この志賀の里は、琵琶湖と比良山系に囲まれた自然豊かな街だ。 しかし、その良さを十分理解し体感しているかといえば、疑問だ。 それは、私の心が濁ってきて、美しい物を見たり聞いたりする感性の 窓が閉ざされているからであろう。よる歳はさらにそれに拍車をかけている ようでもある。もっと励んで五感の窓を磨かなければならないであろう。 そのような中、浅学非才ながら少しづつ正法眼蔵に触れて来たが、さらに 以下の本なども含め、自然からは色々と教えられるものだ、と思う日々だ。 1.「ハロルド・フライの思いもよらない巡礼の旅」から思う。 ほぼ同じ歳の退職老人が、千キロを歩き通す、「ハロルド・フライの思いも よらない巡礼の旅」と言う小説を読んだ。これが、ずっと心の奥底に静かに なにか小骨がのどに残る感じでここ数年過ごしている。 昔お世話になった女性が、ガンになった、と言う手紙が届いたところから それは、始まる。登場人物は、ハロルドとその妻、そして自殺した息子の 影、ガンの女性、隣人の老人であるが、イギリスの初夏の風景と途中で 行合う人々の交流が、きめ細やかに書かれている。歩くと言う行為の中に、 自身と人間の真の姿を見出し、息子への負い目、ガンになった女性への 償い、妻との心の大きな溝を自然が癒して行く。子供時代のその不遇な 環境と生い立ちから、目立たない人生を生きてきた人間が、ガンで生死 の境にある女性に、昔の償いを果たさねばならない、と言う強い気持ち が、途中の挫折したいと言う気持ちをも乗り越えさせ、肉体的にも、 絶体絶命の状況を乗り越えさせた、それは、なんなのだろうか。 状況は、大分違うし、肉体的にまだその苦痛を味わっていないが、 その空しさと家族との諍い等、自身の内に秘めるもの、共有するは同じ様 に思えた。ハロルドの場合と違う、との思いはあったが、自身の真の姿を見出し、 人と自然の成り立ちやその価値を、分かっていなかった。 ハロルドの場合は、千キロを歩き通すことで、それを成し遂げた。心情的には、 凄く納得観のある作品であり、今の自分に対して痛烈な一撃として、わが身に 強い衝撃を与えてくれた。 特に自然との交わり、天啓について、以下の2つの文は興味ある一節だ。 「思いがけない事が起きた。しかも、それは彼が旅のあいだに出くわして、 そこに大きな意味を汲みとることになる幾つもの瞬間のひとつだった。 その午後遅く、いきなり雨がやんだ。あまり唐突で、それまで降っていた ことさえ信じられないくらいのやみ方だった。東の空で、雲ににわかに 亀裂が走り、空の低いところに一本のきらめく銀色の帯が出現した。 ハロルドは思わずその場に立ちつくし、灰色の雲海に二度、三度と亀裂が 走っては、新たな色が現われる様に見とれていた。青、赤みがかった濃い 茶色、黄桃色、緑、そして茜色。やがて、雲はくすんだピンクに染め上げられた。 ひとつひとつの色がきらめき震えつつ滲み出し、鉢合わせしては混ざり合った かのようだった。ハロルドは動けずにいた。変化の全てを自分の目で見届けたかった。 大地に差す光りは黄金色。その光りを浴びて彼の肌も暖かい。足下では、 大地がきしみ、ささやき交わす。空気は緑の匂いがして、始まりの気配に満ちている。 柔らかな霧が立ち上がる。細くたなびく煙の筋に様だ。疲労困憊、足をあげること さえつらいのに、旨は希望に満ちている。めまいがするほどの希望に。 自分自身より大きなものに目を向けてそらさずにいれば、きっとベリックまで 歩き通せるはずだ」 「こうして自分の足で歩いていると、人生はこれまでと全くの違う ものに見えてくる。土手の隙間からのぞく大地はゆるやかに起伏し、 やがて市松模様の畑地に変わり、それぞれの境界に生け垣や木立 が並んでいる。ハロルドは、おもわず脚を止めて目を凝らした。 緑にもたくさんの色合いがある事を知って、自分の知識の足りなさ をいまさらのように思い知らされた。