松尾芭蕉は、旅の人である。 東北を中心に、関西までその足を進めている。 しかも、一鉢一杖、一所不在、正に世捨て人のなりわいの 如くであったとのこと。 松尾芭蕉が、このような長旅と困難なことを実行したのか? 彼にとって、旅とはその人生にどんな意味を持つのか? 私自身の旅への強い想いもあり、「おくのほそ道」「野ざらし紀行」 等からその一端を掴みたい。 1)「おくのほそ道」より まずは、 「月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人也。 船の上に生涯を浮かべ、馬の口とらえて老いを迎ゆる 者は、日々旅して、旅を棲とす。古人も多く旅に死せるあり。 予も、いずれの年よりか、片雲の風に誘われて、漂白の思い やまず、海浜をさすらいて、、、、」。 この旅に出る根本動悸について書き出している。 松尾芭蕉の旅の哲学がそこにある。 旅の中に、生涯を送り、旅に死ぬことは、宇宙の根本原理に 基づく最も純粋な生き方であり、最も純粋なことばである詩は、 最も、純粋な生き方の中から生まれる。多くの風雅な先人たち は、いずれその生を旅の途中に終えている。 旅は、また、松尾芭蕉にとって、自身の哲学の実践と同時に、 のれがたい宿命でもあった。 「予も、いずれの年よりか、片雲の風に誘われて、漂白の思い やまず、海浜をさすらいて、、、、」とあるが、旅にとり付かれた 己の人生に対する自嘲の念でもある。 また、唐津順三も、「日本の心」での指摘では、 「竿の小文(おいのこぶみ)」「幻住庵記」にある「この一筋」、 様々な人生経路や彷徨の後、「終に無能無才にしてこの一筋に つながる」として選び取った俳諧の画風に己が生きる道を 見出しながらも、その己における在り方には、まだ不安定ものがあった。 「野ざらし」以後の「旅」の理念、日本の伝統的詩精神を 極めて、「旅」こそ詩人の在り方と心に誓い、一鉢一杖、一所不在、 尊敬する西行の庵生活すらなお束の間の一所定住ではないかと 思いつめた旅人芭蕉にも、ふいと心をかすめる片雲があった, はずである。 野ざらしを心にして旅に出て以来、殊に大垣を経て名古屋に入るとき、 己が破れ笠、よれよれの紙衣を見て、「侘つくしたる侘人、われさえ 哀れに覚えける」と言って、「狂句木枯らしの身は竹斎に似たるかな」 の字余りの句を得て以来、芭蕉は、つねにおのが「狂気の世界」を 見出したという自信を持った。 松尾芭蕉としての気概がここにある。 2)「野ざらし紀行」より、 貞享元年(1684)8月、松尾芭蕉は初めての旅に出る。 「野ざらしを心に風のしむ身かな」 と詠んで、西行を胸に秘め、東海道の西の歌枕をたずねた。 「野ざらしを」の句は最初の芭蕉秀句であろう。 「野ざらし」とは骸骨である。骸(むくろ)である。 「しむ身」は季語「身にしむ」を入れ替えて動かしたもので、 それを「心に風のしむ身かな」と詠んで、心敬の「冷え寂び」 に一歩近づく風情とした。 「野ざらしを心に」「心に風の」「風のしむ身かな」という ふうに、句意と言葉と律動がぴったりとつながっている。 この発句で、松尾芭蕉は自分がはっきりと位をとったことが見えたに ちがいない。 「野ざらし紀行」は9カ月にわたった。伊勢参宮ののちいったん伊賀 上野に寄って、それから大和・当麻寺・吉野をまわり、さらに京都・ 近江路から美濃大垣・桑名・熱田と来て、また伊賀上野で越年し、 そこから奈良・大津・木曽路をへて江戸に戻っている。 この旅で松尾芭蕉はついに「風雅の技法」を身につけた。 まるで魔法のように身につけた。 例えば、 道のべの木槿(むくげ)は馬にくはれけり 秋風や薮も畠も不破の関 明ぼのやしら魚しろきこと一寸 春なれや名もなき山の薄霞 水とりや氷の僧の沓(くつ)の音 山路来てなにやらゆかしすみれ草 辛崎の松は花より朧にて 海くれて鴨のこゑほのかに白し とくに「道のべの木槿は馬にくはれけり」「明ぼのやしら 魚しろきこと一寸」 「辛崎の松は花より朧にて」「海くれて鴨のこゑほのかに白し」 の句は、これまでの芭蕉秀句選抜では、つねに上位にあげられる名作だ。 そういう句が9カ月の旅のなかで、一気に噴き出たのである。 