2016年10月2日日曜日

三島由紀夫「豊饒の海」

三島由紀夫「豊饒の海」

(一)春の雪

松枝公爵家は渋谷の郊外の高台にあり、14万坪の広大な敷地に和風の母屋と壮麗な洋館
を持っていた。松枝家の嫡男清顕は、綾倉伯爵家の令嬢聡子と幼馴染であった。綾倉家
は麻布の旧武家屋敷に住んでいた。あるとき、聡子に宮家との縁談話が持ち上がり、そ
れをきっかけに、満18歳の清顕と20歳の聡子は道ならぬ恋に落ちる。侍女の蓼科の手引
きで逢瀬を重ねるが、聡子が身ごもってしまい、奈良の月修院(天理の北、桜井線帯解
駅近くとの設定)の門跡のもとに身を寄せ、出家する。清顕は真冬の寒さの中、月修院
をたずねるが、聡子に会えるはずもなく、風邪で高熱を出して、友人の本多に連れられ
て帰京し、「今、夢を見ていた。又、会うぜ。きっと会う。滝の下で」と言い残して、
この世を去る。
この物語をはじめから終わりまで見守るのが、清顕の友人の本多繁邦である。月修院の
根本教義は唯識であるが、その根幹をなすのは阿頼耶(アーラヤ)識である。法曹を目
指す本多は、なぜか唯識の教義に強く引かれるのであった。
飯沼茂之は書生として松枝家に寄食している。彼の息子の飯沼勲は第2巻の主人公にな
る定めである。
清顕らはタイ王室のクリッサダ王子とジャオ・ピー王子と親交を深めていた。清顕と本
多、そしてタイの二人の王子は、松枝家の鎌倉の別荘に海水浴に行く。そこで本多は、
清顕の左のわき腹に、小さな三つの黒子があることに目をとめた。本多は、王子たちか
ら、輪廻転生の物語についての話を聞く。月光姫ジン・ジャンは、クリッサダ王子の妹
であり、ジャオ・ピー王子の恋人であったが、ある日突然、王大后から、月光姫が死ん
だ、との手紙が舞い込む。同じ名前の、次の月光姫が、第3巻の主人公となる。

一見女らしくない勇気を以って、不吉な犬の屍を指摘した聡子は、持ち前のその甘くて
張りのある声音といい、物事の軽重をわきまえた適度な朗らかさといい、正しく
その率直さのうちに、手ごたえある優雅さを示していた。それは硝子の容器のなかの
果物のような、新鮮で生きた優雅であるだけに、清は自分の躊躇のを恥じ、聡子の
教育者的な力を怖れた。、、、、
おそらく犬は、すでに傷ついたか病んだかして、水源で水を呑もうとして落ち、その
溺れた骸が流されて、滝口の岩に堰かれたのであろう。本多は聡子の勇気に感動して
いたが、同時に、仄かな雲の漂う滝口の空の澄みやかさ、水の清冽なしぶきを浴びて
宙に懸かっている真っ黒な犬の屍、そのつやつやと濡れた毛、ひらいた口の牙の純白
と赤黒い口腔のすべてを、すぐ間近に見るような気がしていた。、、
人々はこういう尊い方の存在が、みるみる不吉を清めて、小さくても暗い出来事を、
大きな光明の空に融かしこんでくださるように感じた。


もしここで彼が胸襟を披けば、本多はずかずかと彼の心の中へ踏み入ってくることは
しれており、誰であれそんな振る舞いを許せない清は、たちまちこのたった一人の
友をも失うことになるであろう。本多も、しかし、この時にすぐに清の心の動き
を理会した。彼と友人であり続けようとすれば、粗雑な友情を節約せねばならぬ
ということ。その塗り立ての壁にうっかり手をついて、手形を残すような事を
すべきでないということ。
場合によったら、友の死苦をさえ看過せねばならぬということ。とりわけそれが、
隠すことによって優雅になりえている特別な死苦ならば。


月はあきらかで、風が木々の梢に吠えていた。父は後からついてくる執事の山田の
幽霊のような姿に、一切注意を払わなかったが、清は気になって一度だけ振り向いた。
寒空にインパネスも着ず、常のような紋付袴の白い手袋に紫の袱紗包みを捧げ持って、
山田は,足が悪いので、そうろうとして来る。眼鏡が月に光って、霜の様である。
終日ほとんど言葉を交わさないこの忠実無類の男が、体の中にどんな錆びた感情の
発条をたくさん溜め込んでいるか、清は知らない。しかしいつも快活で人間的な
父侯爵よりも、この冷たい無関心な息子の方が、はるかに他人の中に感情の
存在を認めがちだったのである。
梟が鳴き、松の梢のざわめきが、多少酒にほてった清の耳朶に、あの戦死者の
弔祭の写真の、悲壮な葉叢を風になびかせている木々のざわめきを伝えた。

彼女は斜めに顔を伏せていたので、彼は直ぐ眼下に、自分の膝の上に、傷つき
やすい潤んだ小さな黒い滴のように留まっている彼女のみひらいた目を見る
ことが出来た。それはひどく軽く、かりそめにそこに停まった蝶のようだった。
長い睫の目ばたきは蝶の様に羽ばたき、その瞳は翅の不思議な斑紋。
あんなに誠実の無い、あんなに無関心な、あんなに今にも飛立ってゆきそうな、
不安で、浮動的で、水準器の気泡のように、傾斜から平衡まで、放心から
集中まで、とめどなくゆききする目を、繁は見たことが無い。それは決して
媚びではない。さっき笑って喋っていたときよりも、眼差しはずっと孤独になり、
彼女のとりとめのない内部の煌めきの移り行きを、無意味なほど正確に
写し出しているとしか見えなかった。
そしてそこに拡がる迷惑なほどの甘さと薫りも、決してことさらな
媚びではなかった。


水が馴染んだ水路へ戻るように、またしても彼の心は、苦しみを愛し始めていた。
彼のはなはだわがままで、同時に厳格な夢想癖は、逢いたくても逢えないという
事情のないことにむしろ苛立ち、飯沼のお節介な手引きを憎んだ。彼らの働きは
清の感情の純真さ敵であった。こんな身を噛む苦痛と想像力の苦痛を、清は
すべて自分の純潔から紡ぎ出すほかはないことに気づいて、ほこりを傷つけられた。
恋の苦悩は多彩な織物であるべきだったが、彼の小さな家内工場には、
一色の純潔の糸しかなかったのだ。


何とこの女たちは、笑いさざめき、楽しげで、自分たちの肉の丁度頃合の熱さの
風呂にたっぷりとひたっていることだろう。仕方話の指の立て方、白いなめらかな
咽喉もとに小さな金細工の蝶番でもはまっていそうな、その一定のところで
止まるうなずき方、人の揶揄を受け流すときの、一瞬の戯れの怒りを目元に刻み
ながら、口は微笑を絶やさないその表情、急に真顔になって客のお談義をきくときの
その身の入れ方、一寸髪へ手をやるときのやるせなげな刹那の放心、そういう
様々な姿態のうちに、清がしらずしらず比べているのは、芸者たちの頻繁な流し目
と、聡子のあの独特な流し目との違いであった。この女たちの流し目はいかにも
敏活で愉しげだったが、流し目だけが独立して、うるさい羽虫のような飛び回り
すぎるきらいがあった。それは決して聡子のそれのような、優雅な律動の裡うち
に包まれてはいなかった。


四月は晴れの日がまことに少なく、暗い空の下で、日増しに春が薄れ、夏が兆し
ていた。門構えばかりが立派な武家屋敷の、質素なつくりの部屋の肘掛窓から
手入れのとどかぬひろい庭を眺めていると。椿もすでに花が落ちて、その黒い
固い葉叢から新芽がせり出し、柘榴も、神経質な棘立ったこまかい枝葉の尖端に
ほの赤い眼を突き出しているのに気づいた。新芽はみな直立し、そのために
庭全体が、爪先たって背伸びしているように見える。庭が幾分か高くなったのだ。



そのとき雲一つない空の何処かから轟くような声がする。
「偶然は死んだ。偶然と言うものはないのだ。意志よ、これからお前は永久に
自己弁護を失うだろう」
その声を聞くと同時に、意志の体が崩れ始め溶けはじめる。肉が腐れて落ち、
みるみる骨が露わになり、透明が奨液が流れ出し、その骨さえ柔らかく
溶けはじめる。意志はしっかりと両足で大地を踏みしめているけれど、
そんな努力はなにもならないのだ。
白光に充たされた空が、怖ろしい音を立てて裂け、必然の神がその裂け目から
顔をのぞけるのは、正にこの時なんだ。
俺はどうしてもそんな風に、必然の神の顔を、見るも怖ろしい、忌まわしい
ものにしか思い描くことが出来ない。それはきっと俺の意志的性格の弱み
なんだ。しかし偶然が1つも無いとすれば、意志も無意味になり、歴史は
因果律の大きな隠見する鎖に生えた鉄錆びにすぎなくなり、歴史に関与するものは、
ただ1つ、輝かしい、永遠不変の美しい粒子のような無意志の作用になり、
人間存在の意味はそこしかなくなるはずだ。


その窓からよほど首をさしのべなければ、九段目の滝が滝壺に落ちる辺りが
見えないほどに、窓辺の欅けやき若葉の繁りは深くなっていた。池もまた、
岸ちかいかなりの部分が薄緑のじゅん菜の葉におおわれ、河骨こうほねの黄の花は
まだ目につかないが、大広間の前の八橋風の石橋のひまひまに、花菖蒲が紫や白の
花盛りを、その鋭い緑の剣のような葉の叢生から浮き上がらせていた。
窓框かまちにとまっていたのが、ゆっくりと室内へ這い上がって来ようとしている
一疋の玉虫に清は目をとめた。
緑と金に光る楕円の甲冑に、あざやかな紫紅の二条を走らせた玉虫は、触覚を
ゆるゆると動かして、糸鋸のような肢をすこしづつ前へ移し、その全身に凝らした
沈静な光彩を、時間のとめどもない流れの裡うちに、滑稽なほど重々しく保っていた。
見ているうちに清の心はその玉虫の中へ深くとらえられた。虫がこうして燦然
たる姿を、ほんの少しづつ清のほうへ近づけてくる、その全く意味のない移行は、
彼に、瞬間ごとに容赦なく現実の局面を変えていく時間と言うものを、どうやって
美しく燦然とやりすごすかという訓えを垂れているように思えた。
彼自身の感情の鎧はどうだろうか?
それはこの甲虫の鎧ほどに、自然の美麗な光彩を放って、しかも重々しく、あらゆる
外界に抗うほどの力があるだろうか?清はそのとき、ほとんど、周囲の木々の茂りも
青空も、雲も、棟棟の甍も、すべてのものがこの甲虫をめぐって仕え、玉虫が今、
世界の中心、世界の核をなしているような感じを抱いた。


