「心の揺れ、その変化」 ーーー すべてを変えることになるその手紙が届いたのは、ある火曜日のことだった。 ーーーー ハロルドは、思った。旅は今まさに本当に始まろうとしている。歩いて、 ペリっくに行くと決めた瞬間に始まったと思っていたが、いまそんな事を 思った自分がいかに単純だったかがよく分かる。はじまりは、一度だはなく 二度も三度もありうるし、始まり方もいろいろな事があるものだ。 おれは、自分の弱点に真正面から向き合い、それを克服した、だから、 本当の旅は、いまこの時点から始まるのだ。 朝ごとに、太陽が地平線上に顔を見せやがて、天頂に達し、夕方には 沈んで、一日が別の一日へと道を譲った。 ーーーーー 人々の生活音に充ち満ちた町を歩き、町と町をつなぐ田園の道を歩きながら、 自分の人生のいくつもの瞬間を、いま目の前で起きたばかりの事のように 理解した。時には、自分が現在ではなく、過去も世界に生きていると思う 事さえあった。頭の中でこれまでの人生のさまざまな場面を再現しては、 それを外側の世界に追いやられて手出しの出来ない観客の気分で眺めた。 目の前に、かって、自分自身が犯した過ちや一貫性を欠いた言動、 してはならなかった選択の数々が再現されている。 ーーーーー (旅する心の変化) グロスター目指して北上する頃、足取りがいやに軽くなり、日によっては なんの苦もなく前進できるできることもあった。片足を上げて、次にもう一方の 足を上げる、などと考える必要もなくなった。歩くことは、クウィーニーを 活かし続ける力が自分には備わっているという確信の延長であり、彼の肉体も いまやその確信の一部だった。近頃では、何も考えなくても丘を登って下ることが できる。歩くに相応しい身体になりつつあるような気がした。 眼に映るもののほうに余計に心を奪われる日もあった。そんな日は、周りの変化を 表現するに相応しい言葉を見つけたくて、あれこれと思い巡らせた。それでも、 時には、色々な出来事が出会う人々と同じく、ごちゃごちゃになって訳が分からなく なることがあった。また、時には、自分のことにも、歩くことにも、周りの景色にも、 全く意識が向かない日もあった。そんな日には、何も、少なくとも、言葉として 表現ができるようなことは考えていなかった。ただそこに存在するだけ。 肩に太陽を感じながら、翼を広げて音もなく大空を舞うチョウゲンボウを見守った。 やがて、全てがパタリとやんだ。話しかける事も、わめくことも、ハロルドと 目を合わせることも、新たに生じた沈黙はいぜんのちんもくは互いに相手 を思いやるあまりの沈黙だったが、いまや守るべきものは何もなかった。 モーリーンが胸の思いを口にするまでもなく、彼女の顔を見るだけで、 ハロルドには、彼女との仲を修復できる言葉ひとつ、身振りひとつ無い ことが察せられた。 ーーーーーー 母親のワンピースが、狭い家のいたるところに、まるで肉体の消えた母親 のように、散乱していた。、、、、、、 ハロルドはワンピースを掻き集めて腕に抱え込み、くしゃくしゃに丸めた。 母親のにおいが鮮明すぎて、彼女が帰ってこないはとうてい信じられなかった。 両肘に思い切り爪を立てて漏れそうになる嗚咽をこらえた。 ーーーー ハロルドは何も言わなかった。 背筋をぐっとのばしたが、口はポカンと開いているし、顔が漂白でもされた 様に蒼白だった。暫くして、やっとその口から出てきたのは、小さくて ずっと遠くから聞こえて来る様な声だった。、、、、、 ハロルドは、息苦しさを覚えた。脚か胸のどれかひとつでも、 あるいは、筋肉のひとつでも動かしたりすれば、必死となって抑え付けている 激情が堰を切って溢れ出すのではないかと不安だった。 ーーーーー 思わず知らず他人の目でその足を見てショックを受けた。初めて自分の 足の状態に気づいた時のような衝撃だった。両足とも白くて不健康そのもの しかも、灰色にかわりはじめている。皮膚に靴下の皺や織り目が食い込み、 いくつもの畝が出来ている。爪先と踵と甲には、靴ずれ。血がにじんで いるものもあれば、炎症を起こして膿を持っているものもある。 親指の爪は馬のひずめのように硬く、靴に当たる部分はブルーベリー色 に変わっている。 ーーーー 子供時代とさよならできてむしろほっとしたのを憶えている。その後、 ハロルドは父親が一度もしなかったことをした。仕事を見つけ、妻子を 養い、傍観的な立場からだったと言われるかもしれないが、とにかく、 ふたりを愛した。なのに、ときおり、黙りこくって過ごした子供時代 の習慣が家庭生活にも入り込み、カーペットやカーテン、あるいは、 壁紙の裏に潜んでいて、ことあるごとに顔を出していたような気が することもある。過去は過去だ。子供時代から逃れることは出来ない。 たとえ、ネクタイを締める大人になっても。 ーーーーー しばらくの間、沈黙の中に彼女の言葉だけが響いていた。ハロルドは、 あらためて人生が一瞬にして変わりうるものであることに気付かされて 胸を衝かれた。ごく日常なこと、自分のパートナーの犬の散歩をしたり、 いつも靴を履いたりと言うごく日常的なことをしていながら、大切なものを 失おうとしていることに気づかない、ということだってありうるのだ。 ーーーーー ハロルドがいないいま、日々はただ果てしなく流れて明日が今日になり、 きょうが昨日になるだけで、モーリーンはそれをただ無気力に見つめるばかり。 無為に過ぎて行く時間をどう埋めればよいのか分からずにいた。ベッドの シーツでも剥がそうと決心するのに、そんなことをしても意味がないこと を思い知らされるばかりだった。 ーーーーー ハロルドは封筒を手に取った。真実がずしりとした重りとなって体内を 駆け下り、すべてががらがらと崩れ落ちるようなような気がした。いまはもう 耐え難いほど暑いのか凍えるほど寒いのか、それさえも分からない。 今一度、ぎこちない手つきで眼鏡をかけなおしながら、これまで理解出来なかった ことに、これまでずっと誤解してきたある事に気がついた。何故もっと前に 気付かなかったのだ?子供みたいな字じゃないか。あらためてよく見れば、のたくって いる のは彼女が必死で書いた自分の名前じゃないか。 これはクウィにーの字だ。彼女はもうこんな状態になってしまったのだ。 手紙を封筒に戻そうとしたが、てがわなわな震えて上手く入らない。 --------- モーリンがいつもその部屋を綺麗にしているのは、ディビッドの帰りを 待っているからだが、それがいつになるのかけっして分からない。 彼女の一部はいつもそれを待っている。男には母親の気持ちなど分からない。 子供を愛することの痛み、子供がいなくなったあとでさえ、その子を 愛することの痛みなど、分かるはずがない。 ーーーーー ハラルドの頭は次第に澄み渡り、身体が溶けた。、、、、、、、 けれども、その音はやさしく、あくまでも寛容で、、、モーリンの歌声を 思い出させた。やがて、雨音はやんだが、ハロルドには、むしろそれが寂しかった。 いつしか雨音が彼の知る一部になっていたかのようだった。 いまや彼自身と大地と空の間には、実体のあるものなどなに一つ存在しない ような気がした。 ーーーーーー いつしかハラルドは、人々のささやかな営みとそうした営みに付随する孤独さこそが 自分の胸を打ち、優しい気持ちにさせてくれる事を学んでいた。 この世は、片足の前にもう一方の足を置く人々で成り立っている。 そして、ある人の人生が平凡に見えるとしたらそれは、その人が長いこと そんな風に生きてきたからに過ぎない。 今やハロルドは、人は皆同じであり、同時に唯一無二の存在であるという事実、 そしてそれこそが人間である事のジレンマだという事実をうけいれはじめていた。 ーーーーー 休息を取れず、希望もなくしたいま、ハロルドから眼鏡だけではなくほかにも いろいろなことがぼろぼろとこぼれはじめていた。 ふと、気付くとディビッドの顔を思い出せなくなっていた。彼の黒い目と 相手をじっと見つめる視線のきつさは浮かんで来るのに、その目に覆いかぶさる 前髪を思い出そうとしても、クウィニーのきつくカールした前髪しか 思いだせなくなっていた。 たとえていえば、頭の中でジグソーパズルを仕上げようとするのに、肝心の ピースが1枚も見つからない、そんな感じだった。この頭はどうしてここまで 残酷なんだ、とハロルドは思った。時間の観念が完全に消え、食事をしたか どうかも意識から消えた。忘れたのではない。そんなことはもうどうでもよく なったのだ。何を見てももはやなんの興味も沸かないし、夫々の違いや名前にも いっさい関心が持てなくなった。いまや、木は行きずりの沢山あるものの一つにすぎな い。 頭に浮かぶ言葉は一つきり、自分にこう問いかけるものだけと言うこともある。 お前はなぜ相も変わらず歩き続けているのだ、そんな事をしても何も変わりやしない のに。 ーーーーー 転換点は、レックスと一緒にスランプトンに出かけた時だった。 あの晩、モーリンはぎこちない手つきで玄関ドアの鍵穴にキーを差し込み 、レックスに声をかけ、そのあと靴を履いたまま階段を上がり、そのまま、 まっすぐにかって夫婦で使っていた寝室に入っていった。 何もかも着たままでベッドに倒れ込み、目を閉じた。 真夜中、自分がどこにいるのか気づいて、小さなパニックの痛みに 襲われたが、やがて痛みは安堵感に変わった。終わった。何が終わったか 正確には分からなかったが、ずしりと重く漠然とした痛みが消えたことだけ ははっきりしていた。羽毛キルトを引き上げ、ハロルドの枕にしがみついた。 ペアーズの石鹸とハロルドのにおいがした。暫くして眼が覚めたとき、かってと同じ 軽やかさが温水のように全身に広がっていくのがわかった。 それ以降、モーリーんはそれまで使っていた客間から自分の衣類を抱えて運び 出しては、衣装ダンスのハロルドの衣類が掛かっている側とは反対の端に掛けて 行った。 自分に努力目標を課していた。毎日彼がいなくても、一つ新しい事をしようと決めた のだ。 ーーーーー もっと別のやり方をすればよかった、と思うことがモーリーんにはいくつもあった。 朝の光を浴びてベッドに横たわったまま、あくびをして伸びをしながら、 両手両足でマットレスの広さを感じた。四隅の人の体温の届かないところまで 触ってみた。暫くして、その手で自分に触れた。頬に触れ、喉に触れた。胸の 輪郭をなぞった。ホロルドの両手が腰を包み、二人の唇が重なるところを 思い描いた。肌はたるみ、指先はもう若い頃のあの敏感さをなくしている。 それでも、心臓はいまも早鐘を打ち、血が騒ぐ。、、、、、 衣装ダンスのドアが僅かに開いていて、ハロルドが置いていったシャツの袖が 見えた。胸をえぐられるようなあのおなじみの痛みが走った。キルトをはねのけ、 気持をほかに向けてくれるものを探した。衣装ダンスの前を通ったときに、 うってつけの仕事が向こうから勝手に姿を見せた。、、、、、、、 ツィードのジャケットが目に留まった。胸をどんと叩かれたような気がした。 何かが胸の内側に閉じ込められているような感じだ。そういえば、ずいぶん長いこと そのジャケットを見ないようにしてきた。 それをハンガーから外し、身体の前で広げてハロルドの胸の高さに上げてみた。 歳月が後景にしりぞき、自分たち夫婦の姿が浮かび上がってきた。 ---------- そのあと、自分のものと彼のものを一着づつペアにした。自分のブラウスの袖口を 彼の青いスーツのポケットに入れた。スカートの裾をズボンの脚に絡めた。 もう1着のドレスを彼の青いカーディガンの腕で包んだ。目には見えない何人もの モーリーんとハロルドが衣装ダンスの中で、外に踏み出すチャンスを待っている。 それを見て彼女の顔に微笑が広がり、やがて彼女はなみだにくれた。それでも、 タンスの中身はそのままにしておいた。 -------- ハロルドは過去の様々な感情とイメージがざわざわと沸き立つのを感じていた。 どれも、長い年月、胸の奥深くに葬ってきたものばかりであった。 それを抱え、意識しながら生きるのは人間の限度をこえていたからだ。 窓台をつかみ、深呼吸をしたが、空気はあまりにも熱く、安堵感を もたらしてくれなかった。 ーーーーー (仲間のケイトとの別れのシーン) それをきっかけに、二人の腕がそれぞれ相手の身体を抱きしめた。自分が ハロルドにしがみついているのか、それとも、その逆なのか、ケイトには 良く分からなかった。 巡礼tシャツのなかの彼のからだは、骸骨同然だった。、、、、、、 やがて、ケイトはハロルドの腕から逃れ出て、頬の涙を払った。