含めて書き綴ったもの。
「思い出というものは、誰しも一番夏の日の思い出が多いであろうと思う。私は
二十歳前後には、夏になると、近江の大津に帰った。殊に、小学校時代には家が
大津の湖の岸辺にあったので、びわ湖の夏のけしきは脳中から去り難い。今も
東海道を汽車で通るたびに、大津の町へさしかかると、ひとりでいても胸がわくわくと
して、窓からのぞく顔に、微笑が自然と浮かんでくる。」
さらには、
「去年私は久しぶりに行って見たが、このあたりだけは、昔も今も変わっていない。
明治初年の空気のまだそのままに残っている市街は、恐らく関西では大津だけであり、
大津のうちでは疎水の付近だけであろう。」
⑫兇徒津田三蔵(藤枝静男)
大津京町で起こったロシア皇太子暗殺事件の犯人を扱った物語。
⑬東海道五十三次(岡本かの子)、
風俗史を専攻する夫と私が東海道を旅し、その途中、東海道に取り付かれた
作楽井と言う男に出会う話。
「小唄に残っている間の土山へひょっこり出る。屋根付きの中風薬の金看板
なぞ見える小さな町だが、今までの寒山枯れ木に対して、血の通う人間に
逢う歓びは覚える。風が鳴っている三上山の麓を車行して、水無口から石部
の宿を通る。なるほど此処の酒店で、作楽井が言ったように杉の葉を丸めて
その下に旗を下げた看板を軒先に出している家がある。」
旧東海道筋の町の人々を結んで「東海道ネットワークの会」がある。
⑭ニコライの遭難(吉村昭)
日本を訪問していたロシア皇太子襲撃事件の裁判官の姿勢を基に描いた。
⑮湖のほとり(田山花袋)
「湖水でとれるヒガイ、若鮎、蜆の汁、そういうもので私たちは午飯をすましたが、
昼ややすぎて餓を覚えつつあったときには、殊に一層の美味を感じた。
私たちはやがて再び汽船に乗った。少し酔った顔を風に吹かせながら、潤い湖上
を東から西へと横切っていく感じはなんとも言われなかった。、、、、
湖上から見た大津の町は、いかにも趣きに富んでいた。白亜と瓦甍、その間を
縫った楊柳の緑、その上に緩やかに靡いている逢坂山の丘陵、それも汽船の
進むに連れて次第に遠く、比叡、比良の翠らんをその前に見る様になる頃には
唐崎の根を張った松も蓮や志賀の都の址も、明智佐馬之助の自害した阪本の
城の位置もそれとさやかに差す事が出来るようになった。」
ほぼ湖の沿岸全域を訪れ、同行者との会話や蕎麦やビールなどの食べ物関係の
記述が多く、雑感的な仄々とした味わいがある。
・大津港(琵琶湖汽船)
・びわこ花噴水
・浜大津アーカス
・琵琶湖ホテル
⑯美しさと哀しみと(川端康成) 
琵琶湖ホテルでの殺人を終局に描いている愛憎物語。
・大津祭曳山展示館
13)三井寺駅
・三井寺(園城寺)
⑰埋み火(杉本苑子)
近松門左衛門の生涯を描いている。門左衛門が若いときにいたのが、大津の
近松寺。「近松寺は高観音ともよばれ、大津の宿駅の、ほぼ西となりに位置
している。逢坂山の北尾根にあって、琵琶湖の眺望の豊かさは三井寺からの
大観に劣らなかった。近松寺から三井寺へは、三橋節子美術館、長等神社、
三井寺、円満院へと続く。
⑱僧興義(小泉八雲)
三井寺の僧興義が病気になったときに魚となり、琵琶湖へと泳ぎ出し釣られて料理
される寸前に蘇生する。琵琶湖の美しさを描いている。
「水がえらい青くてきれいでの、ひと泳ぎしとうなった。、、、目の下にも、
ぐるりにも、美しい魚どもがぎょうさん泳いどる。、、、わしはそこから泳いで、
いろいろ美しいところを巡ったようじゃ。、、、青い水面に踊っておる日の光を
眺めて楽しんだり、風かげの静かな水に映る山々や木々の美しい影を、心行く
ばかり眺めたり、、、とりわけ今でも憶えておるのは、沖津島か竹生島あたりの
岸辺が、赤い垣のように水に映っているけしきじゃ。」
⑲七つ街道ー近江路フェノロサ先生(井伏鱒二)
「フェノロサの墓を見るために大津の法明院を訪ねた。この寺は三井寺の塔頭
だが、本山よりまだ高みの、まだ見晴らしのいいところにある。、、、、
森閑とした寺であった。西川さんが交渉すると、雛僧が案内に立って、
茶席の雨戸を開けて見せた。フェノロサがビゲロー博士と一緒に住んでいた
「時雨亭」という茶席である。」
日本文化へのフェノロサの傾倒は凄まじいもので、「時分が死んだら遺骨は
三井寺に葬って欲しい。もし他の場所に葬られたら、きっと盗まれた釣鐘の
ように、三井寺に帰りたいと、と泣き叫ぶだろう」という書簡にも現われている。
「墓は玉垣で囲まれている五輪の塔で、裏山への登り口にある。直ぐ近くに
ビゲロー博士の墓と、両博士の略歴を刻んだ平べったい角石が据えてある。
その文字も遺言に従ったとのことで、「フェノロサ先生」は「飛諾洛薩先生」と
綴り、「フランシスコ」は「仏蘭西栖格」という文字に綴ってある。」
なお、三井寺は「太平記巻15三井寺合戦事」などは延暦寺との合戦が
描かれているが、此処では近代以前は省く。
・琵琶湖疏水
14)別所駅
・大津市歴史博物館
・円満院門跡
・大津絵美術館
・弘文天皇陵
・皇子山陸上競技場
15)皇子山駅
20)一歩の距離(城山三郎)
陸上自衛隊大津駐屯所のあった航空隊での4人の予科練生を中心とした際川や唐崎
での終戦直前の話。
「(浮御堂の光景は)小学校の遠足の日でも思わせるような、のどかな姿であった。
、、、だが、そうしたのどかさは、うつろいやすい仮のモノでしかなかったし、
彼らはそれを承知していた。平和とは常に仮のものである。平和を願うなどと言う
のは、臆病者であるどころか日本人でさえない。」
さらに、
「やっと海軍軍人になれると。だが、それは「必殺必中の兵器」つまり特攻の
募集だった。彼は予期せぬ場面で、突然、生か死かの選択を迫られたのである。
出なければ、出なければ。死ぬために来たのに、何を躊躇っているのか。
腋の下を冷たい汗が流れ続けた。手もぐっしょり汗を握った。
志願するものは、一歩前に出よ。司令のよびかけにかれは「一歩を踏み出すこと
ができなかった。それは乗りたがっていた航空機ではなかったからか。
それとも一歩を踏み出せば確実に約束される死への恐怖からか。
前に出るも出ないのも、余りに大きな決意であった。一歩の前と後ろの間には、
眼もくらむばかりの底深い谷があった。
一歩踏み出す距離はわずかであった。しかし、それぞれの人生を決定する距離
であった。若者を死に導き、あるいは生涯消えぬ苦しみを刻む距離であった。」
21)小説日本婦道記ー尾花川(山本周五郎)
大津尾花川の勤皇の志士であった川瀬太宰とその妻幸を描いている。
婦人の美徳、といっても家父長的視点からではなく人間としての美質に
焦点をあてている。
「日本の女性の一番美しいのは、連れ添っている夫も気付かないという
ところに非常に美しく現われる。、、これが日本の女性の特徴ではないか
と思ってあの一連の小説を書きました」ということ。
・皇子が丘公園
・皇子山球場
16)近江神宮前駅
・近江神宮
近江神宮 時計館宝物館
大津京錦織遺跡
17)南滋賀駅
・南滋賀廃寺跡
22)北白川日誌(岡部伊都子)
北白川廃寺跡から山中越えし、比叡平近くの池ノ谷地蔵尊、新羅善神堂、南滋賀
廃寺跡などをめぐり大津京を探し求めた。 
18)滋賀里駅
23)幻の近江京(邦光士郎)
滋賀、奈良、京都に残存する幻の寺を舞台の推理小説。その寺が
草津にある花摘寺である。一般の滋賀里周辺の大津京とは違う仮説で展開する。
24)志賀寺上人の恋(三島由紀夫)
「春になって、花見の季節になると、志賀の里を訪れる都人士が多くなった。上人は
何の煩わしさをも感じなかった。今更こういう人たちに掻き乱される心境ではなかった
からである。上人は杖を携えて草庵をでた。湖水のほとりへ行った。午後の光りに
ようよう夕影のさしてくる頃で、湖の波は静かであった。上人は水想観を成して、
湖畔に一人佇んでいたのである。」
志賀寺は崇福寺の別称で、奈良時代には十大寺の一つとして隆盛を誇った大寺で、
現在は滋賀里にその旧跡が少し認められる。
ひたすらに浄土を想い描き、その中でのみ生き抜こうとしていたものの、抗いきれない
恋によって現世に引きずり戻されていく人間の心の葛藤を描いている。
「私には実は、その独特な恋の情緒よりも、その単純な心理的事実に興味があった。
そこでは、恋愛と信仰の相克が扱われている。、、、、、
来世と今世がその席を争いあって、大袈裟に言えば、彼らは自分の考えている
世界構造が崩れるか崩れないか、というきわどいところで、この恋物語を
成り立たせたのである。」
19)穴太駅
20)松ノ馬場駅
21)坂本駅
25)金魚繚乱(岡本かの子)
大津下坂本にある実験所にきた美しい金魚を作ろうとする男とその彼女の話。
「白牡丹のような万華鏡のようなじゅんらん、波乱を重畳させつつ嬌艶に豪華に、
また粛々として上品に、内気にあどけなくもゆらぎ広ごり広ごりゆらぎ、さらにまた
広ごり」
26)咲庵しょうあん(中山義秀)
明智光秀の一生を描いた。坂本城は下坂本付近だが、その遺構はほとんどない
27)星と祭(井上靖)
更に、大津坂本の盛安寺の11面を拝してもいる。
「微かに笑っているようなふくよかな顔、がそこにある。京都や奈良の大寺でみる
取り澄ました顔の仏像にはない温かい息づかいが肌にふれてくる。、、、、、
湖畔にたたずむ十一面観音像の美しさは、単に造形的な美しさではない。それぞれの
生活が営まれるそれぞれの土地に、見過ごしてしまいそうな小堂があり、その
中央の厨司の中に大切にまつられ、お守りされている観音像、そこに住む人の
生活の歴史が、像の皮膚に染み込んでいる様に思われる。これが生きた息づかい
と感じられ、自然にこちらも微笑せずにはいられなくなるふくよかな微笑み
として現われるのである。盛安寺11面観音像は、その後、かっての観音堂
のすぐうしろに建設された収蔵庫のなかに、いまもひっそりと立っている。
・日吉大社
28)街道をゆく16巻(司馬遼太郎)
16巻は「叡山の諸道」である。比叡山を含めこの周辺の事を書き綴っている。
司馬遼太郎は、近江について第1巻、第4巻、第7巻、第16巻、第24巻
に書き綴っている。しかも、第24巻近江散歩では、失われ行く琵琶湖の
自然に対する人間のエゴについても、警鐘を鳴らしている。良き自然を
守るのは大変な事でもある。
・滋賀院門跡
29)山椒魚(今東光)
山椒魚は比叡山をはじめ、40編からなる短編集。
「比叡山」
「坂本の大鳥居をくぐって、石ころ路を丹海と軍平とは、ぼそぼそと話し
ながら歩いた。両側には石垣をめぐらせた山内の寺院が並んでいるが、
ことりとも音がしない。中に人が住んでいるか、どうかもわからないほど
閑寂だ。」
さらに、
ケーブルに乗り、軍平は琵琶湖を一望にして、その雄大な光景にため息を
漏らしていた。
「なあ、見なはれ、たいしたもんやおまへんか。何宗の御本山かて、日本一の
びわ湖ちゅう大きな湖水を懐に抱いている御山はありまへんやろ。
この天台宗ばかりや」そう言われてみると成る程そんな気もするのである。
「そら、まあ、もっと高いお山もありましゃろけど、日本一の湖を庭池にしてのは、
延暦寺ばっかりだっしゃろなあ」
「まったく、こんな景色を見てたら気ぃも晴れ晴れしまんな。良え坊主、出るのん
当たり前や、ちとっも浮世心が起こらんやろ」、、、、坂本で一番高い戒蔵院から
急な坂を下りる左右には何ヶ寺かの寺院がある。竹林に囲まれた見性院を探し当てると
座敷に通された。
旧竹林院
西教寺
・比叡山延暦寺
30)私の古寺巡礼(白洲正子)
「10世紀のころ、比叡山に相応和尚という修行者がいた。南の谷に無動寺を
建てて、籠っていたが、正身の不動明王を拝みたいと発心し、3年間の間、
比叡の山中を放浪していた。雨の日も雪の夜も、たゆまぬ苦行に、身心とも
やせ衰え、今は死を待つばかりとなったある日の事、比良山の奥、葛川の
三の瀧で祈っていると、滔滔たる水しぶきの中に、まごうかたなき不動明王
が出現した。相応は嬉しさのあまり、滝壺に身を躍らせて抱きつくと、不動と
見たのは一片の桂の古木であった。その古木をもって、拝んだばかりの不動明王
の姿を彫刻し、明王堂を建立してその本尊とした。それが今の葛川の明王院
である。
この相応の足跡を忠実に辿っているのが、無動寺を本拠とする回峰の行者たちである。
彼らは白い死装束に身をかため、千年の昔に始祖がしたと同じ様に、一心に
不動明王を念じつつ、比叡の山中を巡礼し、最後に比良山の三の滝へ到着する。
毎年春から夏へかけて午前2時に無動寺を出発し、行者道を30キロ歩いて、
8時ごろ寺に帰る。これを百日続けて、千日をもって満行となるが、その他
京都市中の切廻り、大廻り、断食行、そして、明王院の「夏安居(げあんご)」
など、どれ一つとっても、常人には考えられない苦行の数々を経る。
それによって得るものはなにもない。しいて言えば何者動じない不動の精神、
不動明王の魂を身につけるというべきか。
31)比叡(瀬戸内晴美)
女流作家が出家し、比叡山で行をつむ話である。
比叡山での「もしかしたら、既に死んでいるのに気付いていないのだろか、
と言う厳しい修行の中で、仏に引き寄せられ、新しく生きて行く事を知る
姿を語っている。
「湖はとぎすましたような晴れた冬空を沈め、森閑と横たわっている。
そこからのぞむ比叡の山脈は湖の西に南から北に走りながらくっきりと
空をかかげ、圧倒的に、力強く、生命力にみちあふれていた。
日本仏教の根本道場と呼ぶにふさわしい威厳と神聖さを感じさせた。
琵琶湖と比叡は混然と一体化して、それを切り離す事の出来ない完璧な
1つづきの風景を形成している。俊子の目にはそのとき、山脈があくまで
雄雄しく、湖がかぎりなくおおらかにふるまっているように見えた。」
その合間に日本の文化や西行、一遍などの出家者の恋の話し、外国の風景、
や名画の話など、豊かな話題が散りばめられている。
男と秘密に旅をした堅田の町も思い出される。
「旧い家並みの家々は、どの家もどっしりと地に根を生やしたような落ち着きで
肩を並べていた。生まれてくる前に、通った事のあるような所だと、俊子は
感じていた。」
また、雪の降る日、浮御堂に立った後、隣りの料亭で鴨鍋を突付く、月が出ている。
その光景を、
「湖に薄く舞い落ちる雪が月光に染められ、金粉をまいているように湖水の面に
映っていた。湖面も月光に染められ金波がひろがる上に雪が休みなく降り続いている。
それは不思議なこの世ならぬ幻想的な光景だった。」
「人が寝とんなはる時間、夜通し車走らせて好いとる女ごの許ば通いなはる。
そぎゃんして、病気になって死にはってもよかと覚悟しとらすっと」と。
なおも責める尼僧に、「そぎゃんこと解決できるなら、だあれもなあんも
苦しむことなか。そぎゃんこと悪かことわかとって、とめられんばってん、
死ぬほどきつか思いすっと」
32)風流懺法(高浜虚子)
延暦寺横川中堂のはなし。虚子と渋谷天台座主とのかかわりが深い。
大師堂小僧一念との出会い、一力の舞妓三千歳らとの遊び中にまた一念に会う。
一念と舞妓三千歳の幼い男女の交わりが生き生きと描かれている。
「横川は叡山の三塔のうちでも一番奥まっているので淋しいこともまた格別だ。
二三町離れた処にある大師堂の方には日によると参詣人もぼつぼつあるが、
中堂の方は年中一人の参拝者もないといってよい。大きな建物が杉を圧して
立っている。」
虚子の一句  清浄な月を見にけり峰の寺
33)乳野物語(谷崎潤一郎)
元三大師と母月子姫の天台宗の説話をベースに描いている。
比叡山横川の安養院は元三大師の母の月子姫の墓がある。また、月子姫の墓は
虎姫町三川にもある。乳野は雄琴温泉から少し山に入った純農村の集落であった。
そのときの千野の印象を谷崎は次のように書いている。
「われわれは歩き出すと間もなく乳野の里に這入ったが、ところどころに農家が
二三軒まばらに点在しているような小さな部落で、本来ならば悲しく侘しい感じのする
場所であろうが、今は新緑で、その辺一面の柿畑が眩いようにきらきらしている。
さっきからわれわれの行く手に聳えていた横川の峰は、もうここへ来ると、
そのかがやかしい柿若葉の波の上に、四条の大橋から仰ぐ東山のちかさで圧し
かぶさっているのであった。」
34)湖光島影ー琵琶湖めぐり(近松秋江)
「比叡山延暦寺の、今、私の坐っている宿院の二階の座敷の東の窓の机に向って
遠く眼を放っていると、老杉躁鬱たる尾峰の彼方に琵琶湖の水が古鏡の面の
如く、五月雨晴れの日を受けて白く光っている。、、、空気の澄明な日などには
瓦甍粉壁が夕陽を浴びて白く反射している。やがて日が比良比叡の峰続きに
没して遠くの山下が野も里も一様に薄暮の底に隠れてしまうと、その人家
の群がっている処にぽつりぽつり明星のごとき燈火が山を蔽おた夜霧を透して
瞬きはじめる。」
近松浄瑠璃の愛読者であったこともあり、内部的には、情念的な性質を持っており、
異常な情念と妄執の作品が多い。