深夜の浜には人影ひとつなかったが、たかだかとみよしをかかげた漁船が砂に
落としている黒い影は、あたりが眩いだけに頼もしく思われた。船の上は月を
浴びて、船板も白骨のようである。そこへ手をさしのべると、手が月光に
透くかのようだ。海風の涼しさに、二人はすぐに船蔭で肌を合わせた。
聡子はめったに着ない洋服の輝くばかりの白さを憎み、自分の肌の白さも忘れて、
すこしも早くその白を脱ぎ捨てて病みに身を隠したいと望んでいた。誰も
見ていないはずなのに、海に千々に乱れる月影は百万の目のようだった。聡子は
そらにかかる雲を眺め、その雲の端に懸かって危なくまたたいている星を眺めた。
清の小さな固い乳首が、自分の乳首に触れて、なぶりあって、ついには自分の
乳首を、乳房の豊溢ほういつの中へ押しつぶすのを聡子は感じていた。それには
唇の触れ合いよりももっと愛しい、何か自分が養っている小動物の戯れの触れ合い
のような、意識の一歩退いた甘さがあった。肉体の外れ、肉体の端で起こっている
その思いもかけない親交の感覚は、目を閉じている聡子に、雲の外れにかかっている
星のきらめきを思いださせた。そこからあの深い海のような喜びまでは、もう一路
だった。ひたすら闇に溶け入ろうとしている聡子は、その闇がただ、漁船の
侍らしている蔭にすぎないと思うとき、恐怖にかられた。それは堅固な建物や
岩山の影ではなくて、やがて海へ出てゆく筈のもの、かりそめの蔭にすぎなかった。
船が陸にあることは現実ではなく、その確乎たる蔭も幻に似ていた。彼女は今にも、
そのかなり老いた大ぶりの漁船が、砂の上を音もなく滑り出して、海へ逃れていく
様な危惧を抱いた。その船の影を追うには、その影の中にいつまでもいるためには、
自分が海にならなくてはならない。そこで聡子は、重い充溢のなかで海になった。

こうして金砂子に小松を配した美しい料紙の上に、おそれげもなく、墨を豊かに
含ませた筆の穂先を落としたときのことを想起すると、それにつれて、一切の
情景が切実に浮かんだ。聡子はそのころふさふさと長い黒いお河童頭にしていた。
かがみ込んで巻物を書いている時、熱心の余り、肩から前へ雪崩れ落ちる夥しい
黒髪にもかまわず、そのちいさな細い指をしっかりと筆にからませいたが、
その髪の割れ目からのぞかれる、愛らしい一心不乱の横顔、下唇をむざんに
噛み締めた小さく光る怜悧な前歯、幼女ながらすでにくっきりと通った鼻筋などを、
清は飽かずに眺めていたものだ。それから憂わしい暗い墨の匂い、紙を走る
筆がかすれるときの笹の葉裏を通う風のようなその音、硯の海と岡という
不思議な名称、波一つ立たないその汀から急速に深まる海底は見えず、黒く澱んで、
墨の金箔が剥がれて散らばったのが、月影の散光のように見える永遠の夜の海。


しかもそれはカサネの色目に言う白藤の着物を着た豪奢な狩りの獲物で
あるばかりではなく、禁忌としての、絶対不可能としての、絶対の拒否
としての、無双の美しさを湛えていた。聡子は正にこうあらねばならなかった。
そしてそのような形を、たえず裏切り続けて彼を脅かして来たのは、
聡子自身だったのだ。見るがいい。彼女はなろうと思えばこれほど神聖な
美しい禁忌になれというのに、自ら好んで、いつも相手をいたわりながら
軽んずる、いつわりの姉の役目を演じ続けていたのだ。
清が遊び女の快楽の手ほどきを頑なにしりぞけたのは、以前からそんな聡子の
うちに、丁度繭を透かしてほの青い蛹の成育を見守るように、彼女の存在
のもっとも神聖な核を、透視し、かつ、予感していたからにちがいない。
それとこそ清の純潔は結びつかねばならず、その時こそ、彼のおぼめく
悲しみに閉ざされた世界も破れ、誰も見たことのないような完全無欠な曙
が漲るはずだった。

小さな漆の蓋の外れに、熱い餡が紫がかって、春泥のようにはみ出しているのが
徐々に乾いた。

艶やかに日に照る柿は、一つの小枝にみのった一双の片方が、片方に漆のような
影を宿していた。ある一本ひともとは、枝と言う枝に赤い粒を密集させ、それが
花とちがって、のこる枯葉がかすかにゆらぐほかは風の力を寄せ付けないので、
夥しく空へ撒き散らされた柿の実は、そのまま堅固に鋲留めでもしたように、不動の
青空へ嵌め込まれてしまっていた。
道野辺の草紅葉さえ乏しく、西の大根畑や東の竹藪の青さばかりが目立った。
大根畑のひしめく緑の煩瑣な葉は、日を透かした影を重ねていた。やがて西側に
沼を隔てる茶垣の一連が始まったが、赤い実をつけた美男葛かずらがからまる
垣の上から、大きな沼の澱みが見られた。ここをすぎると、道はたちまち暗み、
立ち並ぶ老杉のかげへ入った。さしもあまねく照っていた日光も、下草の笹に
こぼれるばかりで、そのうちの一本秀でた笹だけが輝いていた。
かすかに冷気が身にしみたので、ショールを肩にかける仕草をした。もう一度
ふりかえった婦人の目はじに、ひるがえるショールの虹が映った。
門内に色づいているこの数本の紅葉は、敢えて艶やかとは言いかねるけれど、
山深く凝った黒ずんだ紅が、何か浄化されきらない罪と言った印象を婦人に与えた。
それが婦人の心に、突然、錐のような不安を刺した。後ろの聡子のことを
考えていたのである。紅葉のうしろのかぼそい松や杉は空をおおうに足らず、
木の間になおひろやかな空の背光を受けた紅葉は、さしのべた枝枝を朝焼け
の雲のように棚引かせていた。枝の下からふりあおぐ空は、黒ずんだ繊細な
もみじ葉が、次か次へと葉端を接して、あたかも臙脂色のレースを透かして
仰ぐ空のようだった。

二組の夫婦は、永い付き合いにも一度も見せなかった裸の顔をさらしていた。
とはいうものの、夫人同士は顔をそむけ合って、自分の良人のほうばかりを
盗み見ている。男同士が相対しているのだが、伯爵のほうはうつむきがちで、
卓布へかけている手も雛の手のように白く小さいのに、侯爵はその裏にしっかり
した精力の裏打ちを欠いているとじゃいいながら、怒った癇筋が眉間に逆立った
大ベシ見の面を思わせる逞しい赤ら顔である。夫人たちの目にも、とても伯爵
のほうに勝ち目が有りそうには思われない。
事実、はじめ怒鳴り散らしていたのは侯爵のほうだったが、怒鳴っているうちに、
さすがに侯爵は、何から何まで強い立場の自分が威丈高になっている間の悪さ
を感じていた。目の間にいる相手ほど、衰えた弱小な敵はいなかった。顔色も
悪く、黄ばんだ象牙を掘り込んだような、薄い稜角の整った顔立ちが、悲しみ
とも困惑るかぬものを浮かべて黙り込んでいる。伏目がちな目は、深い二重瞼が、
1そうその目の陥没と寂寥を際立たせ、侯爵は今更ながらそれを女の眼だと思った。
伯爵の、だるそうな、不本意げな、身を斜交いに椅子に掛けた風情には、侯爵の
血統のどこにも見当たらぬ、あの古いなよやかな優雅が、もっとも傷つけられた
姿でありあり透かして見られた。それは何か、汚れ果てた白い羽の鳥の亡骸の
ようだった。鳴き声は良かったかもしれないが、肉も美味ではなく,所詮
食べられない鳥の。

帯解の町の狭い辻辻をすでに車は抜けて、かなたに霞む山腹の月修寺まで、田畑の
あいだをひたすら行く平坦な野道にかかっていた、稲架はぎの残る刈田にも、
桑畑の枯れた桑の枝にも、またその間の目に滲む緑を敷いた冬菜畑にも、沼の
赤みを帯びた刈れ葦や蒲の穂にも、粉雪は音もなく降っていたが、積もるほど
ではなかった。そして、清の膝の毛布にかかる雪は、目に見えるほどの水滴も
結ばないで消えた。空が水のように白んでくると思うと、そこから希薄な日が
さしてきた。雪はその日ざしの中で、ますます軽く、灰のように漂った。
いたるところに、枯れた芒のぎが微風にそよいでいた。弱日を受けてそのしなだれた
穂の和毛にこげが弱く光った。野の果ての低い山々は霞んでいたが、却って空の遠くに
1箇所澄んだ青があって、遠山の頂きの雪が輝いて見えた。
それは実にしんとした場所だった。車の動揺と重い瞼とが、その景色を歪ませ、
攪拌しているかもしれないけれど、悩みと悲しみの不定形な日々を送って来た
彼は、こんな明晰なものには久しく出会わなかった気がした。しかもそこには
人の影は1つもなかった。、、、、
また少し空が拓けて、薄日の中に雪が舞っていたが、路の傍らの藪の中で雲雀
らしいさえずりが聞こえた。松並木に混じる桜の冬木には青苔が生え、藪に
混じる白梅の1本が華をつけていた。
目を驚かすものは何もないはずなのに、今、車から、綿を踏むような覚束ない足を
地へ踏み出して、熱に犯された目で見回すと、すべてが異様にはかなく澄み切って
毎日見慣れた景色が、今日初めてのような、気味の悪いほど新鮮な姿で立ち現れた。
その間も悪寒はたえず、鋭い銀の矢のように背筋を射た。
道野辺の羊歯、藪柑子の赤い実、風にさやぐ松の葉末、幹は青く照りながら葉は
黄ばんだ竹林、甚だしい芒、その間を氷った轍のある白い道が、ゆくての杉木立ち
の闇へ紛れ入っていた。この、全くの静けさのうちの、隅々まで明晰な、そして
言わん方ない悲愁を帯びた純粋な世界の中心に、その奥の奥の奥に、紛れもなく
聡子の存在が、小さな金無垢の像の様にいきを潜めていた。しかし、これほど
澄み渡った、馴染めのない世界は、果たしてこれが住みなれた「この世」であろうか?


