柳田國男にとっての旅 しかし、柳田にとって旅とは、一体何であったのだろう。柳田は「旅は本を読むのと同 じである」(『青年と学問』)といっている。 旅はその土地のことばや考え、心持ちなどを知ることであり、文字以外の記録から 過去を知ることであるともいっている。『青年と学問』におさめられた講演のなかで 柳田は、人の文章(文字)や語り(無文字)から真に必要なものを読み取る能力 を鍛えろと、青年たちに訴えている。人の一生はしれ ている。その限りある時間を有益に使えといっている。ただ、がむしゃらに本を読んで も、旅をしても、志が低く、選択を誤れば、無益になってしまうといっている。 柳田は見ること、聞くこと、読むことを同一線上でとらえているのである。 それらを媒介しているのはことばであろう。ことばを媒介としてあらゆる事象を 読み取ろうとする。本を読むように風景を見、人と語る。 実際、各地の地名や方言にも若い頃から特別な関心を示していた。柳田にとって 見ること、聞くことは、読むことなのだ。そして学問のためにも、それらを ことばに置き換え、文字に表現することに、柳田は非常な執着を持っていた。 日本人自らが自分自身を知るという、最終的に自己を対象化できるのは、 ことば以外にあり得ないと考えていた。 だからこそ、旅は本を読むのと同じであるといったのであろう。 膨大な柳田の読書暦や旅行暦は、恐らく少年時代の読書体験、それに移住を 余儀なくされた漂白体験から培われている。文字と無文字の両方に価値を おき、そこから得た発見、衝撃を、柳田は人一倍強い感受性で受け止めている。 私はその感受性の根に、無名の人々の哀しさを見つめる柳田の目を感じる のである。その哀しさへの共感が、柳田の内部から抑えがたい渇望と なって発酵していったのであろう。 哀しさへの共感といっても、実は旅そのものが柳田のいうように「憂いもの 辛いもの」であった。「タビという日本語はあるいはタマワルと語源が 一つで、人の給与をあてにしてあるく点が、物貰いなどと一つであったの ではないかと思われる。……すなわち旅はういものつらいものであった」 (定本第二十五巻「青年と学問」110頁)。 漂白と定住、逃散と定着、村を追い出される者、出ていく者、あるいは 諸国を歩く遊行僧、旅芸人、木地師など、移動を余儀なくされる者の 心持が、すなわち「タビ」であったという。 旅の語源は「賜ぶ」「給べ」といわれる。「他火」もそうだろうか。 移動する者にとって、食う物が無くなった時、他人の火(「他火」)で 作られた食べ物を、物乞い(「給べ」)しなければならなかった。 他人の家の火を借りて一夜をしのぎ、食い物を恵んでもらうことで、 生をつないでいたのである。ここから、また「食べる」も派生しただろ う。時代によっては餓死、野垂れ死が、日常茶飯事の情景であった かもしれない。「タビータマワル」なしには生きることの困難な状況 があったことは疑いない。 「タビ」は、すなわち生きることと直結していたのである。 移動者ばかりでなく、ある程度蓄えのある定住者にとっても、旅人の 心情は他人事ではなかったはずである。自然災害や戦乱、圧政、 いつ何時自らも旅人になるともしれなかった。それゆえ、行き倒れた者 を雨ざらし野ざらしにしないという村人たちの暗黙の了解があった かもしれない。見ず知らずの者に屋根を与え、火を囲み、事情や他国 の話を聞くなかで、タビが新たな関係を生んでいく。 そこにはまた別な光も差し込まなかったか。場を共有することで心 が和み、人と人との温かな交流が芽生える。一宿一飯の恩義だけでなく、 「タビ」を介して、確かに「情」が内部から醸成されてくる。 人の哀しさと優しさの根源に、「タビ」を置くことはできないか。 日本人が南方からの移住者であったとすれば、「タビ」から派生した 哀しさと優しさの痕跡を、わたしたちは心のどこかに秘めているのでは ないだろうか。柳田はそのことに気づいていたかもしれない。 人生は旅だといい、死に装束も旅姿である。「タビ」は、わたしたち のこころのなかを貫いているのである。 晩年、柳田は「日本人の結合力というものは、孤立の淋しさからきている」 として、この人の情(友だち)や、結びつき(群れ)の研究の必要性 を説いていた(『柳田國男対談集』筑摩書房169、191頁)。 わたしたちはその問題提起のなかに、昨今の不登校や引きこもりとの 関連性ないし解決の糸口を見出すことはできないだろうか。 当時、柳田が個人主義を基礎とする自然主義文学や大正デモクラシーとは 距離をおいていたとしても不思議ではない。農政官僚として全国を渡り歩き、 つぶさに各地の生活や苦しさを見るにつけ、都会の進歩的文化人らに よって鼓舞される西洋直輸入の思想が、いかに根付かないかを直感していた のかもしれない。「孤立の淋しさ」と「日本人の結合力」をパラレルに 論じる視点は、そこには見出し得なかったということだろう。 自ずと別の道を探り続けていくことになる。 ところで、実際の柳田の旅はどのようなものであったのだろう。大正10年 前後の柳田の写真を見ると、羽織袴に白足袋、草履か下駄履き、山高帽に 黒のマント、口髭をはやして端正な顔立ちである。大嘗祭に参列した時 の姿をみるとまさに貴族のひとりである。 恐らく旅といっても、柳田の場合、付き人を雇った馬上の人であり、表面 は水戸黄門張りの贅沢な旅といった印象を免れない。役人時代も中央 官僚として全国を講演して回っているが、地元の官吏からお伺いを立てられ、 夜は宴席が設けられといった旅であっただろう。 辞めた後もかつてとそれほど違いはないように思われる。 だとしたら、一体何が、柳田と他の旅行者、あるいは他の調査者とを区分け する要素になるだろうか。 柳田の旅に伴った松本信広は、「先生にまことに感服したのは、どんな階級 の人々とめぐりあわれても、巧みに彼等の側に立ち、その境遇に理解を持って 話を切りだされ、彼等の意見を聞きだされる手際のよさであった。 ……先生が日本の辺土を歩かれながら絶えずそこにすむ人間をみつめ、その 生きる悲しい努力に同情を注がれていたこと、そういう態度が先生の一生を 貫いて築かれた民俗学の礎石であった。」(定本第二巻栞「東北の旅」) と回顧している。 立場や姿かたちの違いを、いとも簡単に乗り越えることのできる何かを柳田 は持っている。相手への同情と共感、話者を見極める感性、話術の巧みさ、 相づちと質問の的確性、そんなものだろうか。それらは徹底して人間を 見つめ、人間を問うことなしには得られない性質のものである。 文学が生きている。そのための訓練や努力、工夫なども、恐らく普段から 重ねたであろう。