2016年10月1日土曜日

折りたく柴の記 新井白石自伝

『折りたく柴の記』 新井白石 以下の古文の訳

わが父のわかくおはせしほどは戦国の時をさる事遠からず、世の人遊侠を事として、気
節を尚ぶならはし、
今の時には異なる事ども多く聞こえたりけり。
わが父にておはせし人も、東走西奔、その証跡さだまれることもなくして年を経給ひし
うちに、
三十一歳の時に、民部省輔源利直の家に出でて仕へられし初めに、徒の侍の夜討ちした
りと
聞こえし者三人ありて、召しとらへつつ、門のやぐらの上におしこめしを、わが父一人
に預けらる。
このよしを承りて、「かの輩をそれがしに預けられ候はむには、さだめて刀脇ざしをば
取られずこそ候はむずれ」と申さる。
申すところ聞こえ召されぬとて、かれらが刀脇ざしをば、わが父にて候ひし人に給うた
りけり。
それをもたせて、やぐらの上にのぼりて、三人の者に返し与へて、「わぬしら、にげて
ゆかむと思はば、わが首切りてゆけ。
われ一人、わぬしら三人に敵すべきにもあらず。さらばみずからの刀脇ざし、不用の物
なり」とて、三尺手拭にてつかね結びて投げ捨て、かれらと同じく起臥し、ものうち食
ひて、日十日ばかりが後に、かれらが夜討ちせしと聞こえしは、
あらぬ事なるよしさだまりしかど、かかる者召し使ふべきにあらずとて、戸部の家をば
出だされたり。
そのときに及びて、かれらわが父に言ひしは、「われらいかに言ひがひなき者どもと思
ひ給ひぬれば、ただ一人に召し預けられたりけむ。思ひ知らせ参らせむものをと思ひし
かど、わぬしが刀脇ざしをだに帯せずしてあるを殺したらむには、はたして言ひがひな
しと思ひ給はむ事のくやしければ、このままに死しなむは力なし。幸ひに命いきたらま
しかば、そのときにこそ恨みをば報いむずるやうありと思ひしに、わぬしがなさけによ
りて、刀脇ざし取りはなされずして、ふたたび武士の中にたちまじべき身ともなりぬ。
このなさけ忘るべからずと思へば、今は恨みも晴れし心地するなり」と言ひて、わかれ
しと語り給ひき。
その後いくほどなくして、ぬきんでて用いられ給ひしかば、つひに戸部の家にとどまり
仕へ給ひたりき。
戸部の家にして、後には司祭の事を命ぜられたりき。わが物の心をわきまへしよりこの
かたの事は覚えしに、日々の事
ただ同じさだめにして、つゆたがふ所おはせざりけり。
寅の時ばかりには、必ず起き出で給ひて、水をもて身を洗ひすすぎて、みづから髪とり
あげ給ひしかば、夜さむき頃は、母にて
おはせし人の、「湯を参らすべし」とのたまひしを、「召し使ふ物どもわづらはす事、
ゆめゆめしかるべからず」と制しとどめらる。

現代文

私の父親が若くていらっしゃったころには、戦国時代からそんなに時代が遠ざかって
おらず、世間の人は仁義を重んじ、強きをくじき、弱きを助けることを大事なことだと
考え、気概があって、節操の固いことをとうとぶ風潮があり、今の時代とはずいぶんち
がう話もいろいろ耳にしました。

私の父親でいらっしゃった人も、あっちの武家・こっちの武家と東奔西走、勤め先が
定まらないような状態で何年も過ごされていたが、三十一歳の時に、民部少輔源利直
さまのお屋敷に出仕なさった最初に、したっぱのサムライで夜、盗みに入ったと通報
された者が三人いて、屋敷の者たちがその三人を逮捕しようと追い詰めて、
門のやぐらの上に閉じ込めたその賊を、殿が私の父一人にその身柄をお預けになった。

父は殿が父に処分をまかせろとおっしゃったのをお聞きして、「例の賊どもを、
もし私にお預けになりますのなら、ぜったいに刀・脇差しを取り上げなさいませんよう
に」
と殿に申しあげなさった。父が申し上げたことを殿がお聞き入れあそばされたと
いうので、彼らの刀・脇差しを、私の父でいらっしゃった人に下さったとさ。父
はそれを部下に持たせて、やぐらの上に登って、三人の者に返し与えて、「お前達、も
し逃げて行こうと思うのなら、私の首を切って行け。私ひとりで、お前たち三人にかな
うはずもない。だから、自分の刀・脇差しは、不要のものだ。」と言って、三尺ほどの
てぬぐいで束ねて結んで投げ捨て、彼らといっしょに寝起きし、ものを食ったりして過
ごし、十日ほど過ごしてのちに、彼らが夜、盗みに入ったと報告したのは、事実無根の
誤報だったことがはっきりしたが、こんな連中をお屋敷で使うわけにはいかないという
ので、戸部(=土屋利直)の屋敷を追放されたとさ。

そのときになって、彼らが私の父に言ったのは、「我々がどんなに取るにたらない者
だとお考えになって、たった一人に逮捕をおまかせになったのだろう。思い知らせて
差し上げようと考えたが、お前が刀・脇差しさえも身につけずに丸腰でいるのを、
もし殺したりしたら、やっぱり取るに足りないやつらだったと殿がお考えになるのが
悔しいから、このままで死んでしまうのはつまらない。幸運にも命を生きながらえて
いたら、そのときにこそ恨みを晴らす方法もあるだろうと考えていたところ、
お前の慈悲によって、刀脇差しを取り上げられずに、再び武士社会の中で生きていける
身の上になった。この慈悲は忘れられないと思うから、お前のおかげで今となっては
殿への恨みも晴れた気がするのだ」と言って、別れた、と父が私にお話になった。

そののち、いくらも経たないうちに、父は正式に殿から抜擢されて雇用されなさった
ので、とうとう戸部の屋敷にとどまりお仕えになった。土屋様のお屋敷で、父は、
のちには儀式の管理・監督をするお役目を命じられた。私がものごころついて
以後の出来事は記憶しているが、父は毎日の日課を、ただ同じ規則にしたがって
こなし、ちっともずれるようなことがおありではありませんでした。
朝四時ごろには、必ず部屋から起き出してこられ、水で体を洗いきよめ、自分で
髪を持ち上げ束ねなさったので、夜が寒い時季には私の母でいらっしゃったかたが、
「お湯を差し上げましょう」とおっしゃったのを、「つまらぬことで使用人たちの
手をわずらわすようなことは、決してしてはいけない」と、母が使用人に湯を
沸かさせようとするのを制止なさった。

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