2016年9月11日日曜日

この国のかたち、第1巻から3巻

この本は、私にとっては、古代から中世、近代の社会を見ていく上での
ガイドブック的な存在だ。この本の底流には、彼の考える日本文化やその精神、
宗教や社会が流れているのであろうが、それをすくい上げることが中々に
難しい。だが、現れる言葉が自身の想いとつながる場合は、加速度的に
理解が進むときもある。小さな示唆から自身の考えを深めるには、何度も
ページをめくり返すことも必要だ。

司馬遼太郎はこの本において、独自の方法で日本思 想史の概説と整理を試みている。
神道論、古代仏教論、真宗論、朱子学論、江戸思想論、武士論など、日本思想史
のほぼ全領域が描かれており、彼なりの視点で個々の思想性が位置づけられ、特に
近代日本へ至る思想的経路の基本が指し示されている。特にその中で、昭和国家
の鬼胎へと逆転する思想史につ いても、健全な日本思想史の基本線の裏側に沁みの
ように付着して噴出する朱子学イデオロギーという構図も垣間見せている。
だが、神道や朱子学、儒学などをもう少し具体的に知るには、和辻哲郎などの
著作を読む事の方が全体的な把握ができる。特に、和辻氏の「日本倫理思想史」
は面白く読める。これらと合わせ、この本のキーフレーズと重ね合わせれば、
さらに面白く読めるような気もする。

1.「名こそ惜しけれ」の心根
まずは、第1巻の「2朱子学の作用」にこの言葉が出てくる。
自身の心を透かして見れば、この言葉がわが身の底流に流れていることをつくづく
感じる。
「日本史が、中国や朝鮮の歴史と全く似ない歴史をたどり始めるのは、
鎌倉幕府という、素朴なリアリズムをよりどころにする「百姓」の
政権が誕生してからである。私どもはこれを誇りにしたい。
かれらは、京の公家、社寺とはちがい、土着の倫理をもっていた。
「名こそ惜しけれ」
はずかしいことをするな、という坂東武者の精神は、その後の日本の
非貴族階級につよい影響を与え、いまも一部のすがすがしい日本人の中で
生きている。
、、、
朱子学の理屈っぽさと、現実より名分を重んじるという風は、それが官学化
されることによって、弊害をよんだ。特に李氏朝鮮の末期などは、
官僚は神学論争に終始し、朱子学の一価値論に終始して、見ようによっては
朱子学こそ亡国の因をつくったのではないかと思えるほど凄惨な政治事態が
連続した。日本の場合も、徳川幕府は朱子学を官学とした。
ただ、日本の場合、幸いにも江戸中期、多様な思想が出てきて、朱子学が
唯一のものではなくなった。例えば、ほとんど人文科学に近い立場をとる
荻生徂徠や伊藤仁斎の学問がそうで、彼らは朱子学の空論性を攻撃した」。

司馬氏は、日本人の心の原点は、坂東武士の土着の倫理
「名こそ惜しけれ」という。
「武士の習」の核心が無我の実現にあることを主張する。無我の実現であった
からこそ、武士たちは、そこに「永代の面目」という如き深い価値観を
持つことが出来た。武士たちはみづからの生活の中からこの自覚に達した
のであった。武士の習の中核が無我の実現に存するとすれば、武士に期待
される行為の仕方が一般に自己放擲の精神によって貫かれていることは
当然であろう。この精神に仏教との結びつきによって一層強められたと
思われる。「武士というものは僧などの仏の戒を守るなる如くに有るが
本にて有べき也」という頼朝の言葉は、端的にこの事態を言い表している。
そして、いまだ日本人の多くにこの倫理が棲みついている、と思う。

2.「14江戸期の多様さ」について
第1巻では一番好きな章だ。
「私は日本の戦後社会を肯定するし、好きでもある。、、、、
私など、その鬼胎の時代から戦後社会に戻ってきたとき、こんないい社会
が自分が生きているうちにやってくるとは思わなかった。それが「与えられた
自由」などとひにくれては思わず、むしろ日本人の気質や慣習に合った自由な
社会だと思った。、、、
今の社会の特性を列挙すると、行政管理の精度は高いが平面的な統一性。
また文化の均一性。さらにはひとびとが共有する価値意識の単純化。たとえば、
国を挙げて受験に集中するという単純化への恐ろしさ。価値の多様状況こそ
独創性のある思考や社会の活性化を生むと思われるのに、逆の均一性への
方向にのみ走りつづけているというばかばかしさ。これが戦後社会が到達
した光景というなら、日本はやがて衰弱するのではないか。
、、、、
たとえば、今日の私どもを生んだ母体は戦後社会ではなく、ひょっとすると
江戸時代ではないか、と考えてみてはどうだろう。、、、
300近くあった藩のそれぞれの個性や多様さについてである」。

この章を読むたびに司馬氏の憂いがなんとなくわかる。薄くなる倫理観、政府からの
交付金を当てにして多様性、独自性の感じられない地方の自治体の活動、選良
と言われる人たちの個性のなさ、それは戦後直後の野性的な事業展開や政治活動
をしていた人々との明確な差異がさらに加速しているようにも思える。

3.なるほどと思う
4章統帥権の無限性
「昭和1けたから同20年までの10数年は、長い日本史の中でも特に非連続の
時代だったということである。
ノモンハン事変、太平洋戦争のばかばかしいほどの争いに憤りさえ見える。
ほかの対談集でも、
日本は明治憲法から3権分立を明確にしていたが、いつもまにか超法規的な
統帥権なるものが出てきた。これを生み出したのは、当時の政治家や国民の
未成熟な点が多いが、軍部では、これを使い超法規的に日本国を統治できる、
と言う考えを持っていた。これにより、それまでの憲法解釈による天皇機関説は
無効とした」。

