2016年6月26日日曜日

昭和の味


文豪・文化人が愛した昭和の味(1)

 昭和――と聞くだけで、懐かしさが込みあげてくるのはなぜでしょう。平成にかわって四半世紀と少し。時間の流れも人の意識もまるで変わり、昭和は遥か遠い昔のように感じられます。その一方で、昭和の時代に日本人が築き上げたものは、現代もさまざまな形で私たちの生活を彩っています。そのひとつが〝食〟。震災や戦争を経験した昭和の前期、日本中が物質的に貧しかった時代にあっても、人々はわずかな農作物や海産物から食べることの喜びや楽しみを見いだしてきました。古きよき食の伝統を受け継ぎつつ、外から入ってきた新しい食文化も貪欲に取り入れる。日本の食卓が最も豊かだったのは、じつは昭和のこのころだったのかもしれません。
 入れ込み式の座敷にずらりと並ぶ低い食卓と座布団。隣の人と肘が当たりそうになりながら食べるとんかつ。どじょうがぐつぐつ煮える小さな鍋に、黄色いオムレツと真っ赤なケチャップ。昭和の時代に食通たちを魅了し、足繁く通ったその味や風情を守る店、今も昭和のまま時が止まったかのような、食通の作家や文化人が愛した店。あたりまえのことをていねいにコツコツと提供し続ける、そんな昭和の美しさは、「和食:日本人の伝統的な食文化」としてユネスコの無形文化遺産の登録にひと役もふた役も買ったに違いありません。
 では、そんなおいしい昭和の味へとご案内しましょう。きっとあなたも、ぐぅ~とおなかを鳴らすに違いありません!

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川端康成がひいきにした
鎌倉『つるや』のうな重

 鎌倉・長谷(はせ)の大仏へ続く通り沿いにある『つるや』。表にガラスの小さなショーウインドーが置いてあるだけの、地味な店構えです。ところが、この店のいろいろなところに、昭和時代に鎌倉に住んでいた文化人を、今も感じられるものがあるのです。
 のれんには、飛んでいる鶴と「観世音つるやのうなぎ召した艶」という句が染め抜かれています。こののれんと、箸袋に描かれた、逃げようとするうなぎをつかみながら前へ前へと走っている男の絵は、漫画家・長崎抜天(ながさきばってん)が描いたもの。うな重に使われる鎌倉彫の重箱は、作家・村松梢風(作家・村松友視の祖父)がデザインしたそう。1階の壁には、俳優の中村嘉葎雄(なかむらかつお)が描いた水墨画がかかっています。
 昭和4(1929)年に創業して以来、この店には、作家の川端康成や吉屋信子、立原正秋、評論家の小林秀雄、女優の田中絹代など、多くの鎌倉在住の文化人たちが訪れました。出前の注文も頻繁にあったといいます。
 なかでも川端康成は住まいが近く、『つるや』をひいきにしていたひとりでした。昔は隣に茶道具店があり、川端はうなぎを待つ間に骨董を見ていたそうです。晩年は店に来ることはほとんどなく、出前を注文していました。
 小林秀雄は、ゴルフの帰りに仲間と2階でうなぎを食べることが多かったとか。サイン入りの著書『本居宣長』をくれたそうです。田中絹代は、鎌倉山の住まいから、週に1回バスに乗ってきていました。「うなぎを食べると元気になる」と言っていたとのこと。東京の病院に入院したときは、東京からタクシーで来たこともあったとか。
「うちは昔から文士好みの味と言われているんですよ。さらりとした薄味ですから」と、3代目の河合吉英さん。
 確かにタレはさらさらとして、食べ飽きない味です。この味は昭和時代から変えていません。うなぎを焼くのは備長炭で、これも昔から変わらないやり方です。少し焦げ目のついたうなぎは、品のいい香りを放っています。
『つるや』の初代はうなぎの産地・浜松の人でした。「別荘が多いところなら、うなぎの出前も多いだろう」と鎌倉に店を出すことにしたといいます。初代が考えた以上に鎌倉の文化人たちに愛される店になった『つるや』は、〝鎌倉の昭和〟を今も語ってくれます。
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つるや

神奈川県鎌倉市由比ガ浜3-3-27 ☎0467-22-0727
蒸した後に、備長炭で焼いた蒲焼きは、中はしっとりとやわらかく、外は香ばしく焼き上がっている。たれの甘みが控えめなところが特徴。
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田辺聖子が描いた
道頓堀『たこ梅』のおでん