、、、、 ハロルドはケイトが遠ざかって行くのを待った。 ケイトは5度、6度と振り返っては手を振り、ハロルドは同じところに留まった まま彼女を見送った。他の人間と歩くのはもううんざりだった。さんざん 彼らの話に耳を傾けていればすむ、どんなに気が楽だろう。にもかかわらず、 しだいに小さくなるケイトの姿を見つめているうちに、彼女の別れのつらさに 襲われて、自分の小さなかけらが死んでいくような気分になった。 ケイトは前方の、木立の途切れるところに達していた。ハロルドが先に 急ごうとしたまさにその時、ケイトの足が止まった。 ーーーーー ハロルドは時として息子が一人きりと言うのは、堪え難い、と思う事が あった。もっと子供がいれば、愛することのこの痛みも少しは薄められる のではないか、と思ったのである。子供が成長すると言うことは、絶え間なく 親を振り払おうとすることでも有る。デビィドが最終的かつ永遠に親を 拒絶した時、ハロルドとモリーンは、それぞれ違う形でそれに対処した。 ーーーーー ハロルドは、これまでに会い、別れて来た人たちのことを考えた。彼らに、 聞かされた身の上話に驚かされ、心を動かされた。 心の琴線に触れずに触れずに終わった人は、一人もいなかった。 ハロルドは、はやくも、この世には思った以上に愛すべき人々がいることを 知らされていた。私は平凡な男ですよ、ただ通り過ぎるだけの。 群衆の中で目立つ様なタイプではない。人に面倒をかける人間でもない。 ーーーーー ハロルドは、過去の様々な感情とイメージがざわざわと沸き立つのを感じていた。 どれも、長い年月、胸の奥深くに葬って来たものばかりだった。それを抱え、 意識しながら日々をを生きるのは人間の耐える限度を超えていたからだ。 窓台を掴み、深呼吸をしたが、空気は余りにも熱く、安堵感をもたらしては くれなかった。 ーーーーー モーリーンは、何かが崩れてばらばらになるのを感じた。部屋ががたんと 揺れたような気がした。階段を踏み外した時の気分だった。、、、、 モーリーンは、自分の事を、穏やかに、ゆっくりと、娘の目を見ないようにして 話し始めた。娘の目を見なかったのは、ひとつひとつの言葉を、胸の中の、 長年隠し通してきた秘密の場所からひっぱり出すことに神経を集中せねばなら なかったからだ。 ーーーーー 風雨にさらされて海賊さながらの風貌の男。 赤銅色に焼けてなめし革のように見える肌ともじゃもじゃ頭の 男を見ていると、モーリーン自分は自分の薄っぺらさや脆さ を思い知らされた。贅肉の削げ落ちたハロルドの生気がモーリーン をおののかさせた。 ーーーーーー いつしかハロルドは、人々のささやかな営みとそうした営みに対する 付随する孤独さこそが自分の胸を打ち、優しい気持ちさせてくれる 事を学んでいた。この世は、片足の前にもう一方の足をおく人々で 成り立っている。そして、ある人の人生が平凡に見えるとしたら、 それは、その人が長いことそんなふうに生きてからにすぎない。 いまやハロルドは、人はみな同じであり、同時に唯一無二の存在 であるという事実、そして、それこそが人間であることのジレンマだ と言う事実を受け入れることが出来るようになっていた。 ーーーーー 衣装だんすのドアがわずかに開いていて、ハロルドが置いて行った シャツの袖が見えた。胸をえぐられるようなあのおなじみの痛みが走った。 、、、、、、、、 それをハンガーから外し、体の前で広げてハロルドの胸の高さにあげてみた。 20年の歳月が光景に退き、自分たち夫婦の姿が浮かび上がった。 ーーーーー 自分の旅にルールがない事をあらためて自分に言い聞かせた。その昔、 一度か二度、自分は、ちゃんとわかっていると思い込んでいながら、 その実、何もわかっていなかったと言うことがあった。 もしかしたら、この巡礼者たちについても、同じなのではないか? ひょっとしたら、彼らは、この旅の次の段階で何らかの役割を 演じる事になるのではないか?ときとして、ハロルドは、分からない事が 最大の真理で、人間は、知らないままでいるべき、と思う事があった。 ーーーーー ハロルドの後について店に入った時に、入ると同時に店内の面積が さっと広がり、静まり帰ったような気がした。まるで、店そのものが ハロルドのために空間をつくろうとしているかのようだった。 ーーーーー 2日後、モーリーンは、目覚めて、希望に満ちた明るい空と木の葉 と戯れるそよ風と対面した。洗濯にうってつけの日だ。脚立を持ち出し、 メッシュのカーテンを外した。光と色彩と質感がどっとばかりに室内に 流れ込んだ。長年、カーテンのうしろに閉じ込められていたように、 カーテンは白くなり、その日のうちに乾きあがった。 ーーーーーー 疲労と募る虚しさにさいなまされてハロルドは、いつしか迫りくる夜 の中をぶらぶらと歩き回るようになった。あたりでは、コロオギが鳴き、 星たちが空に小さな穴をうがっていた。それは、ハロルドが自由を感じ、 この世とのつながりを感じる唯一の時だった。過ぎた日々を思い出した。 数時間が過ぎても、もう数日が過ぎたと思えることもあれば、まったく 時間が過ぎていないと思える事もあった。 ーーーーーー また、夜明けどきに歩くようになったし、時には、夜も歩いたこともある。 胸は新たに生まれた希望でいっぱいだった。家々に明かりが灯る様子や 人々がそれぞれの人生に取り組む様子を見守っている時が、彼にとっては、 さいこうの幸せだった。誰にも気づかれず、知らない人々の知らない人生 をやさしい思いで見守るのは、このうえにない幸せだった。 ーーーーーー 平板でひそやかな思いとして始まったものが、時間と共にしだいに激しい 自責の念へと変わっていった。自分など取るに足りない存在だと思えば 思うほど、ハロルドはますますその思いから逃れられなくなった。おれは一体 何様なのだ、クウぃーにーのところへいこうなんて? 、、、、、、、 ハロルドは、ここまでの自分の旅を思い出した。途中で出会った人たち、 目のした場所、そのしたで眠った空。、、、、、、 なにに、いまはそういう人たちや場所、あるいは空のことを考えても、 もうその中に自分の姿を見つけることが出来ない。、、、、、 まるでいままで通って来た場所のどこにもいなかったようなものだ。 背後を振り返った。早くも彼の痕跡は消えていた。彼の気配は、 どこにも残っていなかった。 木々は身を風にゆだねて、水中で揺らぐ軟体動物の触手さながらに、 えだをしなやかにそよがせている。おれは、人生を台無しにしてしまった。 まともな夫になれなかったし、まともな父親にもなれなかった。 まともな友人にもなれなかった、まともな息子にさえなれなかった。 、、、、そうではなくて、人生をただ通り過ぎて来ただけで、 なんの刻印も残してこなかったせいだ。つまり、おれは無に等しいと言うことだ。 ーーーーー 過去に置いて来たと思っていた悪夢がまた舞い戻り、それから逃れる術が なかった。目が覚めている時も、眠っている時も、過去を追体験し、 あらためて血の凍る思いにさいなまれた。斧を振り回しながら厚板で 出来た納屋の壁に挑みかかる自分が見えた。頭は、ウィスキーの酔いで ーーーーー ぐらぐらと揺れている。無数のガラスのかけらに血の花を咲かせる自分の ふたつのこぶしが見える。、、、、、 別の時には、モーリーンが自分に背を向け、まばゆい光のポールの中に 消えて行く絵が見えたこともある。過ぎた20年の日々は、 刈り取られてしまった。 ーーーーーー ハロルドは、鏡の中の、おぼろげにしか覚えていない顔と対面した。 皮膚が黒ずんだ襞となって垂れている。その下にある頭骨を包むには、 皮膚が大き過ぎ、余った部分が下がっているという感じだ。 額と頸骨のあたりに切傷が5つ、6つ。髪の毛とひげは思った以上に ぼさぼさ、眉毛と鼻孔からは針金のようにごわごわした長い毛が 飛び出している。もの笑の種とはこの事だ。はみ出しものだ。 手紙を出すために家を出た男の面影はどこを探しても見当たらない。 ーーーーー ハロルドは確信している。クィニーはこれからも先もずっと自分ととも にあるはずだ。父親も、母親のジェーンもみんなこの先、ずっとともにあるはずだ。 彼らは自分が歩く空気の一部だ。たびの途中で出会った全ての旅人が空気 の一部であった様に。 -------- そして、自分がもう半分ほど忘れてしまった世界のことを考えた。 家の中で、街中で、あるいは、車の中で、人々が日々の営みを 繰り広げる世界。日に三度の食事を取り、夜になったら、 眠り、人と人との付き合いのある世界のことを。 そして、日々が安泰であることを喜び、そんな人々の中から 抜け出せたことにも満足していた。 ーーーー ハロルドは封筒を手に取った。真実がずしりとした重りとなって 体内を駆け下り、すべてががらがらと崩れ落ちるような気がした。 いまはもう耐え難いほど暑いのか凍えるほど寒いのか、それ さえもわからない。 ーーーーーー (心が折れそうな時の表現) 26日目、これ以上歩くのは止めようと決心した。、、、 方角を間違えたのが酷くこたえて、旅を続けることが難しくなった。 、、、、目の届く限り巨大な鉄塔が連なっている。そんな光景を 目にしながら、いまはもうそいういものがある理由に興味が もてなくなっている。前をみても後ろを見ても、道路はただどこまでも 伸びるばかりで、何の希望も見えない。心の底では、どうせ歩き通せる わけがないことぐらい分かっているのだ。それでも歩き続けるには、ありったけの 体力と気力を動員しなければならない。なんでこんなに時間を無駄にしてしまった のだ。行きずりの人と喋ってみたり、過去を思い出してみたり、人生を 考えてみたり、車で行こうと思えばいくらでもいけたではないか。当たり前だ、 デッキシューズなんかで歩きとおせるはずがない。 クぃーにーが生きているはずがない。 いくら生きていなきゃいけないと伝えたからとといって。 来る日も来る日も、空には、低く、白い雲が垂れ込め、時折、太陽が細い銀色 の筋となって差し込むだけだった。そのなかを、下ばかり向いて歩いてきた。 そうすれば、頭のうえで急降下を繰り返す猛禽やあっというまに過ぎていく 車を見ないですむから。はるかな山中にひとり残されたとしても、 これほどの寂しさや心細さを感じることはないだろう。 決断するに際して、ハロルドが考えたのは、自分のことだけではなかった。 モーリーん鋸とも考えた。彼女を思う気持が日ごとに募っていった。 彼女に愛されていないことくらい、とうの昔から分かっている。だからといって、 断りもなしに家を出て、後は野となれ山となれ、などということをしてわけがない。 それでなくとも、彼女にはさんざん悲しい想いをさせてきたのだ。それに ディビッドのこともある。バースでのあの一件以来、ディビッドとの距離が とてつもなく大きくなったと感じないわけにはいかない。モーリーんが恋しい、 そしてディビッドが恋しい。 ーーーーーー ハロルドは長いこと、バース寺院近くのベンチに座ったまま、 どこに行けばいいかと考えていた。ジャケットを脱ぎ、シャツを脱ぎ、 皮膚と筋肉も脱ぎ捨ててしまったような気がした。ごくありふれた ものを見ても、圧倒されそうな気分だった。とある店の店員が縞模様の 庇を巻き上げ始めた。けたたましいその音が頭に切り込んでくる。人気の 消えた通りを眺めた。誰も知らない、居場所もない。と、その時、道の向こう 側の角から、ディビドが現われた。 ハロルドは立ち上がった。心臓が早鐘を打ち、いまにも口から飛び出しそうだ。 まさか、ディビッドであるはずがない。あいつがバースにいるなんて、そんな ことはありえない。、、、、、、、 ディビッドがハロルドの目をとらえた。だが、微笑みはなかった。ちらりと ハロルドに向いた眼は、父親などそこにいないとというような、あるいは 父親は街路の一部で自分のしらないものというような、そんな目だった。 ---------- 「俺だって、皆とおなじさ。ちっともいい人間時じゃない。 これくらいのことは誰にだって出来る。だけど、人間、余計なものは 要らないんだ。初めはおれもそれが分からなかった。だけど今は分かる。 みんな、自分では必要だと思っているものがあるだろうけど、そんなもの 捨てるべきなんだ、キャッシュカードだとか、携帯電話だとか、 地図だとか、そういうものは要らないんだよ」 ーーーーーーー 疲労と募る空しさにさいなまれて、ハロルドはいつしか迫り来る夜 の中をぶらぶらと歩き回るようになった。あたりではこおろぎが鳴き、 星たちが空に小さな穴をうかがっていた。