しかし、ここで注目しなければならないのは、これらの句は、 それぞれ存分な推敲の果てに得た句であったという。 例えば、劇的な例もある。有名な「山路来てなにやらゆかしすみれ草」。 これを初案・後案・成案の順に見ていくと、 (初)何とはなしに なにやら床し すみれ草 (後)何となく 何やら床し すみれ草 (成)山路来てなにやらゆかしすみれ草< このあとの「笈の小文」の旅が約半年、更科紀行が足掛け3カ月、 奥の細道が半年を超えた。芭蕉はそのたびに充実していった。 いや、頂点にのぼりつめていく。 これは高悟帰俗というものだ。「高く悟りて俗に帰るべし」。 それから半年もたたぬうちに、芭蕉は奥の細道の旅に出る。これはそうとうの 速断である。速いだけでなく、何かを十全に覚悟もしている。
野ざらし紀行
http://koten.kaisetsuvoice.com/Nozarashi/11Nara.html 一番気になるのは、 松尾芭蕉が、このような長旅と困難なことを実行したのか? 彼にとって、旅とはその人生にどんな意味を持つのか? これは、以下にる唐木順三の指摘が納得できる。 旅した地域が東北中心でもあり、原点回帰の場所選定には、少し少ないが、 「野ざらし」紀行ほかでも、関西に出向いている。また、その最終の地は、 大垣でもある。 これから旅する私にとっても、彼の想いと行動は、極めて有益と思う。 まずは、その序文にヒントありか? 芭蕉の著作中で最も著名なおくの細道 「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」という序文より始まる。 しかし、唐津順三の指摘は、 「竿の小文(おいのこぶみ)」「幻住庵記」にある「この一筋」、様々な人生経路や彷 徨の後、 「終に無能無才にしてこの一筋につながる」として選び取った俳諧の画風に 己が生きる道を見出しながらも、その己における在り方には、まだ不安定な ものがあった。「野ざらし」以後の「旅」の理念、日本の伝統的詩精神を 極めて、「旅」こそ詩人の在り方と心に誓い、一鉢一杖、一所不在、尊敬 する西行の庵生活すらなお束の間の一所定住ではないかと思いつめた旅人 芭蕉にも、ふいと心をかすめる片雲があった。 野ざらしを心にして旅に出て以来、殊に大垣を経て名古屋に入るとき、 己が破れ笠、よれよれの紙衣を見て、「侘つくしたる侘人、われさえ 哀れに覚えける」と言って、「狂句木枯らしの身は竹斎に似たるかな」 の字余りの句を得て以来、芭蕉は、つねにおのが「狂気の世界」を 見出したという自信を持った。 こうして貞享元年(1684)8月、芭蕉は初めての旅に出る。 「野ざらしを心に風のしむ身かな」と詠んで、能因・西行を胸に秘め、 東海道の西の歌枕をたずねた。 この「野ざらしを」の句は最初の芭蕉秀句であろう。これも、いよいよ 「和」の位をとった。『野ざらし紀行』(甲子吟行)では「貞享甲子秋八月、 江上の破屋を立ちいづるほど、風の声そぞろ寒げ也」と綴って、この句 を添えている。 どこか思いつめたものがある。 「野ざらし」とは骸骨である。骸(むくろ)である。 「しむ身」は季語「身にしむ」を入れ替えて動かしたもので、それを 「心に風のしむ身かな」と詠んで、心敬の「冷え寂び」に一歩近づく風情とした。 のちに加藤楸邨が「かなしび」をめがけたことがあったものだが、そういう 感覚に近い。 この句はよほどの自信作であったろう。 「野ざらしを心に」「心に風の」「風のしむ身かな」というふうに、句意と 言葉と律動がぴったりとつながっている。 しかも、そこに「野ざらし」というマイナスのオブジェがはたらいた。 マイナスがはたらいたということは、定家や西行の方法を俳諧にできそう になってきたということである。 この句において、芭蕉は自分がはっきりと位をとったことが見えたに ちがいない。けっして奢ることのない人ではあったけれど、おそらくこの 「負の自信」ともいうべきは、芭蕉をいよいよ駆動させたはずである。 舟で雄島へ向かう芭蕉と曾良 蕪村筆「奥の細道画巻」より 「発句の事は行きて帰る 心の味はひなり」 野ざらし紀行は9カ月にわたった。