2016年7月5日火曜日

旅への想い

今、自分の今までの生き方の原点回帰の想いで、かなりのフィクションを入れた
旅日記を描いている。仕事で行った場所や生まれた場所、などの訪問を含め、
昭和から平成という大きな変節の時代を生きてきたという郷愁と悔悟と時代変化
の激しさへの想いがその中で、浮かんでくるようだ。
ドナルド・キーンも「百代の過客」の中で、旅日記に見る日本人の思考と感情を
読み解こうとしている。近代以前は、旅すること自体が己の人生そのものでもあった。
それは、松尾芭蕉、西行、宗祇などの残したものを見るとよくわかる。
「百代の過客」に描かれている旅日記の作者もそのような側面を持っている。
現在は、ある意味、心の漂泊の時代かもしれない。単に有名な観光地への物見遊山も
よいが、その中のわずかな時間でも、自身の「人生の旅」を振り返るのも、
一つでは、ないか。
ここでは、松尾芭蕉ほかの人たちの記述から旅、そして人生への想いを感じてみたい。

1.松尾芭蕉の場合
松尾芭蕉は、旅の人である。
東北を中心に、関西までその足を進めている。
しかも、一鉢一杖、一所不在、正に世捨て人のなりわいの
如くであったとのこと。
松尾芭蕉が、このような長旅と困難なことを実行したのか?
彼にとって、旅とはその人生にどんな意味を持つのか?
私自身の旅への強い想いもあり、「おくのほそ道」「野ざらし紀行」
等からその一端を掴みたい。

1)「おくのほそ道」より
まずは、
「月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人也。
船の上に生涯を浮かべ、馬の口とらえて老いを迎ゆる
者は、日々旅して、旅を棲とす。古人も多く旅に死せるあり。
予も、いずれの年よりか、片雲の風に誘われて、漂白の思い
やまず、海浜をさすらいて、、、、」。
この旅に出る根本動悸について書き出している。
松尾芭蕉の旅の哲学がそこにある。
旅の中に、生涯を送り、旅に死ぬことは、宇宙の根本原理に
基づく最も純粋な生き方であり、最も純粋なことばである詩は、
最も、純粋な生き方の中から生まれる。多くの風雅な先人たち
は、いずれその生を旅の途中に終えている。
旅は、また、松尾芭蕉にとって、自身の哲学の実践と同時に、
のれがたい宿命でもあった。
「予も、いずれの年よりか、片雲の風に誘われて、漂白の思い
やまず、海浜をさすらいて、、、、」とあるが、旅にとり付かれた
己の人生に対する自嘲の念でもある。

また、唐津順三も、「日本の心」での指摘では、
「竿の小文(おいのこぶみ)」「幻住庵記」にある「この一筋」、
様々な人生経路や彷徨の後、「終に無能無才にしてこの一筋に
つながる」として選び取った俳諧の画風に己が生きる道を
見出しながらも、その己における在り方には、まだ不安定ものがあった。
「野ざらし」以後の「旅」の理念、日本の伝統的詩精神を
極めて、「旅」こそ詩人の在り方と心に誓い、一鉢一杖、一所不在、
尊敬する西行の庵生活すらなお束の間の一所定住ではないかと
思いつめた旅人芭蕉にも、ふいと心をかすめる片雲があった、
はずである。
野ざらしを心にして旅に出て以来、殊に大垣を経て名古屋に入るとき、
己が破れ笠、よれよれの紙衣を見て、「侘つくしたる侘人、われさえ
哀れに覚えける」と言って、「狂句木枯らしの身は竹斎に似たるかな」
の字余りの句を得て以来、芭蕉は、つねにおのが「狂気の世界」を
見出したという自信を持った。
松尾芭蕉としての気概がここにある。

2)「野ざらし紀行」より、
貞享元年(1684)8月、松尾芭蕉は初めての旅に出る。
「野ざらしを心に風のしむ身かな」
と詠んで、西行を胸に秘め、東海道の西の歌枕をたずねた。
「野ざらしを」の句は最初の芭蕉秀句であろう。
「野ざらし」とは骸骨である。骸(むくろ)である。
「しむ身」は季語「身にしむ」を入れ替えて動かしたもので、
それを「心に風のしむ身かな」と詠んで、心敬の「冷え寂び」
に一歩近づく風情とした。
「野ざらしを心に」「心に風の」「風のしむ身かな」という
ふうに、句意と言葉と律動がぴったりとつながっている。
この発句で、松尾芭蕉は自分がはっきりと位をとったことが見えたに
ちがいない。

