2016年10月19日水曜日

ナナの老いと死、チャトの予感

ナナの老いは急激だった。3か月前まではライと喧嘩をしたり、家の中を
うろうろしたりしていたが、老いた人間がベッドの横で日々を過ごす
高齢者の姿そのままの日常になっていた。
すでにこの家に来て17年、人間で言えば、80歳に近いはずであるから、
当然なのかもしれないが、主人もママもしばらく前までは、まだこの家に
拾われた来たころ思いから抜けていなかった。薄茶色のビーロドの和毛に
つつまれ、茶色に緑を含んだ瞳は相変わらずきれいに澄んでいたし、体型は
この10数年ほとんど変わっていない。だが、よく見れば、あの艶やかな毛も
今はママの髪艶の衰えと同じように逆立つ毛の1つ1つが粗糸のような
軟らかさよりも硬さをもち、緩やかに体をおおう絹の優雅さは消えていた。
さらには、少し前まで軽く2メートルほどの所を飛んでいた軽やかな飛翔は
消え去り、30センチほどのベッドに飛び上がるのさえままならない姿を
呈していた。好きな散歩もすでに遠い過去の話となり、日がな1日ママや主人の
ベッドで過ごすことがほとんどとなっていた。
さらに、人間も歳を経ると子供のようになるというが、ナナもママへの
すり寄りが以前以上に激しくなっていた。
少しでも目が合うと、呼びもしないのに自分の方から膝に乗って来て、媚びを
使った。夜になるとそれは一段と強くなり、額をママの顔に当てて、頭ぐるみ
ぐいぐいと押して来た。そうしながら、あのザラザラした舌の先で、頬だの、
顎だの、鼻の頭だの、所構わず舐めまわした。ママが布団をかぶっても、
それは変わらず、顔を摺り寄せたり、全く人間と同じ様な仕方で愛情をせまった。
それは、寒くなると、一段と度を増した。顔中を夜中舐めて起こすのである。
枕の方から潜り込んできたり、布団をもくもくとあげてビロードのような柔らかい
毛を足下から入れてくるのであった。その泣き声も狼の遠吠えのごとく2階に
響き渡り、昼夜にかまわず叫んでいる。
主人もその姿を見ると歳月の長さを改めて感じた。
17年前、犬のグンがナナを励ますかのように鼻をナナの小さな尻尾に押し付ける
仕草を家族皆が見守った時もある。柔らかい羽をナナの前に置くと、じっと
しばらく見ているのだが、突然後ろ足を跳ね上げ、その羽にとびかかり、その動作を
何回となく続けるのだった。その頃はトトという先輩がいるようになったが、仔猫
であることから皆は彼女を大いにかわいがった。チャトやほかの猫たちが現れるまでは
ナナの天下でもあった。彼女にとって皆が親みたいなものであったから、すぐに
横にいる人の膝に乗りそこでしばらく置き猫のごとくじっと座っている日々
がよく見られた。
ママと主人に喉元にかかる骨のような小さな痛みが今でも残っていた。
近所の猫たちの行動から避妊手術をせざるを得なくなり、ある動物医院にナナを連れて行った
のだが、それが藪医者でナナは3時間もお腹をいじられ、その度に悲鳴に似た声を上げていた。
ママは今でもその声は忘れないという。白い包帯に巻かれ、死んだように現れた
ナナ、さすがにそれから1週間ほどは部屋の隅でじっとわれわれを見るだけで、
その目には「私をなぜこんなひどい目に合わせての」という怨念にも似た光
が宿っていた。
ママはナナを猫らしい猫とよく言う。昔は猫のドライフードや缶詰は高価で数的にも
十分でなかったからよく小魚を焼いて与えることが多かった。それもあるのだろう、
他の連中は刺身や焼き魚を与えてもあまり食べないが、ナナは大いに喜び
さらにねだるほどだ。彼女の体型は10数年変わっていない。あまり大食いせず、
適度に運動しているからであろう。チャトはその人格が素晴らしいが、猫生活の
日々を見れば、ナナに優る猫はいないであろう。
主人もママも最近は特にナナに優しく接することが多くなった。それは、
ナナに己の姿を見ているのかもしれない。老い行く自分とナナの姿は
映し絵となって重なってくるのだ。それは自身の死期とも重なる。

ナナも死期というものを考え始めていた。また、チャトと同じように転生という
