2016年3月28日月曜日

志賀の石

旧志賀町は、以前風の街と描いたが、石の街でもある。神社の狛犬、石灯篭、家の基礎
石、
車石など様々な形で使われて来た。小野にある古墳には縦横3メートル以上の石版が
壁や天井に使われている。古代から近世まで石の産地として頑張ってきている。
例えば、南小松は江州燈籠と北比良は家の基礎石等石の切り出し方にも特徴があったよ
うで、
八屋戸も守山石の産地でも有名であった。此処で、文献などから志賀地域の様子を
概観していく。


4.車道とは

昭和6年から8年にかけて京津国道改良工事が施工された。逢坂峠切り下げ工事中(昭
和6年5月)、在来道路下から車石列が出土している。この時、目撃した人は、「二列
の敷石の幅は一間ほどある、昔の車は大きく一間位の幅があった」と証言している。ま
た、また同年12月頃、日ノ岡峠道の壁面に「旧舗石」とはめ込み、二列の車石を復元
している。その中心軌道幅は136、7cmある。車石列が出土した頃に復元されてい
るから、かつての車道の幅に正しく復元されていると考えるのが妥当のように思われる
。が、確証がない。昭和9年に、出土車石についての詳しい報告が出されている(『滋
賀県史蹟調査報告』第6冊)が、石の大きさや、えぐられた溝幅、溝の深さの記録はあ
るものの軌道幅の計測が欠落している。

文化年間の車石敷設工事の仕様書は、古文書(比留田家文書や横木村文書)に残されて
いる。それによると、牛道は、3尺(90cm)とってあり、その両脇に、2尺5寸の
車石を据える溝を掘るよう記されている。牛道よりに、標準大つまり二尺の車石を据え
、真ん中に車輪が通ると考えると、軌道幅は4尺5寸(135cm)ほどになる。筆者は、
この5尺が軌道幅であっただろうと考えるが、さらに検討の余地がある。

5.車石の石材

現地調査の結果、東海道でよく見られるのは、第1に木戸石(滋賀県志賀町)であり、
第2に、藤尾石(大津市藤尾)であり、次いで少数の白川石(京都市北白川)であった
。他に、チャート製のものが見られる。

(1)木戸石(比良花崗岩)

木戸石は、白川石と同じく、色の白い黒雲母花崗岩である。白川石に比べると、粗目で
黒雲母の散らばり具合や色合いに特徴があり、見慣れてくると比較的簡単に判別するこ
とができる。また、木戸石は、白川石に比べ早く赤いさびができやすいように思われる
。木戸石といっても北小松、近江舞子、南小松、比良から志賀にかけて比良山系の花崗
岩(山陽帯比良花崗岩)で、谷によって石の質はちがっている。

つまり、比良付近には、以上のような粗目の黒雲母花崗岩だけでなく、細粒、中粒黒雲
母花崗岩や石英ひん岩(石質の緻密な青石)もみられ、いずれも車石の石材として使用
されている。

(2)藤尾石

藤尾石は、衣笠山から長等山、藤尾にいたる大岩脈から産出する石英斑岩であり、細か
い石基や長石の地に大きな石英の粒が斑状にみられる。岩質が硬く、敷石や石垣石とし
てよく使用される石である。われたところをちょっとみると、ざらめ状になっており、
褐色や灰色・青・緑などの地に石英の斑点がみられ、判別しやすい。花の模様に見える
ことから「花紋石」の俗称がある。

この石製の車石は、三条街道の東、横木~大谷にかけて、とくに横木付近でよく見られ
る。これは、この地の付近に藤尾石の採石場があったことから当然のことと思われる。

(3)白川石

それでは、これまで考えられていた白川石製の車石はどうだろうか。

白川石は、比叡山から大文字山の間で産出する花崗岩(山陽帯比叡花崗岩)である。一
般的に中目の黒雲母花崗岩で、鉄分が少なくあまり「さび」が出ないといわれる。また
、すべての白川石がそうではないが、石英や長石、黒雲母の他に副成分として、シャー
プペンシルの芯のような長柱状の褐簾石を含むことがあり、それが判別の決め手になる
と言われている。つまり、京都近辺で褐簾石が含まれていればまず白川石と決めて間違
いないという(京都滋賀自然観察会編『総合ガイド⑧比叡山・大原・坂本』)。