 大阪の下町生まれの田辺聖子さんは、食道楽の祖父母、父母と共に娘時代を過ごしました。ふだんの食卓には「他郷の人が捨てるような」はもの皮、うなぎの頭、くじらのコロ(皮)を使った料理が登場したといい、粗末な材料を使いながら「口の奢ったくらし」をするのが大阪庶民の自慢だったと、昭和初期を回想しています。そのせいなのか、田辺作品のなかでも庶民の味の描き方はとびきりおいしそう!
 たとえば道頓堀にある『たこ梅』。――その匂いを心ゆくまで吸いこみ、さて、酒を注文してから、いそいそと、「蛸、それからサエズリ。こんにゃく」と矢つぎ早やに頼む。――と書いた小説『春情蛸の足』(講談社文庫)。主人公の男性・杉野が「たこ梅」の名物「さえずり」(ひげくじらの舌の脂抜き)を口にする場面では、「下手(げて)にちかいたべものながら、だしと醬油でとろとろと煮かれるとおのずと気品が生まれて、嚙むほどにうっとりする旨さである」。杉野の満ち足りた気持ち、この店の「さえずり」を食べたことのある人なら大きくうなずくはずです。
 上の写真の箸の右側に見えるのが、「さえずり」と同様に人気のくじらの「コロ」。「さえずり」や「コロ」を入れて強火で炊くので、だしはあめ色、極上の味わいに。こんにゃくひとつとっても、深い鍋底に敷き詰めて、丸2日かけて味を染み込ませる。「だからうちのこんにゃくには隠し包丁が入っていない。それが自慢です」と5代目店主・岡田哲生さん。
「たこ梅」の創業は弘化元(1844)年。「たこの甘露煮」と「関東煮(かんとだき)」(おでんのこと)に酒を出す店として開業しました。当時、道頓堀は5つの芝居小屋が立ち並び、芝居見物の後にここに寄るのが人々の楽しみだったとか。
 時は平成に移り、道頓堀の風情も大きく変わりました。しかし一歩店に入れば、往時とまではいかなくても、鷹揚と時間が流れていた昭和の空気にタイムスリップできるのがこの店の素晴しさ。飴色に光るコの字形カウンター、くじらのだしでまろやかな湯気、よく煮えたおでんと酒をおいしくする錫のぐい呑み。開業から170年余り、これだけで客を気持ちよく酔わせるには並大抵の心構えでは続きません。「おでんは市井の食べもの」といいますが、その洗練を極めるのが『たこ梅』のおでんなのです。
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たこ梅

大阪府大阪市中央区道頓堀1-1-8 ☎06-6211-6201
たこの甘露煮は1串300円。自家製の辛子と好相性。内側の特殊な構造により、少し傾けただけでスッと飲める特製の錫のぐい呑みが粋。

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【COLUMN】

小説の舞台となる店には、
やっぱり理由がありました

 たとえば、大阪『自由軒』のカレー(織田作之助著『夫婦善哉』)、京都『大市』のすっぽん鍋(志賀直哉著『暗夜行路』)、嵯峨野「森嘉」の豆腐(川端康成著『古都』)……名作の舞台になった店、ここぞという場面で物語を盛り上げる店にも、実在の老舗が多いもの。なかでも織田作之助の小説『夫婦善哉』に登場する大阪・なんばの甘味処『夫婦善哉』は、「この店なくして、この物語は生まれていなかった!」とひざを打つ典型でしょうか。
 創業は明治16(1883)年、大阪・法善寺境内に文楽の太夫・木文字重兵衛が『お福』(のちに『夫婦善哉』に店名を変更)というぜんざい屋(しるこ屋)を開業。かさを増すために1人前のぜんざいをふたつの椀に分けて出す、という営業を始めました。大阪生まれ、大阪育ちの織田作之助は昭和ひと桁のあたりでこの店に出合ったと思われますが、ここで着想を得て小説『夫婦善哉』が生まれます。
 主人公は妻子持ちのだらしのない若旦那・柳吉と、北新地の人気芸者・蝶子。再会のときを経て、柳吉と共に生きていくと蝶子が覚悟するラストシーンでぜんざい屋「めおとぜんざい」が登場します。この店のぜんざいが2杯に分かれている理由を柳吉に聞かれて、蝶子はピシリと「一人より女夫(めおと)の方がええいうことでっしゃろ」。大阪の街を「私の師である」と愛した織田のこのオチはさすがのひと言。そして男女の機微を描くまでに作家の想像力をかきたてた、この店にも喝采を送りたい!
 さて、物語を読みながら、実際にモデルとなった店を空想するのも、また楽しいひとときです。たとえば山口瞳が昭和57(1982)年に発表した『居酒屋兆治』(新潮文庫)。献立は壁に短冊で貼られている設定で、モツ焼き以外の肴、夏はこんなふうに描かれます。
 御新香 冷奴 毛呂久
 もずく 枝豆 チキンロール
 いわし丸干 もやし朝鮮漬
 実店舗は山口氏の自宅のあった東京・国立のモツ焼き店『文蔵』(現在は閉店)という店だそうですが、献立とは実に説得力のある情報だと思いませんか? 献立を書きたくて小説が生まれたのかと思うほど、昭和生まれのいい店には、いい献立がそろっています。
たこ梅3織田作之助が『夫婦善哉』を刊行したのは昭和15(1940)年。着想を得た甘味処『夫婦善哉』のほか、おでんの『たこ梅』、洋食『自由軒』など大阪ミナミにあるなじみの店を書き綴ったが、今も実店舗が残るのはほんの数軒。上の写真は昭和50(1975)年ころの『たこ梅』。