ものがあることも仙人猫から聞いていた。死んだら、またこの家に戻れるのか、
時折、彼女の思考はそれに支配され1日が過ぎていくこともあった。
だが、彼女はチャトや仙人猫とは違っていた。理屈なぞはいらなった。
ただただ、この17年間過ごした心地良さの残るこの家に戻れればそれでよいと
思っていた。そして、死ぬ時期さえわかれば、何とかなるという淡い期待の
想いに捉われてもいた。
では、死期を覚れる猫は、どういう猫なのか。猫は生まれ変わる。それも必ず、
猫として生まれてくると仙人猫は言う。だが、それが同じナナとして生まれるのか、
彼女にとっては唯一無二の想いなのだが、それを実現する手段を知りたかった。
何度も猫としての生を繰り返してきた仙人猫は、生まれてきたときから、あること
を知るようになる。自分は、死ぬまで生きるだけの存在である、ということ。
だから、ナナの想いに応えられる猫はいなかった。ナナにとって、そのような
禅問答みたいな答えを知りたいわけではない。この家に転生できるか否かの
単純な答えを求めたのだ。
猫たちは死を見据えて、生きている。そしていつしか、自分の死期を知るよう
にはなる。だが、多くの猫は、自分が死ぬ、その瞬間になって初めて知るのだ。
ましてや、その先まで知る猫はいない。ナナはそれを望んだのだが、答えは
見えなかった。
ここ数ヶ月、ナナは落ち込んでいた。結局自分の望みを叶えられる方法はないのだ、
そんな思いが彼女を弱らせ、その衰えを加速させた。
すでに、死は彼女のほんのつま先のあたりにまで来ていた。
そのような日々の中、ふとチャトと仙人猫の話を思い出した。

それはそろそろ陽が強く放たれ、2人の影がしっかりと白壁に映し出されるころであった。
仙人猫とチャトが向かい合って座っていた。
「それでは、猫族の場合はどうなんや」仙人猫は自問するかのように、天を
見据えながら、静かに言っていた。
「それは人間と似たようなものですやろ」とチャト。大きな耳をさらに大きく立て
少し顔を傾けていた。
「少し違う、猫の場合、罪や悪という意識があらへん。それであるから六道という
仏教の考えた方便はいらへん。実はわしもこのへんはようわからへんけど。
ただ、はっきりしているのはここにわしが存在していることや。このわしの知恵は
すべてが自分で得たものではあらへん。
生まれ出でた時から持ってきたものが少なくないんや」
「それでは、、、、、、」
すでにチャトはその思考の壺から大きくはみ出しているようで眼が四方に飛んでいる。
「わしらの輪廻転生の仕組みはこのようなもんかと思ってますんや
今意識している「自身」というのは、自身のすべてではあらへん。わし自身、
今意識しているものは「わしのごく一部」だと思うてます。
それで、わしたち1人1人の肉体が滅びると、1つの「総体な意識」になるんや。
輪廻転生は、この本来の「全体としての自分」を自覚することや。
少し分かりやすく言うと、バケツの水で例えると分かるやろ。
ここにバケツに入っている水がある。これが、「総体意識化した自身」や。
猫も人間ほどひどくはないが、世間というものに汚れるやろ、このため中の水
は少し濁っていくんや。そこで、バケツの中からコップ1杯水をすくうとするんや。
この1杯のすくった水が、輪廻転生して今を生きているわしらや。
猫族がつつましく清廉で生きてきたのは、輪廻転生によって、このコップの中
の少し濁っている水をよりきれいにすることや。
多分再生する過程は人間と似たようなものやろ、だが大きく違うのは、個別の
罪や欲望を消え去るためのものではないんや。だから、輪廻は猫族には不要な理屈
かもしれへんな。そして転生は己の想いが活きるためのものかもしれへん」
ここまで言うと、仙人猫は目をつぶりそのまま置き猫の姿となった。
仙人猫を見ながら、チャトは何かを得たりとばかり大きな長い茶の尻尾を立てて、
庭へと去っていった。それは、我が家に引き取られてきてから彼を煩わしてきた
悩みが、うまくやれば今の我が家に戻れるのではないか、という期待に