実際、柳田は着る服を替えてみたり、相手によって話題 の矛先を変えたりしている。それらの様子はいろんな旅行記からもうかがえる。 もちろん、柳田が自らの立場や身分を逆に利用したこともあったであろう。 各地の人士や伝承者を探すには、その方が都合のよかった場合もありえる からである。 私もかつてフィールドワークを行ったことがあるが、調査する者とされる者 との溝を埋めるのは並大抵ではなかった。夜這い(性)の話が聞けるよう になったら成功だと先輩から教えられたことがあったが、調査項目を埋める のに精一杯であった。知りたいことを相手から聞き出す技術が、いかに 難しいことであるか。調査する者の問題意識や、豊富な知識(読書体験)、 相手に対する興味や共感だけでなく、人の心をつかむ対話術などがおおいに 関係してくるだろう。それらの才能に柳田は恵まれていたという外にない。 『北国紀行』に集録されている「旅行の話」のなかでも、柳田は旅の心構え や聞き取りの仕方について細かく触れている。民俗調査をする者にとって、 この著作はいわば必読書であろう。ここでは別の「清光館哀史」から、 その柳田のテクニックの一端を垣間見せる例をとりあげてみたい。 「何とかしてこの人たちと話しをしてみたら、今少しは昔の事がわかる だろうかと思って、口実をこしらえて自分は彼らに近よった。 ……私はまた娘たちに踊の話をした。今でもこの村ではよく踊るかね。 今は踊らない。盆になれば踊る。こんな軽い翻弄をあえてして、また脇 にいる者と顔を見合わせてくつくつと笑っている。あの歌は何という のだろう。何べん聴いていても私にはどうしてもわからなかったと、 半分独り言のようにいって、海の方を向いて少し待っていると、 ふんといっただけでその問いには答えずにやがて年がさのひとりが 鼻唄のようにして、次のような文句を歌ってくれた。」 (定本第二巻「清光館哀史」109頁) この「清光館哀史」は、柳田の文章のなかでは最もよく知られた紀行文 のひとつであろう。 恐らく日本紀行文学の白眉に上げられる。寂しい寒村の宿屋「清光館」 の没落の跡を、そこで唄われていた盆唄を手がかりに、詩情豊かに 綴っている。これを読むと、やはり柳田とても無口な村人たちから いかに聞き出すか、いろいろな苦労や工夫をしている様子がよくわかる。 都会人といったいでたちが、浜辺で作業をしている女たちの注意を 引いていることも意識している。それゆえ、独り言や海を見つめる といった演技力、待つことの忍耐力などが必要になってくるのだ。 やっと聴きだした歌の文句の解釈は、まさに詩人としての柳田の 真骨頂を示している。柳田の根にある哀愁と、それを共にする村人 たちへの共感も浮き彫りにされているが、ここでは触れないでおこう。 その事例文、 「ひじりの家」は延岡野田の稲荷山に住む山伏を尋ねた時の話し であるが、崩れゆく修験者の生涯を描いた叙情的な文章となっている。 柳田はその山伏とは初対面であった。津軽のひじりから聞いたという その稲荷山に住む法師に会って、柳田は一体何を確かめようとして いたのだろうか。沖縄への旅の途中であったとはいえ、それは初め から計画されていた訪問であったかのように思える。 「ひじりの家」を読むと、どうしても偶然とは思えない何か意図的な ものが感じられるからである。 「その一文から、 日向路の五日はいつもよい月夜であった。最初の晩は土々呂の海浜 の松の蔭を、白い細かな砂をきしりつつ、延岡へと車を走らせた。 次の朝早天に出てみたら、薄雪ほどの霜が降っていた。車の犬が叢 を踏むと、それが煙のように散るのである。山の紅葉は若い櫨の木 ばかりだが、新年も近いのにまだ鮮やかに残っている。 処々の橋のたもと、または藪の片端などに、榎であろうか今散ります とでもいうように、忽然として青い葉をこぼしはじめ、見ているうち に散ってしまう木がある。」 夜が冴えれば冴えるほど、翌朝の寒さは厳しい。翌朝、宿を出た柳田は、 そのシンとする寒さの中を野田へ向けて車を走らせた。柳沢町か南町 あたりに宿をとつたとすれば、そこから野田の稲荷山に行くには野地 経由が近い。北詰を通って桜小路に入る。ふと見上げると城山の斜面に 幾本かの若い櫨の木が見えたのだろう。「新年も近いのにまだ鮮やかに」 燃えていた。亀井神社の脇を過ぎ、野田口に出ると、中州に冬の田園 風景が広がる。遠くに岡富、古川あたりの冬枯れの景色も目に映った かもしれない。 しかし、「処々の橋のたもと」とか、「藪の片端など」とは一体.どの 辺りであろうか。野地経由ではこれといった橋は見当たらない。 あるいは大貫経由で行ったのだろうか。大貫経由だと大瀬川に沿って 幾本かの小川が流れ込み、目立たぬ橋がところどころにかけてあった かもしれない。ただ、「橋のたもと」、「藪の片端」、「榎」など という言葉は、いずれも村境のイメージでもある。神聖な場所、 ないしは神聖な木である。野地経由で行ったとすれば、平野に出てから 後の畦道は曲がりくねった評判の悪路である。雨が降ればぬかり、 乾けば凸凹道である。車夫も往生したに違いない。都会風の神士 がこんな田舎まで来ることはめったになかっただろうからである。 風景を見る眼 『海南小記』では、この「ひじりの家」に続いてさらに日向路を南下し、 飫肥を訪れた時のことを「水煙る川のほとり」として書いている。 「その一文、 飫肥の町へは十二年ぶりに入ってきた。町にはまだ貂、狐、猿、羚羊 などの皮をぶらさげて売っている。やがて海に入る静かな川の音、 板橋を渡る在所の馬のとどろきまで、以前も聞いたような気がして なつかしい。城跡の木立の松杉は、伐ってまた栽えた付近の山よりは 大いに古く、かつて穴生役の技芸をつくしたかと思う石垣の石の色 には、歴史の書よりもさらに透徹した、懐古の味わいを漂わせているが、 今の小学校の巨大な建物に、引っかかっているものは振徳堂の額だけで、 百数十年の学徒の労作や蒐集などは、もう偶然の訪問者などには、 ちょっと見られぬような所に蔵してあるらしい。」 私の知る限り、平部峽南の身の上を、このように公に取り上げたのは 柳田が初めてである。戦後では野口逸三郎氏が峽南文庫の序文に その辺りの事情をいくらか詳しく書いているだけである。 柳田は峽南の身の上に痛みを馳せながらも、ここでも、それらが 忘れ去られることは仕方のないことなのだといっている。 そして平和の基礎や未来のためには、忘却が必要だと繰り返し言っている。 「その一文、 山が近いからか、またはこのころの季節のためか。今朝も大いに立って いた水煙が、晩かたにも酒谷川の流れをおおうている。宿の欄干に 出て立つと、河原には薄々と月がさして、もう物を洗う人の影はない。 前に来て泊まった家も板橋の近くであったが、二階はなくて門の脇 にたしか柳が一本あった。名を忘れたばかりに誰に聞いてももう分 からなくなった。あの時夜ふけまで来て話した郡長の田内氏を はじめ、わずか十二年の間に死ぬ人は死に、去る人は遠く去って しまった。そうして自分もまた偶然に、今一度過ぎて行くのみ である。未来にも仕事がある。強いてはっきりとこのような昔を、 思い出そうとするにはおよばぬのかも知れぬ。」