あの魯山人の名茶碗を通販で購入できるという耳寄り情報
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漱石、龍之介、康成…
文豪が通った湯島のすき焼屋『江知勝』

 湯島天神のほど近く、急な切通坂を上りきると、時が戻ったかのような古い風情の看板が現れます。昭和のレトロなガラス戸を引いて玄関に入ると、「いらっしゃいませ」と仲居がそろってお出迎え。初代が越後から上京して店を構えたのが、明治4(1871)年。東京のすき焼屋の草分けともいえるのが、昔と同じ本郷湯島で、しっかりと暖簾を守る老舗『江知勝(えちかつ)』です。
 本郷に近い土地柄ということもあり、開店以来の主な客は一高や帝大のエリート学生たちでした。卒業生である森鷗外は『牛鍋』という短編小説を著し、夏目漱石、芥川龍之介の作品にも、『江知勝』を偲ぶすき焼のことが出てきます。かの川端康成も、横光利一との出会いを記した文章の中で「本郷弓町の江知勝で牛鍋を御馳走になつたのを覚えてゐる」と店の名を記しました。ハイカラなすき焼は、若い文士たちをはじめ、流行に目ざとい若者たちを虜にしていたのです。
『江知勝』のすき焼は、もちろん関東風の味つけ。醬油ベースにみりんをブレンドした秘伝の割り下は、前日から仕込んで当日ようやくできあがるというもの。どのコースの牛肉も、厳選された国産黒毛和牛Aランクのみ。目利きの料理人が、ブランドや産地にこだわらず、きめの濃やかさや脂の質を見極めて選んでいます。各部屋には担当の仲居がついていて、肉の食べごろも教えてくれます。ハフハフしながら口に運ぶ牛肉は、舌にのせた途端にとろけてしまうようなやわらかさ。さすが名店の底力を感じるすき焼です。
 また風格を感じさせる店のたたずまいも魅力のひとつ。凝りに凝った建材や銘木が約70年ものうちに落ち着きをもたらし、お店に足を踏み入れたと同時に、懐かしさに包まれるよう。『江知勝』は、いまや往時の東京に出合える詩情豊かな名所でもあるのです。
上の写真/牛肉の色が変わりかけた煮えばなが絶品。一枚一枚の牛肉が大きくて食べ応えもある。甘辛い香りに、ご飯がすすんで仕方ない!
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江知勝

東京都文京区湯島2-31-23 ☎03-3811-5293
一高、帝大の卒業生である川端康成が、昭和28(1953)年に『江知勝』を訪れた際に記した芳名録が今も残されている。
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山口瞳や池波正太郎が愛でた
目黒『とんき』のとんかつ

 ジュワー、サクッサクッ、トントントン――。油で揚げる音、とんかつやキャベツを切る音。『とんき』の店内ではさまざまな音が聞こえます。カラッとした薄手の衣に包まれた豚肉の旨み。昭和の戦前から変わらない味を求めて、昔も今も、開店と同時に満席になるという人気ぶり。山口 瞳や池波正太郎といった食通として知られた作家たちも、庶民的な「とんき」のとんかつをこの上なく愛しました。
 L字形の広いカウンター席から厨房の中を眺めると、白衣と白いコック帽を着用した調理人たちが各々持ち場を守り、ていねいに調理しているのがわかります。とんかつは、ひと口で食べることができるように十字に切り分けて出されますが、食べる人の性別・年齢などを瞬時に判断してひと口の大きさを変えているのだとか! 小分けに切るとたくさんご飯を食べてもらえるから、という心にくい配慮です。言葉には出さずとも日本人らしい細やかな心配りが、この店のおいしさを支えています。