変わったからであろう。
チャトほど単純思考ではないものの、ナナも想いの強さがその転生を決めるという
仙人猫の言葉に希望を持つことにした。
死の姿が徐々に大きくなる日々の中、ナナはこの家への転生の想いに希望を持ったが、
別な想いが具体的な情景となって彼女の中で育っていった。
まだナナがこの家でトトに色々な猫としての所作を教え込んでいたころ、すでに
19歳となっていたグンの老いて見苦しくなった姿であった。
その少し前までは優しく遊んでくれたグンが白内障にかかり、眼が見えなくなり、
さらには、後ろ足が動かなくなって排尿さえもが出来なくなった。だが、
生き続けようとする哀れな姿が彼女にとっては見てはならないものを毎日
見続けなくてはならなった苦しみと苦悩の情景だ。
自分はそうならない、そうあってはだめだという恐怖ともいえる観念が彼女を
押し包んでいた。主人もよくママに言っている「老醜」は年老いていく猫たちにも
共通の避けたい姿なのである。



ーーーーーーーーーーーー
チャトは今日もポーチに椅子の上にいた。サンルーフの枠の中に月がいた。
少し欠け始めたが、丸さの残るその中に何かがいるようにも見えた。
昔の人間は、そこにウサギがいると子供に聞かせてたい、そんな話が
思い出された。
月の夜が深く庭に沈んでいた。すでに寒露も迎えたが、虫が鳴いている。
木の葉から木の葉へ夜露の落ちるらしい音も聞こえる。
身をゆするような感覚とともに林の呻く音が聞こえた。
風はない。満月に近い明るさの月が、しめっぽい夜気に包まれるように甍の波を
照らし、木々の輪郭を黒く浮きだたせていた。暗闇を透かして見ても
まだ残る梅の木の葉や椿の葉は1つとして動いていない。
遠い風の音に似た地鳴りのような深い揺れが身をゆする。自分の見の内から
聞こえるようでもあるので、体全体をを振ってみた。音と揺れはやんだ。
音がやんだ後で、ふと思った。仙人猫の「猫は死期を知ることが出来る」という
言葉だ。それを告知されたのではないかと寒気がし、茶色の毛が少し逆立った。
あの透き通った童子が通りかかって林を鳴らしていったかのようであった。
五、六歳ぐらいの幼児の姿をしているという中有はすこぶるすばしこく、
目も耳もはなはだ聡く、どんな遠い物音も聞き、どんな障壁も透かして見て、
行きたいところへは即座に行くことができ、人や猫の目には見えない。
見えないものを追うような目つきでチャトは暗闇に眼をとした。
街を囲む木々の間から、星がいくつか透けて見えた。
「輪廻転生、分かりやすく言うと、バケツの水で例えると分かるやろ。
ここに、バケツに入っている水がある。これが、「総体意識化した自身」や。
猫も人間ほどひどくはないが、世間というものに汚れるやろ、このため中の水
は少し濁っていくんや。そこで、バケツの中からコップ1杯水をすくうとするんや。
この1杯のすくった水が、輪廻転生して今を生きているわしらや。
猫族がつつましく清廉で生きてきたのは、輪廻転生によって、このコップの中
の少し濁っている水をよりきれいにすることや」。
濁った水をきれいにする、仙人猫の言葉が体の奥底から、水底から木片が浮かぶ
軽やかさで、浮いてきた。その言葉が彼の心をひどく軽くした。
死への恐怖が消えた。


童子は、空中をさすらいながら、未来の父母となるべき男女が、相交わる姿
を見て倒心を起こす。中有の有情が男性であれば、母となるべき女
のしどけない姿に心を惹かれ、父となるべき男の姿に憤りながら、その時父の
漏らした不浄が母胎に入るや否や、それを自分のもののように思い込んで喜び
にかられ、中有たることをやめて、母胎に託生するのである。


仙人猫はいう、
一般的に人間の輪廻転生というと、今生きている「自分」という存在が死に、
霊界(あの世)に行く。そして、一定の時間を経て、地上(この世)に再生する
と考えられている。その時、再生するのは「前世」の私と「現世」の私は、
「自分」という全く同じ自意識をもっていると一般には考えられている。
再生する過程について、仏説では、以下のように考えている、
