2016年2月5日金曜日

日本人の心のDNAはどこから

少しづつ、その行動は我々の世代では理解できないような形で目の前や
ニュースなどのメディアの中には出てきてはいるが、東北や神戸の震災など、
また他の天災などにあった時の日本人の行動が、他の国に比べるとその秩序
だった動きと抑制的な行動は外国のメディアで報道されることが多いようだ。
またそれは私自身の日本人としてのDNAでもあるのか、最近そんな思いが
よく頭をかすめていく。
少し分厚いが、和辻哲郎氏の「日本倫理思想史」にそのヒントのようなものを
感じた。これは古代から近世明治時代までの日本人の倫理観の流れをまとめた
物であり、この中のいくつかの文が中々に面白く、ここではそのいくつかを
見ることで、自分なりの考えに参考としたい。

1、まずは聖徳太子の憲法にその源があるか
聖徳太子の憲法は、日本書紀が推古12年の時に、皇太子の憲法17条として
記録しているものである。、、、、、、
この憲法は、憲法と呼ばれているにかかわらず、形式の上で道徳的訓戒に
近いものである。
で法学者のうちにはこれを国法と認めない人が多かった。しかし、法律と道徳が
まだ分化していない時代の憲法に、この分化が顕著に行われた後の区別を
適用するのは、少し無理であろう。大化以後の律令にも相当顕著に道徳的色彩は
現われており、律令の道の実現の手段と考える態度は変わっていない。
もしここに法律と道徳との区別に近いものを求めるとすれば、それは、修身、斎家、
治国、平天下という段階の区別ではないであろうか。太子の憲法は、修身斎家に
関する人の道には触れずに、ただ治国平天下に関する人の道のみを
説いているのである。
その意味で、私の道を説かず、ただ公の道のみを説いていると言えるかもしれない。
そこで、憲法は、国家のことに関する限りの人の道を説いたものである、と言って
よいであろう。したがって、それは、官吏に対して、官吏としての道徳的な心がけを
説いたものである。その関心するところは公共的生活であって、私的生活ではない。
その説くところの心がけもおのずから国家の倫理的意義を説くことになる。
まず第一に力説せられているのは、共同体の原理としての「和」である。
人倫的合一を実現し、共同体を真に共同体として形成する事、それが国家の
存在理由なのである。
この思想は第1条のみではない。憲法全体を通じて鳴り響いているといってよい
であろう。
君臣上下の和、民衆の和、相互関係における和などは、様々の異なった形で繰り
返して説かれている。が特にここに注意すべき事は、ここに説かれているのが、
「和」であって、単なる柔順ではないと言うことである。事を論ぜずにただついて
来いというのではなく事を論じて事理を通じしめるためには、議論そのものが
諧和の気分の中で行われなくてはならない、と言うのである。従って盛んに事を
論じて事理を通ぜしめることこそ、最も望ましい事なのである。第十条は特に
そういう議論の場を眼中に置いたものであろう。

この17条、いずれも今の自分たちの行動、考えの基本として有効であり、日々の
基本としても重要と思うが。

2.さらにそれは室町時代へとつながる
建武中興の事業は短期間で終わったが、その与えた思想的な影響は非常に大きかった。
室町時代の性格が鎌倉時代のそれと異なったものになってきたのは主としてそれに
基づくであろう。
建武中興が表現しているのは、武士の勃興以前の時代の精神の復活である。
神話伝説時代には、天皇尊崇や清明心の道徳が著しかった。ついで国家の法制が
整備していく時代には、人倫的国家の理想が強く燃え上がった。これらの倫理思想
は伝統として鎌倉時代にも生き続けているが、しかし鎌倉時代の倫理思想の主導音は、
この時代を作った武士たちの体験から生い出た武士の習いであり、またそれを地盤
として深く自覚させられた慈悲の道徳である。しかるに建武中興は、この主導音を
押えて、それ以前の伝統的なものを強く響かせ始めたのである。だからこの後、
武家の執権が再びはじまってからも、幕府の所在が鎌倉から京都に移ったのみ
ではない。文化の中心が武家的なものから公家的なものに移ったのである。
この点のみに着目していえば、室町時代は日本のルネッサンスの時代である
ということが出来る。そうしてそのルネッサンスを開始したのは、建武中興の
事業であった。
神皇正統記と太平記とは、この事業を記念する大きなモニュメントなのである。
神皇正統記は、建武中興に関与した優れた政治家北畠親房の著作である。
この本では、神話的伝統を基盤として日本は神国である、と結論付けた。
また、三種の神器神皇正統記が表現しているのは、統治の道としての正直、慈悲、知恵
であり、それは神皇正統のしるしとしての皇位の神聖な源を示すのみではなく、
さらに天皇の統治の原理として人倫的国家の理想をも示している。
これには、伊勢神道がかかわってくる。伊勢神道は清明心の伝統を受けた「正直」
の概念をもって天照大神の協議を作り上げた。皇位の神話的伝統を表現する三種
の神器に、人倫的国家の理想を結び付け、それにより武家執権のはじまる以前の
日本の統治の伝統を見出したのである。
正直、慈悲、智慧を三つにして一なる根本原理を、三種の神器の意義として力説し、
我が国の統治の原理として掲げたいる。それは「およそ政道ということは、、、、、
正直慈悲を本として決断の力あるべきなり」という文章でもわかる。皇室の
神話的伝統と律令国家における人倫的国家の理想とを、一つに合わせて力説した。

