2016年7月20日水曜日

笈の小文

「笈の小文(おいのこぶみ)」 1687年 芭蕉44歳


百骸九竅(ひゃくがいきゅうけい)の中に物有り、かりに名付けて風羅坊(ふうらぼう)といふ。誠にうすものの風に破れやすからん事をいふにやあらむ。かれ狂句を好むこと久し。終(つい)に生涯のはかりごととなす。
ある時は倦(うん)で放擲(ほうてき)せん事を思ひ、ある時は進んで人に勝たむ事を誇り、是非胸中にたたこふうて是が為に身安からず。暫(しばら)く身を立てむ事を願へども、これが為にさへられ、暫く学んで愚を暁(さとら)ん事を思へども、是が為に破られ、つひに無能無芸にして只(ただ)此の一筋に繋(つなが)る。

西行の和歌に於ける、宗祇の連歌に於ける、雪舟の絵に於ける、利休が茶における其の貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。思ふ所月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄(いてき)にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類す。夷狄を出で、鳥獣を離れて、造化にしたがひ造化に帰れとなり。
神無月の初、空定めなきけしき、身は風葉の行末なき心地して、
  旅人と我が名よばれん初しぐれ
   又山茶花(さざんか)を宿々にして
           
芭蕉 「笈の小文」より  全文へ
峠より西伊豆を望む
 「神無月の初空、定めなきけしき、身は風葉の行末なき心地して、
  旅人と我が名よばれん初しぐれ

 風狂の旅人と呼ばれてうれしいのか、呼んでもらいたいものだということなのか、どちらだろう。尊敬する西行や宗祇のように自分も風狂の旅人として生きよう。覚悟は決めた、だがもう初時雨の季節になってしまった、「定めなきけしき、身は風葉の行末なき心地して」、行くしかない、自分で選んだ道だから。
 1687年、芭蕉44歳。この年8月に「鹿島詣」をした後、10月から翌年の3月まで「笈の小文」(おいのこぶみ)の旅に出る。江戸を出て名古屋、伊良湖崎へ。翌年さらに杜国とともに伊勢神宮、奈良、大阪、須磨、明石、京都、近江に遊ぶ。さらに8月には信濃路「更科紀行」の旅へと続けている。  「百骸九竅(ひゃくがいきゅうけい)の中に物有り」100の骨と9つの穴(つまりは人)ではあっても、心はある。誠に薄く風にも破れそうなか弱いものではあるが、永く俳諧を好み、生涯をこれにかけてきた。
古池やのイメージ
伊賀上野の芭蕉記念館の前の池。芭蕉の蛙とおたまじゃくしをたくさん飼っている?
 ある時は行き悩んで投げ出したくなることもあった、 競争に勝とうとして身を焦がし、ああしようかこうしようかと悩んで心休まることもなく、仕官をして立身出世を願ったこともあったが俳諧の道への志のために断念し、学問を志したこともあったが挫折し、ついに無能無芸にしてこの俳諧一筋でやってきた。
 風雅においては、自然の造化にしたがい、季節の移り変わりを友とすること。造化ににしたがい造化にかえれ。

 自然と一体になることを説く芭蕉の考えは、伝統的な東洋的自然主義ともいえる。 その姿勢は生活においても作句においても一貫して貫かれている。
 だが、芭蕉の風狂、侘び趣味は、山林閑居の静的な隠棲ではない。自然の中に身をおくことで、俳諧の新しい表現を生み出そうとする積極的で革新的なものである。 「乾坤の変は風雅の種なり」(天地自然の変化)「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」「景情一味の写実」(三冊子)。俳諧の風雅に身をささげた風狂、景物に対して一念一動する詩魂のひらめきの表現。一所不在、桑門乞食の生活のなかから「風雅の誠」を絞り出そうとする。
抑々(そもそも)、道の日記といふものは、紀氏(きし)・長明・阿仏の尼の文をふるひ情を尽してより、余は皆俤(おもかげ)似通ひて、其の糟粕(そうはく)を改むる事能はず。まして浅智短才の筆に及べくもあらず。其の日は雨降り、昼より晴れて、そこに松あり、かしこに何と云ふ川流れたりなどいふ事、誰々もいふべく覚え侍れども、黄奇蘇新(こうきそしん)のたぐひにあらずば云ふ事なかれ。されども其の所々の風景心に残り、山館(さんかん)・野亭(やてい)の苦しき愁(うれひ)も、かつは話の種となり、風雲のたよりとも思ひなして、忘れぬ所々跡や先やと書き集め侍るぞ、猶酔へる者の猛語にひとしく、寝(い)ねる人の譫言(うわごと)する類に見なして、人又亡聴(ぼうちょう)せよ。
     鳴海(なるみ)にとまりて
  星崎の闇を見よとや啼く千鳥