伊勢参宮ののちいったん伊賀上野に寄って、それ から大和・当麻寺・吉野をまわり、さらに京都・近江路から美濃大垣・桑名・熱田と来 て、また伊賀上野で越年し、そこから奈良・大津・木曽路をへて江戸に戻っている。 ここで芭蕉はついに「風雅の技法」を身につけた。まるで魔法のように身につけた。 たとえば――。 道のべの木槿(むくげ)は馬にくはれけり 秋風や薮も畠も不破の関 明ぼのやしら魚しろきこと一寸 春なれや名もなき山の薄霞 水とりや氷の僧の沓(くつ)の音 山路来てなにやらゆかしすみれ草 辛崎の松は花より朧にて 海くれて鴨のこゑほのかに白し これらの句には、突然に芭蕉が凛然と屹立しているといってよい。 その変貌は驚くば かりだ。とくに「道のべの木槿は馬にくはれけり」「明ぼのやしら 魚しろきこと一寸」 「辛崎の松は花より朧にて」「海くれて鴨のこゑほのかに白し」 の句は、これまでの芭蕉秀句選抜では、つねに上位にあげられる名作だ。 そういう句が9カ月の旅のなかで、一気に噴き出たのである。 「野ざらしを」の句のリーディング・フレーズはみごとに役割を はたしたのだ。 しかし、ここで注目しなければならないことがある。それは、 これらの句は、それぞれ存分な推敲の果てに得た句であったと いうことだ。いよいよ今夜の本題に入ることになるが、芭蕉はこの旅 で推敲編集の佳境に一気に入っていったのだ。 どういう推敲だったかというと、たとえば「道のべの木槿は馬 にくはれけり」は、最初は「道野辺の木槿は馬の喰ひけり」や 「道野辺の木槿は馬に喰れたり」だった。また、「明ぼのやしら 魚しろきこと一寸」は「雪薄し白魚しろき事一寸」だったのである。 「雪薄し白魚しろき」では、重畳になる。つまらない。そこで、 白魚から薄雪を去らせて、白さを冴えさせる。芭蕉は推敲のなかで、 こうした編集技法を次々に発見していったのだった。 もっと劇的な例がある。有名な「山路来てなにやらゆかしすみれ草」。 これを初案・後案・成案の順に見てもらいたい。 (初)何とはなしに なにやら床し すみれ草 (後)何となく 何やら床し すみれ草 (成)山路来てなにやらゆかしすみれ草< 初案と後案の句は、どうしようもないほどの体たらくになっている。 「何とはなしになにやら床し」では、俳諧にさえなってはいない。 これなら今日ですら俳句を齧った者なら、ごく初歩のころに作る 句であろう。 むろん芭蕉としては、道端の菫があまりに可憐で ゆかしいことを、ただそれだけをなんとかしたかったのである。 『野ざらし紀行』によると、伏見から大津に至った道すがらのことだった。 けれどもその場では言葉を探しきれなかった。それでともかくは 書き留めておいたのだろう。 そこでのちに訂正を入れた。それが「山路来て」という上五の導入 である。これで「なにやらゆかし」が山路にふわっと溶けた。 芭蕉の歩く姿がふわっと浮上した。そして、そのぶん、路傍の一点 の菫色(きんしょく)があっというまに深まったのだ。こうした 推敲編集のこと、このあとでも紹介したい。 「品川を踏み出したらば、大津まで滞りなく歩め」 ところで、なぜ芭蕉は9カ月ものあいだを旅の途上においたのか。 やっと江戸に出てきて、漢詩を離れたばかりなのである。いくら西行 の風雅に気がついたとはいえ、この9カ月は長い。 しかし、ぼくはしばしば思ってきたのだが、この時間の採り方が つねに芭蕉をつくっているのではないかということである。 このあとの「笈の小文」の旅が約半年、更科紀行が足掛け3カ月、 奥の細道が半年を超えた。芭蕉はそのたびに充実していった。 いや、頂点にのぼりつめていく。 どうも、ここには決断的算定ともいうべきものがある。自身に課す 習練のパフォーマンスが星座が形をなしていくように、勘定できている。 俳諧をめぐるエディトリアル・エクササイズというものが見えている。 そのパフォーマンスがどうしたら自分の目に、耳に、口に、手について、 その後に化学反応のような「俳句という言葉」に昇華していくかが、 見えている。、、、、、、、 いったい芭蕉はこのような推敲をしつづけることによって、何に近づき たかったのか。 発句を自立させ、俳諧を一句の俳句として高みに達するようにすること とは、何だったのか。 