それはハロルドが自由を感じ、 この世とのつながりを感じる唯一の時だった。 ーーーーー 一度だけ母の目をとらえた時のことを思い出し、体内をうねるような 感情が突き抜けた。母は口紅を塗る手を止めた。おかげで、母の口 は半分がジョーンで、半分が母親のままに見えた。心臓の激しい 鼓動のために震える声で、ハロルドは勇気を振り絞って口を開いた。 「ねぇ、おしえてくれるかな?ぼくってみっともない。」 ーーーーー ハロルドはケイトが遠ざかっていくのを待った。ケイトは5度、 6度と振り返っては手を振り、ハロルドは同じところに留まったまま 彼女を見送った。、、、、また以前のように自分の言葉だけに耳を 傾けていればすむなら、どんなに気が楽だろう。にもかかわらず、 次第に小さくなるケイトの姿を見ているうちに、彼女との別れの つらさに襲われて、自分の小さなかけらが死んでいくような 気分になった。 ----- 遠くには、地平線をまたいでブラック山脈とモールバン丘陵が 横たわっている。工場の屋根とグロースター大聖堂のぼやけた 輪郭が見える。小さくマッチ箱のように見えるのは、民家と車 にちがいない。あそこにはあまりにもたくさんのものがある。 たくさんの人生が、日常の営みが、苦しみと闘いの営みがある。 だが、人々は、ここからハロルドに見られていることを知らない。 ハロルドは再び、心の奥底から感じた。自分は今このこの目に 映るものの外側にいると同時に内側にもいる、この目に映るものと つながっていると同時にそういうものを突き抜けようとしている。 歩くとは、じつはそういうことなのだ。 (⇒自分としても良く認識のこと。) 自分は色々なものの一部であると同時にその一部ではないということだ。 この旅を成功させるには、そもそも、最初に自分を駆り立てたあの気持ち に忠実であり続けなければならない。他の人なら別の方法をとるだろうが、 そんなことはどうでもいい。事実、自分にはこうするしかないないのだから。 あくまでも歩き続けよう。 ----- そらはたとえようのない青さに輝き、それをそこなう雲はひとかけらも見えない。 家々の庭はひとかけらの早くもルピナスやバラ、デルフィニウム、スイカズラの花、 さらには、ライムグリーンの雲を思わせるハゴロモクサで埋め尽くされている。 、、、、どことなく豆の鞘を連想させる。 ------
思いがけない事が起きた。しかも、それは彼が旅のあいだに出くわして、
そこに大きな意味を汲みとることになる幾つもの瞬間のひとつだった。
その午後遅く、いきなり雨がやんだ。あまり唐突で、それまで降っていた
ことさえ信じられないくらいのやみ方だった。東の空で、雲ににわかに
亀裂が走り、空の低いところに一本のきらめく銀色の帯が出現した。
ハロルドは思わずその場に立ちつくし、灰色の雲海に二度、三度と亀裂が
走っては、新たな色が現われる様に見とれていた。青、赤みがかった濃い
茶色、黄桃色、緑、そして茜色。やがて、雲はくすんだピンクに染め上げられた。
ひとつひとつの色がきらめき震えつつ滲み出し、鉢合わせしては混ざり合った
かのようだった。ハロルドは動けずにいた。変化の全てを自分の目で見届けたかった。
大地に差す光りは黄金色。その光りを浴びて彼の肌も暖かい。足下では、大地がきしみ
、
ささやき交わす。空気は緑の匂いがして、始まりの気配に満ちている。柔らかな
霧が立ち上がる。細くたなびく煙の筋に様だ。疲労困憊、足をあげることさえ
つらいのに、旨は希望に満ちている。めまいがするほどの希望に。
自分自身より大きなものに目を向けてそらさずにいれば、きっとベリックまで
歩き通せるはずだ。
ずしりと重い静寂が身体を這い上がった。しばらくそれに逆らってみたが、
やがてたまらず目をつむった。太陽の光りが、まぶたを透かして赤く輝き、
小鳥の歌と通り過ぎる車の音が溶け合ってひとつになった。
音は彼の中に、そして同時に遠くにあった。、、、
「世間の人は歩くなんて単純極まりない事と思うんでしょうね」
と、しばらくしてやっと女性は口を開いた。「片足をもう一方の足の前に置く
だけのことだと。だけど、わたしなんて、本能的なことと思われてることをする
のがどれほど難しいか、いまだに驚かずにいられない」
女性は舌で下唇をしめらせてから、次の言葉が出てくるのを待った。「たべること」
と、ずいぶんたってから又口を開いた。「それも難しい事のひとつね。なかには、
食べる事にどうしようもなくつらい思いをする人もいる。しゃべることもそう。
愛する事も。
そういうのもみんな、ことと次第によってはむずかしいことね」そういって、女性は
庭を、ハロルドではなく、庭を見つめた。
申し分ない春の日だった。空気は柔らかくて甘く、空は高くて鮮烈な蒼さだった。
最後にロード13番地のメッシュカーテンを透かして外をのぞいたときには、
木立ちも生垣もスカイラインを背景に黒々とした骨や棒にしかみえなかった。
ところが、いまこうして外の世界を自分の足で歩いてみると、目の向かうところすべて
、畑も、庭も、野原も、木立ちも、生垣も、すべてに新しい命がはじけている。
頭上では、着生植物の若葉が木の枝にしがみついて天蓋をかたちづくっている。
目の覚めるような黄色の雲はレンギョウの花。地をはっているのは、紫ナズナ。
柳の若芽が銀色の噴水となって震えている。この春最初のジャガイモの芽が大地を
割って顔を出し、グズベリーとスグリの繁みは早くも小さな蕾をつけて、
モーリーンがその昔よくつけていたイヤリングを思い出す。溢れんばかりの
新しい命、ハロルドはそれにめまいさえ覚えた。
「幸運を祈っておくれ」というと、母親は水に飛び込むときのように大きく息を
吸って玄関をでていった。
そのときのことが細部まで鮮明に蘇り、その記憶のほうがいま自分の足下にある
台地よりもリアルに感じられる。母親のムスクの香りが鼻をくすぐる。顔には
たいた白粉が見える。もしあの時母親が頬にキスさせてくれていたら、間違いなく
マシュマロの味がしたはずだ。
「追想の記述」
ハロルドの脳裏に、イーストボーンの休暇村で踊るデビッドの姿が蘇った。
デビッドがツイストコンテストで優勝したあの夜のことが。、、、、
蘇った事は他にもあった。デビッドの学校時代の事。デビッドが自分の部屋に
こもって過ごした時間、親の手助けをいっさい受け付けなかった事。
「自然の情景、風景変化」
エクセタの街はホロルドに不意打ちを食らわせた。彼の中にいつのまにか
出来上がっていたゆったりした体内リズムが、この大都会の凶暴なまでの
激しさを目のあたりして、いまや崩壊の危機に晒されていた。ここに来るまでは、
どこまでも開けた大地と空とが与えてくれる安心感、すべてがあるべきところにあると
いう
安心感に、心地よく浸っていられた。自分自身をたんなるホロルドと言う人間
ではなく、もっと大きな何者かの一部だと思っていられた。なのに、あまりにも
視界の限られたこの街では、何が起きてもおかしくないし、その何かが何であっても、
それに相対する心構えが出来ていないように思えてならなかった。
足の下に、たとえ痕跡でもいいから土がないものかと探してみても、眼に入るのは
敷石とアスファルトばかり。何もかもが彼に警告を発していた。行きかう車も。
ビルも。人並みを押し分け、携帯電話でわめきながら先を急ぐ人も。そんな顔の
ひとつひとつにほほえみかけてみたが、それだけで疲労困憊する有様だった。
あまりにも多くの見知らぬ人々の顔を意識の中に取り込むというのは、ひどく
疲れることだった。
二本の足で、たったひとり土の上を歩いていたときにははっきり分かっていたものが、
品数も、通りの数も、正面がガラス張りのショッピングアウトレットの数も、
何もかもが多すぎるこの街では、何がなんだかわからなくなった。早く広々とした
自然の中に戻りたくてたまらなかった。
ーーーーー
空をべったりと覆う白くて分厚い雲がバースの街を押しひしぎ、命を
搾り取ろうとしているように見える。バーやカフェが舗道にあふれだし、
人々は肌着1つになって飲んだり買い物をしたりしている。だが、
もう何ヶ月も太陽にお目にかかったことのなかった彼らの肌は真っ赤に
染まっている。ハロルドはジャッケットを脱いで腕にかけて置いたが、
シャツの袖で頻繁に汗を拭わねばならなかった。草花の綿毛がそよ吹く風
さえない空気の中に浮いていた。
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夜明けの薄明かりの中に踏み出したハロルドは、驚異の念とともに、空が
強烈な色で燃え上がり、やがて、その色をなくして、青一色に変わる様を
見守った。一日の他とはまったく異なる時間の中にいるような、平凡なもの
など何もない時間の中にいるような、そんな気がした。
ーーーーー
トントの郊外にたどり着いた。家と家が軒を接して建ち、アンテナが
林立している。窓に灰色のメッシュカーテンが掛かっている。中には、
金属のシャッターで守られた窓もある。わずかに土の見える庭では、
草花が雨でなぎ倒されている。舗装道路一面に桜の花びらが散り敷き、
濡れた紙でも貼り付けた様に見える。車が瀑音を上げながら走り去り、
耳を聾する。道路は油を引いた様に光っている。
ーーーーーー
部屋はがらんどうで真新しいペンキのにおいがした。壁は殺風景な白、
紫色のベッドカバーと同じ色のカーテン、枕上にはスパンコールを
縫い付けたクッションが三つ。辛い境遇にもかかわらず、マルティーナが
寝具にそこまで気づかいをしていることにハロルドは胸を衝かれた。
窓に目を向けると、階下の窓から見えていた大木の枝と葉が、窓ガラスに
押し付けられてもみくちゃになっていた。
ーーーーー
木々の梢が硬質なうねりを見せる空を背に輝きを放ち、やがて最初の風
に打たれて身を震わせた。木の葉と小枝が宙に舞った。鳥たちが叫びを
あげた。彼方で雨の帆がはためき、ハロルドと丘陵との間に垂れさがった。
ハロルドはジャケットの中に縮こまり、雨の最初数滴をしのいだ。
どこにも隠れ場所はない。雨がジャケットを叩き、首筋を下り、伸縮性
のある糸を織り込んだ袖口を駆け上がる。雨粒が胡椒の実のように身体
を打ち、水溜りで渦を巻き、側溝を走る。
ーーーーー
木立を透かして陽の光が差し込み、風を受けて細かく震える若葉が
アルミフォイルのようにきらめいた。、、、、、、、さしかかると、
民家の屋根が草ぶきに変わり、煉瓦もそれまでの黒色に近い灰色から
温かみのある赤に変わった。コデマリの枝が満開の花を付けて深々と
頭を垂れ、デルフィニウムの若芽が地面をやさしく突き上げている。
、、、、そしてアルムを確認し、美しさに思わず見とれた星型の花が
ヤブイチゲであることを知った。おかげで心が弾み、それから先も
事典と首ッぴきで草花の名前を確かめながら、ソーバ間での4キロ
を歩き通した。、、、、、、、大地は道路の左右で落ち込み、
そのまま視界が開けて彼方の丘稜地へと続いていた。
ーーーーー
照りつける太陽の下を歩き、打ちつける雨の中を、青く冷たい月の下を、
歩いた。だが、いまはもう何処まで歩いて来たかがわからなくなっている。
星たちで息づく硬質な夜空の下に座り、手が紫色に変わっていくのを
見守った。、、、、、、どの筋肉がどの腕を動かすのか思い出せい。
動かせば、どんな役に立つのかのかも思い出せない。
ーーーーーー
15分程歩いては、足を止め、痛む右脚を休めずには、いられなく
なっていた。背中も、腕も、肩も痛みがひどく、他のことは、
ほとんど考えられない。雨は太い針となってハロルドに襲いかかり、
家々の屋根と舗装道路に当って跳ねた。わずか一時間後、足がも
つれて休まずには、いられなくなった。雨が木の葉を打って
わななかせ、空気は柔らかな腐葉土のにおいを運んで来る。
ーーーーー
こうして自分の足で歩いていると、人生はこれまでと全くの違う
ものに見えてくる。土手の隙間からのぞく大地はゆるやかに起伏し、
やがて市松模様の畑地に変わり、それぞれの境界に生け垣や木立
が並んでいる。ハロルドは、おもわず脚を止めて目を凝らした。
緑にもたくさんの色合いがある事を知って、自分の知識の足りなさ
をいまさらのように思い知らされた。限りなく黒いベルベットの
質感の緑色もあれば、黄色に近い緑色もある。遠くで、太陽の光
が通り過ぎる車をとらえた。たぶん、窓にでも当たったのであろう。
反射した光が流れ星のように、震えながら、丘陵地を横切った
。どうしてこれまで一度もこういう事に気付かなかったのだ?