この「統帥権と異胎」の2つは折に触れてよく出てくる。だが、正直なところ、
理屈としてはともかく、体までは理解できない。
彼の言う「政治家や国民の未成熟な点が多い」からなのだろうか。私だけなの
だろうか、戦後直後の人間として非難されるべきなのだろうか。

12章の高貴な虚
「その後の日本陸軍は、くだらない人間でも軍司令官や師団長になると、大山型を
ふるまい、本来自分のスタッフに過ぎない参謀に児玉式の大きな権限をもたせた。
この結果、徳も智謀もない若い参謀たちが、珍妙なほどに専断と横暴のふるまい
をした。(辻正信がその好例)それらは太平洋戦争史の大きな特徴になっている。
さらに、これを国家規模に拡大すると、明治憲法における天皇の位置は
古代インド思想に置ける空や、荘子における虚に似ていた。
この憲法では補粥する首相以下国務大臣に最終責任があるということになって
いた。虚と実の組み合わせはまことに日本的で、明治期こそ構造上の微妙さ
がよく働いていたのだが、しかし昭和になって意外な要素としての統帥権
が突出し、内圧が汽缶を破るようにして、明治憲法国家を破滅させた」。

今の政治の答弁がこれそのもの様な気がするし、企業の不祥事の会見でも、よく
見かける光景だ。「責任」という言葉が、ますますあいまいになる日本。

さらには、
19章の谷の国
「谷こそ古日本人にとってめでたき土地だった。
村落も谷にできた。、、、
古日本人に戻って考えると、水稲農耕のことである。山から水を受けて水平に
張り水するために、田という農業土木的な受け皿が必要なのである。、、
田という土木構造を造成するには、谷が最もいい。緩やかな傾斜面に、
上から棚のように田を造成して下へくだり、ついには谷底に至る。
、、、、
要するに日本は2000年来、谷住まいの国だったということを
言いたかっただけである。将来のことはわからない。
谷の国にあって、人々は谷川の水蒸気にまみれて暮らしてきただけに、「老子」
にいうことばが、詩でも読むように感覚的にわかる。
谷神こうしんは死せず、是を玄牝げんぴんと謂ふ。
玄牝の門、是を天地の根と謂ふ。
綿々として存するが如し。之を用ふれども勤つきず」。

この地に住んでいるとなるほどと思うし、多くの棚田を見るたびにこれを
思い起こす。だが、彼が数時間も不愛想な平板な景色が続く関東平野を車や
電車で通った時、その感想を聞きたいものだ。



1章から3章ぐらいまでに彼の想いが強く描かれている。
「普遍的な思想が生まれるには、文明上の地理的もしくは歴史的条件がいる。」
「救済の体系である仏教」
「日本人は、いつも思想は外から来るものだと思っている」」
「名こそ惜しけれ」
「朱子学の理屈っぽさと、現実より名分を重んじるという風は、それが官学化
されることによって、弊害をよんだ。」
「異胎、やがて参謀本部は、統帥権という超憲法的な思想をもつにいたる。」


この本は、私にとっては、古代から中世、近代の社会を見ていく上での
ガイドブック的な存在だ。この本の底流には、彼の考える日本文化やその精神、
宗教や社会が流れているのであろうが、それをすくい上げることが中々に
難しい。だが、現れる言葉が自身の想いとつながる場合は、加速度的に
理解が進むときもある。小さな示唆から自身の考えを深めるには、何度も
ページをめくり返すことも必要だ。

もう一つの作品の課題なり意図は、前者と関連するが、まさに『この国のかたち』とい
う題名が示唆 するとおり、司馬遼太郎の日本思想史である。司馬遼太郎はこの随筆に
おいて、独自の方法で日本思 想史の概説と整理を試みている。神道論、古代仏教論、
真宗論、朱子学論、江戸思想論、武士論。わ ずかに国学論(本居宣長)についての言
及が少し薄い感じがする以外は、日本思想史のほぼ全領域が カバーされ、司馬遼太郎
なりの視角で個々の思想性が位置づけられ、近代日本へ至る思想的経路の基 本線が指
し示されている。そしてその基本線が一転倒錯して昭和国家の鬼胎へと逆転する思想史
につ いても、それなりの描き方をして見せている。すなわち健全な日本思想史の基本
線の裏側に疫病神の ように付着して噴出する朱子学イデオロギーという構図。
統帥権論は朱子学論と併せて『この国のかたち』の最初から問題提起されている。

例えば、神道や朱子学、儒学などをもう少し具体的に知るには、和辻哲郎などの著作を
読む
事の方が全体的な把握ができる。特に、和辻氏の「日本倫理思想史」は面白く
読める。この辺は、司馬氏も和辻氏の著作は読んでいるようで、よく名前が出てくる。



司馬遼太郎が、日本人の心の原点は、坂東武士の土着の倫理
「名こそ惜しけれ」という。
「武士の習」の核心が無我の実現にあることを
主張する。無我の実現であったからこそ、武士たちは、そこに「永代の面目」
という如き深い価値観を持つことが出来たのである。
武士たちはみづからの生活の中からこの自覚に達したのであった。
武士の習の中核が無我の実現に存するとすれば、武士に期待される行為の
仕方が一般に自己放擲の精神によって貫かれていることは当然であろう。
この精神に仏教との結びつきによって一層強められたと思われる。
「武士というものは僧などの仏の戒を守るなる如くに有るが本にて有べき也」
という頼朝の言葉は、端的にこの事態を言い表している。、、、、、

