「葛飾北斎の凄さ!」
北斎の浮世絵にであったのは、かなりの昔であった。
長野の小諸までも見に行った。
暫くは、展示会があれば、行くことが多かった。
最近、葛飾北斎をもっと知る事が、浮世絵の世界の見直しと思うと
同時に、90歳程まで、徹底した自身の作品追求の姿は、
自身に対して大甘な自分にとっても、大いに学ぶべき事が多い。
・その信条と気概
己六歳より、、、、、八十六歳にしては、益々進み、九十歳にして
その奥義を極め、百歳にしてまさに神妙ならぬ人なり。
この絵に対する執念、追求心、そしてその傲慢さは、素晴らしい。
例えば、
人物を描くには、骨格を知らねば真実とはなり得ない、と言うことで、
接骨家名倉弥次郎に入門した。
絵画には、ヨーロッパを中心に、色々な流派の、色々な
題材のモノが多数ある。
昔、元西洋近代美術館館長の高階さんから光の三原則を
基本とする印象派の話を聴き、西洋絵画の奥深さを知った。
浮世絵は、私にとって、
それとは、一線を画するものだ。
もとは、今の人気雑誌の類であったのだろう??
人気役者、江戸の風物詩などを大衆?に広く見せるためであったのだから、
その実力は察しがつく。
しかし、北斎、歌麿、チョット違和感のある写楽などの作品を見ていると、
日本土壌でしか育たない細やかさとイマージュを高める世界観があると思った。
有名な富嶽三十六景や潮干狩図の作品に多様されている遠近感を存分に使った
シンプルな構成と見る人にイマージュを沸かすテーマの設定は、他の絵画の比
ではない。
また、基本は、版画を何枚も重ね絵とした多層、多色のもであり、厳密には、
その出来は、一枚、一枚違うのである。
この多様的な出来が、個人的には好きである。
今流では、大量生産の江戸時版だろうが、実は、個別生産型なのである。
浮世絵に惹かれるのは、昔、まだ、モノクロ全盛時に、自身で出向いて撮った
写真の現像から作品作りまで、やっていたことが大きな影響を持っていると思う。
浮世絵を見ていると、流石と思うものの多くは、そのフレーム切り出しの上手さ。
シンプルな中にも、情景、例えば、滝の音、雨脚の速さ、小舟の動きなどが
見る人各様に迫って来る様ではないか……
そして、好きなのが、肉筆画の凄さである。「潮干狩図」に見られる透視画法、
等の和漢洋の表現方法や技法の混然一体の作品や晩年の「肉筆画帖」にある様な
その精密な描き方は、北斎にして、画狂老人と言わしめた執念の凄さにある。
この点、浮世絵とは違いがあるが、伊藤若冲の超リアリティは、同次元で、
驚嘆に値する。リアリティを徹底追求するためなのか??その表現技術は、
誰も真似の出来ない領域かもしれない。
西洋や中国などの他国にはない、美意識、文化的土壌である。
写真は、光の加減を撮影対象と自身のイマージュに、如何に合わすのか、
に自身の才能を発揮し、
現像液の持つ粒子を自身の想いに合わして、作り上げていく事が、基本となる。
そこに、表現方法の多様性が出て来る。
土門拳さんや木村伊兵衛さんの作品を見ているとそれを強く感じる。
写実性と言う点では、少し違うのでは?との意見もあろうが、
肉筆画などを見ていると、同根にある様な気もする。
チョット、素人的発想かも。
浮世絵には、全面的とは言えないが、それがあり、出来るのである。
おなじ、原画であっても、年代を経て復刻された作品が、以前の
ものと違うなー、と感じた方もおられるはず。
浮世絵理解のベースには、日本人としての、共通項がある。
これを日本文化、その美意識の発露と捉えてもよいはず。
・個人的に興味ある作品
以下の作品は、錦絵として、描かれているが、「対象物が持つ
本質をあらゆる角度から捉えようとしている」視点の違いが
広重の東海道53次と本質的に違うのでは、と思う。
1)富嶽三十六景
富士山を主題、46図。凱風快晴(通称赤富士)、神奈川沖波裏 など。
収集家にとっては、その構図、色使いなど素晴らしいのであろうが、
江戸時代の庶民の生活風景、江戸の賑わいなど、チョット違う
視点で見ていると結構面白い。
2)千絵の海
各地の漁撈を画題とした錦絵。変幻自在する水の表情と漁業に
たずさわる人が織り成す景趣が描かれている。全12図。
既に、無くなった漁労の風景が生き生きと描かれており、古き
日本の風物詩が語れている。
3)諸国滝まわり
落下する水の表情を趣旨として全国の有名な滝を描いた。全8図。
相州大山ろうべんの滝(神奈川県伊勢原市大山の滝)
東海道坂の下清流くわんおん(三重県亀山市関町坂下)
美濃国養老の滝(岐阜県養老郡養老町)
木曽路の奥阿弥陀の滝(岐阜県郡上市白鳥町、日本の滝百選。白山の参拝)
木曽海道小野の瀑布(長野県木曽郡上松町、現存)
和州吉野義経馬洗い滝(奈良県吉野郡あたり、滝はなし)
下野黒髪山きりふりの滝(日光市、現在は日光3名滝)
東郡葵ケ岡の滝(東京、赤坂溜池)
