2016年8月30日火曜日

無常感

しかし、小さいころの無常観とは自分にとって何だったのろうか、特に、ここ3,4年
絶えず現われては消え、また何か心のどこかを叩かれると頭をもたげ、しばらく悩ます
厄介なものともなっていた。小さいころの思いには、「無常」という言葉も分からず、
母の死と父の挫折による無気力な老人への変貌が直接に心に沁み込み、茫洋とした
やりきれなさ、寂しさから来たものであり、それは無常感に近いものであった
のだろう。
人が人生の中で統制または変化できない四つの真、すなわち、生・老・病・死という
4つのことに直面しなければならない。病で死に至った母親、50代でありながら
すでに無為の老人と化した父親、「今までの楽しい生活が常ならず、暗い淵へと
流され行く自分」、避けえないとの思いはあるものの、それらを受け入れられない
自分への不満、いらだち、そのギャップへの苦悶だったのかもしれない。
だが、長じては、その意識も変わり、日本文学などで見られる無常の考えの、
例えば「桜」や「人の命」、あるいは、方丈記の「物理的な変化」
や平家物語の中で見られる「時間的な変化」などと言ったそれぞれの現象に対する、
情緒的な意識が強くなった。さらに「無常」が変化するものであれば、自分に
とって良いものともなる、という考えに変じてきた。
それは、鴨長明の「方丈記」  
「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、か
つ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如
し」とは違い、吉田兼好の「徒然草」の  
「つれづれなるまゝに、日くらし、硯(スズリ)にむかひて、心に移りゆくよしなし事、
、、」
や、「ひとり燈火のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするこそ、こよなう
慰むわざなれ。文は文選のあはれなる卷々、白氏文集、老子のことば、南華の篇。
この國の博士どもの書けるものも、いにしへのは、あはれなる事多かり」などの
無常ゆえの美しさ、その無常を楽しんで、人生を楽しんだものでもない。それは
社会に入っての自分の行動から言えば、あえて「積極的無常観」といえる
かもしれない。
それは、仏教で言う「諸行無常」、元来万物流転してやまないという単純な意味
であるが、の底流にあるものであるが、一般的な「人生ははかりがたい」という
悲観的な意味とも違った。
それは、「他力本願」と同じ意識の中で醸成されつつあったのだろう。
もっとも、50歳直後はまさに「平家物語」の無常の世界に直面もしたが、
「祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
奢れる者も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。
猛き人も終には滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ」
今でも、急激に落ち行く売り上げの数字と周囲の冷たい目を感じつつ、あの頃
口ずさんでいた自分の姿を思い出す。
さらに、今ここにいる自分は、すでに親父が味わった「人生ははかりがたい」
という無常感の世界にいる。これも因果か。



無常思想とは何であろうか?まず、これを理解する必要がある。これを理解するため
に、最も安易で妥当と思われる方法は、仏教経典などに記載されている「無常」に関連
する用例を観察することである。仏教の様々な派の中で一番古いとされている上座部仏
教の有名な経典であるパーリ語経典(ティピタカ(パーリ語:Tipitaka, 「日本語:三
蔵」)は、この無常の問題を理論的かつ詳細に取り扱う。これによると、仏教の教えを
特徴づける三つの考え(無常印、無我印、涅槃印)の内、中心となるものは無常印(An
nica)として知られる。この概念によると、無常はこの世における人間存在の明白で不
可避な真実である。人間が人生の中で統制または変化できない四つの真、つまり、生・
老・病・死という4つの過程を直面しなければならない。さらに、広義に考えるとこれ
らの理は人間のみならず、この世に存在するすべての生物及び無生物界に属するものに
も適用し、それぞれは一刻も絶えることなく常に流動的である。お釈迦の教えでは、世
にあるあらゆるものの存在は川の流れのごとく、常に前に進み、一連の異なる瞬間は1
つのものとして印象を与えるだけである。万物は、因から因へ、果から果へ、ある瞬間
から次へと進んでいくので、外観から見て一つの連続で統一したものの印象を与える。
昨日見た川の流れは今日と同じものではないし、今の瞬間にみる川は次の瞬間のそれと
同じではないように、世の万物もある瞬間にある特定の特質を持つのである。 