それを感じること、また、それを感じさせることが、まさに芭蕉が 追求したことだった。 これは高悟帰俗というものだ。「高く悟りて俗に帰るべし」。 このことはまた、まさに芭蕉を読む日本人が総じて感得すべきことでも あろう。ぼくははっきりとそう言いたい。 しかしながらそれをさて、「わび」「さび」というか、「ほそみ」 「かろみ」というかどうかは、まだ芭蕉も自覚していない。 けれども芭蕉は、もはや「姿」は「形」がつくるもので、「形」は 「誰やら」がつくるものであり、「誰やら」は「今朝」が育むもので あることであって、それが「春の姿」という面影であるということを、 アルベルト・ジャコメッティとまったく同様の確信をもって、その心 の中央に楔のごとく打ちこんだのであった。 「格に入り、格に出てはじめて、自在を得べし」 貞享の句は芭蕉の前期と後期を分けた。その貞享5年は元禄元年にあたっている。 芭蕉は45歳になっていた。 笈の小文の旅をそのまま更科紀行にのばした芭蕉が、岐阜・鳴海・熱田をへて 8月に更科の月見をしたのちに、江戸の芭蕉庵(この芭蕉庵は火災ののちに 2度目に組んだもの)に戻ってきて、後の月見を開いたのは9月のことである。 それから半年もたたぬうちに、芭蕉は奥の細道の旅に出る。これはそうとうの 速断である。速いだけでなく、何かを十全に覚悟もしている。 あらかじめ芭蕉庵を平右衛門なる人物に譲っているし、「菰かぶるべき心がけ にて御座候」と言って、乞食(こつじき)行脚を心に期していたふしもある。 そうなのだ。ぼくはこの紀行はまさに乞食行だと思っているのである。 なぜそう思ったのか、ずいぶん以前に『笈の小文』を読んだときのこと になるのだが、芭蕉が伊勢に参宮したおりに「増賀の信をかなしむ」と 前書きして、「裸にはまだきさらぎの嵐かな」と詠んだことが、心に響いたのだ。 ①松尾芭蕉の足跡に付いて、大垣市のマップ http://gifustory.seesaa.net/article/394108061.html 関連サイト http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic37.html ②野ざらし紀行について http://www.bashouan.com/Database/Kikou/Nozarashikikou.htm 伊勢から東海を巡る旅であり,今回の原点回帰には、関係がある。 1684年(40歳)、前の年に郷里・伊賀で母が他界したことを受け、墓参りを旅の目的に 、奈良、京都、名古屋、木曽などを半年間巡る。この旅の紀行文は、出発時に詠んだ「 野ざらしを心に風のしむ身かな」の句から『野ざらし紀行』と呼ばれる。 ●『野ざらし紀行』から 「野ざらしを心に風の沁む身かな」“行き倒れて骨を野辺に晒す覚悟をしての旅だが、 風の冷たさがこたえるこの身だなぁ” 「馬に寝て残夢月遠し茶の煙」“馬上でウトウトし夢見から覚めると、月が遠くに沈み かけ、里ではお茶を炊く煙が上がっているよ” 「僧朝顔幾死返る法の松」“朝顔が何度も死と生を繰り返すように僧は入替わるが、仏 法は千年生きる松のように変わらない” 「命二つの中に生きたる桜かな」“お互いに今までよく生きてきたものだ。2人の生命 の証のように、満開の桜が咲き香っているよ”※滋賀・水口の満開の桜の下で20年ぶり に同郷の旧友・服部土芳と再会した時の句。 「手にとらば消ん涙ぞ熱き秋の霜」“母の遺髪は白髪だった。手に取れば秋の霜のよう に熱い涙で消えてしまいそうだ” 「死にもせぬ旅寝の果よ秋の暮」“死にもせずこの旅が終わろうとしている。そんな秋 の夕暮れだ” ※1686年(42歳)頃の句 「古池や蛙(かわず)飛込む水の音」(『蛙合』)※この有名な句は直筆の短冊が現存 している。 「名月や池をめぐりて夜もすがら」“名月に誘われ池のほとりを恍惚と歩き、気が付け ば夜更けになっていた”(『孤松』) 「物いへば唇さむし秋の風」(『芭蕉庵小文庫』) 1688年(44歳)、前年の暮れに父母の墓参で伊賀へ帰省し、年が明けて高野山、吉野・ 西行庵、奈良、神戸方面(須磨・明石)を旅行。この紀行は『笈(おい)の小文(こぶ み)』に記された。 