4)諸国名橋奇覧
全国の珍しい橋を画題とした11図。
摂州安治川の天保山(大阪、天保山)
足利行道山くものかけ橋(足利の行道山)
すほうの国きんたい橋(山口県の錦帯橋)
越前ふくいの橋(九十九橋、福井市)
摂州天満橋(大阪天満橋)
飛越の堺つりはし(飛騨と越中の国境)
かうつけ佐野ふなはし古図(群馬県佐野市)
東海道岡崎矢はぎのはし(三河の岡崎)
かめいど天神たいこばし(亀戸)
山浅あらし山吐月橋(京都嵐山渡月橋)
ともかく、北斎の凄さは、その対象ジャンルの広さと作品の多さにある。
読本挿絵、摺者、肉筆画、黄表紙挿絵、錦絵など、当時の絵に関する
ほとんどのジャンルを手がけ、しかも、そのレベルはとても高い。
北斎は、単なる風景画作家ではない。
個人的にも、更に深く知りたい人間である。
「葛飾北斎はやはり素晴らしい!!」
作品の味わい方は当然として、北斎の人となりについても、
まだまだ、知らないことが多い。
ここでは、永田正慈氏の「葛飾北斎」を中心に、少し整理していく。
しかし、葛飾北斎の凄さは、
「七十三歳にしてやや禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり故に
八十六歳にしては益々進み九十歳にしてなおその奥意を極め
百歳にして正に神妙ならんか百有十歳にしては一点一格にして
生きるがごとくならん願わくは長寿の君子予が言の妄ならざる
を見たまうべし」と喝破する絵画への圧倒的な執着であろう。
65歳以上を高齢者と呼び、ある意味、社会から廃絶しようと
する現状で、個人的にも、学ぶべき点は多い。
1)好きな作品について
多くの人は、葛飾北斎を「富嶽三十六景」を描いた風景版画の浮世絵師
程度にしか認識していないようである。しかし、「富嶽三十六景」等の
結構知られている錦絵が描かれたのは、晩年の4年間に集中している。
むしろ、作品としての面白さを味わうのであれば、更に、視野を広げた
鑑賞が必要である。
しかしながら、「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)
は、嵐の中遠景に見える富士山は、どっしりとした不動の富士であり、
波が押し寄せてくる瞬間をとらえた、鷹の爪のような波頭の迫力は
この作品の魅力でもある。
しかも良く見ると、荒れ狂う海の中、おしおくり船を必死に漕ぐ人々がおり、
拭き下げぼかしなど、版木ではなく摺師が水分の調整でぼかす、高度な
技術が必要な部分でもある。
現在の横浜本牧沖から富士を眺めた図。
更には、全国の有名な滝を描いた作品が好きである。独特の形態をした滝の
美しさは比類がない。更に、今後実施したい自己回帰の旅のこともあり、
興味のある作品である。
「諸国滝廻り」は、全8図からなり、江戸近郊にとどまらず日光、木曽の奥
や東海道筋筋の鈴鹿峠、吉野など諸国の名瀑を題材にしたものであり、山岳
信仰や阿弥陀や観音が祀られている滝など、信仰の対象となっている滝
が選ばれている。ただ、その土地を描いたというよりは、むしろ滝を通して
水の表現に挑んだ作品と言える。普通ではとらえがたい水という対象物を
自由自在に描き分ける北斎独自のデザイン力が素晴らしい。
これらの水表現は、北斎がそれ以前に手がけた「北斎漫画」や「新形小紋帳」
といったデザインの見本帳にその端緒を見ることができ、何年もかけて水と
いう対象物を研究してきた北斎の集大成の一つが「諸国滝廻り」であり、
個人的にも、「諸国瀧廻 り」の中の日光の「上野黒髪山きりふりの瀧」は、
この滝の特徴を良く捉えており、数百年前の同じ景観を味わうと言う点でも
興味がある。また、美濃国養老の滝(岐阜県養老郡養老町)は、貧しい
ながらも親孝行な樵(きこり)がこの水を年老いた父親に飲ませたところ
お酒に変わったと言う孝行息子の伝説を秘めた滝としても有名であり、現在
では、日本の滝百選や名水百選にも選ばれる名所でもある。
この作品は、空を濃紺にし、画面中央に正面切って直下落去する滝を見事
に描いており、「森羅万象尽くして描かざるはなき」と言われた北斎の水
表現は、流石です。
潮干狩図は、肉筆画でも、最高と思われる。
本図の女性は、文化年間後期以降の北斎美人画にしだいに顕著となる退廃的な
雰囲気、ちりちりとした独特の線質、やや歪んだ体躯の造形といった特徴が
まだ明らかではなく、健康な上品さを保っている。
三人のうちには眉をそり落とした年輩の女、桜の模様の小袖を着た年長の娘、
黒地の振り袖を着た若い娘と、衣装風俗に巧みに年齢差が表現されており、
裕な町方の母親と子どもたちが三月三日の潮干狩に興じる様子を表した
ものの様である。
女たちを含めた右側の人物群が一様に砂の上の貝に注意を向け、左側の
少年たちは砂を掘る手元に関心を集中することにより画面に緊張感が
もたらされている。
