2016年1月24日日曜日

宮本常一「塩の道」より思う

「日本人の暮らしの変化は?」
ここ暫らく少し先の話をしてきました。未来の社会を技術的な視点から眺めた
場合や3Dプリンタの持つ社会変革への力がどこまで及ぶかの視点などでした。
また、これらを少し深く見るにしろ、少し昔のことも多いに気になる点です。
和辻哲郎、白洲正子、司馬遼太郎、柳田國男、そして宮本常一、芳賀日出男から
受ける様々な指摘は中々に面白い。ここでは、宮本常一氏の「塩の道」より、我々の
生活視点からのアプローチについて概観したい。宮本氏が日本各地を歩き、地域の
暮らしやその生業をまとめたものが「塩の道」であるが、ここからは日本人の
生活文化を垣間見ることが出来る。日本人としての息づかいが、時の流れに沿って、
聞こえてくるようだ。
塩、そこから辿る暮らしの変化
「塩の道」の中で、大抵の食べ物は霊があり、神として祀られることがあるが、
塩には霊がない。エネルギーを宿す食べ物にはその中に霊が宿ると考えられる一方、
塩そのものはエネルギーを産まないという特質がある、と言う。しかし塩がなければ
すべての動物はその活動を止めてしまう、という作用を持っている。このことが
塩の研究があまりなされて来なかった原因だと言うのである。
日本では岩塩はほとんど取れないため、多くは海岸で生産され、平安時代までは、
朝顔形にひらいた素朴な土器を地面に立てて周囲を火で焚いて海水から塩を抽出
していた。この作業工程で、土器のひびに海水が浸透しすぐに壊れていまい土器
の存在がなかなか確認できなかった。
塩作りが、揚浜、入浜塩田、塩浜へと発展し、大量に生産できるようになると
ともに、使われる器は、土器から、石混じりの粘土へ、そして鉄、石へと変化
していく。これが鉄器に代わるまで人は相当苦労して塩を作っただろうと推測できる。
この近江も、名古屋の知多半島やその周辺で取れた塩が運ばれてきたという話を
別な先生からも聞いたことがある。
更には、山中に住む人達がどのようにして塩を手に入れていたかというと、まず
木を切り、その木にその家固有の印をつけて川に流す。川の流れにそって海岸
まで行き、その木から塩を焼き出していた。その内に、海岸に住むひととの
分業を進め、山から多めの木を流し、海岸の住民がそれで塩を焼き、一部を山の
住民に送り返すようになった。その後、薪を売って塩を買う、というサイクルが
出来上がったという。
近江で生産された優れた鉄が優れた石ノミを生み出し、優れた石工と共に
日本各地に鉄の文化を伝播させていく。その鉄で花崗岩を刻むという石工が生まれ、
鎌倉時代の石工は近江地方に分布するのはこうした経緯があったからである。
なお、湖西は近世から石や石造りで有名であったという。
例えば、木地屋というのはロクロを回してお椀などをつくるが、この木地屋の歴史を
たどると必ず滋賀県の永源寺町の筒井と君ケ畑というところに結びつく。
この地方で算出される鉄でないと木地屋のお椀が作れなかった、というほど
良い鉄を産出したからである。
そして、近江北部などで産出された鉄釜は塩の生産を飛躍的に増加させる。
これにより、若狭湾沿岸には、鉄を使った古い揚浜が分布している。
しかし、鉄鍋では鉄の成分が流れ出るため、白い塩は出来なかった。そのため、
石鍋の製造も盛んになる。
塩の生産は、鉄と言う力を得て、大きな流通の流れを作り出す。
塩を売る人たちの登場であり、更には、瀬戸内海の人たちは、石釜で塩を作る
ようになり、ここで生産される塩は、鉄釜からつくられる錆色のついたもの
より有利であった。
これにより、鉄の釜で作られたいた塩は、瀬戸内の塩に圧倒され、塩を売って
歩いていた人たちは違う商売を探すことになる。山の人は灰を担いで下りて、
塩と交換することに商売を変えていく。
塩の生産の拡大により、流通範囲は次第に広がり、規模も大きくなり、その運ぶ
手段として、牛が利用されるようになる。