ふと思い当たる日本人の心根に残る「名こそ惜しけれ」
1-2朱子学の作用
日本史が、中国や朝鮮の歴史と全く似ない歴史をたどり始めるのは、
鎌倉幕府という、素朴なリアリズムをよりどころにする「百姓」の
政権が誕生してからである。私どもはこれを誇りにしたい。
かれらは、京の公家、社寺とはちがい、土着の倫理をもっていた。
「名こそ惜しけれ」
はずかしいことをするな、という坂東武者の精神は、その後の日本の
非貴族階級につよい影響を与え、いまも一部のすがすがしい日本人の中で
生きている。
、、、
朱子学の理屈っぽさと、現実より名分を重んじるという風は、それが官学化
されることによって、弊害をよんだ。特に李氏朝鮮の末期などは、
官僚は神学論争に終始し、朱子学の一価値論に終始して、見ようによっては
朱子学こそ亡国の因をつくったのではないかと思えるほど凄惨な政治事態が
連続した。日本の場合も、徳川幕府は朱子学を官学とした。
ただ、日本の場合、幸いにも江戸中期、多様な思想が出てきて、朱子学が
唯一のものではなくなった。例えば、ほとんど人文科学に近い立場をとる
荻生徂徠や伊藤仁斎の学問がそうで、彼らは朱子学の空論性を攻撃した。

1-3雑貨屋の帝国主義
歴史も1個の人格として見られなくもない。日本史はその肉体も精神も、
十分に美しい。ただ、途中、何かの変異が起こって、遺伝学的な連続性
を失うことがあるとすれば、
「おれがそれだ」
と、この異胎はいうのである。
そのものは気味悪く蠕動ぜんどうしていて、うかつに踏んづければ、
そのまま吸い込まれかねない感じもある。私は十分距離を置き、子供の
ような質問をしてみた。
日本は、日露戦争の勝利後、形相を一変させた。
「なぜ、日本は、勝利後、にわかづくりの大海軍を半減して、みずからの防衛に
適合した小さな海軍にもどさなかったのか」
ということである。

1-4統帥権の無限性
昭和1けたから同20年までの10数年は、長い日本史の中でも特に非連続の
時代だったということである。
ノモンハン事変、太平洋戦争のばかばかしいほどの争いに憤りさえ見える。
ほかの対談集でも、
日本は明治憲法から3権分立を明確にしていたが、いつもまにか超法規的な
統帥権なるものが出てきた。これを生み出したのは、当時の政治家や国民の
未成熟な点が多いが、軍部では、これを使い超法規的に日本国を統治できる、
と言う考えを持っていた。これにより、それまでの憲法解釈による天皇機関説は
無効とした。

1-10浄瑠璃記
江戸期をりかいするのに重要なことは、日本語を磨く教範として武士階級は謡曲を
ならい、町人階級は浄瑠璃を習いつづけたことだった。

1-12高貴な虚
その後の日本陸軍は、くだらない人間でも軍司令官や師団長になると、大山型を
ふるまい、本来自分のスタッフに過ぎない参謀に児玉式の大きな権限をもたせた。
この結果、徳も智謀もない若い参謀たちが、珍妙なほどに専断と横暴のふるまい
をした。
(辻正信がその好例)それらは太平洋戦争史の大きな特徴になっている。
さらに、これを国家規模に拡大すると、明治憲法における天皇の位置は
古代インド思想に置ける空や、荘子における虚に似ていた。
この憲法では補粥する首相以下国務大臣に最終責任があるということになって
いた。虚と実の組み合わせはまことに日本的で、明治期こそ構造上の微妙さ
がよく働いていたのだが、しかし昭和になって意外な要素としての統帥権
が突出し、内圧が汽缶を破るようにして、明治憲法国家を破滅させた。

第1巻では一番好きな章だ。
1-14江戸期の多様さ
私は日本の戦後社会を肯定するし、好きでもある。、、、、
私など、その鬼胎の時代から戦後社会に戻ってきたとき、こんないい社会
が自分が生きているうちにやってくるとは思わなかった。それが「与えられた
自由」などとひにくれては思わず、むしろ日本人の気質や慣習に合った自由な社会だと
思った。、、、
今の社会の特性を列挙すると、行政管理の精度は高いが平面的な統一性。
また文化の均一性。さらにはひとびとが共有する価値意識の単純化。たとえば、
国を挙げて受験に集中するという単純化への恐ろしさ。価値の多様状況こそ
独創性のある思考や社会の活性化を生むと思われるのに、逆の均一性への
方向にのみ走りつづけているというばかばかしさ。これが戦後社会が到達
した光景というなら、日本はやがて衰弱するのではないか。

たとえば、今日の私どもを生んだ母体は戦後社会ではなく、ひょっとすると
江戸時代ではないか、と考えてみてはどうだろう。、、、
300近くあった藩のそれぞれの個性や多様さについてである。

1-16藩の変化
長州藩ではそれ以前から藩主は「君臨すれども統治せず」という性格が濃厚で、
藩政当局が藩主に対して最終責任を負っていた。

この地に住んでいるとなるほどと思うし、多くの棚田を見るたびにこれを思い起こす。
だが、彼が数時間も不愛想な平板な景色が続く関東平野を車や電車で通った時、
その感想を聞きたいものだ。

1-19谷の国
谷こそ古日本人にとってめでたき土地だった。
村落も谷にできた。、、、
古日本人に戻って考えると、水稲農耕のことである。山から水を受けて水平に
張り水するために、田という農業土木的な受け皿が必要なのである。、、
田という土木構造を造成するには、谷が最もいい。緩やかな傾斜面に、
上から棚のように田を造成して下へくだり、ついには谷底に至る。
、、、、
要するに日本は2000年来、谷住まいの国だったということを
言いたかっただけである。将来のことはわからない。
谷の国にあって、人々は谷川の水蒸気にまみれて暮らしてきただけに、「老子」
にいうことばが、詩でも読むように感覚的にわかる。
谷神こうしんは死せず、是を玄牝げんぴんと謂ふ。
玄牝の門、是を天地の根と謂ふ。
綿々として存するが如し。之を用ふれども勤つきず。

