p16 芭蕉がよく旅に出かけたのは、過去の詩人に霊感を与えた自然の風光だけではなく、 路上や旅籠で行くずりに得た人間的な経験からも、自分の詩に対する新鮮な刺激を 受けたいと、おそらく望んだからであろう。日記作者としての芭蕉の成功には、 実に目を瞠らされるものがある。「奥の細道」ほど広く読まれた日本の古典文学 作品は、他にそうあるまい。 ところが芭蕉は、自分の日記を文学作品にしようという意図はを、一切否定している。 「笈の小文」では、さまざまな自分の回想を、ただ雑然と書き記しただけだといい、 したがって酔っぱらいの狂乱の言葉、眠っている人間の譫言を聞くかのように それを読んで貰いたいと読者に乞うている。にもかかわらず、そういうこと自体 芭蕉が自分の日記を人に読んで貰いたいと期待していたことを証明している。 したがって、それは、忘れえぬ事どもを、単に自分の記憶に留めておくためにだけに 書いたものでは、決してなかったのである。 芭蕉の日記は、自己発見の表現でもあった。彼にそれを書かせたのは、「万葉集」 から今日まで、日本の文学に一貫して流れる旅を愛する心ではなく、旅の中に、 彼自身の芸術の、ひいては人として、詩人としての、自己存在の根源を見つけ出そう とする欲求でもあったのだ。「奥」に入ろうと、白河の関を越えたあとで作った という句「風流の初や奥の田植うた」の中には、いよいよ文学的創造の端緒に 出会ったぞ、という心の高ぶりが読み取れる。他のいくつかの日記では、 自分がなぜ詩人になったのか、また他にどのような仕事を考えてみたか、 そして自分は、詩の到達すべき最高の目標は何と信じるか、などという事柄に 関する、まことに素直な意見を述べている。 P257より 美の本質的要素としての、この非永続性は、長い間日本人によって、暗黙の うちに重視されてきた。開花期が長い梅や、ゆっくりしおれてゆく菊 よりも、早々と散り果てる桜の方が、はるかにこの国で尊ばれるゆえん である。西洋人は、永遠の気を伝えんがために、神々の寺院を大理石 で建てた。それに反して伊勢神宮の建築の持つ本質的な特色は、その 非永続性にほかならない。 いほぬし いつばかりのことにかありけん。世をのがれて、こころのままにあらむととおもいて 世のなかにききときく所々、おかしきをたずねて心をやり、かつはたうときところ どころおがみたてまつり、我が身のつみをもほろぼさむとある人有りけり。いほぬし とぞいいける。 作者がここで、旅の明確な動機としてあげているものが三つある。まず旅によって この世の煩いから逃れ、思いのまま生きてみたいという願望である。世間を捨てた いという気持は、中世およびそれ以後の隠者僧の気持にも通じるものであろう。 第二の動機は、その魅力については聞き知っていても、まだ訪れてていない地を 訪れたいという願い、これはまた、何世紀にもわたって、日本人を、景色の美しさで 聞こえた土地だけではなく、景色はともかく、昔から歌で名高い土地を訪ねてみたい と言う気持にさせたと同じ願いである。西行や芭蕉の作品に詠まれた場所に、今日 林立する歌碑や句碑。あれは彼らの先達に霊感を与えた場所を我が目で見たいという 日本人が古くから抱いた願望の、なによりの証拠ではなかろうか。 最後にいほぬしは、旅は自分の罪を幾分なりとも亡ぼしてくれるだろう、という希望 を述べている。これも、様々な聖地に杖を曳く人々の、心の底にある希望と同じ ものなのである。人は旅から喜びを引き出すこともできよう、伊勢、熊野、石山寺 などは、聖地でもあるが、景勝地としても聞こえている。だが巡礼の目的は、 それではない。 聖地を訪れる巡礼は、その場所の神仏との一体化を成就するのである。神仏を ただあがめるためだけでなら、そのためには日本中、それこそ数限りない場所がある。 しかし神仏に直接ゆかりのある聖地に行ってあがめるほうが、霊験はさらに あらたかなのである。 海道記 鎌倉時代に書かれた旅日記には、ある特別な焦点が与えられている。即ち鎌倉幕府の 存在である。長い間京都こそ日本の中心だと考え、それを当然としていた京都の人々は 彼らが耳にする鎌倉についてのもろもろの風評に、いたく興味をそそられていた。 そしてその新しい都を我が目で確かめたいという好奇心から、鎌倉へ旅をするものが 少なくなかったのである。そのほかにもまた、源氏の心酔者で、源家興隆にゆかり 野深い場所を見たいと思うもの、なおまた幕府の法廷に訴え事を持ち込むため、 わざわざ長旅をいとわぬものもあった。京都、鎌倉間のたびを扱った日記の中で、 私のお気に入りは「海道記」である。