「若葉して御目の雫拭はばや」“若葉で鑑真和尚の盲いたお目の涙を拭ってさしあげた い”(『笈の小文』)※奈良・唐招提寺で鑑真和尚像を見て。今、この木像は国宝にな っている。300年前に芭蕉が感動したものを、21世紀の僕らも見入っている…なんかク ラッとくる。 同年秋には長野県に向かい、こちらは『更科(さらしな)紀行』となった。旅に明け暮 れ、風雅に興じる日々を重ねてゆく芭蕉。だが何か納得がいかなかった。旅が楽すぎる のだ。訪問先では土地の弟子が待ち構えていて最大限のもてなしをしてくれる。過去の 偉大な詩人達は、こんなぬくぬくとした旅で詩心を育んだのではない。もっと自然と向 き合い魂を晒す本当の旅をしなくては…。 1689年3月27日(45歳)、前年は旅尽くしであったのに、年頭から心がうずき始める。 “ちぎれ雲が風に吹かれて漂う光景に惹かれて旅心を抑えきれず”“東北を旅したいと いう思いが心をかき乱し、何も手がつかない状態”“旅行用の股引(ももひき)を修繕 し、笠ヒモを付け替え、足を健脚にするツボに灸をすえている始末”“話に聞きながら まだ未踏の土地を旅して無事に帰れたなら詩人として最高の幸せなのだが…”。彼は「 芭蕉庵」を売り払うなど旅の資金を捻出し、万葉集や古今集といった古典に詠まれた歌 枕(名所)を巡礼する目的で、弟子の曾良(そら、5歳年下で博学)を供に江戸を発っ た。この『おくのほそ道』の旅は、福島県白河市(白河関)、宮城、岩手、山形、北陸 地方を巡って岐阜・大垣に至るという、行程約2400km、7ヶ月間の大旅行となった。知 人が殆どいない東北地方の長期旅行は、最初から多大な困難が予想されており、「道路 に死なん、これ天の命なり」(たとえ旅路の途中で死んでも天命であり悔いはない)と 覚悟を誓っての旅立ちだった。 7月15日、金沢。芭蕉は当地に住む愛弟子の一笑との再会を楽しみにしていたが、彼は 前年冬に36歳で他界していた。「塚も動けわが泣く声は秋の風」“墓よ動いてくれ、こ の寂しき秋風は私の泣く声だ”。芭蕉は血涙慟哭する。 7月下旬、多太神社(石川県小松市)。源平時代に付近の合戦で討ち取られた老将・斎 藤実盛(木曽義仲の恩人)の兜を前に一句「むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす 」。※きりぎりすは今のコオロギ。 8月上旬、山中温泉を過ぎたあたりで曾良は腹の病気になり、伊勢長島の親類の家で療 養することになった。3月末からずっと一緒に旅をしてきた曾良がいなくなり、とても 寂しい芭蕉。しかし旅はまだ続く。加賀市の外れにある全昌寺に泊まり、福井に入る計 画を立てる。翌朝旅立つ為に堂を降りると、背後から若い僧侶達が紙や硯(すずり)を 抱えて、必死で追いかけてきた。“「ぜひとも一句を!ぜひとも!」こちらも慌てて一 句をしたためた”。 8月14日、敦賀(福井県)。この夜の月は実に美しかった。近くの神社を散歩すると、 松の木々の間から月光が射し込み、白砂が一面に霜を敷いたように輝いていた。宿に戻 って“明日の十五夜もこうだろうか”と亭主に尋ねると“北陸の天気は変わりやすく明 晩のことも分からぬのです”との返事。翌日は亭主の予想通り雨降りだった。「名月や 北国日和(ほっこくびより)定めなき」。 おくの細道より 敦賀 「その夜、月殊に晴れたり、「明日の夜もかくあるべきにや」といえば、「越路の習い 、 なお明夜の陰晴はかりがたし」と、あるじに酒勧められて、気比の明神に夜参す。仲哀 天皇の御廟なり。社頭神さびて、松の木の間に月の漏り入りたる、御前の白砂、霜を 敷けるがごとし、往昔、遊行二世の上人、大願発起のことありて、自ら葦を刈り、土石 を荷い、泥汀をかわかせて、参詣往来の煩いなし、古例今に絶えず、神前に真砂を荷い たまう。「これを遊行の砂持ちと申し侍る」と、亭主の語りける。 月清し遊行の持てる砂の上 15日、亭主のことばにたがわず雨降る。 名月や北国日和定めなき 8月末、行程の最終目的地、岐阜大垣に到着。病気が治った曾良が迎えてくれた。“久 しぶりに会う親しい人たちが昼も夜も訪ねてきて、まるで私が生き返った死者の様に、 その無事を喜びねぎらってくれた”。 