限りなく黒いベルベットの 質感の緑色もあれば、黄色に近い緑色もある。遠くで、太陽の光 が通り過ぎる車をとらえた。たぶん、窓にでも当たったのであろう。 反射した光が流れ星のように、震えながら、丘陵地を横切った。 どうしてこれまで一度もこういう事に気付かなかったのだ? 淡い色の、名前も知らない草花が生け垣の根元を埋め尽くしている。 サクラソやスミレも咲いている」 2.「渓声山色の巻」から思う 石井恭二氏の「現代文正法眼蔵の渓声山色之巻」の中に以下の一節がある。 「渓流の音を聞いて覚りを得たこの故事は、さらに後世に益することが多い。 しかし憐れむべきことに、人は幾度とも覚者の説法を聞きながら、その教えを 身につけることがないのである。ましてやどうして蘇東坡のように山色を見、 渓流の音を聞くことがあろうか。覚りの境地を開示する一句なりと、半句なりと、 八万四千の偈げに接しようとも、中々人は覚りを身につけることがないのである。 見事ではないか、渓声山色の偈にはかくれた仏の声が現存しているではないか。 さらに慶ぶべきである。この偈に仏性が現前する時節因縁を見るのである。 渓声山色の偈には、倦むことのない味覚さえも、色声香身の五境そのものが 現れているではないか。そうではあるが、また、そこには仏性の現前が親しい とも覚え、仏性が隠れている様子が親しいとも覚えるのだ。 渓流の音量などはかかわりもないではないか。 渓流の音は夜の音の中に停止し、山は渓流の音の中に流れる。これまで蘇東坡は 春秋に流れる山水の声にこのように仏性を聞くこともなかった、夜の音に仏性を 聞き取ることは少なかった。いまや、修行者もまた、渓声山色の「山は流れ、 水は流れず」から学道に入る門を開くべきである」 もう少し言えば、昔の中国に蘇東坡という人がいて、はしばらく廬山に留まり 座禅を組みこの公案に取り組んだ。だがついに答えを出せず、常総禅師の もとを辞して、州へ向かうことにした。だがその無情説法の公案は彼の脳裏 から離れず馬に揺られながらも考え続けていた。いや考えるというのでなく、 全身全霊で公案に取り組んでいたのだ。 そんな旅の途中とある谷川へさしかかったとき、ごうごうと岩をも砕くような 流れの轟音に蘇東坡はがらりと心境が開けたという、その心境を詩にしたのが、 渓声便是広長舌 けいせいすなわちこれこうちょうぜつ 山色豈非清浄身 さんしきあにしょうじょうしんにあらざらんや 夜来八万四千偈 やらいはちまんしせんのげ 他日如何人挙似 たじついかんかひとにこじせん の詩である。 渓声即ち是れ広長舌、広長舌とは、仏という立場の方の特徴とする三十ニの瑞相 の一つ。絶え間なく響く谷川の轟音。 そして山色豈清浄身に非らざらんや、山の青々とした風光、緑深き木々の森、森羅万象 のそのすべてが将にそのまま清浄なる仏の姿であり、ご説法である。 夜来八万四千の偈、朝から晩まで絶えることのない如来の無限のご説法を聞く ことが出来るではないか。他日如何が人に挙示せん・・このすばらしい仏のご説法 の感激を誰に、どう伝えようか、言葉でも言い表せない筆舌しがたいことだ。 “ 野に山に仏の教えはみつるれども仏の教えと聞く人ぞなし” との歌にも通じよう。 実に、谷や川、山や木々は無情であり、何ら人の心があるわけではない。 けれど、その無情の山川草木から偉大なる仏の教えを見つけ、聞きだし心洗う ことが出来る優れた感性、能力を人は頂いているのだ。すべての計らい、捉われ から解き放ち、謙虚に大自然に抱かれて見るとき、自ずから清浄法身仏の雄弁なる ご説法にふれることが出来よう。 3.心理学でも重要視する ポジティブ心理学は持続的な幸福を得るための心理学だが、それを実現するにも 自身と自然との交わりを重要視している。