冷え冷えとした部屋は寂としている。雪白の障子は霧のような光りを透かしている。
そのとき本多は、決して襖一重というほどの近さではないが、遠からぬところ、
廊下の片隅か一間を隔てた部屋化と思われる辺りで、幽かに紅梅の花が開くような
忍び笑いを聞いたと思った。しかしすぐそれは思い返されて、若い女の忍び笑い
ときかれたものは、もし本多の耳の迷いでなければ、たしかに孤の春寒の空気を伝わる
忍び泣きに違いないと思われた。強いて抑えた嗚咽の伝わるより早く、弦が断たれた
ように、嗚咽の絶たれた余韻がほの暗く伝わった。そこですべては耳のつかのまの
錯覚であったかのように思われだした。

(1)奔馬
 もうだいぶ前の1980年代半ばごろになりますが、一時期、イギリスの大学町に長
期間滞在して英語学校に通っていたことがあります。日本人の女の子の友人の一人がア
パート(フラットという)をイギリス人2人のルームメイトと共同で借りていて、それ
ぞれ一部屋ずつ使い、リビングやキッチンは共同、という、日本から見たら、独身の二
十歳そこそこの女の子としては恵まれた住宅事情でした。(しかも、一か月の家賃が当
時の日本円でも1万円ちょっと!) 

 一部屋がだいたい12帖ぶんぐらいの広さはあったので、一応若い女の子3人で借り
ていたことになっていたけれども、他の2人のイギリス人の女の子は、どちらもそれぞ
れ自分の部屋に彼氏が一緒に住んでいました。そのうちの一人は、30歳ぐらいのセカ
ンドシングルの女の子で、彼氏は22歳の失業中の男の子。長距離トラックの運転手を
していたけれども、失業した、ということで、彼女がハンバーガー店で働いて二人の生
活を支えていました。ボブというその彼は、当時の日本人の同じ年頃の失業中の男の子
とは全然違って、別に焦りもせず、ゆうゆう、堂々と、日がな一日テラスでひなたぼっ
こしながら、図書館で借りてきた本を次々に読破していました。 

 ボブはシャイで優しい性格で、眼鏡をかけていて、おとなしい人だったのですが、あ
る日私に、「今、日本の小説を読んでるんだ」と、大きなハードカバーの本を見せてく
れました。その表紙には、『Runnaway horses by Yukio Mishima』 
の文字が・・・「ミシマを知ってるか」と聞くので、「もちろん」と、しばらく不自由
な英語でその話をしていた覚えがあります。 

ボブが読んでいたのは、三島由紀夫『豊穣の海』第二部の『奔馬』でした。四部作の中
でも、やはり、武士道の話や少年やハラキリの話が出てくる、この第二部はこっちの人
たちにはインパクトが強いのかなあ、などと思ったりした私です(むろん一つだけの例
では断定できませんが)。三島の英訳本はその大学町の大きな書店ではよく見かけまし
たが、『仮面の告白』『金閣寺』あたり、能面をカバー写真にして、バックは黒、とい
った装丁を思い出します。 



43
霊山というその響きに何か違う世界を想像し、車で出かけた。
大神(おおみわ)神社の大鳥居を通り、広大で立派な社殿で拝した。
周囲約十六キロほどの三輪山は、西側の御本社の背後にあたる大宮谷を含む以前の禁足
地のまわりに九十九谷の山すそを広げていた。少し登ると、右方の下草の茂に任せた赤
松の幹は、午後の日を受けてその赤さを一層に輝かしていた。
禁足地であった地は、木々も、羊歯や笹叢も、これらに万遍なく織り込まれた日光も、
すべてが心なしか尊く清らかに見えた。
しかし、自分の足が踏みしめているこの御山自体が、神、あるいは神の御座だと感じる
ことは、素直に受け入れるほどの感情ではなかった。歳は4,5歳上である友人のその
俊足に驚きながらも汗を払う間もなく従っていく人間にとって、午後になってますます
暑さを加えた日差しが憎く思ったが、やがて渓流の傍らの道の涼やかさに一幅の幸せを
感じた。日は避けられたが、道はいよいよ険しくなった。
榊の多い山で、町で見る榊よりもはるかに葉のひろい若木が、そこかしこで黒ずんだ緑
の影に多くの白い花をつけていた。上流へいくほど瀬は早くなり、快いその水音の響き
が一段と高くなり、一陣の滝が現れた。そのあたりは滝を巡って、森がもっとも鬱蒼と
してるところだそうだが、森のいたるところに光がこもっているので、あたかも光の帯
の中にいるようである。頂へ登る道は、ここから先が難所なのであった。
一応道として整備はされているものの、岩や松の根を頼りに道とは言えない道や赤銅色
の崖を伝い、少し平坦な道が続くかと思えば、また更に、午後の日に黒々と照らし出さ
れた崖が現れた。友人は先へ先へと行くが、彼は息が迫り、汗もしとどになるにつれて
、こうした苦行のうちにやがて近づく神秘が用意されているのを感じた。
時折木々の間を縫うように鳥たちがわたり、直径一メートルあまりの赤松や黒松が、静
かに群立っている谷も見えた。蔦や蔓草にからまれて朽ちかけた松が、残らず煉瓦色の
葉に変わっているのも見た。あるいは赤く露地を見せた崖の半ばに立った一本杉に、入
山の信者が何らかの神性を感じて、注連縄を張り巡らし、供え物をしてあるのも見た。
その杉の幹の片面は苔のために青銅色をしていた。御山の頂に近づくにつれて、一本一
草が、たちどころに神性を与えられ、自然に神に化身するかのように見えた。たとえば
、高い椎木の樹冠が、風にあわせ一斉にその浅黄の花を散らしてくるようなときには、
人のいない深山の木の間を縫ってくる花の飛来は、二人に驚きと荘厳さを与えた。
沖津磐座は崖路の上に突然現れた。
難破した巨船の残骸ような、不定形の、あるいは尖り、あるいは裂けた巨石の
群れが張り巡らした注連縄の中に鎮座していた。太古からこの何かあるべき姿
に反した石の群れが、並みの事物の秩序のうちには決して組み込まれない形で、
怖ろしいような純潔さと乱雑さを併せ持ち、生きてきたのである。
石は石と組打ち、組み打ったまま倒れて裂けていた。別の石は、平たんすぎる
斜面を広々とさしのべていた。すべてが神の静かな御座というよりは、戦いの
あと、それよりも信じがたいような恐怖のあとを思わせ、神が一度座られたあとでは、
地上の事物はこんな風に変貌するのではないかと思われた。
日は、石の肌に一重の衣のごとき苔を無残に照らし出し、さすがにここまで来ると風が
活きて、あたりの森はさわやかに騒いでいた。
磐座のすぐ上方にある高宮神社の小詞の簡素なつつましさが、磐座の荒々しい畏怖をな
だめた。合掌造りの屋根の小さな、しかしすこぶる鋭角に見える鰹木は、蒼い松に囲ま
れて、いさぎよく結んで立てた鉢巻のようにその力強さを見せていた。
久々のこういう脚の行使が、それを何とか果たしたという満足が、和邇の心を
解き放って、あたりの松風の音にこもる明るいさわやかな神性のうちに、日ごろの俗世
そのものの行為を排したという満足感に浸るような心境にさせた。
轟々たる青風の合間に、静けさが点滴のように滴ってきて、虻の飛びすぎる羽音が耳だ
ったりする。杉の幾多の槍の穂先に刺された輝かしい空。動く雲。日光の濃淡を透かし
た葉桜の葉叢。彼はわれにもあらず幸福な面持ちになった。
そして、神という意識が初めて彼の心


51
さらに四有輪転しうりんてんの四有とは、中有、生有、本有、死有の四つをさし、
これで有情の輪廻転生の一期が劃されるわけであるが、二つの生の間にしばらく
とどまる果報があって、これを中有といい、中有の期間は短くて七日間、
ながくて七七日間で、次の生に託胎するとしいる。
仏説によれば、中有はただの霊的な存在ではなく、五蘊の肉体を具えていて、
五六歳ぐらいの幼な児の姿をしている。中有はすこぶるすばしこく、目も耳も
はなはだ聡く、どんな遠い物音も聞き、どんな障壁も透かして見て、行きたい
ところへは即座に赴くことができる。人や畜類の目には見えないが、ごく清らかな
天眼通を得たものの目だけには、空中をさまようこれら童子の姿が映ることがある。
透き通った童子たちは、空中をすばやく駆け巡りながら、香を喰ってその命を
保っている。このことから、中有はまた尋香と呼ばれる。
童子は、こうして空中をさすらいながら、未来の父母となるべき男女が、
相交わる姿を見て倒心を起こす。中有の有情が男性であれば、母となるべき女
のしどけない姿に心を惹かれ、父となるべき男の姿に憤りながら、その時父の
漏らした不浄が母胎に入るや否や、それを自分のもののように思い込んで喜び
にかられ、中有たることをやめて、母胎に託生するのである。
その託生する刹那、それが生有である。