ーーーーー
本の世界から旅を味わう。
近江を書いた文学書は多い。幾つかの本の話題が出ていた。
司馬遼太郎の「街道をゆく」では比叡山や日吉大社の記述から浜大津の町の昔の情景
を懐かしんだ。芝木正子の「群青の湖」では奥琵琶湖の静かな美しさに感じ入った。
白洲正子の「近江山河抄」の湖西の記述では当時と今の違いが話題となった。少し
前に行った渡岸寺野11面観音では井上靖の「星と祭」があった。
この他にも、西本氏の「鳰の浮巣」、「湖の風回廊」には多くの関係書物が紹介
されており、作者の思いや自分たちの書かれた場所への想いなどを感じることが
出来ると思う。
普段、何げなく過ごす日々をそれらの書物の記述から再発見することも出来るのではな
いか。また、関連場所への旅行に先立ち、書物の中の記述から違う視点も出てくるので
はないだろうか。そんな思いの時間であった。

「琵琶湖水底の謎」小江慶雄著  講談社現代新書
古代宗教の「もがり」仮葬に例えたり、遺体がそのまま上がってくるなどの
言い伝えが詳細に書かれている。
比良八講のPRの1つとして有効。





西本梛枝氏著『湖の風回廊 近江の文学風景』
日本ペンクラブ、日本詩人クラブの会員でもある著者よりいただきました。
このHPでも何度か紹介しました、滋賀銀行発行のPR誌『湖』に連載した
「近江の文学風景」の1997年から2002年までの25篇をまとめたものです。
全頁カラー写真入りの美しい本、美しいばかりでなく著者の意図がはっきりと
現れている本です。その意図を著者は「まえがき」で次のように述べています。

この本は「文学散歩」の本ではない。「文学の風景」を感じる本である、と
独断的に思っている。些か尻理屈めくけれど私の中で「文学散歩」と「文学風景」
は違う。文学散歩は文学の舞台になった土地をなぞり、歩いてくればいい。
「文学風景」は、まず風景がある。その風景から作家が何か触発されて書き上げた
ものが、一つの作品である、と考えれば、作品の舞台をなぞる、という受け身の
行動だけではなく、作品をきっかけにしてその土地の風景や風を自分の肌で感じ、
作品と風景を検証し、作家のおもい、そして土地のおもいにまで踏み込んでいく。
「文学の風景」である。そのように思いながら、作品を携え、近江を歩くと作品
と風景の必然性、作家の土地へのおもい……等々にまでおもいがひろがっていく。
土地のもついろんな呼吸を作家の感性をもお借りレながら、感じとっていける。
一味違った本であることが想像できると思います。採りあげられている作家と作品は、
五木寛之『蓮如』、井上靖『星と祭』、井伏鱒二『安土セミナリオ』、澤田ふじ子
『比良の水底』、泉鏡花『瓔珞品』、永井路子『一豊の妻』、杉木苑子『埋み火』、
水上勉『湖笛』、川端康成『虹いくたび』、立原正秋『雪の朝』、城山三郎
『一歩の距離』、海音寺潮五郎『蒲生氏郷』、宮尾登美子『序の舞』、小泉八雲
『興義和尚のはなし』『鮫人の恩返し』、水上勉『櫻守』、森鴎外『小倉日記』、
井上靖『夜の声』、永井路子『雲と風と』、松木徹『源氏供養』、池波正太郎
『真田太平記』、白洲正子『近江山河抄』、花登筐『ぼてじゃこ物語』、
大佛次郎『宗方姉妹』、岡本かの子『金魚僚乱』、吉屋信子『安宅家の人々』
の25篇。
近江の風景と作家の息吹きを感じることができます。
滋賀に行ってみたくなり、紹介された本を読んでみたくなります。

近江は志賀も含め、琵琶湖を中心としたその自然の多様性とまだ残る日本の
原風景的な情景から多くの文学書に挟み込まれてきた。まさに、楽浪(さざなみ)
の里としての良さが作家の想像力を高めるのであろう。
そのいくつかを紹介して言葉や文字としての味わいを感じて欲しいものである。