多くの文化関連メンバーからは「日本文化の基本は室町時代にできた」と聞く。
一般庶民までの浸透の程度はわからないが、倫理面でも同じようなことが
言えるのかもしれない。
それについては以下のような文もある。

世阿弥にとって見物は一般の民衆をであった。「衆人の愛敬を以て一座建立の
壽福とする」という父観阿弥の態度は、そのまま猿楽の能の態度たるべきである
と考えらていた。観阿弥は「いかなる田舎山里の片ほとりにても、その心を受けて
所の風儀を一大事にかけて、芸をせし」人である。それを世阿弥は心の底から
讃歎している。猿楽の能がこのような覚悟で演じられていたのであれば、
本質的に民衆の芸術であったのだ。
それにより民衆の意識を表現する謡曲が上層の知識階級よりも、はるかに濃厚に
天皇尊崇や人倫的国家の理想などの伝統を活かしているのである。
たとえば、「弓八幡」(八幡神宮の縁起)「高砂」「養老」「「御裳裾」
(伊勢神宮の御鎮座縁起)などがある。
これらの諸作を通じて、一君万民の一つの日本国が世阿弥の強い情熱の的であったこと
を察し得ると思う。それは舞台芸術に反映せられた当時の民衆の意識なのであり、
したがって、天皇尊崇や正直慈悲の理想についての民衆的自覚に他ならないのである。
民衆は舞台の上で伊勢神宮を見、神の道を聞き、そうして天孫降臨以来の長久な
伝統に親しんだ。伊勢神宮と一般民衆との関係が広くいきわたったことは、
この時代の特徴だといってよい。
室町時代盛期における古代精神復活の動きは、謡曲や演能の力によって広く民衆の
意識に染み込んで行ったといってもよい。そういう古代精神の力は、上層の支配階級
や知識階級において新鮮さを失った後にも、民衆の意識にとってはなお新鮮であった。

3.やはり我々の心には儒学の何かが生きているのか
徳川家康による儒学の奨励
第一この問題は新しく支配階級としておのれを固定しようとしている武士たちの社会の
精神的指導権に関している。儒教は久しく摂取されていたが、しかしまだ指導権を
握ってはいなかった。武士が初めて政権を握ったころに精神的指導の権威を担って
いたのは、明らかに仏教である。それは伝統的な教権を維持していたのみならず、
さらに武士の勃興に呼応して新しい鎌倉仏教を創りだすほどに活力に充ちていた。
しかし、家康は仏教の持っていた精神的指導権を儒教の方に移したのである。
第二に、この変革は儒教がみずから武士に働きかけ、あるいは仏教と戦って
引き起こしたのではなく、逆に武士の方から儒教に働きかけ、あるいは仏教と
戦って引き起こしたのである。、、、
すなわち新興の武士たちは武力によって仏教の精神的指導権を崩壊させたのである。
家康は仏教の復興がこれからは障害になると考え、儒教を以て武士階級の精神的指導を
企てた。その具体的な取り組みを示すのが、本佐録である。
本佐録は儒道の大意を和文によって通俗的に説いたものであるが、しかしその説き方
には、時代を反映するらしい顕著な特色がある。著者は、日本が上代の2千年の間、
平和に治まっていたのに反し、何故近年に至って興亡が激しいかを問題とし、
唐人に逢ってその説明を求めた。唐人は答えて言った、その理は時と所によって
変わるものではない、天道に従うものは長久であり、天道に逆らう者は亡びると。
著者はここで天道の理をさとり、堯舜の道、五倫の教えに帰依した。日本では
神武帝が堯舜の道を守って国を治めて以来、この道の伝統の続く限り、天下は
平和に治まっていたのであった。然るにこの道は、仏教によって妨げられ、
ついで天道を知らない儒者によって妨げられた。これが天下の乱れた原因である。
天下を上代の如く治めるには、天道を知ることが何よりも肝要である。
これが著者の得たさとりでもあった。そして天道の形而上学的解決を神道に
結び付けたのである。
「日本のあるじ天照大神は、一切の奢移を斥けて天下の万民にあわれみをかけた。
神武天皇はこのおきてを守って道を行ったが故に、皇統は絶えることなく栄えている。
この天照大神のおきてが神道なのであって、「正しきをもはらとして、万民を
あわれむ」ことを極意とする。