88
神官と地域の世話人たちが、静かな仕草で樽と缶を運び出した。神官の白衣、
その黒い冠、その黒い紗の色立ちに、木桶に差し込まれた花々が、冠より高く
そびえてそのゆらぐさま、沖天の光に映える色が美しい。
そして、もっとも高く捧げられた一茎の百合が、青い空の中で一条の線となり、
薄く伸びる天空を切り裂いていた。
笛が漲り、鼓がときめいている。黒ずんだ石垣の前におかれた百合は、たちまち
に紅潮する。神官は、うずくまって百合の茎を分けて酒を杓で汲み、白木の瓶子
へいしを捧げてきてこの酒を受けては、三殿の各々に献ずるさまが、楽の音と
ともに神の宴の賑々しさを更に高めている。それは、御扉の闇のうちに、おぼろげに
立ち上る神の想いを偲ばせた。その間、拝殿では、四人の巫女役の娘たちが伝承の
舞をはじめている。
いずれも美しい乙女で、頭に杉の葉を巻き、黒髪を金の水引で紅白の髪に束ね、浅い
朱色の袴に、銀の稲の葉の紋様の白い紗すずしの衣の裾を引き、襟元は紅白六重ね
に合わせている。
巫女たちは、直立し、ひらけ、はじける百合の花々のかげから立ち現われ、手に手に
百合の花束を握っている。奏楽の流れに合わせ、巫女たちは四角に相対して踊り
始めたが、高く掲げた百合の花は微妙に揺れ始め、踊りが進むにつれて、百合は
気高く立てられ、横ざまにあしらわれ、集い又、離れて、沖天をよぎるその白い
線は一段と鋭くなって、一種の鋭利な刃のように見えるのだった。
やがて鋭く風を切るうちに百合は徐々にしなだれて、楽も舞も実に和やかで優雅に
流れているのに、あたかも巫女の手なある百合だけが残酷に弄ばれているように
見えた。巫女の踊りに合わせてさざ波のような人の声、動きの様々な音が消え去り、
彼女らの動きが高潮に向かうにつれて、静かな水面が訪れていた。



248
自分が感動することなどないと信じ始めていた。
ワキの僧と狂言方の問答が終わって間もなく、橋掛かりからシテとツレとの出になる
が、このとき奏せられるきわめて荘重な「真ノ一声」の囃子は、本来初能物の
前シテとツレの登場の場合に限るのに、初能物でなくてそれがあるのは、「松風」
を以って唯一の例外とする、と同僚は説明した。それだけこの曲は、幽玄の
至極として重んじられて来たものであろう。いずれも白水衣からちらほらと腰巻の
紅がこぼれ出た松風と村雨が、橋掛かりに向かい合って、砂地にしみいる浜の雨の
ようにもの静かに、
「汐汲車わずかなる浮世に廻るはかなさよ」と一声を謡い出したとき、本多は、
能楽堂にしてはややきつい照明に、舞台ノ磨きたてた檜の床板が、あまりなめらかに
輝いて、松羽目の影を落としているのに気を取られていたが、ツレのむしろ浅い
明るい声に、野口兼資の暗く深いもつれるような、途絶えがちの声が連綿して
謡われている、その最後の「はかなさよ」という一句が、明瞭にきこえてきた。
もとより耳は何ものにも妨げられずに聞いていたはずだから、すぐ耳の中で
言葉が前へ手繰られて、
「汐汲車わずかなる浮世に廻るはかなさよ」という、いくらか痩せた、なよやかな
腰つきの、姿のよい詩句が、まとまって頭に浮かんだ。
そのとき本多は、われにもあらず戦慄していた。謡はすぐに二の句に移り、
「波ここもとや須磨の浦、月さえ濡らす袂かな」
で連吟が終わると、
「心づくしの秋風に海は少し遠けれども」
とシテの松風のサシがはじまった。
野口兼資の声には、面こそ美しい若女に装われてあれ、女の色香をおもわすようなもの
は何一つなかった。赤く錆びた鉄を擦るような声である。しかも声が断続して
およそ詞章の優雅をずたずたにするような謡い方であるのに、きくうちに、
いうにいわれぬ優婉な暗い霧が漂い出て、あたかも荒れた殿居の一隅に、調度
の螺鈿が月影を受けているのを見るような心地がする。一種の生理的荒廃の
御簾を透かして、却って剥落した優雅の断片があきらかに窺われるのである。
そして次第に、そういう難声が気にならぬというのではなく、この難声を
とおしてのみ、松風の潮染む悲しみと、幽界の暗い恋慕の迷いが、はじめて
感受されるという気がしだした。
本多には、いつしか目の前に移り行く事象が、現か幻か定めがたくなった。
すでに舞台の磨きたてた檜の床は、波打ち際の水かがみのように、二人の
美しい女の白水衣と腰巻の縫箔のきらめきを映していた。
再び、今謡われているサシの詞章と重複して、最初の一セイノ詩句が執拗に
心を追ってきた。
「汐汲車わずかなる浮世に廻るはかなさよ」
思い出されるのはその一句意味ではなく、橋掛かり相対したシテとツレが
謡い出したときの、完全な静けさに謡の雨が降りそうた瞬間の、故しれぬ
戦慄の意味であるらしかった。
あれは何だろう。あのときたしかに美が歩み出したのだ。浜千鳥のように、
飛翔には馴れても歩行は覚束ない、白い足袋のつま先を、わずかにわれらのいる
現世のほうへ差し出したのだ。
しかしその美は厳密に一回性を持っていた。人はただちにこれを記憶に
とらえて、思い出の中で反芻するほかはない。また、その美は高貴な無効性と
無目的性を保っていた。
そういう本多の傍らを「松風」の能は、つかのまも滞らぬ情念のせせらぎ
のように流れつづけていた。
「かくばかり経がたく見ゆる世の中に、羨ましくも澄む月の出汐をいざや汲もうよ」
舞台の月影の中を、謡いかつ動いているのは、もはや二人の美しい亡霊では
なくて、いうに言われぬもの、たとえば時間の精、情緒の髄、現へはみ出した
夢のしつこい滞留、といったものなのだ。それは目的もなく、意味もなく、
この世に有り得ぬような美の持続を紡いでいる。美のすぐあとに来るものが
又美だなどということが、この世にあろうはずがないではないか。
、、、、

252
本多は、もう百年もたてば、われわれは否応なしに一つの時代思潮の中へ
組み込まれ、遠眺めされた、当時自らもっとも軽んじたものと一緒くたに
されて、そういうものとわずかな共通点だけで概括される、と主張した
覚えがある。、又、歴史と人間の意志との関わり合いの皮肉は、意志を
持ったものがことごとく挫折して、「歴史に関与するものは、ただ一つ、
輝かしい、永遠不変の、美しい粒子のような無意志の作用」だけに
終わるところにある、と熱を込めて論じた記憶がある。、、、、
時の流れは、崇高なものを、なしくずしに、滑稽なものに変えていく。
何が蝕まれるのだろう。もしそれが外側から蝕まれていくのだとすれば、
もともと崇高は外側をおおい、滑稽が内奥の核をなしていたのだろうか。
あるいは、崇高がすべてであって、ただ外側に滑稽の塵が降り積もったに
過ぎないのだろうか。

255
もう1人の若者の顔は、夏の日にきらめく剣道の面金を抜き去って、汗にぬれ
烈しく息づく鼻翼を怒らせ、刃を横に含んだような唇の一線を示して現れた。
本多が光の霧らう舞台の上に見ているものは、もはや美しいシテとツレの、
汐汲みの女たちの姿ではなかった。そこであるいは座り、あるいは立って、
月影の中に異様に優雅な、徒労に充ちた仕事に携わっているのは、時代を隔てた
2人の若者、遠目にはよく似て見えながら、近づいてみればそれぞれの対照的な
風貌が際立った、同じ年恰好の2人の若者だった。1人は竹刀ダコのできた
武骨な指で、1人は白い遊惰な指で、かわるがわる、一心に時の汐を汲み上げていた。
雲間を洩れる月影のように、時あって笛の音が、2人の若者の現身うつそみを貫いた。
2人は紅緞で飾った1尺2寸径の両輪のある汐汲車を、かわるがわる汀みぎわの水鏡
の上に引いていた。しかしそのとき、本多の耳に聞こえてくる言葉は、あの優雅な
やや疲れた
「汐汲車わずかなる浮世に廻るはかなさよ」
の一句ではなかった。突然その詩句は入れ替わって、心地観経の、
「有情輪廻して6道に生ずること、猶、車輪の始終無きが如し」
になったのである。と見る間に、舞台の上の汐汲車の車輪はとめどもなく廻り出した。


256
輪廻も転生も、言語は同じである。輪廻とは衆生が、冥界即ち六道、地獄、餓鬼、
畜生、修羅、人間、天上、を終わりも知れず、経めぐってゆくことである。
しかし転生の語には、時あって冥界から悟解へ赴くことも含まれるから、そのとき
輪廻はやむであろう。輪廻は必ず転生であるが、転生必ずしも輪廻ともいえない。
それはともかく、仏教では、こういう輪廻の主体はみとめるが、常住不変の中心の
主体というものを認めない。われの存在を否定してしまうから、霊魂の存在をも決して
認めない。ただ認めるのは、輪廻によって生々滅滅して流転する現象法の核、
いわば心識のなかのもっとも微細なものだけである。それが輪廻の主体であり、唯識論
にいう阿頼耶識あらやしきである。
この世にあるものは、生物といえども中心主体としての霊魂ががなく、無生物
といえども因縁によってできたもので中心主体がないから、万有のいずれにも
固有の実体がないのである。輪廻の主体が阿頼耶識とすれば、輪廻が動いてゆく
様態は業である。そして学説によっていろいろと分かれて、仏説独特の百千の
異論異説がはじまる。ある説は、阿頼耶識はすでに罪に汚染されているから、
業そのものであると説き、ある説は、阿頼耶識は半ば汚れ半ば無垢であるから、
解脱への橋を蔵していると説く。

、、、、
さるほどに「松風」は進んで。汐汲車の、
「シテ これにも月の入りたるや
 地  嬉しやこれも月あり
 シテ 月は1つ
 地  影は2つ満つ汐の夜の車に月を載せて、憂うしとも思わぬ汐路かなや」
という前半の頂点にさしかかった。
ふたたび舞台の上にいるのは、美しい松風と村雨であり、ワキの僧もまた脇座から
立ち上がり、観客の顔1つ1つも見分けられ、囃子の鼓の1打1打も聞き分けられた。

重苦しい謎になって澱んでいたものが、この瞬間、見事に解けて涼しくなったような
心地がした。魂の白昼が戻ってきた。能舞台はすぐ手の届かんばかりの近くに、
決して触れえない来世のように輝いていた。1つの幻が呈示され、ホンダはそれに感動
した。




280
灯火に引き出された百合の一輪は、すでに百合のミイラになっていた。そっと指を
触れなければ、茶褐色になった花弁はたちまち粉になって、まだほのかに青みを
残している茎を離れるに違いない。それはもはや百合とは言えず、百合の残した
記憶、百合の影、不朽のつややかな百合がそこから巣立っていったあとの百合の繭の
ようなものになっている。しかし、依然として、そこには、百合がこの世で百合
であった事の意味が馥郁と匂っている。かってここに注いでいた夏の光りの余燼
をまつらわせている。
勲はそっとその花弁に唇を触れた。もし触れることがはっきり唇に感じられたら、
その時は遅い。百合は崩れ去るだろう。唇と百合とが、まるで黎明と尾根とが
触れるように触れあわねばならない。