ル・ベン・シャハーがポジティブの考え方 をベースにした自身の行動改善、それによる新しい自分作りのやり方についての 17の実践項目についてまとめているが、その14項は以下の内容である。 ・本来の自分を知る。 本来の自分に戻る時間を持つこと。 信頼する友人に気持ちを語ったり、心に浮かぶあらゆることを 日記に書いたり、自分の部屋で一人で過ごす時間を作る。 以下の文章の後半を最低6つづつ、思いつくままに書く。 例えば、 自分の気持ちにあと少し正直になるためには、 自分が恐れていることにあと少し気付くことが出来れば、 あと少し本来の自分に戻るためには、 文章をジックリ見直し、実行すること。 また、この行動の一つとして、自身の「分からない」を受け入れるもある。 知らないものへの不安を畏敬の念、驚きの気持ちに変える。 「ただ歩くこと」を習慣とするのが、重要といわれている。 外に出かけ、ただゆっくりと時間を過ごす。そこから、街の 息遣い、静けさ、森の生命力など、五感を最大限に使い感じる。 さらには、ポジティブ心理学の基底にあるものは、正法眼蔵にも通じるものが 多いようで、例えば、その「弁道話」では、、 「修証はひとつにあらずとおもえる、すなわち、外道の見なり。仏法には、 修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆえに、初心の弁道すなわち本証 の全体なり」 「修証これ一等なり」とは、修(修行)と証(証悟)とは一つ同じもの。 「本証」とは、本来の悟り。修行のただ中がそのまま本来の悟りそのものと 言っている。 この根底にあるのは、「脚下を照顧せよ」として、普段の生活まで自身の 足元をみることを勧める。単に坐禅する行為のみ留まらず、「行、住、 坐、臥」の全ての日常行為が仏道に通じると言っている。 一切の生きとし生けるものは、悉有の一部であり、草木虫類に至るまで、そのまま 仏性と考えている。 道元が、絶対真理を詠んだ素晴らしい歌がある。 「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」 春に花が咲く、夏にはほととぎすが来て鳴く、秋には月が美しい、 冬には雪が積もる。ごく当たり前の情景で、何一つ不思議はない。 しかし、その当たり前のこと中に、夫々の現象が夫々の季節に姿を現していて、 それ以外には、季節の現れ方はないと言う絶対的真理があると言っている。 すなわち、全ての季節を夫々に共通の世界の真実がそこに現れていて、何一つ 変わることはない。そう思えば、心は非常に涼しいという境地を詠んでいる。 小林秀雄氏の「無常という事」の冒頭に以下のような一節がある。 「ある人いはく、比叡の御社に、偽りてかんなぎのまねしたるなま女房の、 十禅師の御前にて、夜うち深け、人しづまりて後、ていとうていとうと、 つゞみを打ちて、心すましたる声にて、とてもかくても候、なうなうと うたひけり。其心を人にしひ問はれて云(いはく)、生死無常(しょうじむじょう) の有様を思ふに、此世のことはとてもかくても候、なう後世(ごせ)を たすけ給へと申すなり。云々(うんぬん) これは、「一言芳談抄(いちごんほうだんしょう)」の中にある文で、 読んだ時、いい文章だと心に残ったのであるが、先日、比叡山に行き、 山王権現(さんのうごんげん)の辺りの青葉やら石垣やらを眺めて、ぼんやりと うろついていると、突然、この短文が、当時の絵巻物の残欠でも見る様な風に 心に浮び、文の節々が、まるで古びた絵の細勁(さいけい)な描線を 辿る様に心に染み渡った。、、、、」 まだまだ感度の鈍い、もしくは鈍くなりつつある五感であるが、この恵まれた 環境の中で、小林秀雄氏のこのような瞬間を味わいたいもの。
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