1.「街道をゆく」から
司馬遼太郎は、街道をゆく、の第一巻を、近江から始めましょう、
と言っている。近江には、かなりの思い入れがあるのだろう。
その一文から少し、志賀を感じてもらおう。
ーーー
近つ淡海という言葉を縮めて、この滋賀県は、近江の国と言われる
ようになった。国の真中は、満々たる琵琶湖の水である。
もっとも、遠江はいまの静岡県ではなく、もっと大和に近い、
つまり琵琶湖の北の余呉湖やら賤ヶ岳あたりをさした時代もあるらしい。
大和人の活動の範囲がそれほど狭かった頃のことで、私は不幸にして
自動車の走る時代に生まれた。が、気分だけは、ことさらにその頃の
大和人の距離感覚を心象の中に押し込んで、湖西の道を歩いてみたい。
、、、、、
我々は叡山の山すそがゆるやかに湖水に落ちているあたりを走っていた。
叡山という一大宗教都市の首都とも言うべき坂本のそばを通り、湖西の
道を北上する。湖の水映えが山すその緑にきらきらと藍色の釉薬をかけた
ようで、いかにも豊かであり、古代人が大集落を作る典型的な適地という
感じがする。古くは、この湖南地域を、楽浪(さざなみ)の志賀、と言った。
いまでは、滋賀郡という。
、、、、、
この湖岸の古称、志賀、に、、、、
車は、湖岸に沿って走っている。右手に湖水を見ながら堅田を過ぎ、
真野を過ぎ、さらに北へ駆けると左手ににわかに比良山系が押し
かぶさってきて、車が湖に押しやられそうなあやうさを覚える。
大津を北に走ってわずか20キロというのに、すでに粉雪が舞い、
気象の上では北国の圏内に入る。
小松、北小松、と言う古い漁港がある。、、、、、
北小松の家々の軒は低く、紅殻格子が古び、厠の扉まで紅殻が塗られて、
その赤は、須田国太郎の色調のようであった。
さらに、
ーーー
北小松の家々の軒は低く、紅殻格子が古び、厠の扉までが紅殻が塗られて、
その赤は須田国太郎の色調のようであった。それが粉雪によく映えて
こういう漁村がであったならばどんなに懐かしいだろうと思った。
、、、、私の足元に、溝がある。水がわずかに流れている。
村の中のこの水は堅牢に石囲いされていて、おそらく何百年経つに
相違ないほどに石の面が磨耗していた。石垣や石積みの上手さは、
湖西の特徴の1つである。山の水がわずかな距離を走って湖に落ちる。
その水走りの傾斜面に田畑が広がっているのだが、ところがこの付近
の川は眼に見えない。この村の中の溝を除いては、皆暗渠になっている
のである。この地方の言葉では、この田園の暗渠をショウズヌキという。
ーーーー
司馬遼太郎は、近江について第1巻、第4巻、第7巻、第16巻、第24巻
に書き綴っている。しかも、第24巻近江散歩では、失われ行く琵琶湖の
自然に対する人間のエゴについても、警鐘を鳴らしている。良き自然を
守るのは大変な事でもある。

2.詩集北国「比良のしゃくなげ、井上靖」
むかし写真画報と言う雑誌で、比良のしゃくなげの写真を見たことがある。
そこははるか眼下に鏡のような湖面の一部が望まれる北比良山系の頂で、
あの香り高く白い高山植物の群落が、その急峻な斜面を美しくおおっていた。
その写真を見たとき、私はいつか自分が、人の世の生活の疲労と悲しみを
リュックいっぱいに詰め、まなかいに立つ比良の稜線を仰ぎながら、
湖畔の小さな軽便鉄道にゆられ、この美しい山嶺の一角に辿りつく日が
あるであろう事を、ひそかに心に期して疑わなかった。絶望と孤独の日、
必ずや自分はこの山に登るであろうと。
それから恐らく10年になるだろうが、私はいまだに比良のしゃくなげを
知らない。忘れていたわけではない。年々歳々、その高い峯の白い花を瞼に
描く機会は私に多くなっている。ただあの比良の峯の頂き、香り高い花の群落
のもとで、星に顔を向けて眠る己が眠りを想うと、その時の自分の姿の
持つ、幸とか不幸とかに無縁な、ひたすらなる悲しみのようなものに触れると、
なぜか、下界のいかなる絶望も、いかなる孤独も、なお猥雑なくだらなぬものに
思えてくるのであった。

多くの開発と言う行為の中には、自然への畏敬と尊敬の念が欠落していることが
多く、我々の知らないうちに自然がその生命を終えて行くことが見られる。
比良と琵琶湖の織り成す清々しい魅力を次代へと伝えて行く必要がある。


3.「花と匂い 伊藤整」
文中で比良山さんの説明がある。
比良山と申しますのは、一つの山ではございません。比叡山の来たにつらなって、
琵琶湖の西岸に聳える武奈ヶ岳、釈迦岳、蓬莱山、打身山、権現山などを含む山地を
包括して比良山と申します。語源はアイヌ語のピラであるらしく、これは絶壁の
あるところ、または扇形にひろがった土地と言う意味だそうでございます。 

4.「近江山河抄」白洲正子
比良の暮雪から
ある秋の夕方、湖北からの帰り道に、私はそういう風景に接したことがあった。
どんよりした空から、みぞれまじりの雪が降り始めたが、ふと見上げると、薄墨色
の比良山が、茫洋とした姿を現している。雪を通してみるためか、常よりも一層大きく
不気味で、神秘的な感じさえした。なるほど、「比良の暮雪」とは巧い事をいった。
比良の高嶺が本当の姿を見せるのは、こういう瞬間にかぎるのだと、その時
私は合点したように思う。

わが船は比良の湊に漕ぎ泊てむ沖へな離りさ(さかりさ)夜更けにけり

比良山を詠んだものには寂しい歌が多い。
今もそういう印象に変わりはなく、堅田のあたりで比叡山が終わり、その裾に
重なるようにして、比良山が姿を現すと景色は一変する。比叡山を陽の山とすれば、
これは陰の山と呼ぶべきであろう。、、、、
都の西北にそびえる比良山は、黄泉比良坂を意味したのではなかろうか。、、、、
方角からいっても、山陰と近江平野の間に、延々10キロにわたって横たわる
平坂である。古墳が多いのは、ここだけとは限らないが、近江で有数な大塚山
古墳、小野妹子の墓がある和邇から、白鬚神社を経て、高島の向こうまで、大
古墳群が続いている。鵜川には有名な四十八体仏があり、山の上までぎっしり
墓が立っている様は、ある時代には死の山、墓の山、とみなされていたのではないか。
「比良八紘」という諺が出来たのも、畏るべき山と言う観念が行き渡って
いたからだろう。が、古墳が多いということは、一方から言えば、早くから
文化が開けたことを示しており、所々に弥生遺跡も発見されている。小野氏が
本拠を置いたのは、古事記によると高穴穂宮の時代には早くもこの地を領していた。
、、、、、
小野神社は2つあって、一つは道風、1つは「たかむら」を祀っている。
国道沿いの道風神社の手前を左に入ると、そのとっつきの山懐の丘の上に、
大きな古墳群が見出される。妹子の墓と呼ばれる唐臼山古墳は、この丘の
尾根つづきにあり、老松の根元に石室が露出し、大きな石がるいるいと
重なっているのは、みるからに凄まじい風景である。が、そこからの眺めは
すばらしく、真野の入り江を眼下にのぞみ、その向こうには三上山から
湖東の連山、湖水に浮かぶ沖つ島もみえ、目近に比叡山がそびえる景色は、
思わず嘆息を発していしまう。その一番奥にあるのが、大塚山古墳で、
いずれなにがしの命の奥津城に違いないが、背後には、比良山がのしかかるように
迫り、無言のうちに彼らが経てきた歴史を語っている。
小野から先は平地がせばまり、国道は湖水のふちを縫っていく。
ここから白鬚神社のあたりまで、湖岸は大きく湾曲し、昔は「比良の大和太」
と呼ばれた。小さな川をいくつも越えるが、その源はすべて比良の渓谷に
発し、権現谷、法華谷、金比羅谷など、仏教に因んだ名前が多い。、、、、
かっては「比良3千坊」と呼ばれ、たくさん寺が建っていたはずだが、いまは
痕跡すら止めていない。それに比べて「小女郎」の伝説が未だに人の心を
打つのは、人間の歴史と言うのは不思議なものである。

5.白洲正子「私の古寺巡礼」より、
「10世紀のころ、比叡山に相応和尚という修行者がいた。南の谷に無動寺を
建てて、籠っていたが、正身の不動明王を拝みたいと発心し、3年間の間、
比叡の山中を放浪していた。雨の日も雪の夜も、たゆまぬ苦行に、身心とも
やせ衰え、今は死を待つばかりとなったある日の事、比良山の奥、葛川の
三の瀧で祈っていると、滔滔たる水しぶきの中に、まごうかたなき不動明王
が出現した。相応は嬉しさのあまり、滝壺に身を躍らせて抱きつくと、不動と
見たのは一片の桂の古木であった。その古木をもって、拝んだばかりの不動明王
の姿を彫刻し、明王堂を建立してその本尊とした。それが今の葛川の明王院
である。
この相応の足跡を忠実に辿っているのが、無動寺を本拠とする回峰の行者たちである。
彼らは白い死装束に身をかため、千年の昔に始祖がしたと同じ様に、一心に
不動明王を念じつつ、比叡の山中を巡礼し、最後に比良山の三の滝へ到着する。
毎年春から夏へかけて午前2時に無動寺を出発し、行者道を30キロ歩いて、
8時ごろ寺に帰る。これを百日続けて、千日をもって満行となるが、その他
京都市中の切廻り、大廻り、断食行、そして、明王院の「夏安居(げあんご)」
など、どれ一つとっても、常人には考えられない苦行の数々を経る。
それによって得るものはなにもない。しいて言えば何者動じない不動の精神、
不動明王の魂を身につけるというべきか。

「近江山河抄」より
白鬚神社は、街道とぎりぎりの所に社殿が建ち、鳥居は湖水のなかに
はみ出てしまっている。厳島でも鳥居は海中に立っているが、あんな
ゆったりした趣きはここにない。が、それははみ出たわけではなく、祭神が
どこか遠くの、海かなたからきたことの記憶に止めているのではあるまいか。
信仰の形というものは、その内容を失って、形骸と化した後も行き続ける。
そして、復活する日が来るのを域を潜めて待つ。と言うことは、
形がすべてだということができるかもしれない。
この神社も、古墳の上に建っており、山の上まで古墳群がつづいている。
祭神は猿田彦ということだが、上の方には社殿が3つあって、その背後に
大きな石室が口を開けている。御幣や注連縄まで張ってあるんのは、ここが
白鬚の祖先の墳墓に違いない。小野氏の古墳のように半ば自然に還元
したものと違って、信仰が残っているのが生々しく、イザナギノ命が、
黄泉の国へ、イザナミノ命を訪ねて行った神話が、現実のものとして
思い出される。山上には磐座らしいものが見え、明らかに神体山の様相を
呈しているが、それについては何一つ分かっていない。古い神社である
のに、式内社でもなく、「白鬚」の名からして謎めいている。猿田彦命
は、比良明神の化身とも言われるが、神様同士で交じり合うので、信用は
おけない。
白鬚神社を過ぎると、比良山は湖水すれすれの所までせり出し、打下
(うちおろし)という浜にでる。打下は、「比良の嶺おろし」から起こった
名称で、神への畏れもあってか、漁師はこの辺を避けて通るという。
そこから左手の旧道へ入った雑木林の中に、鵜川の石仏が並んでいる。
私が行った時は、ひっそりとした山道が落椿で埋まり、さむざむした風景に
花を添えていた。入り口には、例によって古墳の石室があり、苔むした
山中に、阿弥陀如来の石仏が、ひしひしと居並ぶ光景は、壮観と言う
よりほかはない。四十八体のうち、十三体は日吉大社の墓所に移されているが
野天であるのに保存は良く、長年の風雪にいい味わいになっている。この
石仏は、天文22年に、近江の佐々木氏の一族、六角義賢が、母親の
菩提のために造ったと伝えるが、寂しい山道を行く旅人には、大きな慰めに
なったことだろう。古墳が墓地に利用されるのは良く見る風景だが、
ここは山の上までぎっしり墓が立ち並び、阿弥陀如来のイメージと重なって、
いよいよ黄泉への道のように見えてくる。

