2016年5月15日日曜日

和邇氏と鉄生産メモ

 
テーマ:
【鉄を制するものが天下を制す】


★朝鮮半島で最も鉄で栄えたのが伽耶をはじめとする金官伽耶である。
鉄器文化を基盤に、3世紀後半から3世紀末頃までに建国された金官加耶をはじめとする加羅諸国は、4世紀にはその最盛期を迎えたと思われる。金海大成洞遺跡からは4世紀のものとされる多量の騎乗用の甲冑や馬具が見つかっている。

金官加耶がすでに4世紀には強力な騎馬軍団をもっており、政治的・軍事的色彩の濃い政治組織や社会組織を備えた国家だったことを伺わせる。

金官伽耶は倭国との関係も強く、九州王朝(磐井)を後背部隊として従え、新羅へ深く攻め入る。この時代(3世紀~4世紀)の伽耶地方と九州は伽耶の鉄を介してひとつの国の単位になっていた可能性が高い。


★大伽耶が押さえた5世紀~6世紀の半島の鉄
金官伽耶の衰退と同時に連合を組んで伽耶地方を押さえたのが大伽耶連合である。
加耶諸国の中心勢力の交替は、倭と加耶との交流にも大きな変化をもたらした。

五世紀後半以降、加耶諸国との関係では、金官加耶の比重が大きく低下し、新たに大加耶との交流が始まった。

須恵器(陶質土器)、馬具、甲冑などの渡来系文物の系譜は、五世紀前半までは、金海・釜山地域を中心とした加耶南部地域に求められる。この時期、加耶諸国の新しい文物と知識を持って、日本列島に渡来してくる人々が多かった。

出身地を安羅とする漢氏(あやうじ)や金海加耶を出身とする秦氏(はたうじ)などは、ヤマト朝廷と関係を持ったため、その代表的な渡来氏族とされている。

大伽耶連合も562年には新羅に併合され、ここで伽耶の鉄の歴史は終止符を迎える。



★日本で製鉄(鉄を製錬すること)が始まったのは
(日立金属HPより)
日本の鉄の歴史は5世紀半から6世紀を境に大きな変化を迎える。
それまでの鉄は専ら、半島から鉄素材を輸入し、渡来人の鍛冶技術を注入して畿内、九州中心に鍛冶工房を営み、国内の鉄を調達していた。弥生時代には鍛冶工房は方々にあったが、まとまった製鉄施設は確認されていない。

今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れるが(広島県カナクロ谷遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ると、5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当であろう。



★6世紀に変化をもたらしたのも渡来人集団であろう。
(日立金属HPより)
『古事記』によれば、
応神天皇の御代に「百済(くだら)より韓鍛冶(からかぬち)卓素が来朝した」とあり、
また、敏達天皇12年(583年)「新羅(しらぎ)より優れた鍛冶工を招聘し、刃金の鍛冶技術の伝授を受けた」と記されている。

その技術内容は不明だが、鉄鉱石を原料とする箱型炉による製鉄法ではなかっただろうか。この中には新しい吹子技術や銑鉄を脱炭し、鍛冶する大鍛冶的技術も含まれていたかもしれない。

日本の鋼資源の特徴は火山地帯に恵まれる為、砂鉄が世界的にも極めて多い地域である。その活用は古くは縄文時代まで遡ると言われているが、6世紀以降に、出雲、関東、東北の海岸線を中心にこの砂鉄の産地を中心にたたら製鉄の技術が確立されてきた。

たたら製鉄の獲得によって自前で鉄製品を生産できるようになった日本が、7世紀を境に律令制を組み込み、国家としての自立を成し、朝鮮半島や中国への依存を少なくしていく。

