2016年9月2日金曜日

一般意志2.0から思う、社会変化と政治

ITのイノベーションがどんどん加速する中で、テクノロジーというものが、
人々の生活様式や企業の生産性に大変な貢献はするものの、それが一人あたりの
富の還元や生活慣習の大きな変化となって現れるとき、どのような社会になって
いるのか楽しみであり、不安でもある。
ITがAIとビッグデータ、端末の多角化などによって全く新しい段階に入って
いく中で、社会がそれにどう適応するかというのは、大きな問題になるという
ことが見えてきている。そこでは、カネに還元できるもの、できないものの峻別な
ど、文明レベル、哲学レベルの議論が必要になってくるが、まだそこまで行きついて
いないのが、日本の現状でもある。
東氏の「一般意志2.0」という本があるが、それらを考えるヒントには
なりそうである。特に、昨今迷走する政治の世界では。
この本では、「複雑になりすぎた現代社会では、ひとびとが集まって熟議によって
ものごとを決める理想的な民主主義はとうのむかしに不可能になった」と指摘した
うえで、そのことを前提として、熟議なしでも機能する新しい政治制度
(民主主義2.0)や国家(統治2.0)の可能性を論じている。
だが、ここに書かれている社会の流れは、政治だけの問題ではない。
これからさらに直面していくであろう我々の生活での変化でもあり、人の行動の
変化でもある。
1.ルソーの「社会契約論」
この本の記述では、
「ルソーの構想においては、人民が社会契約で生み出したのはあくまでも一般意志
であり、特定の政府ではないので、政府は一般意志の執行のための暫定的な
機関にすぎない。
ルソーははっきりと記している。
「たまたま人民が世襲の政府を設ける場合、それが一家族による君主制であろうと、
市民の一階級による貴族政であろうと、人民が行ったことは決して約束ではない。
それは、人民が別の統治形態をとろうという気を起すまで、人民が統治機関に与えた
仮の形態に過ぎないんである。」
社会契約は、あくまでも個人と個人の間で結ばれるものであり、個人と政府の間で
結ばれるものではない。主権は人民の一般意志にあり、政府=統治者の意志にはない。
これが「社会契約」の中核の論理だ。、、、、
彼の社会契約は、権利と義務、メリットとデメリットの関係では捉えられない奇妙な
契約である。彼の考えでは、社会契約とは、「社会を作ること」そのものを意味
している。
私たちは目の前の政府や制度とはとりあえず無関係に、いつのまにか抽象的な
契約を交わし、共同体を作り、一般意志なるものを生成している。一般意志は
実に理念的な存在であり、そして理念的な存在だからこそ、現存する制度の腐敗
を正す現実的な論拠となる。
さらにルソーの考えを具体的に言っているが、
「あらためて「社会契約論」のテクストを読んでみよう。ルソーは実は、部分的結社の
存在を否定する箇所で次のように記している。
「もし、人民が十分に情報を与えられて熟慮するとき、市民がたがいにいかなる
コミュニケーションもたらないのであれば、小さな差異が数多く集まり、結果として
常に一般意志が生み出され、熟慮は常に良いものとなるであろう。、、、、
一般意志がよく表明されるためには、国家の中に部分的社会が存在せず、また市民が
自分だけに従って、意見を述べることが重要なのである。」
このルソーの主張ははっきりしている。一般意志が適切に抽出されるためには、
市民は「情報を与えられている」だけで、互いにコミュニケーションをとっていない
状態のほうが好ましい。かれはそう明確に述べている。つまりルソーは結社を
認めないだけではない。
直接民主主義を支持するために政党を認めないというだけでもない。
彼は、一般意志の成立過程において、そもそも市民間の討議や意見調整の必要性を
認めていないのである。、、、
これは奇妙な主張である。、、、、
ルソーは一般意志は特殊意志の単純な和ではなく、むしろ「差異の和」だと
捉えていた。