296
杉木立の下まで上る。杉と杉のあいだには、端正な黒い沈黙がきっちりとはまっていた
。
生き物の気配はどこにもない。斜面を歩いて、そこからわずかに明るくなる雑木の
疎林に入った。すると突然、足元から雉が飛び立った。
頭上には黄や赤の入り混じった葉が残光を透かしていた。そこからのぞかれる
憂わしい夕空に、煌めく緑のきわめて重たい冠が一瞬掛かったように、静止して見えた
刹那があった。この放り上げられ冠は、羽ばたきによって解体され、栄光は散乱した。
攪拌する羽ばたきが、空気の重たくなった、母乳のように濃くなり、忽ちも
モチのように翼にまつわりつく力を語っている。鳥は、自分でもわからぬながら、
突然、鳥である意味を失ったのだ。翼のあがき、それを思わぬ方向へ横滑りさせる。
いくら見透かしても見透かせぬあたりで、鳥は急激に落ちた。
勲は雑木林から竹藪のほうへ駆け下りた。竹藪の中には水のような光が漂っていた。
鳥は固く目をつぶっていた。赤い毒キノコのような斑に満ちた羽毛が閉じた眼を囲んで
いる。
ふっくらした金属の光彩、ふくよかな鎧、暗鬱に肥った、夜の虹のような鳥だ。
のけぞった部分の羽毛が疎になって、そこがまた別の光彩をひらいている。
首のあたりは黒に近い葡萄紫の麟毛である。胸から腹にかけて、前垂れのような濃緑の
羽毛が重複して、光をこもらせている。

318
晩秋の朝日は痩せた松の木立から、力のない光の手をさしのべている。尖った石碑、
くすんだ常盤木の間を縫ってくるその光が、新しい御影石の石塔の光沢をうつろ
わせている。そこからすでに聳えて見える松枝家の墓へ行くには、さらに細径を右へ
曲がって、落ち葉や杉苔を踏まねばならない。近隣の小さな墓を大勢の侍臣のように
従えて、松枝家の白い御影石の大鳥居が屹立している。
今ではこういう明治風の「偉大」は、雅致を欠いているように眺められるのも
やむをえない。鳥居をくぐってすぐに目につくのは、中央の一丈半はあろうかと
思われる巨大な一枚岩の顕彰碑で、三条公爵が点学をし、著名な支那人が刻字
をして、、、、
横に墓誌があるが、すべて顕彰碑の巨大さに圧せられて、目につかない。
祖父の巨大な墓は中央にそそりたち、西之屋型の四基の石灯籠が参道を
いかめしく守っている。祖父の墓石のあまりの大きさのために小さく見えるので、
それでも礎から六尺は十分にある。墓自体も水鉢も定紋入りの花活けも、悉く
同じ意匠同じ石材を縮小したに過ぎないのである。
すでに黒ずんだ御影石に、松枝と見事な隷書で刻まれている。花活けに花は
無くて、一対のつややかな樒が挿されている。

408
耳に聞こえるのは、密林の鳥の声、蠅の飛翔、雨のような落ち葉のぞよめきである。
それから白檀のような、一度勲も父が大切にしている白檀の煙草入れの蓋をあけて
嗅いだことがあるから覚えている。物憂い寂莫の、しかし古木の腋臭のような
甘い香りがしていた。ふと勲は梁川の田道で見出した黒い焚火の跡の匂いが
これに似ていたのを思い浮かべた。勲は自分の肉が明確な稜角を欠いたものに
なって、柔らかに揺蕩する肉になったのを感じた。やさしいだるい肉の霧で
内部が充たされ、すべてが曖昧になり、どこを探しても秩序や体系は
見当たらずつまり柱がなかった。かってかれのまわりにきらめき渡って、
絶えず彼を魅了していた光の砕片は消えてしまった。快さと不快、喜びと悲しみが
どちらも石鹸のように肌に滑り、肉がうっとりと肉の風呂に漬かっていた。
風呂は決して織ではなかった。いつ出てもよいのだが、だるい快さのあまり
出られないのだから、永久に漬かっている状態が、すなわち自由だった。
白金の縄のように彼を十重二十重に縛めていたものは溶けてしまった。
どうしてもこうあらねばと信じていたものは、片端から無意味になった。
正義は一匹の蠅のように白粉入れの中へ転がり落ちて噎せ、そのために
命を捧げるべきであったものは、香水を振りかけられてふやけてしまった。
栄光はすべてを生暖かい泥の中に融解した。
きらめく白雪はことごとく融け、自分の体内には春泥がぬるんでいた。
その春泥が徐々に形を成して、子宮になった。自分はやがて生むことを始めるのだ。
と思って勲は慄然とした。自分をいつも行為へ促していたあの激しい焦燥
に満ちた力は、たえず荒野の広がりを暗示している深い呼び声と呼応していた
のであったが、もはやその力も失われ、声も絶えた。、、、、、
香煙が流れてきた。鐘や笛の響きがして、窓外を葬列が通るらしかった。人々の
忍び泣きの声が漏れた。
(三)暁の寺 昭和16年、47歳になった本多は、五井物産の弁護士として、前年にシャムからタイと国 名が変更になった国の首都、バンコックにやってきていた。そこで本多は、タイ王室の 7歳になる月光姫のことを知るが、姫は自分が日本人の生まれ変わりである、といって いるという。姫に会いに行った本多は、姫が、清顕と本多が松枝邸で月修院門跡と会っ た年月や、勲が逮捕された年月日を正確に知っていることに驚いた。しかし、池で無邪 気に水浴びをする姫の腋の下には、三つのほくろはなかった。 インドを旅行し、ベナレスとアジャンターを訪れた本多は、日本に帰国しする。戦争が 始まり、空襲で焼け野原になった渋谷の道玄坂の松枝邸を訪れ、蓼科と再開する。聡子 は月修院で元気にしているという。本多はひたすら、唯識論と輪廻転生の研究にいそし む。 戦争が終わり、58歳になった本多は、昭和27年、御殿場に5,000坪の別荘を手に入れる 。そして、焼け野原の東京で、旧宮家が開いた骨董店で、34年前にシャムの王子ジャオ ・ピーが失った月光姫ジン・ジャンの形見の指輪を発見したのである。そして、2代目 の月光姫は、18歳になり、日本に留学に来ていた。本多は、策を弄して、成長した月光 姫の腋の下のほくろを確認しようとするが、うまくいかない。彼は、姫の腋の下のほく ろを確認するために、プールまで作ったのであった。そしてついに、姫を、自分の別荘 のパーティーに招くことに成功し、腋の下に、わずかに見える小さな三つの黒子を確認 するが、突然の火事で、別荘は焼け落ち、姫の居所もわからなくなってしまう。 昭和42年、本多は、たまたま、東京の米国大使館の晩餐会で、バンコックのアメリカ文 化センター長をしているという米国籍のタイ人女性に出会った。本多は、彼女こそがジ ン・ジャンであることを疑わなかった。しかし、彼女の口からは、驚くべき事実が知ら された。ジン・ジャンは彼女の双子の妹であり、20歳になった春に、庭でコブラにかま れて命を落とした、というのであった。 (四)天人五衰 本多繁邦は76歳になっていた。妻の梨枝はすでに死に、男やもめになって、一人で旅に 出ることがよくあった。 昭和45年、16歳の安永透は、清水港の船舶の出入りを監視する帝国信号通信社に勤務し ていた。貨物船の船長をしていた父が海で死に、その後まもなく母が死んでから、貧し い伯父の家に引き取られた彼は、中学を卒業すると、県の補導訓練所に1年通い、そこ で三級無線通信士の資格をとって、帝国信号に就職したのである。透は、凍ったように 青白い美しい顔をしていた。心は冷たく、愛もなく、涙もなかった。しかし、眺めるこ との幸福は知っていた。最も美しいのは目だった。睫は長く、冷酷きわまる目が見かけ はまるで、絶えず夢みているようだった。この孤児は、どんな悪も犯すことのできる自 分の無垢を確信していた。脇腹には3つの黒子が昴の星のように象嵌されている。透は それを自分があらゆる人間的契機から自由な恩寵を受けていることの、肉体的な証だと 考えていたのである。 ある日、本多は、女友達の慶子に、謡曲羽衣で有名な三保の松原を見たいと言われ、案 内する。天女は漁夫の白龍に衣を奪われ、涙を流し、髪に挿した花もしおれ、「天人の 五衰」の相が現れる、と言う筋書きである。本多は、三保の松原を訪れた帰りに、信号 所を見学し、透の脇腹に三つの黒子が並んでいるのを見て取る。本多は、すぐに、透を 養子にすることを決意する。そしてその晩、慶子に、これまで本多が見てきた、転生の 秘密を語る。「もうこれを知ってしまったら、知ったものは二度と美しくありえないと 言うことだよ。賢者の五衰だ。知っていてなほ美しいなどということは許されない。」 しかし、あの少年は、清顕、勲、ジン・ジャンとは異なっているところがあるように見 えた。あの少年は、知っていてなほかつ美しい。しかも、少年の内面は本多の内面と瓜 二つのように思われる。透は、本多の養子になることを承諾した。 本多は、透に何人もの家庭教師を付け、透は普通より遅れて、17歳で高校に進学した。 高校2年のとき、透に縁談の話が来た。法曹界の実力者の娘で、濱中百子といった。透 は百合子の心を散々もてあそんだ挙句に、破談にさせてしまった。 20歳で東大に入学してから、透は、80歳になった本多に対して逆らうようになった。本 多は、透がジン・ジャンの本物の生まれ変わりで、21歳の誕生日までに死んでくれるこ とを望んでいた。本多の友人の慶子は、透をパーティーに呼び、その席で、本多が透を 養子にした本当の理由を教える。「あなたを養子にし、理に合わない「神の子」の誇り を打ち砕き、世間並の教養と幸福の定義を注ぎ込み、どこにでもいる凡庸な青年に叩き 直すことで、あなたを救おうとしたんです。」しかし、「あなたはきっと贋物だわ。」 と言い放つ。 そういわれた透は、本多から、清顕の「夢日記」を借りて読み、12月28日の夜に服毒自 殺を図る。命は取止められたが、完全に失明した。21歳の誕生日を迎えても、透に死ぬ 気配はなかった。 81歳になった本多は、月修院を訪ねることにした。月修院の山門の前に立ち、自分は60 年間、ただここを再訪するためにのみ生きてきたのだという思いが募った。奥の間に通 ずる唐紙が開いたとき、現れたのは、83歳になるはずの聡子であった。その聡子に、清 顕のことを話し始めたとき、返ってきた言葉は「その松枝清顕さんという方は、どうい うお人やした?」というものであった。「いいえ、本多さん、私は俗世で受けた恩愛は 何一つ忘れはしません。しかし、松枝清顕さんという方は、お名前を聞いたこともあり ません。そんな方は、もともとあらしやらなかったのとちがいますか?なにやら本多さ んが、あるように思うておられて、実ははじめから、どこにもおられなんだということ ではありませんか?」「それなら、勲も、ジン・ジャンもいなかったことになる。ひょ っとしたら、この私ですらも・・・。」「それも心々ですさかい」 この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は 思った。



