この志賀の里は、琵琶湖と比良山系に囲まれた自然豊かな街だ。 しかし、その良さを十分理解し体感しているかといえば、疑問だ。 それは、私の心が濁ってきて、美しい物を見たり聞いたりする感性の 窓が閉ざされているからであろう。よる歳はさらにそれに拍車をかけている ようでもある。もっと励んで五感の窓を磨かなければならないであろう。 そのような中、浅学非才ながら少しづつ正法眼蔵に触れて来たが、さらに 以下の本なども含め、自然からは色々と教えられるものだ、と思う日々だ。 1.「ハロルド・フライの思いもよらない巡礼の旅」から思う。 ほぼ同じ歳の退職老人が、千キロを歩き通す、「ハロルド・フライの思いも よらない巡礼の旅」と言う小説を読んだ。これが、ずっと心の奥底に静かに なにか小骨がのどに残る感じでここ数年過ごしている。 昔お世話になった女性が、ガンになった、と言う手紙が届いたところから それは、始まる。登場人物は、ハロルドとその妻、そして自殺した息子の 影、ガンの女性、隣人の老人であるが、イギリスの初夏の風景と途中で 行合う人々の交流が、きめ細やかに書かれている。歩くと言う行為の中に、 自身と人間の真の姿を見出し、息子への負い目、ガンになった女性への 償い、妻との心の大きな溝を自然が癒して行く。子供時代のその不遇な 環境と生い立ちから、目立たない人生を生きてきた人間が、ガンで生死 の境にある女性に、昔の償いを果たさねばならない、と言う強い気持ち が、途中の挫折したいと言う気持ちをも乗り越えさせ、肉体的にも、 絶体絶命の状況を乗り越えさせた、それは、なんなのだろうか。 状況は、大分違うし、肉体的にまだその苦痛を味わっていないが、 その空しさと家族との諍い等、自身の内に秘めるもの、共有するは同じ様 に思えた。ハロルドの場合と違う、との思いはあったが、自身の真の姿を見出し、 人と自然の成り立ちやその価値を、分かっていなかった。 ハロルドの場合は、千キロを歩き通すことで、それを成し遂げた。心情的には、 凄く納得観のある作品であり、今の自分に対して痛烈な一撃として、わが身に 強い衝撃を与えてくれた。 特に自然との交わり、天啓について、以下の2つの文は興味ある一節だ。 「思いがけない事が起きた。しかも、それは彼が旅のあいだに出くわして、 そこに大きな意味を汲みとることになる幾つもの瞬間のひとつだった。 その午後遅く、いきなり雨がやんだ。あまり唐突で、それまで降っていた ことさえ信じられないくらいのやみ方だった。東の空で、雲ににわかに 亀裂が走り、空の低いところに一本のきらめく銀色の帯が出現した。 ハロルドは思わずその場に立ちつくし、灰色の雲海に二度、三度と亀裂が 走っては、新たな色が現われる様に見とれていた。青、赤みがかった濃い 茶色、黄桃色、緑、そして茜色。やがて、雲はくすんだピンクに染め上げられた。 ひとつひとつの色がきらめき震えつつ滲み出し、鉢合わせしては混ざり合った かのようだった。ハロルドは動けずにいた。変化の全てを自分の目で見届けたかった。 大地に差す光りは黄金色。その光りを浴びて彼の肌も暖かい。足下では、 大地がきしみ、ささやき交わす。空気は緑の匂いがして、始まりの気配に満ちている。 柔らかな霧が立ち上がる。細くたなびく煙の筋に様だ。疲労困憊、足をあげること さえつらいのに、旨は希望に満ちている。めまいがするほどの希望に。 自分自身より大きなものに目を向けてそらさずにいれば、きっとベリックまで 歩き通せるはずだ」 「こうして自分の足で歩いていると、人生はこれまでと全くの違う ものに見えてくる。土手の隙間からのぞく大地はゆるやかに起伏し、 やがて市松模様の畑地に変わり、それぞれの境界に生け垣や木立 が並んでいる。