2016年7月7日木曜日

1970年代前後

1970年代、それは個人的には会社で、先輩の手伝いをしながら、徐々に
本格的な装置開発に日夜励んでいたころでもあり、さらには今のパソコンや
ワープロが産声を上げ、半導体が圧倒的なスピードでその能力を高めていた、
技術への憧れとその素晴らしい力が見え始まった時代でもある。技術屋の
想いとして、その後何件となく取得した特許を取ることが1つの熱い想いでもあった。
もっとも、それは暗い現とした環境下で成し遂げられたものであり、華やかさなど
一片もないことだった。自身は穴倉のような日々の実験の世界にいたが、
世の中は、貧困を脱し持続的な繁栄への大きな変わり目となり、80年代の
高度成長へとすすんでいた。もっともそれは途中、石油ショックという大波を
かぶることになるが。

1.1968年は時代の節目
1968年は時代の節目、最近、こんな思いが沸き返ることがある。
ベトナム戦争のリアルな映像が世界を席巻する中で、若者たちが自分たちと国家の
関係に疑問を強く抱き始めた時代であり、フランスのパリの5月革命、アメリカの
学生の反乱、日本での学生運動の活発化、など世界で若者たちがデモや学校封鎖、
一般のストなどが実行された。それは60年安保、70年安保闘争の延長の意味
合いもあったのだろうが、60年安保では、国民の政府への抵抗であり、全国的には
460万人を超す人がそれに参加したという。
これにより岸内閣は解散となり、国民の意識も変化し始めた。
しかし、68年の東大での学生運動は強制的な排除となり、挫折し、さらには、
1972年のあさま山荘での連合赤軍の内部闘争での殺人や内ゲバの凄惨さが
テレビで報道され、その無差別な行動が明らかになり、デモや学生運動への嫌悪が
高まった。だが、まだ学生の間では68年から69年にかけての学生運動が全国的
に盛んになっており、東大闘争、日大闘争を始め、全国の主要な国公立大学や
私立大学ではバリケード封鎖が行われ、「70年安保粉砕」をスローガンとし
て大規模なデモンストレーションが全国で継続的に展開された。まだ不安が
残る時代でもあった。
「ヘルメットとゲバ棒」スタイルで武装し、投石や火炎瓶を使用して機動隊と戦った。
70年安保闘争は、ベトナム反戦運動、成田空港問題などと結び付き、一定の労働者層
の支持を得たが、国民の支持は少なくなかった。
時代はさらなる経済の発展へと向かっていた。

2.60年代からの発展
ここに「日本の200年」の一文がある。
「戦後日本の政治史と経済史は、さまざまなコントラストの歴史だった。高度成長期の
30年にわたって、経済成長があまりにも急速に、しかも一貫性を保ってつづいたため
、
アメリカでさえもが「日本モデル」から成功の秘訣を学ぼうとしたほどだった。
それとは対照的に政治の世界では、数々の先鋭な闘争が起きた。人々は、経済成長の
成果配分のあり方をめぐった、国を二分するような対立も起きた。1960年代から
70年代には、政治的な対立はそれ以前の10年間と比較して幾分弱まった。
しかし、豊かさの代償やジレンマをめぐるいくつかの新たな問題が浮上した。
国内では、並外れた成長が環境に対して異常な負担を強いた結果、日本は、人々を
いかにして公害から守るかという問題に直面した。国際的には、資本主義と社会主義
という2つの陣営間の冷戦で日本がどのような立場をとるべきかという問題は、
従来ほど論議を呼ばなくなったのにひきかえ、資本主義陣営内における貿易の不均衡
と経済摩擦をめぐる緊張が強まっていた。このように、戦後の経済史は政治闘争と
政治決着が織りなす起伏に富んだ戦後の政治史と不可分である」
その1つが池田隼人首相が打ち出した「国民所得倍増計画」だった。
1960年に打ち出されたこの計画は「国民生活水準の顕著な向上と完全雇用の達成」
を目標として、1970年までに実質国民総生産を2倍に拡大する、という高度成長
の実現を掲げた」
正に個人的には、その真中にいたのである。もっとも、その果実を具体的に手にするに
は、
70年代、80年代になってからであるが、周囲から醸し出される高揚の気分は
工場の中でひたすら機械に向き合っていた私にも届き始めていた。