淡い色の、名前も知らない草花が生け垣の根元を埋め尽くしている。
サクラソやスミレも咲いている。
ーーーーー
ハロルドは、視線をそらせ、その視線を空に戻した。半ば目を閉じた
その様子は、その様子は、外界を遮断することでする事で、頭の中で
形を取りつつある真実をもっとはっきりと見ようとしているかのようだった。
ーーーーー
母は、水に飛び込む時の様に大きく息を吸って玄関を出て行った。
その時のことが、細部まで鮮明によみがえり、その記憶のほうが
自分の足下にある大地よりもリアルに感じられる。母親のムスクの香りが
鼻をくすぐる。顔にはたいた白粉が見える。、、、、、
木立を透かして陽の光が差し込み、風を受けて細かく震える若葉が
アルミホイルの様にきらめいた。プラムにさしかかると、民家の屋根が
草ぶきに変わり、煉瓦もそれまでの黒に近い灰色から温かみのある
赤に変わった。コデマリの枝がまんかいの花をつけて深々と頭を垂れ、
デルフォイの若芽が地面をやさしく突き上げている。
ーーーー
雨がやみ、それと同時に自然界に新たな成長の季節が訪れた。
木々や草花はいっせいに華やかな色彩とかおりをまき散らし、トチノキの
枝は小刻みに震えながら、円錐形の花キャンドルを支えていた。
白いヤマニンジンの花笠が道端をびっしりと覆っている。つるバラが
庭塀を這いあがり、深紅のシャクヤクがテッシュペパーのような花弁
開いている。りんごの木は花びらを振り落としはじめ、その後にビーズ
のような小さな実をのぞかせている。
ーーーーー
朝の空は青一色、そこに櫛で梳いたような雲がたなびき、木立の向こうには、
いまなお細い月が消え残っている。ハロルドはまた路上に戻れたことに安堵した。
、、、、、
ハロルドの頭は思考停止状態に陥っていた。けれど、広々と視界の開けた自然
な中に戻ったいま、彼はふたたびある場所と別の場所との中間地点にあって、
頭には、様々な情景がなんの束縛もなく去来している。歩きながら、
20年ものあいだ考えまいとして必死に抑えつけて来た過去のもろもろを
解き放った。おかげで、いま彼の頭の中では過去がけたたましくさえずり
ながら、独特の騒々しいエネルギーで駆け巡って行く。
ーーーーー
きれいに刈り込まれた芝生をあこがれの目で眺め、自分の素足が柔らかな芝に
沈むところを想像した。ベンチが数脚、スプリンターが一基。弓状に
ほとばしる水が鞭となって空気を打ちながら、ときおり陽の光を捉えて
きらめいている。
ーーーーーー
ハロルドの頭は次第しだいに澄み渡り、身体が溶けた。雨が屋根と
防水布を打ち始めた。けれども、その音はやさしく、あくまでも、
寛容で、幼いデビッドを寝かしつけた時のモーリーンの歌声を
思い出させた。やがて、雨音はやんだが、ハロルドには
むしろそれが寂しかった。いつしか雨音が彼の一部になって
いたかのようだった。いまや彼自身と大地との間に実体
あるものなど何一つ存在しないような気がした。
夜明け前に眼が覚めた。片肘をついて起き上がり、防水布
の隙間から新しい日が夜の闇を追いやり、地平線にあくまでも淡い
夜明けの光がしみこんで行く様を眺めた。
鳥たちがいっせいに歌い始めた。かなたの風景が浮かび上がり、
新しい日が自信たっぷりに立ち現れたときのことだった。
空は、灰色からクリーム色に、クリーム色からピーチ色に、
更に、藍色に、そして、青に変化した。霧の柔らかな舌が
谷底を這い、雲の中から丘の頂と人々の家が立ち上がった。
月は早くもおぼろな影になっている。
ーーーーーー
朝ごとに、太陽が地平線上に顔を見せてやがて天頂に達し、
夕方には沈んで、一日が別の一日へと道を譲った。ハロルドは
空と、その下で刻々と変化する大地を見つめて長い時間を
過ごした。峰峰の頂が昇りゆく太陽の光りを背に金色に照り映え、
その輝き映す民家の窓が、一つまた一つと強烈なオレンジ色に
染まって燃え立つように見えた。日暮れ時、木々の影が長くなり、
地面にもう一つの森が、闇で出来た森が、出現しかかったようだ。
早朝の霧について足を進め、乳白色の靄の中からぬっと頭を
突き出す高圧電線用の鉄塔に気付いて思わず顔をほころばせた。
丘の形が柔らかく平らになって、視界が開けた。見渡す限り、
穏やかな緑色が続いていた。どこまでも平らに伸びるサマセット
の湿地を通り抜けた。湿地を走る無数の水路が銀色の針のように
きらめいていた。地平線上にグラストンベリーの丘が鎮座し、
その向こうにメンディップの丘陵地が見えた。
ーーーーーー
夜明け前に目が覚めた。
片肘をついて起き上がり、防水布の隙間から、新しい日が夜
の闇を追いやり、地平線にあくまでも淡い夜明けの光が
しみこんで行く様を眺めた。鳥たちがいっせいに歌い始めた。
かなたの風景が浮かび上がり、新しい日が自信たっぷりに
たち現れた時のことだった。空は灰色から淡黄色に、淡黄色
から黄桃色に、更に、藍色に、そして青色に変化した。
霧の柔らかな舌が谷底を這い、雲の中から丘の頂と人々の家が
立ち上がった。月は早くも朧な影となっている。
ーーーー
これほど美しい5月は初めてだ。
来る日も来る日も、空は例えようのない青さに輝き、それを損なう
雲はひとかけらも見えない。家々の庭は早くもルピナスやバラ、
デルフィニウム、スイカズラの花、さらにライムグリーンの雲を
思わせるハゴロモグサで埋め尽くされている。虫たちが飛び立ち、
宙にとどまり、羽音をたて、空を切って飛び去っていく。
ハロルドはキンポウゲとヒゲナシとフランス菊とシロツメクサと
カラスノエンドウとナデシコの咲き競う野原を通り過ぎた。
生垣をニワトコの花房の甘い香りが包み、野生のクレマチスや
ホップ、ノイバラが絡み付いている。市民菜園もまた芽吹きの
季節を迎えている。レタス、ほうれん草、チャード、ビーツ、
ジャガイモの若芽、そして支柱に絡みついてドーム型に伸びる
えんどう豆が列を成している。
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小さな雲の塊があたりにいくつもの陰を落としながら走りすぎていく。
かなたの丘稜地に指す光はすすけている。夕闇のせいではなく、
前方に横たわる拾い空間の正だ。ハロルドは頭の中でイングランドの
最北端でまどろむクウィーニーと、南端の電話ボックスにいる自分、
そして、その中間にあるはずの。彼の知らない、だから、想像するしか
ないたくさんのものを思い描いた。道路、畑、森、荒野そして、
大勢の人間。その全てに出会い、通り過ぎるだろう。ジックリと考える
必要など毛頭ない。理屈をつける必要もない。その決断は思いつくと同時に
やってきた。
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アッシュバートンを経て352号線に入り、ヒースフィールドで一夜を過ごした。
途中、やはり歩いて旅する人たちに出会い、自然の美しさや間もなく
やってくる夏のことなど短く言葉を交わしては、お互いの旅の安全を祈り、
それぞれの目的地を目指してまた歩き始めた。曲がりくねった路を行き、
丘稜地の麓を辿りながら、ひたすら前へ前へ足を進めた。
けたたましい羽音もろとも木々のの枝からからすの群れが飛び出し、生け垣
のなかから若い鹿が飛び出してきた。車がどこからともなく轟音をあげて近づいて
きては走り去った。民家の門の内側には犬がいた。
側溝の蓋にはアナグマが数頭、まるで毛皮をかぶせた重しのように座っていた。
満開の花のドレスをつけた桜の木の一本、立ち騒ぐ風を受けて紙吹雪のように
花びらを散らした。
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次の日は、自分を叱咤して、夜明けと供に、歩き始め14キロほど稼いだ。
木々の間から、早朝の陽の光が矢となって、振り注いでいた。
なのに、午前をかなり半ばを過ぎるころ、空は頑固なちぎれ雲に覆い
つくされ目を上げるたびに、ちぎれ雲の一つ1つが灰色の山高帽の形を
とり始めた。ユスリカの蚊柱がたった。
キングスブリッジをでてから6日、ロードからおよそ69キロ、ズボン
の腰周りがゆるくなり、額と鼻、耳の皮膚が日に焼けて抜け落ちた。
時計を見たが、その前から時間が分かっていたことに気付いた。
朝と晩、足の指と踝と土踏まずを入念に点検し,皮膚の破れたところ
やすりむけたところを絆創膏と軟膏で手当てした。シーズン最初の
忘れな草の群生が月明かりを浴びて淡く輝いていた。
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どこまでも続く灰色のかたまりが空と大地を移動し、雨のカーテンを連れて
きて、周りのすべてから色彩と輪郭を奪っていった。ハロルドは前方を
見つめ、方向感覚を取り戻そうと或いは、これまで大きな喜びであった
雲の切れ目を探そうとしたがいくら眼をこらしても、またもや我が家の
メッシュカーテンを透かして世の中を見ている気分になった。何もかもが
家に居たときと同じだ。ガイドブックを見るのはやめた。ハロルドは、今、
自分の身体と闘い、その闘いに敗れつつある、という思いにさいなまれていた。
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東の空で、闇がひび割れ、淡い光の帯が現れたと思うまもなく、帯は空を
昇り、全体に広がり始めた。
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家々の窓にバター色の明かりとその中で動き回る人々の様子を見守った。人々は
やがてそれぞれのベッドにもぐりこみ、夢の世界に遊ぶだろう。そんな事を
考えている中にかれはふとある事に思い立った。おれはこんなにも彼らの身を案じ
彼らがとにもかくにも暖かく安全でいることにほっとしている。一方、この俺は
自由に歩き続けている。しょせん、ずっと、こうだったのだ。俺はいつも
人とは少しはなれたところで生きてきたのだ。月がくっきりと姿を見せた。中央に
真ん丸い月が、水の中から現われた銀貨のようにかかっていた。
マルチの笑顔が少しづつ崩れ、その口から今一度笑い声が洩れた。笑うと
彼女の顔が柔和になり、頬にその表情に相応しい朱がさすのがわかった。
後れ毛が一筋、きつく結んだポニーテールから垂れていた。マルチがそれを掻き揚げよ
うと
しないのが、ハロルドには嬉しかった。
それから暫らくの間、ハロルドのまぶたに浮かぶのは、若き日のモーリーンの
顔ばかりであった。彼の顔を見上げる彼女の無防備で屈託の無い顔。
柔らかな唇をなかば開いて、彼の次の言葉を待っている。あの時にはモーリーン
の関心は間違いなく自分に注がれていた。それを思い出したとき、ハロルドの中に
ぞくぞくするような喜が湧きあがった。しかも、その歓びが強烈過ぎて、もっと
いろいろなことを話してマルチに喜んでもらいたいという気になった。なのに、
なにも思いつけなかった。
ハロルドは、今度の旅で出会った人の事を思い出した。みんないささか変わった
ところのある人たちだったが、外見だけで異様だと思える人はいなかった。
あらためて自分の人生を考えれば、外見上は、やはり、ごくありふれた人生と
見えるのかもしれない。ほんとうは、内にとんでもない闇と厄介ごとを
抱えているというのに。
ハロルドは、あらためて人生が一瞬にして変わりうるものであることに
気付かされて胸を衝かれた。ごく日常的なこと、自分のパートナーの犬の
散歩をしたり、いつもの靴を履いたりと言うごく日常的なことをしていながら、
大切なものを失おうとしていることに気づかない、ということだってありうるのだ。
いまはもう見るものさえいないアルバムを引っ張り出した。
緑にこびりついてフェルト状になったほこりをスカートで拭き取った。
こぼれそうになる涙をこらえながら、ページを、1枚1枚、丹念に
見つめた。ほとんどが彼女とデビッドのものだが、そ間にはさまるようにして
何枚かそうでないものが混ざっていた。ハロルドの膝に抱かれた赤ん坊の
デビッド。赤ん坊を見つめる父親、手が両方とも宙に浮いている、触ってはいけない
と自分を戒めているようだ。そして、もう1枚、デビッドを肩車にしたハロルドの
写真がある。首を精一杯伸ばしてデビッドがまっすぐ座っていられるように、
落ちないようにと気を使っているようだ。十代のデビッドとネクタイ姿のハロルド
二人揃って金魚の池をのぞいている。モーリーンは思わず噴出した。二人と来たら
仲の良さそうなふりをしている。わざとそうしていることがばれないようにして、
いつもはそんなそぶりも見せなかったのに。でも、ハロルドは仲のよい父と息子で
ありたかったのだ。デビッドだって、たまにはそうありたかったのだ。モーリーンは
アルバムを膝に広げたまま、虚空を見つめた。その目には、カーテンではなく、
過去だけが映っていた。ふと気付くと、まぶたにまたしてもバンタムでのあの日
が蘇って来た。、、、、、
それから数日間、気分は一層落ち込んだ。一番いい部屋の床じゅうにアルバムが