この話は仏教の大きなフレームが分かり、面白く読めた。
1-21日本と仏教
人が死ねば空に帰する。教祖である釈迦には墓がない。むろんその10大弟子
にも墓がなくおしなべて墓という思想すらなく、墓そのものが非仏経的
なのである。
、、、
親鸞は、釈迦が無神論者であったように、その正当を受けるものとしていわゆる
霊魂を否定した。

救済の宗教には教義がいる。親鸞はその思想の純粋性を他に示すために著述した。
その著作や述作が教義になり、また日常規範にもなった。



2-26天領と藩領
江戸期全国の石高はざっと3千万石だった。そのうち幕府の直轄領は、天領と
よばれ、八百万石だったという。ただしこれは旗本領を含めてのことで、
純粋な天領は四百万石ほどだった。鉱山や商業地、港湾からの収入は
あるものの、この四百万石幕府という政府は賄われていたのである。
、、、、
たとえば、大和(奈良県)の大半は天領だった。ところが、大和の良さは
古寺だけではなく、民家もそうである。もし古寺が、白壁、大和棟といった
この地の大型農家に囲まれていず、裸で野に孤立していたら、大和の
景観はよほど貧寒としたものになるに違いない。白壁、大和棟は、天領の
租税の安さの遺産と考えていい。
江戸時代、コメの収穫の四割を公がとり、六割がその百姓の取り分にする
ことを、四公六民といった。幕府は天領における税率をこの程度の安さに
抑えていた。、、、

天領の豊かなあとを訪ねるとすれば、奈良県のほかでは岡山県の倉敷が
よく、また大分県の日田もいい。いずれも農村の風がのんびりして、町方は
往年の富の蓄積を感じさせる。

この後の肥後の場合を含め、土佐、肥後の内実が面白い。
2-28土佐の場合
こんにちのような画一的な文化の中にすんでいると、江戸期は羨ましくなるほど
多様だった。この多様さが結果として明治国家というユニークなものを世界史に
残したといえる。幕藩体制は炭家のように単品を売るものではなく、棚に色々
なものが置かれていた。棚の上のどの藩も、法制的規格は別にして、中身の
風土はさまざまで、1つとして同じものはなかった。

2-30華厳
体系的な思想としては、華厳経だけで、その中心的な存在は毘盧遮那仏であった。
1つの米粒にも宇宙と人事の一切が込められているという日本的な考え方も、
華厳経から出発した。

大乗仏教以後、菩薩は観念化し、人を救うための存在もしくは機能そのものになった。

空海が展開した真言密教は教主を釈迦ではなく大日如来という非実在者としている点で
いえば、仏教とはいいにくい。

阿弥陀如来は初めは大日如来の一化身として救済のみを受け持つにすぎなかったが、
鎌倉時代、親鸞によって絶対者にされることで、阿弥陀如来となった。
阿弥陀如来は毘盧遮那仏の思想的な後身なのである。毘盧遮那仏と同様に、
人格神でなく、法そのものの名であり、かつ光明の根源である。



この阿弥陀如来が、鎌倉時代、親鸞によって絶対者にされることで、仏教は徹底的に
日本化した。阿弥陀如来は、毘盧遮那仏びるしゃなぶつの思想的後身なのである。
毘盧遮那仏と同様に、人格神でなく法そのもの名であり、かつ光明の根源である。
さらには宇宙の一切であってそのあたちに充ち満ちているということにおいても、
華厳経の世界説明や、その展開の論理とすこしもかわらない。
奈良の東大寺は、聖武天皇の発願以来1200数10年経ち、その間、華厳を
一筋に護持してきた。境内を歩くたびに、日本の思考の型の1つがここから始まった
と思わざるを得ない。境内の隅々にまで、古代アジアの瞑想が、深い翳やしじま
を作っているように思えるのである。

2-31ポンぺの神社
神道は発生形態も多様で、また思想的な発達史もあり、とても10枚の枚数で
書けるものではなく、また書いたところで、煩瑣を避けて説明できる自信はない。
神道の本質というのは、精霊崇拝アユミズムだろうか、それとも憑霊呪術
シャーマニズムなのか、あるいは後世になって加わる現生利益的な受福除災の
儀式なのかなどと考えると、どうもまとまらない。

神道という言葉は仏教が入ってきてから、この固有の精神習俗に対して名付けられた
ものだが、奈良朝のころは、隋、唐ふうの国家仏経に圧倒されてややさびれた。
そういう時期、神々を救うために考えられたのが、奈良朝末の本地垂迹説だった。
まことに絶妙というべき論理で、本地は、普遍的存在のこと。つまり、仏、
菩薩のことである。そういう普遍的な存在が、衆生を済度するために日本の
固有の神々に姿を変えている、という説である。そういう論理によって仏教化
した神々が、権現とか明神とかと呼ばれるようになった。例えば、伊勢神宮の
神は大日如来が本地であり、熊野権現は阿弥陀如来が本地とされた。

江戸末期にでた平田篤胤の神道体系は、際立って思想的威容がある。

2-33カッテンディーケ
幕末の動きを知るには、この人の回想録にふれるのも重要、と思った。


2-35
13世紀の文章語
道元の「正法眼蔵」も、あざやかなこの時代の文章語と言える。
それまでの仏教は、いわば型に過ぎなかったのだが、道元は、禅を通じて
はじめて仏教の本質にせまった。型についてのべつつも、深く本質に
入っているのである。
本質を説くなど、当時の文章日本語でにわかに可能なはずがなかった。
このため、道元は日本文を無から創り上げたといっていい。南宋末期の
現代中国語を援用したり、古漢文の読み下しで文脈を作ったり、また既存の
表現がないあまり、自己流の言い回しを塗りつけたりした。まことに悪戦苦闘
というべく、自然、意味の分からない箇所もあるが、そういう傷の多さ
こそ創始者の名誉といっていい。
、、、、
13世紀にようやく展開した日本語は、叙事文や感想文においてもめざましい
発達を見せた。平家物語の成立が、圧倒的なものであった。
その見事な叙事日本語の先蹤のおかげで、ひきつづいて僧慈円によって書かれた
7巻の「愚管抄」の文章がなりたちえたといってもいい。