「四有輪転の四有とは、中有、生有、本有、死有の四つをさし、
これで有情の輪廻転生の一期が劃されるわけである。さらに有情は、二つの生の間に
しばらくとどまる果報があって、これを中有といい、中有の期間は短くて七日間、
ながくて七十七日間で、次の生に託胎するとしている。
仏説によれば、中有はただの霊的な存在ではなく、五蘊の肉体を具えていて、
五、六歳ぐらいの幼児の姿をしている。中有はすこぶるすばしこく、目も耳も
はなはだ聡く、どんな遠い物音も聞き、どんな障壁も透かして見て、行きたい
ところへは即座に赴くことができる。人や畜類の目には見えないが、ごく清らかな
天眼通を得たものの目だけには、空中をさまようこれら童子の姿が映ることがある。
透き通った童子たちは、空中をすばやく駆け巡りながら、香を喰ってその命を
保っている。このことから、中有はまた尋香と呼ばれる。
童子は、こうして空中をさすらいながら、未来の父母となるべき男女が、
相交わる姿を見て倒心を起こす。中有の有情が男性であれば、母となるべき女
のしどけない姿に心を惹かれ、父となるべき男の姿に憤りながら、その時父の
漏らした不浄が母胎に入るや否や、それを自分のもののように思い込んで喜び
にかられ、中有たることをやめて、母胎に託生するのである。
その託生する刹那、それが生有である」という。
つまりここでいう有情が「今、現在『自分』と感じている意識であり、そのまま
存在し続いていく」という考え方である。
さらには、輪廻も転生も、言葉としては、は同じであるともいう。
輪廻とは衆生(一般の人間)が、冥界即ち六道、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、
天上、を終わりも知れず、めぐってゆくことである。
しかし転生の語には、時あって冥界から悟解へ赴くことも含まれるから、そのとき
輪廻は止むとも考える。輪廻は必ず転生であるが、転生必ずしも輪廻ともいえない。
それはともかく、仏教では、こういう輪廻の主体はみとめるが、常住不変の中心の
主体というものを認めない。われの存在を否定してしまうから、霊魂の存在をも決して
認めない。ただ認めるのは、輪廻によって生々滅滅して流転する現象法の核、
いわば心識のなかのもっとも微細なものだけである。それが輪廻の主体であり、
唯識論にいう阿頼耶識あらやしきである。すなわち先ほどの「自分の意識」
であり、人間存在の根本にある深層意識と考えられている。
この世にあるものは、生物といえども中心主体としての霊魂ががなく、無生物
といえども因縁によってできたもので中心主体がないから、万有のいずれにも
固有の実体がないのである。輪廻の主体が阿頼耶識とすれば、輪廻が動いてゆく
様態は業である。そしていろいろと言われているが、阿頼耶識は半ば汚れ半ば
無垢であるから、解脱への橋を蔵していると説いている。
仙人猫はここで語気を強め、「要するにだわ、ずる賢い人間のあるものが、
輪廻によって、人間は自分でも望まない恐ろしい世界に引き込まれるのだ、と
脅かしの理屈を創ったんだわ」。そしてこの世界から逃れるには、仏の教えを
学んで実戦することが重要というのだ。
チャトも仙人猫の迫力に負けてか、ただ頷くだけであった。眼は見えぬ童子を
追うかのように絶え間なく動いち得る。
だが、心のどこかには「本当にそうなのか」消えぬ疑問が沼の澱みのように
静かに堆積していった。
「それでは、猫族の場合はどうなんや」仙人猫は自問するかのように、天を
見据えながら、静かに言った。
「それは人間と似たようなものですやろ」とチャト。
「少し違う、猫の場合、罪や悪という意識がない。それであるから六道という仏教の
考えた方便はいらへん。実はわしもようわからへん。ただ、はっきりしているのは
ここにわしが存在していることや。このわしの知恵はすべてが自分で得たものでは
あらへん。生まれ出でた時から持ってきたものが少なくないんや」
「それでは、、、、、、」
すでにさすがのチャト思考の壺から大きくはみ出しているような気分だ。