さらに、
ーー
越前と朝鮮との距離は、歴史的にも、地理的にも、私達が想像する以上に
近いのである。太古の昔に流れ着いた人々が、明るい太陽を求めて
南に下り、近江に辿り着くまでには、長い年月を要したと思うが、
初めて琵琶湖を発見した時の彼らの喜びと驚き想像せずにはいられない。
ーーー

6.小説「比良のシャクナゲ」より
ここの主人が琵琶湖を賞するには、三井寺、粟津、石山、その他にも名だたる琵琶湖望
見の地は十指に余る。しかしこと比良を望むにおいては、湖畔広しと雖も、堅田に勝る
地はなく、特にここ霊峰館の北西の座敷に比肩し得るところはあるまいと自慢し、比良
の山容が一番神々しく見えるところから、この宿を霊峰館と名附けたのだと説明したこ
とがあったが、まことにこの座敷から眺める比良は美しい。

わしは家を出てタクシーをとめた時、殆ど無意識に堅田と行先を告げたのだが、わし
の採ったとっさの処置は狂っていなかった。わしはまさしく琵琶湖を、比良の山を見た
かったのだ。堅田の霊峰館の座敷の縁側に立って、琵琶湖の静かな水の面と、その向う
の比良の山を心ゆくまで独りで眺めたかったのだ。
 
堅田の浮御堂に辿り着いた時は夕方で、その日一日時折思い出したように舞っていた
白いものが、その頃から本調子になって間断なく濃い密度で空間を埋め始めた。わしは
長いこと浮御堂の廻廊の軒下に立ちつくしていた。湖上の視界は全くきかなかった。こ
ごえた手でずだ袋の中から取り出した財布の紐をほどいてみると、五円紙幣が一枚出て
来た。それを握りしめながら浮御堂を出ると、わしは湖岸に立っている一軒の、構えは
大きいが、どこか宿場の旅宿めいた感じの旅館の広い土間にはいって行った。そこがこ
の霊峰館だった。

7.「群青の湖、芝木好子」
「つづら折の湖畔をまわりきって、視界が変わり、広々とした湖の浦が現われた時、
岸辺に打ち寄せられたように小さな部落があった。風光の清らかな、寂とした、
流離の里である。」
「琵琶湖の秘した湖は、一枚の鏡のように冷たく澄んでいる。紺青というには
青く、瑠璃色というには濃く冴えて、群青とよぶのだろうか。太陽の反射が
湖面を走る一瞬に、青が彩りを変えるのを彼女は見た。」
「冬が来て、東京に雪の降る日が続くと、瑞子は琵琶湖の雪景色を思った。北の湖にし
んしんと雪が降るとあたりは白い紗幕に蔽われてゆき、群青の湖のみは白いあられをの
みもみながら、昏い湖底へ沈めていく。雪が止み、陽が射すと、雪でふちどられた湖は
蘇っていよいよあおく冴えかえる。」
「初秋の気配であった。湖水も空も縹色(はなだ)で小舟もない、鏡のような湖、、」
「湖は深海よりも透明で、藍が幾重にも層を成して底から色が立つ、、、、」
「奥琵琶湖の秘した湖は、一枚の鏡のように冷たく澄んでいる。紺青(こんじょう)と
いうには青く、瑠璃色というには濃く冴えて、群青とよぶのだろうか」
「いま 私に見えているのは、湖の生命と浄化の雪と枯葦の明るい茶なの。清らかな鎮
魂の布が織れたら、私の過去から開放され自由になれそうな気がするの。そうしたらこ
の次は、あなたをおどろかすような魅惑的な真っ赤な蘇芳(すおう)や、妖しく匂う紫
や、老いた女の情炎のような鼠茶や、いろんな色を糸に乗せて、思い切り織って
ゆきたい」。

芝木さんの文章はカラーである。情景にあわして様々な色が配色されている。
湖西はあまりかかれていないが、琵琶湖の美しさを感じて欲しい。

8.松尾芭蕉
多くの歌をその旅の趣きに合わして歌ってきた。小説ではないが、志賀を感じる作品
として味わうのも1つである。

享保十年刊の千梅編「鎌倉海道」に、この句の初案にあたる「辛崎の松や小町が身のお
ぼろ」の句が採録されている。本句は、大津に迎えてくれた千那に対する挨拶句。

  辛崎の松や小町が身のおぼろ 芭蕉
   山は桜をしほる春雨    千那
  (発句・脇。「鎌倉海道」)

上に掲げた千那宛書簡の「辛崎の松は花より朧にて と御覚可被下候」は、旅の折の挨
拶句「辛崎の松や小町が身のおぼろ」を「辛崎の松は花より朧にて」に改案した上で世
に送り出すことを、予め千那に知らせたもの。千那は、大津・堅田の本福寺第十一世住
職で、尚白、青亜とともに「野ざらし紀行」の旅の間に芭蕉門に入った。
「辛崎の松」は歌枕で、室町時代に、比良の暮雪、堅田の落雁、三井の晩鐘、粟津の晴
嵐、石山の秋月、瀬田の夕照、矢橋の帰帆とともに「唐崎の夜雨」として「近江八景」
に選ばれた。
芭蕉が、本福寺から琵琶湖の南方を眺めたとすると、「辛崎の松」は北方約十キロほど
の彼方にあり、また、もう一つの近江八景「三井の晩鐘」として知られ、本句内の「花
」や千那の句の「桜」の地と認められる三井寺観音堂まではそれ以上の距離があって、
両者ともに視認することは到底できない。したがって、「辛崎の松は花より朧にて」の
「辛崎の松」も「花」も、本福寺に向う途中の景を拠り所にした心象風景ということに
なる。

司馬遼太郎も24巻の中で、松尾芭蕉と琵琶湖について書いている。
「かいつぶりがいませんね。
良く知られるように、この水鳥の古典な名称は、鳰である。
水にくぐるのが上手な上に、水面に浮かんだまま眠ったりもする。
本来、水辺の民だった日本人は、鳰が好きだった。鳰が眠っているのをみて、
「鳰の浮寝」などといい、また葦の間に作る巣を見て「鳰の浮巣」などとよび
我が身の寄るべなき境涯に例えたりしてきた。
琵琶湖には、とりわけ鳰が多かった。「鳰の海」とは、琵琶湖の別称である。
「淡海のうみ」という歴史的正称は別として、雅称としては「鳰の海」のほうが
歌や文章の中で頻用されてきたような気がする。
、、、、
俳句では鳰そのものは冬の季題になっている。もっとも、芭蕉が近江で作った
鳰の句は、梅雨のころである。
五月雨に鳰の浮巣をみにゆかむ
この句では初夏のものとして鳰が登場する。鳰は夏、よし、あしの茂みの中に
巣を営む。句に「鳰の浮巣」が入れば季題としても初夏に入り込むらしい。
琵琶湖とその湖畔を、文学史上、たれよりも愛したかに思われる芭蕉は、
しばしば水面のよしの原を舟で分け入った。この場合、五月雨で水かさを
増した湖で、鳰たちが浮巣をどのようにしているか、そのことを長け高い
滑稽さを感じてこの句を作ったようである。
鳰というのは、あっという間に水面から消える。
かくれけり師走の海のかいつぶり
とも、芭蕉は詠んだ。また山々にかこまれた春の琵琶湖の大観を一句に
納めたものとしては、
四方より花吹き入れて鳰の海
というあでやかな作品も残している。

ーーーーーーーー
近江(滋賀)は比良山系や伊吹山などの山並と琵琶湖を中心とする水の世界が
上手く混在し、更には古代からの遺跡や神社などの文化土壌の深さから
多くの文学作品に登場している。
最近、旅の企画などに関わっているが、単に目に映る光景に感動するだけではなく、
文学に登場する同じ場所を作者の視点で描きこんだ文から、新しい感動が
あると感じ始めている。五感の全てを動員するのが文学であり、私たちの感じ
切れていない世界を現出してくれるし、時を深く感じれるのも文学作品からである。
今近江に関係する作品を少しづつ洗い出しているが、既に70作品以上もある。
今回は、その中から、私的に気になった作品を紹介していきたい。

1)星と祭(井上靖)
娘と父親が琵琶湖で亡くなった二人が湖岸の十一面観音を巡礼。
高月や木之本町の十一面観音を美しく描いている。
この作品は、人間としての業や弱さが淡々として描かれており、個人的にも
考えさせられる。
「ただ、現在この十一面観音がここにあるということは、これを尊信した
この土地の人の手で、次々に守られ、次々に伝えられて、今回に至ったと
言う事であろう。架山はこれまでにこのような思いに打たれたことはなかった。」
「まず、善隆寺の観音様、そして、宗正寺の観音様、医王寺の漢音様、鶏足寺の
、、、、、。湖は月光に上から照らされ、その周辺をたくさんの十一面観音で
飾られていた。これ以上の荘厳された儀式というものは考えられなかった。」

十一面漢音については、白洲正子、和辻哲郎の作品があり、その美しさを
教えてもらったのは、こちらからだが、現地を訪問した時、この作品を思い出す。

2)竹生島心中 青山光二
心中にいたるまでの心境が美しく描かれている。
八日市、近江八幡(とくに明治末期の情景が詳しい)、長浜の町が登場する。

3)宗方姉妹(大仏次郎)
戦後間もなく満州から引き揚げてきた宗方一家とその周辺を描いている。
長浜の曳山祭りを鮮やかな色彩の思い出として描いた。作品の中には、示唆ある
言葉も多い。
「昔の人間が造って残してくれたものは、いつまで経っても大切」
「町の中に美しい川を持つのは、都市として他に取り換えるもののない幸福
なことである。」
「日本間は、何もおいていなくとも心が鎮まるようにできている。ヨーロッパ
の生活は置くものがなければいけないでしょう。欲が生活様式の基礎になって、
背負ってきた荷物がだんだん重くなって、邪魔になって、動きが取れなくなる」
また、書かれている会話の言葉が美しい。最近の簡略化し、情緒のない言葉に
慣れた人にとっては、大いに参考になるのでは。
ラリックのガラス花瓶についての美しい記述もある。
「ガラス細工にしては厚みのあるどっしりとした花瓶で、水色に葉飾りを彫刻
してあるのが光の当たる調子で美しく淡い紅いの色が浮いて出るのを、宏は
電燈の下で動かして見せた。」

4)春(島崎藤村)
関西漂泊の旅から始まる自伝的な小説であり、彦根、八日市などを
描いている。

5)干拓田(早崎慶三)
近江八幡から安土をまたぐ大中の湖を描いている。
「安土に野に広がり、湖周は深い葦原で行行子と句の上で呼ばれる
葦きりが、さしひきする潮波のさまで囀り合う初夏には水辺一面
目の覚める鮮明さで、まっ黄く、ひつじぐさ科の河骨が息吹をあげる。
水面四、五寸抜き出たその一輪花の群れを、かき分けるようにして
野菜舟が櫓べそを軋らせて通う。、、、冬は鴨が舞い降り、青葦は
乾いて野晒しの骨の擦れ合う佇しみの中にも飛沫をはねて鯉の躍る
音がする。深々と納まり、ひそやかに呼吸する水郷であった。」
大中湖の干拓により追われた漁師の悲哀がある。