なぜ馬ではなく、牛が適切な運搬手段かというと、牛は馬と違って長距離の
運搬作業に適していて、野宿ができ、細い道が歩け、道草を食べてくれるので
飼葉代がいらない。何と言っても長距離が歩け、1人で7~8頭をひくことが
出来る、などの様々な利点がある。
 信濃の塩の道の地図を見ると、鉄道や舗装された道路の無いこの時代でも、
多くの人がこのようにして、生活のため、自分の商売のため、これらの道を
通っていた。多分、このような道が日本各地の様々な物流の元として開拓されていた。
北上山中でとれる鉄を南部牛につけて関東平野にもって行き、東北の人たちは、
鉄と一緒に牛も売り、身軽になって戻っていった、道もそうであったのだろう。
愛知のほうまで分布していた南部牛は、東北の文化含め、基本的生産力の及ぼす
範囲が、実は中部地方西部にまでわたっていたことを示している。
塩の道のなかには、人の背で運ぶ以外に方法がない道が少なからずあり、その
場合は塩だけを運んだのでは儲けがすくないので、塩魚を運んだ。
山中の人たちは、塩イワシを買ったら、1匹を4日ぐらいに分けて食べたそうで、
また、ニガリのある悪い塩を買って、いろいろな方法でニガリを抽出して、豆腐
をつくったという。そこには合理的で決めの細かい生活があった。 
「塩の道」は、宮本氏が日本各地で聞き知った一般の人々の伝承や生活習慣などから
解きほぐしたものであり、われわれの目に見えないところで大きな生産と文化の波が、
様々な形で揺れ動き、その表層に、記録に残っている今日の歴史がある事を
伝えている。
さらに、この本を読みつつ、芳賀日出男氏の「日本の民俗」を読むと、そこにある
多くの写真が、「塩の道」の言葉とあわせ、強く私に迫ってくる。例えば、この中の
「暮らしと生業」の運ぶと言う一章のモノクロ写真はまさに、「運ぶ生活」を
活写している。あらためて我々日本人の生活の深さに感じいる。


「日本人と食べ物の変化は?」
塩の道「日本人と食べもの」より
今日われわれは、塩に関して無関心になっている。
長い歴史のなかで人がどのようにして道を開き、そしてそれが、すべてにわたって
実は海につながる道であったということをこの本から強く感じた。
更にそれは、縄文時代にまで遡る歴史であり、現在に生活でもなお、その延長線上
にあるのだといって過言でない。この幾層にも積み上げられた日本人の生活文化の
姿が垣間見られる。
日本列島では、過去二千年の間に人口が漸増している、という。
大きな変動もなく、徐々に増えているのは世界でも類をみない地域なのだそうだ。
宮本氏はその理由をいくつか挙げている。
異民族が大挙して侵攻してくることがなく、武力による侵略をほとんど受けなかった。

内乱では、戦争をするものと耕作するものが分かれていた。ゲリラ戦がなかった
からとも言う。
農村社会と武家社会とは別々の世界であり、鎌倉時代からの武家の存在がなかった
更には、享保の飢饉以来、東日本では産児制限により人口は減少ぎみであったの
に対し、西日本でサツマイモを作ったところでは、2倍、3倍と増えている。
農耕の進化とともに、木の実の採取も管理されていた。
岐阜県と福井県の境にある穴馬という村の例がある。
嫁に行くときトチの木をもってくのだそうで、トチの木をもつことによって飢饉
から逃れられることができた。このように実にきめこまかに、食用に供しうる
ものすべてを抱え込んで生活を立てている。
こまかな食糧確保の知恵であり、同じようなことは海でもあった。
漁師ではタコの取れる穴の権利をもたせたりという、娘を経由した世襲制度
を紹介、母系的な名残であると指摘している。
人口の安定化のための智恵が様々な形で存在した。
食物については、古事記、日本書紀、風土記などに記載されている食用作物は
かなり豊富であり、またそれらの外来の物を上手く広めている。
イネ、ムギ、アワ、キビ、ソバ、ダイズ、アズキ、ヒエ、サトイモ、ウリ、
ダイコン、などの名前が出ている。