奔馬




天人五衰の輪廻転生、曼荼羅の記述あり。
123ページの鼠の自己正当化の自殺。
159ページの蓮の池の描写
197ページの胎蔵界曼荼羅
241ページの山門までの描写


5
沖の霞が遠い船の姿を幽玄に見せる。それでも沖は昨日よりも澄み、伊豆半島の
山々の稜線も辿られる。5月の海はなめらかである。日は強く、雲は微か
空は青い。きわめて低い波も、岸辺では砕ける。砕ける寸前のあの鶯色の
波の腹の色には、あらゆる海藻が持っているいやらしさと似たいやらしさ
がある。5月のうみのふくらみは、しかしたえずいらいらと光の点描を
移しており、繊細な突起に満たされている。3羽の鳥が空の高みを、ずっと
近づきあったかと思うと、また不規則に隔たって飛んでいく。
その接近と離隔には、なにがしかの神秘がある。相手の羽風を感じるほどに
近づきながら、また、その一羽だけついと遠ざかるときの青い距離は、
何を意味するのか。三羽の鳥がそうするように、我々の心の中に時たま
現われる似たような三つの理念も。
午後二時、日は薄い雲の繭に身を隠した。白く光る蚕のように。
丸く大きく広がった濃藍の水平線は、海景にぴっちりはめた蒼黒い鋼の
箍だ。沖に一瞬、一か所だけ、白い翼のように白波が躍り上がって消えた。
あれには何の意味があるのだろう。崇高な気まぐれでなければ、きわめて
重要な合図でなければならないもの。そのどちらでもないということが
ありうることだろうか。潮は少しづつ満ち、波もやや高まり、陸は巧妙
きわまる浸透によって侵されていく。日が雲におおわれたので、海の色は
やや険しい暗い緑になった。その中に、東から西へながながと伸びた
白い筋がある。巨大な中啓のような形をしている。そこでけ、平面が
捻じれている様に見え、捻じれていないかなめに近い部分は、中啓の
黒骨の黒っぽさを以て、濃緑の平面に紛れ入っている。日がふたたび
明らかになった。海は再び白光を滑らかに宿して、南西の風の命ずる
ままに、無数の海驢の背のような波形を、東北へ東北へと移している。
尽きることのないその水の群れの大移動が、何ほども陸に溢れるわけ
ではなく、氾濫は遠い遠い月の力でしっかり制御されている。
雲は鰯雲になって、空の半ばを覆うた。日はその雲の上方に、静かに
破裂している。



行きは海に気をとられていて目にも触れなかったが、帰路は堤防の下
の一輪の昼顔の萎びた淡い紅色もよく目についた。堤防の上の砂地には
夥しい塵芥が海風にさらされていた。コーラの欠けた空き瓶、缶詰、家庭用の
様々な空き缶、永遠不朽のビニール袋、洗剤の箱、沢山の瓦、、、、、、
地上の生活の滓がここまで雪崩れてきて、はじめて「永遠」に直面するのだ。
今まで一度も出会わなかった永遠、すなわち海に。もっとも汚れ錆びれた、
醜い姿でしか、ついに人が死に直面することが出来ないように。
堤の上には乏しい松が、新芽の上に赤いヒトデのような花を開き、帰路の左側
には、寂しい小さな四弁の白い花をつらねた大根畑があり、道の左右を
一列の小松が劃していた。そのほかにはただ一面の苺のビニールハウスで
蒲鉾型のビニール覆いの下には、夥しい石垣苺が葉かげにうなだれ、蠅が
葉辺の鋸の葉を伝わっていた。見渡す限り、この不快な曇った白い蒲鉾形が
ひしめいている中に、さっきは気付かなかった、小体な塔のような建物を
本多は認めた。


「自分を猫だと信じた鼠の話だ。何故だか知らないが、その鼠は、自分の
本質をよく点検してみて、自分は猫に違いないと確信するようになったんだ。
そこで同類の鼠を見る目も違ってき、あらゆる鼠は自分のえさにすぎない
のだが、ただ猫であることを見破られないために、自分は鼠を喰わずに
いるだけだと信じた。
よほど大きな鼠だったですね。
肉体的に大きかった小さかったということは問題じゃない。信念の問題なんだ。
その鼠は自分が鼠の形をしていることを、猫という観念が被った仮装にすぎないと
と考えた。鼠は思想を信じ、肉体を信じなかった。猫であるという思想を
持つだけで十分で、思想の体現の必要性は感じなかった。そのほうが侮蔑の
たのしみが大きかったからさ。
ところが、ある日のこと、その鼠が本物の猫に出くわしてしまったんだ。
お前を食べるよ、と猫が言った。
いや、私を食べることが出来ない、と鼠が答えた。なぜだ
だって猫が猫を食べることはできないでしょう。それは原理的本能的に
不可能でしょう。
それというのも、私はこう見えても猫なんだから。
それを聞くと猫はひっくり返って笑った。髭を震わせて、前肢で宙を引っ掻いて、
白い和毛に包まれた腹を波打たせて笑った。それから起き上がると、矢庭に
鼠に掴みかかって喰おうとした。鼠は叫んだ。
なぜ私を喰おうとする。
お前は鼠だからだ。
いや、私は猫だ。
そんならそれを証明してみろ。
鼠は傍らに白い洗剤の泡を湧き立たせている洗濯物の盥の中へ、いきなり
身を投げて自殺を遂げた。猫は一寸前肢を浸してなめてみたが、洗剤の味
は最低だったから、浮かんだ鼠の屍はそのままにして立ち去った。
猫の立ち去った理由は分かっている。要するに、喰えたものじゃなかったからだ。
この鼠の自殺が、僕の言う自己正当化の自殺だよ。しかし自殺によって別段、
自分を猫に猫と認識させることに成功したわけじゃなかったし、自殺するとき
の鼠にもそれくらいのことはわかっていたにちがいない。が、鼠は勇敢で
賢明で自尊心に満ちていた。
彼は鼠に二つの属性があることを見抜いていた。一次的にはあらゆる点で肉体的鼠であ
ること、二次的には従って猫にとって喰うに値するものであること、
この二つだ。
この一次的な属性については彼はすぐにあきらめた。思想が肉体を軽視した
報いが来たのだ。しかし二次的な属性については希望があった。第一に、自分が猫の前
で猫に喰われないで死んだということ、第二に、自分を「とても喰えたものじゃない」
存在に仕立てたこと、この二点で、少なくとも彼は、自分を
「鼠ではなかった」と証明することが出来る。「鼠ではなかった」以上、
「猫だった」と証明することはずっと容易になる。なぜなら鼠の形をしている
ものがもし鼠でなかったとなったら、もうほかの何者でもなりうるからだ。
こうして鼠の自殺は成功し、彼は自己正当化を成し遂げたんだ。
、、、、、
ところで、鼠の死は世界を震撼させたろうか?と彼はもう透という聴手
の存在も問わず、のめりこむような口調で言った。独り言と思って聴けば
いいのだと透は思った。声はものうい苔だらけの苦悩をのぞかせ、
こんな古沢の声は初めて聴く。「そのために鼠に対する世間の認識は
少しでも革まっただろうか?この世には鼠の形をしていながら実は鼠でない
者がいるという正しい噂は流布されたろうか?猫たちの確信には多少とも
罅が入ったろうか?それとも噂の流布を意識的に妨げるほど、猫は神経質に
なったろうか?
ところが驚くなかれ、猫はなにもしなかったのだ。すぐに忘れてしまって、
顔を洗いはじめ、それから寝転んで、眠りに落ちた。彼は猫であることに
満ちたり、しかも猫であることを意識さえしていなかった。そしてこの完全
だらけた昼寝の怠惰の中で、鼠があれほどまでに熱烈に夢見た他者にらくらく
となった。猫はなんでもありえた、すなわち档案とうあんにより自己満足により
無意識によって、眠っている猫の上には、青空が開け、美しい雲が流れた。
風が猫の香気を世界に伝え、なまぐさい寝息が音楽のように瀰漫した。」



しかし眺めることの幸福は知っていた。天ぶの目がそれを教えた。何も創りださないで
ただじっと眺めて、目がこれ以上鮮明になりえず、認識がこれ以上透徹しないという
堺の、見えざる水平線は、見える水平線よりも彼方にあった。しかも目に見え、
認識される範囲には、さまざまな存在が姿を現す。海、船、雲、半島、稲妻、太陽、
月、そして無数の星も。存在と目が出会うことが、すなわち存在と存在が出会うことが
見るということであるなら、それはただ存在同士の合わせ鏡のようなものでは
あるまいか。そうではない。見ることは存在を乗り越え、鳥のように、見ることが
翼になって誰も見たことのない領域まで透を連れて行くはずだ。そこでは美さえも、
引きずり朽され使い古された裳裾のように、ぼろぼろになってしまうはずだ。
永久に船の出現しない海、決して存在に犯されぬ海というものがあるはずだ。
見て見て見ぬく明晰さの極限に、何も現れないことの確実な領域、そこはまた
確実に濃藍で、物象も認識もともどもに、酢酸に浸された酸化銅のように溶解して、
もはや見ることが認識の足枷を脱して、それ自体で透明になる領域がきっと
あるはずだ。、、、、
この16歳の少年は自分が丸ごとこの世には属していないことを確信していた。
この世には半身しか属していない。後の半身は、あの幽暗な、濃藍の領域に
属していた。したがって、この世で自分を規制しうるどんな法律も規制もない。
ただ自分はこの世の法律に縛られているフリをしていれば、それで十分だ。
天使を縛る法律がどこの国にあるのだろう。だから人生は不思議に容易だった。
人の貧困にも、政治や社会の矛盾にも、少しも心を悩まされなかった。
時折やさしい微笑みをうかべたが、微笑みと同情は無縁だった。微笑みとは、
決して人間を容認しないという最後のしるし、弓なりの唇が放つ見えない吹き矢だ。