2.柳田國男にとっての旅
柳田にとって旅とは、一体何であったのだろう。柳田は「旅は本を読むのと同
じである」(『青年と学問』)といっている。
旅はその土地のことばや考え、心持ちなどを知ることであり、文字以外の記録から
過去を知ることであるともいっている。『青年と学問』におさめられた講演の
なかで柳田は、人の文章(文字)や語り(無文字)から真に必要なものを
読み取る能力を鍛えろと、青年たちに訴えている。人の一生はしれている。
その限りある時間を有益に使えといっている。ただ、がむしゃらに本を読んで
も、旅をしても、志が低く、選択を誤れば、無益になってしまうといっている。 

柳田は見ること、聞くこと、読むことを同一線上でとらえているのである。
それらを媒介しているのはことばであろう。ことばを媒介としてあらゆる事象を
読み取ろうとする。本を読むように風景を見、人と語る。
実際、各地の地名や方言にも若い頃から特別な関心を示していた。柳田にとって
見ること、聞くことは、読むことなのだ。そして学問のためにも、それらを
ことばに置き換え、文字に表現することに、柳田は非常な執着を持っていた。
日本人自らが自分自身を知るという、最終的に自己を対象化できるのは、
ことば以外にあり得ないと考えていた。
だからこそ、旅は本を読むのと同じであるといったのであろう。 

膨大な柳田の読書暦や旅行暦は、恐らく少年時代の読書体験、それに移住を
余儀なくされた漂白体験から培われている。文字と無文字の両方に価値を
おき、そこから得た発見、衝撃を、柳田は人一倍強い感受性で受け止めている。
私はその感受性の根に、無名の人々の哀しさを見つめる柳田の目を感じる
のである。その哀しさへの共感が、柳田の内部から抑えがたい渇望と
なって発酵していったのであろう。 
哀しさへの共感といっても、実は旅そのものが柳田のいうように「憂いもの
辛いもの」であった。「タビという日本語はあるいはタマワルと語源が
一つで、人の給与をあてにしてあるく点が、物貰いなどと一つであったの
ではないかと思われる。……すなわち旅はういものつらいものであった」
(定本第二十五巻「青年と学問」より)。

漂白と定住、逃散と定着、村を追い出される者、出ていく者、あるいは
諸国を歩く遊行僧、旅芸人、木地師など、移動を余儀なくされる者の
心持が、すなわち「タビ」であったという。
旅の語源は「賜ぶ」「給べ」といわれる。「他火」もそうだろうか。
移動する者にとって、食う物が無くなった時、他人の火(「他火」)で
作られた食べ物を、物乞い(「給べ」)しなければならなかった。
他人の家の火を借りて一夜をしのぎ、食い物を恵んでもらうことで、
生をつないでいたのである。ここから、また「食べる」も派生した
だろう。時代によっては餓死、野垂れ死が、日常茶飯事の情景であった
かもしれない。「タビータマワル」なしには生きることの困難な状況
があったことは疑いない。

「タビ」は、すなわち生きることと直結していたのである。
 移動者ばかりでなく、ある程度蓄えのある定住者にとっても、旅人の
心情は他人事ではなかったはずである。自然災害や戦乱、圧政、
いつ何時自らも旅人になるともしれなかった。それゆえ、行き倒れた者
を雨ざらし野ざらしにしないという村人たちの暗黙の了解があった
かもしれない。見ず知らずの者に屋根を与え、火を囲み、事情や他国
の話を聞くなかで、タビが新たな関係を生んでいく。