更に、時代が進むとサツマイモ、トウモロコシ、カボチャ、ジャガイモなど
今の我々が食用しているものがスペインやポルトガルの宣教師たちを経て、
国中に広まっている。九州から四国、中国へと民衆が中心となり、広めている。
特に、トウモロコシなどは宮本氏が歩いた全国各地の山間の村々で作られていた
と言う。サツマイモが飢饉を救ったと言う話は多いが、トウモロコシも
人口安定には大きな力となった、と言う。
また、稲はどこから来たか、という問に、米の豊作を祈ったのが始まりである神社
の建物は高床式であり、それは南方から朝鮮半島を伝って日本にやってきたと
主張している。竪穴式住居に暮らしていた縄文人は土蜘蛛と呼ばれ、弥生人が
稲作をもたらしたともいう。神殿に土間は一つもないのは米作りと神社が一体
となって南方から伝わった証であるともいう。
さらに、ソバについての記述では、いまから4000年くらい前に、北海道では
ソバをつくっていた。それは、シベリアから海を越えて樺太、北海道へと渡ってきた
と言う。アワも同様にイネよりも大分昔から北で栽培されていた。それはイネの新嘗
よりもアワの祭があったという。これのことから、農耕は北で早く発達したの
ではないだろうか、また、「続日本記」の元正天皇の霊亀2年(716)の冬に
蝦夷が馬千頭を献上したという記述があり、北では農耕や畜産が畿内など
よりも早く始まったと言う。
北海道にはわれわれが考えているよりはるかに充実した生活があった。
魚肉の食べ方で、山の中で魚を食べるために塩魚にする方法と、酢で保存する
という方法があった。そこで米を炊いて米に塩を混ぜ、米の間に魚を挟んで
桶などに入れて米と魚を重ねていく。そうすると、魚肉と米が発行して鮨になる。
これが鮨の原型であり鯖や鯵が多く使われ、その後鱒やあゆなども利用された。
現代の握り寿司は江戸で発達したもので、今でも関西では押しずしである。
これは熟れ鮨の名残である。熟れ鮨の入れ物は当初壺であったかもしれないが、
600年ほど前にタガの技術が中国から日本に入り、杉と竹を産出する関西地方
で樽を作る技術が定着した。大阪を中心に酒を樽に入れて作る、それを江戸に送る、
という生産と流通のしくみが展開された。江戸では送られてきた樽で漬物を
作るということが行われた。野田の醤油はその一つであった。
江戸時代を初め、各地は他の国とは関係ない形で領民の生活を成り立たせていた
のであろうから、当然藩同士の助け合いはなかった。このため、各々の藩は常に
飢饉に備え、節約に努めた、自給のための工夫をしていた。
獣肉をほとんど食べなかったので、魚が中心であり、この魚を山の中でも食べれる
様な工夫があり、先ほどのような発酵技術やお鮨などが生れた。
それには、味噌汁などもあった。
野菜は普段、ごっちゃ煮、雑炊、煮込みなどで食べたが、ハレの日と日常では
差があった。 このように、如何にすれば手元にある素材を栄養にし、また美味しい
ものにしていくという、民衆の智慧があった。
これらの仮説が正しいかどうかは分らないが、数千年に渡って暮らしてきた
私たちの祖先が間違いなくいること、そしてわたしたちの文化の底に流れて
いるものは、間違いなく祖先によって養われてきたものである。
この本からは、遠い祖先の生活の延長の先に現在の我々がいる。それを
強く感じぜずにいられない。


「暮らしの形と美について」
「日本人は独自な美をわれわれの生活の中から見つけきておりますが、
それは実は生活の立て方の中にあるのだと言ってよいのではないかと思います。
生活を立てるというのは、どういうことだとなのだろうかと言うと、
自分からの周囲にある環境に対して、どう対応していったか。また、対決して
いったか。さらにはそれを思案と行動のうえで、どのようにとらえていったか。
つまり自然や環境のかかわりあいのしかたの中に生まれ出てきたものが、
われわれにとっての生活のためのデザインではないだろうかと、
こう考えております。」
と言っている。