9月6日、伊勢に向かう為に大垣を出発。新たな旅の始まりだ。※ここで『おくのほそ 道』は終わっている。紀行文のラストが川舟に乗り込む芭蕉の後ろ姿。旅をこよなく愛 する、芭蕉の生き様を象徴した終わり方だ。 ■原点回帰の近くを読んだ俳句は、 越後 出雲崎[編集]7月4日 出雲崎(いずもざき)での句。 荒海や 佐渡によこたふ 天の河 市振の関[編集]7月13日 親不知(おやしらず)の難所を越えて市振(いちぶり)の宿 に泊まる。 一家(ひとつや)に 遊女もねたり 萩と月 越中 那古の浦[編集]7月14日 数しらぬ川を渡り終えて。 わせの香や 分入(わけいる)右は 有磯海(ありそうみ) 金沢[編集]7月15日(陽暦では8月29日)から24日 城下の名士達が幾度も句会を設ける 。蕉門の早世を知る[2]。江戸を発って以来、ほぼ四ヶ月。曾良は体調勝れず。急遽、 立花北枝が供となる。 塚も動け 我泣聲(わがなくこえ)は 秋の風 秋すゝし 手毎(てごと)にむけや 瓜天茄(うりなすび) 当地を後にしつつ途中の吟 あかあかと 日は難面(つれなく)も 秋の風 小松[編集]7月25日から27日 山中温泉から戻り8月6日から7日 懇願され滞在長引くも 安宅の関記述なし。 しほらしき 名や小松吹 萩すゝき 加賀 片山津[編集]7月26日 『平家物語』(巻第七)や『源平盛衰記』も伝える篠原 の戦い(篠原合戦)、斎藤実盛を偲ぶ。小松にて吟。 むざんやな 甲の下の きりぎりす 山中温泉[編集]7月27日から8月5日 大垣を目前に安堵したか八泊後、和泉屋に宿する 。 山中や 菊はたおらぬ 湯の匂 「曾良は腹を病て、伊勢の国長島と云う所にゆかりあれば、先立ちて行に」 行行(ゆきゆき)て たふれ伏(ふす)とも 萩の原 曾良 「と書き置たり。」 今日よりや 書付消さん 笠の露 小松 那谷寺[編集]8月5日 小松へ戻る道中参詣、奇岩遊仙境を臨み。 石山の 石より白し 秋の風 大聖寺 熊谷山全昌寺[編集]8月7日 前夜曾良も泊まる。 和泉屋の菩提寺、一宿の礼、庭掃き。 庭掃(にわはき)て 出(いで)ばや寺に 散柳(ちるやなぎ) 終宵(よもすがら) 秋風聞や うらの山 曾良 福井あわら市 吉崎[編集]8月9日 「この一首にて数景尽たり」 蓮如ゆかり吉崎御坊の地。 終宵(よもすがら) 嵐に波を 運ばせて 月を垂れたる 汐越の松 西行 [3] 敦賀[編集]8月14日、敦賀に到着。晩は、気比の明神社に夜参する。仲哀天皇の御廟也 。 美しい月夜であった。北国の日和あいにくで名月見れず。 月清し 遊行のもてる 砂の上 ふるき名の 角鹿(つぬが)や恋し 秋の月 月清し 遊行(ゆうぎょう)が持てる 砂の上 名月や 北国日和(ほっこびより) 定(さだめ)なき 大垣[編集]8月21日頃、大垣に到着。門人たちが集い労わる。 9月6日 芭蕉は「伊勢の遷宮をおがまんと、また船に乗り」出発する。 結びの句 蛤(はまぐり)の ふたみにわかれ行く 秋ぞ ■野ざらし紀行より、 大和から山城を経て、近江路に入り、美濃に至る。今須・山中を過ぎたところに、 いにしえの常磐御前の墓がある。伊勢の荒木田守武が句に詠んだ「義朝殿に 似たる秋風」の句の、義朝と秋風とは、どこがどう似ているのだろうか。 私は私なりに次の一句を吟じて、 _義朝の心に似たり秋の風 枯葉を払いながら、もの淋しく吹き荒(すさ)ぶ 「秋風」は、頼りとした譜代の家来に殺された義朝の、哀れの情念と通じる ものがあることだよ。 不 破 不破の関跡で一句詠んで _秋風や藪も畠も不破の関 秋風寄せる中山道から不破に掛かると、 「不破」を冠して手堅く守った関所も、今は、跡形もなく、その身を、 藪や畠に委ねるばかりの有様となっていた。 大垣に泊りける夜は、木因が家をあるじとす。武蔵野を出る時、野ざらし を心に思ひて旅立ければ、 大垣に泊まった夜は、朋友の木因の家を宿 にした。武蔵野を出る時、野ざらしも覚悟し、「野ざらしを心に風のしむ身かな」 を矢立て初にしての旅だったので、 _死にもせぬ旅寝の果よ秋の暮 どうやら、道中、死にもせず大垣の友の家 にたどり着いたと、感慨も一入(ひとしお)で迎えた秋の夕暮れであるよ。 