2-37無題
こどものころは、たれもが時代と地域をマユのようにして育つ。
明治憲法と戦争体験者について綴っている。
「そのような末期軍隊という「地域」での体験や、あるいは戦場という「地域」
に属したひとびとが、その後存在をかけて、私とは別趣な歴史観をもつのは、
きわめて自然なことだし、かつ人間として重要なことである。」

2-39職人
職人。じつにひびがいい。そういう語感は、じつは日本文化そのものに
根ざしているように思われるのである。

室町末期から桃山期にかけて、茶道が隆盛を極めた。とくに利休が出るに
およんで、茶の美学だけでなく、茶道具についての好みが頂点に達した。
彼らは絵画など純粋美術を好むだけでなく、無名の職人が作った道具という
工芸に、目の覚めるような美を見出したのである。

多くの職人たちは、そういう無償の名誉を生活の目標としてきた。
「職人を尊ぶ国」
と、日本痛のフランク・ギブニー氏がいったが、日本社会の原型的
な特徴といっていい。

柳宗悦の言葉もそのようだ。
「寒暖の2つを共に育つこの国は、風土に従って多種多様な
資材に恵まれています。例を植物にとるといたしましょう。柔らかい桐や杉を
始めとして、松や桜やさては、堅い欅、栗、楢。黄色い桑や黒い黒柿、節のある
楓や柾目の檜、それぞれに異なった性質を示してわれわれの用途を待っています。
この恵まれた事情が日本人の木材に対する好みを発達させました。柾目だとか
木目だとか、好みは細かく分かれます。こんなにも木の味に心を寄せる国民は
他にないでしょう。しかしそれは全て日本の地理からくる恩恵なのです。
私たちは日本の文化の大きな基礎が、日本の自然である事をみました。」
江戸時代に諸国を遊行した僧・木喰(もくじき)がつくった仏像に惹かれた柳は、日本
各地を訪ね歩く旅の途で、地方色豊かな工芸品の数々や固有の工芸文化があることを知
ります。そのころ出会ったのが濱田や河井で、彼らと美について語らううち、「名も無
き民衆が無意識のうちにつくり上げたものにこそ真の美がある」という民藝の考え方が
定まるのです。
 民藝の特性を柳は「実用性、無銘性、複数性、廉価性、地方性、分業性、伝統性、他
力性」の言葉で説明。

さらに、「日本人とはなにか 司馬遼太郎対話集」に以下のような話がある。
徒然草から見る芸への見方の変遷。平安朝から室町時代にかけて、
個人の技芸が尊重された時代と芸に秀でた人が軽く見られた時代がある。
さらに、鎌倉時代には、「数奇」という一人1人がが趣向を発揮すること
への観念が強まる。
例えば、一般庶民を大規模にただで使った権力者は日本にはいなかった。
秀吉の大阪城築城でも、賃金としてお米を渡したように、個人性を意識した
観念はかなり古くから日本にあったのでは、という。
さらに、芸の延長にある近代化、工業化が日本では上手くなしえたのは、
この芸を重んじる風土があったと言う。
しかし、社会体制が安定してくると、芸のあるものは、組織から疎んじられる
様になる。多くの会社では本当に能力のある人は排除され、中途半端な能力の
人間しか残らない。同様に社会全体が守勢の時代は、リーダーシップを落とし、
先ずは上からぼんくらになっていく。ぼんくらでないと上にいけないという
制度を作ってしまう。その下の人間もぼんくらの競争となる。
日本では、中間管理職が一番よく分かっているが、欧米では、トップの能力が
凄く高い。あらゆる情報とそれを活かす能力をもっている。

2-40聖ひじり
威張っている方が高野山の正規の僧である。学侶で、焚口にうずくまっているは、
湯聖という聖である。正規の僧ではない。、、、、
彼らが風変わりなのは、高野山にいながら別な教学をもち、空海以来の即身成仏
の難行をしなかったことである。浄土教と同様の念仏という易行道を勝手に
行っていた。
、、、
重源は、入浴好きだった。60すぎて東大寺再建という大仕事をしながら、一方で
別な福祉事業もした。たとえば全国15か所に大湯屋を建設したこともその1つだ。
、、、さらには、入浴に宗教性を加えたことも特異だった。彼は入浴が健康にも
よく、思わず念仏を唱えたくなるほどに気分がいいことを知っていて、
湯施行ということを奨励したのである。

2-42風景
幕藩体制での名主(庄屋)は、不思議な存在だった。
士農工商で言えば農なのだが、晴れの日には、大小を帯び、武士の姿をする。
むろん、多くは姓も公称した。しかもその屋敷たるや、小藩の家老屋敷の
様に大きく、土塀をめぐらし、長屋門などを構えていた。門を入ると、
玄関があり、式台があり、また、座敷は書院造りだった。それらが付随しているという
ことが、苗字帯刀のしるしだったのである。
服装も絹服がゆるされ、またはきものも雪駄(竹皮草履に牛皮を張り付けたもの)
がゆるされた。雪駄などと、なんのこともないことだが、これさえ格式の1つの
道具だった。
そのような容儀からみれば、庄屋どのはりっぱな上級武士である。しかし身分は
藩の徒士かちよりも下なのである。ただ富力は、藩士階級一般より上だったこと
は言うまでもない。
もう1ついえることは、名主層は、中世以来の由緒という無形の栄誉でいえば、
豊臣、徳川期に成立した出来星大名などよりはるかにつややかで、古くを訪ねると、
大抵中世の地侍から発している。ときに源平時代にまでさかのぼることが出来る。

