2017年2月4日土曜日

江戸時代の旅

江戸時代は、海や陸の交通網が整備され、人々は様々な旅の機会をもちました。18世紀になると、一般庶民の旅も盛んになりました。その中で人々は、自分の体験や驚きを書き綴り、身近な人に伝えたり、後々の参考にしたりしました。これにあわせて、道中図(どうちゅうず)や海路(かいろ)図も多く出版され、また巡礼(じゅんれい)など特別の目的のための絵地図もありました。さらに江戸、京、大坂三都の案内記も人々の助けとなりました。またこれらは、旅をほとんどせずに一生を過ごす人達にも、知識やあこがれを与えるものともなりました。展示では、筑前(ちくぜん)の人々が残した様々な旅に関する記録や、旅に関する出版物から、この時代の旅のありさまを紹介します。

福岡藩士の旅
 福岡藩の参勤交代(さんきんこうたい)では、藩の公式記録である「御参勤道中日記」や、随行する家臣の道中日記や道中心得書、手控(てびかえ)類が残っています。いずれも道中の宿泊先の場所、行列の規則や宿泊先での決まりごと、費用を記録し、マニュアルとしたものです。さらに着いた先の江戸屋敷で規則や仕事内容の記録も見られますが、つれづれに任せての外出記録では、江戸の文化に触れる様子がうかがえます。
 福岡藩では長崎警備(けいび)を幕府から命じられていたため、福岡から長崎へ海路、陸路で藩士が往来し、同じような道中記、手控を残しました。中には寄港の先々で詠んだ和歌も見られます。また大坂には藩の蔵(くら)屋敷があり、駐留(ちゅうりゅう)する家臣による記録が見られます。

学者や文化人、武術や芸能の旅
 江戸時代中期の儒学者貝原益軒(かいばらえきけん)は若いころから上方や長崎で学び、なお様々な旅行記を書いて、その知識を広めました。近世後期の福岡藩国学者(こくがくしゃ)・青柳種信(あおやぎたねのぶ)は国許と江戸との往復の間、伊勢(いせ)の本居宣長(もとおりのりなが)に学びました。筑前東山(ひがしやま)流の華道を学んだ人や、槍術などの武芸修行者の記録が残されます。


6.道中心得書

18.唐津通長崎道中記并長崎所々之記

庶民の旅さまざま
 18世紀になると、一般庶民の旅も盛んになりました。博多町人の商用の旅では、「茶屋忠(ちゅやちゅう)」で有名な大山忠平(ちゅうへい)が絵入りの上坂日記を残しています。また福岡から多くの職人が他の地方に出かけ修業しました。農民の中でも、庄屋などの旅日記が残されています。この他、筑前五ヶ浦廻船(ごかうらかいせん)は全国を回りましたが、中には太平洋や東南アジアへ漂流し、かろうじて生きて帰った水夫の記録があります。
 伊勢(いせ)参りや有名な社寺への参詣の旅は、この時代の庶民が生抜きとして行なえる旅として、唯一許されているものでした。また僧侶(そうりょ)、神官(しんかん)、山伏(やまぶし)といった宗教者では、京、上方にある本山などのお祭りに参加しました。筑前国内の神官などで、国学的な興味から、九州各地神社を巡回した記録もあります。


37.大山忠平上坂日記 

49.独旅道中日記

幕末・明治維新期、動乱の旅
 文久(ぶんきゅう)期の福岡藩士で攘夷(じょうい)運動家として有名な平野國臣(ひらのくにおみ)は、藩を脱藩し、他国で意見書を著しました。京都に駐留する福岡藩士の日記には当時の激しい政情が記されています。慶応(けいおう)期、歌人でもあった野村望東尼(のむらぼうとうに)は勤皇派弾圧で筑前を追われ、他国でその感慨を故郷に送る手紙に残しました。そして迎えた明治維新、福岡藩も戊辰(ぼしん)戦争で関東や東北地方へ出兵し、従軍した藩士が後世へと見聞を伝えました。また新政権の京都へ仕事で出かける藩士などの日記も残されています。

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