とんき 目黒店

東京都目黒区下目黒1-1-2 ☎03-3491-9928
山口瞳は著書『酒食生活』(角川春樹事務所・ハルキ文庫)でこう書いています。――僕等は目黒のトンカツのとんきへ行くことにした。トンカツもアブラ物だが、これは日本料理である。――う~ん、なるほど!

とらや、美しき和菓子のすべて【ニッポンの老舗】
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【COLUMN】

作家たちが愛する店には
「昭和の心意気」がありました!

 ガンコ親父のいる店こそ、味は確かという通念があったのも今は懐かしい昭和の話。ビクビクしながら暖簾をくぐった経験は、昭和生まれなら一度はあるはずです。あの池波正太郎でさえ、〝おやじがぎょろりと私をにらみつけた〟など名店主にまつわる逸話を残しています。あのころ、店主の「守る味がある以上は、自分も筋を通すし、客もそうあるべき」という考えを客は承知して店に通っていたものです。
 そんな個性の強い店主たちは、店の顔ともいえる看板やロゴにも突出したものを求めたのでしょう。上の写真をじっくり見てみてください。今では見ることも少なくなった店オリジナルのマッチですが、これだけでその店の雰囲気、店主の顔までもが想像できそうではありませんか?

マッチひとつ見ても、
美意識の高さがうかがえます

 さらに興味深いのは、このデザインの多くが名のあるデザイナーによるものではないこと。創業者が筆を握ったのか、もしくは看板屋や意匠屋に注文をつけて共作したのか。いずれにしても、自分の店はこうありたい、という美意識が備品に至るまで浸透していたのは明らかで、そこにまず反応したのが感度の高い作家たちでした。
 たとえば、白洲正子さんは東京・上野の西洋料理店「ぽん多本家」、向田邦子さんは東京・日本橋の洋食屋「たいめいけん」、田辺聖子さんは神戸・三宮の洋食店「欧風料理もん」が行きつけの店でした。「ぽん多本家」の初代島田信二郎さんは西洋料理出身、店が「とんかつ屋」と呼ばれるのを嫌い、今もメニューはカツレツのまま。「たいめいけん」の初代茂出木心護(もでぎしんご)さんは凧好きのシャレ者。2代目が店に凧の博物館を設立…と、惹かれ合う店と作家の間柄にはどこか似ているところがあるよう?
 どの店も現在は創業時の主から代替わりしていますが、その心意気はそのまま。人間らしい店づきあいが昭和から続く繁盛店です。
上の写真/創業地の横浜にちなみ、背景に中国美人が描かれているシウマイの『崎陽軒』/裏には小槌のマークがある、かやくご飯が名物の大阪『大黒』/東京下町風の粋なあしらいは上野の老舗洋食店『ぽん多本家』/店のスケッチは水墨画家・熊谷敏雄による京都の欧風料理店『丸太町東洋亭』/豚の腹に店名を仕込んだ目黒の『とんき』。この愛嬌が昭和らしさ!/神戸の『欧風料理もん』のマッチは版画家・川西英がデザイン/型染作家・鳥居敬一郎作は東京・日本橋の『たいめいけん』/銀座の焼き鳥店『伊勢廣』は鳥を象形文字化したデザインを採用/客入りを期待して江戸の縁起文字で全面を埋めた『駒形どぜう』/湯島天神の男坂・女坂にちなみ、2色ぞろいと気風がいいのはすき焼の『江知勝』
※現在は提供していないマッチもあります

沖縄の焼き物、やちむんにキュン!
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白洲正子が通った
きつねうどんの『権兵衛』