(4)その他―チャート

京都周辺には、全国的にもチャートが多いと言われる。チャートは、河原でよく見られ
る。触るとなめらかで、息をかけたり水にぬれたりするとつやが出て美しい。鉄よりも
固く、鉄片で打ち続けると、削られた鉄の小片が摩擦熱で瞬間的に燃える。火打ち石に
よる火起こしの原理である。当然、加工には向かない。出っ張りを少しずつうちかいて
加工するぐらいである。

したがって、チャートを石材として使用したとは考えられないし、事実文献にも記され
ていない。ただ、工事中、車道に岩盤があったり、所有石(ところあり石)あったりし
たところは、それらの石を使用している。川の中を通ることになっていた四ノ宮河原な
どでは、河原の硬いチャートが使われたであろうことは十分に考えられる。

このチャートの車石は、その硬さ故に外の花崗岩製、石英斑岩製の車石とちがい、溝が
浅いことが特徴である。深くて3cmほどである。また、他の車石の溝に細かい筋がみ
られるのとはちがい、一見して筋が見られない。指で溝面をさわって感じるぐらいであ
る。


3.滋賀郡北部(旧志賀町域)の石工たち
明治十三年(1880)にまとめられた『滋賀県物産誌』に
は、県内の各町村における農・工・商の軒数や特産物など
が記録されている?。明治時代の資料であるとはいえ、産
業革命によって生産流通体制に大きな変化が生じる以前の
記録であり、江戸時代後期の様相を類推する手がかりにな
るものである。ただし、『滋賀県物産誌』の記述は、たと
えば長浜町のような戸数の多い町については「百般ノ工業
ヲナセリ」と「工」の業種の内訳がまったく不明な場合も
あって、滋賀県内の石工を網羅的に記録している訳ではな
い点には留意しておく必要がある。
『滋賀県物産誌』の石工に関する記述の中で特筆すべき
は、滋賀郡北部の状況である。この地域では「木戸村」の
項に特産物として「石燈籠」「石塔」などが挙げられてい
るなど、石工の分布密度は他地域に比べて圧倒的である。
木戸村・北比良村では戸数の中において「工」の占める比
率も高く、明治時代初めにおける滋賀県の石工の分布状況
として、この地域が特筆されるべき状況であったことは疑
いない。
江戸時代の石造物の刻銘等の資料を見てみても、当該地
域の優位性を窺い知ることができる。管見に触れた資料を
表1に記したが、その中で比較的よく知られている資料と
して、『雲根志』などを著した木内石亭が郷里の大津市幸
神社に、文化二年(1805)に奉納した石燈籠の「荒川村石
工 今井丈左衛門」という刻銘がある。
滋賀郡から琵琶湖を隔てた湖東地域においても、東近江
市五個荘川並町の観音正寺への登山口に建てられている常
夜燈に「石工 南比良 孫吉」という刻銘があり、「享保
二十乙卯歳(1735)正月」という紀年は、近江における石
工銘資料としては、比較的早い段階のものである。この
「孫吉」は、享保十五年(1730)に八幡堀の石垣が築き直
された際の施工業者としても「石屋比良ノ孫吉」として名
前が見える?。また、『近江神崎郡志稿』には、寛政五年
(1793)に滋賀郡南比良村の「石や七右衛門」が、東近江
市五個荘金堂町の大城神社の石鳥居再建を請け負ったこと
が記録されている?。
湖北地域でも、安永十年(1781)に「志賀郡荒河村 石
屋 嘉右衛門」が長浜市早崎所在の竹生島一の鳥居の注文
を受けたことが、竹生島宝厳寺文書から確認できる?。な
お、居住地が明示されていない刻銘資料であるが、野洲市
三上山中腹の妙見宮跡地に残る文化六年(1809)建立の石
燈籠に刻銘のある「石工 志賀郡 嘉右衛門」や、大津市
建部大社の文政九年(1826)建立の石燈籠に刻銘された「石
工 嘉右衛門」も、同一人物もしくはその家系に連なる石
工である可能性がある。
また、明治時代に下る資料では、野洲市永原の朝鮮人街
道沿いにある「明治十三年(1880)九月」建立の大神宮常
夜燈に「製造人 西江州木戸村 仁科小兵ヱ」と刻銘され
た事例などが挙げられる。
これらの資料から、少なくとも江戸時代中期以降には、
滋賀郡北部は石造物の製作において近江を代表する存在で
あり、石鳥居のような大規模な製品を中心に、琵琶湖を隔
てた遠隔地の村々からも、この地域の石工に発注すること
が多かったものと考えられるのである。
なお、江戸時代に東海道の京・大津間に敷設された車石