結果的には鉄の自給がその後の日本の独立性を高める事になり、奈良時代以降の中国、朝鮮半島に対しての対等外交のベースになったのではないかと思われる。



ブログ☞古代日本の渡来人
5世紀以降、九州地方では見られなかった横穴式石室が出現、そこから騎馬用馬具が出土している。これらは伽耶移住民の大量進出による。
6~7世紀は韓人が中心で、背景には加耶諸国(562年)、百済(660年)・高句麗(668年)それぞれの滅亡がありました。
鉄の覇権をめぐって朝鮮 諸国との連携や大量の渡来人の流入が生じる中、鉄の覇 権を握った大和が次第に日本諸国を統合して日本骨格を作っていく。大和は同時に渡来人の技 術をいち早く吸収し、鉄の自給についても、早くから大規模精錬を開始し、この鉄の力をもって諸国を 統一し、7 世紀初頭には律令国家を作り上げ、飛鳥・奈良時代を作ってゆく。大和朝廷の勢力の源泉と なったのが、朝鮮からの鉄の移入と同時に吉備国の鉄とこの近江国での鉄自給と考えられている。


【和邇氏と息長氏】

近江は和邇氏の本貫地でもあり息長氏の本貫地でもある。


和邇氏・息長氏は、諸氏族のなかでも際立った性格をもつという。
和邇氏・息長氏は、格段の多さで「天皇家に多くの后妃を送り出した 豪族」である。(雄略~敏達)




▶初期ヤマト政権の和邇氏・息長氏
ブログ☞「初期ヤマト政権~山辺の道~」で書きましたように、和爾氏の氏神「和爾下神社」の社殿は和爾下神社古墳と呼ばれる前方後円墳の後円部上に建っている。
和邇氏は早く奈良市の東南端の和邇下神社から春日大社へといたる間に居地をもち、
息長氏は、平城京の北西部に居地をえている。

三輪山裾の出雲氏・尾張氏・吉備氏等と同様、弥生時代に倭国の王都近くへその集落を移し、国政に参与した。おそらく弥生文化の母胎となる初期漢・韓人の渡来時、一斉に各地に配置された枢要の人々がその地域を代表する形で大和の地に拠地をえている。




▶河内政権の和邇氏・息長氏
ブログ☞「飛鳥時代~「河内飛鳥」~」で書いた、大阪府の東南部に位置する、羽曳野市・藤井寺市を中心に広がる古市古墳群は、(4世紀末から6世紀前半頃までのおよそ150年の間に築造された。)和邇氏・息長氏に出自する皇后をもち、この地域が和邇氏・息長氏の河内での氏地であることから皇妃・皇子・皇女墓を含めて、この地を「奥津城」としている。



◉息長氏
近江水系を支配した息長氏は、応神天皇の皇子若野毛二俣王の子、意富富杼王を祖とす。
息長という地名は、近江湖東のかなり北の坂田郡の地名で、息長氏は近江の坂田を中心とする南と北に勢威をもち美濃・尾張とも密接な関係をつねづね持つ雄族である。

天武天皇の八色姓においては応神天皇系の真人であり、重要な氏族。真人は、八色の姓の最高位の姓で基本的に、継体天皇の近親とそれ以降の天皇・皇子の子孫に与えられたと言われているが実際には、天武天皇にとって、真人姓は「天皇家に連なるもの」だけの意味ではなく、壬申の乱で功績のあったものに、天皇家の末裔として天武天皇自ら八色の姓の最高位である真人姓を与えた。

息長氏と継体天皇
684年(天武天皇13年)に制定された八色の姓の一つで、最高位の姓である真人は基本的に、継体天皇の近親とそれ以降の天皇・皇子の子孫に与えられた。

応神天皇系  息長真人・坂田真人・山道真人
継体天皇系  三国真人・酒人真人
宣化天皇系  多治比真人・為名真人
敏達天皇系  大原真人・吉野真人・海上真人・甘南備真人・路真人・大宅真人
用明天皇系  当麻真人・登美真人・蜷淵真人
舒明天皇系  三嶋真人
天智天皇系  淡海真人
天武天皇系  高階真人・豊野真人・文室真人・清原真人・御長真人・中原真人・氷上真人