 昭和2(1927)年に創業、同21年から現在の京都・祇園でそば屋を営む『権兵衛』。店の開く日は、通りの先までふんわりとおだしの香りがただよいます。それに誘われてつい暖簾をくぐってしまった人も多いはず。『権兵衛』には人を安心させる昭和の〝におい〟があるのです。
 自慢のおだしは、京都=薄味のイメージを覆す、くっきりと輪郭のある味わい。「1杯で満足してもらうためには、そば屋のだしはこのぐらい強くないと」と4代目、味舌輝明(ましたてるあき)さん。品書きにも奇をてらったものはなく、だからこそ一杯のどんぶりに勝負をかける潔い姿勢が、昭和が生んだ名店と呼ばれるゆえんです。おいしいものに貪欲な白洲正子さんが好んで通ったという話にも納得です。
写真/瀬戸焼の丼で提供されるきつねうどんには、甘く煮含めた小ぶりのお揚げが2枚。料理によっては輪島の漆器も使われる。箸は奈良杉の利休箸。手に触れるものへの配慮も、この店の美意識の表れ。
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権兵衛

京都府京都市東山区祇園町北側254 ☎075-561-3350
親子丼も絶品! こちらも白洲さんの好物だったそう。
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平松洋子さんが愛する
『チョウシ屋』のコロッケパン

 銀座3丁目の路地、いかにも昭和の肉屋といった店構え。こここそが、昼どきや夕方にはコロッケパンやメンチカツを求める人が並ぶ『チョウシ屋』。歌舞伎座に近いこともあり、役者にもファンが多いと聞きます。
 洋食店のコックだった当主の祖父が精肉店を始めた昭和2(1927)年からのコロッケは、「料理本に載るような基本のレシピ」とか。平松洋子さんが著書『サンドウィッチは銀座で』(文春文庫)でかぶりつくいたのも、このコロッケパンです。
 食パンかコッペパンのどちらかを選んだら、からしと特製ソースを塗って揚げたてのコロッケを挟むだけ。この、レタスの1枚も、キャベツのせん切りもない潔さが、昭和の名店の心意気を表しています。
写真/コロッケ1個を8枚切りの食パン(あるいはコッペパン)で挟んだコロッケパン。注文を受けてからつくるので、「ソース多めに」や「からし抜きで」といったリクエストも可能。包装紙には、家紋と牛、豚のイラストが。
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ちょうしや

東京都中央区銀座3-11-6 ☎03-3541-2982
親子で切り盛りする店は、内装も昭和のころのまま。お昼時には行列もできるが、少々待ってでも味わう価値あり! 揚げたては言わずもがな、だが、冷めたコロッケパンをオーブントースターやホットサンドメーカーであたため直しても美味。
撮影/石井宏明、小池紀行(パイルドライバー)、小寺浩之、小西康夫、ハリー中西

ああ!昭和の味!小津安二郎が愛した焼き鳥の「伊勢廣」

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文豪・文化人が愛した昭和の味(3)

 江戸時代や明治時代を語るように、すでに「昭和時代」と呼ばれるあのころ…。ていねいな暮らし、シンプルな暮らしが見直されている今、〝昭和の食〟も注目されています。決して「今はなき…」ではないけれど、懐かしくてあたたかい、そんな〝昭和の食〟は、文豪や文化人など、たくさんの食いしん坊たちによってにぎわい、書き残されました。〝昭和の食〟第3弾は、文化人たちが愛した味をご紹介します。
上の写真/東京・京橋のオフィス街。その裏路地にひっそりとたたずむ焼き鳥の『伊勢廣』。夕刻になって看板にあかりが点ると、待ちかねたように黒塗りの車が到着し、スーツ姿のビジネスマンや外国人客が店の中に吸い込まれていきます。小津安二郎が愛した店は、今も映画のワンシーンのような風景のなか、のれんを掲げます。
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小津安二郎がひいきにした
東京・京橋の焼き鳥『伊勢廣』

