2016年8月30日火曜日

風土記の世界

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天皇も王権の首長だから語り部が必要なのだし、同様に、出雲にもほかの国々
にも王権の歴史や王権の系譜を語り継ぐ語り部がひつようであった。
王が王であるための、王権が王権として存在するための1つの装置が語り部
だということである。
こうした王権の維持装置としての語り部は、神語りあるいはフルコトと呼ばれる
固定的な詞章を暗記し、それを祭祀の場で音声によって語り伝えるという
だけではなく、そうした聖なる言語表現を「呪力あるもの」にする力を
もたねばならない。
それがおそらく、語り部が巫覡としての側面を持つ理由である。そして、
語り部によって唱えられることで、詞章は呪力を帯びるのである。
ことばが呪力を持つためには、言葉自体の装い、神語りになるためのさまざまな
様式や表現形態を整える必要がある。

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語り部や古老のように、王権に隷属したり、土地に定着したりして伝承を語る者たち
に対して、共同体から浮遊し巡り歩く者たちがいる。それが「乞食者(ホカヒビト)」
と呼ばれる存在である。この巡り歩くホカヒビトを古代の伝承者としてどのように
位置づけられるかといえば、彼らは、共同体から離れた、あるいは離された
存在であり、それゆえに語り手が根源的にもつ外部性をより鮮明にせざるを
えなくなった、そのような存在である。
また一方で、国家は地方から優れた語り手や歌い手を集め、宮廷の儀礼などに
かかわる芸能集団を組織しようとする。日本書紀に次のような記事がある。
「各国に対して、いわく所部くにうちの百姓おおみたからの能く歌ふ男女と伎人
を選びて貢上たてまつれ」
「諸の歌男、歌女、笛吹くものは、すなわち己が子孫うみのこに伝えて、歌笛
を習わしめよ」
こうした人々が宮廷に召し抱えられていくということと、ホカヒビトが国家あるいは
基層の共同体から離れた存在として巡り歩くことは、構造的に言えば、同じである。
伎人も歌をうたったり、笛を吹いたりする人も、滑稽な技を演じるものも、神の立場
に立ちうる存在として、その力能はホカヒビトと変わらない。そこにあるのは、
国家の内部に抱え込まれるものと外部にさすらう者との違いがあるだけだ。
もっとも、原初的な存在として、共同体には、「古老」たちがいた。
諸国風土記に遺された古老相伝旧聞異時をはじめとしたさまざまな伝承群の背後には、
ここに紹介したような語り手たちの姿が見え隠れしている。そして、それら語り手たち
によって持ち伝えられた伝承の一端が比呂られ文字に写されて、今、我々の前に置かれ
ている。


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日本海にはヤマトを中心とした文化圏とは別の「日本海文化圏」とでも呼ぶべき
領域が存在し、大きな力を持っていた。


海を介してつながる出雲と高志の緊密な関係が浮かび上がる。
また、その奴奈川の地を経由して、タケミカタが諏訪のちに逃げるという国譲りの
神話で語られる神話も、日本海を通した出雲、高志、諏訪のつながりを秘めて
語られる。
古事記の出雲神話を読むと、出雲という世界の広がりがよく見渡せるのであり、
そこに古代の日本列島における人と物との交流が見えてくる。
それはヤマトを拠点として街道によって中央と地方をつないで構築された律令的な
国家像からは見いだせない在り方である。そうした古代の真相が古事記の神話から
みえてくるのであり、それこそが出雲神話の重要性である。

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ヤマトに隷属し、アマテラスの子孫とする系譜を持つ出雲国造の手になると考えれば、
出雲風土記のほうこそ国家的な性格を持つといえるのである。それゆえ、
日本書紀と同様、出雲風土記には出雲の国の神の繁栄と服属を語る神話は存在しないの
だと
見ることもできる。それに対して、出雲的な日本海文化圏を背景として語られる
古事記の出雲神話こそが、出雲の土着的な性格を温存しているのかもしれない。

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