伊良湖岬から半島の方を望む。
 紀貫之「土佐日記」や鴨長明「方丈記」?や阿仏の尼「十六夜日記」などには浅知短才の自分の筆では及ぶべくもない、と謙遜している。それでも心に残った風景や山館・野亭の苦しい愁いが、話しの種にもなり、風雲のたよりにでもなれば、と筆を執った。酔っぱらいの猛語や寝言として聞いてほしい、とどこまでも奥ゆかしい。芭蕉の生き方の本音の部分が表出されているからだろう。事実、この書を世に出したのは芭蕉ではなく、信頼していた弟子の越人だった。いろいろあって芭蕉が逝くまではこの書は出せなかったのだろう。
 芭蕉は、人生を旅そのものと考えていた。「日々旅に生き、旅を栖(すみか)とす」、それは芭蕉の漂泊願望ともいえるようだ。「野ざらし紀行」「鹿島詣」「笈の小文」「更科紀行」そして最後に「おくのほそ道」の紀行文がある。「おくのほそ道」は芭蕉自身が世に出そうとしていたようだが、それも本当にそうなのかはっきりしない。他はすべて門人たちが芭蕉の死後に出版した。では芭蕉はなぜこれらの紀行文を残したのか。なぜ、死後にしか発行されなかったのか。「芭蕉七部集」などの歌仙や発句の、いわば俳諧師としての芭蕉の本業とは別に、新しい紀行・俳文のような表現を考えていたのではないだろうか。私見では、芭蕉は常に新しみを求める人だった。名所・旧跡や歌枕をただ細かく紹介するような紀行文は、自分の仕事ではないと考えていた。「笈の小文」も紀行文に分類されるのだろうが、俳文的でもあり、新しいジャンルの文章形式を試行していたといえるのではないか。
 「されども其の所々の風景心に残り、山館(さんかん)・野亭(やてい)の苦しき愁(うれひ)も、かつは話の種となり、風雲のたよりとも思ひなして、忘れぬ所々跡や先やと書き集め侍る」。芭蕉は謙遜しているが、新しい表現への並々ならぬ意欲があっちこっちに顔を出している。
左が伊良湖崎、中央が神島、右に薄っすらとみえるのが鳥羽
伊良子湖港より、左が伊良湖崎、中央が神島、右に薄っすらとみえるのが鳥羽 。
三川の国保美といふ処に、杜国が忍びて有りけるをとぶらはむと、まづ越人に消息して、鳴海より跡ざまに二十五里尋ね帰りて、其の夜吉田に泊る。
 寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき

 なぜ芭蕉は伊良湖半島の保美に行ったのか。芭蕉の旅好きは放浪癖からだけではないようだ。いろいろ楽しいこともあったのだろう。それはいとしい杜国がそこにいたから(越人が芭蕉に杜国の近況を教えた)。芭蕉はいったん鳴海・熱田についてから、越人を伴って豊橋(吉田)を経由して伊良湖に向かった。
 写真は、左が伊良湖崎、中央が神島、右に薄っすらとみえるのが鳥羽。杜国はこの海峡を伊良湖から鳥羽に渡って芭蕉と落ち合った。
 [地図]

