2016年9月21日水曜日

ベンサム、功利の日本

知識と知恵のない国会議員という政治的サラリーマンが横行している。
もっとも、それを許している責任の一端は我々国民にあるのでもあろうが。
もの化し、数としてとらえられないような議員、そこには、議員の個性や
主張が見えてこない。見えてくるのは、彼らが不倫したり、知識不足を
そのまま見せるとき、税金を私的に使った時、いずれも国を動かすという
行為とはかけ離れた世界での話のときだ。
これは、個を埋没化させ、ともかくその総和が大きいもの、数が多いもの
が正義という功利主義の好例かもしれない。もっとも、ベンサムに言わせれば、
全く彼の本意がわかっていないというかもしれないが、浅学非才の人間の
言うこととして勘弁願おう。

サンデルは言っている。
ある社会が公正かどうかを問うということは、我々が大切にするもの、
収入、財産、義務や権利、権力や機会、職務や栄誉、がどう分配されるを
問うことである。公正な社会ではこうした良きものが正しく分配される。
つまり、一人ひとりにふさわしいものが与えられるのだ。
難しい問題が起こるのは、ふさわしいものが何であり、それはなぜかを
問うときである。
そして、価値あるものの分配にアプローチする三つの観点を明らかにしてきた。
つまり、幸福、自由、美徳である。これらの理念はそれぞれ、正義について
異なる考え方を示している。
我々の議論のいくつかには、幸福の最大化、自由の尊重、美徳の涵養といったことが
何を意味するかについて見解の相違が表れている。

だが、個人的にはベンサムの功利主義が好きだし、今の社会も概ね
この考え方が基本となっているのでは、と思う。
ベンサムがこの原理に到達したのは我々は快や苦の感覚によって支配
されている。この2つの感覚は我々の君主なのだ。それは我々のあらゆる
行為を支配し、さらに我々が行うべきことを決定する。善悪の規準は
「この君主の王座に結び付けられている」のである。
彼の論理の強いのは、我々一般人の意識をそのまま捉えているからではないのか。
誰もが快楽を好み、苦痛を嫌う。
功利主義哲学はこの事実を認め、それを道徳生活と政治生活の基本に据えている。

効用の最大化は、個人だけでなく立法者の原理でもあるのだ。どんな法律や
政策を制定するかを決めるにあたり、為政者は共同体全体の幸福を最大に
するため、あらゆる手段をとるべきである。
このため、満足の総和だけを気にするため、個人を踏みつけにしてしまう
場合がある。だが、いま社会に報じられている様々な事象の根底にはこれがある。
功利主義にとっても個人は重要である。だが、その意味は個人の選好も
他のすべての人々の選好とともに考慮されるべきだということにすぎない。
したがって、功利主義の原理を徹底すると、品位や敬意といった我々が
基本的規範と考えるものを侵害するような人間の扱い方を認める
ことになりかねない。戦中の日本がその好例かもしれないが、戦後も
折に触れ表面にもしくは人の深層のなかにも出てくる。

コミュニティとは構成する個人の総和からなる「架空の集団」であるのだから、
関係する利益のすべてを足し合わせすべてのコストを差し引いたときに、その
政策がほかの政策より多くの幸福を生むだろうか、と、さらには、己が大衆に
気に入られ、今後も為政者側にいられるのではないか、と打算できるか。
それはサンデルが言う「幸福の最大化、自由の尊重、美徳の涵養」の3つの
観点のうち、自由の尊重が当たり前と思われ、美徳の涵養が曖昧となって
いるからであろう。

確かに今まで当然と思われていた日本人としての美徳とは?と聞かれたとき
多くの人がその答えに窮するのではないか。
例えば、
世界的に美徳とされているものに以下の6つがあるとされる。これは様々な文化、
宗教、風土に関わらず人類に共通したものといわれる。それには、「知恵と知識」
「勇気」「愛情と人間性」「正義」「節度」「精神性と超越性」がある。
そして、この美徳を構成しているものが以下の24項目と言われている。
1)知恵と知識
好奇心と関心、学習意欲、判断力、批判的思考、偏見のなさ、さらに独創性、創意工夫
、社会的な知性、個人的知性、将来の見通し等がある。
2)勇気
武勇と勇敢さ、勤勉、粘り強さ、継続的努力、誠実、純粋、正直さ、がある。
3)人間性と愛情
思いやりと寛大さ、愛する事と愛される事、協調性、義務感、チームワーク、忠誠心
等が言われている。
4)正義
公平さと公正さ、リーダーシップ、となる。
5)節度
自制心、慎重さ、思慮深さ、注意深さ、謙虚さと慎み深さがある。
6)精神性と超越性
審美眼、感謝の念、希望、楽観主義、未来に対する前向きな姿勢
精神性、目的意識、信念、信仰心、寛容さと慈悲深さ、ユーモアと陽気さ
熱意、情熱、意気込み等がその要素となる。