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柳田國男の代表作は、「東野物語」であるが、「雪国の春」には、 各紀行文の中に、参考とすべき文や旅への想い、気付きが多々ある。 個人的にも、原点回帰での参考になると思っている。 1)雪国の春より かねて風土の住民の上に働いていた作用の、たまたま双方向に共通なる 者が多かった結果、いわば、未見の友の如くに、やすやすと来たり近づく ことが出来たと見るのほか、通例の文化模倣の法則ばかりでは、実は その理由を説明することが難しいのである。 、、、、、、、 その上に双方とも、春が厭きるほどに永かった。世界のいずれの方面を 探してみても、アジア東海の周辺のように、冬と夏とを前後ろに押し広げて ゆるゆると温和の気候を楽しみうる陸地は、多くあるまい。これはもとより 北東の日本半分においては、味わいあたわざる経験であったが、花の林を 逍遥して花を待つ心持、または、微風に面して落花の行方を思うような境涯は 昨日も今日も一つ調子の、長閑な春の日の久しく続く国に住む人だけには、十分 感じえられた。夢の胡蝶の面白い想像が、奇抜な哲学を裏付けた如く、嵐も 雲もない昼の日陰の中に座して、なんをしようかと思うような寂寞が、 いつとはなくいわゆる春愁の詩となった。 ------ 風土と気候とがかほどまでに、一国の学問芸術を」左右するであろうかを いぶかる者は、おそらく日本文献のはなはだ片寄った成長に、まだ、 心づいておらぬ人たちである。、、、、、、、 いま1つ根本にさかのぼると、あるいはこのような柔らかな自然の間に ことに安堵して住み着きやすい性質の種族であったからということに なるのかもしれないが、いかなる血筋の人類でも、こういう良い土地に来て 喜んで永く留まらぬものはおるまい。いわば、この風土と同化してしまい、 もはや、この次の新しい天地から、何か別様の清くすぐれた生活を、 見つけ出すとする力が衰えたのである。 ------ 15 故郷の春と題して、しばしば描かれるわれわれの胸の絵は、自分等真っ先に 日の良く当たる赤土の岡、小松まじりのつつじの色、雲雀が子を育てる麦畑の 陽炎、里には石垣のタンポポすみれ、神の森の大掛かりな藤の紫、今日から 明日への題目も際立たずに、いつの間にか花の色が淡くなり、木蔭が多くなって 行く姿であったが、この休息ともまた退屈とも名づくべき春の暮れの心持は、 ただ旅行してみただけでは、おそらく北国の人たちには味わい言えなかったであろう。 北国でなくとも、きょうとなどはもう北の限りで、わずか数里隔てたいわゆる 比叡の山蔭になると、すでに雪高き谷間の庵である。それから嶺を超え湖を 少し隔てた土地には、冬ごもりをせねばならぬ村里が多かった。 丹波雪国積もらぬさきに つれておでやれうす雪に という盆踊りの歌もあった。これを聞いても山の冬の静けさ寂しさが考えられる。 日本海の水域に属する低地は、一円に雪のために交通が難しくなる。伊予に すみ慣れた土居得能之一党が越前に落ちていこうとして木の目峠の山路で、 悲惨な最後を遂げたという物語は、「太平記」を読んだ者の永く忘れえない 印象である。総体に北国を行脚する人々は、冬のまだ深くならぬうちに、何とかして、 身を入れるだけの隠れ家を見つけて、そこに平穏に一季を送ろうとした。 そうして春の返ってくるのを待ち焦がれていたのである。越後当たりの大百姓には こうした臨時の家族が珍しくはなかったらしい。、、、 汽車の八方に通じている国としては、日本のように雪の多く降る国も珍しいであろう。 それがいたるところ深い谷をさかのぼり、山の屏風を突き抜けているゆえに、 かの、 黄昏や又ひとり行く雪の人 の句のごとく、おりおり往還に立ってじっと眺めているような場合が多かった のである。 停車場には時として暖国から来た家族が住んでいる。雪の底の生活に飽き飽きした 若い人などが、何という目的もなしに、鍬をふるって庭前の雪を掘り、土の色を 見ようとしたという話もある。鳥などは食に飢えているために、こと簡単な方法で 捕らえられた。2,3日も降り続いた後の朝に、一尺か二尺四方の黒い土の 肌を出しておくと、何のえさも囮もなくてそれだけでヒヨドリやツグミが下りてくる。 大隅の佐多とか土佐の室戸とかの、茂った御崎山の林に群れてさえずり交わして いたものが、わずかばかり飛び越えるともうこのような国に来てしまうのである。 P19 ようやくに迎ええたる若春の喜びは、南の人のすぐれたる空想をさえも 超越する。例えば、奥羽の所々の田舎では、碧く輝いた大空の下に、 風は柔らかく水の流れは音高く、家にはじっとしておられぬような日 が少し続くと、ありとあらゆる庭の木が一斉に花を開き、その花盛りが 一どきに押し寄せてくる。春の労作はこの快い天地の中で始まるので、 袖を垂れて遊ぶような日とては一日もなく、惜しいと感歎している閑もない うちに艶麗な野山の姿は次第にしだいに成長して、白くどんよりした 薄霞の中に、桑は伸び麦は熟していき、やがて閑古鳥がしきりに啼いて 水田苗代の支度を急がせる。 ------- 東北の風光のうつくしいのは誰に聞いても紅葉の秋だという。それから 後の冬木立の山野もよし、はるは四峰の雪白水が満ち溢れて、蛙の啼く頃 の若緑も、長く待っただけに、人の心をとろかすようにあるらしい。 それが再び次の秋に移っていくまでの数週間は、土地の人々には休憩であり 昼寝であって、必ずしもこれを省みるに足らぬのか知らぬが、生憎 そのときばかりが旅行者の季節である。、、、、、 静かに見ておりたいものには、少しくあの色彩が単調であり、また無情で あるように感じないわけにはいかぬ。 あれはおそらく日の光の効果か、または気中の水分の加減であろう。 今一段と高い緯度に進むと、しだいにこの色が白々と、幾分軽く 頼りなくなるように思うことは北ヨーロッパを歩いた人の、誰でも 容易に経験するところである。 ------- 風景は画巻や額のようにいつでも同じ顔はしておらぬ。まず第一に時代が これを変化させる。