そこにはまた別な光も差し込まなかったか。場を共有することで心
が和み、人と人との温かな交流が芽生える。一宿一飯の恩義だけでなく、
「タビ」を介して、確かに「情」が内部から醸成されてくる。 
人の哀しさと優しさの根源に、「タビ」を置くことはできないか。
日本人が南方からの移住者であったとすれば、「タビ」から派生した
哀しさと優しさの痕跡を、わたしたちは心のどこかに秘めているのでは
ないだろうか。柳田はそのことに気づいていたかもしれない。
人生は旅だといい、死に装束も旅姿である。「タビ」は、わたしたち
のこころのなかを貫いているのである。 

3.ドナルド・キーン「百代の過客」より
本書の初めに以下のような文がある。
「芭蕉がよく旅に出かけたのは、過去の詩人に霊感を与えた自然の風光
だけではなく、路上や旅籠で行くずりに得た人間的な経験からも、自分の
詩に対する新鮮な刺激を受けたいと、おそらく望んだからであろう」。

また、この本ではないが、その同じような心根が白洲正子の「近江山河抄」
からもうかがわれる。
「やはり美術品は、特に信仰の対象となるものは、祀られている場所で見る
に限る。見るのではなく、拝まなくてはいけないだろう。祈らなくては
いけないだろう。観音寺のような寺に詣でると、私みたいな信仰のないものでも、
しぜんそういう気持になって来る。、わが立つに杣に冥加あらせ給え。
観音寺から私たちは、湖水のほとりへ出た。長浜の北に、早崎という竹生島
の遥拝所があり、そこから入日を見るといいと勧められたからである。
が、秋の日の習いとて、行き着かぬうちに暮れかかった。で、長浜城跡から
拝んだが、あんな落日は見たことがない。再び見ることもないだろう。
向かい側は比良山のあたりであろうか、秋にしては暖かすぎる夕暮れで、
湖水から立ち上る水蒸気に、山も空も水も一つになり、全く輝きのない太陽が、
鈍色の雲の中へ沈んでいく。沈んだ後には、紫と桃色の横雲がたなびき、
油を流したような水面に影を映している。わずかに水面と分かるのは、水鳥の
群れが浮いていたからで、美しいとか素晴らしいというにはあまりにも静かな、
淀んだような夕焼けであった。
何時間そこに立ち尽くしていたか、もしかすると数秒だったかもしれない。
こう書いてしまうとなんの変哲もないが、実はその前日、私は京都の博物館で、
平家納経を見ていた。その中に、今日の落日と寸分たがわぬ景色があった。
銀箔がさびて、微妙な光彩を放つ中に、大きな太陽が浮かんでいる。紫と桃色の
雲が経巻の上下にただよい、小鳥の群れがその中を飛んでいく。風もなく、
音もない。」と書いている。

日記作者としての芭蕉の成功には、実に目を瞠らされるものがある。
「奥の細道」ほど広く読まれた日本の古典文学作品は、他にそうあるまい。
ところが芭蕉は、自分の日記を文学作品にしようという意図はを、一切
否定している。
「笈の小文」では、さまざまな自分の回想を、ただ雑然と書き記した
だけだといい、したがって酔っぱらいの狂乱の言葉、眠っている人間の
譫言を聞くかのようにそれを読んで貰いたいと読者に乞うている。
にもかかわらず、そういうこと自体芭蕉が自分の日記を人に読んで貰いたい
と期待していたことを証明している。
したがって、それは、忘れえぬ事どもを、単に自分の記憶に留めておくため
にだけに書いたものでは、決してなかったのである。
芭蕉の日記は、自己発見の表現でもあった。彼にそれを書かせたのは、
「万葉集」から今日まで、日本の文学に一貫して流れる旅を愛する心ではなく、
旅の中に、彼自身の芸術の、ひいては人として、詩人としての、自己存在の
根源を見つけ出そうとする欲求でもあったのだ。

「奥」に入ろうと、白河の関を越えたあとで作ったという句「風流の初や奥の
田植うた」の中には、いよいよ文学的創造の端緒に出会ったぞ、という心の
高ぶりが読み取れる。他のいくつかの日記では、自分がなぜ詩人になったのか、
また他にどのような仕事を考えてみたか、そして自分は、詩の到達すべき最高
の目標は何と信じるか、などという事柄に関する、まことに素直な意見を
述べている」。