については、文化二年(1805)の工事に際して、主として
木戸石が使用され、これにかかわった人物として「南小松
村治郎吉」と「木戸村嘉左衛門」が連名で石運送に関する
請状を提出したことが紹介されている?。また、日野町大
窪に所在する南山王日枝神社には、豪商として著名な「京
都 中井良祐光武季子 中井正治右門橘武成」が寄進した
「文化十二年(1815)乙亥三月建」の石燈籠に「斯奇石所
出江州志賀郡南舩路村獲之以造 京都石工近江屋久兵衛」
と刻まれた例もあり、京都の石工が滋賀郡北部で石材を得
たケースがあったことが分かる。
以上のように、滋賀郡北部は「木戸石」に代表される良
質な花崗岩産地として、近世における石造物の一大産地だ
ったのである?。
4.「石場」の石工とその周辺
江戸時代には松本村に含まれる存在であった「石場」の
石工については、筆者が以前に近江の近世石工について概
観した時点では、『近江輿地志略』の記事は知られている
ものの、刻銘や文書資料によって具体的にその作例を確認
できる事例を未見であった?。しかしながら、近年刊行さ
れた『石山寺の古建築』において、石山寺宝蔵の文化五年
(1808)建立板札に記された「石細工 石場住 小松屋久
助」と、石山寺境内の明治三十八年(1905)石碑にある「大
津市石場 鐫刻 奥村利三郎」という2例が紹介された?。
また、愛荘町史編纂事業にともなう文書資料調査の中で、
正徳三年(1713)に石場の石工に、石燈籠が発注された記
録が確認されている?。
これらの新出資料に刺激を受け、筆者が改めて大津市周
辺の石造物を調査してみたところ、草津市野路町所在の新
宮神社において、宝暦三年(1753)建立の石燈籠に「石場
 作人市兵衛」と刻銘がある事例を確認できた。また、石
場に隣接する大津市松本に所在する平野神社の宝暦甲戌
年(1754)建立の石燈籠には「作人市兵衛」とあり、これ
も同一人物である可能性が高いと考えられる。また、大き
く時代は下るが、草津市新浜町龍宮神社の明治三十四年
(1901)の狛犬に「大ツ石場 石工石市」とあるのも、同
一系譜に属する石工であるのかもしれない。江戸時代には
対岸の草津市矢橋と結ぶ渡船場として賑わった石場の石工
の作例が、琵琶湖を隔てた草津市域において見られること
は興味深い。 
ところで、現在の大津警察署付近の打出浜に建てられて
いた弘化二年(1845)建設の大常夜燈(通称「石場の常夜
燈」)は、現在はびわ湖ホール西のなぎさ公園内に移設さ
れて残されている。この常夜燈の基壇部分には、発起人で
ある「伴屋傳兵衛 船持中」をはじめ多くの人名等が刻ま
れているが、その中に「石工棟梁 近江屋源兵衛 肝煎市
治郎」と製作に関わった石工の銘も読みとれる。石工の居
住地が明示されていないが、この明示されていないという
事実から、石場の地から遠くない場所に居住していた石工
であることが推定される。
実は、この「近江屋源兵衛」の居住地については、京都
市北野天満宮境内に建てられた「天保十四年(1843)癸卯
九月」銘の石燈籠に「大津石工 近江屋源兵衛」と刻まれ
た資料によって、確認することができる?。「大津梅寿講」
が奉納したこの石燈籠には、講のメンバーと考えられる多
くの町人たちの名前が刻まれているが、その中にも「近江
屋源兵衛」の名前がみられる。『大津市志』に記されてい
る安政元年(1854)の冥加金上納者の中に名前の見える「近
江屋源兵衛」も、おそらく同一人物と考えてよいのであろ
う?。これらの資料から「近江屋源兵衛」は、大津に居住
する町人のひとりであったことが分かるのである。
石場の常夜燈の現在地から西へ約400mの地点に位置す
る大津市指定文化財「小舟入の常夜燈」は、石場の常夜燈
よりも先行する文化五年(1808)の建立であるが、こちら
には「石工 池田屋嘉七」銘が確認できる。この「池田屋
嘉七」については、これまで他の作例は知られておらず、
建立者が「京都恒◯藤講」であり、京都の町人も多く名前を
連ねていることから、地元の石工ではない可能性も考えら
れたが、筆者が改めて周辺の寺社に存在する石造物の刻銘
を調査してみたところ、逢坂一丁目の若宮八幡神社境内の
文政七年(1824)建立の石燈籠や、木下町に所在する和田
神社の慶應二年(1866)の狛犬に「石工 嘉七」銘の類例