我々の一生涯でも行き合わせた季節、雨雪の彩色は 勿論として、空に動く雲の量、風の方向などはことごとくその姿を左右する。 事によるとこれに面した旅人の心持、例えば、昨晩の眠りと夢、胃腸の加減まで が美しさに影響するかも知れぬ。つまりは個々の瞬間の遭遇であって、 それだからまた生活と交渉することの濃やかなのである。、、、、、、 いかにも狭い主観の、断独的個人的の記述であることは、既に心づいた 者が多いのであるが、名ある古人を思慕することが、無名の山川を愛する 情より勝っている国柄では、」風景の遇不遇ということに大きな意味を持つ。 水陸大小の交通路はもとより、絵葉書も案内記も心を含ませて、今古若干の 文人足跡ばかりを追従させ、わけもない風景の流行を作ってしまった。 ------- 1丈あまりの水底は、一面の草原で、絶えずなびている植物の間から、 いろいろの小石の光っているのが、あたかも花などの如く見えていた。 佐渡の島の東北端、鷲崎という静かな峪も、水澄んで様々の藻が茂っていた。 越後などから燃料の雑木を積みに小さな船ばかりが入ってきて繁っているが、 晴れた秋の朝の船出などに、差し込む日の光をもって、描かれる風情は、 棹や櫓で掻乱するに忍びないような見事さであったろうと思われる。 夕陽に遠く現れる東上総の磯の石畳は、ひじきの薄緑が地の色をなし、 その隙隙にトサカの幽かな紫を交えている。南の島に行くに随って、 隠れ岩にはしだいに花やかな彩色を加えるようだが、鷲崎の湊のあたりには 冷たい潮が通うためか、藻の緑はことに深く、かつ葉の広い北海 の種類が多かった。、、、、、いずれも自然の聚楽をなして、この郊外 秋の野のごとく入り乱れてはいなかった。畠ならば三反、五反の広さが 一面に紅か黄か、それぞれ一種一色の花をもって覆われた光景は、 例えば、れんげ草の田のようであった。無始の自然がこのように播き かつ育てるのである。 ------- 全体にこの木の多くあるところは、里や林をややはなれた、寂寞たる砂原 が多かった。風に吹き溜められた高山の這松帯の如く、人の足も立たぬように 密生している。由利郡の海岸では、防風林用の松林に隙間から、紅の花 ちらちらとみえたこともあったが、普通は、孤立して自分の枝は無意味な 茨であるためにせっかく鮮明なる花の色も、傍の緑の葉と相通じるような 風情がない。 ------- P93 要するに日本人の考え方を1種の明治式に統一せんとするが非なる如く 海山の景色を型に嵌めて、片寄った鑑賞を強いるのはよろしくない。 何でもこれは自由なる感動に放任して、心に適し時代に相応した新たな 美しさを発見せしむに限ると思う。島こそ小さいが日本の天然は、色彩 豊かにして最も変化に富んでいる。狭隘な都会人の芸術観をもって指導 しようとすれば、その結果は選を洩れたる地方の生活を無聊にするのみ ならず、かねては不必要に我々の祖先の国土を愛した心持を不明なら しめる。いわゆる雅俗の弁の如きは、いわば、同胞を離間する悪戯 であった。 意味なき因習や法則を捨てたら、今はまだ海山の隠れた美しさが、蘇る 望みがある。つとめて旅行の手続きを平易ならしむるとともに、若くして 真率なる旅人をして、いま少し自然を読む術を解せしめたい。人の国土 に対する営みも本来は咲き水の流るると同じく、おのずから向かうべき 一節の路があった。、、、、、緑一様なる内海の島々を切り開いて、 水を湛え田を作り蓮華草を播き、菜種、麦などを畠に作れば、山の土 は顕れて松の間からツツジが紅く、その麦やがて色づく時は、明るい 枇杷色が潮に映じて揺曳する。ひばりやキジが林の外に遊び、海 を隔てて船中の人が、その声を聞くようにな日が多くなる。 ------- つまりはただ1つの尊き神、1つの天に近き高峰に対して、周囲の麓の 里に住むものが等しく熱烈なる信仰を寄せていて、最初からこれを ある中心に統一することが困難なる形勢にあったのである。加賀の白山 なども事情はすこぶるこれに近く、出羽では、羽黒の三山のごときも、 この混乱のためついにみずからその歴史を述べることさえ出来ぬようになった。 しかもその闘争に参与した家々は、敵も味方も公平一様に衰えつくし いまはかえって不純なる原始信仰が、放任の結果として再び平民の 間に復活することになったのである。 ------- 山が霞んで遠景の隠れる点では、あるいは秋の中ごろに劣るという人もあろうが、 その代わりには峰の桜がある。黒木に映ずる柔らかな若葉の色がある。 全体にこの地の人々は、まだ山の花を愛する慣習がないとみえて、あれだけの 樹林と村居と比べては、見渡したところ天然の彩色が少し寂しいと思った。 今あるさくらなどもかって山詣での最も盛んな時代に、植えておいたらしい 数株の老木のみである。、、、、、、 山の斜面はほぼ正東に向いている。最初は前に立つ寒風山に隔てられて、 ただ想像するだけの八郎潟が、登るにつれて少しづつその両肩の上に光ってくる。 それが半腹を過ぎるとほとんど全部、寒風の峰を覆うように見えるのであるが、 その見晴らしの最も優れた地点で路を曲げ、曲がり角にはチャント桜があるのは、 疑うところもなく心あっての設けであった。以前この辺まで一帯の林であった ころには、かんらず、木の花の陰に息を入れて振りかえってはじめて三方の海を 眺めた事と思う。 本山の若葉山の姿やはりこのあたりから見るのが良いように思った。 細やかに観察したならば、美しい理由と言うともいうべきものが分かるであろう。 山の傾斜と直立する常盤木との角度、これに対する展望者の位置等が、 あたかもころあいになっているのではないか。画を描く人たちに考えて もらいたいと思った。 その上に昔もこの通りであったととも言われぬが明るい新樹の緑色に混じった 杉の樹の数と高さが、わざわざ人が計画したもののように好く調和している。 自分などの信仰では、山の自然に任せておけば、永くこの状態は保ちえられると 思っている。北海の水蒸気はいつでも春の常盤木を紺青ににし、これを取り囲む 色々の雑木に、花なき寂しさを補わしめるような複雑な光の濃淡を 与えるであろう。そうすれば、旅人は、単によきときに遅れることなく、 静かに昔の山桜の陰に立って、鑑賞しておりさえすればよいのであって、 自然の画巻きは季節がこれを広げて見せてくれるようになっているのだ。 -------- 新たに世の中に認められんとする風景はそんなものであってはならぬ。 海が荒れるから今日は引き返そうというような不自由きわまる鑑賞法に この壮大な天然を放擲しておいてはいけない。出来るだけ色々な変化が みられるようにする必要がある。 