『古事記』応神天皇
継体天皇の祖父 意富富等王は次の八氏族の祖であると記されている。
息長氏・坂田氏・三国氏・酒人氏・波多氏・山道氏・筑紫の末多氏・布勢氏

という事は、天武朝において息長氏が継体天皇の親族として評価されていた。

応神天皇
 |
若野毛二俣王
 |
意富富等王
 |
 |-三国君・波多君・息長君・坂田君・酒人君・山道君
 |-筑紫末多君・布施君
 |-継体天皇



天武朝以前には
舒明天皇の 和風諡号は「息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)」
その意味は、「息長氏が養育した額の広い(聡明な)天皇」と読むことができる。

『日本書紀』皇極天皇元年十二月条
「息長山田公、日嗣をしのび奉る」
とあり、舒明天皇の殯(もがり)において、息長山田公が「日嗣」(皇位継承の次第)を 弔辞したという。


舒明天皇の父親は、押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)
押坂彦人大兄皇子の母は息長真手王の娘・広姫の(息長氏の)実家である。

息長真手王(おきながのまてのおおきみ)
        |
敏達天皇ーーー広姫
     |      
  押坂彦人大兄皇子
     | 
    舒明天皇
     |ーー|
    天智  天武


息長真手王(おきながのまてのおおきみ)は5世紀から6世紀頃の日本の皇族。王女に麻績郎女・広姫。娘の一人が「継体天皇」に嫁ぎ、もう一人の娘がその孫「敏達天皇」の皇后・広姫である。

意富富等王の後裔が名のったという「息長」を冠する名前は、それ以前にも見られる。



倭建命
 |
息長田別王
 |
杙俣長日子王 ( くいまた ながひこのみこ )
 |
息長真若中比売ーーー応神天皇
        |
     若野毛二俣王
        |
      意富富等王
        |
        |-三国君・波多君・息長君・坂田君・酒人君・山道君
        |-筑紫末多君・布施君
        |-継体天皇





開化天皇
 |
日子坐王
 |
山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)
 |
迦邇米雷王(かにめいかずちのみこ)
 |
息長宿禰王ーーー葛城之高額比売
      |
    大多牟坂王
    息長帯比売命(神功皇后)
    虚空津比売命
    息長日子王



「開化天皇の系統」と「倭建命の系統」とは結局の所意富富等王でつながるという事だ



開化天皇        倭建命
 |           |
日子坐王       息長田別王
 |           |
息長帯比売命(神功皇后) |
 |           |
応神天皇ーーーーーーー息長真若中比売
       |
    若野毛二俣王ーーーー百師木伊呂弁(長真若中比売の妹)
       |
     意富富等王


塚口義信氏によると
「開化天皇の系統」の山代之大筒木真若王と迦邇米雷王は
山代之大筒木真若王右矢印山背国綴喜(つづき)郡
迦邇米雷王右矢印山背国蟹幡(かむはた)郷
などの山背南部の地名が多く登場する事からこの系譜の伝承荷担者集団を「山背南部の一族(集団)」であるとした。
また、息長帯比売命(神功皇后)の母方は『古事記』によると新羅の王子「天之日矛」の末裔にあたる。
息長帯比売命(神功皇后)応神天皇を天之日矛系渡来人の後裔とする伝承はかなり古い時代から伝承されてきたものであったと推定している。応神天皇を「山背南部に移住していた和邇系のヤマト政権(畿内政権)を構成する有力な政治集団の男性」と「山背南部に移住していた朝鮮半島系渡来者集団出身の女性」が婚姻して生まれた子息であったと推測している。

また、息長氏については「天之日矛」が一時期滞在したという伝承をもつ「坂田郡阿那郷付近」に居住していた「天之日矛」の人物と、若野毛二俣王・意富富等王系の人物との婚姻によって生まれてきた可能性を指摘している。

 




◉和邇氏
【若狭から大和への経路】



和邇氏は、琵琶湖沿岸に栄え、朝貢するカニを奉納する事を仕事としていた。そのルートは、敦賀から琵琶湖湖北岸にでて、湖の西岸を通り山科を経て、椿井大塚山古墳のある京都府相楽郡に至り、大和に入るというものであったという。
それは、若狭湾→琵琶湖→瀬田川→宇治川→木津川の水運を利用した経路だった。
琵琶湖西岸には、和邇浜という地名が残っている。
椿井大塚山古墳の被葬者は木津川水系を統治するものであり、和邇氏一門かまたは服属する族長と思われる。
そのルートは、カニを奉納するだけのものではなかった。