2-43師承の国
空海とその弟子の関係が、多分にその後の日本における師弟関係の規範になって
しまったのではないかと思ったりする。なにしろ日本人が天地と人間について
理論的に考える思考の歴史は、空海と彼と同時代の最澄から始まるのである。、、、、
ところが、せっかく日本化された仏教が誕生したのに、禅をのぞき、それぞれの
宗祖たちは最澄をまねずに空海をまねた。このため、思想はふたたび生産力を
失った。、、、、、
その原因の1つに師承という悪しき伝統がある。
師承とは、鎌倉から江戸期にかけてふつうに使われていた言葉で、我流の対語
ともいえる。

この賞は、今の経済優先の精神風土の萌芽を示しているようで面白い。
2-46市場
秀吉は日本国を1市場にした。これによって米が圧倒的に商品になった。
米だけではなく、材木そのほかの商品がいったん大阪に集められ、それぞれの
相場が立ち、ふたたび地方に散じていく。市場論理的に、もはや豪族による
地方割拠が無意味になった、だれもが天下経済に参加せねば立ち行かぬようになった
のである。秀吉は必ずしも力づくで天下を得たわけではなかった。、、、
薩摩の島津氏は南西諸島にサトウキビ栽培をさせることによって砂糖を生産し、
それを商品化して大阪の市場で巨額な現金を得た。この藩は日本一の武を誇りながら
市場においては大商人のようになったのである。江戸後期以後の封建制は、武士の世
なのか正体の知れぬ社会になった。

もっと日本の杉を使ってもらいたい、そんな思いがわいてくる。
2-48スギ・ヒノキ
日本の建築史は、杉とヒノキ(檜)の壮麗な歴史でもある。スギ・ヒノキは、共通して
柾目(木目)がとおって美しい。
また白木の肌があかばんで心をなごませ、ともに芳香を放つということでも、用材とし
ての
個性は他の木と比べ物にならない。
、、、、、、
便所の戸は、貴賤にかかわらず薄いスギ板であった場合が多く、また地面すれすれに
埋め込まれた溜桶も、それを汲みだして畑に施すための桶も、すべてスギで作られた。
おかげで、室町期の農業生産はあがった。


前者である「外的要因」に焦点を当てたのが13日放送の第1集「“島国
”ニッポンの叡智(えいち)」だ。司馬は同書の冒頭で、友人の書いた言葉として、「
日本人は、いつも思想はそとからくるものだとおもっている」という一節を引用。これ
を取っかかりに、海の向こうから来る普遍的な文化への憧れが、強い好奇心や独自の文
化を導く原動力となったのでは-と指摘した。


3-49戦国の心
江戸時代は思想史や芸術史のうえで実に面白い時代だったが、なにぶん、政治、法制
の原理がひたすら秩序維持であったため、どんな小侍の家の家系を見ても、何代か
に1件ぐらいは、押し込め、自発的な切腹といったような一族合議の処置にあった
人が出た。個性の強い人は、生きにくかったのである。
他の対談でも、
「しかし、社会体制が安定してくると、芸のあるものは、組織から疎んじられる
様になる。多くの会社では本当に能力のある人は排除され、中途半端な能力の
人間しか残らない。」と言っている。

そのような癖なる人について何人か書いている。
加藤嘉明、塙団右衛門、後藤又兵衛、渡辺勘兵衛、岡左内などである。
今もそのようでもあるが。

3-52室町の世
私どもは室町の子といえる。
いま日本建築と呼んでいるのも、要するに室町末期に起こった書院造りから出ている。
床の間を置き、掛け軸などをかけ、明かり障子で外光を取り入れ、襖で各室を
くぎる。襖には山水や琴棋書画の図を描く。今日でいう華道や茶道という素晴らしい文
化も
この時代を源流としている。
能狂言、謡曲もこの時代に興り、さらにいえば日本風の行儀作法や婚礼の作法も、
この時代から興った。私どもの作法は室町幕府がさだめた武家礼式が原点に
なっているのである。

3-56岬と山
岬とカムナビと呼ばれる小山のことについて述べたい。いずれも、古来日本では
神とされてきた。、、、、
岬は古くから日本人に神秘的ななにごとかをあたえつづけてきた。、、、
出雲日御碕には、日御碕神社が鎮まっている。この岬が社殿をもっていることは、
すでに8世紀の「出雲風土記」に出ている。
一方、野にいる古代人にとっては岬などは無縁で、山こそ神であった。それも、小山で
ある。
神体山の多くは野面ににわかにに盛り上がって裾をうつくしくひらくという端正な
姿をとっている場合が多く、その代表が大和の三輪山といっていい。
三輪山を神体山とする信仰はヤマト政権以前から存在した。8世紀に編まれた
「古事記」の崇神天皇のくだりに、三輪山伝説が出てくる。、、、、
なんといってもカムナビヤマの理想的な形状は近江の湖東平野に、富士の雛形のように
孤立する三上山だろう。、、、孤立山は稲作農民が生きてい行くために絶えざる恵みを
与え続けてきたのである。
要するに、神体山に対しては、農民は暇さえあれば入って、お座敷でも清めるように
落ち葉を掃きとってきた。このため山に腐葉土がなく、樹木としてのようぶんが
なくなっていった。
こういう農民の営みが、神体山の多くを、アカマツの山にしてきたのである。
赤松の適地は土壌が乾燥していることと、痩せ地であることである。
赤松の山は樹の性質として林間がすけていて、つまり疎林になるため、見た目も明るく
、
林の中も陽が当たっている。それにひきかえ、照葉樹の山は暗い。遠くから見ても
雲がわくように茂り、樹の下は木の下闇になっていて、地面は腐葉土のためにじめじめ
している。