この想いは、松尾芭蕉に限らず、多くの旅日記に散見されるという。
例えば、「白河紀行」にも、 
「宗祇は彼の人生の大半を旅に過ごしている。旅は主として歌枕を訪ねたい
という願望からであった。ただ、当時このような旅の仕方をした連歌者は
少なくなかった。人とのつながりを求めていた連歌への想いが行く先で歓待を
受ける形で現れた。また、地方有力者の文化への憧れがそれを推し進めた
とも言える。
宗祇にとって、歌枕を訪ねることが最優先のことであり、どこにでも出向いた。
荒涼たる那須の荒野を行く時に詠んだ歌がある。
「歎かじよこの世は誰も憂き旅と思ひなす野の露にまかせて」
もう歎くのはやめよう、この世をわたって行くことは、自分ばかりでなく、
誰もみんな憂いつらい旅をしているようなものなのだ。そう思いなおして、
那須野の原におく露のように、はかない運命に身を任せよう」
彼はその場所がやや不明であっても、それは問題ではなかった。
彼は古歌を生み出した土地の雰囲気の中に我が身をおき、その地の持つ
特質を己自身の言葉によって、表現することが重要であったのだ。

西行もしかり、他の詩人がその詩を生み出した源泉に身を置き、新しい
霊感を見出すことによって、己の芸術を更に高めることにあった。
芭蕉も言っている。「許六離別の詞」の中で空海の書より「古人の跡を
もとめず、古人の求めたる所をもとめよ」と。
白河の関明神の神々しさに、
「苔を軒端とし、紅葉をゐ垣として、正木のかつらゆふかけわたすに、
木枯のみぞ手向をばし侍ると見えて感涙とどめかがきに、兼盛、能因
ここにぞみて、いかばかりの哀れ侍りけんと想像るに、瓦礫をつづり
侍らんも中々なれど、皆思い余りて、、」
そして、
「都出し霞も風もけふみれば跡無き空の夢に時雨れて」
「行く末の名をばたのまず心をや世々にとどめん白川の関」、、」とある。

さらには、「いほぬし」から見る旅への想いとは、
「いつばかりのことにかありけん。世をのがれて、こころのままにあらむ
とおもいて世のなかにききときく所々、おかしきをたずねて心をやり、
かつはたうときところどころおがみたてまつり、我が身のつみをもほろぼさむ
とある人有りけり。いほぬしとぞいいける。

作者がここで、旅の明確な動機としてあげているものが三つある。まず旅に
よってこの世の煩いから逃れ、思いのまま生きてみたいという願望である。
世間を捨てたいという気持は、中世およびそれ以後の隠者僧の気持にも通じる
ものであろう。第二の動機は、その魅力については聞き知っていても、まだ
訪れてていない地を訪れたいという願い、これはまた、何世紀にもわたって、
日本人を、景色の美しさで聞こえた土地だけではなく、景色はともかく、昔から
歌で名高い土地を訪ねてみたいと言う気持にさせたと同じ願いである。
西行や芭蕉の作品に詠まれた場所に、今日林立する歌碑や句碑。あれは彼らの
先達に霊感を与えた場所を我が目で見たいという日本人が古くから抱いた願望の、
なによりの証拠ではなかろうか。

最後にいほぬしは、旅は自分の罪を幾分なりとも亡ぼしてくれるだろう、という
希望を述べている。これも、様々な聖地に杖を曳く人々の、心の底にある希望
と同じものなのである。人は旅から喜びを引き出すこともできよう、伊勢、熊野、
石山寺などは、聖地でもあるが、景勝地としても聞こえている。だが巡礼の目的は、
それではない。
聖地を訪れる巡礼は、その場所の神仏との一体化を成就するのである。神仏を
ただあがめるためだけでなら、そのためには日本中、それこそ数限りない場所がある。
しかし神仏に直接ゆかりのある聖地に行ってあがめるほうが、霊験はさらに
あらたかなのである。」
とある。

私自身、旅が何かまだわからない。ただ、非日常性の中で、今まで自身が忘れていた、
もしくは無理に記憶の奥底に押し込めていた何かに対峙する時間は与えられるのでは、
それを自身がどう対処するかはわからないが、と思っている。