あまつ縄手、田の中に細道ありて、海より吹上ぐる風いと寒き所なり。
  冬の日や馬上に氷る影法師

保美村より伊良古崎へ壱里ばかりも有るべし。三河の国の地つゞきにて、伊勢とは海隔てたる所なれども、いかなる故にか、万葉集には伊勢の名所の内に撰び入れられたり。此の洲崎にて碁石を拾ふ。世にいらご白といふとかや。骨山と云ふは鷹を打つ処なり。南の海の果にて、鷹の初めて渡る所と云へり。いらこ鷹など歌にもよめりけりと思へば、猶あはれなる折ふし、
 鷹一つ見付て嬉しいらこ崎 
「鷹一つ見付て嬉しいらこ崎」の碑
鷹一つ見付て嬉しいらこ崎」の碑 。国道・田原海道に面している。 
寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき
書き始めの文章がすばらしいが、実際、芭蕉がやっていることは、いとしい人と手に手をとっての道行きに近い。「乾坤無住同行二人」の書付や句には、芭蕉には珍しい心うきうきした気持ちが表現されている。 


 芭蕉の生きた江戸時代初期には、 戦国時代の名残りで同性愛は普通で、若い武士は女色をいやしみ男色をむしろ誇りとしていたようだ。芭蕉は「衆道づき」だった。(芭蕉の初めての句集「貝おおい」の中で「衆道づき」を書いているとか。)芭蕉は杜国を「万菊丸」と呼んで、その美貌と才能を愛したようだ。
 杜国は、名古屋の問屋の若主人だか、空米売買の罪で領国追放され、渥美半島南端の保美に隠棲していた。芭蕉はその杜国を尋ねたのだった。
 2人は、保美から少し離れた伊良湖崎を逍遥したのだろう。洲崎がどこを指すのかわからなかったが、港の横はホテルも立っており海水浴場になっている。「いらご白」の碁石を探すが、不明。2人はまるで恋人のように、洲崎の浜で白い碁石を探したのだろうか。渋い芭蕉にしてはめずらしくほほえましいエピソード。
下は伊良湖崎の芭蕉の碑。

高台の上にも芭蕉の碑があるようだが、草深くて登れそうもない。
 [地図]

芭蕉の碑がある高台に通じる階段。白百合が鎮座していて登れそうもない。

カーフェリーから、伊良湖岬とフェリーターミナルを望む。
 「鷹一つ見付て嬉しいらこ崎」の碑。伊良子湖港のちょっと手前の国道沿いにある。この碑の左上の山に上の碑がある。
 季節により、伊良湖岬から鳥羽の方に向かって海峡を越える鷹がみられるのだという。芭蕉は杜国と連れ立って、越えられぬ海峡を渡る鷹に身をたくしたかったのだろう。
 芭蕉は、伊良湖で杜国と別れ、美濃・大垣・岐阜をまわり、古里の伊賀上野に入り、正月を越す。
 次のような句を残している。
箱根こす人も有るらし今朝の雪
いざ行かむ雪見にころぶ所まで
旅寝してみしやうき世の煤(すす)はらひ 
旧里(ふるさと)や臍(へそ)の緒に泣くとしの暮
二日にもぬかりはせじな花の春
さまざまの事おもひ出す桜哉


 この「笈の小文」に収録された句は、どれもなかなかに味わい深い。
古里で、臍の緒をみて泣いてしまったり、正月元旦には飲みすぎてしまったことを後悔して、二日はしっかりしようと古里で過ごす新春を楽しんでいる芭蕉がいる。
伊良子湖崎より
伊良湖岬から半島の方を望む。
 芭蕉は俳聖といわれる。しかし、芭蕉は、「俳は戯也、諧は和也、唐にたわむれて作れる詩を俳諧と云う。」「俳諧とは云うは、・・・物をあざむきたる心なるべし。心なきものに心を付、物いわぬものに物いわせ、利口したる體也。」(三冊子)自然の「造化にしたがひて四時を友とす。」「造化にしたがひ造化に帰れとなり。」(本書前文) そして、芭蕉は俳諧における「風雅の誠」を極めるため、自分の生活を「風雅の誠」にささげる。そのため、一所不在、乞食行脚の旅の生活を自分の生き様としてまっとうした。たかが俳句、されど俳句である。なかなか、俳句も芭蕉も一筋縄ではいかない。だからこそ芭蕉は俳聖なのであろう。