石原氏によると
ワニが古代朝鮮であるいは、をいみするところから製鉄に関わった氏族であり、琵琶湖の和邇の近くにも多くの製鉄や採鉄の遺跡が残っていると述べている。

ブログ☞近江国~近江の豪族~
真野郷を除く滋賀郡三郷に百済系漢人らが勢力を張ったのは6世紀以降のことで、それ以前はこの郡内全域に和邇氏の勢力が及んでいたと考えられる。と書いた。

近江では上古の早い時期からかなり強固な基盤を築き、滋賀郡を中心に繁衍を見せる。

5世紀から6世紀にかけて奈良盆地北部に勢力を持った古代日本の中央豪族であり、出自については2世紀頃、日本海側から畿内に進出した太陽信仰を持つ鍛冶集団とする説がある。

本拠地は旧大和国添上郡和邇(現天理市和爾町・櫟本町付近)、また添下郡。
5世紀後半から6世紀頃に春日山山麓に移住し、春日和珥臣となる。
春日・帯解・櫟本には、和邇氏及びその同族氏族が多く居住していた。
北から春日・大宅・小野・粟田・櫟本・柿本の各氏族が連なって居住していた。


遣唐使、遣隋使を多く輩出している典型的な海人系の氏族
「天皇家に多くの后妃を送り出した 豪族」大和の有力な豪族として応神天皇以後7代(応神・反正・雄略・仁賢・継体・欽明・敏達)の天皇に后妃を送り出したとされています。

和邇氏の始祖は、孝昭天皇の皇子で孝安天皇の兄でもある天足彦国押人命(あめたらしひこくおしひとのみこと)とされ、同族には16もの氏族がいたとされています。

『古事記』孝昭天皇の条には、同族として、春日、大宅、小野、柿本氏などの名が記されています。

東大寺山古墳(竹林) 櫟本高塚遺跡(公園) 和爾坐赤坂比古神社 和爾坂下 伝承地道, ワニ(和爾・和珥・丸爾)氏は櫟本一帯を本拠地としていた古代豪族。

和邇氏の一族には、水運・港津管掌、近江統轄といった職 掌がみられる。













【近江を制するものは天下を制する】

「近江を制するものは天下を制する」
と言われ、権力者の争奪の的となった。
古代の近江は、近畿地方最大の鉄生産国であり、60個所以上の遺跡が残っている。


◉鉄鉱石精 練
日本における精練・製鉄の始りは 5 世紀後半ないしは 6 世紀初頭 鉄鉱石精練法として大陸朝鮮から技 術移転されたといわれ、吉備千引かなくろ谷遺跡等が日本で製鉄が行われたとの確認が取れる初期の製 鉄遺跡と言われている。

滋賀県では7世紀はじめ(古墳時代後期)にすでに鉄鉱石を使って製鉄が始められていた。 
滋賀県埋蔵文化財センターでは、7 世紀~9 世紀の滋賀県製鉄遺跡が 3 地域に分けられるという。

伊吹山麓の製鉄が鉄鉱石を原料としているもので、息長氏との関係があるであろう、としています。

1 大津市から草津市にかけて位置する瀬田丘陵北面(瀬田川西岸を含む)
2 西浅井町、マキノ町、今津町にかけて位置する 野坂山地山麓 ☜鉄鉱石を使用
3 高島町から志賀町にかけて位置する比良山脈山麓 ☜鉄鉱石を使用
このうち、野坂山地と比良山脈からは、磁鉄鉱が産出するので、その鉄鉱石を使用して現地で製鉄して いたと考えられる。


マキノ町、西浅井町には多くの製鉄遺跡がある
天平14年(742年)に「近江国司に令して、有勢之家〈ユウセイノイエ〉が鉄穴を専有し貧賤の民に採取させないことを禁ずる。」の文があり、近江国 で有力な官人・貴族たちが、公民を使役して私的に製鉄を行っていたという鉄鉱山をめぐる争いを記しています。