小林氏は、「無常感の文学」という書物の中で、「それは一つのれっきとした世界観と
いうには余りにも情緒的であり、詠嘆的傾向が強いとして、その認識は無常観には至っ
ていなく、無常感と称するのが妥当である」として、従来の「無常観」という用語に対
して新しく「無常感」という用語の使用を提唱している。  小林氏の提唱したこの無
常感についてよく調べてみると、日本文学で見られる無常思想は、日本人が世の中のは
かなさを深く意識し、情緒的に感じているが、仏教が提唱する無常観という世界観には
至っていないように思われる。 

仏教は、全てのものは無常であると観ずる無常観を説き、人間が「苦(パーリ語:Dukh
a)」を克服するための哲理的な思想として扱う。「無常」の「常」とは、「常にその
まま」であるが、それに「無」がつくと「常にそのままで無い」となり、つまり、「変
化する」の意味を持つ。そして、我々の身体を含めて世の中の全てのものが変化してい
くことは「真」であるが、人間がいつまでも「変化の無い」身体にいたいのである。そ
こで自然の「真」と人間の「思い」の間にギャップが生じ、そのギャップこそが「苦」
を生じさせるのである。また、世の中が常に変化していくという現象は大自然が管理し
ているものなので、人間が変えようがないから、人間の「思い」を変えて、「真」に合
わせるしかない。そうすると、自然の「真」とのギャップが生じないから、「苦」とい
うものも起こらないのである。そのため、無常思想は単なる人間や世間のはかなさとい
う狭義的な意味ではなく、世界観という広義的な意味を持つ。これは仏教本来の世界観
である。 

しかしながら、日本文学などで見られる無常の考えは、例えば「桜」や「人間の命」、
あるいは、方丈記の「物理的な変化」や平家物語の中で見られる「時間的な変化」など
と言ったそれぞれの現象に対する深い情緒的な意識に限られている。これらの現象のは
かなさ、頼りなさを情緒的かつ詠嘆的に表現しようとした日本的無常意識は、仏教本来
の「無常観」というより「無常感」であると言えよう。これは、インドの仏教が主張す
る、苦を克服するための「無常観」という世界観とは大きく違うように思われる。もっ
とも、日本人のこの無常の考え方は日本的な美的意識と言うのがもっと妥当であろう。



一、はじめに
日本三大随筆である清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』、吉田兼好の『徒然草
』は、今の人々にも愛読されている。特に、一度きりの人生を大切に生きたいと思わせ
る作品『方丈記』と『徒然草』には、現代人にとって最もなじみが深い。
「人生50年」という言葉を聞いたことがあるのが、現在の人々特に日本人は、男女と
も、世界一の長寿(平均寿命 82 歳)という状況に至って、"長生き"になっている。或る
研究によると、700 年前の鎌倉末頃の平均寿命は現在の半分程度しかない。時代は異な
るが、それくらい寿命が短いということであれば、死というものは切実で身近な問題と
なるだろう。が、生きることの意味とか尊さ、つまり人々の死生観や宗教観といったも
のは、現在の人々と比べるとそれほど大きく異なっているのではない。時の流れに翻弄
された、ちっぽけな人間は、定めなきこの世に、いつか四川大地震のような自然災害に
見舞われるのか、経済危機の急流に押し流されるのか、ニュースになるような不幸に陥
らなくても、誰もが生きていれば多かれ少なかれ「理不尽な不幸」に襲われる。このよ
うな「理不尽な不幸」に遭遇するたびに、生と死を凝視することによって、人生のはか
なさをしみじみ感じられ、『方丈記』と『徒然草』における「無常観」からいろいろ考
えさせられて、「人生無常」という共鳴が得られる。
 