6)安土往還記(辻邦生)
安土城を訪問した通訳の人の語りからその素晴らしさを味わう。

7)筏(外村繁)
五個荘の近江商人の一族を数代にわたり描いた。今は雛人形などで、昔の
華やかさが垣間見られるが、消化の佇まいは近江八幡の商人屋敷と同様に
歴史の流れをあらためて感じる。

8)歴史を紀行する(司馬遼太郎)
蒲生郡石塔寺の石塔の由来を考える。日本の中の朝鮮文化とも言われる。
司馬遼太郎の「街道をゆく」の第一巻は湖西から始めようとの本人の
希望があったと言う。他にも3冊ほど近江について描いているが、第1巻
は私の住まい近くでもあり、新旧の違いをこの本からも感じられて面白い。

9)雪の下(倉光俊夫)
野洲の中主を訪れた移動演劇の人と農家の青年の交わり描いている。
農村風景の具体的な描写が特徴。

10)瀬田の唐橋(徳永真一郎)
唐橋が一人称で自分の見てきた歴史を語る。
11)ぼてじゃこ物語(花登こばこ)
ぼてじゃこを皇室の献上魚の「鰉ひがい」にする物語。
なお、花登の生家は今の大津長等1丁目にあり、大津図書館にはその専門
コーナーもある。

12)僧興義、鮫の恩返し(小泉八雲)
三井寺の僧興義が病気になったときに魚となり、琵琶湖へと泳ぎ出し釣られて料理
される寸前に蘇生する。琵琶湖の美しさを描いている。
「水がえらい青くてきれいでの、ひと泳ぎしとうなった。、、、目の下にも、
ぐるりにも、美しい魚どもがぎょうさん泳いどる。、、、わしはそこから泳いで、
いろいろ美しいところを巡ったようじゃ。、、、青い水面に踊っておる日の光を
眺めて楽しんだり、風かげの静かな水に映る山々や木々の美しい影を、心行く
ばかり眺めたり、、、とりわけ今でも憶えておるのは、沖津島か竹生島あたりの
岸辺が、赤い垣のように水に映っているけしきじゃ。」
「鮫の恩返し」と言うのは「明暗」と言う作品の中にある話。
主人公藤太郎が竜宮を追い出されて瀬田の唐橋にいた鮫人を助け、その鮫人が
藤太郎の恋を成就させるという恩返しの話。

13)一歩の距離(城山三郎)
陸上自衛隊大津駐屯所のあった航空隊での4人の予科練生を中心とした際川や唐崎
での終戦直前の話。
「(浮御堂の光景は)小学校の遠足の日でも思わせるような、のどかな姿であった。
、、、だが、そうしたのどかさは、うつろいやすい仮のモノでしかなかったし、
彼らはそれを承知していた。平和とは常に仮のものである。平和を願うなどと言う
のは、臆病者であるどころか日本人でさえない。」

14)かくれ里(白洲正子)
近江を「日本文化発祥地、裏舞台」と考える白洲。
「秘境と呼ぶほど人里はなれた山奥ではなく、ほんのちょっと街道筋から
逸れた所にある。」というかくれ里を近畿26箇所えらび、古くから伝わる
宗教行事や民俗的な場所を訪れた。たとえば、明王院の「夏安居」(げあんこ)、
太鼓乗などの由来や作法、背景などを綴っている。

15)安土セミリオ(井伏鱒二)
治郎作とセミリオ(キリシタンの学問所)の人間、宣教師たちが本能寺の変以後
どうしたかを描いている。当時の安土の街の様子が鮮明に描かれている。
街の中心は常楽寺周辺、港のあった常浜は水辺公園となっている。また、安土の
城は湖の直ぐ傍にあったが、いまはその後の大干拓で陸地が続く。

16)比良の水底(澤田ふじ子)
葛川渓谷滝は三の滝、今は明王谷に住む山椒魚と滝壺に落ちてきた金銅
の蔵王権現との四方山話。葛川坊村は安曇川の小さな集落だが、その風景は
見ごたえがある。地主神社があり、明王院の本堂もある。さらに、葛川参籠と
太鼓回しと言う行事が7月16日から始まる。
「人間の愚かさはこれから永代、つきることがあるまい。今後、わしはおぬしと
もう口を利かぬ。人間の愚かさについて更に深く考えたいからじゃ」
「山椒魚のわしにはなんの言葉もない。それにしても、わしはあと幾年、
生きるのであろうか。生きているのにもうあきてきたのである。」
「滝壺だけはいよいよ青味をくわえてしんと静まり、そこから流れ出る渓流が
涼しい眺めを作っていた。」
「たとえば、この世のすべてのものに共通する言葉があったとしたら生きている事が
何十倍も楽しくなるかもしれない。鳥や花はもちろんのこと。岩や水や、
それから、、、山椒魚とも話が出来たなら、、でも、やっぱり、一番欲しいのは
人間同士、分かり合える言葉か。」
閻魔王牒状 瀧にかかわる十二の短篇(朝日新聞)より

17)桜守(水上勉)
西行の愛した吉野の山桜と同じ様に山桜や里桜の日本古来種の桜に生涯をかけた
一人の男を描いた作品。このモデルとなった笹部新太郎は岐阜県の御母衣ダムに
沈む事になっていた樹齢四百年のあずまひがんの老樹(現在荘川桜の名前で健在)
を移植した人。山桜は若葉と同時に開花し、清楚で遠くから見ると微妙な陰影を
つくり周辺に物静かな空気を醸し出す。
「村の共同墓地にある三百年は生きたであろう巨桜であった。そこは、海津の村
から敦賀の方へ山沿いの国道を少し入りかけた地点で、道の直ぐ下の墓地である。
墓地全体にかぶさるように大枝を張った桜は見事だった。、、、根元から二股に
なったこの彼岸桜は、U字型に大幹を二本伸ばし、広大な墓地に存分に枝を
はっていたが、真下の墓地は皆軍人の墓だった。、、、、村人が慈しんで育てる
巨桜もあるのだと、弥吉は思った。、、、日本に古い桜は多いけんども、海津の
桜ほど立派なものはないわ。あすこの桜は、天然記念物でもないし、役人さんも
学者さんも、しらん桜や。村の共同墓地に、ひっそりとかくれてる。けど、村の人らが
枝一本折らずに、大事に守ってきてはる。墓地やさかい、人の魂が守ってんのやな。」

水上勉は「在所の桜」でも御母衣ダムの桜について描いている。ここは昔2、3回
仕事の関係で通った事があるが、この本を読んでいれば、また違う感じを受けた
であろう。少し長いし、近江からは外れるが、
「この桜ではない、笹部翁の手になるもう一つの桜がある。根尾谷から谷ひとつ東
へいった庄川谷に、樹齢五百年のアズマヒガンが二本、みごとに活着し、御母衣
ダムの水面をのぞいている。根尾の巨桜とともに、忘れる事の出来ない岐阜県の
記念碑的な桜だと思う。
御母衣ダムは世間周知の長い水没反対抗争もあって有名な工事だった。湖底には、
三百六十戸の家と三つの小中学校と三つの寺が沈んでいる。二つの菩提寺の墓場
にあった巨桜を、電源開発の高碕達之助さんの依頼で、笹部翁が前代未聞の移植を
敢行したのである。世界植林史上、この桜ような活着は例を見ない。奥美濃の
とくに、庄川の春は遅いから、根尾の巨桜が散る頃は、まだ蕾だろう。私は何度も、
この桜の下に佇んでいるが、根尾の巨桜の下にいるのと、また別の感慨を覚える。
おそらく、水没反対の村人たちは、二人の老人が世間の反対を押し切って敢行した
この移植事業を、せせらわらったことだろう。補償でこじれた抗争だったから、
根付くかどうかもわかりもしない老桜に、金を使うなど不満だった事情もわかる
のだが、しかし、活着してみると、巨桜は、人間が残した大きな業績と言うものを
教える。電源は山を壊し、川を埋め、野を荒らす元凶の様に言われているが、
その総裁であった高碕氏と、桜好きの一老人が手を取り合って、前代未聞の移植工事
をやり終わった日は、8年前のジングルベルがなる12月24日であったという。
奥美濃は人影もなく、みぞれ雪が降っていた。十中八九は枯れると思われた、
この桜が、今日花を咲かせ、湖面を彩っているのだ。
ふるさとは水底となりつうつし来し
この老桜とこしえに咲け
と碑文に見える。高碕さんの歌である。
、、、去年の2月の渇水期、白川郷を訪ねたときに、氷柱と化した二本の庄川桜を
拝んだ。湖底の死んだ村が露呈して浮き上がっている。感動を覚えて古道を降りた。
古い村はそのままそこにあった。水がしずかに退くということは不思議なもので、
埋まった村の家々の土台石も墓石も、瀬戸の柿木も、南天も松の植え込みも生徒
たちがつかったプールも、学校の門石も、みな姿をとどめて露出していた。
私はそれらの意志や木にさわって歩いた。誰もいなかった。この私の一人歩きを
眺めていたのは二本の巨桜だけだった。ふるさとは水底に沈んで、二本の桜だけが
生きている。だれがこの移植行為を笑えるだろうか。花どきに、どこからともなく、
老いた夫婦がやってきて、弁当を広げる間もなく巨桜の肌にふれて泣くという。
おそらく、水没反対を叫んだ人々の家のお爺さんやお婆さんであろう。
引っ越した先の都会を逃れて、桜に会いに来る。水底に沈んだ村を偲ぶのは
この二本の桜しかない。」

18)夜の声(井上靖)
この退廃していく社会を憂い、交通事故で神経のおかしくなった主人公を通して
その危機を救える場所として近江を描いている。
神からのご託宣で文明と言う魔物と闘うが、自分はそのために刺客に狙われている
と思い込んでいる。魔物の犯してない場所を探して、近江塩津、大浦、海津、
安曇川から朽木へと向う。朽木村でその場所を見つける。
「ああ、ここだけは魔物たちの毒気に侵されていない、と鏡史郎は思った。
小鳥の声と、川瀬の音と、川霧とに迎えられて、朝はやってくる。漆黒の
闇と、高い星星に飾られて、夜は訪れる。、、さゆりはここで育って行く。
、、、レジャーなどという奇妙なことは考えない安曇乙女として成長していく。
とはいえ、冬は雪に包まれてしまうかもしれない。が、雪もいいだろう。
比良の山はそこにある。、、、さゆりは悲しい事は悲しいと感ずる乙女になる。
本当の美しいことが何であるかを知る乙女になる。風の音から、川の流れから、
比良の雪から、そうしたことを教わる。人を恋することも知る。季節季節
の訪れが、木立ちの芽生えが、夏の夕暮れが、秋白い雲の流れが、さゆりに
恋することを教える。テレビや映画から教わったりはしない。」