しかし、それだけではない。じつはそれに加えて、一般意志の正確さは差異の数が
多ければ多いほど増すと主張していたのである。ルソーは一般意志は集団の成員が
ある一つの意志に同意して行く、すなわち意見間の差異が消え合意が形成されることに
よって生まれるのではなく、むしろ逆に、様々な意志がたがいに差異を抱えたまま
公共の場に現れることによって、一気に成立すると考えていた」。
それは、彼も言っているが、スコット・ペイジの「多様性の予測定理」に通じる。
だが、この予想定理をそのまま東氏の論理に持ち込むのは、少し難があるようだ。
2.「多様性の予測定理」
スコット・ペイジの『「多様な意見」はなぜ正しいのか』で紹介されている多様性予測
定理では、インターネットの氾濫した「多様な意見」には大きな潜在的価値がある
ように思えてくるが、「意見共有で「集団の知恵」が低下」などの意見を見ると、
「多様な意見」の集約が大きな課題だ。集約方法が不適切だと正解に辿り着かないし、
また意見集約によって正解に辿り着くのかも疑問が残る。 意見だけでは、
正解を特定するアルゴリズムが開発可能なのか、疑問がある。彼は、「差異の和」
「データベース化」と述べているが、この分野の専門家から見てどうなるのか、
楽しみでもあり、不可能では、という気持ちも強い。
だが、彼もこのような指摘を考え以下のようなことも言っている。
「言い替えれば、「一般意志2.0」は集合知批判の本でもある。集合知は
無意識です。集合知で決められることには限界があるし、すべて集合知で決めると、
世の中は本当に醜いことになってしまう。それにどうやって歯止めをかけるか。
それが熟議あるいは専門家の仕事であるべきです。しかし、そもそも密室で決めている
のでは話にならない。まず大衆がいかに醜いか、ネットワークによって、いかに
無秩序なことが起きるかというのをもっと直視しなければならない。
それを可視化するための装置が必要なんだ、という主張なんです。
ちなみに、スコットペイジの「多様な意見はなぜ正しいのか」の本では、
「多様性が一様性に勝る」「多様性が能力に勝る」を明確に説いている。
そのため、まず集合知を4つのツール要素に分解する。
・多様な観点  状況や問題を表現する方法
・多様な解釈  観点を分類したり分割したりする方法
・多様なヒューリスティック  問題に対する解を生み出す方法
・多様な予測モデル  原因と結果を推測する方法
群衆の叡智や多数決が万能という意味ではない。むしろ限定的である。
ここでは、集合知の働く条件を以下のように結論している。
・問題が難しいものでなければならない
・ソルバーたちが持つ観点やヒューリスティックが多様でなければならない
・ソルバーの集団は大きな集合の中から選び出さなければならない
・ソルバーの集団は小さすぎてはならない
以上の条件が満たされれば、ランダムに選ばれたソルバーの集団は個人で
最高のソルバーからなる集団より良い出来を示す。専門の科学者達が解けないで
いる問題を、多様なツールボックスを持つ非専門家集団が解いてしまうことが
ありえる。
、と言っている。
さらには、「みんなの意見は案外正しい」(ジェームズ・スロウィキー)
の本も併せて考えると側面的な判断としてこの「一般意志2.0」を読める
のではないだろうか。
「みんなの意見は案外正しい」からのポイント
以下の記述が気に入っている。
「集合的にベストな意思決定は意見の相違や異議から生まれるのであって、決して合意
や妥協から生まれるのではない」
これは、多様性の重要性を説く「多様な意見はなぜ正しいのか」も同様のベースを
持つものではないか。
また、「解決すべき問題は、認知、調整、協調」の3つであり、集合知が機能する
ためには「多様性、独立性、分散性、集約性」という条件が満たされなければ
ならない」と言っている。
・認知  正しい答えが必ず見つかる問題
・調整  他人の行動も加味する必要のある問題
・協調  自己利益だけ追求すると全体の利益を損なう問題(地域活動ではよくある)
そして、