ゆえに男鹿を愛する人々の将来の案内書には、第一著に旅人の選択しうる ような幾つかの路順日取りを立てて、ほぼその道中の難易を説明すべきである。 、、、、、、、、 自分など見たところでは、男鹿の美しさは水と日の光の変化に存する。 すなわち、静かに止まって眺めているのによい風景である。 仮に温泉などは小規模で、また快活でないとしても、あの広大なる 高原は宝物である。、、、、、、、、 近世の紀行文学の1つのコツは、いかに世に知られた路傍の好風景 でも、これをさも新発見の如く吹聴して、国中の最も無職なる者 もしくは、多少の反感を抱くものに対するような態度をもって、記述と 解説の丁寧さを極めることがあるらしい。 (義経記成長の時代より) あらゆる我々の苑の花が、土に根ざして咲き栄えるように、一国の 文学にも正しく数千年の成長はあったが、文字と言うものから文学を 引き離して見ること事のできぬものには、その進化の路を考えることが 自由でなかった。ことに見もせぬ西洋のきれぎれの作品を人が辛苦して 鑑賞せんとする如く、都市の塵煙の中から出現したものでなければ、 文学として愛しかつあこがれるに足らぬと考えてでもいるらしい 地方の諸君には、今はほとんど目隠しと同様の拘束があるのである、 速くそういう薄暗い時代が去ってしまえばよいと思う。 文学と文字とこの2つのものの混同は、昔からあった。 たいていの国では、文字とという語から絶縁した文学という語はない。 古事記、書紀には、神代以来の尊い物語の色々が伝わってくる。 それらがわが国に発生した全部ではないにしろ、文学以前の文学 というものがあると同時に、文字以外の文学と言うものも、 また少なくとも上代には盛んであって、文字の教育の普及と ともに、段々と区域を縮小してきたことも推測出来る。そうして、 内外の2種の間には、各時代を通じて不断の脈絡系統こそあったが、 雅俗貴賎違うがごとき類の差別は、本来葉少しもありえなかった。、
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柳田國男 「清光館哀史」 青森 秋田 岩手 山形 宮城 福島 柳田國男 「清光館哀史」 (『文芸春秋』 大正15年9月号 のちに『雪国の春』 に所収) ------------------------------------------------------------------------------ 一 あんまりくたびれた、もう泊まろうではないかと、小子内(おこない)の漁村にただ一 軒ある宿屋の、清光館と称しながら、西の丘に面してわずかに四枚の障子を立てた二階 に上がり込むと、はたして古くかつ黒い家だったが、若い亭主と母と女房の親切は、予 想以上であった。まず、息を切らせてふきそうじをしてくれる。今夜は初めて還る仏様 もあるらしいのに、しきりにわれわれに食わす魚のないことばかり嘆息している。そう 気をもまれてはかえって困ると言って、ごろりといろりの方を枕に、ひじを曲げて寝こ ろぶと、外はこうもりも飛ばない静かなたそがれである。 小川が一筋あって板橋がかかっている。その板橋をカラカラと鳴らして、子どもたちが おいおい渡って行く。小子内では踊りはどうかね。はあ、いまに踊ります。去年よりは はずむそうで、と言っているうちに橋向こうから、東京などの普請場で聞くような女の 声が、しだいに高く響いて来る。月がところどころの板屋に照っている。雲の少しある 晩だ。 五十軒ばかりの村だというが、道の端には十二、三戸しか見えぬ。橋から一町も行かぬ 間に、大塚かと思うような孤立した砂山に突きあたり、左へ曲がって八木の港へ越える 坂になる。曲がり角の右手に共同の井戸があり、その前の街道で踊っているのである。 太鼓も笛もない。寂しい踊りだなと思って見たが、ほぼこれが総勢であったろう。あと から来て加わる者が、ほんのふたりか三人ずつで、少し長く立って見ている者は、踊り の輪の中からだれかが手を出して、ひょいと列の中にひっぱりこんでしまう。次の一巡 りの時には、もう、その子も一心に踊っている。 この辺では、踊るのは女ばかりで、男は見物の役である。それも出かせぎからまだもど らぬのか、見せたいだろうに腕組みでもして見入っている者は、われわれを加えても二 十人とはなかった。小さいのをおぶったもう爺が、井戸のわきから、もっと歌えなどと わめいている。どの村でも理想的の鑑賞家は、踊りの輪の中心にはいって見るものだが 、それが小子内では十二、三までの男の子だけで、同じ年ごろの小娘なら、皆、列に加 わってせっせと踊っている。この地方では、稚児輪みたような髪が学校の娘の髪だ。そ れがじょうずに拍子を合わせていると、踊らぬばあさんたちが、うしろから首をつかま えて、どこの子だかと顔を見たりなんぞする。 われわれには、どうせだれだかわからぬが、本踊り子の一様に白い手ぬぐいで顔を隠し ているのが、やはり大きな興味であった。これが流行か、帯もたびもそろいのまっ白で 、ほんの二、三人のほかは皆、新しいげただ。前掛けは昔からの紺無地だが、ことし初 めてこれに金紙で、家の紋や船印をはりつけることにしたという。奨励の趣旨が徹底し たものか、近所近郷の金紙が品切れになって、それでもまだ候補生までには行き渡らぬ ために、かわいい憤愚がみなぎっているという話だ。月がさすと、こんな装飾がみな光 ったりかげったり、ほんとうに盆は月送りではだめだと思った。一つの楽器もなくとも 踊りは目の音楽である。まわりが閑静なだけにすぐにそろって、そうしてしゅんで くる。 それに、あの大きな女の声のよいことはどうだ。自分でも確信があるのだぜ。ひとりだ け、見たまえ、手ぬぐいなしのぞうりだ。なんて歌うのか文句を聞いて行こうと、そこ らじゅうの見物と対談してみたが、いずれも笑っていて教えてくれぬ。なかには、知り ませんと言って立ちのく青年もあった。けっきょく手帳をむなしくしてもどって寝たが 、なんでもごく短い発句ほどなのが三通りあって、それを高く低くくりかえして、夜半 までも歌うらしかった。 翌朝五時に障子をあけて見ると、ひとりの娘が、踊りは絵でも見たことがないような様 子をして水をくみに通る。隣の細君は腰にかごをさげて、しきりにいんげん豆をむしっ ている。あの細君もきっと踊ったろう、まさかあれは踊らなかったろうと、争ってみて も夢のようだ。出立の際に昨夜の踊り場を通ってみると、存外な石高道でおまけに少し 坂だが、掃いたよりもきれいに、やや楕円形の輪の跡が残っている。今夜は満月だ。ま た、いっしょうけんめいに踊ることであろう。 八木から一里余りで鹿糠の宿へ来ると、ここでも浜へ下る辻のところに、小判なりの大 遺跡がある。