転がっていた。それを元に戻すと言う作業に向き合う事が出来なかった。朝早く
洗濯機を回しても、洗いあがったものはそのまま1日中ほったらかしにしていた。
食事はチーズとクラッカーですませた。鍋一杯のお湯を沸かす気にさえなれなかったか
らだ。
彼女はいまやたんなる記憶再生装置でしかなかった。
その昔、モーリーンはよくワンピースのボタンホールに花をつけた
小枝や秋の葉を挿していたものだ。あれはたしか結婚直後のことだった。
ワンピースにボタンホールがないときには、耳の上に挿すこともあった。
そんな時には髪に花弁がはらはらとこぼれ落ちたものだ。ちょっと
おかしくないか。もう長いことそんなことを思い出しもしなかったのに。
経営者は腕を組み、それをぶよぶよの三段腹の上に置くと、両足を
広げて、休めの姿勢になった。これからちょっと話しておきたいことがある、
少し長くなるかもしれないからそのつもりで、といわれているような気がした。
話しておきたいことと言うのが、デボンからツィードまでの距離の事
でなければいいが、とハロルドは思った。
「実は、昔、知り合いの娘がいてなあ。可愛い娘だった。ウェルズに住んでいたんだ。
じつは、その娘は俺の初キスの相手で、それ以上のこともちょっことさせて
くれた。なんのことかわかるよな。いま思えば、あの娘はおれのためなら
なんだってする気でいたんだろうな。けど、おれはそれに気付かなかった。
なにせ、頭は仕事の事でいっぱい、出世のことしか考えていなかったんでね。
それからほんの2,3年後だったかな、結婚式によばれて行ってみてはじめて
気がついたんだ。彼女と結婚する男はとんでもない果報者だってことにね」。
わたしはクウぃーに恋したことはない、いまおたくが言ったような意味で
恋したことは一度もないといったほうがいい、とハロルドは思った。
だが、同時に、相手の話の腰を折るのも無作法な気がした。
「心はぼろぼろさ。それ以来、飲み始めた。あとはもうめちゃくちゃだ。
わかるだろ?」。ハロルドはうなずいた。
「結局、ムショ暮らしが6年さ。女房は笑うけど、その俺が近頃じゃ、工作
なんかやってるよ。テーブルに飾るやつをね。ネットで安物の飾りやバスケット
なんか手に入れて作るんだ。実際の話。」と、そこまで言って経営者は指で
耳をほじくった。
「人間、誰にだって過去はある。ああすればよかった、あんなことをしなきゃ
良かった、と思うことがあるものさ。幸運を祈るよ。その女性が見つかると
いいな」経営者は耳から指を引き抜き、顔をしかめてその指をしげしげと
見つめた。
「運がよきゃ、きょうの午後には目的地に着けるだろうよ」。
経営者の誤解を正してみても意味がない。他人にこの旅の本質を、
それどころかツィードの正確な位置さえ理解してもらえるとは思えない。
おまけに、食堂とは名ばかりで、表の道路に面しているが、壁際に
ソファの3点セットが押し付けてあるのと、中央に二人掛けのテーブルが
ひとつあるだけの狭い部屋だ。オレンジ色のシェードをかけたフロアランプで
照らされた室内に、湿気のにおいが漂っている。前面がガラス張りの
キャビネットには、スペイン人形のコレクションと、矢車草のドライフラワー
薄葉紙をひねって作った花のようにかさかさ、が並んでいる。女主人は
テーブルに朝食を出すと、戸口に腕を組んで座ったまま。ハロルドの様子を
見守っていた。
モーリーンがとらえたハロルドの目は、無防備で剥き出しであった。
ハロルドがモーリーンの目を捉えた。これまでの歳月がバラバラと
崩れて消えていった。モーリーんの目には、遠い昔の奔放な若者が
とりつかれたように踊って、彼女の全身の血管を愛の混沌で満たした
若者がよみがえった。
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モーリーんはしだいしだいに、ドアの上と下からこぼれる光とうつろな
空間を水のように満たすホスピス内の物音を意識し始めた。室内は、
いつしか暗くなり、細部の見分けがつかなくなっている。クウィーニーの
形さえぼやけ始めている。マーリーンはまたあの波のことを、そして
人生は終末があって初めて完結するものであることを思った。
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暫くの間、沈黙のなかに彼女の言葉だけが響いていた。ハロルドは、あらためて
人生が一瞬にして変わりうるものであることに気付かされて胸を衝かれた。
ごく日常的なこと、自分のパートナーの犬の散歩をしたり、いつもの靴を
履いたりと言うごく日常的なことをしていながら、大切なものを失おうと
していることに気付かない、と言う事だってありうるのだ。
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ハロルドのいないいま、日々はただ果てしなく流れて明日が今日になり、
今日が昨日になるだけで、モーリーんはそれをただ無気力に見つめる
ばかり。無為に過ぎてゆく時間をどう埋めればよいのか分からずにいた。
ベッドのシーツでも、剥がそうと決心するのに、そんなことをしても意味が
ないことを思い知らされるばかりだった。いくら洗濯物の籠を乱暴に床に
置いてみても、あるいは、助けてなんかくれなくてもチャント一人で
やっていけますよ、おあいにくさま、と憎まれ口を叩いてみても、それを
見聞きする者は一人もいないのだから。
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一つの記憶が押し寄せてきた。ハロルドが一番恐れていた記憶の一つが。ふだんは
それをとても上手に抑えつけていられるのに。クウィにーの事を考えようとした。
でも、それ合えも上手く行かない。両肘を突き出して足取りを速め、怒りに任せて
敷石を踏んだ。怒りのあまりの激しさに、息さえすることさえ難しい。だが、
何をしても、20年前のある午後、全てが終わったあの日の午後の記憶から
逃れることは出来なかった。あの木製のドアに伸びる自分の手が見える。
肩にあの日の太陽の温もりを感じる。腐葉土の匂いがする。熱い空気の
匂いがする。あるはずのない沈黙の音が聞こえる。
「やめろ」と叫んで、ハロルドは雨に殴りかかった。
突如、ふくらはぎが破裂した。皮膚の真下の筋肉が切り裂かれたようだ。
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マルチの笑顔が少しづつ崩れ、その口から今一度笑い声が洩れた。
笑うと彼女の顔が柔和になり、頬にその表情に相応しい朱が刺すのが分かった。
後れ毛が一筋、きつく結んだポニーテールから垂れていた。マルチがそれを
掻き上げようとしないのが、ハロルドには、嬉しかった。
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嵐が近づいていた。雲がフードのように大地にかぶり、ブラックダウン
丘稜に不気味に明るい光を投げた。旅に出てはじめて、ハロルドは携帯電話を
持ってこなかったことを後悔した。前方で待っていることに対する
心構えが出来ていないような気がした。モーリーんと話をしたかった。
木々の梢が硬質なうねりを見せる空を背に輝きを放ち、やがて最初の
風にうたれて身を震わせた。木の葉と小枝が宙に舞った。鳥たちが叫びを
上げた。かなたで雨の帆がはためき、ハロルドと丘稜地とのあいだに
垂れ下がった。ハロルドは、ジャケットの中に縮こまり、雨の数滴をしのいだ。
どこにも隠れ場所はない。雨が防水ヒャケッとを叩き、首筋を下り、
伸縮性のある糸を織り込んだ袖口を駆け上がる。雨粒が胡椒の実のように
身体をうち、水溜りで渦を巻き、側溝を走る。しかも、車が
通り過ぎるたびに泥はねとなってハロルドのデッキシューズに襲い掛かる。
1時間過ぎるとハロルドの足は、水そのものになり、濡れた衣服が絶えず
肌をこすってむずがゆさを連れてくる。
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やがて、すべてがぱたりとやんだ。
話しかけることも、わめくことも、ハロルドと眼を合わせることも。新たに生じた
沈黙は、以前のそれとは、違っていた。以前の沈黙は、お互いに相手を思いやる
あまりの沈黙だったが、いまや守るべきものは何もなかった。
モーリーンが胸の想いを口にするまでもなく、彼女の顔を見るだけで、ハロルド
には彼女との仲を修復できる言葉一つ、身振り1つないことが察せられた。
モーリーんはもはやハロルドを責めなかった。
------
眠りは浅くとぎれがちだった。何かのパーティに出ている夢を見た。、、、、、、、
肝臓が飛び出しているのに、痛みは全く感じない。感じるのは
むしろパニックににたもの、パニックの苦悶だ。突如として襲いかかった
その苦悶が、額の生え際に刺すような痛みを残していく。誰にも気付かれずに
この肝臓を身体の中に戻すにはどうすればいいだろう?
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(新しい気付きの瞬間)
ハロルドの脳裏に食べ物を運んでくれたあの女性の優しさが、そして、マルチ
の優しさが蘇った。彼女たちは彼が遠慮したにもかかわらず、慰めと休息の場を
提供してくれた。そんな彼女たちの親切を受け入れた時、彼は新しい何かを学んだ。
受け取ることは与えることと同じ様に贈り物だと言う事を。なぜなら、
受け取ることも与えることも、ともに勇気と謙虚さの両方を必要とするからだ。
前々日の夜、例の納屋で寝袋にくるまっていたときに感じた安らぎを思い出した。
そんなことをあれこれと考えながら歩く彼の眼下では、どこまでも続く
大地がはるかな空と溶け合っていた。ふいにハロルドは気付いた。
べりっくにたどり着くには何をすべきかに気付いたのだ。
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A道路を歩き,B道路を歩いた。小道も歩いたし、踏み分け道も歩いた。震えながら
北を指すコンパスの針に従って歩いた。日中の光りを受けて歩く日もあれば、
夜の闇をついて歩く日もあった。いつ歩くかは気分次第。何キロも何キロも歩いた。
くつずれが酷くなった時には、抱くとテープを巻いた。眠くなれば眠り、
また起き上がって歩き始めた。星空の下を歩き、眉月の優しい光りを浴びて歩いた。
木の幹がまるで白骨のように光っていた。風に抗い雨を突いて歩き、陽に焼かれた
空の下を歩いた。生まれてからずっとこうして歩く事を待っていたような気がした。
いつしかどこまで歩いたかが判らなくなっていたが、まだ歩き続けるだけ
は判っていた。ウォルズの蜂蜜色の石がウォリックの赤レンガに変わり、
大地は平らになってイングランドの中部に入った。、、、、、、
「無理に急がない。だらだらもしない。ただ片足をもう一方の足の前に置く
それを繰り返していればいずれベリックにつくと言うのが道理だよ。じつは、
このごろ、人間ってやつは必要以上に座っていることが多すぎると思うように
なってね」ハロルドはそういって微笑んだ。「足があるのはあるくため
じゃないのかね」
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地平線上に青い峰が連なっていた。それを見たハロルドは、何故か無性に登って
みたくなった。東の空たかくに太陽が昇り、取り残された月が雲と見間違えそうな
ほどに淡い色に変わっている。この連中がいなくなってくれればいいのだが、
何かほかに信じるものを見つけてくれればどんなにいいだろう。ハロルドは
首を左右に振り、そんな事を思ったわが身の不実さをこっぴどく叱った。
-------
歩き始めたばかりのころに出会った人たちのことや、つい最近行きあった人たち
のことも話した。藁葺き屋根の家に住む女性もいれば、車に山羊を乗せた夫婦者
もいた。一日に10キロ近く歩いて泉の水を汲みに行くと話してくれた元歯医者
もいた。
「その人が教えてくれたんだよ、人間は、大地が無料で与えてくれるものを受け取らな
ければ
ならない、とね。それは神への感謝の行為だというんだ。だから、それ以来、
泉を見ると必ず足を止めて水を飲むことにしてるよ」
そういう話をしているときだけ、ハロルドは自分が随分変わった事を意識するの
だった。
フランス菊やコシカ菊、ホソバウンラン、スィートホップの若枝は食べたければ
食べられる事を教えた。ディビッドにしてやれなかったことをなにもかも
いまやウゥルフのためにしてやっているという気がしていた。ウィルフに見せたいこと
、
教えたやりたいことがいくらでもあった。
--------
平板でひそやかな思いとしてはじまったものが、じかんとともにしだいに激しい
自責の念へと変わっていった。自分など取るに足りない存在だと思えば思うほど、
ハロルドは益々その想いから逃れなくなった。おれはいったい何様なのだ。
クウィーニーの所へいこうなんて!、、、、、、ハロルドはここまでの自分の