「わしらの輪廻転生の仕組みはこのようなもんかと思ってますんや。
今意識している「自身」というのは、自身のすべてではあらへん。わし自身、
今意識しているものは「わしのごく一部」だと思うてます。
それで、わしたち1人1人の肉体が滅びると、1つの「総体な意識」になるんや。
輪廻転生は、この本来の「全体としての自分」を自覚することや。
少し分かりやすく言うと、バケツの水で例えると分かるやろ。
ここに、バケツに入っている水がある。これが、「総体意識化した自身」や。
猫も人間ほどひどくはないが、世間というものに汚れるやろ、このため中の水
は少し濁っていくんや。そこで、バケツの中からコップ1杯水をすくうとするんや。
この1杯のすくった水が、輪廻転生して今を生きているわしらや。
猫族がつつましく清廉で生きてきたのは、輪廻転生によって、このコップの中
の少し濁っている水をよりきれいにすることや。
多分再生する過程は人間と似たようなものやろ、だが大きく違うのは、個別の
罪や欲望を消え去るためのものではないんや。輪廻は猫族には不要な理屈
かもしれへんな。そして転生は己の想いが活きるためのものかもしれへん」
ここまで言うと、仙人猫は目をつぶりそのまま寝姿となった。
チャトの中では、茫漠とした光と影が交差し、自身の体が四方に飛び散るのでは、
そんな想いに駆られていた。
だが、一つだけわかった。我が家に引き取られてきてから彼を煩わしてきた
悩みは、うまくやれば、今の我が家に戻れるのではないか、という
期待に変わった。
ーーーーーーーーーーーー チャトは今日もポーチに椅子の上にいた。サンルーフの枠の中に月がいた。 少し欠け始めたが、丸さの残るその中に何かがいるようにも見えた。 昔の人間は、そこにウサギがいると子供に聞かせてたい、そんな話が 思い出された。 月の夜が深く庭に沈んでいた。すでに寒露も迎えたが、虫が鳴いている。 木の葉から木の葉へ夜露の落ちるらしい音も聞こえる。 身をゆするような感覚とともに林の呻く音が聞こえた。 風はない。満月に近い明るさの月が、しめっぽい夜気に包まれるように甍の波を 照らし、木々の輪郭を黒く浮きだたせていた。暗闇を透かして見ても まだ残る梅の木の葉や椿の葉は1つとして動いていない。 遠い風の音に似た地鳴りのような深い揺れが身をゆする。自分の見の内から 聞こえるようでもあるので、体全体をを振ってみた。音と揺れはやんだ。 音がやんだ後で、ふと思った。仙人猫の「猫は死期を知ることが出来る」という 言葉だ。それを告知されたのではないかと寒気がし、茶色の毛が少し逆立った。 あの透き通った童子が通りかかって林を鳴らしていったかのようであった。 五、六歳ぐらいの幼児の姿をしているという中有はすこぶるすばしこく、 目も耳もはなはだ聡く、どんな遠い物音も聞き、どんな障壁も透かして見て、 行きたいところへは即座に行くことができ、人や猫の目には見えない。 見えないものを追うような目つきでチャトは暗闇に眼をとした。 街を囲む木々の間から、星がいくつか透けて見えた。 「輪廻転生、分かりやすく言うと、バケツの水で例えると分かるやろ。 ここに、バケツに入っている水がある。これが、「総体意識化した自身」や。 猫も人間ほどひどくはないが、世間というものに汚れるやろ、このため中の水 は少し濁っていくんや。そこで、バケツの中からコップ1杯水をすくうとするんや。 この1杯のすくった水が、輪廻転生して今を生きているわしらや。 猫族がつつましく清廉で生きてきたのは、輪廻転生によって、このコップの中 の少し濁っている水をよりきれいにすることや」。 濁った水をきれいにする、仙人猫の言葉が体の奥底から、水底から木片が浮かぶ 軽やかさで、浮いてきた。その言葉が彼の心をひどく軽くした。 死への恐怖が消えた。 童子は、空中をさすらいながら、未来の父母となるべき男女が、相交わる姿 を見て倒心を起こす。中有の有情が男性であれば、母となるべき女 のしどけない姿に心を惹かれ、父となるべき男の姿に憤りながら、その時父の 漏らした不浄が母胎に入るや否や、それを自分のもののように思い込んで喜び にかられ、中有たることをやめて、母胎に託生するのである。 