湖西には、このような場所がまだ残っている。そして、この様な自然に
感化され、陶芸家、木工芸家、画家などが移り住んできている。

19)近江山河抄(白洲正子)
近江を更に深く描いているのが「近江山河抄」であり、大津から湖西、湖東
湖北と描かれており、その場所と時の流れをもう少し深く感じられるのでは
ないだろうか。
「奥島山の裏側へまわっていくと、突然目の間が開け、夢のような景色が現われる。
小さな湾をへだてて沖島が湖上に浮かび、長命寺の岬と伊崎島が、両方から抱く
様な形で延びている。、、奥島山の裏に、これほど絶妙な景色が秘められている
とは知らなかった。」
「現在は半島のような形で湖水の中に突き出ているが、周りが干拓されるまでは、
入り江にかかる橋でりくちとつながり、文字通りの奥島山であった。山頂へ登って
みると、湖水をへだてて、水茎の岡の向こうに三上山がそびえ、こういう所に
観音浄土を想像したのは、思えば当然の成り行きであった。
八百八段の長い石段を上り詰めると本堂、護摩堂、三重塔、鐘楼などが建ち並び、
木立ちの間から湖水と水茎の岡が茫洋とみえる。自分の考える日本人の自然観、
それを長命寺の絵図でも白洲は納得する。

ーーーーーーーーーーーーーー

ファインドトラベル対応
テーマは「京阪沿線の文学と関連風景の味わい」
各駅の周辺散策を基本として、その紹介をする。写真と見所、感じ所、食べ所
をまとめる。その駅周辺を題材とした文学作品のいくつかの文章を紹介して、
作者の想いや気付きを促す。その気付きに現在と昔の写真などがあると、より
面白く感じられる。総体としては、琵琶湖を中心とした人の営みや情景の変遷、
社会変化が垣間見られる一文や一シーンの紹介がよい。
以下の文学作品の主要なものの読み込みが必要でもある。
 
1)石山寺駅

岩間寺

・石山寺
 ①春(島崎藤村)
関西漂泊の旅から始まる自伝的な小説であり、石山、彦根、八日市などを
描いている。恋に悩み、生に悩み、芸術に悩む青年たちを通して、遂には
「自分のようなものでも生きたい」という想いで。東北に旅立っていく
自分の姿を描いている。石山寺の春が疲弊した藤村にとっての大きな慰めであった。
「職業を捨て、友達と離れて、半年の余も諸国を流浪して来たということは、
岸本が精神の内部をよく説明していた。琵琶湖に近い茶丈の生活はまだ岸本の
眼にあった。」
藤村の憧れた松尾芭蕉や紫式部への想いが石山寺への滞在ともなっている。
②源氏供養(松本徹)
源氏供養は三島由紀夫も戯曲にしているが、妄語の戒めに触れた紫式部の霊を
弔うストリーであるが、ここでは「石山寺に行った私が、そこで出会った3人の
源氏読みの女性たちと一緒に想いをめぐらせる作品である。
「わたしは石山寺を歩く。石山寺のもとになったという硅灰岩を、不思議に清潔な
空間を造り出している、と感じ、桧皮葺の、柔らかく張りのある屋根、が美しい
多宝塔を眺め、寺を創めた良弁のことを思い、本堂を巡拝し、そして紫式部
供養塔を見て、彼女が供養されなければならなかったことを思ってみたわけである。
それから、宙を浮くようにして、ある月見亭に立つ。なんと眺望のよいことか。
式部も月の美しさに迷い出て、ここにたったのではないか、とわたしは想って
見たりもする。
そこへ源氏読みの女性たちが来て、口ずさんだのが、謡曲源氏供養の一節だった。
恥じかしながら弱弱と あわれ胡蝶の ひと遊び、、、、、
女性たちは紫式部と一緒に自分たちも地獄に堕ちていると言う。が、わたしは
そうは思わない。事実「源氏一品経」は、最後はこう言うのだ。「狂言綺語」
の過ちをそのまま仏の教えへを讃えるものにと替え、その教えを広める手立てに
しよう、と願った。つまり、紫式部がこの物語を書いたのは、、、紫式部自身が
観音の化身であり、仏の教えを悟らせる方便として書いた、のだと。」
③幻住庵記(松尾芭蕉)
湖国を愛した芭蕉は、永眠の地も自らの意志で湖国と定め、敬愛した木曾義仲
と並んで大津義仲寺に眠っている。
芭蕉が俳人としての評価を高めたのは、「野ざらし紀行」からといわれている。
彼の言う「こだわりや束縛がなく、無心で自在であるという、軽みの世界が
明確になるからだ。
「石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山といふ。そのかみ国分寺の名を
伝ふなるべし。ふもとに細き流れを渡りて、翠微に登ること三曲(さんきょく)
二百歩にして、八幡宮たたせたまふ。神体は彌陀(みだ)の尊像とかや。
唯一の家には甚だ忌むなることを、両部(りょうぶ)光をやはらげ、利益(
りやく)の塵を同じうしたまふも、また尊し。日ごろは人の詣でざりければ、
いとど神さび、もの静かなるかたはらに、住み捨てし草の戸あり。蓬根笹(ねざさ)
軒をかこみ、屋根もり壁おちて、狐狸(こり)ふしどを得たり。幻住庵といふ。
あるじの僧なにがしは、勇士菅沼氏曲水子の伯父になんはべりしを、
今は八年(やとせ)ばかり昔になりて、まさに幻住老人の名をのみ残せり。
石山の奥、岩間の後ろに山があり、国分山という。
昔の国分寺の名を今に伝えているということだ。
ふもとに流れる細い川を渡って、山の中腹にのぼっていき、曲がりくねった
長い道を登っていくと、八幡宮がある。
ご神体は阿弥陀仏の尊像だとか。神仏混淆を認めない神道の宗派からみれば、
たいへんけしからんことなのだが、神も仏もその光をやわらげ世俗の塵に
まみれることで、かえって衆生を救済しようとされている。たいへん尊いことだ。
日ごろは人が参詣しないので、さびれた感じがかえって神々しく、
もの静かである場所の傍らに、住み捨てられた草の庵がある。
蓬・根笹が軒を囲み、屋根を盛って壁は崩れ落ちて、狐や狸にとっては
寝床を得たようなものだ。庵の名を幻住庵という。
あるじの僧某は、菅沼曲水という清廉な膳所藩士の伯父にあたる人物であるが、
今は他界して八年ほどになり、まさに幻のうちに住む老人というべき名のみ
を残している。」
「今歳湖水の波に漂う。鳰の浮巣の流れとどまるべき芦の一本の陰たのもしく、いと
かりそめに入りし山の、やがて出じとさへおもいそみぬ。」

瀬田川リバークルーズ

2)唐橋前駅
建部大社

・瀬田の唐橋
④邪宗門(高橋和巳)
新興宗教の教主千葉とその武装蜂起と壊滅までを描く。千葉が唐橋近くのボート
練習場に現われのが印象的。
⑤瀬田の唐橋(徳永真一郎)
唐橋が一人称で自分の見てきた歴史を語る。
⑥鮫の恩返し(小泉八雲)
「鮫の恩返し」と言うのは「明暗」と言う作品の中にある話。
主人公藤太郎が竜宮を追い出されて瀬田の唐橋にいた鮫人を助け、その鮫人が
藤太郎の恋を成就させるという恩返しの話。
唐橋焼窯元

3)京阪石山駅
4)粟津駅
5)瓦ヶ浜駅
膳所焼美術館
6)中ノ庄駅
7)膳所本町駅
大津市科学館
膳所城跡公園

8)錦駅

9)京阪膳所駅
・義仲寺
⑦芭蕉物語(麻生磯次)
野ざらし紀行にでた、晩年最後のの芭蕉、幻住寺、義仲寺が描かれている。
⑧老残日記(中谷孝雄)
義仲寺無名庵主人の日記的私小説。

竜が丘俳人墓地

10)石場駅
⑨大津恋坂物語(可堂秀三)
石場の旧東海道の小さな坂(近江名所図会にもないが)周辺を描いた物語。
「奥田隆一は、大阪のテレビや映画で名前が売れ始めた俳優であった。彼が
暮らす大津市石場の自宅には、その門前から下の通りまで続く、幅2メートル
、長さ30メートルほどの急な坂があった。この坂が「恋坂」と言う名である
ことは、乳が死んだ際、母から聞かされた。
「うちや死んだお婆ちゃんみたいにな、門の坂のこと、ここはほんまに恋坂や
と思うて、坂のぼるにつれて人が愛しくなってなあ、泣く日ィもくるわ」
彼の母も祖母も道ならぬ恋に悩んだ人であった。恋坂とは、たとえ許されぬ
恋であろうと、熱い想いを胸に抱いて上り下った坂に彼女がつけた名であった。

びわ湖ホール



11)島ノ関駅
12)浜大津駅
  ⑩ぼてじゃこ物語(花登こばこ)、⑪琵琶湖(横山利一)、
  ⑫兇徒津田三蔵(藤枝静男)、⑬東海道五十三次(岡本かの子)、
  ⑭ニコライの遭難(吉村昭)、⑮湖のほとり(田山花袋)
大津港(琵琶湖汽船)
びわこ花噴水
浜大津アーカス
・琵琶湖ホテル
   ⑯美しさと哀しみと(川端康成) 
大津祭曳山展示館
13)三井寺駅
・三井寺(園城寺)
   ⑰埋み火(杉本苑子)、⑱僧興義(小泉八雲)
   ○30七つ街道ー近江路フェノロサ先生(井伏鱒二)
  なお、三井寺は「太平記巻15三井寺合戦事」などは延暦寺との合戦が
  描かれている。

琵琶湖疏水
14)別所駅
大津市歴史博物館
円満院門跡
大津絵美術館
弘文天皇陵
皇子山陸上競技場
15)皇子山駅
   ⑲一歩の距離(城山三郎)
皇子が丘公園
皇子山球場
16)近江神宮前駅
近江神宮
近江神宮 時計館宝物館
大津京錦織遺跡
17)南滋賀駅
・南滋賀廃寺跡
   ⑳北白川日誌(岡部伊都子) 
18)滋賀里駅
   ○21幻の近江京(邦光士郎)、○29志賀寺上人の恋(三島由紀夫)
19)穴太駅
20)松ノ馬場駅
21)坂本駅
  ○22金魚繚乱(岡本かの子)、○23咲庵しょうあん(中山義秀)
  ○33星と祭(井上靖)
・日吉大社
   ○24街道をゆく14巻(司馬遼太郎)
・滋賀院門跡
   ○28山椒魚(今東光)
旧竹林院
西教寺
・比叡山延暦寺
   ○25私の古寺巡礼(白洲正子)、街道をゆく14巻(司馬遼太郎)
   ○26比叡(瀬戸内晴美)、○27風流懺法(高浜虚子)
   ○31乳野物語(谷崎潤一郎)○32湖光島影ー琵琶湖めぐり(近松秋江)
沿線の施設・観光(京津線) 
1)浜大津駅
大津港(琵琶湖汽船)
びわこ花噴水
浜大津アーカス
琵琶湖ホテル
大津祭曳山展示館
2)上栄町駅
長等公園
三橋節子美術館
関蝉丸神社
3)大谷駅
蝉丸神社
4)追分駅
5)四宮駅
徳林庵(四宮地蔵/山科廻り地蔵)
琵琶湖疏水
6)京阪山科駅
毘沙門堂
琵琶湖疏水(疎水公園)
7)御陵駅
天智天皇山科陵
ーーーーーーーー
京阪鉄道とは縁もゆかりもないが、色々と近江関連文学を集めていると
結構その舞台となる場所に駅が多くある。ここを訪れ、石山坂本沿線の
施設・観光と合わせて小説の中の社会、生活などを感じてもらうのも
面白いのでは、と思う。 今回、石山駅から坂本駅までの間で所縁の
小説30ほどを紹介しよう。
1)石山寺駅