107
浪は砕けるとき、水の澱のようなあぶくを背後にすべらせつつ、今まで三角形
の深緑の累積だったものが、いっせいに変貌して、白い不安な乱れに充ちて、伸び上が
り、
膨れ上がってくる。海がそこで乱心するのだ。のび上がったとき、すでに
裾の方ではや砕けている低い波が見られる一方、高い波の腹は、一瞬、
訴えても詮無い悲鳴のような、めちゃくちゃな白い泡の斑を、おびただしい気泡
のようにあらわした、鋭く滑らかな、しかも亀裂だらけの熱い硝子の壁になる。
それが切れ上がって、極みに達するとともに、波の前髪が一斉に美しく梳かれて
前へ垂れ下がり、さらに垂れ下がると、整然と並んだ青黒いうなじを見せ、
この項にこまかく漉き込まれた白い筋がみるみる白一色になって、斬られた首の
ように地に落ちて四散する。
泡の広がりと退去。黒い砂の上を、船虫のように列をなして、一斉に海へ馳せ
かえっていくたくさんの小さな泡沫。
競技を終わった競技者の背中から急速に引いていゆく汗のように、黒い砂利
の間を退いていゆく白い泡沫。
無量の一枚の青い石板のような海水が、波打ち際へきて砕けるときには、何という
繊細な変身を見せることだろう。千々にみだれる細かい波頭と、こまごまと分かれる
白い飛沫は、苦し紛れにかくも夥しい糸を吐く、海の蚕のような性質を
あらわしている。
白い繊細な性質を内に秘めながら、力で圧伏するということは、何という微妙な
悪だろう。、、、、
浜はさびしく、泳ぐひともなく、二三の釣り人を見るだけだ。船が1艘も見えぬ時
の海は、献身からもあたうかぎり遠い。今、駿河湾は、一つの愛もなく陶酔もなく、
完全に醒めきった時間の中に寝そべっている。この怠惰な、この無償の完全性を
やがて白光を放つ剃刀の刃のように滑ってきて、切り裂いてゆく船がなければならぬ。
船はこんな完全性に対する涼しい侮蔑の凶器で、ただ傷口を与えるために、
海の張りつめた薄い皮膚の上を走ってゆくのだ。


288
あたりは蝉の声、きりぎりすの声に充ちている。それほどの静けさに
田を隔てた天理街道の事々しい車の音が織り込まれている。しかし
目前の自動車道路には、見渡す限り車影がなく、路肩にこまかい砂利の影
を並べて、白々と横たわっている。
大和平野の伸びやかさは昔と変わらない。それは人間界そのもののように
平坦だ。かなたには小さく貝殻のような屋根屋根を並べた帯解の町が光り、
薄く煙が立っている。帯解の町、平野のすべての上には、のこりなく
晴れた夏空がひろがり、綿雲はぬめのほつれを引き、彼方霞んだ山々
から伸び上がった幻のような雲が、上端だけは彫塑的な端麗さを帯びて
青空を区切っている。
本多は暑さと疲労に打ちのめされてうずくまった。うずくまったとき、
夏草の禍々しい鋭い葉端の光りに、目を刺されるような気がした。
ふと鼻先をよぎる蠅の羽音を、腐臭を嗅ぎつけられたのではないかと
本多は思った。
門に入って、彼の目に見える限りは元気を装おうと自ら鼓舞して、砂利の多い
凸凹な参道の坂を上っていく間、左方の柿木の幹にはびこった病気のような
苔の鮮明な黄や、右の路傍のほとんど花弁の落ちた禿げ頭の薊の花の
薄紫を、目の角に残すばかりで、喘ぎながら道の曲がりを頼みに歩いた。
道の行く手を遮る木陰の1つ1つが、あらかたで神秘に思われた。
雨になれば川底のようになるであろうその道の雑な起伏が、日の当たる
ところはまるで鉱山の露頭のように輝いて、木陰におおわれた部分は
見るから涼しげにさざめいている。木陰には原因がある。
しかしその原因は果たして樹そのものだろうかと本多は疑った。
幾つめの木陰で休むことができるかと、本多は自分に問い、杖に問うた。
4つ目の木陰が、すでに車のあたりからは窺われない曲がり角に
あって、静かに誘っていた。そこまで来ると崩折れるように、路傍の
栗の根方に腰を下ろした。
歩くうちは忘れていたのが、休むとともに募るのは、汗と蝉の声だった。
杖に額をあてて、額に押し付ける杖頭の銀の痛みで、胃や背にひしめく
痛みを紛らわした。、、、、、
夏の草木の匂いがあたりに充ちた。道の両側に松が多くなり、杖に倚って
見上げる空には、日が強いので、梢の夥しい松笠のその鱗の影も1つ1つ
彫刻的に見えた。やがて左方に、荒れて、蜘蛛の巣や昼顔の蔓のいっぱいからまった
茶畑が現れた。道の行く手を、なおいくつもの木陰が横切っている。
手前のは崩れた簾の影のように透き、遠くのは喪服の帯のように
3,4本黒く能子に横たわっている。




302
一面の芝の庭が、裏山を背景にして、烈しい夏の陽にかがやいている。
芝のはずれに楓を主とした庭木があり、裏山へみちびく枝折戸も見える。
夏というのに紅葉している楓もあって、青葉の中に炎を点じている。
庭石もあちこちにのびやかに配され、石の際に花咲いた撫子がつつましい。
左方の一角に古い車井戸が見え、また、見るからに日に熱して、腰掛ければ
肌を焼きそうな青緑の陶の椅子が芝生の中程に据えられている。そして裏山の
頂きの青空には、夏雲がまばゆい肩を聳やかしている。これといって奇巧の
ない、閑雅な、明るく開いた庭である。数珠を繰るような蝉の声がここを
支配している。このほかには何1つ音とてなく、寂莫を極めている。



暁の寺

P43
起こった出来事というものは、それを記憶に移せば、何ら手を加えるまでもなく、
そのまま美しい小さな絵の連鎖となって、いくつかの同じ寸法の、金の煩わしい
装飾を施した額縁に納まるものだ。そこで流れた時間はひたすら一瞬の絵心の
ために結ぼおれ、快活な時間の粒子が、ひときわ泡だって躍動するかと見れば、
それはたとえば、水の底深く下りて行く石段の真珠へ、さしのべた姫の手の
幼いふくらみ、しかもその指、その掌の清潔で細微な皺、頬にふりかかった
断髪のいさぎよい漆黒、その鬱したほど長い睫、黒地に施した螺鈿のように
黒い小さな額にきらめく池水の波紋の反映などの、刹那の絵姿を形作るために
ひたと静まるのだ。時間も泡立ち、ハチの唸りに充ちた日盛りの苑の空気も、
そぞろ歩く一行の感情も泡立っていた。珊瑚のような時間の美しい精髄が
あらわになった。そうだ。その時姫の幼時の曇りのない幸福と、その幸福
の背後に連なる一連の前世の苦悩や流血は、あたかも旅中に見た遠い密林
晴雨のように、一つになっていたのだった。

一旦形式を忘れたしまうと、老いが彼女たちの唯一の儀礼となった。
それは皺だらけの意地の汚い鸚鵡のように、一つ袋へ嘴を寄せ合っては、
椰子種を啄ばむことであり、裾の中へ手を差し入れて痒いところを掻く
ことであり、踊り子をまねてけたたましく笑いながら横歩きをしてみせる
ことであった。褐色の顔に鬘めく白髪が日に燃えて、踊り子のミイラのような
老女が、椰子種に真紅に染まった口を笑ってひらき、横歩きをしながら
横へさしのべた腕の、肱を鋭く立ててみせるときには、その乾いた骨の
あらわれたような肱の鋭角は、まばゆい積雲の立つ青空を背景に、
影絵の一片を切り抜いた。

女官たちが手拍子を打って何かを唱えるたびに、その形が種種に変化した。
姫がちょっと首を傾げると、その時渡った微風に草花が首を傾げ、枝移り
する栗鼠がつと停まって首を傾げるのと、符節を合わしているように思われた。
一変して姫は王子ラーマになった。白地に金の縁取りのあるブラウスの
袖口から浅黒い細い腕が剣をかかげて凛々しく天を指した。その時
山鳩が姫の目交まなかいをかすめ、翼で顔を翳らしたが、姫は微動
もしなかった。姫の背後に聳えているのが、他ならぬ菩提樹である事を
本田は知った。この鬱蒼たる樹には、長い葉柄の先に垂れた広い葉が、
鈴なりに重なって風のうごくたびにさやめいた。その緑の一葉一葉に、
あたかも熱帯の光線を透き込んだかのような黄色い葉脈がいちじるしい。

52
ヴェーダには水浴の恵みについて次のような章句がある。
「水こそ薬なれ。
水は身の病を清め
活力もてこれを充たす。
まことに万病草の水なれば
諸病諸悪を癒すべし」
また
「水は不死の命に充てり。
水は身の護りなり。
水には癒しの霊験あり。
水の威ある力をば
常住忘るることなかれ。
水は心身の薬なれば」
祈りを以て心を清め、水を以て身を浄めるヒンズーの儀礼は、
ここベナレスの数々の水浴階段において極まるのである。