仙人猫はいう、 一般的に人間の輪廻転生というと、今生きている「自分」という存在が死に、 霊界(あの世)に行く。そして、一定の時間を経て、地上(この世)に再生する と考えられている。その時、再生するのは「前世」の私と「現世」の私は、 「自分」という全く同じ自意識をもっていると一般には考えられている。 再生する過程について、仏説では、以下のように考えている、 「四有輪転の四有とは、中有、生有、本有、死有の四つをさし、 これで有情の輪廻転生の一期が劃されるわけである。さらに有情は、二つの生の間に しばらくとどまる果報があって、これを中有といい、中有の期間は短くて七日間、 ながくて七十七日間で、次の生に託胎するとしている。 仏説によれば、中有はただの霊的な存在ではなく、五蘊の肉体を具えていて、 五、六歳ぐらいの幼児の姿をしている。中有はすこぶるすばしこく、目も耳も はなはだ聡く、どんな遠い物音も聞き、どんな障壁も透かして見て、行きたい ところへは即座に赴くことができる。人や畜類の目には見えないが、ごく清らかな 天眼通を得たものの目だけには、空中をさまようこれら童子の姿が映ることがある。 透き通った童子たちは、空中をすばやく駆け巡りながら、香を喰ってその命を 保っている。このことから、中有はまた尋香と呼ばれる。 童子は、こうして空中をさすらいながら、未来の父母となるべき男女が、 相交わる姿を見て倒心を起こす。中有の有情が男性であれば、母となるべき女 のしどけない姿に心を惹かれ、父となるべき男の姿に憤りながら、その時父の 漏らした不浄が母胎に入るや否や、それを自分のもののように思い込んで喜び にかられ、中有たることをやめて、母胎に託生するのである。 その託生する刹那、それが生有である」という。 つまりここでいう有情が「今、現在『自分』と感じている意識であり、そのまま 存在し続いていく」という考え方である。 さらには、輪廻も転生も、言葉としては、は同じであるともいう。 輪廻とは衆生(一般の人間)が、冥界即ち六道、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、 天上、を終わりも知れず、めぐってゆくことである。 しかし転生の語には、時あって冥界から悟解へ赴くことも含まれるから、そのとき 輪廻は止むとも考える。輪廻は必ず転生であるが、転生必ずしも輪廻ともいえない。 それはともかく、仏教では、こういう輪廻の主体はみとめるが、常住不変の中心の 主体というものを認めない。われの存在を否定してしまうから、霊魂の存在をも決して 認めない。ただ認めるのは、輪廻によって生々滅滅して流転する現象法の核、 いわば心識のなかのもっとも微細なものだけである。それが輪廻の主体であり、 唯識論にいう阿頼耶識あらやしきである。すなわち先ほどの「自分の意識」 であり、人間存在の根本にある深層意識と考えられている。 この世にあるものは、生物といえども中心主体としての霊魂ががなく、無生物 といえども因縁によってできたもので中心主体がないから、万有のいずれにも 固有の実体がないのである。輪廻の主体が阿頼耶識とすれば、輪廻が動いてゆく 様態は業である。そしていろいろと言われているが、阿頼耶識は半ば汚れ半ば 無垢であるから、解脱への橋を蔵していると説いている。 仙人猫はここで語気を強め、「要するにだわ、ずる賢い人間のあるものが、 輪廻によって、人間は自分でも望まない恐ろしい世界に引き込まれるのだ、と 脅かしの理屈を創ったんだわ」。そしてこの世界から逃れるには、仏の教えを 学んで実戦することが重要というのだ。 チャトも仙人猫の迫力に負けてか、ただ頷くだけであった。眼は見えぬ童子を 追うかのように絶え間なく動いち得る。 だが、心のどこかには「本当にそうなのか」消えぬ疑問が沼の澱みのように 静かに堆積していった。 「それでは、猫族の場合はどうなんや」仙人猫は自問するかのように、天を 見据えながら、静かに言った。 