江戸時代には、中江藤樹、熊沢番山、らがいる。この中で番山は、「皇室と文化の
絆との結合を説き、室町時代の教養の基本が生きている。日本の第1期の天皇
尊崇の伝統も、第2期の人倫的理想の伝統も、すべてが生きている」と言っている。
他にも、山鹿素行、新井白石 讀史輿論(愚管抄、神皇正統記とともに有名)
荻生徂徠、賀茂真淵(国意考」「歌意考」「語意考」など)、本居宣長(「古事記伝」
天皇尊崇の感情は千数百年をへて特殊な形態となっていた。宣長はそれを天皇尊崇の
立場の源流への遡行をもって、歴史的認識を古事記の研究から明確にした)
等がその論を争っていた。

4.町人道徳と町人哲学は如何に
士道の考えが優勢になったといっても、それは主として知識層の間でのことであって、
広範な層に染み込んでいる献身の道徳の伝統を打破し去ることはできなかった。
この伝統は義経記、曽我物語において活発に生き続けさらに舞本や浄瑠璃などを通じて
一般の民衆にも染み込んで行った。そうしてそれらはそのままに江戸時代に流れ込み
武士の間にも、民衆の間にも、きわめて優勢な思想として残っていたのである。
だから献身の道徳としての武士の道が、江戸時代初期における常識となっていた
ことは、否定しがたい事実である。
家康は道義の勝利として理解させるために、儒教の君子道徳を鼓吹して、武士を士君子
に転じようと努めた。士農工商の身分の別は、そういす道徳的な支柱の上に
立てられたのである。
日本の17世紀は町人の政治的な屈服を以て始まっているのである。しかしそれにも
関わらず、17世紀後半に華々しく花を開いた元禄の文化は、主として町人の
創りだしたものであった。政治以外において、武士階級の功績に属するものは
ほとんどない。
家康の文化政策によって振興された儒学でさえ、主として民間で発達したものである。
1つの時代の意識形態は支配階級によって作り出される、という命題は、ここに
通用しない。
享保年に書かれた「町人考見録」がある。
ここには、「町人心、商人心」という概念が形成されている。すなわち、おのれ
を抑制し、家職家業に忠実である態度が目指しているのは、「家の富、家の幸福」
である。
町人はいやしい身分とされるが、その代わり天下や国のことを心配せずともよい。
ただ家のことだけに意を注げばよいのである。
石田梅厳のその1人であり、倹約は仁の本であると説き、その本として「正直」
が人の道と説いている。
「心を儘にして性を知り、性を知れば点を知る。天を知れば事理おのずから明白なり」
というのが、彼の独特の心学修養のやり方であった。特に出発点として「心を知る」
ことを重要視し、日常の生きた心理を把握することに努めたのは、彼のいちじるしい
特徴であるとともに、やがて彼の流派の特色ともなった。彼においては心は、
物と対立した別な領域なのではない。心は物の主体的な側面であり、物は心の
客観的な側面である。志向されるものなくして心はなく、志向する働きなくして
物はない。
「形が直に心なり」。
ここに生きた心理の把握あるということ、またそういう傾向が心学の名の由来
であることを、我々は忘れてはならない。

千数百年の心の流れ、これを理解することは表面的な流れに惑わされる現代では
なお、一層必要と思われるのだが、中々にいかないようである。

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