94
本多はこれらの古本から西洋の輪廻転生説について多くを学んだ。


、、、「無我であるのに、なぜ輪廻があるのか?」

105
マヌの法典が告げる輪廻の法は、およそ人の転生を三種に分けて、一切衆生
の肉体を支配する三つの性のうち、よろこばしく、静寂で、また清く
かがやく感情に充たされた智の性は、転生して神となり、企業を好み、
優柔不断、正しからざる仕事に従事し、又つねに感覚的享楽に耽る
無智の性は、人間に生まれ変わり、放逸、無気力、残忍、無信仰、
邪悪な生活を営むタマスの性は、畜生に生まれ変わると説いていた。
畜生に転生する罪は精細に規定され、バラモンの殺害者は、犬、豚、
驢馬、駱駝、牛、山羊、羊、鹿、鳥の胎に入り、バラモンの金を盗んだ
バラモンは、千回、蜘蛛、蛇、蜥蜴および水棲動物の胎に入り、尊者
の臥床を侵したものは、百度、草や灌木および蔓草、又、肉食獣に生まれ変わり
穀物を盗むものは鼠となり、蜜を盗む者は虻となり、牛乳を盗む者は鳥となり、
調味料を盗む者は犬となり、肉を盗む者は禿鷹となり、脂肉を盗む者は鵜
となり、塩を盗む者は蟋蟀となり、絹を盗む者は蝦蛄となり、
、、、、、、、。

163
富士の山頂の向こう側から、少しづつ、稀薄な小さな雲が、雪煙のように
立ってきていた。
向こう側からそっとこちらを窺っているような雲の気配が、四肢を広げた
希薄な形で、前面へ舞い立ってきては、又たちまち、硬質の青空に呑み込まれて
しまう、今はいかにも無力に見えるこういう伏勢は油断がならなかった。ともすると
昼までに、こういう雲がいつのまにか群がり、奇襲を繰り返して、富士の全容を
覆ってしまうからだ。
十時ごろまで、本多は涼亭に座って茫然としていた。生涯わずかのひまにも
手放さない癖のついていた書物は、遠ざけられていた。生と感情の、濾過されない
原素を夢見ていた。そして何もせずにじっとしていた。山頂の左辺にほのかに
現れて、やがて宝永山に掛かった雲が、その雲の尾を、鯱のように立ち昇らせた。

192
今西が持ってきてくれた「本朝文粋」を今朝本多はよんだところであった。
いうまでもなく都良香の「富士山の記」を読みたくおもって、今西に
頼んでおいた本である。
「富士山は、駿河国にあり。峯削り成せるがごとく、直に聳えて天につづく」
などという記述は面白くもないが、
「貞観十七年十一月五日に、吏民古きによりて祭りを致す。日午に加えて天甚だ
よく晴れる。仰ぎて山の峯を観るに、白衣の美女二人有り、山の頂の上に
並び舞う。峯を去ること一尺余り、土人共に見きと、古老伝えて言う」
という件こそ、むかし本多が読んで密かに記憶に留め、その後再読の機を得ず
にいたものであった。
様々な目の錯覚を呼び起こす富士山が、晴れた日にそのような幻を現出したのは
不思議ではなかった。裾野では穏やかな風が、山頂では厳しい突風になって、
晴天へ雪煙を舞い上げているのはよく見るところである。その雪煙がたまたま
二体の美女の形を思わせて、土地の人の目に映ったのもありうることである。
富士は冷静的確でありながら、ほかならぬその正確な白さと冷たさとで、
あらゆる幻想を許していた。冷たさの果てにもめまいがあるのだ、理知の果てにも
めまいがあるように、富士は端正なかたちであるがあまりに、あいまいな
情念でもあるような一つの不思議な極であり、又、境界であった。
その境に二人の白衣の美女が舞っていたということは、ありえないことではない。
これに加えるに、浅間神社の祭神が木花開耶姫という女神であることが、
本多の心をしきりに誘った。
木漏れ日が残雪の一部を荘厳にした。
茶色の杉落ち葉をうづたかい残雪に降らし続ける老杉の梢には、霧のような
ひかりがこもり、ある梢は緑の雲が棚引くようである。参道の奥に、残雪に
囲まれた朱の鳥居が見えた。

205
本多の願っていたことは実に単純で、愛と名付けるのは却って不自然だった
に違いない。今の姫の一糸繕わぬ裸をすみずみまで眺め、青の小さい平たい
胸が今はいかにも色づいて、巣からのぞく巣鳥のように頭をもたげ、桃色の
乳首が不服そうに尖り、褐色の腋が折りたたんだほのかな影を含み、腕の内側に
敏感な洲のような部分が現われ、未明の光りのなかですでにすべての成熟の
用意が出来上がったところを点検して、幼い姫の肉体との比較に心をののかせたい、
というだけのことなのだ。腹が無染の柔らかさで漂う中に、小さな環礁のように
鎮まる臍、護門神ヤスカの代わりを務める深い毛に護られて、かっては
ただきまじめな固い沈黙であったものが、たえまない潤んだ微笑みにまで
変わったもの。美しい足の指が一本一本ひらき、脛が光、成長した脚が
すらりと伸びて、生命の踊りの規律と夢を一心に支えるありさま、それを一つ
一つかっての幼い姿と照合してみたかったのだ。それは時を知ることだ。
時が何を創り、何を熟れさせたかを知ることだ。その丹念な照合の末、
左の脇腹の黒子が依然として見当たらなければ、本多はきっと最終的に
恋するだろう。恋を妨げるのは転生であり、情熱を遮るのは輪廻だった。


215
金のかからぬ快楽にこそ、身の毛のよだつような喜びが潜むのを、本多は
知っていた。身を隠す夜の木立の幹のぬれた苔の手ざわり、ひざまついた
土の落ち葉のしめやかな匂い、それは去年の五月の公園の夜であった。
若葉の香りは濃密で、恋人たちは草の上に乱れていた。その林の外周の
自動車道路のヘッドライトの皮相な往来、それがあたかも針葉樹を神殿
の列柱のように見せ、その列柱の影を次から次へと、悲劇的になぎ倒す光芒の
素早さと、それが叢生の上を走るときの戦慄、その中に一瞬浮かぶ、まくれた
下着の白の、ほとんど残虐的なほどの神聖な美しさ。たった一度、その光芒が
ほのかに目をあいた女の顔の上をまともに擦過したことがある。なぜ目を
あいていたのが見えたのか。一滴の光りの反射が瞳に落ちるのが見えたからには、
確かに女は、半眼ながら、眼を開いていたに違いない。それは存在の闇を
一気に引き剥がした凄愴な瞬間だったから、見えるはずのないものまで見えて
しまったのだ。恋人たちの戦慄と戦慄を等しくし、その鼓動と鼓動を等しくし、
同じ不安を分かち合い、これほどの同一化の果てに、しかも見るだけで
決して見られぬ存在にとどまること。その静かな作業の執行者は、あちこち
の木陰や草叢に蜥蜴のように隠れていた。本多も、無名のその1人だった。
闇に浮かぶ若い男女の、むつみあう白い裸の下半身。夜ものひときわ濃いあたりに
舞う手の優しさ。ピンポンの球のように白い男の尻。そしてあの1つ1つの
吐息の、ほとんど法的な信憑性。そうだ。思いがけず女の顔を、ヘッドライトが
照らし出した一瞬、存在の闇を引っぺがすその瞬間に、たじろいだのは行為者
だけではなかった。たじろいだのはむしろ覗き手だった。夜の公園のはるか外側に
燠のように残っているネオンの反映のあたりから、遠く抒情的なパトロールカー
のサイレンが響いてくると、恐怖と不安のために覗き手の木陰はざわめき、
見られている女たちは溺れたまま身じろぎもせず、見られている男たちは必ず
狼のように凛々しく、その社会的な上半身のシルエットを俊敏に起こした。
この表沙汰にならずじまいの醜聞は誰知らぬ者のない人であったが、常習犯と
して警察に捕まった。老人は尋問の間、卑屈になり、うなだれ、何度となく
額の汗を拭った。こうして行政機構の末端の泥をたっぷり口へ押し込まれた
末、老人はお目こぼしで釈放された。
彼はその話の間、心はわざわざ自分に向かってそんな話をした弁護士の心事を
あれこれと忖度し、要所要所で人の悪い笑いを合わせる努力に追われ、世間の
眼の中に置かれたその汚れた藁草履のような快楽のみじめさと、どんな
快楽の核心にもひそむ厳粛なものとの無残な対比に目もくらみ、さてその
1時間の午餐のぞっとする労苦と引き換えに、以後、ついに幸いに誰にも
知られずにすんだこの習慣、その戦慄と、すっぱり縁を切ったのだった。

328
仄明かりの下にははなはだ複雑に組み合わされた肢体が、すぐ前のベッドに
うごめいていた。白いふくよかな体と浅黒い体が、頭の方向を異にして、
放恣の限りを尽くしていた。それは心が肉体に結びつき、愛を醸し出す
脳髄が、脳髄からもっともっと遠い部分へ少しでも近づいて均衡を得、
そこから自分の醸し出した酒をじかに味わおうとして自然にとる姿態だった
といえる。影に充たされた黒い髪が、等しく影に充たされた黒い毛と
親しみあい、紛れあって、頬にかかる後れ毛のうるささが愛のしるしとなった。
燃えているなめらかな腿と燃えている頬が睦みあい、柔らかな腹が月夜の
入海のようにしのびやかに波立っていた。しかと声は聞こえぬが、歓びと
も悲しみともつかない歓喜が全身に行き渡り、今は共々相手から見捨てられて
いる乳房が、光の方へあどけなく乳首を向けていながら、時々稲妻に
触れたように怯えた。その乳うんにこもる夜の深さ、その乳房をおののかせている
逸楽の遠さは、肉体の各部各部がなお狂おしいほどの孤独に置かれている
ことをしめしていた。もっと近く、もっと密に、もっとお互いに溶け入りたい
とあせりながら果たさず、ずっと彼方で、赤く染めた慶子の足の指が、一本
一本の指の股を開いたり閉ざしたりして、まるで熱い鉄板を踏んだように
指は踊っているのに、それが結局、虚しい薄明の空間を踏みしだくことに
しかならないでいた。
背筋の溝には、汗が静かに流れて、やがて溝をそれて、下にしたくらい脇腹の
ほうへ伝っていた。ジンンの美しい黒い乳房は汗にしとどに濡れていた。
右の乳房は慶子の身体に押しつぶされて形を歪め、健やかに息づいている
左の乳房は、慶子の腹を撫ぜつづける左腕に豊かに持たれていた。その絶えず揺れる
肉の円墳の上に乳首はまどろみ、汗がこの赤土の新しい円墳に明るい雨の
光沢を添えた。

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