があり、これらの資料にも居住地の明示はないものの、近
隣に居住する石工であったと推定して間違いないと考える
に至った。
以上のように、石場とその周辺には江戸時代に石工が居
住し、よく知られている「石場の常夜燈」や「小舟入の常
夜燈」は、近隣地域に居住する石工がその製作にあたった
ものであることを確認することができた。
ところで、江戸時代の石場には瓦職人が居住しており、
その中には膳所藩御用達の瓦師であった「清水九太夫」も
いたことが、大津市内やその周辺地域に残された瓦の刻銘
等によって確認されている?。江戸時代における近江の石
工は、石材産地に居住地を構える場合が多いのに対して、
石材産地ではない石場に居住していた石工は、瓦職人と同
様に膳所城下あるいは大津宿といった都市における需要に
答えるべき存在として活躍した「都市居住型」の石工で
あったと位置づけることができよう。
5.田たな上かみ
地域の石工たち
上記のほか、『近江輿地志略』には記述がないが、現在
の大津市域に居住していた石工として、栗太郡田上地域の
石工たちについても取り上げておきたい。
『滋賀県物産誌』には、栗太郡羽栗村の項に「農 六三
軒(傍ラ製茶及ヒ炭焼採薪ヲ事トスルアリ或ハ石工ヲ業ト
ス)」と、兼業農家であった石工について記載がある。刻
銘資料では、「文政九丙戌(1826)八月」に「羽栗邑 石
工市右ヱ門」が石山寺境内の敷石を施工したことが確認で
き、同じく石山寺門前の「文政七甲申年八月十八日」銘の
石燈籠に銘のある「石工 市右衛門」も同一人物であろう
と考えられる。時代は下るが、大津市田上地域の中野に所
在する荒戸神社境内の明治四年(1871)建立の石燈籠にも
「羽栗 石工市右エ門」と刻まれたものがあり、石山寺に
作例を残した「市右衛門」の子孫によるものであろう。
この羽栗村の石工のほかにも、東海道の唐橋東詰に存在
する寛政十二年(1800)銘の道標に見られる「田上 治兵
衛」の事例が早くから知られている?。この「治兵衛」は、
『近江栗太郡志』に紹介されている文化十四年(1817)の龍
門村八幡神社棟札に「田上森村住 石屋治兵衛」という資
料があることから、羽栗村の西に接する森村の石工であっ
たことが分かる?。
ところで、この道標と同じ交差点の北西角にある明治
十三年(1880)建立の常夜燈には「石工浅川喜久松」とい
う刻銘がある。草津市新浜町の龍宮神社の明治三十九年に
建てられた石燈籠には、同一人物と考えられる「石工 森
村 浅川喜久松」という刻銘があり、この「浅川喜久松」
は「治兵衛」からやや時代は下るが、同じ森村の石工であっ
たことが確認できる。「浅川喜久松」の作例は、ほかにも
田上枝天満宮にある明治二十六年の狛犬の「石工 浅川喜
久松」銘や、年代不明ながら石山南郷町の立木観音の石段
の柵に「モリ村 石工喜久松」と刻まれた例を確認してい
る。
また、東海道から草津市野路町の新宮神社への参道に建
てられた文政八年(1825)建立の石燈籠には「中ノ 石工
増兵衛」という石工銘があり、この「中ノ」も田上地域の
中野村を指すものと考えられる。
以上のように、『滋賀県物産誌』に石工の居住が記録さ
れている「羽栗村」のほかにも、花崗岩産出地域である田
上地域には、江戸時代後期から明治時代にかけて、いくつ
かの村に石工が居住していたことが刻銘資料等から確認で
きるのである。
6.まとめにかえて
以上、現在の大津市域に居住していた石工たちについて、
主として石造物の刻銘を資料として、大きく3地域にまと
めて紹介してきた。最初に述べたとおり、筆者が実際に訪
れて刻銘を確認済みの石造物は、大津市内に数多く存在す
る資料のごく一部に過ぎない。そして、本稿で紹介した刻
銘資料は、大半がこれまで紹介されていなかったものであ
ることから推定すれば、未発見の刻銘資料は今回紹介した
資料の何倍にも上ることは疑いない。現在の調査状況を発
掘調査に例えていえば、遺跡のごく一部を試掘調査したに
すぎない段階であり、大津市域で活躍していた石工たちの
状況について、全体像を正しくイメージできているかどう
か不安な部分もある。本稿を読まれた方々が、身近な場所
にある石造物を確認されて、新たな刻銘資料を発見される
機会があれば、ご教示いただければ幸いである。
(たいなか ようすけ)