我々の周囲を見渡せば、確かに日本人は独自な美を生活の中に見つけてきた。
環境との関わりによって、デザインが、文化に関わる広い意味でのデサインとして
生れてきた。
「雑草が茂るということが、日本の文化というものを決定していたのではない
と思っています。」という指摘がある。
その一つが鍬の種類が多様である事からわかる。
牛や馬を使わずに鍬で田圃の稲の刈り入れや雑草をとっていた。多くの田圃が極めて
小さくそれを丹念に耕し作物を収穫していく。その地道さと自然への愛着が生活文化の
基本となっている。いま山の背に張り付くように開拓整備された、いわゆる棚田がその
象徴かもしれない。
さらに、彼は、
日本の鋸というのは、鎌倉時代へ入ると外へ向いていた刃が内側へ向いて、手前へ引く
ようになりはじめる。日本人の性格というものをみていく場合に、たいへん大事な一つ
の基準になるのではないかと思っている。
日本人はけっして攻撃的ではないのです。というのは、じつは草との戦いからそれが生
まれてきたのではなかったのか。」と推測する。
また、同様に、家の造り方から数学的な才能をも培ったと言う。
日本の家はほとんどがマツ、スギ、ヒノキ、クリ、ケヤキなどが建築資材として
使われている。そしてこれらの多くが針葉樹であり、真っ直ぐに長く伸びる。
これらの素材から長い気を使って家を建てる文化を作り上げた。長い直線的な構造の
建物となっていった。そのことが直線的な文化や精神形成、更には数学的な才能向上に
関係していった、という。直裁簡明の行動につながっている。
畳の発明と藁の利用
稲作からは藁が生まれ、藁の利用が重要な文化となっていく。
平安時代の家の床は板の間がほとんであった。それにござが敷かれ、
やがて畳が出てくる。これにより日本の生活の基本的なパターンが
できあがった。さらに藁の利用が広がっていく。
藁細工が様々な形で行われた。
・縄をなう
・綱を作る
・蓆を編む
・草履や草鞋を作る
たとえば草鞋は、5人家族だと年間500足必要であり、冬の仕事、
家族全体が取り組むこの仕事により日本人が器用になったのではないか。
またこの藁もそうだが、ほかにも糸を紡いで機を織ることは、
軟文化の代表的なものと言っている。
軟文化とは、宮本氏の言葉だが、この文化の特徴は、竹細工もそうだが、
ほとんどが刃物を使わないことであり、刃物1つで様々な細工が出来る
ことでもある。このような文化が生活の底辺まで幅広く広がっていく
ことで育てられた柔軟な文化は、国民性にも現れている、という。
生活を守る強さをもつ美
近江から西のほうでは、スギが少なく先ほどのような建築資材として使う
ことが難しかったという。その代わりが松だそうだが、その扱いが少し
面倒であった。松の節を取り除くために縦引きの鋸が出来、虫の予防の
ために紅殻を塗っていた。
例えば、司馬遼太郎の「街道をゆく」でも紹介されている。
「北小松の家々の軒は低く、紅殻格子が古び、厠の扉までが紅殻が塗られて、
その赤は須田国太郎の色調のようであった。それが粉雪によく映えて
こういう漁村がであったならばどんなに懐かしいだろうと思った。
、、、、私の足元に、溝がある。水がわずかに流れている。
村の中のこの水は堅牢に石囲いされていて、おそらく何百年経つに
相違ないほどに石の面が磨耗していた。石垣や石積みの上手さは、
湖西の特徴の1つである。山の水がわずかな距離を走って湖に落ちる。
その水走りの傾斜面に田畑が広がっているのだが、ところがこの付近
の川は眼に見えない。この村の中の溝を除いては、皆暗渠になっている
のである。この地方の言葉では、この田園の暗渠をショウズヌキという。」
このようにして、我々の生活をその場に合わせ、さらにその生活を豊かに
して行くために、一つ一つの工夫がされ、その中で新しいデザインが
活かされて来た。

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