肉筆画が版画とは異なり、個人による注文制作であった可能性がある。
更に、本図のもうひとつの特徴は、当時司馬江漢等によって喧伝された
新しい洋風画の技法を学んだ広大な風景表現である。
濃い青色の空、山々からわき上がるような白いちぎれ雲、青色と灰色
で表される遠山といった遠景の描写にはとくに洋風画の技法の影響が
強くみられる。本図は、北斎の美人画、風俗表現および風景表現の特質
が融合した希有な作例である。
「北斎花鳥画集」は、その構図や表現方法で、ただ、花と鳥を描写する
だけでなく、自然の中での風・空気・時間までを表現しようとしている。
静止した瞬間をとらえた図と風で動いている一瞬を描写した図の二種類
があり、その計算され尽くされた構図は、北斎ならではの世界であり、
描線の一本一本にも細かな精神が行き届いている。11図あるようで
あるが、その構図を他の、例えば、富嶽三十六景など、絵と比べると
似たような手法も多く、中々に、楽しい。
千絵の千絵の海について
葛飾北斎の場合は、広重の目指した名所絵を描くこととは、基本的なスタンスが
が違う。富嶽三十六景でも、この千絵の海でも、対象物を気象、季節、
その視点などの様々な条件下で、捉え、その都度、異なる情景を描き出そう
としている。
千絵の海は、全10図あるが、変幻する水とともに漁にいそしむ人々の姿が
いきいきと描かれている。 特に私の好きなのは、「総州銚子
(そうしゅうちょうし)」で、岩場に打ち上げられ、砕け散る波しぶきが
大変ダイナミックに描かれているのが良い。
激しくぶつかって砕ける波の表現。細かい飛沫、波の勢いに負けないよう、
船上の人々は力一杯櫂をこいでいる。押し送り船と呼ばれる漕帆両用の小型船。
漁獲された鮮魚を江戸へ高速で輸送するために用いられたとのこと。
難易度の高いぼかしは摺師の腕の見せどころ。このぼかしによって、
水の深さや広さが見事に表現されている。
その略歴と作品概観
1)勝川春章への入門
多くの人は、その名前を知らない人であるが、しかし、浮世絵の世界では、
欠くことの出来ない名手である。
ただ、錦絵が完成されてから活躍した6人の浮世絵師には、入っていない。
鈴木春信、鳥居清長、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、歌川広重の6人。
まずは、勝川春朗(しゅんろう)として、デビューした。
作品的には、あまり個性的な特徴がない、といわれている。
また、密かに狩野派の画法を学んでいると師匠に疑われ、破門される。
2)宗理の時代
勝川派から独立し、狂歌の世界と深く結びつきながら、宗理様式と呼ばれる
独自の画風を挿絵、肉筆画などに残した。
ただ、全体としては、狂歌絵本の挿絵や摺物が重点となって行く。
ここで、作品概要について、少しまとめる。
①読本挿絵 物語について挿絵の効果は大きく、その数量も多い。
「新編水滸伝」「増補浮世絵類考」「七福神図」などがある。
この読本挿絵は、「増補浮世絵類考」に代表されるが北斎の業績
としては、大きい。「椿説弓張月」は、滝沢馬琴との連携で29冊を
書き上げた。
②摺物、狂歌絵本の挿絵 狂歌との連動
「七里ヶ浜図」「画本東都遊」「美やこ登里」「潮来絶句集」などがある。
狂歌絵本としては、「画本狂歌 山満多山」があるが、
「絵本隅田川両岸一覧」は、全図が鮮やかな彩色摺で、宗理様式の風俗
描写が見事な作品である。
摺物では、「休茶屋」「春興五十三駄之内」「狂歌師像集(美人画集
のようなもの)」
宗理美人と呼ばれる清楚な雰囲気の美人が特徴。
③肉筆画
宗理時代には、②と③が多くなっているが、画狂人という号を
使い始めた頃から三美人図などの肉筆画が多くなってきた。
「見立三番 風俗三美人図」「魚貝図」など
④黄表紙挿絵
草草紙の1つであり、流行した通俗的な絵入り読み物の総称。
「金々先生栄花夢」などの洒落本を中心に展開していく。
⑤錦絵 非常に少ない
なお、北斎は、妙見菩薩という北極星を神格化した熱心な信仰者
であり、その作画活動のエネルギーであった。
また、「画狂人」という号を使い始める。
北斎は、その揃物でも、東海道揃物を7種類ほど出しており、
東海道に対しては、多作であった。
注目される摺物錦絵がある。
洋風表現を取り入れた風景画。
「江ノ島図」「「賀奈川沖本杢(ほんもく)之図」がある。
これらには、板ぼかしと呼ばれるぼかし手法が多用され、大胆な
表現となっている。これは、後の「富嶽三十六景」へとつながる。
3)文化中期の時代
肉筆画が多くなる。
「二美人図」は宗理様式の美人図として、随一の傑作と言われている。
「獅子図」は、墨絵で、一気に描かれた。
肉筆画の代表作品としては、「潮干狩図」で、唯一の重要文化財に
指定されている。これは、潮の引いた砂浜で、大人や子供がいる光景