吉野の山、季節は残念ながら夏。
 芭蕉は、伊良湖で杜国と別れるが、年が明けて伊勢で再び杜国と落ち合う。杜国は保美で謹慎中の身、伊勢を飛びすることは許されなかったはず。
 だが、杜国は、船で伊良湖から鳥羽に渡ったようだ。芭蕉と旅をともにするために。ほとんど恋の逃避行といった大胆な行動。マスコミに知られたら、現代の芸能人のように一大スキャンダルとして報じられたのではないか。芭蕉先生もなかなかやるものだ。

 下の芭蕉の文章にも、芭蕉の杜国への思いがいやらしいほどにじみ出ている。
 吉野山・金峰(きんぷ)神社  [地図]  芭蕉は、「野ざらし紀行」でも吉野を訪ね、西行の「とくとく」を踏まえた句を残している。

下千本のバス発着所の近くの道端あってまったく目立たない、「よし野にて桜見せうぞ檜(ひ)の木笠」の句碑。そうとう古いもののようで、何と書いてあるのかほとんど読めない。店のおばあさんに教えられてわかった。


奥吉野、西行庵。春には桜、秋には紅葉。西行が数年住んだといわれるロケーションだけはある。芭蕉たちもここで桜を満喫したのではないか。
西行の枝折(しおり)は、「吉野山こぞの枝折の道かへてまだ見ぬ方の花を訪ねむ」、 貞室が是は/\は、「これはこれはとばかり花の吉野山」による。
弥生半ば過ぐる程、そゞろに浮き立つ心の花の、我を道引(みちびく)枝折(しほり)となりて、吉野の花に思ひ立たんとするに、かの伊良古崎にて契り置きし人の伊勢にて出迎ひ、共に旅寝のあはれをも見、かつは我が為に童子となりて、道の便りにもならんと、自ら万菊丸と名をいふ。まことに童(わらべ)らしき名のさま、いと興有り。いでや門出のたはぶれ事せんと、笠のうちに落書す。
    乾坤無住同行二人
  よし野にて桜見せうぞ檜(ひ)の木笠
  よし野にて我も見せうぞ檜の木笠  万菊丸
  苔清水
 春雨のこしたにつたふ清水哉
 吉野の花に三日とゞまりて、曙(あけぼの)、黄昏(たそがれ)のけしきにむかひ、有明の月の哀なるさまなど、心にせまり胸にみちて、あるは摂政公のながめにうばはれ、西行の枝折(しおり)にまよひ、かの貞室が是は/\と打ちなぐりたるに、われいはん言葉もなくて、いたづらに口をとぢたる、いと口をし。おもひ立ちたる風流、いかめしく侍れども、爰(ここ)に至りて無興(ぶきょう)の事なり。

奥吉野、金峰(きんぷ)神社。この神社の裏山に西行庵がある。このあたりは奥千本といわれ、裾野から始まった桜の開花が最後にここにたどり着くという。
旅の具多きは道ざはりなりと、物皆払ひ捨てたれども、夜の料にと紙衣(かみこ)壱(ひと)つ、合羽(かっぱ)やうの物、硯(すずり)、筆、紙、薬等、昼笥(ひるげ)なんど物に包みて、後に背負ひたれば、いとゞ脛(すね)弱く力なき身の跡ざまにひかふるやうにて、道なほ進まず。たゞ物うき事のみ多し。
  草臥(くたびれ)て宿かる頃や藤の花

跪(きぶす)はやぶれて西行にひとしく、天龍の渡しをおもひ、馬をかる時はいきまきし聖(ひじり)の事心に浮ぶ。山野海浜の美景に造化の功を見、あるは無依の道者の跡を慕ひ、風情の人の実をうかがふ。