旅のことを思い出した。途中であった人たち、目にした場所、その下で眠った
空。いまのいままで彼はそういうものをお土産のコレクションのように
心に抱いて旅を続けてきた。歩くのがつらくて諦めたくなった時にも、
そのコレクションが足を先に進めてくれた。なのに、いまはそういう
人たちや場所、或いは空のことを考えても、もうその中に自分の姿を
みつけることはできない。、、、、、彼の足跡はいずれ雨で流されてしまう。
まるで今まで通ってきた場所のどこにもいなかったようなものだ。
であった人のだれにも出会わなかったようなものではないか。
背後を振り返った。早くも彼の痕跡は消えていた。彼の気配はどこにも
のこっていなかった。
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ハロルドはもう一度だけ、巨大な腫瘍に視線を向けた。球根のような形を
したてらてら光る塊、そこに細い静脈と紫色の痣が見える。
皮膚が塊を収めているのももう限界とばかりに悲鳴を上げているように
見える。クぃーにーの開いたままの片目が、ハロルドに向きて瞬きをした。
もう片目から、濡れたものが一筋すっと流れて枕に落ちた。
------
ぽつんとひとつ、うちひしがれた人影がベンチに座り、吹き付ける風に
背中を丸めて波打ち際を見つめている。生まれてからずっとそうしていた
とでもいうように。空は灰色でどんよりと重い。だから、どこからが空で
どこまでが海かの見分けがつかない。
モーリーンは足を止めた。胸郭の内側で心臓が早鐘を打っている。
-------
西から北に向けて強風が吹きつけ、雨をつれてきた。寒くてとても眠れたもの
ではなかった。だから、寝袋の中で縮こまったまま、月の面を走るちぎれ雲
を眺めて、ぬくもりを逃がすまいと頑張っていた。寝袋の中では犬が
ぴたりと寄り添っていた。、、、、、、、、
ディビッドが我が身をわざと危険に晒したあの日、まるで父親の凡庸さに
当てつけるかのように冒したあの行為の数々が浮かび上がった。
ハロルドの身体ががたがたと震え始めた。最初は歯の根が合わなくなるぐらい
の震えが、やがて勢いを得たかのように、手も足も腕も脚も、がたがたと
痛みを覚えるほどの激しさで震え始めた。寝袋の外に眼を向けた。何か
慰めになるもの、あるいは、気を紛らわせてくれるものを探したが、以前と
異なり、あたりの田園景色に親しみのある一体感を見出すことはできなかった。
------
「お前の言うとおりだよ。あんなの、面白くもなんともなかったのに」と言いながら
ハロルドはハンカチで目元を拭いた。一瞬、正気に戻ったように見えた。
「そこだったんだよ、大事なのは。当たり前のこと言っただけなんだよ。なのに、
あんなにおかしかったのは、きっと俺たちが幸せだったからだ」
-------
ぽつんとひとつ、うちひしがれた人影がベンチに座り、吹き付ける風に背中を丸めて
波打ち際を見つめている。生まれてからずっとそうしていたとでも言うように。
空は灰色でどんよりと重く、海も灰色でどんよりと重い。だから、どこからが空で
何処までが海かの見わけがつかない。
そこに大きな意味を汲みとることになる幾つもの瞬間のひとつだった。
その午後遅く、いきなり雨がやんだ。あまり唐突で、それまで降っていた
ことさえ信じられないくらいのやみ方だった。東の空で、雲ににわかに
亀裂が走り、空の低いところに一本のきらめく銀色の帯が出現した。
ハロルドは思わずその場に立ちつくし、灰色の雲海に二度、三度と亀裂が
走っては、新たな色が現われる様に見とれていた。青、赤みがかった濃い
茶色、黄桃色、緑、そして茜色。やがて、雲はくすんだピンクに染め上げられた。
ひとつひとつの色がきらめき震えつつ滲み出し、鉢合わせしては混ざり合った
かのようだった。ハロルドは動けずにいた。変化の全てを自分の目で見届けたかった。
大地に差す光りは黄金色。その光りを浴びて彼の肌も暖かい。足下では、大地がきしみ
、
ささやき交わす。空気は緑の匂いがして、始まりの気配に満ちている。柔らかな
霧が立ち上がる。細くたなびく煙の筋に様だ。疲労困憊、足をあげることさえ
つらいのに、旨は希望に満ちている。めまいがするほどの希望に。
自分自身より大きなものに目を向けてそらさずにいれば、きっとベリックまで
歩き通せるはずだ。
ずしりと重い静寂が身体を這い上がった。しばらくそれに逆らってみたが、
やがてたまらず目をつむった。太陽の光りが、まぶたを透かして赤く輝き、
小鳥の歌と通り過ぎる車の音が溶け合ってひとつになった。
音は彼の中に、そして同時に遠くにあった。、、、
「世間の人は歩くなんて単純極まりない事と思うんでしょうね」
と、しばらくしてやっと女性は口を開いた。「片足をもう一方の足の前に置く
だけのことだと。だけど、わたしなんて、本能的なことと思われてることをする
のがどれほど難しいか、いまだに驚かずにいられない」
女性は舌で下唇をしめらせてから、次の言葉が出てくるのを待った。「たべること」
と、ずいぶんたってから又口を開いた。「それも難しい事のひとつね。なかには、
食べる事にどうしようもなくつらい思いをする人もいる。しゃべることもそう。
愛する事も。
そういうのもみんな、ことと次第によってはむずかしいことね」そういって、女性は
庭を、ハロルドではなく、庭を見つめた。
申し分ない春の日だった。空気は柔らかくて甘く、空は高くて鮮烈な蒼さだった。
最後にロード13番地のメッシュカーテンを透かして外をのぞいたときには、
木立ちも生垣もスカイラインを背景に黒々とした骨や棒にしかみえなかった。
ところが、いまこうして外の世界を自分の足で歩いてみると、目の向かうところすべて
、畑も、庭も、野原も、木立ちも、生垣も、すべてに新しい命がはじけている。
頭上では、着生植物の若葉が木の枝にしがみついて天蓋をかたちづくっている。
目の覚めるような黄色の雲はレンギョウの花。地をはっているのは、紫ナズナ。
柳の若芽が銀色の噴水となって震えている。この春最初のジャガイモの芽が大地を
割って顔を出し、グズベリーとスグリの繁みは早くも小さな蕾をつけて、
モーリーンがその昔よくつけていたイヤリングを思い出す。溢れんばかりの
新しい命、ハロルドはそれにめまいさえ覚えた。
「幸運を祈っておくれ」というと、母親は水に飛び込むときのように大きく息を
吸って玄関をでていった。
そのときのことが細部まで鮮明に蘇り、その記憶のほうがいま自分の足下にある
台地よりもリアルに感じられる。母親のムスクの香りが鼻をくすぐる。顔には
たいた白粉が見える。もしあの時母親が頬にキスさせてくれていたら、間違いなく
マシュマロの味がしたはずだ。
「追想の記述」
ハロルドの脳裏に、イーストボーンの休暇村で踊るデビッドの姿が蘇った。
デビッドがツイストコンテストで優勝したあの夜のことが。、、、、
蘇った事は他にもあった。デビッドの学校時代の事。デビッドが自分の部屋に
こもって過ごした時間、親の手助けをいっさい受け付けなかった事。
「自然の情景、風景変化」
エクセタの街はホロルドに不意打ちを食らわせた。彼の中にいつのまにか
出来上がっていたゆったりした体内リズムが、この大都会の凶暴なまでの
激しさを目のあたりして、いまや崩壊の危機に晒されていた。ここに来るまでは、
どこまでも開けた大地と空とが与えてくれる安心感、すべてがあるべきところにあると
いう
安心感に、心地よく浸っていられた。自分自身をたんなるホロルドと言う人間
ではなく、もっと大きな何者かの一部だと思っていられた。なのに、あまりにも
視界の限られたこの街では、何が起きてもおかしくないし、その何かが何であっても、
それに相対する心構えが出来ていないように思えてならなかった。
足の下に、たとえ痕跡でもいいから土がないものかと探してみても、眼に入るのは
敷石とアスファルトばかり。何もかもが彼に警告を発していた。行きかう車も。
ビルも。人並みを押し分け、携帯電話でわめきながら先を急ぐ人も。そんな顔の
ひとつひとつにほほえみかけてみたが、それだけで疲労困憊する有様だった。
あまりにも多くの見知らぬ人々の顔を意識の中に取り込むというのは、ひどく
疲れることだった。
二本の足で、たったひとり土の上を歩いていたときにははっきり分かっていたものが、
品数も、通りの数も、正面がガラス張りのショッピングアウトレットの数も、
何もかもが多すぎるこの街では、何がなんだかわからなくなった。早く広々とした
自然の中に戻りたくてたまらなかった。
ーーーーー
空をべったりと覆う白くて分厚い雲がバースの街を押しひしぎ、命を
搾り取ろうとしているように見える。バーやカフェが舗道にあふれだし、
人々は肌着1つになって飲んだり買い物をしたりしている。だが、
もう何ヶ月も太陽にお目にかかったことのなかった彼らの肌は真っ赤に
染まっている。ハロルドはジャッケットを脱いで腕にかけて置いたが、
シャツの袖で頻繁に汗を拭わねばならなかった。草花の綿毛がそよ吹く風
さえない空気の中に浮いていた。
---------
夜明けの薄明かりの中に踏み出したハロルドは、驚異の念とともに、空が
強烈な色で燃え上がり、やがて、その色をなくして、青一色に変わる様を
見守った。一日の他とはまったく異なる時間の中にいるような、平凡なもの
など何もない時間の中にいるような、そんな気がした。
ーーーーー
トントの郊外にたどり着いた。家と家が軒を接して建ち、アンテナが
林立している。窓に灰色のメッシュカーテンが掛かっている。中には、
金属のシャッターで守られた窓もある。わずかに土の見える庭では、
草花が雨でなぎ倒されている。舗装道路一面に桜の花びらが散り敷き、
濡れた紙でも貼り付けた様に見える。車が瀑音を上げながら走り去り、
耳を聾する。道路は油を引いた様に光っている。
ーーーーーー
部屋はがらんどうで真新しいペンキのにおいがした。壁は殺風景な白、
紫色のベッドカバーと同じ色のカーテン、枕上にはスパンコールを
縫い付けたクッションが三つ。辛い境遇にもかかわらず、マルティーナが
寝具にそこまで気づかいをしていることにハロルドは胸を衝かれた。
窓に目を向けると、階下の窓から見えていた大木の枝と葉が、窓ガラスに
押し付けられてもみくちゃになっていた。
ーーーーー
木々の梢が硬質なうねりを見せる空を背に輝きを放ち、やがて最初の風
に打たれて身を震わせた。木の葉と小枝が宙に舞った。鳥たちが叫びを
あげた。彼方で雨の帆がはためき、ハロルドと丘陵との間に垂れさがった。
ハロルドはジャケットの中に縮こまり、雨の最初数滴をしのいだ。
どこにも隠れ場所はない。雨がジャケットを叩き、首筋を下り、伸縮性
のある糸を織り込んだ袖口を駆け上がる。雨粒が胡椒の実のように身体
を打ち、水溜りで渦を巻き、側溝を走る。
ーーーーー
木立を透かして陽の光が差し込み、風を受けて細かく震える若葉が
アルミフォイルのようにきらめいた。、、、、、、、さしかかると、
民家の屋根が草ぶきに変わり、煉瓦もそれまでの黒色に近い灰色から
温かみのある赤に変わった。コデマリの枝が満開の花を付けて深々と
頭を垂れ、デルフィニウムの若芽が地面をやさしく突き上げている。
、、、、そしてアルムを確認し、美しさに思わず見とれた星型の花が
ヤブイチゲであることを知った。おかげで心が弾み、それから先も
事典と首ッぴきで草花の名前を確かめながら、ソーバ間での4キロ
を歩き通した。、、、、、、、大地は道路の左右で落ち込み、
そのまま視界が開けて彼方の丘稜地へと続いていた。
ーーーーー
照りつける太陽の下を歩き、打ちつける雨の中を、青く冷たい月の下を、
歩いた。だが、いまはもう何処まで歩いて来たかがわからなくなっている。
星たちで息づく硬質な夜空の下に座り、手が紫色に変わっていくのを
見守った。、、、、、、どの筋肉がどの腕を動かすのか思い出せい。
動かせば、どんな役に立つのかのかも思い出せない。
ーーーーーー
15分程歩いては、足を止め、痛む右脚を休めずには、いられなく
なっていた。背中も、腕も、肩も痛みがひどく、他のことは、
ほとんど考えられない。雨は太い針となってハロルドに襲いかかり、
家々の屋根と舗装道路に当って跳ねた。わずか一時間後、足がも
つれて休まずには、いられなくなった。雨が木の葉を打って
わななかせ、空気は柔らかな腐葉土のにおいを運んで来る。
ーーーーー
こうして自分の足で歩いていると、人生はこれまでと全くの違う
ものに見えてくる。土手の隙間からのぞく大地はゆるやかに起伏し、
やがて市松模様の畑地に変わり、それぞれの境界に生け垣や木立
が並んでいる。ハロルドは、おもわず脚を止めて目を凝らした。
緑にもたくさんの色合いがある事を知って、自分の知識の足りなさ
をいまさらのように思い知らされた。限りなく黒いベルベットの
質感の緑色もあれば、黄色に近い緑色もある。遠くで、太陽の光
が通り過ぎる車をとらえた。たぶん、窓にでも当たったのであろう。
反射した光が流れ星のように、震えながら、丘陵地を横切った
。どうしてこれまで一度もこういう事に気付かなかったのだ?