野ざらし紀行 九 桑名、熱田、名古屋 桑名本当寺にて 桑名本当寺(本統寺)にて _冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす 千鳥を聞きながら、雪中に牡丹とは、 なかなか見られない光景であるよ。今の今まで、牡丹とくればほととぎす、 と思っていたのに。 草の枕に寝あきて、まだほの暗きうちに浜のかたに出て、 旅寝にあきて、 まだほの暗いうちに浜辺に出かけて行って、 _明ぼのや白魚白きこと一寸 白みはじめた伊勢の浜辺に、幼い白魚が 一寸ほどの生涯を終えて、白く横たえているのは、神々(こうごう)しくも、 美しくも見えるものであるよ。 熱田に詣 熱田神宮に参拝する 社頭大いに破れ、築地は倒れて叢に隠る。かしこに縄を張りて小社の跡をしるし、 爰に石を据ゑて其神と名のる。蓬・忍、心のままに生たるぞ、中々にめでたき よりも心とどまりける。 社殿の周囲はたいそう荒廃し、築地は倒れてくさむらに隠れる有様である。 あちらに縄を張って末社の跡地をしるし、こちらには石をすえてその神に 見立てている。よもぎや、しのぶ草が、自由に広がり生えているのが、 かえって、りっぱな佇まいであるよりも、心がひきつけられる。 _しのぶさへ枯て餅買ふやどり哉 [熱田で] 熱田神宮に参拝したのだが、荒廃をつくして、むかしを想う よすがの、しのぶ草まで枯れていたよ。帰りに、茶店に立ち寄って、時の移りを 儚く想いながら餅を食べたことである。 名古屋に入(いる)道の程風吟す 名古屋に入る道すがら、句を詠んで _狂句木枯の身は竹斎に似たる哉[資料] [名古屋で] 木枯らしに吹かれ、あちらへこちらへと、狂句を吟じながら 漂泊を続ける私の身の上は、かの竹斎と似ていることであるよ。 _草枕犬も時雨るか夜の声 [名古屋で] 時雨の夜の静けさを破って、犬の声が聞こえてくる。 あの犬も、仮寝のあわれを嘆いているのだろうか。 雪見に歩きて 雪見に歩いて _市人(いちびと)よ此笠売らう雪の傘 [名古屋で] わたしのこの破れ笠も、雪をかぶるとなかなか趣が あってよいものです。町の人、よろしかったら、わたしと旅寝 を共にしてきたこの笠を売りますよ。 旅人を見る 旅人を見る _馬をさへながむ(詠)る雪の朝哉 [名古屋に入る前に、熱田で] 一面の新雪に朝日がきらめいて、 あまりに美しいものだから、通りがかりの旅人、そして馬さえも、 この景色の中に詠み入れてしまうしまことだ。 海辺に日暮して 海辺に日が暮れて _海暮れて鴨の声ほのかに白し [名古屋からの帰りに、熱田で] 宵やみの海辺に淋しくたたずんで いると、さざなみの音のかなたより、夜の入りから取り残されたように、 鴨の鳴き声がほの白く聞こえてくるよ。 【参考資料】 芭蕉が熱田で詠んだ句(作句順に表示) (1)「野ざらし紀行」で取り上げていないが、芭蕉は、熱田到着の日、 止宿した桐葉亭における句会で、次の発句を詠んでいる。 連衆は、芭蕉、桐葉、東藤、叩端、如行、工山。芭蕉は、共に旅した 草鞋と笠を海に捨てんとまで叙し、桐葉に深い信頼を表意した。 旅亭桐葉の主、志浅からざりければ、しばらく留まらむとせしほどに 此海に草鞋捨てん笠時雨 芭蕉翁 剥くも侘しき波のから蠣 桐葉 (以下略) (六吟表六句歌仙。東藤編「熱田皺筥物語」<元禄八年跋>) (2)次は、(1)の翌日、閑水亭で巻いた四吟一巡歌仙の発句。 連衆は、芭蕉、閑水、東藤、桐葉。「熱田皺筥物語」に、本歌仙が、 (1)の翌日に巻かれたとして「次の日」の注を記す。 馬をさへ詠る雪の朝かな 翁 木の葉に炭を吹おこす鉢 閑水 (以下略) (四吟一巡歌仙。「熱田皺筥物語」) (3)熱田神宮に参詣して詠んだ発句で、これに、桐葉が脇句を付けている。 熱田に詣 しのぶさへ枯て餅買ふやどり哉 翁 皺び付したる根深大根 桐葉 (発句・脇。「熱田皺筥物語」) (4)本句は、名古屋からの帰りに熱田に立ち寄り、芭蕉、桐葉、東藤、 工山を連衆として巻かれた四吟歌仙の発句。闌更編「俳諧蓬莱島」 (安永四年刊)に、「貞享元年朧月十九日」と付記されている。 尾張の国熱田にまかりける比、人々師走の海見んとて船さしけるに 海暮れて鴨の声ほのかに白し 翁 串に鯨を炙(あぶ)る盃 東藤 (以下略) (貞享元年十二月十九日。