猶(なほ)栖(すみか)を去りて器物の願ひなし。空手なれば途中の愁もなし。寛歩(かんぽ)駕籠にかへ、晩食肉よりも甘し。とまるべき道に限りなく、立つべき朝に時なし。只一日の願ひ二つのみ。今宵よき宿からん、草鞋(わらじ)のわが足に宜しきを求めんとばかりは、いさゝかの思ひなり。時々気を転じ日々に情をあらたむ。もしわづかに風雅ある人に出合ひたる悦限りなし。

吉野山の桜のイメージ。

高野山・奥の院に向かう。 芭蕉の句碑があるたばだか、見つけられず。弘法大師の近くにいたいと願う人々の墓が杉の大木の間で苔むしていた。人は死ぬものであるという現実、人の死の切なさを思わずにはおれない。

高野山・奥の院の入り口。
 長旅で芭蕉も疲れてきた。旅の具を並べ立てていて面白い。芭蕉の旅七つ道具か。それさえ体力の弱っている身には重いといって根をあげている。 「猶(なほ)栖(すみか)を去りて器物の願ひなし。空手なれば途中の愁もなし。
 庵にある器物といってもほしいようなものはない。旅の具といってもたいしたものをもっているわけではないので、盗られれて心配する必要もない。
 乗り物には乗らずゆっくり歩けば、遅い夕飯は肉よりもおいしく食べられる。
 今日どこに泊まらなければならないということもなければ、明日の朝はいつ出発しなければならないということもない。
 ただ、願わくば今宵は好い宿でありますように、草鞋が足にあいますように。もし風雅を解する人と出会えたなら喜びは尽きない。

 「一所不住」、「桑門乞食」の「旅人」には、失うべきものは何もない。信ずるものに向かって前進あるのみ。昔なら、ルンペンプロリアートの心意気といったところだが、それが団塊の世代には懐かしくうれしい。何事かを創り出そう産み出そうとするとき、どうしても対象とともに自分の在りようを否定し無化する契機が必要になる。そんな生き方にあこがれたこともあった。芭蕉に惹かれるのは、どこか若き日の暗く乾いた自己否定と変革と創造への憧れのようなもののイメージと重なる部分があるからなのだろう。
 自分を検証する、失うべきものは何もないか、創造への意欲と準備は十分か。ただ、自己と社会の変革のために。そのための行動と創造への情熱。そういうものにしか価値を見いだせなかった。そういう時代もあったのだ。
 江戸時代前期、芭蕉は自分のことなどおくびにも出さず、俳諧革新への熱情を静かに煮詰めていたのではないか。
 この道一筋。だが芭蕉には才能があった。 漢詩や和歌の伝統にしっかり乗っかりながら、新しい俳諧を生みだそうと努め、そしてそれに成功した。だが、芭蕉には永久革命のような俳諧革新の飽くなき変革の欲求があった。これはやはり天才であり、俳聖の業と言わざるを得ない。
「衣更(ころもがへ)
 一つぬいで後に負ひぬ衣がへ 」
 芭蕉は、吉野を後に、高野山に向かう。
 春も盛り、一つ衣を脱いで背負った。それが旅人の衣替え。

 高野山は死者の町か。寺はきれいに整備されていて、何故か外人も多いが、なんとなく気が滅入るような気分。凡人は、死を思うとどうしても気が滅入ってしまう。なるほど高野山は霊界・異界である。目当ての芭蕉の句碑もみあたらない。
 高野山は芭蕉が尊敬する西行とも縁が深い。西行は完全に仏道に入ったわけでもないのに、修行だけはしっかりしていたようだ。西行は高野山で何をしていたのだろうか。


 芭蕉は、逝ってしまった父母の面影を見てしきりに恋しがる。 「山鳥のほろほろとなく声きけば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」(行基)を踏まえた句をつくっている。
 芭蕉は、かって仕えていた良忠の遺骸を高野山の報恩院に納ている。