・岩間寺

・石山寺
①春(島崎藤村)
②源氏供養(松本徹)
③幻住庵記(松尾芭蕉)

・瀬田川リバークルーズ

2)唐橋前駅
・建部大社

・瀬田の唐橋
④邪宗門(高橋和巳)
⑤瀬田の唐橋(徳永真一郎)
⑥鮫の恩返し(小泉八雲)
・唐橋焼窯元

3)京阪石山駅
4)粟津駅
5)瓦ヶ浜駅
・膳所焼美術館
6)中ノ庄駅
7)膳所本町駅
・大津市科学館
・膳所城跡公園

8)錦駅
9)京阪膳所駅
・義仲寺
⑦芭蕉物語(麻生磯次)
⑧老残日記(中谷孝雄)

・竜が丘俳人墓地

10)石場駅
⑨大津恋坂物語(可堂秀三)

・びわ湖ホール
11)島ノ関駅

12)浜大津駅
⑩ぼてじゃこ物語(花登こばこ)
ぼてじゃこを皇室の献上魚の「鰉ひがい」にする物語。
なお、花登の生家は今の大津長等1丁目にあり、大津図書館にはその専門
コーナーもある。

⑪琵琶湖(横山利一)
汚染がひどくなる琵琶湖を憂い、その将来に不安を示す。
他には、「湖光島景琵琶湖めぐり(近松秋絵)」などもある。
「青年時代に読んだ田山花袋の紀行文の中に、琵琶湖の色は年々歳々死んで行く
様に見えるが、あれはたしかに死につつあるに相違ない、と言うようなことが
書いてあったのを覚えている。わたしはそれを読んで、さすが文人の眼は光っている
と、その当時感服したことがあった。今も琵琶湖の傍を汽車で通るたびに、花袋
の言葉を思い出して、一層その感を深くするのだが、私にもこの湖は見る度に
沼のようにだんだん生色をなくしていくのを感じる。」
横山利一は小学生のころと新婚時に大津に住んでいた。これはそのときの思い出
も含めて書き綴ったもの。
「思い出というものは、誰しも一番夏の日の思い出が多いであろうと思う。私は
二十歳前後には、夏になると、近江の大津に帰った。殊に、小学校時代には家が
大津の湖の岸辺にあったので、びわ湖の夏のけしきは脳中から去り難い。今も
東海道を汽車で通るたびに、大津の町へさしかかると、ひとりでいても胸がわくわくと
して、窓からのぞく顔に、微笑が自然と浮かんでくる。」
さらには、
「去年私は久しぶりに行って見たが、このあたりだけは、昔も今も変わっていない。
明治初年の空気のまだそのままに残っている市街は、恐らく関西では大津だけであり、
大津のうちでは疎水の付近だけであろう。」

⑫兇徒津田三蔵(藤枝静男)
大津京町で起こったロシア皇太子暗殺事件の犯人を扱った物語。

⑬東海道五十三次(岡本かの子)、
風俗史を専攻する夫と私が東海道を旅し、その途中、東海道に取り付かれた
作楽井と言う男に出会う話。
「小唄に残っている間の土山へひょっこり出る。屋根付きの中風薬の金看板
なぞ見える小さな町だが、今までの寒山枯れ木に対して、血の通う人間に
逢う歓びは覚える。風が鳴っている三上山の麓を車行して、水無口から石部
の宿を通る。なるほど此処の酒店で、作楽井が言ったように杉の葉を丸めて
その下に旗を下げた看板を軒先に出している家がある。」
旧東海道筋の町の人々を結んで「東海道ネットワークの会」がある。

⑭ニコライの遭難(吉村昭)
日本を訪問していたロシア皇太子襲撃事件の裁判官の姿勢を基に描いた。

⑮湖のほとり(田山花袋)
「湖水でとれるヒガイ、若鮎、蜆の汁、そういうもので私たちは午飯をすましたが、
昼ややすぎて餓を覚えつつあったときには、殊に一層の美味を感じた。
私たちはやがて再び汽船に乗った。少し酔った顔を風に吹かせながら、潤い湖上
を東から西へと横切っていく感じはなんとも言われなかった。、、、、
湖上から見た大津の町は、いかにも趣きに富んでいた。白亜と瓦甍、その間を
縫った楊柳の緑、その上に緩やかに靡いている逢坂山の丘陵、それも汽船の
進むに連れて次第に遠く、比叡、比良の翠らんをその前に見る様になる頃には
唐崎の根を張った松も蓮や志賀の都の址も、明智佐馬之助の自害した阪本の
城の位置もそれとさやかに差す事が出来るようになった。」
ほぼ湖の沿岸全域を訪れ、同行者との会話や蕎麦やビールなどの食べ物関係の
記述が多く、雑感的な仄々とした味わいがある。

・大津港(琵琶湖汽船)
・びわこ花噴水
・浜大津アーカス
・琵琶湖ホテル
⑯美しさと哀しみと(川端康成) 
琵琶湖ホテルでの殺人を終局に描いている愛憎物語。

・大津祭曳山展示館
13)三井寺駅
・三井寺(園城寺)
⑰埋み火(杉本苑子)
近松門左衛門の生涯を描いている。門左衛門が若いときにいたのが、大津の
近松寺。「近松寺は高観音ともよばれ、大津の宿駅の、ほぼ西となりに位置
している。逢坂山の北尾根にあって、琵琶湖の眺望の豊かさは三井寺からの
大観に劣らなかった。近松寺から三井寺へは、三橋節子美術館、長等神社、
三井寺、円満院へと続く。

⑱僧興義(小泉八雲)
三井寺の僧興義が病気になったときに魚となり、琵琶湖へと泳ぎ出し釣られて料理
される寸前に蘇生する。琵琶湖の美しさを描いている。
「水がえらい青くてきれいでの、ひと泳ぎしとうなった。、、、目の下にも、
ぐるりにも、美しい魚どもがぎょうさん泳いどる。、、、わしはそこから泳いで、
いろいろ美しいところを巡ったようじゃ。、、、青い水面に踊っておる日の光を
眺めて楽しんだり、風かげの静かな水に映る山々や木々の美しい影を、心行く
ばかり眺めたり、、、とりわけ今でも憶えておるのは、沖津島か竹生島あたりの
岸辺が、赤い垣のように水に映っているけしきじゃ。」

⑲七つ街道ー近江路フェノロサ先生(井伏鱒二)
「フェノロサの墓を見るために大津の法明院を訪ねた。この寺は三井寺の塔頭
だが、本山よりまだ高みの、まだ見晴らしのいいところにある。、、、、
森閑とした寺であった。西川さんが交渉すると、雛僧が案内に立って、
茶席の雨戸を開けて見せた。フェノロサがビゲロー博士と一緒に住んでいた
「時雨亭」という茶席である。」
日本文化へのフェノロサの傾倒は凄まじいもので、「時分が死んだら遺骨は
三井寺に葬って欲しい。もし他の場所に葬られたら、きっと盗まれた釣鐘の
ように、三井寺に帰りたいと、と泣き叫ぶだろう」という書簡にも現われている。
「墓は玉垣で囲まれている五輪の塔で、裏山への登り口にある。直ぐ近くに
ビゲロー博士の墓と、両博士の略歴を刻んだ平べったい角石が据えてある。
その文字も遺言に従ったとのことで、「フェノロサ先生」は「飛諾洛薩先生」と
綴り、「フランシスコ」は「仏蘭西栖格」という文字に綴ってある。」

なお、三井寺は「太平記巻15三井寺合戦事」などは延暦寺との合戦が
描かれているが、此処では近代以前は省く。
ーーーーーーーーーーー
京阪鉄道とは縁もゆかりもないが、色々と近江関連文学を集めていると
結構その舞台となる場所に駅が多くある。ここを訪れ、石山坂本沿線の
施設・観光と合わせて小説の中の社会、生活などを感じてもらうのも
面白いのでは、と思う。 今回、石山駅から坂本駅までの間で所縁の
小説34冊ほどを紹介しよう。しかし、さすがに近江に関する文学
は多い様だ、全体で見ると90冊以上もあり、湖北や湖東もこれら作品で
楽しめそうである。

1)石山寺駅

・岩間寺

・石山寺
①春(島崎藤村)
②源氏供養(松本徹)
③幻住庵記(松尾芭蕉)

・瀬田川リバークルーズ

2)唐橋前駅
・建部大社

・瀬田の唐橋
④邪宗門(高橋和巳)
⑤瀬田の唐橋(徳永真一郎)
⑥鮫の恩返し(小泉八雲)
・唐橋焼窯元

3)京阪石山駅
4)粟津駅
5)瓦ヶ浜駅
・膳所焼美術館
6)中ノ庄駅
7)膳所本町駅
・大津市科学館
・膳所城跡公園

8)錦駅
9)京阪膳所駅
・義仲寺
⑦芭蕉物語(麻生磯次)
⑧老残日記(中谷孝雄)

・竜が丘俳人墓地

10)石場駅
⑨大津恋坂物語(可堂秀三)

・びわ湖ホール
11)島ノ関駅

12)浜大津駅

⑪琵琶湖(横山利一)
⑫兇徒津田三蔵(藤枝静男)
⑬東海道五十三次(岡本かの子)、
⑭ニコライの遭難(吉村昭)
⑮湖のほとり(田山花袋)

・大津港(琵琶湖汽船)
・びわこ花噴水
・浜大津アーカス
・琵琶湖ホテル
⑯美しさと哀しみと(川端康成) 


・大津祭曳山展示館
13)三井寺駅
・三井寺(園城寺)
⑰埋み火(杉本苑子)
⑱僧興義(小泉八雲)
⑲七つ街道ー近江路フェノロサ先生(井伏鱒二)

・琵琶湖疏水
14)別所駅
・大津市歴史博物館
・円満院門跡
・大津絵美術館
・弘文天皇陵
・皇子山陸上競技場

15)皇子山駅
20)一歩の距離(城山三郎)
陸上自衛隊大津駐屯所のあった航空隊での4人の予科練生を中心とした際川や唐崎
での終戦直前の話。
「(浮御堂の光景は)小学校の遠足の日でも思わせるような、のどかな姿であった。
、、、だが、そうしたのどかさは、うつろいやすい仮のモノでしかなかったし、
彼らはそれを承知していた。平和とは常に仮のものである。平和を願うなどと言う
のは、臆病者であるどころか日本人でさえない。」
さらに、
「やっと海軍軍人になれると。だが、それは「必殺必中の兵器」つまり特攻の
募集だった。彼は予期せぬ場面で、突然、生か死かの選択を迫られたのである。
出なければ、出なければ。死ぬために来たのに、何を躊躇っているのか。
腋の下を冷たい汗が流れ続けた。手もぐっしょり汗を握った。
志願するものは、一歩前に出よ。司令のよびかけにかれは「一歩を踏み出すこと
ができなかった。それは乗りたがっていた航空機ではなかったからか。
それとも一歩を踏み出せば確実に約束される死への恐怖からか。
前に出るも出ないのも、余りに大きな決意であった。一歩の前と後ろの間には、
眼もくらむばかりの底深い谷があった。
一歩踏み出す距離はわずかであった。しかし、それぞれの人生を決定する距離
であった。若者を死に導き、あるいは生涯消えぬ苦しみを刻む距離であった。」