・多様性  集団の中のそれぞれの人間が自分の私的な情報とそれに基づく意見を
      持っており、突飛なものも含め色々な意見がある状態
・独立性  周囲の人の意見に影響されずに集団の中の人がそれぞれ意思決定
     できる状態
・分散性  集団の中のそれぞれの人間がローカルで具体的な情報に基づき意思決定
     をする状態
・集約性  多様な情報や意見を集め、うまく集約する仕組やプロセスがある状態
3.東氏の想い
グーグルなどのウェブサービスは、全世界の人々のネット上の行動履歴を巨大な
データベースとして蓄積している。これは人々の行動履歴である限りにおいて、
その欲望を探るための手がかりになる。ところでフロイトは、人間の行動は無意識
の欲望によって規定されているが、その欲望は精神分析家の分析を通じてはじめて
明らかにされるものだと主張した。ならば、情報技術によって記録された人々の
行動履歴を適切な仕方で分析できれば、社会そのものの欲望を明らかにできるだろう。
そうして明らかにされた欲望を、かつてルソーが『社会契約論』の中で構想した
「一般意志」として捉え、それに基づいて政治を行えないか?
一人ひとりの意志(特殊意志)の集合でもなければ、世論(全体意志)でもないもの
として定義されるこの一般意志は謎めいた概念でもあるのだが、それが今やルソー本人
は想像だにしなかった仕方でアクセス可能になっている。
アップデートされた一般意志の概念、「一般意志2.0」を基礎に据えた新しい
民主主義を提言するというのがこの本の試みである。
「議論の落としどころを探れない他者」は現代社会に満ちている。ちょっとだけ世代
が異なるあるいは文化的な背景が異なるだけで、もうまったく会話ができなくなって
しまうネットでのコミュニケーション、同じ日本人で、同じ時代に生きていてさえ、
人は簡単に規範的なコミュニケーションから逸脱してしまう。
なぜそのようなことになってしまったのか。
20世紀の市民は今振り返れば、西側と東側、保守と革新、体制と反体制、国家と
市民、抑圧者と被抑圧者といったじつにわかりやすい二項対立とパッケージ化
によって、公的な場への接近を確保していたように見える。というよりも、
そのような素朴なパッケージ化いまだ許されるほど情報量が少なく、そのために
人々の混乱も少なかった様に見える。しかし、21世紀の社会は複雑すぎる上に、
その複雑さが新しい情報技術のおかげであまりにもそのまま可視化されて
しまっている。そこでは、処理すべき情報量があまりにも多く、もはや個人の
「限定された合理性」を超えてしまっているのである。
たとえ同じ日本人で、同じ時代に生きていても、たがいに関心や情報源が異なれば、
議論の前提はあまりに遠く離れ、選好をすり合わせる余裕すらない。
現代社会の市民は、議論を始めるにあたって、議論の場そのものの共有を信じる
ことが出来ない。意見は異なっても、とりあえず同じ共同体の一員として一つの
議論に参加している、という出発点の意識すら共有できない。
このような現象の1つが以前にも言った「不寛容社会」なのであろう。
そこでは、ネットの一方的な思い込みと討議不能な社会の現出を言っていたが、
それをルソーのいう「一般意志」の考え方でうまく機能させることが可能
なのであろうか。「政治とはコミュニケーションの結実」という論理は、
確かに不能となっているようだが、それに代わりうるものなのか、期待は
したい。
「情報技術を駆使して、市民の意識ではなく無意識を探る政治。とくに政治参加
の意識を持たなくても、日々の生活の記録がそのまま集約され、政策に
活かされる透明な統治。あらためて「社会契約論」の言葉を引けば、「市民が
たがいにいかなるコミュニケーションを取らな」くても、「小さな差異が
数多く集まり、結果として常に一般意志が生み出され、熟慮は常に良いもの
となる国家だ」。

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