「高野
ちゝはゝのしきりにこひし雉(きじ)の声

和歌の浦・「不老橋」
和歌
行く春にわかの浦にて追付きたり
 」
 芭蕉の和歌の浦の句を探して、あたりをさまようがとうとうみつけることができなかった。和歌の浦は、昔は風光明媚な浜辺だったようで歌枕にもなっているが、今は江戸時代に作られたアーチ型の「不老橋」に面影を残すのみ。
 芭蕉は、奈良を回って、須磨・明石に向かう。
 芭蕉の鑑真和尚をみるまなざしのやさしさがにじみ出ている句。
「敦盛塚」といわれている。16歳の平敦盛が熊谷次郎直実によって首を討たれ、それを供養するためにこの五輪塔を建立したという伝承から敦盛塚といわれている。芭蕉もこの塚を訪ねたのだろうか。
 
かゝる所の秋なりけりとかや。此の浦の実(まこと)は秋をむねとするなるべし。悲しさ、淋しさ云はむかたなく、秋なりせば、いささか心のはしをもいひ出づべき物をと思ふぞ、我が心匠(しょう)の拙なきを知らぬに似たり。淡路嶋手に取るやうに見えて、須磨・明石の海右左にわかる。呉楚(ごそ)東南の詠もかゝる所にや。物しれる人の見侍らば、さまざまの境にも思ひなぞらふるべし。
 
 
また後の方に山を隔てて、田井(たい)の畑といふ所、松風・村雨ふるさとといへり。尾上つゞき丹波路へかよふ道あり。鉢伏のぞき、逆落(さかおとし)など恐ろしき名のみ残りて、鐘懸松(かねかけまつ)より見下すに、一の谷内裏(だいり)やしき、めの下に見ゆ。其の代の乱れ、其の時のさはぎ、さながら心に浮び、俤(おもかげ)につどひて、二位の尼君、皇子を抱き奉り、女院の御裳(おんもすそ)に御足もたれ、船やかたにまろび入らせ給ふ御有様、内侍(ないし)・局(つぼね)・女嬬(にょじゅ)・曹子(ぞうし)のたぐひ、さまざまの御調度もてあつかひ、琵琶・琴なんど、しとね・蒲団にくるみて船中に投げ入れ、供御(くご)はこぼれて、うろくづの餌となり、櫛笥(くしげ)は乱れてあまの捨草となりつゝ、千歳のかなしび此の浦にとゞまり、素波(しらなみ)の音にさへ愁(うれひ)多く侍るぞや。
 招提寺鑑真和尚来朝の時、船中七十余度の難をしのぎ給ひ、御目のうち塩風吹入て、終(つひ)に御目盲(めしひ)ひさせ給ふ尊像を拝して、
若葉して御めの雫(しづく)ぬぐはばや


  須磨
月はあれど留守のやう也須磨の夏
月見ても物たらはずや須磨の夏
明石夜泊
蛸壺(たこつぼ)やはかなき夢を夏の月
 これは私の好きな句のひとつ。蛸壺の蛸ははかない夏の月の下でどんな夢をみるのだろうか。それは惰眠だろうか、志しだろうか。朝には漁師に引き上げられて食べられてしまうはかない運命にあるとも知らないで。
 でもなぜ、蛸が夢をみるのだろうか。夢破れ、明石の海に散った平家が、それでもいつかはと蛸になったのだろうか。
 「大和物語」にある 「見果てぬ夢」
 「同じ右京の大夫、監の命婦に、よそながら思ひしよりも夏の夜の見はてぬ夢ぞはかなかりける」がある。「夏の夜の見果てぬ夢ぞはかなかりける」と「はかなき夢を夏の月」 とても似ている。芭蕉はこれを「蛸壺」と結びつけているが、それが俳諧表現というものか。
 芭蕉は滅びの美学に感動する。左のようにかなりしつこく平家滅亡の哀れを書いている。盛者必衰の理を目の当たりにイメージし、その無常を哀れんでいる。

須磨寺の庭にある平敦盛(左)と熊谷直実(右)の像。
原色の色使いが残念。

「敦盛塚」

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