「それは人間と似たようなものですやろ」とチャト。 「少し違う、猫の場合、罪や悪という意識がない。それであるから六道という仏教の 考えた方便はいらへん。実はわしもようわからへん。ただ、はっきりしているのは ここにわしが存在していることや。このわしの知恵はすべてが自分で得たものでは あらへん。生まれ出でた時から持ってきたものが少なくないんや」 「それでは、、、、、、」 すでにさすがのチャト思考の壺から大きくはみ出しているような気分だ。 「わしらの輪廻転生の仕組みはこのようなもんかと思ってますんや。 今意識している「自身」というのは、自身のすべてではあらへん。わし自身、 今意識しているものは「わしのごく一部」だと思うてます。 それで、わしたち1人1人の肉体が滅びると、1つの「総体な意識」になるんや。 輪廻転生は、この本来の「全体としての自分」を自覚することや。 少し分かりやすく言うと、バケツの水で例えると分かるやろ。 ここに、バケツに入っている水がある。これが、「総体意識化した自身」や。 猫も人間ほどひどくはないが、世間というものに汚れるやろ、このため中の水 は少し濁っていくんや。そこで、バケツの中からコップ1杯水をすくうとするんや。 この1杯のすくった水が、輪廻転生して今を生きているわしらや。 猫族がつつましく清廉で生きてきたのは、輪廻転生によって、このコップの中 の少し濁っている水をよりきれいにすることや。 多分再生する過程は人間と似たようなものやろ、だが大きく違うのは、個別の 罪や欲望を消え去るためのものではないんや。輪廻は猫族には不要な理屈 かもしれへんな。そして転生は己の想いが活きるためのものかもしれへん」 ここまで言うと、仙人猫は目をつぶりそのまま寝姿となった。 チャトの中では、茫漠とした光と影が交差し、自身の体が四方に飛び散るのでは、 そんな想いに駆られていた。 だが、一つだけわかった。我が家に引き取られてきてから彼を煩わしてきた 悩みは、うまくやれば、今の我が家に戻れるのではないか、という 期待に変わった。


ーーーーーーーーーーーーー
彼はそこに立ち止まった。
杉と杉のあいだには、差し込む日が太い帯を作り、行く手にその光を
ちりばめていた。透かして見る山並みが青い空にきっちりとはまっていた。
頭上には緑と黄の入り混じった葉が残光を透かしていた。そこからのぞかれる
枝に黒く光るものが浮いていた。蜘蛛だった。
時に聞こえる鳥の空気を切り裂く音や藪蚊の飛翔、葉の群れのざわめきが
彼の周りをおおっていた。光の帯が揺れるに従い、幾筋もの蜘蛛の糸が枝から
枝へとつながり、葉群れの動きに合わせて1つのリズムを作っていた。
その糸をたどっていくと葉群れの中に大きな蜘蛛の巣がいくつも垣間見られた。
風に揺られその同心円の網がゆっくりと上へと膨らみそして下へ下がっていく。
中央には、黄色の縞を持った蜘蛛が静かにこれも上下している。
風が流れ、放たれる光が破片となり、飛散する中にいくつもの蜘蛛の巣
が重なり合っていた。
そこには、ミイラ化したやぶ蚊や虻の死骸があり、その近くの巣が一部黒い影
となり綻びとなっている。それは、捕まった虫たちの怨念がしみ出した
ようにも見えた。
8本の足を使い大きな蜘蛛が巣の中央から端へと移動し、数条の糸を伝って
葉群れに消えた。
彼はそれを見ながら、以前、家の花水木と電線の間にあった3メートルほどの
蜘蛛の糸のことを思い出した。数条の糸が光に映え、一直線にその間にあることの
不思議さを感じたものだ。生きることへの執念にも思えた。
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」、天上界から差し下された1本の蜘蛛の糸に人が
群がり、結局全員が地獄へと落ちていく、あの話が想い起こされた。
「生きるとは」、「なんで歩くのか」そんな疑問が反芻された。

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