最後に四国遍路の旅の感想から1つ。
「東京都 Fさん(27歳)
物足りて心寂しい心境での表面的な生活に疑問を感じ本当の自分の行き方を見つけ
出したい為、四国巡礼に友達3人と出ました。  最初は軽い気持ちで「旅行の延長」
で参ってましたが、段々と御参りを続ける内、ほんとに心に響いてくるものを感じる
ようになりました。宿坊に泊まり早朝、厳格・厳粛・静寂の中で読む般若心経、
ご住職の温かい説法・・・自分の中で何かが変わり始めてきました。
最後、高野山までお参りを終えた頃には、3人とも顔つきが変わっていました。
自分の人生、生き方について本当に考えさせられました。今後、少しづつ物に
とらわれなく、自我に固執することなく、人生の修行、結婚、仕事を続けて行こう
と考えてます。続けきった時、何かが見えてくるように思います。
自分が生きているのではなく、周りの皆様によって支えられ共に生き、何か大きな力
で生かされているような気がします。ありがとうございました。」

なお、追記的な想いとして葛飾北斎の浮世絵の風景に関するものからは、
芭蕉、宗祇など芸術家としての同様な想いが感じられる。

その文章は残っていないが、例えば藤沢周平の「溟い海」の一文からは、
「「広重は、むしろつとめて、あるがままの風景を描いているのだった」
「広重と風景との格闘は、多分切りとる時に演じられるのだ。
そこで広重は、無数にある風景の中から、人間の哀歓が息づく風景を、
つまり人生の一部をもぎとる。あとはそれをつとめて平明に、
あるがままに描いたと北斎は思った」
「恐ろしいものをみるように、北斎は『東海道五十三次のうち蒲原(かんばら)』
とあるその絵を見つめた。闇と闇がもつ静けさが、その絵の背景だった。
画面に雪が降っている。寝静まった家にも、人が来、やがて人が歩み去った
あとにも、ひそひそと雪が降り続いて、やむ気色もない」とある。

浮世絵としては、例えば、
「富嶽三十六景」は、広重の東海道に比して、大きく違うのは、
富士と言う対象物を気象、季節、視点など様々な条件下で、捕らえ、
その都度、異なる山容の表情に最大の興味を持っていることにある。
これは、同時期に描かれた、
①千絵の海
各地の漁撈を画題とした錦絵。変幻自在する水の表情と漁業に
たずさわる人が織り成す景趣が描かれている。全12図。
既に、無くなった漁労の風景が生き生きと描かれており、古き
日本の風物詩が語れている。
②諸国滝まわり
落下する水の表情を趣旨として全国の有名な滝を描いた。全8図。
相州大山ろうべんの滝(神奈川県伊勢原市大山の滝)
東海道坂の下清流くわんおん(三重県亀山市関町坂下)
美濃国養老の滝(岐阜県養老郡養老町)
木曽路の奥阿弥陀の滝(岐阜県郡上市白鳥町、日本の滝百選。白山の参拝)
木曽海道小野の瀑布(長野県木曽郡上松町、現存)
和州吉野義経馬洗い滝(奈良県吉野郡あたり、滝はなし)
下野黒髪山きりふりの滝(日光市、現在は日光3名滝)
東郡葵ケ岡の滝(東京、赤坂溜池)
③諸国名橋奇覧
全国の珍しい橋を画題とした11図。
摂州安治川の天保山(大阪、天保山)
足利行道山くものかけ橋(足利の行道山)
すほうの国きんたい橋(山口県の錦帯橋)
越前ふくいの橋(九十九橋、福井市)
摂州天満橋(大阪天満橋)
飛越の堺つりはし(飛騨と越中の国境)
かうつけ佐野ふなはし古図(群馬県佐野市)
東海道岡崎矢はぎのはし(三河の岡崎)
かめいど天神たいこばし(亀戸)
山浅あらし山吐月橋(京都嵐山渡月橋)」
等にもいえる。
他の方々は、いかがであろうか。
北斎の絵を見ていると、旅、人生という言葉が、ひょっこり
顔を出す、そんな思いに捕らわれる。

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