 
二、鴨長明と『方丈記』  
鴨長明は賀茂御祖神社の神事を統率する鴨長継の次男として生まれ、幼い頃は恵まれた
境遇にあったが、有能な庇護者の父の死がまだ二十に達しない長明に大きな衝撃を与え
、神経質だった長明はいっそう閉鎖的傾向になった[1]。和歌の才能で世に認められる
ものの、父の跡を継げず、長明は多難曲折の人生に無常を観じて、結局世を捨て出家し
、山里に隠遁した。

「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、か
つ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如
し。…」で始まる『方丈記』は、天変地異などの異常体験や激動の時代にあって人生や
社会の地獄を見た経験と、方丈という小さな草庵に心の揺れ動きを記している。長明は
「安元の大火」「治承の辻風」「福原の遷都」「養和の飢饉」「元歴の地震」といった
具体的な自然災害**人的災害を例に挙げ、その状況を詳しく記述することにより、「人
と栖の無常」を説いている。多難無常の人生に、そうした「無常観」から生ずる「心の
悩み」から逃れるための方法を模索する長明は、五十歳で出家**遁世して日野山の奥に
方丈の庵を「結ぶ」。そこで心を苦しめている「無常」から超越することは、方丈の庵
という仮の住まいによって成り立つとしたように、長明は質素な草庵生活の楽しさを味
わっている。一往安住の地を得たかのごときであったが、末尾では自分自身を見つめ、
草庵の生活に愛着、執着を抱くこと自体が仏教的な往生への妨げとなっているのではな
いか、と自分自身のありかたを否定し、結局、長明は「無常観」からそうした超越を成
し遂げていない。最後は自らの問いに答えることなく、「不請(ふしょう)の阿弥陀仏
」と唱えて終わる。   
 物理的状況の助けが無ければ精神的安定を得ることはできないだろう。 
 『方丈記』は過酷な時代を後世に書き残し、"乱世"をいかに生きるかという人生哲学
でもある。 

三、吉田兼好と『徒然草』 
『徒然草』の作者は吉田兼好の本名は卜部兼好であり、それは京都吉田神社の神官の家
系に由来する後代の呼び名である。かつ歌人としても当時の"和歌四天王"として活躍し
ていった。貴族の家庭教師を務め、宮廷にも出入りするなどしていたが、20代後半頃に
出家し、隠者・世捨て人として京都郊外で隠遁生活を送った。その隠遁生活の中で執筆
されたのが、この『徒然草』である。しかし、兼好法師の『徒然草』は書かれた一〇〇
年は注目されなかったが、室町中期になって、僧侶の正徹がとり上げる。彼の写本は、
現存するものとしては、今のところ、最古と見られている。けれども、『徒然草』が真
の意味で発見されるのは江戸時代であろう。 

 『徒然草』は「つれづれなるまゝに、日くらし、硯(スズリ)にむかひて、心に移りゆ
くよしなし事 …」で始まる序段および二百四十三段から書き綴っている。『徒然草』
には逸話、伝聞、滑稽談なども収録してあり、兼好の個人的思索がみられ、人間生活の
諸相に対する批判、感想、悟りなどが森羅万象に書かれている。 

 第一三段にて「ひとり燈火のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするこそ、こよ
なう慰むわざなれ。文は文選のあはれなる卷々、白氏文集、老子のことば、南華の篇。
この國の博士どもの書けるものも、いにしへのは、あはれなる事多かり。」兼好法師が
いかに博覧強記**好奇心旺盛な読書家であったかがあらわれている。兼好は日常生活に
根ざす実感をおもむくままに記述し、世の中を静観し、その本質的なものを見極め、無
常ゆえの美しさを謳歌し、その無常を楽しんで、人生をエンジョイしているのである。
 