3.時代変化の中で人も変わる
このような変化を端的に表しているのが、山崎氏の「柔らかい個人主義の誕生」であっ
た。
「池田内閣の所得倍増計画の下で高度経済成長を目指していた60年代の日本社会が、
その目的を遂げた後、どのように変化していったのか。70年代に突入して増加し
始めた余暇の時間が、それまで集団の中における一定の役割によって分断されていた
個人の時間を再統一する道を開いた。つまり、学生時代は勉学を、就職してからは
勤労を、という決められた役割分担の時間が減少したことにより、余暇を通じて
本来の自分自身の生活を取り戻す可能性が開けたということである。
こうした余暇の増加、購買の欲望の増加とモノの消耗の非効率化の結果、個人は
大衆の動向を気にかけるようになる。
以前は明確な目的を持って行動できた(と思っていたが)人間は、70年代において
行動の拠り所を失う不安を感じ始める。こうして、人は、自分の行動において他人
からの評価に沿うための一定のしなやかさを持ち、しかも自分が他人とは違った存在
だと主張するための有機的な一貫性を持つことが必要とされる。、、、
個人とは、けっして荒野に孤独を守る存在でもなく、強く自己の同一性に固執する
ものでもなくて、むしろ、多様な他人に触れながら、多様化していく自己を統一
する能力だといえよう。皮肉なことに、日本は60年代に最大限国力を拡大し、
まさにそのことゆえに、70年代にはいると国家として華麗に動く余地を失う
ことになった。そして、そのことの最大の意味は、国家が国民にとって面白い
存在ではなくなり、日々の生活に刺激をあたえ個人の人生を励ましてくれる
劇的な存在ではなくなった、といふことであった」

4.70年代諸々のもの
やはり経済的なものでは、石油ショックであろう。今でもトイレットペーパを求めて
長く並んだ行列の映像が思い出される。アラブの産油諸国が原油輸出を制限し、原油価
格の
高騰は深刻な不況を引き起こし、インフレを招いた。日本は1940年代以来初めての
マイナス成長を記録した。
さらには、60年代からの急激な成長がもたらした公害問題であった。水俣の水俣病、
四日市ぜんそくなど様々な公害が国民を襲った。製品、商品の安全を目指した市民活動
が盛んになったのもこの時期である。
そして様々な市民活動が作り出した新しい政治の潮流が多くの革新系の首長を誕生させ
、
革新自治体時代を作った。160以上の知事や市長が誕生した。
これらの自治体は、環境条例から社会福祉の給付にいたる多くの分野で先鞭をつけた。
それにしても今思えば、懐かしき良き時代であったのだろうか。サラリーマン化した
議員、単に自分の保身のための活動をする首長、情けない時代になったものだ。
技術的な側面では、日本万国博覧会(大阪万博)が開催が忘れらない。私もその一端を
担った。さらには、今はあたりまえの電子メールが初めて使われ、効率性の高い
プログラミング言語が初めて登場した。私もこれを使ったりして、製品開発をしたもの
だが、今はその一片の命令も覚えていない。また「Apple II」やいくつかのパソコンの
原型が出現もした。

最後に、「日本の200年」の一文を忘れてはならない。
「貧困から繁栄へ、対決から和解・協調へという、1950年代から70年代末に至る
期間に日本がたどった軌跡は紛れもなく、戦後期のグローバルな歴史の一環をなしてい
た。
、、、、
日本人は、アメリカが支配する経済環境の下で、製品を作る力量とそれらを非共産
圏世界全域で売りさばく力量を発揮して、繁栄した。つまり国際的にみた日本の
高度成長期の意義の一端は、このような政治的には制約的だが、経済的には開放的な
提携関係が持つ力の中にみいだすことができる」

何にしても、70,80年代と社会全体が成長する中で、自身もその1人として体現
出来た時代、明日に描く希望があった時代、それは老人の郷愁とは思えない。
良き時代であった。

0 件のコメント:

コメントを投稿