を違和感のない透視図法で、伊豆の山並や富士山を遠望している。
ほかにも、多様な手法が使われており、近景は、宗元画の漢画描法、
遠景は、油彩画手法で描かれている。
また、この頃、絵手本「北斎漫画」の初版を出す。
絵手本とは、画様式や技法をマスターするための指針であり、
多くは、特定の絵師や弟子のためにだけで肉筆で描いた。
しかし、北斎の場合は、門人や地方の支援者の習作のために、
また、葛飾派の画風を普及させるために、作成した。
北斎漫画は、10編に追加の5編がある。
なお、略画式の「紅毛雑話」では、鳥、動植物、虫、魚など
掲載もしている。
錦絵では、「東海道名所一覧「木曾名所一覧」「江戸一覧」
などを俯瞰図の形で、宿場の町並み、細かな人物までを
描いている。
4)錦絵の時代
1830年からの4年間がこの時代と考えられている。
「画狂老人」の号をこの前後から使っている。
しかし、「富嶽三十六景」等の風景版画や多くの錦絵がこの時代に
描かれている。
主な錦絵の分類
・風景画(富嶽三十六景)
・名所絵(江戸八景)
・俯瞰図(百橋一覧図)
・古典画(詩歌 写真鏡)
・花鳥図(百合、芙蓉に雀)
・武者絵
・化け物絵
・雑画
・玩具絵など
特に、「富嶽三十六景」は、広重の東海道に比して、大きく違うのは、
富士と言う対象物を気象、季節、視点など様々な条件下で、捕らえ、
その都度、異なる山容の表情に最大の興味を持っていることにある。
これは、同時期に描かれた、
①千絵の海
各地の漁撈を画題とした錦絵。変幻自在する水の表情と漁業に
たずさわる人が織り成す景趣が描かれている。全12図。
既に、無くなった漁労の風景が生き生きと描かれており、古き
日本の風物詩が語れている。
②諸国滝まわり
落下する水の表情を趣旨として全国の有名な滝を描いた。全8図。
相州大山ろうべんの滝(神奈川県伊勢原市大山の滝)
東海道坂の下清流くわんおん(三重県亀山市関町坂下)
美濃国養老の滝(岐阜県養老郡養老町)
木曽路の奥阿弥陀の滝(岐阜県郡上市白鳥町、日本の滝百選。白山の参拝)
木曽海道小野の瀑布(長野県木曽郡上松町、現存)
和州吉野義経馬洗い滝(奈良県吉野郡あたり、滝はなし)
下野黒髪山きりふりの滝(日光市、現在は日光3名滝)
東郡葵ケ岡の滝(東京、赤坂溜池)
③諸国名橋奇覧
全国の珍しい橋を画題とした11図。
摂州安治川の天保山(大阪、天保山)
足利行道山くものかけ橋(足利の行道山)
すほうの国きんたい橋(山口県の錦帯橋)
越前ふくいの橋(九十九橋、福井市)
摂州天満橋(大阪天満橋)
飛越の堺つりはし(飛騨と越中の国境)
かうつけ佐野ふなはし古図(群馬県佐野市)
東海道岡崎矢はぎのはし(三河の岡崎)
かめいど天神たいこばし(亀戸)
山浅あらし山吐月橋(京都嵐山渡月橋)
等にもいえる。
5)晩年
北斎の作画に対する気概。
「己6歳より物の形を」写す癖ありて半百のころよりしばしば
画図を顕すといへども七十年前描く所は実に取り足るものなしに
七十三歳にしてやや禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり故に
八十六歳にしては益々進み九十歳にしてなおその奥意を極め
百歳にして正に神妙ならんか百有十歳にしては一点一格にして
生きるがごとくならん願わくは長寿の君子予が言の妄ならざる
を見たまうべし
八〇歳を超えてからは、動植物や宗教色の強い内容、古事古典などを
描くようになった。
肉筆画の手本となるような「肉筆画帖」を製作している。
また、絵手本では、「画本彩色通」によって、今までに修得した作画
への知識の全てを開陳しようとした。
動植物や文様、西洋と尾東洋の明暗法等の描写法、泥絵、硝子絵、
油彩画の絵の具の調合法など当時としては、秘密にすべき内容を
解説まで加えている。
最後の大作「須佐之男命厄神退治之図」「弘法大師修法図」の
2つを描いている。
辞世の句
「飛(ひ)と魂(たま)でゆくきさんじゃ夏の原」
「旅への誘い」
「旅」、日常から非日常への転換、内面の顕現化、日頃の自分では、
無意識に過ごす瞬間を意識化し、あらためて自分を見直す。
これを体系的、定量化した手法がポジティブ心理学の1つでもある。
政治、経済、社会、技術の圧倒的な進化、深化が各人を包み込み、
不安と恐怖の昨今である。そして、それを誰も制御できない。
このような時代に、「旅」は、個人、団体、社会にも大きな影響を
与え、各人の行動の再考、更に各地での観光ビジネスの活性化など、
社会へ好循環のエネルギーを与える。
まずは、行動やその想いの強さから、松尾芭蕉、柳田國男を少し
深堀し、自分の想いへの参考としたい。
1)松尾芭蕉の場合、
松尾芭蕉は、旅の人である。
一鉢一杖、一所不在、正に世捨て人のなりわいの如くであったとのこと。
松尾芭蕉が、このような長旅と困難なことを実行したのか?
