「笈の小文(おいのこぶみ)」 1687年 芭蕉44歳
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「神無月の初空、定めなきけしき、身は風葉の行末なき心地して、
旅人と我が名よばれん初しぐれ」 風狂の旅人と呼ばれてうれしいのか、呼んでもらいたいものだということなのか、どちらだろう。尊敬する西行や宗祇のように自分も風狂の旅人として生きよう。覚悟は決めた、だがもう初時雨の季節になってしまった、「定めなきけしき、身は風葉の行末なき心地して」、行くしかない、自分で選んだ道だから。 1687年、芭蕉44歳。この年8月に「鹿島詣」をした後、10月から翌年の3月まで「笈の小文」(おいのこぶみ)の旅に出る。江戸を出て名古屋、伊良湖崎へ。翌年さらに杜国とともに伊勢神宮、奈良、大阪、須磨、明石、京都、近江に遊ぶ。さらに8月には信濃路「更科紀行」の旅へと続けている。 「百骸九竅(ひゃくがいきゅうけい)の中に物有り」。100の骨と9つの穴(つまりは人)ではあっても、心はある。誠に薄く風にも破れそうなか弱いものではあるが、永く俳諧を好み、生涯をこれにかけてきた。 | |||
伊賀上野の芭蕉記念館の前の池。芭蕉の蛙とおたまじゃくしをたくさん飼っている? | ある時は行き悩んで投げ出したくなることもあった、 競争に勝とうとして身を焦がし、ああしようかこうしようかと悩んで心休まることもなく、仕官をして立身出世を願ったこともあったが俳諧の道への志のために断念し、学問を志したこともあったが挫折し、ついに無能無芸にしてこの俳諧一筋でやってきた。 風雅においては、自然の造化にしたがい、季節の移り変わりを友とすること。造化ににしたがい造化にかえれ。 自然と一体になることを説く芭蕉の考えは、伝統的な東洋的自然主義ともいえる。 その姿勢は生活においても作句においても一貫して貫かれている。 だが、芭蕉の風狂、侘び趣味は、山林閑居の静的な隠棲ではない。自然の中に身をおくことで、俳諧の新しい表現を生み出そうとする積極的で革新的なものである。 「乾坤の変は風雅の種なり」(天地自然の変化)「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」「景情一味の写実」(三冊子)。俳諧の風雅に身をささげた風狂、景物に対して一念一動する詩魂のひらめきの表現。一所不在、桑門乞食の生活のなかから「風雅の誠」を絞り出そうとする。 | ||
伊良湖岬から半島の方を望む。 |
紀貫之「土佐日記」や鴨長明「方丈記」?や阿仏の尼「十六夜日記」などには浅知短才の自分の筆では及ぶべくもない、と謙遜している。それでも心に残った風景や山館・野亭の苦しい愁いが、話しの種にもなり、風雲のたよりにでもなれば、と筆を執った。酔っぱらいの猛語や寝言として聞いてほしい、とどこまでも奥ゆかしい。芭蕉の生き方の本音の部分が表出されているからだろう。事実、この書を世に出したのは芭蕉ではなく、信頼していた弟子の越人だった。いろいろあって芭蕉が逝くまではこの書は出せなかったのだろう。
芭蕉は、人生を旅そのものと考えていた。「日々旅に生き、旅を栖(すみか)とす」、それは芭蕉の漂泊願望ともいえるようだ。「野ざらし紀行」「鹿島詣」「笈の小文」「更科紀行」そして最後に「おくのほそ道」の紀行文がある。「おくのほそ道」は芭蕉自身が世に出そうとしていたようだが、それも本当にそうなのかはっきりしない。他はすべて門人たちが芭蕉の死後に出版した。では芭蕉はなぜこれらの紀行文を残したのか。なぜ、死後にしか発行されなかったのか。「芭蕉七部集」などの歌仙や発句の、いわば俳諧師としての芭蕉の本業とは別に、新しい紀行・俳文のような表現を考えていたのではないだろうか。私見では、芭蕉は常に新しみを求める人だった。名所・旧跡や歌枕をただ細かく紹介するような紀行文は、自分の仕事ではないと考えていた。「笈の小文」も紀行文に分類されるのだろうが、俳文的でもあり、新しいジャンルの文章形式を試行していたといえるのではないか。 「されども其の所々の風景心に残り、山館(さんかん)・野亭(やてい)の苦しき愁(うれひ)も、かつは話の種となり、風雲のたよりとも思ひなして、忘れぬ所々跡や先やと書き集め侍る」。芭蕉は謙遜しているが、新しい表現への並々ならぬ意欲があっちこっちに顔を出している。 | ||