 高層ビルがそびえるオフィス街の谷間、中央通りの裏路地にある、まるで小津映画の舞台にでもなりそうな風情ある木造2階建て。それこそが焼き鳥屋の『伊勢廣(いせひろ)』です。
 大正10(1921)年、鶏肉の専門店としてスタート。昭和初期には、当時では珍しい焼き鳥屋を営み始めました。たった4席の小さな店でしたが、毎朝にわとりを丸ごとさばくため、品質と鮮度はどこにも負けない。しかも鶏肉以外の食材にもとことんこだわり、ねぎは千住のねぎ専門問屋から、しいたけやししとうは築地の料亭に卸す八百屋で、塩も自ら探した静岡の職人による塩を使用。すべての食材を鶏肉の水準に合わせた最高級のものに揃えたところ、たちまち評判を呼んですぐに4席では足りなくなりました。
 小津安二郎が『伊勢廣』に通ったのは昭和28(1953)年ごろ。好んだ席は、店の奥にあった畳の小上がりだったと当代は語ります。「昭和27年に嫁いできた母が小津先生とお会いしています。いつも静かに召し上がって、静かにお帰りになっていたようです」
 創業時から「焼鳥フル・コース」は変わりません。1本目は火の通りが早くて客を待たせずに出せるお通し代わりの笹身。上にのせたおろしたてのわさびの香りが鼻に抜けます。そしてレバー、砂肝、ねぎ巻き、団子、かわ、もも肉、合鴨、手羽と続きます。一番人気は団子です。串に刺せないおいしいすべての部位を、つなぎを使わずに少量の塩と麻の実を入れて、1本に旨味を凝縮しています。
 食材に関するこだわりは、よき時代の「ほぼ原形どおりです」と、当代は姿勢を正します。きびきび立ち働く店員と昭和の美味。小津安二郎が食したコースもそのまま。カウンターでその焼き鳥とお酒をやっている0うちに、常連に愛され続けている理由がわかるような気がします。
伊勢廣

伊勢廣 本店

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小津安二郎の鎌倉でのお気に入りは
『光泉』のいなりずしでした

 小津監督の好物は、北鎌倉にもありました。
「小津先生の印象は、大きくてこわいおじさんでした」と笑うのは、JR北鎌倉駅前『光泉(こうせん)』店主の高井洋子さん。女学生のころの思い出だそう。
 『光泉』のいなりずしは、甘みが控えめな油揚げと、まろやかな酸味の酢飯の組み合わせが品のよい印象。小津作品によく出演した俳優・笠智衆(りゅうちしゅう)も、ここのいなりずしが好物でした。
「もともと、小津先生のお母様がお好きで、先生がお求めくださるようになりました」(高井さん)
――森と昌子ちやん くる 光泉から稲荷すしをとつて麦酒をのむ――『全日記 小津安二郎』(フィルムアート社より)
 小津の日記のように、いなりずしでビールを飲めば、昭和がよみがえってくるに違いありません。
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光泉

神奈川県鎌倉市山ノ内501 ☎0467-22-1719
いなりずし、いなりずしとかんぴょう入りのり巻きとかっぱ巻きのセットの2種類の持ち帰りのみで営業する『光泉』。笹の葉模様の包み紙も昭和な気分。
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伊丹十三といえばラーメン…ではなく、
東京・日本橋『たいめいけん』のオムライス!

 西洋料理を日本人好みに仕立てた〝洋食〟。昭和が生んだこの料理の普及に努めたのが、昭和6(1931)年創業『たいめいけん』の初代、茂出木心護(もでぎしんご)氏です。
〝昔は洋食屋といえば軒や亭がつくもの。「けん」と名乗る以上は昔の洋食屋の心意気は守っていく〟という思いは、現在も1階で提供され続けているコールスローとボルシチの価格(なんと50円!)にも象徴されています。
 伊丹監督がひいきにしていたオムライスの中身は、創業当時からのシンプルなハムライス。卵3個と、たっぷりのバターを贅沢に使った王道の逸品です。伊丹映画の『タンポポ』で披露した半熟のオムレツをご飯にのせた斬新なオムライスは、監督が二代目当主の協力を得てつくりあげたもの。同店の人気メニューとなりました。
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たいめいけん

東京都中央区日本橋1-12-10 ☎03-3271-2463 https://www.taimeiken.co.jp/
気軽に〝昭和の洋食〟が食べられる1階、真っ白なテーブルクロスがかかったテーブルで洋食フルコースなどを楽しみたい2階と、フロアによって雰囲気もメニューも異なる『たいめいけん』。とはいえその料理は、どちらも〝正統派昭和の味〟を守る。1階の「タンポポオムライス(伊丹十三風)」を含め、オムライスは6種類。それぞれ食べ比べるのも楽しい。
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シウマイ弁当