彼にとって、旅とはその人生にどんな意味を持つのか?
これを理解し、自分の血と肉とすべきは、己の使命でもあり、避けて
通れない課題でもある。
「おくのほそ道」に、
「月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人也。
船の上に生涯を浮かべ、馬の口とらえて老いを迎ゆる
者は、日々旅して、旅を棲とす。古人も多く旅に死せるあり。
予も、いずれの年よりか、片雲の風に誘われて、漂白の思い
やまず、海浜をさすらいて、、、、」。
この旅に出る根本動機について書き出している。
松尾芭蕉の旅の哲学がそこにある。
旅の中に、生涯を送り、旅に死ぬことは、宇宙の根本原理に
基づく最も純粋な生き方であり、最も純粋なことばである詩は、
最も、純粋な生き方の中から生まれる。多くの風雅な先人たち
は、いずれその生を旅の途中に終えている。
旅は、また、松尾芭蕉にとって、自身の哲学の実践と同時に、
のれがたい宿命でもあった。
「旅」の理念、日本の伝統的詩精神を極めて、「旅」こそ詩人の
在り方と心に誓い、一鉢一杖、一所不在、尊敬する西行の
庵生活すら一所定住ではないかと思いつめのも彼である。
よれよれの紙衣を見て、「侘つくしたる侘人、われさえ哀れに
覚えける」と言っている。
松尾芭蕉としての気概がここにある。
2)柳田國男の場合、
柳田國男は、東北を中心に、その地域の生活風情を描いている。
柳田にとって旅とは、一体何であったのだろう。
柳田は「旅は本を読むのと同じである」(以下は、「青年と学問」
からの引用がベース)といっている。
さらに、「雪国の春」の序文は、十分に理解しておくべきことである。
「初めて文字と言うものの存在を知った人々が、新たなる符号を
通して、異国の民の心の隅々まで覗うは容易な技ではない。ことに
島に住む者の想像には限りがあった。本来の生活ぶりにも少なからぬ
差別があった。それにも関わらずわずかなる往来の末に、たちまちにして
彼らが美しいといい、あわれと思うすべてを会得したのみか、
さらに、同じ技巧を借りて自身のうちにあるものを、いろどり形づくり
説き現すことを得たのは、当代においても、なお異教と称すべき慧眼
である。かねて風土の住民の上に働いていた作用のたまたま双方に
共通なるものが多かった結果、いわば、未見の友の如くにやすやす
と来たり近づくことが出来たと見るほか、通例の文化模倣の法則
ばかりでは、実はその理由を説明することが難しいのである。」
旅はその土地のことばや考え、心持ちなどを知ることであり、文字
以外の記録から過去を知ることであるともいっている。
「青年と学問」におさめられた講演のなかで柳田は、人の文章(文字)
や語り(無文字)から真に必要なものを読み取る能力を鍛えろと、
青年たちに訴えている。人の一生はしれている。
その限りある時間を有益に使えといっている。
柳田は見ること、聞くこと、読むことを同一線上でとらえている。
作家にとっては、その五感を鋭敏にすることは、大事であるが、
柳田の場合は、それらを媒介しているのはことばであり、ことば
を媒介としてあらゆる事象を読み取ろうとする。
それは、本を読むように風景を見、人と語る。
「タビ」という日本語はあるいはタマワルと語源が一つで、人の給与
をあてにしてある点が、物貰いなどと一つであったのではないかと思われる。
漂白と定住、逃散と定着、村を追い出される者、出ていく者、あるいは
諸国を歩く遊行僧、旅芸人、木地師など、移動を余儀なくされる者の
心持が、すなわち「タビ」であったと思われる。
多くの人にとって、「タビ」は、すなわち生きることと直結していたの
である。見ず知らずの者に屋根を与え、火を囲み、事情や他国
の話を聞くなかで、「タビ」が新たな関係を生んでいく。
特に、東北の生活の厳しさは、これらを熟成していく土壌がある。
人生は旅だといい、死に装束も旅姿である。「タビ」は、わたしたち
のこころのなかを貫いているのである。
柳田は「日本人の結合力というものは、孤立の淋しさからきている」
として、この人の情(友だち)や、結びつき(群れ)の研究の必要性
を説いていた(「柳田國男対談集」より)。
「北国紀行」に集録されている「旅行の話」のなかでも、柳田は旅の心構え
や聞き取りの仕方について細かく触れている。
松尾芭蕉は、「旅の中に、生涯を送り、旅に死ぬことは、宇宙の根本原理に
基づく最も純粋な生き方」と喝破している。その意味では、松尾も柳田も、
基本は同じである。
3)私にとっての「旅」とは、
まずは、ほぼ同じ歳の退職老人が、1000kmを歩き通す、
ハロルド・フライの思いもよらない巡礼の旅、と言う小説がある。
昔お世話になった女性が、ガンになった、と言う手紙が届いたところから
それは、始まる。登場人物は、ハロルドとその妻、そして自殺した息子の
影、ガンの女性、隣人の老人であるが、イギリスの初夏の風景と途中で
行合う人々の交流が、きめ細やかに書かれている。歩くと言う行為の中に、
自身と人間の真の姿を見出し、息子への負い目、ガンになった女性への
償い、妻との心の大きな溝を自然が癒して行く。子供時代のその不遇な
環境と生い立ちから、目立たない人生を生きてきた人間が、ガンで生死
の境にある女性に、昔の償いを果たさねばならない、と言う強い気持ち
が、途中の挫折したいと言う気持ちをも乗り越えさせ、肉体的にも、
絶体絶命の状況を乗り越えさせた、それは、なんなのだろうか。
心情的には、凄く納得観のある作品である。
自分にも、「旅」に、求めるべき、そして、残った人生への回答が
あるのでは、ないかという大いなる期待が出てきた。
その一文より、
「人生という名のジグソーパズルのピースは最終的に全て捨て去られる
運命にあるのか?そんなものは結局無に帰してしまったというのか?