今の日本外交をみると、当時とあまり変わっているようには見えない。
この激動の中で、アメリカという後ろ盾が盾というほどの力を持たなくなったばあい、
日本は何処へ行くのか、「文明の衝突」の中でも日本はその他大勢の1つの扱いだ。
退潮の2流国家としてどう行動するのか、もっとも2流国家となっても国民が
それに満足しているのであれば、よいのかもしれないが。
3-59洋服
3-60巴里の廃約
日本人の外政の下手さを書いている。
条約はわずか12か条で、内容はおおざっぱというほかない。
アメリカとしては、要するに修好と通商の目的がはたせればよく、こんな未開国
と精密な条約などを作る気がしなかったのであろう。
その後、幕府は右の日米条約を範として、露、英、蘭、仏などと同様の条約を
むすんだ。
その結果、半植民地になった。
、、、
その新条約は圧倒的にフランスに有利だった。日本はただ搾り取られるだけで
というしかけになっており、さすがの幕府ものち、フランスに抗議して廃約にした。


3-63平城京
姿こそ世界帝国の首都に似せたとはいえ、右のような経済的背景はなく、国民経済も
貧弱で、一歩郊外出れば、地面に縦穴を掘って、大きな藁屋根をかぶせた住居が
点在していた。
、、、、
日本全土に律令という大網を打ち、濃地という農地、人間という人間を律令国家
がまとめて所有し、統一国家が成立したのである。この間、軍事力が用いられる
ことなく、地方地方はその権利を放棄した。
こういう不思議な例は、はるか千数百年くだって明治四年の廃藩置県にもみられる。
両方とも「いまからはじまる世が、世界の普遍的な文明なのだ」という国民的な
気分があって、みなやむなく従ったものかと思える。
島国だけに、普遍性へのあこがれは強いのだ。かといって、律令国家は、一面から見れ
ば
人々にとってつらいものだった。班田収授によって一定の耕地が農民に
平等に貸し与えられる。国家は、平等に租税を取る。租税のほか、公用のための
労役もある。要するに人を個別的に、かつ人身まるごとに国家によって所有されるので
ある。
、、、、、
律令国家は平安時代になってくずれはじめ、やがて東国を中心に武士という
反律令的農場主が勃興し、ついに12世紀末、鎌倉幕府という極めて日本的な
政権が誕生する。

3-66鎌倉
鎌倉から非常命令が発せられるや、山野に住む武士たちが鎌倉目指して馳せた。理非も
得失も念頭にないもののように、かれらはためらいもなく、馳せ参じた。
かれらはその潔さを愛し、そのことに己の一身を賭けた。つねに名を汚すまいとし、
「名こそ惜しけれ」という言葉を以て倫理的気分の基本に置いた。
坂東武者が日本人の形成に果たした役割は大きい。

3-68宋学
宋学は、危機環境のなかでおこった。このため、過度に尊王を説き、大義名分論という
色眼鏡で歴史を見、また異民族を撃払うという情熱に高い価値を置いた。要するに
学問というより、正義の体系であった。

3-72聖ひじり
結局、阿弥陀如来が主催する極楽浄土が大きく流布した。

ーーーー
第2巻のブログ

この国のかたち第2巻での話、「職人、神道}他の人の指摘も含めて
考えさせられること、気づくことが多い。

1.30章職人 より
この本での指摘については他の識者の指摘も考え合わせると色々と気づかされる。

「職人。じつにひびがいい。そういう語感は、じつは日本文化そのものに
根ざしているように思われるのである。、、、、
室町末期から桃山期にかけて、茶道が隆盛を極めた。とくに利休が出るに
およんで、茶の美学だけでなく、茶道具についての好みが頂点に達した。
彼らは絵画など純粋美術を好むだけでなく、無名の職人が作った道具という
工芸に、目の覚めるような美を見出したのである。
、、、、、
多くの職人たちは、そういう無償の名誉を生活の目標としてきた。
「職人を尊ぶ国」
と、日本痛のフランク・ギブニー氏がいったが、日本社会の原型的
な特徴といっていい」。

柳宗悦の言葉もそのようだ。
「寒暖の2つを共に育つこの国は、風土に従って多種多様な
資材に恵まれています。例を植物にとるといたしましょう。柔らかい桐や杉を
始めとして、松や桜やさては、堅い欅、栗、楢。黄色い桑や黒い黒柿、節のある
楓や柾目の檜、それぞれに異なった性質を示してわれわれの用途を待っています。
この恵まれた事情が日本人の木材に対する好みを発達させました。柾目だとか
木目だとか、好みは細かく分かれます。こんなにも木の味に心を寄せる国民は
他にないでしょう。しかしそれは全て日本の地理からくる恩恵なのです。
私たちは日本の文化の大きな基礎が、日本の自然である事をみました」。

江戸時代に諸国を遊行した僧・木喰(もくじき)がつくった仏像に惹かれた柳は、
日本各地を訪ね歩く旅の途で、地方色豊かな工芸品の数々や固有の工芸文化がある
ことを知る。そのころ出会ったのが濱田や河井で、彼らと美について語らううち、
「名も無き民衆が無意識のうちにつくり上げたものにこそ真の美がある」という
民藝の考え方が定まったという。
民藝の特性を柳は「実用性、無銘性、複数性、廉価性、地方性、分業性、伝統性、
他力性」の言葉で説明している。