『方丈記』において、気品のある和漢混合文を使い、修辞法としては、対句と比喩を多
用している。漢文の「記」という文体で、長明の透徹な観察力と、秀でたバランス感覚
、そして構成力によって支えられて、前後照応させた簡潔な文章である。それに対して
、兼好の『徒然草』にはそうした端正さはないが、さまざまな身近な話題を生き生きと
描かれて、自分の思うこと**考えること**感じることを、好きなように書き綴っていく
、という自由な文学形式であろう。 


四、「無常観」について 
l        仏教本来の求道的「無常観」―「諸行無常」 
l        世捨て人の消極的「無常観」 
l        遁世者の美的な「無常観」 

「諸行無常」という仏教用語で、この世の現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動
変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをい
う。この現象世界のすべてのものは消滅して、とどまることなく常に変移しているとい
うことを指す。この「無常」を説明するのに、「刹那無常」(念念無常)**「相続無常
」の二つの説明がある。刹那無常とは、現象は一刹那一瞬に生滅することだという常に
変わりゆくものだというすがたを指し、「相続無常」とは、人が死んだり、草木が枯れ
たり、水が蒸発したりするような生滅の命の過程のすがたを見る場合を指していうと、
説明されている。この「無常」は仏教の根本的な考え方であるとされている。
「諸行無常」「諸法無我」「一切皆苦」とある三法印に、「諸行無常」が筆頭に上げら
れて、無常観を知る事で、「四苦八苦」の苦しみが癒えて行く。そうすると、この世は
安らいだ世界に感じられる。これが「涅槃寂静」であり、これを加えて四法印となる。
釈迦は、その理由を「現象しているもの(諸行)は、縁起によって現象したりしなかっ
たりしているから」と説明している。釈尊が成道して悟った時、衆生の多くは人間世界
のこの世が、無常であるのに常と見て、苦に満ちているのに楽と考え、人間本位の自我
は無我であるのに我があると考え、不浄なものを浄らかだと見なしていた。これを四顛
倒(してんどう=さかさまな見方)という。なお涅槃経では、この諸行無常の理念をベ
ースとしつつ、この世にあって、仏こそが常住不変であり、涅槃の世界こそ「常楽我浄
」であると説いている。
 
仏教で言う「諸行無常」は、元来万物流転してやまないという単純な意味であるが、日
本に渡って、いつか人生ははかりがたいという悲観的な意味に変わってしまった。 
 
『方丈記』の書かれた背景は、度重なる天変地異と飢饉や疫病、そして平家の栄華から
平家の滅亡へ、政変が頻発し、人々の心には、先行きの不安が重く圧しかかった平安末
期の混沌とした時代である。世の中の無常が、中世初頭の人々に切に感じていたもので
あり、 このような末法・浄土思想の影響を受けた鴨長明が『方丈記』冒頭の無常観の
表白は同時代人に広く受け入れたものと思われる。
「すべて世のありにくきこと、わが身とすみかとの、はかなくあだなるさまかくのごと
し…」長明はこの「世の不思議」について全面否定的に描き、地獄のような災厄につい
ての詳しく記述し続き、「濁悪の世」と嫌悪し、きびしく批判し、この世を断然捨てて
しまおうという厭世的な姿勢である。後半においては、自らの草庵での質素な生活が語
られ、「春は藤なみを見る、紫雲のごとくして西のかたに匂ふ。夏は郭公をきく、かた
らふごとに死出の山路をちぎる。秋は日ぐらしの聲耳に充てり。うつせみの世をかなし
むかと聞ゆ。冬は雪をあはれむ。…櫻をかり、紅葉をもとめ、わらびを折り、木の實を
拾ひて…」と綴って、積極的に閑居生活を楽しむ長明の姿しか見えない。
長明は自分の「方丈」庵と「都」を対照的にとらえ、「おのづから、ことの便りに都を
聞けば、この山にこもり居てのち、やむごとなき人のかくれ給へるもあまた聞こゆ。ま
して、その数ならぬたぐひ、盡くしてこれを知るべからず。たびたびの炎上にほろびた
る家、またいくそばくぞ。たゞ假りの菴のみ、のどけくしておそれなし」と述べている
。
しかしながら、仏教的無常観というのは、生きているこの世のあらゆるものは「常なら
ぬ」存在であるという観念である。誰であろうと、どこに居ようと、この「諸行無常」
の摂理から逃れることはできない。この点において絶対安全な場所は存在しない。長明
の中で、「濁悪の世」と対置されたのは五濁・悪道のない西方極楽浄土ではなく、「方
丈」庵なのである。地獄絵のように全面否定的に描かれた都を離れ、彼がたどりついた
のは「方丈」庵の閑居生活である。ところが、閑居生活に浸りきっている長明は「たゞ
假りの菴のみ、のどけくしておそれなし」と「方丈」庵を安心な場所として認めている
。これは仏教的無常観の論理では解釈できないことである。
『方丈記』の無常観には、矛盾していた長明の彷徨、こころの揺れ動きがみられる。
 