ハロルドは今わが身の無力さを思い知らされ、その重さに耐えかねて
気持ちが沈むのを感じていた。手紙を出すだけでは、足りない。
今の状態を変える方法がきっとあるはずだ。
そして、徐々に高まる心の変化、その昂揚感。
小さな雲の塊があたりにいくつもの影を落としながら走りすぎて行く。
彼方の丘陵地にさす光はすすけている。夕闇のせいではなく、前方に
横たわる広い空間のせいだ。ハロルドは頭の中で、イングランドの
最北端でまどろむクィーニーと南端の電話ボックスにいる自分、
そして、その中間にあるはずの、彼の知らない、だから想像する
しかないたくさんのものを思い描いた。道路、畑、川、荒野、そして、
大勢の人間。そのすべてに出会い、通り過ぎるだろう。ジックリと考えている
必要など毛頭ない。理屈をつける必要もない。その決断は、思いつく
と同時にやって来た。その明快さにハロルドは、声をあげて笑った。」
ここ1年ほど、心にわだかまっていた影が、明確な形で姿を現した。
今までの60年以上の生きて来た中での、自身の想いと行動を
赤裸々に、自身に映し出すことにより、虚像と実像は、明確に
分離され、新たなる実像への、何もない自分を知った。
多くの人がそうである様に、過去に自身を埋め、僅か数年先
にも、何も期待しない自分がある。縮退する心は止めどなく、
縮退するのだ。
そして、気が付いた、俺はこのまま老醜となり、朽ちたくない。
残された時間は、大分少なくなったが、現在までの自分から
決別し、新しい自分探し、残された時間と新しい心で、最後の
ステージに乗るべきではないのか。
松尾芭蕉、柳田國男、を見習うことは出来ない。
しかし、「旅」が単なる物見遊山の行動ではなく、自身の
強い想いの結果であることでは、松尾、柳田に引けはとらない。
「旅するもの、松尾芭蕉」
松尾芭蕉は、旅の人である。
東北を中心に、関西までその足を進めている。
しかも、一鉢一杖、一所不在、正に世捨て人のなりわいの
如くであったとのこと。
松尾芭蕉が、このような長旅と困難なことを実行したのか?
彼にとって、旅とはその人生にどんな意味を持つのか?
