2016年6月29日水曜日

陰翳礼讃

個人的には島原の輪違屋での花魁の陰影の中で舞う舞であったり、八尾の越中
おわらの風の盆に舞う編み笠の女性たちの姿である。

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もし日本座敷を1つの墨絵に喩えるなら、障子は墨色の最も淡い部分であり、床の間は
最も濃い部分である。私は数奇を凝らした日本座敷の床の間を見るごとに、いかに
日本人が陰翳の秘密を理解し、光と影の使い方に巧妙であるかに感嘆する。なぜなら、
そこにはこれという特別なしつらえがあるわけではない。要するにただ清楚な木材と
清楚な壁とを以て1つの凹んだ空間を仕切り、そこへ引き入れられた光線が
凹みのあちらこちらへ朦朧たる隈を生むようにする。にも拘らず、我々は落とし懸けの
うしろや、花活の周囲や、違い棚の下などを埋めている闇を眺めて、それが
何でもない陰であることを知りながらも、そこの空気だけがシーンと沈み切って
いるような永劫不変の閑寂がその暗がりを領しているような感銘を受ける。思うに
西洋人のいう「東洋の神秘」とは、かくのごとき暗がりが持つ無気味な静かさを
指すのであろう。われらといえども少年のころは、日の目の届かぬ茶の間や書院の
床の間の奥を見つめると、言い知れぬ怖れと寒気を覚えたものである。しかも
その神秘のカギは何処にあるのか。種明かしをすれば、畢竟それは陰翳の魔法
であって、もし隅々に作られている陰を追い除けてしまったら、
忽焉としてその床の間はただの空白に帰するのである。われわれの祖先の天才は
虚無の空間を任意に遮蔽しておのずから生ずる陰翳の世界に、いかなる壁画や
装飾にも優る幽玄味を持たせたのである。これは簡単な技巧のようであって
実はなかなか容易ではない。

たとえば床脇の窓の刳り方、落懸けの深さ、床箱の高さなど、1つ1つに目に
見えぬ苦心が払われていることは推察するに難くない
が、わけても私は、書院の障子のしろじろとしたほの明るさには、ついその前に
立ち止まって時の移るのを忘れるのである。元来書院というものは、昔は
その名の示す如く此処で書見するためにああいう窓を開けたのが、いつしか
床の間の明り取りとなったのであろうが、多くの場合、それは明り取りという
よりも、むしろ側面から射して来る外光を一旦障子の神でろ過して、適当に
弱める働きをしている。まことにあの障子の裏に照り映えている逆光の
明かりは、何という寒々とした侘しい色をしていることか。
庇をくぐり、廊下を通って、ようようそこまでたどり着いた庭の陽光は、
もはや物を照らし出す力もなくなり、血の気も失せてしまったかのように、
ただ障子の紙の色を白々と際立たせているに過ぎない。
私はしばしばあの障子の前に佇んで明るいけれども少しの眩さの
感じられない紙の面を見つめるのであるが、大きな伽藍建築の座敷などでは、
庭との距離が遠いためにいよいよ光線が薄められて、春夏秋冬、晴れた日も、
曇った日も、朝も、昼も、夕も、ほとんどそのほおじろさに変化がない。

そして縦繁の障子の桟の1とコマ毎にできている隈が、あたかも塵が溜ったように、
永久に神に沁みついて動かないのかと怪しまれる。そういう時、私はその夢のような
明るさをいぶかりながら眼をしばだだく。何か眼の前にもやもやとかげろうものが
あって、死力を鈍らせているように感じる。それはほじろい紙の反射が、床の間の
濃い闇を追い払うには力が足らず、却って闇に跳ね返されながら、明暗の区別
のつかぬ混迷の世界を現じつつあるからである。
諸君はそういう座敷に這い入った時に、その部屋にただようている光線が普通の
光線とは違うような、それが特に有難味のある重々しいもののような気持が
したことはないであろうか。あるいはまた、その部屋にいると時間の経過が
分からなくなってしまい、知らぬ間に年月が流れて、出てきたときには白髪の
老人になりはせぬかというような、「悠久」に対する一種の怖れを抱いたことは
ないであろうか。