淡い色の、名前も知らない草花が生け垣の根元を埋め尽くしている。
サクラソやスミレも咲いている。
ーーーーー
ハロルドは、視線をそらせ、その視線を空に戻した。半ば目を閉じた
その様子は、その様子は、外界を遮断することでする事で、頭の中で
形を取りつつある真実をもっとはっきりと見ようとしているかのようだった。
ーーーーー
母は、水に飛び込む時の様に大きく息を吸って玄関を出て行った。
その時のことが、細部まで鮮明によみがえり、その記憶のほうが
自分の足下にある大地よりもリアルに感じられる。母親のムスクの香りが
鼻をくすぐる。顔にはたいた白粉が見える。、、、、、
木立を透かして陽の光が差し込み、風を受けて細かく震える若葉が
アルミホイルの様にきらめいた。プラムにさしかかると、民家の屋根が
草ぶきに変わり、煉瓦もそれまでの黒に近い灰色から温かみのある
赤に変わった。コデマリの枝がまんかいの花をつけて深々と頭を垂れ、
デルフォイの若芽が地面をやさしく突き上げている。
ーーーー
雨がやみ、それと同時に自然界に新たな成長の季節が訪れた。
木々や草花はいっせいに華やかな色彩とかおりをまき散らし、トチノキの
枝は小刻みに震えながら、円錐形の花キャンドルを支えていた。
白いヤマニンジンの花笠が道端をびっしりと覆っている。つるバラが
庭塀を這いあがり、深紅のシャクヤクがテッシュペパーのような花弁
開いている。りんごの木は花びらを振り落としはじめ、その後にビーズ
のような小さな実をのぞかせている。
ーーーーー
朝の空は青一色、そこに櫛で梳いたような雲がたなびき、木立の向こうには、
いまなお細い月が消え残っている。ハロルドはまた路上に戻れたことに安堵した。
、、、、、
ハロルドの頭は思考停止状態に陥っていた。けれど、広々と視界の開けた自然
な中に戻ったいま、彼はふたたびある場所と別の場所との中間地点にあって、
頭には、様々な情景がなんの束縛もなく去来している。歩きながら、
20年ものあいだ考えまいとして必死に抑えつけて来た過去のもろもろを
解き放った。おかげで、いま彼の頭の中では過去がけたたましくさえずり
ながら、独特の騒々しいエネルギーで駆け巡って行く。
ーーーーー
きれいに刈り込まれた芝生をあこがれの目で眺め、自分の素足が柔らかな芝に
沈むところを想像した。ベンチが数脚、スプリンターが一基。弓状に
ほとばしる水が鞭となって空気を打ちながら、ときおり陽の光を捉えて
きらめいている。
ーーーーーー
ハロルドの頭は次第しだいに澄み渡り、身体が溶けた。雨が屋根と
防水布を打ち始めた。けれども、その音はやさしく、あくまでも、
寛容で、幼いデビッドを寝かしつけた時のモーリーンの歌声を
思い出させた。やがて、雨音はやんだが、ハロルドには
むしろそれが寂しかった。いつしか雨音が彼の一部になって
いたかのようだった。いまや彼自身と大地との間に実体
あるものなど何一つ存在しないような気がした。
夜明け前に眼が覚めた。片肘をついて起き上がり、防水布
の隙間から新しい日が夜の闇を追いやり、地平線にあくまでも淡い
夜明けの光がしみこんで行く様を眺めた。
鳥たちがいっせいに歌い始めた。かなたの風景が浮かび上がり、
新しい日が自信たっぷりに立ち現れたときのことだった。
空は、灰色からクリーム色に、クリーム色からピーチ色に、
更に、藍色に、そして、青に変化した。霧の柔らかな舌が
谷底を這い、雲の中から丘の頂と人々の家が立ち上がった。
月は早くもおぼろな影になっている。
ーーーーーー
朝ごとに、太陽が地平線上に顔を見せてやがて天頂に達し、
夕方には沈んで、一日が別の一日へと道を譲った。ハロルドは
空と、その下で刻々と変化する大地を見つめて長い時間を
過ごした。峰峰の頂が昇りゆく太陽の光りを背に金色に照り映え、
その輝き映す民家の窓が、一つまた一つと強烈なオレンジ色に
染まって燃え立つように見えた。日暮れ時、木々の影が長くなり、
地面にもう一つの森が、闇で出来た森が、出現しかかったようだ。
早朝の霧について足を進め、乳白色の靄の中からぬっと頭を
突き出す高圧電線用の鉄塔に気付いて思わず顔をほころばせた。
丘の形が柔らかく平らになって、視界が開けた。見渡す限り、
穏やかな緑色が続いていた。どこまでも平らに伸びるサマセット
の湿地を通り抜けた。湿地を走る無数の水路が銀色の針のように
きらめいていた。地平線上にグラストンベリーの丘が鎮座し、
その向こうにメンディップの丘陵地が見えた。
ーーーーーー
夜明け前に目が覚めた。
片肘をついて起き上がり、防水布の隙間から、新しい日が夜
の闇を追いやり、地平線にあくまでも淡い夜明けの光が
しみこんで行く様を眺めた。鳥たちがいっせいに歌い始めた。
かなたの風景が浮かび上がり、新しい日が自信たっぷりに
たち現れた時のことだった。空は灰色から淡黄色に、淡黄色
から黄桃色に、更に、藍色に、そして青色に変化した。
霧の柔らかな舌が谷底を這い、雲の中から丘の頂と人々の家が
立ち上がった。月は早くも朧な影となっている。
ーーーー
これほど美しい5月は初めてだ。
来る日も来る日も、空は例えようのない青さに輝き、それを損なう
雲はひとかけらも見えない。家々の庭は早くもルピナスやバラ、
デルフィニウム、スイカズラの花、さらにライムグリーンの雲を
思わせるハゴロモグサで埋め尽くされている。虫たちが飛び立ち、
宙にとどまり、羽音をたて、空を切って飛び去っていく。
ハロルドはキンポウゲとヒゲナシとフランス菊とシロツメクサと
カラスノエンドウとナデシコの咲き競う野原を通り過ぎた。
生垣をニワトコの花房の甘い香りが包み、野生のクレマチスや
ホップ、ノイバラが絡み付いている。市民菜園もまた芽吹きの
季節を迎えている。レタス、ほうれん草、チャード、ビーツ、
ジャガイモの若芽、そして支柱に絡みついてドーム型に伸びる
えんどう豆が列を成している。
-------
小さな雲の塊があたりにいくつもの陰を落としながら走りすぎていく。
かなたの丘稜地に指す光はすすけている。夕闇のせいではなく、
前方に横たわる拾い空間の正だ。ハロルドは頭の中でイングランドの
最北端でまどろむクウィーニーと、南端の電話ボックスにいる自分、
そして、その中間にあるはずの。彼の知らない、だから、想像するしか
ないたくさんのものを思い描いた。道路、畑、森、荒野そして、
大勢の人間。その全てに出会い、通り過ぎるだろう。ジックリと考える
必要など毛頭ない。理屈をつける必要もない。その決断は思いつくと同時に
やってきた。
---------
アッシュバートンを経て352号線に入り、ヒースフィールドで一夜を過ごした。
途中、やはり歩いて旅する人たちに出会い、自然の美しさや間もなく
やってくる夏のことなど短く言葉を交わしては、お互いの旅の安全を祈り、
それぞれの目的地を目指してまた歩き始めた。曲がりくねった路を行き、
丘稜地の麓を辿りながら、ひたすら前へ前へ足を進めた。
けたたましい羽音もろとも木々のの枝からからすの群れが飛び出し、生け垣
のなかから若い鹿が飛び出してきた。車がどこからともなく轟音をあげて近づいて
きては走り去った。民家の門の内側には犬がいた。
側溝の蓋にはアナグマが数頭、まるで毛皮をかぶせた重しのように座っていた。
満開の花のドレスをつけた桜の木の一本、立ち騒ぐ風を受けて紙吹雪のように
花びらを散らした。
--------
次の日は、自分を叱咤して、夜明けと供に、歩き始め14キロほど稼いだ。
木々の間から、早朝の陽の光が矢となって、振り注いでいた。
なのに、午前をかなり半ばを過ぎるころ、空は頑固なちぎれ雲に覆い
つくされ目を上げるたびに、ちぎれ雲の一つ1つが灰色の山高帽の形を
とり始めた。ユスリカの蚊柱がたった。
キングスブリッジをでてから6日、ロードからおよそ69キロ、ズボン
の腰周りがゆるくなり、額と鼻、耳の皮膚が日に焼けて抜け落ちた。
時計を見たが、その前から時間が分かっていたことに気付いた。
朝と晩、足の指と踝と土踏まずを入念に点検し,皮膚の破れたところ
やすりむけたところを絆創膏と軟膏で手当てした。シーズン最初の
忘れな草の群生が月明かりを浴びて淡く輝いていた。
----------
どこまでも続く灰色のかたまりが空と大地を移動し、雨のカーテンを連れて
きて、周りのすべてから色彩と輪郭を奪っていった。ハロルドは前方を
見つめ、方向感覚を取り戻そうと或いは、これまで大きな喜びであった
雲の切れ目を探そうとしたがいくら眼をこらしても、またもや我が家の
メッシュカーテンを透かして世の中を見ている気分になった。何もかもが
家に居たときと同じだ。ガイドブックを見るのはやめた。ハロルドは、今、
自分の身体と闘い、その闘いに敗れつつある、という思いにさいなまれていた。
-------
東の空で、闇がひび割れ、淡い光の帯が現れたと思うまもなく、帯は空を
昇り、全体に広がり始めた。
---------
家々の窓にバター色の明かりとその中で動き回る人々の様子を見守った。人々は
やがてそれぞれのベッドにもぐりこみ、夢の世界に遊ぶだろう。そんな事を
考えている中にかれはふとある事に思い立った。おれはこんなにも彼らの身を案じ
彼らがとにもかくにも暖かく安全でいることにほっとしている。一方、この俺は
自由に歩き続けている。しょせん、ずっと、こうだったのだ。俺はいつも
人とは少しはなれたところで生きてきたのだ。月がくっきりと姿を見せた。中央に
真ん丸い月が、水の中から現われた銀貨のようにかかっていた。
マルチの笑顔が少しづつ崩れ、その口から今一度笑い声が洩れた。笑うと
彼女の顔が柔和になり、頬にその表情に相応しい朱がさすのがわかった。
後れ毛が一筋、きつく結んだポニーテールから垂れていた。マルチがそれを掻き揚げよ
うと
しないのが、ハロルドには嬉しかった。
それから暫らくの間、ハロルドのまぶたに浮かぶのは、若き日のモーリーンの
顔ばかりであった。彼の顔を見上げる彼女の無防備で屈託の無い顔。
柔らかな唇をなかば開いて、彼の次の言葉を待っている。あの時にはモーリーン
の関心は間違いなく自分に注がれていた。それを思い出したとき、ハロルドの中に
ぞくぞくするような喜が湧きあがった。しかも、その歓びが強烈過ぎて、もっと
いろいろなことを話してマルチに喜んでもらいたいという気になった。なのに、
なにも思いつけなかった。
ハロルドは、今度の旅で出会った人の事を思い出した。みんないささか変わった
ところのある人たちだったが、外見だけで異様だと思える人はいなかった。
あらためて自分の人生を考えれば、外見上は、やはり、ごくありふれた人生と
見えるのかもしれない。ほんとうは、内にとんでもない闇と厄介ごとを
抱えているというのに。
ハロルドは、あらためて人生が一瞬にして変わりうるものであることに
気付かされて胸を衝かれた。ごく日常的なこと、自分のパートナーの犬の
散歩をしたり、いつもの靴を履いたりと言うごく日常的なことをしていながら、
大切なものを失おうとしていることに気づかない、ということだってありうるのだ。
いまはもう見るものさえいないアルバムを引っ張り出した。
緑にこびりついてフェルト状になったほこりをスカートで拭き取った。
こぼれそうになる涙をこらえながら、ページを、1枚1枚、丹念に
見つめた。ほとんどが彼女とデビッドのものだが、そ間にはさまるようにして
何枚かそうでないものが混ざっていた。ハロルドの膝に抱かれた赤ん坊の
デビッド。赤ん坊を見つめる父親、手が両方とも宙に浮いている、触ってはいけない
と自分を戒めているようだ。そして、もう1枚、デビッドを肩車にしたハロルドの
写真がある。首を精一杯伸ばしてデビッドがまっすぐ座っていられるように、
落ちないようにと気を使っているようだ。十代のデビッドとネクタイ姿のハロルド
二人揃って金魚の池をのぞいている。モーリーンは思わず噴出した。二人と来たら
仲の良さそうなふりをしている。わざとそうしていることがばれないようにして、
いつもはそんなそぶりも見せなかったのに。でも、ハロルドは仲のよい父と息子で
ありたかったのだ。デビッドだって、たまにはそうありたかったのだ。モーリーンは
アルバムを膝に広げたまま、虚空を見つめた。その目には、カーテンではなく、
過去だけが映っていた。ふと気付くと、まぶたにまたしてもバンタムでのあの日
が蘇って来た。、、、、、
それから数日間、気分は一層落ち込んだ。一番いい部屋の床じゅうにアルバムが
転がっていた。それを元に戻すと言う作業に向き合う事が出来なかった。朝早く
洗濯機を回しても、洗いあがったものはそのまま1日中ほったらかしにしていた。
食事はチーズとクラッカーですませた。鍋一杯のお湯を沸かす気にさえなれなかったか
らだ。
彼女はいまやたんなる記憶再生装置でしかなかった。
その昔、モーリーンはよくワンピースのボタンホールに花をつけた
小枝や秋の葉を挿していたものだ。あれはたしか結婚直後のことだった。
ワンピースにボタンホールがないときには、耳の上に挿すこともあった。
そんな時には髪に花弁がはらはらとこぼれ落ちたものだ。ちょっと
おかしくないか。もう長いことそんなことを思い出しもしなかったのに。
経営者は腕を組み、それをぶよぶよの三段腹の上に置くと、両足を
広げて、休めの姿勢になった。これからちょっと話しておきたいことがある、
少し長くなるかもしれないからそのつもりで、といわれているような気がした。
話しておきたいことと言うのが、デボンからツィードまでの距離の事
でなければいいが、とハロルドは思った。
「実は、昔、知り合いの娘がいてなあ。可愛い娘だった。ウェルズに住んでいたんだ。
じつは、その娘は俺の初キスの相手で、それ以上のこともちょっことさせて
くれた。なんのことかわかるよな。いま思えば、あの娘はおれのためなら
なんだってする気でいたんだろうな。けど、おれはそれに気付かなかった。
なにせ、頭は仕事の事でいっぱい、出世のことしか考えていなかったんでね。
それからほんの2,3年後だったかな、結婚式によばれて行ってみてはじめて
気がついたんだ。彼女と結婚する男はとんでもない果報者だってことにね」。
わたしはクウぃーに恋したことはない、いまおたくが言ったような意味で
恋したことは一度もないといったほうがいい、とハロルドは思った。
だが、同時に、相手の話の腰を折るのも無作法な気がした。
「心はぼろぼろさ。それ以来、飲み始めた。あとはもうめちゃくちゃだ。
わかるだろ?」。ハロルドはうなずいた。
「結局、ムショ暮らしが6年さ。女房は笑うけど、その俺が近頃じゃ、工作
なんかやってるよ。テーブルに飾るやつをね。ネットで安物の飾りやバスケット
なんか手に入れて作るんだ。実際の話。」と、そこまで言って経営者は指で
耳をほじくった。
「人間、誰にだって過去はある。ああすればよかった、あんなことをしなきゃ
良かった、と思うことがあるものさ。幸運を祈るよ。その女性が見つかると
いいな」経営者は耳から指を引き抜き、顔をしかめてその指をしげしげと
見つめた。
「運がよきゃ、きょうの午後には目的地に着けるだろうよ」。
経営者の誤解を正してみても意味がない。他人にこの旅の本質を、
それどころかツィードの正確な位置さえ理解してもらえるとは思えない。
おまけに、食堂とは名ばかりで、表の道路に面しているが、壁際に