「十六夜日記」の方が有名だし、海道記より もよく書けている日記もほかにあるのだが、私は是をとる。 浜名湖岸にある橋本の宿の描写がある。 「釣魚つうぎょの火(釣り人の灯)の影は、波の底に入りて魚の肝をこがし (魚を驚かし) 夜舟やしゅうの棹の歌は、枕の上に音づれて客の寝覚にともなう」 この作者が得意とするおぼしき文体の工夫に、擬人化がある。 彼は、橋、海老、あるいはおいぼれ馬などに向かって、まるで彼らから答を 期待するような調子で話しかけるのである。とりわけおいぼれ馬に語りかける 言葉は感動を誘う。 「老馬、老馬、汝は智ありければ山路の雪の下のみにあらず、川の底の水の水の心 もよく知りにけり」 とはずがたり 大納言久我雅忠の娘二条が書いた地方への旅日記でもあるが、5巻のうち 2巻のみがそれであり、残りは当時の宮廷の性的な放縦と道徳的な腐敗の 日常を描いた物。此処には、その記述がないが、司馬遼太郎の街道をゆくに 鎌倉の印象を描いたものがある。 「とはずがたり」という女性が書いた鎌倉の印象を書いた古典がある。そこには、 山々を行き、坂や切通しなどの様々な起伏ある街の様子が描かれている。 「袋の中に物を入れたる様に住まいたる」「重重に」とある。 都のつと 僧宗久が京都から奥羽松島までの旅を記録したもの。 神仏を祀る霊場からいにしえの歌で聞こえた歌枕の場所を訪問している。 歌の冒頭には、ある歌をけなしていた高僧が、琵琶湖で何隻かの舟が沖遠く消えていく ゆくのを見ていて、たまたま満誓沙弥の有名な歌「世の中を何に譬えむ朝開き 漕ぎ去いにし船の跡なきがごとき」を誰かが朗詠するのを聞いてその考えを あらためたという。歌も覚りを開くための助けになる、と思ったのである。 宗久もそう考えていた。奥のほそ道との比較も面白い。 「まだ夜をこめて都を出づ。有明の月の影、東川の浪にうつりて、鳴き残れる鳥の声、 遠き里のあとに聞こえて、そこはかとなく霞みわたれる空の景色、いと面白し。 都の方いつしか隔たり行くも、三千里の外の心地して、故里を別れしよりも、なお 心とまり侍りしにや。」 芭蕉の文では、 「弥生も末の七日、明ぼのの空朧朧として、月は在明にて光りをさまれるものから、 不二の峯幽かにみえて、上野谷中の花の梢又いつかはと心細し。前途三千里の思ひ 胸ふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ」 富士紀行 将軍足利義教が多くの供を伴って富士山を見るべく京都を出発した。その様子を 三つの日記に記されている。 富士紀行、覧富士記、富士御覧日記である。三つの日記はいずれも歌枕や名勝の 地で詠んだ詩歌の記録から主に成り立っている。 善光寺紀行 1465年、僧ぎょうえが金剣宮から越中、越後を経て、善光寺と戸隠山までの 旅をした。遠方から眺めた白山の雄姿を讃えたりして、北陸の旅を描いた。 彼が訪れた土地、畏敬をこめ遠望した土地の名の全ては、自身の修験に関係している。 善光寺はこの時代の民間信仰の中心地であったが、とはずかたりの二条も訪れている。 越後親不知の記述はすばらしい。 「磐石千尋にそばだちて、望むに心性を忘れ、波頭万里に重なりて、朧張ろうちゅう 下ること限りなし、片々たる孤影より外は頼む友侍らず。只不退の願力に任せ侍るなる べし。 然らば彼の如来の報土を出で輪廻迷暗の思ひ、子を求め給うといへども、是 知らざる有り様もやと覚え侍りて、 波分けて過ぎ行く程はたらちねの親のいさめも忘らるる身よ。」 廻国雑記 高僧道興が1486年から87年の旅の記録であり、京都、小浜、柏崎、下総、鎌倉 から、更に松島まで行っている。 旅日記には、和歌が多いが、彼は立ち寄った先の主人の趣味素養に応じて、俳諧歌、 漢詩、連歌、発句までそれぞれ異なる詩形で記述した。 また、彼は地名の語源を探っている。それは奈良時代の風土記より地名に強く 関心があったからである。たとえば、「常陸国風土記」では、多くの地名の 民間伝承語源を明らかにしている。 白河紀行 宗祇は彼の人生の大半を旅に過ごしている。旅は主として歌枕を訪ねたいとい 願望からであった。ただ、当時このような旅の仕方をした連歌者は少なくなかった。 人とのつながりを求めていた連歌への想いが行く先で歓待を受ける形で現れた。 また、地方有力者の文化への憧れがそれを推し進めたとも言える。 宗祇にとって、歌枕を訪ねることが最優先のことであり、どこにでも出向いた。 荒涼たる那須の荒野を行く時に詠んだ歌がある。 「歎かじよこの世は誰も憂き旅と思ひなす野の露にまかせて」 もう歎くのはやめよう、この世をわたって行くことは、自分ばかりでなく、 誰もみんな憂いつらい旅をしているようなものなのだ。