? a.田井中洋介「伊勢国千種村の石工忠右衛門の銘を持つ近江
所在の石灯籠二例」『滋賀県地方史研究』第15号 2005
b.田井中洋介「石造品の刻銘」『近江八幡の歴史』第二巻 近
江八幡市 2006
c.田井中洋介「湖東地域の石工に関する研究ノート―愛知川
町域に所在する二例の石工銘から―」『滋賀県地方史研究』第
16号 2006
d.田井中洋介「近世後期における近江の石工についての研究
ノート―蒲生郡七里村の石工「金三郎」とその周辺―」『考古
学論究』小笠原好彦先生退任記念論集刊行会 2007
e.田井中洋介「近江八幡の石工「西川與左衛門」とその周
辺」『淡海文化財論叢 第二輯』 淡海文化財論叢刊行会 2007
f.田井中洋介「近江の石工たち―江戸時代後期を中心に―」
『紀要』第15号 滋賀県立安土城考古博物館 2007
g. 田井中洋介「甲賀の石工についての研究ノート」『紀要』第
16号 滋賀県立安土城考古博物館 2008
? 寒川辰清『近江輿地志略』(宇野健一『新註近江輿地志略 
全』弘文堂書店 1976)
? 杉江 進「公儀「穴太頭」と諸藩「穴生役」」『日本歴史』第
717号 吉川弘文館 2008
? 『滋賀県市町村沿革史』第五巻 滋賀県市町村沿革史編さん委
員会 1962
? 福尾猛市郎『滋賀縣八幡町史』蒲生郡八幡町 1940
? 大橋金造『近江神崎郡志稿』下巻 滋賀県神崎郡教育会 1928
? 早崎観縁「竹生嶋一の鳥居の建立について」『滋賀県地方史研
究紀要』第13号 滋賀県地方史研究家連絡会 1988
? 樋爪 修「京津間の車石敷設工事」『大津市歴史博物館 研究
紀要1』1993
? 『志賀町史』第二巻(樋爪 修・杉江 進ほか 滋賀県志賀町
 1999)には、旧志賀町域に江戸時代に居住していた石工につい
て、地元区有文書等に基づく記述があり、すでに江戸時代前期に
は石の切り出しが行われていたことなどが確認できる。町史編纂
事業で調査された地元の文書資料を活用して、刻銘資料と総合的
に研究を行えば、当該地域の石工について、より具体的に明らか
にできるものと考えられる。
? 註(1)文献f
? 『石山寺の古建築』大本山石山寺 2006
? 愛荘町立歴史文化博物館長 門脇正人氏の御教示を受け、町史
編纂室の皆様の御厚意によって資料を確認させていただいた。具
体的な資料の内容については、機会を改めて紹介したい。
? 佐野精一「近世・京石工の系譜」『日本の石仏』8号 1978
? 『大津市志』上巻 大津市私立教育会 1911
? 樋爪 修・青山 均『かわら―瓦からみた大津史―』大津市歴
史博物館 2008
? 木村至宏『近江の道標』(民俗文化研究会 1971)。なお、この
文献には石工銘を「石工 京白川 太郎右衛門 田上 治兵衛」
と記しているが、現地で道標を実見すると「田上」と「治兵衛」
の間には判読困難な2文字が存在している。龍門村八幡神社棟札
の記述を踏まえて、この判読困難な2文字を現地で再検討したと
ころ、私見では「森村」と読んでよいものと考えている。なお、
同じ道標に名前の刻まれている「京白川 太郎右衛門」は、現在
のところ他に作例が知られておらず、いかなる存在であったのか
不明である。
? 中川泉三『近江栗太郡志』巻四 滋賀縣栗太郡役所 1926

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