夜明け近くまで踊ったように宿のかみさんは言うが、どの娘の顔にも少し の疲れも見えぬのはきついものであった。それから川尻・角浜と来て、馬の食べつくし た広い芝原の中を、くねり流れる小さな谷地川が、九戸・三戸二郡の郡境であった。青 森県の月夜では、わたしはまた別様の踊りに出会った。 二 おとうさん。今まで旅行のうちで、一番わるかつた宿屋はどこ。さうさな。別に悪いと いふわけでも無いが、九戸の小子内の清光館などは、可なり小さくて黒かつたね。 斯んな何でも無い問答をしながら、うかうかと三四日、汽車の旅を続けて居るうちに、 鮫の港に軍艦が入つて来て、混雑して居るので泊るのがいやになつたといふ、殆と偶然 に近い事情から何といふこと無しに陸中八木の終点駅まで来てしまつた。駅を出てすぐ 前の僅かな岡を一つ越えて見ると、その南の阪の下が正にその小子内の村であつた。 ちやうど六年前の旧暦盆の月夜に、大きな波の昔を聴きながら、この淋しい村の盆踊を 見て居た時は、又いつ来ることかと思ふやうであつたが、今度は心も無く知らぬ間に来 てしまつた。あんまり懐かしい。ちよつとあの橋の袂まで行つて見よう。 実は羽越線の吹浦象潟のあたりから、雄物川の平野に出て来るまでの間、浜にハマナス の木が頻りに目についた。花はもう末に近かつたが、実が丹色に熟して何とも言へぬ程 美しい。同行者の多数は、途中下車でもしたい様な顔付をして居るので、今にどこかの 海岸で、沢山にある処へ連れて行つて上げようと、つい此辺まで来ることになつたので ある。 久慈の砂鉄が大都会での問題になつてからは、小さな八木の停車場も何物かの中心らし く、例へば乗合自動車の発著所、水色に塗り立てたカフェなどが出来たけれども、之に 由つて隣の小子内が受けた影響は、街道の砂利が厚くなつて、馬が困る位なものであつ た。成程、あの共同井があつて其脇の曲り角に、夜どほし踊り抜いた小判なりの足跡の 輪が、はつきり残つて居たのもこゝであつた。来て御覧、あの家がさうだよと言つて、 指をさして見せようと思ふと、もう清光館はそこには無かつた。 まちがへたくとも間違へやうも無い、五戸か六戸の家のかたまりである。この板橋から は三四十間通りを隔てた向ひは小質店のこの瓦葺きで、あの朝は未明に若い女房が起き 出して、踊りましたといふ顔もせずに、畠の隠元豆か何かを摘んで居た。東はやゝ高み に草屋があつて海を遮り、南も小さな砂山で、月などゝは丸で縁も無いのに、何で又清 光館といふやうな、気楽な名を付けてもらつたのかと、松本佐々木の二人の同行者と、 笑つて顔を見合せたことも覚えて居る。 三 盆の十五日で精霊様のござる晩だ。活きた御客などは誰だつて泊めたくない。定めし家 の者ばかりでごろりとして居たかつたらうのに、それでも黙つて庭へ飛び下りて、先づ 亭主が雑巾がけを始めてくれた。三十少し余の小造りな男だつたやうに思ふ。門口で足 を洗つて中へ入ると、二階へ上れといふ。豆ランプは有れども無きが如く、冬のまゝ囲 炉裏のふちに置いてあつた。それへ十能に山盛りの火を持つて来てついだ。今日は汗ま みれなのに疎ましいとは思つたが他には明るい場処も無いので、三人ながら其周囲に集 まり、何だかもう忘れた食物で夕飯を済ませた。 其うちに月が往来から橋の附近に照り、そろそろ踊を催す人声足音が聞えて来るので、 自分たちも外に出て、ちやうど此辺に立つて見物をしたのであつた。 其家がもう影も形も無く、石垣ばかりになつて居るのである。石垣の蔭には若千の古材 木がごちやこちやと寄せかけてある。真黒けに煤けて居るのを見ると、多分我々三人の 、遺跡の破片であらう。幾らあればかりの小家でも、よくまあ建つて居たなと思ふほど の小さな地面で、片隅には二三本の玉蜀黍が秋風にそよぎ、残りも畠となつて一面の南 瓜の花盛りである。 何をして居るのか不審して、村の人がそちこちから、何気無い様子をして吟味にやつて 来る。浦島の子の昔の心持の、至つて小さいやうなものが、腹の底から込上げて来て、 一人ならば泣きたいやうであつた。 四 何を聞いて見てもたゞ丁寧なばかりで、少しも問ふことの答のやうでは無かつた。併し 多勢の言ふことを綜合して見ると、つまり清光館は没落したのである。月日不詳の大暴 風雨の日に村から沖に出て居て還らなかつた船がある。それに此宿の小造りな亭主も乗 つて居たのである。女房は今久慈の町に往つて、何とかいふ家に奉公をして居る。二人 とかある子供を傍に置いて育てることも出来ないのは可愛さうなものだといふ。 其子供は少しの因縁から引取つてくれた人があつて、此近くにも居りさうなことをいふ が、どんな児であつたか自分には記憶が無い。恐らく六年前のあの晩には、早くから踊 場の方へ行つて居て、私たちは逢はずにしまつたのであらう。それよりも一言も物を言 はずに別れたが、何だか人のよさそうな女であつた婆さまはどうしたか。こんな悲しい 日に出会はぬ前に、盆に来る人になつてしまつて居たかどうか。それを話してくれる者 すら、もう此多勢の中にも居らぬのである。 五 此晩私は八木の宿に還つて来て、巴里に居る松本君へ葉書を書いた。この小さな漁村の 六年間の変化を、何か我々の伝記の一部分の様にも感じたからである。仮に我々が引続 いてこの近くに居たところで、やはり率然として同様の事件は発生したであらうし、又 丸々縁が切れて遠くに離れて居ても、どんな出来事でも現はれ得るのである。が斯うし て二度やつて来て見るとあんまり永い忘却、或は天涯万里の漂遊が、何か一つの原因で あつた様な感じもする。それはそれで是非が無いとしても、又運命の神様も御多忙であ らうのに、此の如き微々たる片隅の生存まで、一々点検して与ふべきものを与へ、もし くはあればかりの猫の額から、元あつたものを悉く取除いて、南瓜の花などを咲かせよ うとなされる。だから誤解の癖ある人々が之を評して、不当に運命の悪戯などゝ謂ふの である。 六 村の人との話はもう済んでしまつたから、連れの者のさしまねく儘に、私はきよとんと して砂浜に出て見た。そこには此頃盛んにとれる小魚の煮干が一面に乾してあつて、驚 く程よくにほつて居た。その沢山の筵の一番端に、十五六人の娘の群が寝転んで、我々 を見て黙つて興奮して居る。白い頬冠りの手拭が一様に此方を向いて、勿体無いと思ふ ばかり、注意力を我々に集めて居た。何とかして此人たちと話をして見たら、今少しは 昔の事がわかるだらうかと思つて、口実をこしらへて自分は彼等に近よつた。 ハマナスの実は村の境の岡に登ると、もう幾らでも熟して居るとのことであつた。