ソファの3点セットが押し付けてあるのと、中央に二人掛けのテーブルが
ひとつあるだけの狭い部屋だ。オレンジ色のシェードをかけたフロアランプで
照らされた室内に、湿気のにおいが漂っている。前面がガラス張りの
キャビネットには、スペイン人形のコレクションと、矢車草のドライフラワー
薄葉紙をひねって作った花のようにかさかさ、が並んでいる。女主人は
テーブルに朝食を出すと、戸口に腕を組んで座ったまま。ハロルドの様子を
見守っていた。
モーリーンがとらえたハロルドの目は、無防備で剥き出しであった。
ハロルドがモーリーンの目を捉えた。これまでの歳月がバラバラと
崩れて消えていった。モーリーんの目には、遠い昔の奔放な若者が
とりつかれたように踊って、彼女の全身の血管を愛の混沌で満たした
若者がよみがえった。
------
モーリーんはしだいしだいに、ドアの上と下からこぼれる光とうつろな
空間を水のように満たすホスピス内の物音を意識し始めた。室内は、
いつしか暗くなり、細部の見分けがつかなくなっている。クウィーニーの
形さえぼやけ始めている。マーリーンはまたあの波のことを、そして
人生は終末があって初めて完結するものであることを思った。
-------
暫くの間、沈黙のなかに彼女の言葉だけが響いていた。ハロルドは、あらためて
人生が一瞬にして変わりうるものであることに気付かされて胸を衝かれた。
ごく日常的なこと、自分のパートナーの犬の散歩をしたり、いつもの靴を
履いたりと言うごく日常的なことをしていながら、大切なものを失おうと
していることに気付かない、と言う事だってありうるのだ。
-------
ハロルドのいないいま、日々はただ果てしなく流れて明日が今日になり、
今日が昨日になるだけで、モーリーんはそれをただ無気力に見つめる
ばかり。無為に過ぎてゆく時間をどう埋めればよいのか分からずにいた。
ベッドのシーツでも、剥がそうと決心するのに、そんなことをしても意味が
ないことを思い知らされるばかりだった。いくら洗濯物の籠を乱暴に床に
置いてみても、あるいは、助けてなんかくれなくてもチャント一人で
やっていけますよ、おあいにくさま、と憎まれ口を叩いてみても、それを
見聞きする者は一人もいないのだから。
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一つの記憶が押し寄せてきた。ハロルドが一番恐れていた記憶の一つが。ふだんは
それをとても上手に抑えつけていられるのに。クウィにーの事を考えようとした。
でも、それ合えも上手く行かない。両肘を突き出して足取りを速め、怒りに任せて
敷石を踏んだ。怒りのあまりの激しさに、息さえすることさえ難しい。だが、
何をしても、20年前のある午後、全てが終わったあの日の午後の記憶から
逃れることは出来なかった。あの木製のドアに伸びる自分の手が見える。
肩にあの日の太陽の温もりを感じる。腐葉土の匂いがする。熱い空気の
匂いがする。あるはずのない沈黙の音が聞こえる。
「やめろ」と叫んで、ハロルドは雨に殴りかかった。
突如、ふくらはぎが破裂した。皮膚の真下の筋肉が切り裂かれたようだ。
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マルチの笑顔が少しづつ崩れ、その口から今一度笑い声が洩れた。
笑うと彼女の顔が柔和になり、頬にその表情に相応しい朱が刺すのが分かった。
後れ毛が一筋、きつく結んだポニーテールから垂れていた。マルチがそれを
掻き上げようとしないのが、ハロルドには、嬉しかった。
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嵐が近づいていた。雲がフードのように大地にかぶり、ブラックダウン
丘稜に不気味に明るい光を投げた。旅に出てはじめて、ハロルドは携帯電話を
持ってこなかったことを後悔した。前方で待っていることに対する
心構えが出来ていないような気がした。モーリーんと話をしたかった。
木々の梢が硬質なうねりを見せる空を背に輝きを放ち、やがて最初の
風にうたれて身を震わせた。木の葉と小枝が宙に舞った。鳥たちが叫びを
上げた。かなたで雨の帆がはためき、ハロルドと丘稜地とのあいだに
垂れ下がった。ハロルドは、ジャケットの中に縮こまり、雨の数滴をしのいだ。
どこにも隠れ場所はない。雨が防水ヒャケッとを叩き、首筋を下り、
伸縮性のある糸を織り込んだ袖口を駆け上がる。雨粒が胡椒の実のように
身体をうち、水溜りで渦を巻き、側溝を走る。しかも、車が
通り過ぎるたびに泥はねとなってハロルドのデッキシューズに襲い掛かる。
1時間過ぎるとハロルドの足は、水そのものになり、濡れた衣服が絶えず
肌をこすってむずがゆさを連れてくる。
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やがて、すべてがぱたりとやんだ。
話しかけることも、わめくことも、ハロルドと眼を合わせることも。新たに生じた
沈黙は、以前のそれとは、違っていた。以前の沈黙は、お互いに相手を思いやる
あまりの沈黙だったが、いまや守るべきものは何もなかった。
モーリーンが胸の想いを口にするまでもなく、彼女の顔を見るだけで、ハロルド
には彼女との仲を修復できる言葉一つ、身振り1つないことが察せられた。
モーリーんはもはやハロルドを責めなかった。
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眠りは浅くとぎれがちだった。何かのパーティに出ている夢を見た。、、、、、、、
肝臓が飛び出しているのに、痛みは全く感じない。感じるのは
むしろパニックににたもの、パニックの苦悶だ。突如として襲いかかった
その苦悶が、額の生え際に刺すような痛みを残していく。誰にも気付かれずに
この肝臓を身体の中に戻すにはどうすればいいだろう?
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(新しい気付きの瞬間)
ハロルドの脳裏に食べ物を運んでくれたあの女性の優しさが、そして、マルチ
の優しさが蘇った。彼女たちは彼が遠慮したにもかかわらず、慰めと休息の場を
提供してくれた。そんな彼女たちの親切を受け入れた時、彼は新しい何かを学んだ。
受け取ることは与えることと同じ様に贈り物だと言う事を。なぜなら、
受け取ることも与えることも、ともに勇気と謙虚さの両方を必要とするからだ。
前々日の夜、例の納屋で寝袋にくるまっていたときに感じた安らぎを思い出した。
そんなことをあれこれと考えながら歩く彼の眼下では、どこまでも続く
大地がはるかな空と溶け合っていた。ふいにハロルドは気付いた。
べりっくにたどり着くには何をすべきかに気付いたのだ。
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A道路を歩き,B道路を歩いた。小道も歩いたし、踏み分け道も歩いた。震えながら
北を指すコンパスの針に従って歩いた。日中の光りを受けて歩く日もあれば、
夜の闇をついて歩く日もあった。いつ歩くかは気分次第。何キロも何キロも歩いた。
くつずれが酷くなった時には、抱くとテープを巻いた。眠くなれば眠り、
また起き上がって歩き始めた。星空の下を歩き、眉月の優しい光りを浴びて歩いた。
木の幹がまるで白骨のように光っていた。風に抗い雨を突いて歩き、陽に焼かれた
空の下を歩いた。生まれてからずっとこうして歩く事を待っていたような気がした。
いつしかどこまで歩いたかが判らなくなっていたが、まだ歩き続けるだけ
は判っていた。ウォルズの蜂蜜色の石がウォリックの赤レンガに変わり、
大地は平らになってイングランドの中部に入った。、、、、、、
「無理に急がない。だらだらもしない。ただ片足をもう一方の足の前に置く
それを繰り返していればいずれベリックにつくと言うのが道理だよ。じつは、
このごろ、人間ってやつは必要以上に座っていることが多すぎると思うように
なってね」ハロルドはそういって微笑んだ。「足があるのはあるくため
じゃないのかね」
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地平線上に青い峰が連なっていた。それを見たハロルドは、何故か無性に登って
みたくなった。東の空たかくに太陽が昇り、取り残された月が雲と見間違えそうな
ほどに淡い色に変わっている。この連中がいなくなってくれればいいのだが、
何かほかに信じるものを見つけてくれればどんなにいいだろう。ハロルドは
首を左右に振り、そんな事を思ったわが身の不実さをこっぴどく叱った。
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歩き始めたばかりのころに出会った人たちのことや、つい最近行きあった人たち
のことも話した。藁葺き屋根の家に住む女性もいれば、車に山羊を乗せた夫婦者
もいた。一日に10キロ近く歩いて泉の水を汲みに行くと話してくれた元歯医者
もいた。
「その人が教えてくれたんだよ、人間は、大地が無料で与えてくれるものを受け取らな
ければ
ならない、とね。それは神への感謝の行為だというんだ。だから、それ以来、
泉を見ると必ず足を止めて水を飲むことにしてるよ」
そういう話をしているときだけ、ハロルドは自分が随分変わった事を意識するの
だった。
フランス菊やコシカ菊、ホソバウンラン、スィートホップの若枝は食べたければ
食べられる事を教えた。ディビッドにしてやれなかったことをなにもかも
いまやウゥルフのためにしてやっているという気がしていた。ウィルフに見せたいこと
、
教えたやりたいことがいくらでもあった。
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平板でひそやかな思いとしてはじまったものが、じかんとともにしだいに激しい
自責の念へと変わっていった。自分など取るに足りない存在だと思えば思うほど、
ハロルドは益々その想いから逃れなくなった。おれはいったい何様なのだ。
クウィーニーの所へいこうなんて!、、、、、、ハロルドはここまでの自分の
旅のことを思い出した。途中であった人たち、目にした場所、その下で眠った
空。いまのいままで彼はそういうものをお土産のコレクションのように
心に抱いて旅を続けてきた。歩くのがつらくて諦めたくなった時にも、
そのコレクションが足を先に進めてくれた。なのに、いまはそういう
人たちや場所、或いは空のことを考えても、もうその中に自分の姿を
みつけることはできない。、、、、、彼の足跡はいずれ雨で流されてしまう。
まるで今まで通ってきた場所のどこにもいなかったようなものだ。
であった人のだれにも出会わなかったようなものではないか。
背後を振り返った。早くも彼の痕跡は消えていた。彼の気配はどこにも
のこっていなかった。
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ハロルドはもう一度だけ、巨大な腫瘍に視線を向けた。球根のような形を
したてらてら光る塊、そこに細い静脈と紫色の痣が見える。
皮膚が塊を収めているのももう限界とばかりに悲鳴を上げているように
見える。クぃーにーの開いたままの片目が、ハロルドに向きて瞬きをした。
もう片目から、濡れたものが一筋すっと流れて枕に落ちた。
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ぽつんとひとつ、うちひしがれた人影がベンチに座り、吹き付ける風に
背中を丸めて波打ち際を見つめている。生まれてからずっとそうしていた
とでもいうように。空は灰色でどんよりと重い。だから、どこからが空で
どこまでが海かの見分けがつかない。
モーリーンは足を止めた。胸郭の内側で心臓が早鐘を打っている。
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西から北に向けて強風が吹きつけ、雨をつれてきた。寒くてとても眠れたもの
ではなかった。だから、寝袋の中で縮こまったまま、月の面を走るちぎれ雲
を眺めて、ぬくもりを逃がすまいと頑張っていた。寝袋の中では犬が
ぴたりと寄り添っていた。、、、、、、、、
ディビッドが我が身をわざと危険に晒したあの日、まるで父親の凡庸さに
当てつけるかのように冒したあの行為の数々が浮かび上がった。
ハロルドの身体ががたがたと震え始めた。最初は歯の根が合わなくなるぐらい
の震えが、やがて勢いを得たかのように、手も足も腕も脚も、がたがたと
痛みを覚えるほどの激しさで震え始めた。寝袋の外に眼を向けた。何か
慰めになるもの、あるいは、気を紛らわせてくれるものを探したが、以前と
異なり、あたりの田園景色に親しみのある一体感を見出すことはできなかった。
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「お前の言うとおりだよ。あんなの、面白くもなんともなかったのに」と言いながら
ハロルドはハンカチで目元を拭いた。一瞬、正気に戻ったように見えた。
「そこだったんだよ、大事なのは。当たり前のこと言っただけなんだよ。なのに、
あんなにおかしかったのは、きっと俺たちが幸せだったからだ」
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ぽつんとひとつ、うちひしがれた人影がベンチに座り、吹き付ける風に背中を丸めて
波打ち際を見つめている。生まれてからずっとそうしていたとでも言うように。
空は灰色でどんよりと重く、海も灰色でどんよりと重い。だから、どこからが空で
何処までが海かの見わけがつかない。
274 夜明け時、青白い月がしらじら明けの光の中で、いましも太陽にひれ伏そうと している。ハロルドとウィルは朝霧の中を歩いていた。ピンク色の羽のような スゲとオオバコの濡れた穂先が、二人の足をひんやりなぶった。草の茎に 露のしずくが宝石となってぶら下がり、刀身状の草の葉のあいだには、ふんわり したパフのような蜘蛛の巣がかかっている。登る朝日が空の低いところで まばゆく光り、前方にあるものの形がぼやけて霧の中に溶け込んでいくようだ。 ハロルドは道端の、自分たちの足が踏んでできた平らな跡を指さした。 「あれが君と私だよ」、、、、 ふたりでポプラの根元に腰を下ろし、風を受けてかさこそと鳴る葉擦れの音に 聞き入った。 「震える木といわれているんだよ、ポプラは」とハロルドは言った。 「すぐに見つけられるんだ。震え方がすごくて、とおくからだと細かな光に 包まれているみたいに見えるからね」 歩き始めたばかりのころに出会った人たちのことや、つい最近行き会った人たち のことも話した。藁葺き屋根の家に住む女性もいれば、車に山羊を乗せた夫婦もいた。 一日に十キロ近く歩いて泉の水を汲みに行くと話してくれた元歯科医もいた・ 「その人が教えてくれたんだよ。人間は大地が無料で与えてくれるものを 受け取らなければいけない、とね。それは神への感謝の行為だというんだ。だから、 それ以来、泉を見ると必ず足を止めて水を飲むことにしているよ」
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