21)小説日本婦道記ー尾花川(山本周五郎)
大津尾花川の勤皇の志士であった川瀬太宰とその妻幸を描いている。
婦人の美徳、といっても家父長的視点からではなく人間としての美質に
焦点をあてている。
「日本の女性の一番美しいのは、連れ添っている夫も気付かないという
ところに非常に美しく現われる。、、これが日本の女性の特徴ではないか
と思ってあの一連の小説を書きました」ということ。

・皇子が丘公園
・皇子山球場

16)近江神宮前駅
・近江神宮
近江神宮 時計館宝物館
大津京錦織遺跡
17)南滋賀駅
・南滋賀廃寺跡
22)北白川日誌(岡部伊都子)
北白川廃寺跡から山中越えし、比叡平近くの池ノ谷地蔵尊、新羅善神堂、南滋賀
廃寺跡などをめぐり大津京を探し求めた。 

18)滋賀里駅
23)幻の近江京(邦光士郎)
滋賀、奈良、京都に残存する幻の寺を舞台の推理小説。その寺が
草津にある花摘寺である。一般の滋賀里周辺の大津京とは違う仮説で展開する。
24)志賀寺上人の恋(三島由紀夫)
「春になって、花見の季節になると、志賀の里を訪れる都人士が多くなった。上人は
何の煩わしさをも感じなかった。今更こういう人たちに掻き乱される心境ではなかった
からである。上人は杖を携えて草庵をでた。湖水のほとりへ行った。午後の光りに
ようよう夕影のさしてくる頃で、湖の波は静かであった。上人は水想観を成して、
湖畔に一人佇んでいたのである。」
志賀寺は崇福寺の別称で、奈良時代には十大寺の一つとして隆盛を誇った大寺で、
現在は滋賀里にその旧跡が少し認められる。
ひたすらに浄土を想い描き、その中でのみ生き抜こうとしていたものの、抗いきれない
恋によって現世に引きずり戻されていく人間の心の葛藤を描いている。
「私には実は、その独特な恋の情緒よりも、その単純な心理的事実に興味があった。
そこでは、恋愛と信仰の相克が扱われている。、、、、、
来世と今世がその席を争いあって、大袈裟に言えば、彼らは自分の考えている
世界構造が崩れるか崩れないか、というきわどいところで、この恋物語を
成り立たせたのである。」

19)穴太駅
20)松ノ馬場駅
21)坂本駅
25)金魚繚乱(岡本かの子)
大津下坂本にある実験所にきた美しい金魚を作ろうとする男とその彼女の話。
「白牡丹のような万華鏡のようなじゅんらん、波乱を重畳させつつ嬌艶に豪華に、
また粛々として上品に、内気にあどけなくもゆらぎ広ごり広ごりゆらぎ、さらにまた
広ごり」
26)咲庵しょうあん(中山義秀)
明智光秀の一生を描いた。坂本城は下坂本付近だが、その遺構はほとんどない
27)星と祭(井上靖)
更に、大津坂本の盛安寺の11面を拝してもいる。
「微かに笑っているようなふくよかな顔、がそこにある。京都や奈良の大寺でみる
取り澄ました顔の仏像にはない温かい息づかいが肌にふれてくる。、、、、、
湖畔にたたずむ十一面観音像の美しさは、単に造形的な美しさではない。それぞれの
生活が営まれるそれぞれの土地に、見過ごしてしまいそうな小堂があり、その
中央の厨司の中に大切にまつられ、お守りされている観音像、そこに住む人の
生活の歴史が、像の皮膚に染み込んでいる様に思われる。これが生きた息づかい
と感じられ、自然にこちらも微笑せずにはいられなくなるふくよかな微笑み
として現われるのである。盛安寺11面観音像は、その後、かっての観音堂
のすぐうしろに建設された収蔵庫のなかに、いまもひっそりと立っている。

・日吉大社
28)街道をゆく16巻(司馬遼太郎)
16巻は「叡山の諸道」である。比叡山を含めこの周辺の事を書き綴っている。
司馬遼太郎は、近江について第1巻、第4巻、第7巻、第16巻、第24巻
に書き綴っている。しかも、第24巻近江散歩では、失われ行く琵琶湖の
自然に対する人間のエゴについても、警鐘を鳴らしている。良き自然を
守るのは大変な事でもある。
・滋賀院門跡
29)山椒魚(今東光)
山椒魚は比叡山をはじめ、40編からなる短編集。
「比叡山」
「坂本の大鳥居をくぐって、石ころ路を丹海と軍平とは、ぼそぼそと話し
ながら歩いた。両側には石垣をめぐらせた山内の寺院が並んでいるが、
ことりとも音がしない。中に人が住んでいるか、どうかもわからないほど
閑寂だ。」
さらに、
ケーブルに乗り、軍平は琵琶湖を一望にして、その雄大な光景にため息を
漏らしていた。
「なあ、見なはれ、たいしたもんやおまへんか。何宗の御本山かて、日本一の
びわ湖ちゅう大きな湖水を懐に抱いている御山はありまへんやろ。
この天台宗ばかりや」そう言われてみると成る程そんな気もするのである。
「そら、まあ、もっと高いお山もありましゃろけど、日本一の湖を庭池にしてのは、
延暦寺ばっかりだっしゃろなあ」
「まったく、こんな景色を見てたら気ぃも晴れ晴れしまんな。良え坊主、出るのん
当たり前や、ちとっも浮世心が起こらんやろ」、、、、坂本で一番高い戒蔵院から
急な坂を下りる左右には何ヶ寺かの寺院がある。竹林に囲まれた見性院を探し当てると
座敷に通された。

旧竹林院
西教寺
・比叡山延暦寺
30)私の古寺巡礼(白洲正子)
「10世紀のころ、比叡山に相応和尚という修行者がいた。南の谷に無動寺を
建てて、籠っていたが、正身の不動明王を拝みたいと発心し、3年間の間、
比叡の山中を放浪していた。雨の日も雪の夜も、たゆまぬ苦行に、身心とも
やせ衰え、今は死を待つばかりとなったある日の事、比良山の奥、葛川の
三の瀧で祈っていると、滔滔たる水しぶきの中に、まごうかたなき不動明王
が出現した。相応は嬉しさのあまり、滝壺に身を躍らせて抱きつくと、不動と
見たのは一片の桂の古木であった。その古木をもって、拝んだばかりの不動明王
の姿を彫刻し、明王堂を建立してその本尊とした。それが今の葛川の明王院
である。
この相応の足跡を忠実に辿っているのが、無動寺を本拠とする回峰の行者たちである。
彼らは白い死装束に身をかため、千年の昔に始祖がしたと同じ様に、一心に
不動明王を念じつつ、比叡の山中を巡礼し、最後に比良山の三の滝へ到着する。
毎年春から夏へかけて午前2時に無動寺を出発し、行者道を30キロ歩いて、
8時ごろ寺に帰る。これを百日続けて、千日をもって満行となるが、その他
京都市中の切廻り、大廻り、断食行、そして、明王院の「夏安居(げあんご)」
など、どれ一つとっても、常人には考えられない苦行の数々を経る。
それによって得るものはなにもない。しいて言えば何者動じない不動の精神、
不動明王の魂を身につけるというべきか。

31)比叡(瀬戸内晴美)
女流作家が出家し、比叡山で行をつむ話である。
比叡山での「もしかしたら、既に死んでいるのに気付いていないのだろか、
と言う厳しい修行の中で、仏に引き寄せられ、新しく生きて行く事を知る
姿を語っている。
「湖はとぎすましたような晴れた冬空を沈め、森閑と横たわっている。
そこからのぞむ比叡の山脈は湖の西に南から北に走りながらくっきりと
空をかかげ、圧倒的に、力強く、生命力にみちあふれていた。
日本仏教の根本道場と呼ぶにふさわしい威厳と神聖さを感じさせた。
琵琶湖と比叡は混然と一体化して、それを切り離す事の出来ない完璧な
1つづきの風景を形成している。俊子の目にはそのとき、山脈があくまで
雄雄しく、湖がかぎりなくおおらかにふるまっているように見えた。」
その合間に日本の文化や西行、一遍などの出家者の恋の話し、外国の風景、
や名画の話など、豊かな話題が散りばめられている。
男と秘密に旅をした堅田の町も思い出される。
「旧い家並みの家々は、どの家もどっしりと地に根を生やしたような落ち着きで
肩を並べていた。生まれてくる前に、通った事のあるような所だと、俊子は
感じていた。」
また、雪の降る日、浮御堂に立った後、隣りの料亭で鴨鍋を突付く、月が出ている。
その光景を、
「湖に薄く舞い落ちる雪が月光に染められ、金粉をまいているように湖水の面に
映っていた。湖面も月光に染められ金波がひろがる上に雪が休みなく降り続いている。
それは不思議なこの世ならぬ幻想的な光景だった。」
「人が寝とんなはる時間、夜通し車走らせて好いとる女ごの許ば通いなはる。
そぎゃんして、病気になって死にはってもよかと覚悟しとらすっと」と。
なおも責める尼僧に、「そぎゃんこと解決できるなら、だあれもなあんも
苦しむことなか。そぎゃんこと悪かことわかとって、とめられんばってん、
死ぬほどきつか思いすっと」

32)風流懺法(高浜虚子)
延暦寺横川中堂のはなし。虚子と渋谷天台座主とのかかわりが深い。
大師堂小僧一念との出会い、一力の舞妓三千歳らとの遊び中にまた一念に会う。
一念と舞妓三千歳の幼い男女の交わりが生き生きと描かれている。
「横川は叡山の三塔のうちでも一番奥まっているので淋しいこともまた格別だ。
二三町離れた処にある大師堂の方には日によると参詣人もぼつぼつあるが、
中堂の方は年中一人の参拝者もないといってよい。大きな建物が杉を圧して
立っている。」
虚子の一句  清浄な月を見にけり峰の寺

33)乳野物語(谷崎潤一郎)
元三大師と母月子姫の天台宗の説話をベースに描いている。
比叡山横川の安養院は元三大師の母の月子姫の墓がある。また、月子姫の墓は
虎姫町三川にもある。乳野は雄琴温泉から少し山に入った純農村の集落であった。
そのときの千野の印象を谷崎は次のように書いている。
「われわれは歩き出すと間もなく乳野の里に這入ったが、ところどころに農家が
二三軒まばらに点在しているような小さな部落で、本来ならば悲しく侘しい感じのする
場所であろうが、今は新緑で、その辺一面の柿畑が眩いようにきらきらしている。
さっきからわれわれの行く手に聳えていた横川の峰は、もうここへ来ると、
そのかがやかしい柿若葉の波の上に、四条の大橋から仰ぐ東山のちかさで圧し
かぶさっているのであった。」

34)湖光島影ー琵琶湖めぐり(近松秋江)
「比叡山延暦寺の、今、私の坐っている宿院の二階の座敷の東の窓の机に向って
遠く眼を放っていると、老杉躁鬱たる尾峰の彼方に琵琶湖の水が古鏡の面の
如く、五月雨晴れの日を受けて白く光っている。、、、空気の澄明な日などには
瓦甍粉壁が夕陽を浴びて白く反射している。やがて日が比良比叡の峰続きに
没して遠くの山下が野も里も一様に薄暮の底に隠れてしまうと、その人家
の群がっている処にぽつりぽつり明星のごとき燈火が山を蔽おた夜霧を透して
瞬きはじめる。」
近松浄瑠璃の愛読者であったこともあり、内部的には、情念的な性質を持っており、
異常な情念と妄執の作品が多い。

0 件のコメント:

コメントを投稿