私自身の旅への強い想いもあり、「おくのほそ道」「野ざらし紀行」
等からその一端を掴みたい。
1)「おくのほそ道」より
まずは、
「月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人也。
船の上に生涯を浮かべ、馬の口とらえて老いを迎ゆる
者は、日々旅して、旅を棲とす。古人も多く旅に死せるあり。
予も、いずれの年よりか、片雲の風に誘われて、漂白の思い
やまず、海浜をさすらいて、、、、」。
この旅に出る根本動悸について書き出している。
松尾芭蕉の旅の哲学がそこにある。
旅の中に、生涯を送り、旅に死ぬことは、宇宙の根本原理に
基づく最も純粋な生き方であり、最も純粋なことばである詩は、
最も、純粋な生き方の中から生まれる。多くの風雅な先人たち
は、いずれその生を旅の途中に終えている。
旅は、また、松尾芭蕉にとって、自身の哲学の実践と同時に、
のれがたい宿命でもあった。
「予も、いずれの年よりか、片雲の風に誘われて、漂白の思い
やまず、海浜をさすらいて、、、、」とあるが、旅にとり付かれた
己の人生に対する自嘲の念でもある。
また、唐津順三も、「日本の心」での指摘では、
「竿の小文(おいのこぶみ)」「幻住庵記」にある「この一筋」、
様々な人生経路や彷徨の後、「終に無能無才にしてこの一筋に
つながる」として選び取った俳諧の画風に己が生きる道を
見出しながらも、その己における在り方には、まだ不安定ものがあった。
「野ざらし」以後の「旅」の理念、日本の伝統的詩精神を
極めて、「旅」こそ詩人の在り方と心に誓い、一鉢一杖、一所不在、
尊敬する西行の庵生活すらなお束の間の一所定住ではないかと
思いつめた旅人芭蕉にも、ふいと心をかすめる片雲があった,
はずである。
野ざらしを心にして旅に出て以来、殊に大垣を経て名古屋に入るとき、
己が破れ笠、よれよれの紙衣を見て、「侘つくしたる侘人、われさえ
哀れに覚えける」と言って、「狂句木枯らしの身は竹斎に似たるかな」
の字余りの句を得て以来、芭蕉は、つねにおのが「狂気の世界」を
見出したという自信を持った。
松尾芭蕉としての気概がここにある。
2)「野ざらし紀行」より、
貞享元年(1684)8月、松尾芭蕉は初めての旅に出る。
「野ざらしを心に風のしむ身かな」
と詠んで、西行を胸に秘め、東海道の西の歌枕をたずねた。
「野ざらしを」の句は最初の芭蕉秀句であろう。
「野ざらし」とは骸骨である。骸(むくろ)である。
「しむ身」は季語「身にしむ」を入れ替えて動かしたもので、
それを「心に風のしむ身かな」と詠んで、心敬の「冷え寂び」
に一歩近づく風情とした。
「野ざらしを心に」「心に風の」「風のしむ身かな」という
ふうに、句意と言葉と律動がぴったりとつながっている。
この発句で、松尾芭蕉は自分がはっきりと位をとったことが見えたに
ちがいない。
「野ざらし紀行」は9カ月にわたった。伊勢参宮ののちいったん伊賀
上野に寄って、それから大和・当麻寺・吉野をまわり、さらに京都・
近江路から美濃大垣・桑名・熱田と来て、また伊賀上野で越年し、
そこから奈良・大津・木曽路をへて江戸に戻っている。
この旅で松尾芭蕉はついに「風雅の技法」を身につけた。
まるで魔法のように身につけた。
例えば、
道のべの木槿(むくげ)は馬にくはれけり
秋風や薮も畠も不破の関
明ぼのやしら魚しろきこと一寸
春なれや名もなき山の薄霞
水とりや氷の僧の沓(くつ)の音
山路来てなにやらゆかしすみれ草
辛崎の松は花より朧にて
海くれて鴨のこゑほのかに白し
とくに「道のべの木槿は馬にくはれけり」「明ぼのやしら
魚しろきこと一寸」
「辛崎の松は花より朧にて」「海くれて鴨のこゑほのかに白し」
の句は、これまでの芭蕉秀句選抜では、つねに上位にあげられる名作だ。
そういう句が9カ月の旅のなかで、一気に噴き出たのである。
しかし、ここで注目しなければならないのは、これらの句は、
それぞれ存分な推敲の果てに得た句であったという。
例えば、劇的な例もある。有名な「山路来てなにやらゆかしすみれ草」。
これを初案・後案・成案の順に見ていくと、
(初)何とはなしに なにやら床し すみれ草
(後)何となく 何やら床し すみれ草
(成)山路来てなにやらゆかしすみれ草<
このあとの「笈の小文」の旅が約半年、更科紀行が足掛け3カ月、
奥の細道が半年を超えた。芭蕉はそのたびに充実していった。
いや、頂点にのぼりつめていく。
これは高悟帰俗というものだ。「高く悟りて俗に帰るべし」。
それから半年もたたぬうちに、芭蕉は奥の細道の旅に出る。これはそうとうの
速断である。速いだけでなく、何かを十全に覚悟もしている。
「日本文化短描」
日本文化、様々な分野、活動があるものの、以下の3例を参考にその姿を
自分で考えてもらいたい。
1.ドナルド・キーンの想い。
日本文化への想いを感じ、各人も一考して欲しい。
「その起源は、室町時代の足利義政の美的趣味から始まっているが、
日本人は、過去の歴史や慣習を簡単に手放してしまった。日本の文化は世界の
勝者となったが、戦後までの風景、情景を今ではほとんど思い出されない。
しかし、私は古典からは得られない日本の姿を現代の視点で見る事を学んだ。
グローバル化が進む中、日本文化は世界に何を貢献できるのだろうか考えたい。
高齢化、機械化が進み、膨大な余暇を手にした人類の未来には、日本の第二芸術と
言われるものが役立つと考える。素人が参加できる第二芸術が日本では非常に豊かに
育まれている。