『徒然草』は『方丈記』と同じ、仏教的な無常観に支配され、人の命や人生・社会のは
かなさ、不安定さ、うつろいやすさを訴えているが、『方丈記』の無常感がおどろおど
ろしいほど溢れているに対して、『徒然草』にはどこにも悲壮感がない。あきらかに異
なるのは、そのうつろいやすい世の中だからこそ如何に意義を見出すかといった兼好な
り独自の美的な「無常観」である。
『徒然草』第十九段に季節の無常を讃えたものだった。「折節の移り変るこそ、ものご
とにあはれなれ。」四季の「あわれ」を様々な言葉で表現し、最後に「またあはれなれ
」という言葉で照応させて締めくくっている。兼好が自然を愛して、自然の美に陶酔し
ているとみられる。
『徒然草』には直接「無常」という言葉をそのままつかっているのは第四十九段「人は
、ただ、無常の、身に迫りぬる事を心にひしとかけて、束の間も忘るまじきなり」、第
五十九段「無常の来る事は、水火の攻むるよりも速かに、のがれ難きもの」、また第一
三七段「閑かなる山の奥、無常の敵競ひ来らざらんや」と綴った。そのほか、第七段、
第二十五段和第九十一段に、第百五十五段に「無常観」を述べたが、最後に近い第二四
一段の「望月のまどかなること」でも、如幻の生を嘆いてみせて、無常観を説いた。
しかし、世の全貌に無常の網をかけようというのではなかった。第二四一段の話も、実
はよく読めば、限りない願望と限りある無常とが並列比較されている。実は『徒然草』
は無常が世の「部分」であることを認め、そこに限界している部分とその部分をこえた
部分がいるとみられる。「直に万事を放下して道(仏の道に専念)に向ふ時、障りなく
、所作なくて、心身永く閑かなり」、そこで、無常をこえた部分は仏道への修行と示し
ている。
兼好は、長明果たしていなかった「無常から超越すること」を成し遂げたのだろうか。
『徒然草』第四十一段に面白いことが書かれている。五月五日に賀茂の競べ馬を見る人
のなかに兼好本人も見物にいた。「我等が生死の到来、ただ今にもやあらん。それを忘
れて、物見て日を暮す、愚かなる事はなほまさりたるものを。。。」と兼好は、無常を
忘れて競馬にみるのが愚かなる事と断言したが、どうすれば愚かでないのを明示してい
ないまま、筆をおろしている。おそらくそのときの兼好は前の人に席を譲ってもらって
、じきにいい席にて見物を続いたかもしれない。
第百二十四段、第八十四段、第一段の記述から、兼行法師は仏道の行者 (修行者) で
はなく、仏道を熟知した教養人というふうに感じられる。第百五十五段に「されば、真
俗につけて、必ず果し遂げんと思はん事は、機嫌を言ふべからず・・・」の「必ず果し
遂げんと思はん事」がいったい、なにをさしているか、「真」の仏道がなにか、修業が
どういうふうにするのか、具体的に書かれていない。
最後に第二百四十三段に「八つになりし年、父に問ひて云はく、『仏は如何なるものに
か候ふらん』と云ふ。父が云はく、『仏には、人の成りたるなり』と。また問ふ、『人
は何として仏には成り候ふやらん』と。父また、『仏の教によりて成るなり』と答ふ。
また問ふ、『教へ候ひける仏をば、何が教へ候ひける』と。また答ふ、『それもまた、
先の仏の教によりて成り給ふなり』と。また問ふ、『その教へ始め候ひける、第一の仏
は、如何なる仏にか候ひける』と云ふ時、父、『空よりや降りけん。土よりや湧(ワ)き
けん』と言ひて笑ふ。『問ひ詰められて、え答へずなり侍りつ』と、諸人に語りて興じ
き。」そこに兼好がどんなことを伝えたいのか。『徒然草』の明るい字句の裏に、兼好
の心の底に長明に似たようなの戸惑いや困惑が潜んでいるのだろうか。それは奥深い謎
であろう。
 