伊良子湖港より、左が伊良湖崎、中央が神島、右に薄っすらとみえるのが鳥羽 。 |
なぜ芭蕉は伊良湖半島の保美に行ったのか。芭蕉の旅好きは放浪癖からだけではないようだ。いろいろ楽しいこともあったのだろう。それはいとしい杜国がそこにいたから(越人が芭蕉に杜国の近況を教えた)。芭蕉はいったん鳴海・熱田についてから、越人を伴って豊橋(吉田)を経由して伊良湖に向かった。 写真は、左が伊良湖崎、中央が神島、右に薄っすらとみえるのが鳥羽。杜国はこの海峡を伊良湖から鳥羽に渡って芭蕉と落ち合った。 [地図] | ||
「鷹一つ見付て嬉しいらこ崎」の碑 。国道・田原海道に面している。 |
「寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき」
書き始めの文章がすばらしいが、実際、芭蕉がやっていることは、いとしい人と手に手をとっての道行きに近い。「乾坤無住同行二人」の書付や句には、芭蕉には珍しい心うきうきした気持ちが表現されている。 芭蕉の生きた江戸時代初期には、 戦国時代の名残りで同性愛は普通で、若い武士は女色をいやしみ男色をむしろ誇りとしていたようだ。芭蕉は「衆道づき」だった。(芭蕉の初めての句集「貝おおい」の中で「衆道づき」を書いているとか。)芭蕉は杜国を「万菊丸」と呼んで、その美貌と才能を愛したようだ。 杜国は、名古屋の問屋の若主人だか、空米売買の罪で領国追放され、渥美半島南端の保美に隠棲していた。芭蕉はその杜国を尋ねたのだった。
2人は、保美から少し離れた伊良湖崎を逍遥したのだろう。洲崎がどこを指すのかわからなかったが、港の横はホテルも立っており海水浴場になっている。「いらご白」の碁石を探すが、不明。2人はまるで恋人のように、洲崎の浜で白い碁石を探したのだろうか。渋い芭蕉にしてはめずらしくほほえましいエピソード。
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芭蕉の碑がある高台に通じる階段。白百合が鎮座していて登れそうもない。 カーフェリーから、伊良湖岬とフェリーターミナルを望む。 |
「鷹一つ見付て嬉しいらこ崎」の碑。伊良子湖港のちょっと手前の国道沿いにある。この碑の左上の山に上の碑がある。
季節により、伊良湖岬から鳥羽の方に向かって海峡を越える鷹がみられるのだという。芭蕉は杜国と連れ立って、越えられぬ海峡を渡る鷹に身をたくしたかったのだろう。
芭蕉は、伊良湖で杜国と別れ、美濃・大垣・岐阜をまわり、古里の伊賀上野に入り、正月を越す。
次のような句を残している。
箱根こす人も有るらし今朝の雪
いざ行かむ雪見にころぶ所まで 旅寝してみしやうき世の煤(すす)はらひ 旧里(ふるさと)や臍(へそ)の緒に泣くとしの暮 二日にもぬかりはせじな花の春 さまざまの事おもひ出す桜哉 この「笈の小文」に収録された句は、どれもなかなかに味わい深い。 古里で、臍の緒をみて泣いてしまったり、正月元旦には飲みすぎてしまったことを後悔して、二日はしっかりしようと古里で過ごす新春を楽しんでいる芭蕉がいる。 | ||