さらに、「日本人とはなにか 司馬遼太郎対話集」に以下のような話がある。
「徒然草から見る芸への見方の変遷。平安朝から室町時代にかけて、
個人の技芸が尊重された時代と芸に秀でた人が軽く見られた時代がある。
さらに、鎌倉時代には、「数奇」という一人1人がが趣向を発揮すること
への観念が強まる。
例えば、一般庶民を大規模にただで使った権力者は日本にはいなかった。
秀吉の大阪城築城でも、賃金としてお米を渡したように、個人性を意識した
観念はかなり古くから日本にあったのでは、という。
さらに、芸の延長にある近代化、工業化が日本では上手くなしえたのは、
この芸を重んじる風土があったと言う。
しかし、社会体制が安定してくると、芸のあるものは、組織から疎んじられる
様になる。多くの会社では本当に能力のある人は排除され、中途半端な能力の
人間しか残らない。同様に社会全体が守勢の時代は、リーダーシップを落とし、
先ずは上からぼんくらになっていく。ぼんくらでないと上にいけないという
制度を作ってしまう。その下の人間もぼんくらの競争となる。
日本では、中間管理職が一番よく分かっているが、欧米では、トップの能力が
凄く高い。あらゆる情報とそれを活かす能力をもっている」。
個が主点の職人と組織人、ずれる点もあるが、考えるべき話でもある。
このような記述が第3巻にもでてくる。

2.神道について
31章のポンぺの神社でも書いているが、ほかの賞でも神道について言及している。
すでに消え去ってしまったように思える思想であるが、我々の心の奥底に消し炭の
様にまだ残っているし、基本的な思想というものが曖昧な現代ではこれも考える
ことが必要なのでは、ふと思う。
「神道は発生形態も多様で、また思想的な発達史もあり、とても10枚の枚数で
書けるものではなく、また書いたところで、煩瑣を避けて説明できる自信はない。
神道の本質というのは、精霊崇拝アユミズムだろうか、それとも憑霊呪術
シャーマニズムなのか、あるいは後世になって加わる現生利益的な受福除災の
儀式なのかなどと考えると、どうもまとまらない。

神道という言葉は仏教が入ってきてから、この固有の精神習俗に対して名付けられた
ものだが、奈良朝のころは、隋、唐ふうの国家仏経に圧倒されてややさびれた。
そういう時期、神々を救うために考えられたのが、奈良朝末の本地垂迹説だった。
まことに絶妙というべき論理で、本地は、普遍的存在のこと。つまり、仏、
菩薩のことである。そういう普遍的な存在が、衆生を済度するために日本の
固有の神々に姿を変えている、という説である。そういう論理によって仏教化
した神々が、権現とか明神とかと呼ばれるようになった。例えば、伊勢神宮の
神は大日如来が本地であり、熊野権現は阿弥陀如来が本地とされた。

江戸末期にでた平田篤胤の神道体系は、際立って思想的威容がある」。

3.文章の歴史
35章の13世紀の文章語、現代文を何も考えずに使う我々にとって、
この賞は参考となる。少し前から「正法眼蔵」の現代訳を読んでいるが、
原文の違いを意識せず、道元の真意は図れるのか、思うことがある。
だが、その実現は難しい。
「道元の「正法眼蔵」も、あざやかなこの時代の文章語と言える。
それまでの仏教は、いわば型に過ぎなかったのだが、道元は、禅を通じて
はじめて仏教の本質にせまった。型についてのべつつも、深く本質に
入っているのである。
本質を説くなど、当時の文章日本語でにわかに可能なはずがなかった。
このため、道元は日本文を無から創り上げたといっていい。南宋末期の
現代中国語を援用したり、古漢文の読み下しで文脈を作ったり、また既存の
表現がないあまり、自己流の言い回しを塗りつけたりした。まことに悪戦苦闘
というべく、自然、意味の分からない箇所もあるが、そういう傷の多さ
こそ創始者の名誉といっていい。
、、、、
13世紀にようやく展開した日本語は、叙事文や感想文においてもめざましい
発達を見せた。平家物語の成立が、圧倒的なものであった。
その見事な叙事日本語の先蹤のおかげで、ひきつづいて僧慈円によって書かれた
7巻の「愚管抄」の文章がなりたちえたといってもいい」。

4.その他
他にもあるが、個人的に気になった章が2つほど。
42章の風景
「幕藩体制での名主(庄屋)は、不思議な存在だった。
士農工商で言えば農なのだが、晴れの日には、大小を帯び、武士の姿をする。
むろん、多くは姓も公称した。しかもその屋敷たるや、小藩の家老屋敷の
様に大きく、土塀をめぐらし、長屋門などを構えていた。門を入ると、
玄関があり、式台があり、また、座敷は書院造りだった。それらが付随して
いるということが、苗字帯刀のしるしだったのである。
服装も絹服がゆるされ、またはきものも雪駄(竹皮草履に牛皮を張り付けたもの)
がゆるされた。雪駄などと、なんのこともないことだが、これさえ格式の1つの
道具だった。、、、、
そのような容儀からみれば、庄屋どのはりっぱな上級武士である。しかし身分は
藩の徒士かちよりも下なのである。ただ富力は、藩士階級一般より上だったこと
は言うまでもない。、、、、
もう1ついえることは、名主層は、中世以来の由緒という無形の栄誉でいえば、
豊臣、徳川期に成立した出来星大名などよりはるかにつややかで、古くを訪ねると、
大抵中世の地侍から発している。ときに源平時代にまでさかのぼることが出来る」。

48章のスギ・ヒノキ
もっと日本の杉を使ってもらいたい、そんな思いがわいてくる。
「日本の建築史は、杉とヒノキ(檜)の壮麗な歴史でもある。スギ・ヒノキは、
共通して柾目(木目)がとおって美しい。
また白木の肌があかばんで心をなごませ、ともに芳香を放つということでも、
用材としての個性は他の木と比べ物にならない。
、、、、、、
便所の戸は、貴賤にかかわらず薄いスギ板であった場合が多く、また地面すれすれに
埋め込まれた溜桶も、それを汲みだして畑に施すための桶も、すべてスギで作られた。
おかげで、室町期の農業生産はあがった」。

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