天平18年(745年)当時の近江国司の藤原仲麻呂(恵美押勝)は既に鉄穴を独占していたようで、技術者を集める「近江国司解文〈コクシゲブミ〉」が残っています。

野坂山地の磁鉄鉱は、、『続日本紀』天平宝字 6 年(762)2 月 25 日条に、「大師藤原恵美朝臣押勝に、 近江国の浅井・高島二郡の鉄穴各一処を賜う」との記載があり、浅井郡・高島郡の鉄穴に相当するもの と考えられ、全国的にも高品質の鉄鉱石であったことが知られます。


鉱石製錬の鉄は砂鉄製錬のものに比し鍛接温度幅が狭く、(砂鉄では1100度~1300度であるのに、赤鉄鉱では1150度~1180度しかない。温度計のない時代、この測定は至難の技だった。)造刀に不利ですが、壬申の乱のとき、大海人軍は新羅の技術者の指導で金生山(美濃赤阪)の鉱石製鉄で刀を造り、近江軍の剣を圧倒したといわれている。

岐阜県垂井町の南宮(なんぐう)神社には、そのときの製法で造った藤原兼正氏作の刀が御神体として納められている。(同町の表佐(垂井町表佐)には通訳が多数宿泊していたという言い伝えがある。
当時の近江軍の剣は継体天皇の頃とあまり違っていなかったといわれてる。

ブログ☞美濃国一宮 南宮大社(なんぐうたいしゃ)


◉砂鉄精練
砂鉄製錬は6世紀代には岩鉄製錬と併行して操業されていたが、9~10世紀には岩鉄製錬は徐々に姿を消していった。したがって9~10世紀移行の我が国近代製錬は、砂鉄製錬と同義といってよい。

岩鉄鉱床は滋賀県、岡山県、岩手県などの地域に限定され、貧鉱であるため衰退していったとみられる。

砂鉄製錬は6世紀代で砂鉄製鉄法が確立され、中国地方では豊富な木炭資源と良質な砂鉄を産出し、古代から近世にかけて製鉄の主要な拠点となった。






【継体天皇の父 彦虫人(ひこうし)王が居住】

継体天皇といえば、6世紀初頭、越前の武生から大和に進出する際、三尾氏、坂田氏、息長氏、和邇氏など近江の豪族達の女を妃に入れ、近江との結びつきを強固にして進出路を確保するとともに、その鉄資源の確保をねらっています。

近江国高島郡
 継体天皇の父 彦虫人(ひこうし)王が居住していた。
 三尾君氏、都怒山臣(君)氏
 熊野本古墳群(新旭町)、田中大塚古墳群(安曇川町)

鴨稲荷山古墳
古墳の築造時期は6世紀前半と位置づけられている。当地で生まれたとされる継体天皇(第26代)を支えた三尾君(三尾氏)首長の墓であると推定されるとともに、出土した豪華な副葬品の中には、朝鮮半島の新羅王陵のそれとよく似ていものがあり朝鮮半島との強い交流が見られる古墳である。

『日本書紀』継体天皇即位前条によると、応神天皇(第15代)四世孫・彦主人王は近江国高島郡の「三尾之別業」にあり、三尾氏一族の振媛との間に男大迹王(のちの第26代継体天皇)を儲けたという。

継体天皇の在位は6世紀前半と見られており、三尾氏とつながりがあったことは同氏から2人の妃が嫁いだことにも見える。そうした『日本書紀』の記述から、本古墳の被葬者としては三尾氏の首長とする説が広く知られている。
近くには白髭神社がある。

【滋賀県高島郡の鉄生産の特徴】
1、古墳時代後期(6世紀)
2、奈良時代には鉄生産が盛んに行われていた
3、製鉄原料として、主に鉄鉱石を使用している
4、墳圏史料に高島郡の鉄生産に関連する記事が記載されている
5、奈良時代の鉄生産に当時の有力者が関与している(藤原 仲麻呂)
6、製鉄遺跡群が存在していること


高島郡マキノ町のマキノ製鉄遺跡群
北牧野と西牧野の二つの古墳群が大規模である。

0 件のコメント:

コメントを投稿