伊良湖岬から半島の方を望む。 | 芭蕉は俳聖といわれる。しかし、芭蕉は、「俳は戯也、諧は和也、唐にたわむれて作れる詩を俳諧と云う。」「俳諧とは云うは、・・・物をあざむきたる心なるべし。心なきものに心を付、物いわぬものに物いわせ、利口したる體也。」(三冊子)自然の「造化にしたがひて四時を友とす。」「造化にしたがひ造化に帰れとなり。」(本書前文) そして、芭蕉は俳諧における「風雅の誠」を極めるため、自分の生活を「風雅の誠」にささげる。そのため、一所不在、乞食行脚の旅の生活を自分の生き様としてまっとうした。たかが俳句、されど俳句である。なかなか、俳句も芭蕉も一筋縄ではいかない。だからこそ芭蕉は俳聖なのであろう。 | ||
吉野の山、季節は残念ながら夏。 |
芭蕉は、伊良湖で杜国と別れるが、年が明けて伊勢で再び杜国と落ち合う。杜国は保美で謹慎中の身、伊勢を飛びすることは許されなかったはず。
だが、杜国は、船で伊良湖から鳥羽に渡ったようだ。芭蕉と旅をともにするために。ほとんど恋の逃避行といった大胆な行動。マスコミに知られたら、現代の芸能人のように一大スキャンダルとして報じられたのではないか。芭蕉先生もなかなかやるものだ。 下の芭蕉の文章にも、芭蕉の杜国への思いがいやらしいほどにじみ出ている。 | ||
下千本のバス発着所の近くの道端あってまったく目立たない、「よし野にて桜見せうぞ檜(ひ)の木笠」の句碑。そうとう古いもののようで、何と書いてあるのかほとんど読めない。店のおばあさんに教えられてわかった。
奥吉野、西行庵。春には桜、秋には紅葉。西行が数年住んだといわれるロケーションだけはある。芭蕉たちもここで桜を満喫したのではないか。
西行の枝折(しおり)は、「吉野山こぞの枝折の道かへてまだ見ぬ方の花を訪ねむ」、 貞室が是は/\は、「これはこれはとばかり花の吉野山」による。 |
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奥吉野、金峰(きんぷ)神社。この神社の裏山に西行庵がある。このあたりは奥千本といわれ、裾野から始まった桜の開花が最後にここにたどり着くという。
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吉野山の桜のイメージ。
高野山・奥の院に向かう。 芭蕉の句碑があるたばだか、見つけられず。弘法大師の近くにいたいと願う人々の墓が杉の大木の間で苔むしていた。人は死ぬものであるという現実、人の死の切なさを思わずにはおれない。
高野山・奥の院の入り口。 |
長旅で芭蕉も疲れてきた。旅の具を並べ立てていて面白い。芭蕉の旅七つ道具か。それさえ体力の弱っている身には重いといって根をあげている。 「猶(なほ)栖(すみか)を去りて器物の願ひなし。空手なれば途中の愁もなし。」
庵にある器物といってもほしいようなものはない。旅の具といってもたいしたものをもっているわけではないので、盗られれて心配する必要もない。 乗り物には乗らずゆっくり歩けば、遅い夕飯は肉よりもおいしく食べられる。 今日どこに泊まらなければならないということもなければ、明日の朝はいつ出発しなければならないということもない。 ただ、願わくば今宵は好い宿でありますように、草鞋が足にあいますように。もし風雅を解する人と出会えたなら喜びは尽きない。 「一所不住」、「桑門乞食」の「旅人」には、失うべきものは何もない。信ずるものに向かって前進あるのみ。昔なら、ルンペンプロリアートの心意気といったところだが、それが団塊の世代には懐かしくうれしい。何事かを創り出そう産み出そうとするとき、どうしても対象とともに自分の在りようを否定し無化する契機が必要になる。そんな生き方にあこがれたこともあった。芭蕉に惹かれるのは、どこか若き日の暗く乾いた自己否定と変革と創造への憧れのようなもののイメージと重なる部分があるからなのだろう。 自分を検証する、失うべきものは何もないか、創造への意欲と準備は十分か。ただ、自己と社会の変革のために。そのための行動と創造への情熱。そういうものにしか価値を見いだせなかった。そういう時代もあったのだ。 江戸時代前期、芭蕉は自分のことなどおくびにも出さず、俳諧革新への熱情を静かに煮詰めていたのではないか。 この道一筋。だが芭蕉には才能があった。 漢詩や和歌の伝統にしっかり乗っかりながら、新しい俳諧を生みだそうと努め、そしてそれに成功した。だが、芭蕉には永久革命のような俳諧革新の飽くなき変革の欲求があった。これはやはり天才であり、俳聖の業と言わざるを得ない。