この6つの美徳、今の日本にはどれが存在し、社会の共通意識となって
いるのだろう。

だが、以下の指摘もある。
「功利主義的な考え方には欠点が2つある。1つ目は、正義と権利を原理
ではなく計算の対象としていることだ。2つ目は、人間のあらゆる善を
たった1つの統一した価値基準にあてはめ、平らにならして、個々の質的な
違いを考慮しないことだ。
自由に基づく理論は、1つ目の問題を解決するが、2つ目の問題を解決しない。そうし
た
理論は権利を真剣に受け止め、正義は単なる計算以上のものだと強く主張する。
自由に基づく諸理論は、どの権利が功利主義的功利に優るかという点では一致しない
ものの、ある特定の権利が基盤となり、尊重されるべきだという点では、一致する。
、、、、
私には、これは間違っていると思える。
公正な社会は、ただ効用を最大化したり選択の自由を保障するしたりするだけでは、
達成できない。公正な社会を達成するするためには、善良な生活の意味をわれわれが
ともに考え、避けられない不一致を受け入れられる公共の文化を創り出さなくて
はいけない。公正な社会には強いコミュニティ意識が求められるとすれば、
全体への配慮、共通善への献身を市民の内に育てる方法を見つけなければならい。
公共の生における市民の姿勢と性向、いわゆる「心の習慣」に無頓着ではいけない」
と言っている。
確かに「心の習慣」は重要だ。周辺を見ても、それが消え去っていくようにも思える。
先にあげた6つの美徳も、モノ足れりの日本人には何か不要なものという意識さえ
見られる。その「心の習慣」が消えていく中では、2つ目の欠点は「これを是」
として受け止めるのも1つではないのだろうか。


さらには、彼が指摘しているように、
「現代の最も驚くべき傾向に数えられるのが、市場拡大と以前は市場以外の基準に
従ってきた生活領域での市場志向の論法の拡大だ。これまでの議論では、
国家が兵役や捕虜の尋問を傭兵や民間業者へ委託する場合であり、公開市場で
腎臓を売買する、移民政策の簡素化など様々だ。そうした問題で問われるのは、
効用や合意だけではない。重要な社会的慣行、兵役、出産、犯罪者への懲罰、移民
等の正しい評価方法も問われる。社会的慣行を市場に持ち込むと、その慣行を
定義する基準の崩壊や低下を招きかねない。そのため、市場以外の規準のうち、
どれを市場の侵入から守るべきかを問わねばならない。それには、善の価値
を判断する正しい方法について、対立する様々な考えを公に論じることが必要だ。
市場は生産活動を調整する有用な道具である。だが、社会制度を律する基準が
市場によって変えられるのを望まないのであれば、我々は、市場の道徳的限界を
公に論じる必要がある」というが、市場という大きな要因がのさばり始めている。
自由についてのカントの解釈、リバタリアンのいう完全な自由市場で財とサービス
を自由に交換することの危うさ、この市場という力に押し流されていく
のではないだろうか。




145
カントの言う他律的な決定とは、あることをするのは、別の目的のためであり、
その目的を実行するのはまた違う目的のためというように延々と続いていく。
他律的に行動するというのは、誰かが定めた目的のために行動するという
ことだ。その時、われわれは目的を定めるものではなく、目的を達成する
貯めの道具にしか過ぎない。この対極にあるのがカントの自律の概念だ。
自分が定めた法則に従って自律的に行動するとき、われわれはその
行動のためにその行動自体を究極の目的として行動している。われわれはもはや、
誰かが定めた目的を達成するための道具ではない。自律的に行動する
能力こそ、人間に特別な尊厳を与えているものだ。この能力が人格と物を
隔てているのである。カントにとって、人間の尊厳を尊重するのは、
人格そのものを究極の目的として扱うことだ。

245
目的論的思考
古代世界では、目的論的な考え方が現在より優勢であった。
プラトンとアリストテレスは、炎が立ち上るのは本来の場所である
空に届こうとするからであり、石が落ちるのは還るべき場所である
地面に近づこうとするとするからだと考えた。自然には意味のある秩序が
あるとみられていた。自然を理解し、その中に占める人間の居場所を理解するのは、
自然の目的と本質的意味を把握することだった。

近代科学の誕生とともに、自然を意味のある秩序とみる見方は影を潜めた。代わって、
自然はメカニズムとして理解されるようになり、物理的法則に支配されると
見られるようになった。自然現象を目的、手段、最終結果と関連付けて解釈するのは
無智のゆえの擬人化した見方とされるようになった。だが、そうした変化にも関わらず
世界を目的論的秩序と目的を持つ相対と見たがる傾向は完全になくなったわけ
ではない。そうした見方は、とりわけ、世界をそのように見ないよう教育される
べき子供たちに、根強く残っている。





①「みんなの意見は案外正しい」からのポイント
以下の記述が気に入っている。
「集合的にベストな意思決定は意見の相違や異議から生まれるのであって、決して合意
や妥協から生まれるのではない」
これは、多様性の重要性を説く「多様な意見はなぜ正しいのか」も同様のベースを
持つものではないか。
また、「解決すべき問題は、認知、調整、協調」の3つであり、集合知が機能する
ためには「多様性、独立性、分散性、集約性」という条件が満たされなければ
ならない」と言っている。
・認知  正しい答えが必ず見つかる問題  
・調整  他人の行動も加味する必要のある問題 
・協調  自己利益だけ追求すると全体の利益を損なう問題(地域活動ではよくある) 
そして、
・多様性  集団の中のそれぞれの人間が自分の私的な情報とそれに基づく意見を
      持っており、突飛なものも含め色々な意見がある状態 
・独立性  周囲の人の意見に影響されずに集団の中の人がそれぞれ意思決定
     できる状態 
・分散性  集団の中のそれぞれの人間がローカルで具体的な情報に基づき意思決定
     をする状態 
・集約性  多様な情報や意見を集め、うまく集約する仕組やプロセスがある状態 

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