土地 の語では是をヘエダマと謂ふさうで、子供などは放つて遊ぶらしいが、わぎわざそんな 物を捜しに遠方から、汽車に乗つて来たのが馬鹿げて居ると見えて、ああヘエダマかと 謂つて、互ひに顔を見合せて居た。 此節は色々の旅人が往来して、彼等をからかつて通るやうな場合が多くなつた爲でもあ らうか。うつかり真に受けまいとする用心が、さういふ微笑の蔭にも潜んで居た。全体 にも表情にも、前に私たちが感じて還つたやうなしほらしさが、今日はもう見出され得 なかつた。 一つにはあの時は月夜の力であつたかも知れぬ。或は女ばかりで踊る此辺の盆踊が、特 に昔からあゝいふ感じを抱かしめるやうに、仕組まれてあつたのかも知れない。六年前 といふと此中の年がさの娘が、まだ踊の見習ひをする時代であつたらう。今年は年が好 いから踊をはずませようといふので、若い衆たちが町へ出て金紙銀紙を買つて来て、そ れを細かく剪つて貼つてやりましたから、綺麗な踊り前掛が出来ました。それが行渡ら ぬと言つて、小娘たちが不平を言つて居りますと、清光館の亭主が笑ひながら話して居 たが、あの時の不平組も段々に発達して、もう踊の名人になつて多分此中に 居るだらう。 成程相撲取りの化粧まはし見たやうな前掛であつた。それが僅かな身動きのたびに、き らきらと月に光つたのが今でも目に残つて居る。物腰から察すればもう嫁だらうと思ふ 年頃の者までが、人の顔も見ず笑ひもせず、伏し目がちに静かに踊つて居た。さうして やゝ間を置いて、細々とした声で歌ひ出すのであつた。たしかに歌は一つ文句ばかりで 、それを何遍でも繰返すらしいが、妙に物遠くて如何に聴き耳を峙てゝも意味が取れぬ 。好奇心の余りに踊の輪の外をぐるぐるあるいて、そこいらに立つて見て居る青年に聞 かうとしても、笑つて知らぬといふ者もあれば、ついと暗い方へ退いてしまふ者もあつ て、到頭手帳を取ることも出来なかつたのが久しい後までの気がゝりであつた。 七 今日は一つ愈々此序を以て確かめて置くべしと、私は又娘たちに踊の話をした。今でも 此村ではよく踊るかね。今は踊らない。盆になれば踊る。こんな軽い翻弄を敢てして、 又脇に居る者と顔を見合せてくつくつと笑つて居る。 あの歌は何といふのだらう。何遍聴いて居ても私にはどうしても分らなかつたと、半分 独り言のやうに謂つて、海の方を向いて少し待つて居ると、ふんと謂つたゞけで其問に は答へずにやがて年がさの一人が鼻唄のやうにして、次のやうな文句を歌つてくれた。 なにヤとやれ なにヤとなされのう あゝやつぱり私の想像して居た如く、古くから伝はつて居るあの歌を、此浜でも盆の月 夜になる毎に、歌ひつゝ踊つて居たのであつた。 古い爲か、はた余りに簡単な爲か、土地に生れた人でも此意味が解らぬといふことで、 現に県庁の福士さんなども、何とか調べる道が無いかといつて書いて見せられた。どう 考へて見たところが、是ばかりの短かい詩形に、さうむつかしい情緒が盛られようわけ が無い。要するに何なりともせよかし、何うなりとなさるがよいと、男に向つて呼びか けた恋の歌である。 但し大昔も筑波山のかがひを見て、旅の文人などが想像したやうに、此日に限つて羞や 批判の煩はしい世間から、遁れて快楽すべしといふだけの、浅はかな歓喜ばかりでもな かつた。忘れても忘れきれない常の日のさまざまの実験、遣瀬無い生存の痛苦、どんな に働いてもなほ迫つて来る災厄、如何に愛しても忽ち催す別離、斯ういふ数限りも無い 明朝の不安があればこそ はアどしよそいな と謂つて見ても、 あア何でもせい と歌つて見ても、依然として踊の歌の調は悲しいのであつた。 八 一たび「しよんがえ」の流行節が、海行く若者の歌の囃しとなつてから、三百年の月日 は永かつた。如何なる離れ島の月夜の浜でも、燈火花の如く風清き高楼の欄干にもたれ ても、之を聴く者は一人として憂へざるは無かつたのである。さうして他には新たに心 を慰める方法を見出し得ない故に、手を把つて酒杯を交へ、相誘うて恋に命を忘れよう としたのである。 痛みがあればこそバルサムは世に存在する。だからあの清光館のおとなしい細君なども 、色々として我々が尋ねて見たけれども、黙つて笑ふばかりでどうしても此歌を教へて はくれなかつたのだ。通りすがりの一夜の旅の者には、仮令話して聴かせても此心持は 解らぬといふことを、知つて居たのでは無いまでも感じて居たのである。
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春の比較、雪国の春から、比良の春は?ブログ向け
「立春の頃」 風景は画巻や額のようにいつでも同じ顔はしておらぬ。まず第一に時代が これを変化させる。我々の一生涯でも行き合わせた季節、雨雪の彩色は 勿論として、空に動く雲の量、風の方向などはことごとくその姿を左右する。 事によるとこれに面した旅人の心持、例えば、昨晩の眠りと夢、胃腸の加減まで が美しさに影響するかも知れぬ。つまりは個々の瞬間の遭遇であって、 それだからまた生活と交渉することの濃やかなのである。 いかにも狭い主観の、断独的個人的の記述であることは、既に心づいた 者が多いのであるが、名ある古人を思慕することが、無名の山川を愛する 情より勝っている国柄では、風景の遇不遇ということに大きな意味を持つ。 水陸大小の交通路はもとより、絵葉書も案内記も心を含ませて、今古若干の 文人足跡ばかりを追従させ、わけもない風景の流行を作ってしまった。 しかし、時は人、そして猫も待たずして、そろそろ立春と呼ばれる季節へと 進んでいる。我が家の庭の梅の木には、小さな大豆のようなピンクの蕾 がひしめき合あい始めている。 少し前に手を入れた夫々の木々は、夫々の想いと姿で、春の匂いを嗅ごうと している。春の仄かな香りがヒタヒタと近づいているのだ。 まだ、比良の山並には、白い雪が、頑固に張り付いているが、立ち込める 霞が春になったんだよ!言わんばかりに、白いベールの世界を造っている。 比良山が霞んで遠景の隠れる点では、あるいは秋の中ごろに劣るという人も あろうが、その代わりには山麓の下を覆いつくす若い木々の緑がある。 黒木に映ずる柔らかな若葉の色が見え始める。全体にこの地の人々は、 まだ山の花を愛する慣習がないのか、あれだけの樹林と広がる家々と比べても 見渡したところ天然の彩色が少し寂しい。これから咲くさくらなどもかって 山修行が最も盛んな時代に植えておいたらしい数株の老木があるのみである。 山の斜面はほぼ正東に向いている。そこから直線的に琵琶湖に落ちていく山並 が、登るにつれて少しづつその色を変え琵琶湖の光を受けて光ってくる。 それが半腹を過ぎるとほとんど全部、寒風の峰を覆うように見えるのである が、蓬莱山や武奈岳の姿やはりこのあたりから見るのが良いようである。 