「衣更(ころもがへ)
一つぬいで後に負ひぬ衣がへ 」
芭蕉は、吉野を後に、高野山に向かう。
春も盛り、一つ衣を脱いで背負った。それが旅人の衣替え。 高野山は死者の町か。寺はきれいに整備されていて、何故か外人も多いが、なんとなく気が滅入るような気分。凡人は、死を思うとどうしても気が滅入ってしまう。なるほど高野山は霊界・異界である。目当ての芭蕉の句碑もみあたらない。 高野山は芭蕉が尊敬する西行とも縁が深い。西行は完全に仏道に入ったわけでもないのに、修行だけはしっかりしていたようだ。西行は高野山で何をしていたのだろうか。 芭蕉は、逝ってしまった父母の面影を見てしきりに恋しがる。 「山鳥のほろほろとなく声きけば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」(行基)を踏まえた句をつくっている。 芭蕉は、かって仕えていた良忠の遺骸を高野山の報恩院に納ている。 「高野 ちゝはゝのしきりにこひし雉(きじ)の声」 | ||
和歌の浦・「不老橋」 |
「和歌
行く春にわかの浦にて追付きたり 」
芭蕉の和歌の浦の句を探して、あたりをさまようがとうとうみつけることができなかった。和歌の浦は、昔は風光明媚な浜辺だったようで歌枕にもなっているが、今は江戸時代に作られたアーチ型の「不老橋」に面影を残すのみ。
芭蕉は、奈良を回って、須磨・明石に向かう。
芭蕉の鑑真和尚をみるまなざしのやさしさがにじみ出ている句。 | ||
「敦盛塚」といわれている。16歳の平敦盛が熊谷次郎直実によって首を討たれ、それを供養するためにこの五輪塔を建立したという伝承から敦盛塚といわれている。芭蕉もこの塚を訪ねたのだろうか。
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「 招提寺鑑真和尚来朝の時、船中七十余度の難をしのぎ給ひ、御目のうち塩風吹入て、終(つひ)に御目盲(めしひ)ひさせ給ふ尊像を拝して、
若葉して御めの雫(しづく)ぬぐはばや 須磨 月はあれど留守のやう也須磨の夏 月見ても物たらはずや須磨の夏
明石夜泊
蛸壺(たこつぼ)やはかなき夢を夏の月」
これは私の好きな句のひとつ。蛸壺の蛸ははかない夏の月の下でどんな夢をみるのだろうか。それは惰眠だろうか、志しだろうか。朝には漁師に引き上げられて食べられてしまうはかない運命にあるとも知らないで。
でもなぜ、蛸が夢をみるのだろうか。夢破れ、明石の海に散った平家が、それでもいつかはと蛸になったのだろうか。 「大和物語」にある 「見果てぬ夢」 「同じ右京の大夫、監の命婦に、よそながら思ひしよりも夏の夜の見はてぬ夢ぞはかなかりける」がある。「夏の夜の見果てぬ夢ぞはかなかりける」と「はかなき夢を夏の月」 とても似ている。芭蕉はこれを「蛸壺」と結びつけているが、それが俳諧表現というものか。
芭蕉は滅びの美学に感動する。左のようにかなりしつこく平家滅亡の哀れを書いている。盛者必衰の理を目の当たりにイメージし、その無常を哀れんでいる。
須磨寺の庭にある平敦盛(左)と熊谷直実(右)の像。 原色の色使いが残念。 「敦盛塚」 |
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