中坊公平は横浜『崎陽軒』の
シウマイ弁当にニンマリ

――待ちかねたように好物のシューマイ弁当のフタをとり、ニンマリする。――「背負ったものを、切り落し」(『アンソロジー、お弁当』パルコ 所収」
 ひもをほどいて掛け紙とふたを外すと、独特の香りが立ちのぼる『崎陽軒(きようけん)』のシウマイ弁当(同店ではシューマイのことをシウマイと呼びます)。この香りをかぐだけで、昭和のあのころに戻ったかのようです。経木(きょうぎ)の折(おり)には、ぎっしり並んだシューマイとおかずと白いご飯。「そうそう、これこれ!」と、つい顔がほころびます。
 横浜出身でなくてもなぜか懐かしさを感じてしまう『崎陽軒』は、明治41(1908)年、駅構内でサイダーやミルク、餅などを販売したことから始まりました。大正4(1915)年に駅弁の製造販売を開始し、昭和3(1928)年には列車の中でも食べやすいひと口サイズで、冷めてもおいしいシウマイを開発。横浜名物をと、南京町(今の横浜中華街)の点心職人との試行錯誤の末につくり出したものでした。
 そして昭和29(1954)年、ついにシウマイをおかずにした弁当を発売します。焼き魚と玉子焼き、かまぼこという幕の内弁当の基本を踏襲し、シウマイや甘く煮たたけのこ、鶏の唐揚げなどを加えました。幕の内らしい俵形ご飯の上には、黒ごまと小梅がひとつ。この装いがまさに昭和の風情ですが、平成の現在も1日に約1万9000食を売るという、長年駅弁界日本一の座を守り続ける弁当なのです。
 冷めてから食べることを前提に開発されたシウマイは、豚肉と干帆立の貝柱が入った餡をごく薄い皮で包んだもの。ご飯は炊くのではなく、蒸気で蒸すことによって時間が経ってももっちり。そして駅弁としての工夫は料理だけではありません。今では珍しくなった経木の折もそのひとつ。水分をよく吸う板目(年輪)をふたに、水分を吸いすぎない目の粗い柾目(まさめ)は底部分に使うなど、とても800円の弁当の容器とは思えない完成度! アツアツのご飯やできたてのおかずを詰めることができるのも、経木の折詰めだからこそなのです。
 少しでもおいしく食べてもらうために、手間を惜しまず工夫を積み重ねる。お母さんがつくるお弁当のような優しさが、懐かしい昭和の味の基本なのかもしれません。
崎陽軒

崎陽軒 本社

神奈川県横浜市西区高島2-12-6 ☎0120-882-380 http://www.kiyoken.com/
「懐かしさを変えてはいけない」と、シウマイは90年ほど前の登場当時のレシピのまま。切り昆布や生姜、そして箸休めにするか食後のデザートとして食べるか迷うあんずまで、絶妙なラインナップ! 横浜の景色をブルーのシルエットに、中華街のシンボルでもあるドラゴンを真っ赤に描いたシュウマイ弁当の現在の掛け紙は4代目。青のひょうちゃん(醬油入れ)は、昭和30年に登場した初代で漫画家の横山隆一によるもの。ひょうちゃん誕生60周年の2015年には、赤いちゃんちゃんこを着た還暦バージョンも登場した。
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湯川秀樹が好んだのは
京都『丸太町東洋亭』のビーフカレー

 洋食店『丸太町東洋亭』の創業者・山本豊次郎は、明治時代に世界見物を体験したとか。それゆえ、この店を満たす〝舶来のにおい〟はすべて本物。大正7(1918)年の創業以来、料理は立派な石炭ストーブでつくられます。効率とは無縁のストーブ料理は、食べる側にも余裕があってこそ。ゆったりと流れる時間もこの店の味のうちです。
 さて、ここのカレーライス(ビーフカレー)のとりこになったのが、店に近い京都大学理学部に在籍していた湯川秀樹先生。野菜と果物が入ったルーは、裏ごしされてなめらかに。別鍋で煮込んだ牛肉とそのルーを合わせれてビーフカレーは完成。口にすれば、とても贅沢につくられたことがわかります。カレーが庶民の食べ物になる前に生まれたレシピは、驚きに満ちたおいしさです。
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丸太町東洋亭

京都府京都市上京区河原町通丸太町上ル東側桝屋町370 ☎075-231-7055
カレーライスは昼のみのメニュー。ライスの上にカレーがかかる従来のスタイルではなく、カレーは鉄鍋で温めたまま供される。この心配りも古くから続く店ならでは。
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早川良雄が「ゲイジュツの味」と書いた
なにわ名物『大黒』のかやくご飯