細やかに観察したならば、美しいと言うともいうべきものが分かるであろう。 山の傾斜と直立する常緑木との角度、これに対する展望者の位置等が あたかもころあいになっているのではなかろうか。 「まだ少し冬が残る頃」 既に2月も終わりである。季節は雨水から春分へと移りつつある。 まだ寒い日もあるが、少しづつ暖かさの断片が周りを覆うような日も 増えてきた。 灰色の空を後景にして、これも灰色の比良山が幾筋かの雪影を合わせて 佇んでいる。モノクロ一色の世界に少し赤みが差し始める。天空を 覆いつくしている雲をこじ開けるが如く僅かな朝陽がその峰を照らす。 しかし、それも一瞬の事とて、またもとの静寂の白と黒の世界にもどる。 その静寂を破るように、それは四十雀であろうか、その尾を小刻みに 震えさせながらまだ硬く寒さにこらえている梅の芽のうえを飛んでいく。 この庭から見る比良は毎日、その顔を変える。昨日は薄青いカーテン が引かれた様な空を背景に、斑模様の雪がへばりついた顔を見せていた。 その下を一筋の薄き羽衣のような雲がゆっくりと湖の方へ流れて行く。 よくみれば、その下には真綿のような雲の塊りが黒い木々に変わり、 全体を覆い隠していた。 今日は雨になるのであろう。幾筋かの雨足が見えるが、それは地面に 着く前に消えるが如く弱いものである。すこし温かみを含んだ弱い風が 頬を撫ぜながら左から右へと流れている。 春の予感はそこからは感じられない。 「春の兆しが足元まで来ている」 長く白い砂地が左から右へと大きな湾曲を描きながら延びている。 湾曲に沿ってまばらではあるが松林も続いていた。沖にはえり漁の仕掛け棒が 水面から何十本となく突き出し、自然の中のくびきでもしているようだ。 私のいる砂浜に向かってゆっくりとした波長をもってさざなみが寄せていた。 春は浪さえも緩やかにさせるのであろうか、冬に見たときのそれとは大きく違う。 私の10メートルほど先には、数10羽の鳥たちが青白い空とややくすんだ 色合いの青を持つ湖面の間に浮かんでいる。あるものはえり漁の仕掛け棒の上で 羽を休め、何羽かの鳥たちは遊び興じているようでもある。2羽のコガモが 連れ立って水面をゆっくりと進んでいる。やがて彼らもここを離れ、次の住まいへと 向かうのであろう。春は出発と別れのときでもある。 遠く沖島と少し黒く霞んだ山並を背景にして数艘の釣り船が浪に揺られ、釣り人が その上で釣り糸を垂れている。そのモノトーンのような光景を見ながら、私は、 春がその辺に来ている事を感じた。 砂浜の切れるところに港がある。港には朝の漁を終えたのであろうかノンビリと とした風情で浮かんでいる。時折かもめが船の舳先を飛び、また離れて行った。 古来よりこの地域は魚を取る事を生業とした和邇氏と呼ばれる部族が住んでいた。 このため、ここから北へ向けても幾つかの漁港がある。多分、古代人が見た風景も 私が見ているこの春に手をかけたような風景も同じであったのであろう。 「春が姿を現し始めた」 朝から茜色の朝陽が小さな雲と一緒に見えていた。 比良の山は白い雪帽子が頂上の稜線と空の間に残っているが、少し前の黒々とした 木々のまといとは違う姿を見せている。薄ぼんやりと薄いベールを被ったような 山並がこれもやや薄れた蒼さの見える空とそれを取り巻く春の陽光の中に悄然と 立っている。今年初めて見せるその姿は、それだけで春の訪れを告げている様 でもある。 少し視線をずらせば、いつも見えるはずの湖の蒼さも対岸にある山並もその ベールの中に消えている。存在するはずのものがそこに見えないと言う感触は、 自分の存在さえ否定されているようでなにか不思議な思いに駆られた。 しかし、この身体にまとわりつく心地よき温かさと柔らかな日差しは間違いなく 春が我が身にもにじり寄ってきている事を感じさせ、家の前を行きかうお年寄り の顔にも冬の間見られた固く黒ずんだ陰りが柔らかく赤みを帯びたそれに変って いた。皆が新しい光の中で、生きていた。 この街は風の街でもある。 特に春の訪れとともに、「比良おろし、比良八荒」が吹き荒れる。 比良山地南東側の急斜面を駆け降りるように吹く北西の風である。 強い比良おろしが吹くときには、比良山地の尾根の上に風枕という雲が見られる。 その風に合わすかのように「比良八講(ひらはっこう)」という法要が行われる。 周辺の琵琶湖で僧りょや修験者らが、比良山系から取水した「法水」を湖面に注ぎ、 物故者の供養や湖上安全を祈願するのだ。 山が霞んで遠景の隠れる点では、あるいは秋の中ごろに劣るという人もあろうが、 その代わりには峰の桜がある。黒木に映ずる柔らかな若葉の色がある。 全体にこの地の人々は、まだ山の花を愛する慣習がないとみえて、あれだけの 樹林と村居と比べては、見渡したところ天然の彩色が少し寂しいと思った。 今あるさくらなどもかって山詣での最も盛んな時代に、植えておいたらしい 数株の老木のみである。、、、、、、 山の斜面はほぼ正東に向いている。最初は前に立つ寒風山に隔てられて、 ただ想像するだけの八郎潟が、登るにつれて少しづつその両肩の上に光ってくる。 それが半腹を過ぎるとほとんど全部、寒風の峰を覆うように見えるのであるが、 その見晴らしの最も優れた地点で路を曲げ、曲がり角にはチャント桜があるのは、 疑うところもなく心あっての設けであった。以前この辺まで一帯の林であった ころには、かんらず、木の花の陰に息を入れて振りかえってはじめて三方の海を 眺めた事と思う。 本山の若葉山の姿やはりこのあたりから見るのが良いように思った。 細やかに観察したならば、美しい理由と言うともいうべきものが分かるであろう。 山の傾斜と直立する常盤木との角度、これに対する展望者の位置等が、 あたかもころあいになっているのではないか。画を描く人たちに考えて もらいたいと思った。 その上に昔もこの通りであったととも言われぬが明るい新樹の緑色に混じった 杉の樹の数と高さが、わざわざ人が計画したもののように好く調和している。 自分などの信仰では、山の自然に任せておけば、永くこの状態は保ちえられると 思っている。北海の水蒸気はいつでも春の常盤木を紺青ににし、これを取り囲む 色々の雑木に、花なき寂しさを補わしめるような複雑な光の濃淡を 与えるであろう。そうすれば、旅人は、単によきときに遅れることなく、 静かに昔の山桜の陰に立って、鑑賞しておりさえすればよいのであって、 自然の画巻きは季節がこれを広げて見せてくれるようになっているのだ。
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