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大きな建物の、奥の奥の部屋へ行くと、もう全く外の光が届かなくなった暗がり
の中にある金襖や金屏風が、幾間をを隔てた遠い遠い庭の光の穂先を捉えて、
ぼうっと夢のように照り返しているのをみたことはないか。その照り返しは、
夕暮れの地平線のように、あたりの闇へ実に弱弱しい金色の明かりを
投げかけているのであるが、私は黄金というものがあれほど沈鬱な美しさ
を見せるときはないと思う。そして、その前を通り過ぎながら幾度も振り返って
見直すことがあるが、正面から側面の方へ歩を移すに随って、金地の紙の表面が
ゆっくりと大きく底光りする。決してちらちらと忙しい瞬きをせず、巨人
が顔色を変えるように、きらり、と、長い間をおいて光る。時とすると、
たった今まで眠ったような鈍い反射をしていた梨地の金が、側面へ回ると、
燃え上がるように輝いているのを発見して、こんな暗い所でどうしてこれだけの
光線を集めることが出来たのかと、不思議に思う。それで私には昔の人が
黄金を仏の像に塗ったり、貴人の起居する部屋の四壁に張ったりした意味が
初めて頷けるのである。現代の人は明るい家に住んでいるので、こうした
黄金の美しさを知らない。が、暗い家に住んでいた昔の人は、その美しい色
に魅せられたばかりでなく、かねて実用的価値をも知っていたのであろう。
なぜなら光線の乏しい屋内では、あれがレフレクターの役目をしたに違いないから。

つまり彼らはただ贅沢に黄金の箔や砂子を使ったのではなく、あれの反射
を利用して明かりを補ったのであろう。そうだとすると、銀やその他の金属は
じきに光沢が褪せてしまうのに、長く輝きを失わないで室内の闇を照らす黄金
というものが、異様に尊ばれたのであろう理由を会得することが出来る。
蒔絵というものが暗い所で見てもらうように作られていることを言ったが、
こうしてみると、ただに蒔絵ばかりではない、織物などでも昔のものに金銀
んp糸がふんだんに使ってるのは、同じ理由に基ずくことが知れる。
僧侶が纏う金襴の袈裟などは、その最もいい例ではないか。今日街中にある
多くの寺院は大体本堂を大衆向きに明るくしているから、ああいう場所では
やたらにけばけばしいばかりで、どんな人柄な高僧が着ていても有難味を
感じることはめったにないが、由緒あるお寺の古式にはかった仏事に列席
してみると、皺だらけな老僧の皮膚と、仏前の燈明の明滅と、あの金襴の
地質が、いかによく調和し、いかに荘厳味を増しているかがわかるのであって、
それというのも、蒔絵の場合と同じように、派手な織模様の大部分を闇が
かくしてしまい、ただ金銀の意図がときどき、少しずつ光るよう
になるからである。

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およそ日本人の皮膚に能衣装ほど映りのいいものはないと思う。言うまでもなく
あの衣装には随分絢爛なものが多く、金銀が豊富に使ってあり、しかもそれを
着て出る能役者は、歌舞伎俳優のように白粉を塗っていないのであるが、
日本人特有の赤みがかった褐色の肌、あるいは黄色味を含んだ象牙色の地顔
があんなに魅力を発揮するときはないのであって、私はいつも能を見に行く
度に感心する。金銀の織出しや刺繍のある袿うちきの類もよく似あうが、
濃い緑色や柿色の素襖、水干、狩衣の類、白無地の小袖、大口などもよく
似合う。たまたまそれが美少年の能役者だと、肌理の細かい、若々しい
照りを持った頬の色艶などがそのためにひとしお引き立てられて、女の肌
とは自ら違った蠱惑こわくを含んでいるように見え、なるほど昔の大名が
寵童の容色におぼれたというのはここのことだなと、合点が行く。

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然るに能楽の役者は、顔も、襟も、手も、生地のままで登場する。されば眉目
なまめかしさはその人本来のものであって、毫もわれわれの目を欺いている
のではない。故に能役者の場合は女形や二枚目の素顔に接してお座がさめた
というようなことは有り得ない。ただわれわれが感じることは、われわれと
同じ色の皮膚を持った彼らが一見似合いそうにもない武家時代の派手な衣装を
着けた時に如何にその容色が際立って見えるかという一事である。
かって私は「皇帝」の能で楊貴妃に扮した金剛厳氏を見たことがあったが、
袖口から覗いているその手の美しかったことを今でも忘れらない。私は彼の
手を見ながら、しばしば膝の上に置いた自分の手を省みた。そして彼の手が
そんなにも美しく見えるのは、手頸から指先に至る微妙な掌の動かし方、
独特の機構を込めた指の裁きにも因るのであろうが、それにしても、
その皮膚の色の、内部からぼうっと明かりがさしているような光沢は、
何処から来るのかと妖しみに打たれた。何となれば、それは何処までも普通の
日本人の手であって、現に私が膝についている手と、肌の色つやに何の
違ったところもない。不思議にも、その同じ手が舞台にあって妖しいまでに
美しく見え、自分の膝の上にあってはただの平凡な手に見える。かくのごときは
一人金剛厳氏のみではない。能においては、衣装の外へ現われる肉体はほん
のわずかな部分であって、顔と、襟首と、手首から指の先までに過ぎず、楊貴妃
のような面をつけているときは顔さえ隠れてしまうのであるが、それでいて
そのわずかな部分の色艶が異様に印象的になる。

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