 戦後日本のグラフィックデザイン界を牽引したグラフィックデザイナー、早川良雄は食通としても知られる人物。そんな彼が著書『大阪の味』のなかで「見た目のきれいごと」にあふれた食べ物を嘆き、「人間の舌を小馬鹿にしない親切な食べもの」の味がすると、なにわ名物『大黒(だいこく)』のかやくご飯を賞しました。このエッセイを寄稿したのが昭和48(1973)年のこと。今ではこの店のような、正しい〝おふくろの味〟が食べられる店は貴重になってしまいました。
『大黒』の創業は明治35(1902)年。戦前は道頓堀川の大黒橋の筋にあったのでこの名がついたといいます。創業当時、道頓堀には芝居小屋が立ち並び、店は花街にあったため、客の多くは芸者や芸人。手短に食事を済ませられる、おかずとご飯が一緒になった「かやくご飯」が重宝がられました。『大黒』のかやくご飯の具は、油気を担う「薄上げ」(油揚げ)、香りの「ごぼう」、歯ごたえの「こんにゃく」と3種類のみ。芸に携わる人の歯を汚さないために具を細かく刻むという配慮も、すべて初代が考えたもの。簡素かつ薄味ながら、だしの奥に味わいが重なり、飽きがきません。
 かやくご飯目当てに、地元のみならず遠方から人が通うのだから、「ほかにも専門店ができないのが不思議ですね」と2代目の木田節子さんにうかがうと、「うちの味はほかでは出せませんよ。だって、こんな大きな鉄釜(3升炊き)で炊いている店はどこにもないはずです。それに、鉄釜に長年のだしの味が染み付いていますもん」ときっぱり。加えて、まねのできない味の理由は、米と具、だしの配合の「勘どころ」だと言います。
「しゃもじの当たり具合でわかります。お米の乾燥具合も季節によって変わりますからね。今日はだしが多いかな、と思ったらそこで引いたり、逆に足したり。うちは具のかさ加減もすべて目分量で、それは昔からの測る道具を使うからなんですよ」
 いつ来ても変わらないと言ってもらうために、そのつど丹精して米を炊く。単純な作業のなかから生まれるおいしさ、その尊さを嚙みしめたくて、昭和の文豪・文人たちも、現代の私たちも、この店に通うのでしょう。
上の写真/かやく御飯(中サイズ、漬け物付き)、白みそ汁(豆腐)、なすの丸煮、南京の煮付に、ぬた。汁ものはほかに赤みそがあり、冬季にはかす汁が加わる。
大黒

大黒

大阪府大阪市中央区道頓堀2-2-7 ☎06-6211-1101
店内には8人掛けと6人掛けの長テーブルだけ。みなで肩を寄せ合いながら、熱々のご飯をかきこむ風景は温かくもあり、懐かしい。檀一雄や池波正太郎もこの店がお気に入りだった。かやくご飯は持ち帰り可能。
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荻昌弘が絶賛したのは
上野『ぽん多本家』のロースカツレツ

 重厚な木のドアを開けると、ジャーっというカツレツを揚げる音と、トントントンと小気味よくキャベツを刻む音だけが響いています。店内に漂うほどよい緊張感に、昭和の名店に来たことを実感するのです。
 ここ『ぽん多本店』のロースカツレツは、驚くほど淡く上品なきつね色。「何もつけないで召し上がる方も多いですよ」という4代目主人の島田良彦さんの言葉に従い、ソースなしで口に運ぶと、肉ははっとするほどやわらかく、濃厚な旨みが広がります。
 明治38(1905)年創業、東京・上野の老舗洋食店『ぽん多』のロースカツレツに惚れ込んだ文化人は多く、食通の荻昌弘も絶賛、噺家・柳家小さんなども常連でした。ロース肉の脂身を徹底的に落とし、肉の〝芯〟のみを使用。切り落とした脂身からつくる自家製ラードで、低温から徐々に温度を高めてじっくり揚げていきます。初代が考案したこの調理法と味を頑固に守り、4代目は今日も揚げ鍋の前に立ち続けます。
――とんかつはヒレよりも、ロースを選ぶ。豚は、脂(あぶら)であって、はじめてウマい。――荻昌弘『味で勝負』毎日新聞社より
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ぽん多本家

東京都台東区上野3-23-3 ☎03-3831-2351 
ロースカツレツは、ひと口で食べやすいよう12等分し、繊細なキャベツのせん切りを添えた美しいひと皿。1階はカウンター4席、2階はテーブル席、3階には個室が。
撮影/石井宏明、小池紀行(パイルドライバー)、小寺浩之、小西康夫、篠原宏明、ハリー中西

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