格式のある家元制度から地域の集まりまで、多種多様な組織が共存し、老若男女が
研鑽を積みあう世界である。
それが日本の美意識を支えてきた。
能、文楽、歌舞伎のファンが増え、茶道、華道、書道など、日本人の向上心の源
である「道」は、世界へ広がる。このような第二芸術は、一般人に育てられ
広く日本社会に受け入れられている。
2.茶道の四規七則
七則とは、ある人が利休居士に「茶の湯の極意を教えて欲しい」と尋ねたのに
答えたもの。ところが、その答えが当たり前のことすぎたので「そんなことは
誰でも知っています」というと、利休居士は「この心に適う茶ができるのであれば、
あなたの弟子になりましょう」と言われたとのこと。
「茶道裏千家淡交会 会員のしおり」より
四規
和敬清寂
七則
茶は服のよきように点て、炭は湯に沸くように置き、冬は暖に夏は涼しく、
花は野の花のように生け、刻限は早めに、降らずとも雨の用意、相客に心せよ
和
茶には「和」という根本理念が流れています。それは、茶人たるものは腹を立てない
とか、仲良くするべきだとかいった表面的なことのみならず、己の心の和、道具の取り
合わせの和、席中相客の和が合わさってこそ、心の乱れのない点前ができる。
また、人の心の和とは禅の悟りの境地を表すものであり、この普遍なる価値を有する
和は、茶の修道においても、主客、師弟のそれぞれの立場で真に求められるもの。
敬
人を敬い、自らを慎むこと。お互いが慎みあい、敬い合うことがなければ、どんな茶
事や茶会でも自己満足で終わってしまう。上へへつらうことなく、下には丁重に
接することで敬し敬される関係が生まれる。
清
清らかであること。例えば、茶室に入る前には、必ず手水鉢で手を洗い口を漱ぎます
が、それは単に目に見える汚れを洗い流すばかりではなく、手水の水には心身を清める
という意味が込められている。日々の掃除を怠らず、身体を洗い清めるということは、
同時に内からも清めているのだという気持ちを大切にする事になる。
寂
寂、すなわち静かでなにものにも乱されることがない不動心を表している。
客は静かに心を落ち着けて席入りし、床の前に進む。軸を拝見しそこに書かれた語に
よって心を静め、香をかぎ花を愛で、釜の松風を聴く。
そして感謝を込めてお茶をいただく。まさに自然と同化することによって寂の心境に至
る。
茶は服のよきよう点て、
「服のよき」とは差し上げる相手が飲みやすいように、適度な湯加減と茶の分量でお
茶を点てるということ。形通りに点てても心がこもっていなければ何にもならない。
主客の直心の交わりがあって初めて本当の意味での「服のよき」お茶が供される。
冬は暖に夏は涼しく、
「夏はいかにも涼しきように、冬はいかにも暖かなるように」という、「いかにも
~ように」という心映えを生かした工夫が求められる。茶事も夏なら朝の涼しい
内に催し、茶室の中、露地、道具の取り合わせに様々な配慮がなされ、自然に融和し、
四季の移ろいの偉大な恵みを主客ともに分かち合う気持ちの中からさりげない気遣い
が生かされてくる。
花は野の花のように生け、
茶花は自然にあるがままを茶室に移し生けます。ことさらに技巧は加えません。
一輪の花であってもその花が自然から与えられている全生命を生けると
いう心が大切。
相客に心せよ
お茶を介して同席するお客様への心遣いのこと。亭主から客だけでなく、正客は次
客の、連客はお詰の、それぞれの立場を考えて動作することが大切であり、そうして
初めて和やかな茶席の雰囲気が醸成されていく。
3.薬師如来像から見えるもの
どんな宗教でも、それが一般民衆に受け入れられるには、何らかの現世利益
的信仰の形が必要となる。人間の悟りの境地を最終目的とする仏教においても、
一般民衆をその振興に導くための方便として、様々な現世利益を
与える仏が出現して、その信仰を集めてきた。
薬師如来は、それの代表として、広く信仰を集めてきた。
日本でも、観世音菩薩がまず、信仰され、その後、教理的な位置付けとしては、
あまりされていないが、曼荼羅図にも描かれる薬師如来が広く一般民衆の
信仰の対象となっていく。
最初は、7世紀ごろ、法隆寺の金堂像として、造立される。
旧いものでは、奈良法輪寺、京都神護寺にある。
戦前の日本では、功利主義や実用主義はほとんど思想として認められていなかった。
しかし、功利主義などを公の価値から排除することが薬師如来の評価
する場合には重要となる。
すなわち、この薬師如来崇拝からは、日本人の「合理的実利精神が明確となる。
その具体的な事実として、「比叡山延暦寺の本尊が、「薬師如来」であるという
ことを考える必要がある。そこには、日本文化の雑種的混合的な性格とその雑種性
混合性を統一するものが、現世利益の精神と思われる。
その人気の点では、現世に対する絶望と死に対する不安から、阿弥陀如来と
なって行くが、やはり現世利益の薬師如来が一般民衆では、本尊とかんがえられ、
現世での薬師如来、来世での阿弥陀如来の二元崇拝となって行く。
しかし、法然、親鸞により、薬師による現世利益崇拝が主となる。
親鸞に、現世利益和讃と言うのがある。
南無阿弥陀をとなれば
この世の利益きはもなし
流転輪廻のつみきえて
定業中夭のぞこりぬ
南無阿弥陀仏をとなえれば
十万無量の諸仏は
百重千重囲適して
よろこびまもりたまうなり
要は、南無妙法蓮華経と唱えれば、この世においても幸福を得ることが出来る。
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