五、結び 注
世捨て人や隠遁者は、必ずしも俗世間から完全に離れていない。むしろ、文学者や芸術
家になるためには、世俗を超越し、自然と一体となるという隠遁が必要であるだろう。
長明と兼好には100年強の間を隔てても、それぞれ激動の時代背景があった。二人とも
「出家」したが、本当の僧侶と違って、完全に世捨て俗世間と決別していたわけではな
い、隠遁者で呼ばれ、鋭い感覚や深く広い古典教養を持つ感性豊かな歌人である。
地獄のような災害に体験し、消極的な無常観を持ち、自分の方丈への執着心と仏教的な
往生への矛盾に深く悩んでいる長明に対して、自然と人間性に素直に従い、ポジティブ
に生きている兼好は限りある生を踏まえながら、明るく無常を感じている。二人とも或
いは全ての人間には、果たして「無常」に超越することができない、ただ限りある人生
をいかに有意義に過ごすかがもっとも大切ではないか。
無常とは、一切のものごとが必ず変化する。そのことをよく知ると、兼好法師のように
日常のできごとを素直に、ありのままに見ればいいのである。「無常観」をよく理解す
れば、どんなできごとにも柔軟に、明るく対処できるようになると言えよう。柔軟であ
れば、たとえ苦しみや悲しみに出会っても、その苦しみ悲しみのなかでしか経験できな
い人生の機微を味わえる。無常の認識により、目の前のできごとの表面的な苦楽にとら
われなくなり、そのすべてが味わい深いものになって、この人生を歩む前向きのエネル
ギーが生まれてくるのであろう。
日本文学には、『方丈記』『徒然草』のほかに、詩的な「無常感」のように感じられる
ものが次に挙げられる。
祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
 娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
 奢れる者も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。
 猛き人も終には滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。
・・・・ 『平家物語』
思へばこの世は常の住み家にあらず。
 草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし。
 きんこくに花を詠じ、栄花は先つて無常の風に誘はるる。
 南楼の月を弄ぶ輩も月に先つて有為の雲にかくれり。
 人間五十年、下天の内を比ぶれば、夢幻の如くなり。
 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか。
・・・・ 『敦盛』
露と落ち 露と消えにし 我が身かな 難波のことも 夢のまた夢
・・・・ 『秀吉の辞世』
仏教における「諸行無常」が日本化して、日本的な「無常観」になっていた。
単に「花」が徐々に桜に限定されていく過程といわば、日本人が桜を愛してやまないこ
とであり、そこに常なき様、すなわち無常を感じるからとされる。「永遠なるもの」を
追求し、そこに美を感じ取る西洋人の姿勢に対し、日本人の多くは移ろいゆくものにこ
そ美を感じる傾向を根強く持っているとされる。『徒然草』第七段に「世は定めなきこ
そいみじけれ…」兼好が詠嘆したように、無常が「美」と出会って、「無常」「無常観
」は、中世以来長い間培ってきた日本人の美意識の特徴の一つと言ってよかろう。

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