四吟歌仙。「熱田皺筥物語」) しかしいま、あらためてふりかえってみると、芭蕉が成し遂げたことは、 やっぱり貫之(512)、定家(017)、世阿弥(118)、宗祇、契沖に続く 日本語計画の大きな大きな切り出しだったというふうに、見えている。 この切り出しには、発句の自立といった様式的なことも、いわゆる「さび」 「しをり」「ほそみ」「かろみ」の発見ということも、高悟帰俗や高低 自在といった編集哲学も、みんな含まれる。 では、なぜ芭蕉がそれをできたのかといえば、あの、時代の裂け目を象 (かたど)る江戸の俳諧群という団子レースから、芭蕉が透体脱落した からである。さっと抜け出たからである。 それは貫之が六歌仙から抜け出し、世阿弥が大和四座から抜け出した のに似て、その表意の意識はまことに高速で、その達意の覚悟はすこぶる 周到だった。 荘子は、千里の旅をする者は、三ヶ月も前から食料を用意すると言っているが、わたし は道中食を持たずに、ただ「夜更けの月明かりのもと、俗世間を離れ仙境に入る」とい う古人の言葉をよりどころとして、貞享元年の秋八月、いよいよ隅田川のあばら屋を旅 立つ。荒れ野を通り抜けていく風の音を聞くと、つい、薄ら寒い思いに駈られることで ある。 _野ざらしを心に風のしむ身かな 道々行き倒れ、頭骨を野辺にさらそうともと、覚 悟しての旅ではあるが、風の冷たさが、むやみにこたえる我が身であるよ。 _秋十年却て江戸を指故郷 江戸住まいもかれこれ十年になる。故郷に向かう旅ながら 、かえって江戸が恋しくなってしまうとは。 関越ゆる日は雨降て、山皆雲に隠れたり。 箱根の関所を越える日は雨降りで、山はみ な雲に隠れてしまっている。 _霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き 今日は霧が深くかかって、草庵から幾たびもながめ たあの富士山が見られない。けれども、こうして霧の中に聳える富士を思い描くという のも一興であるよ。 何某千里と云けるは、此度道の助けとなりて、万いたはり、心を尽し侍る。常に莫逆の 交深く、朋友信有哉、此人。 何某千里という人が、この度、道中の助けとなってくれ て、あれこれといたわり、真心を尽くしてくれている。わたしとはふだんから交わりが 深い人で、友に対して信義を守ってくれる方ですよ、この人は。 深川や芭蕉を富士に預行 千里 とうとう、深川が遠くに思われるところまでやっ て来たなあ。芭蕉庵での翁の生活を、みんな霊峰富士に預かってもらって、旅を続ける ことにしよう。 [語 釈] 千里に旅立て、路粮を包まず 荘子の逍遥遊篇に「適千里者三月聚糧」がある。千里二適(ゆ)ク者ハ三月糧(かて)ヲ聚 (あつ)ム。 「路粮(路糧)」は道中の食料。 三更月下無何に入 中国の禅僧広聞の句に「路不齋粮笑復歌、三更月下入無何」(江湖風月集)がある。路粮 (かて)ヲ齋(つつ)マズ笑ツテ復(ま)タ歌フ。三更月下無何二入ル。 「三更」は、日没から日出までを五等分した中の三つ目の時刻を指す。午後十一時ごろ から午前三時ごろ。「無何」は、「無何有(むかう)」と同義。自然のままで何のこしら えもしないこと。 甲子 こうし、かっし。十干(甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸)と十二支(子、丑、 寅、卯、・・・)とを組合せた干支(えと)の第一番目。貞享甲子は貞享元年。貞享二年 の干支は乙丑。 野ざらし 髑髏(どくろ)、しゃれこうべ。 莫逆 ばくげき、ばくぎゃく。極めて親密な間柄。 朋友信有哉 ほうゆうしんあるかな。 「論語」の「学而」に「曽子曰、吾日三省吾身、為人謀而不忠乎、與朋友交而不信乎」 がある。曽子曰ク、吾レ日二三タビ吾身ヲ省ル、人ノ為二謀(はか)リテ忠ナラザルカ。 朋友ト交ワリテ信ナラザルカ。 孟子の説いた五倫にも。「父子親有、君臣義有、夫婦別有、長幼序有、朋友信有」。父 子親(しん)アリ、君臣義アリ、夫婦別アリ、長幼序アリ、朋友信アリ。
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