そう思いなおして、 那須野の原におく露のように、はかない運命に身を任せよう」 彼はその場所がやや不明であっても、それは問題ではなかった。 彼は古歌を生み出した土地の雰囲気の中に我が身をおき、その地の持つ 特質を己自身の言葉によって、表現することが重要であったのだ。 西行もしかり、他の詩人がその詩を生み出した源泉に身を置き、新しい 霊感を見出すことによって、己の芸術を更に高めることにあった。 芭蕉も言っている。「許六離別の詞」の中で空海の書より「古人の跡を もとめず、古人の求めたる所をもとめよ」と。 白河の関明神の神々しさに、 「苔を軒端とし、紅葉をゐ垣として、正木のかつらゆふかけわたすに、 木枯のみぞ手向をばし侍ると見えて感涙とどめかがきに、兼盛、能因 ここにぞみて、いかばかりの哀れ侍りけんと想像るに、瓦礫をつづり 侍らんも中々なれど、皆思い余りて、、」 そして、 「都出し霞も風もけふみれば跡無き空の夢に時雨れて」 「行く末の名をばたのまず心をや世々にとどめん白川の関」 筑紫道記 宗祇が北九州へ赴いた時の旅行記である。 彼は、行く先々で時代の成せる荒廃の跡を見ている。名高い寺も崩壊寸前の 有り様、辺りは雑草で覆われていた。 住吉神社でも、 あらがきのめぐりをはるかにして、つらなれる松の木立ち神さびたり。 楼門なかばはやぶれて、社壇もまたからず。いかにととへば、此も十とせ 余りの世の中の乱ゆえといへるも悲し。神前のいのり此の道の外の事なし。 しかし、有名な松原で見たものは、 大木など稀にして、唯百年ばかり、夫よりこのかたの木なり。むかしの木は 朽ち行きけど、あひつぐ大木かくのごとし、木のもとをみれば、五尺六尺一尺 二尺、または二葉の如く生ふるなど、春の野の若草のごとし。幾万代も絶えざらん とみゆるは、ただ神前のかげなればなり。 と元気つけられる。 西北紀行(貝原益軒) 巻頭の言葉より、 名区佳境の勝れたる処を見るは、只其の時暫し心を慰むるのみかは、幾年経ても 折々に、其の所々の有り様を思ひ出れば、さながら今目の前に見る心地して、 珍らかに懐かしければ、老いの身の後年まで忘られざらん為に、此年巡りし国郡 の境地を、拙き筆に任せて書き留め置ぬ。是れ身を終わるまでの思ひ出にせんとなり、 又我と志を同じくして名所に遊覧する事を始める人も、いまだ見ざる所多かんめれば、 斯かる人の為にも成れかしとて、聊いささか記して後覧に供ふる事然り。 伊香保の道行きぶり(油谷倭文子ゆやしずこ) 母と伊香保温線を旅したときに日記であり、井上通女や武女の日記と並んで、女流 文学中の華といわれた。其の情景描写は素晴らしい。 「空少し明かりたるほど、春の野の朝露に、浅緑なる梢どものほのぼのと霞み渡れる は、たとうべきものなんなき。人めなげなる垣ほの(垣の上に高くつき出た)桜の わび顔にうつろふがをかしうて、守りいたるを、主と覚しくて、手なふれそといふべき 気色してあめるを、をこになりて(ばかばかしくなって)、 惜しむともたたん嵐は如何にせん散る花ごとに手をやさへまし と覚ゆるも、何時の程にか路行き人(旅人)の心にはなりにけん。 改元紀行(大田南畝なんぽ) 彼は古くは更級日記から最新の名所図会にいたるまで、東海道に関する文献と言う 文献を手当たり次第に読み、旅に備えたという。道中名所に来ると必ず脚を留め、 其の地についての説明を傾聴している。 また、目に留まったあらゆる石碑の碑文、額の文字を、几帳面に書き取っている。 北条五代の墓石を探す。「苔蒸したけれど文字鮮明に見ゆ。後に経営いとなみ 建てしものなるべし。斉の七十余城にも劣らざりし勢いを思うに、涙も禁とどまらず」 また、詩的な描写も多い。 此処は相模伊豆の国境にして、二本の杉立てり。右は焼けたる山の如く、左は深き 谷かと危うく、踏み所の石あらじ。古木老杉木末を交えて物凄く、衣の袖も冷ややかに 打ち湿りたるに雨さえ降り出ぬ。大枯木小枯木など言う辺りより、輿の戸さし籠りて 蹲り居るに、輿かく者も石に躓き、息杖立てて漸うに下り行く。 そして日記のそここに、自伝的情報の断片を散りばめている。 今日は弥生三日なれば、故郷には孫娘の許に囲居して、桃の酒酌み交わすらしと思うに 我が初度の日にさえあれば従者に銀銭取らせて祝ひぬ。また、京都に着いた後には、 「八坂の塔の高きを見るにも、彼の浄蔵貴所の行法を試し事まで思い出される。 この辺りの人家に土の人形をひさぐ。古郷の孫の玩びにもならんかと、 一個求めて懐にしつ」。
0 件のコメント:
コメントを投稿