ハロルドは、おもわず脚を止めて目を凝らした。 緑にもたくさんの色合いがある事を知って、自分の知識の足りなさ をいまさらのように思い知らされた。限りなく黒いベルベットの 質感の緑色もあれば、黄色に近い緑色もある。遠くで、太陽の光 が通り過ぎる車をとらえた。たぶん、窓にでも当たったのであろう。 反射した光が流れ星のように、震えながら、丘陵地を横切った。 どうしてこれまで一度もこういう事に気付かなかったのだ? 淡い色の、名前も知らない草花が生け垣の根元を埋め尽くしている。 サクラソやスミレも咲いている」 2.「渓声山色の巻」から思う 石井恭二氏の「現代文正法眼蔵の渓声山色之巻」の中に以下の一節がある。 「渓流の音を聞いて覚りを得たこの故事は、さらに後世に益することが多い。 しかし憐れむべきことに、人は幾度とも覚者の説法を聞きながら、その教えを 身につけることがないのである。ましてやどうして蘇東坡のように山色を見、 渓流の音を聞くことがあろうか。覚りの境地を開示する一句なりと、半句なりと、 八万四千の偈げに接しようとも、中々人は覚りを身につけることがないのである。 見事ではないか、渓声山色の偈にはかくれた仏の声が現存しているではないか。 さらに慶ぶべきである。この偈に仏性が現前する時節因縁を見るのである。 渓声山色の偈には、倦むことのない味覚さえも、色声香身の五境そのものが 現れているではないか。そうではあるが、また、そこには仏性の現前が親しい とも覚え、仏性が隠れている様子が親しいとも覚えるのだ。 渓流の音量などはかかわりもないではないか。 渓流の音は夜の音の中に停止し、山は渓流の音の中に流れる。これまで蘇東坡は 春秋に流れる山水の声にこのように仏性を聞くこともなかった、夜の音に仏性を 聞き取ることは少なかった。いまや、修行者もまた、渓声山色の「山は流れ、 水は流れず」から学道に入る門を開くべきである」 もう少し言えば、昔の中国に蘇東坡という人がいて、はしばらく廬山に留まり 座禅を組みこの公案に取り組んだ。だがついに答えを出せず、常総禅師の もとを辞して、州へ向かうことにした。だがその無情説法の公案は彼の脳裏 から離れず馬に揺られながらも考え続けていた。いや考えるというのでなく、 全身全霊で公案に取り組んでいたのだ。 そんな旅の途中とある谷川へさしかかったとき、ごうごうと岩をも砕くような 流れの轟音に蘇東坡はがらりと心境が開けたという、その心境を詩にしたのが、 渓声便是広長舌 けいせいすなわちこれこうちょうぜつ 山色豈非清浄身 さんしきあにしょうじょうしんにあらざらんや 夜来八万四千偈 やらいはちまんしせんのげ 他日如何人挙似 たじついかんかひとにこじせん の詩である。 渓声即ち是れ広長舌、広長舌とは、仏という立場の方の特徴とする三十ニの瑞相 の一つ。絶え間なく響く谷川の轟音。 そして山色豈清浄身に非らざらんや、山の青々とした風光、緑深き木々の森、森羅万象 のそのすべてが将にそのまま清浄なる仏の姿であり、ご説法である。 夜来八万四千の偈、朝から晩まで絶えることのない如来の無限のご説法を聞く ことが出来るではないか。他日如何が人に挙示せん・・このすばらしい仏のご説法 の感激を誰に、どう伝えようか、言葉でも言い表せない筆舌しがたいことだ。 “ 野に山に仏の教えはみつるれども仏の教えと聞く人ぞなし” との歌にも通じよう。 実に、谷や川、山や木々は無情であり、何ら人の心があるわけではない。 けれど、その無情の山川草木から偉大なる仏の教えを見つけ、聞きだし心洗う ことが出来る優れた感性、能力を人は頂いているのだ。すべての計らい、捉われ から解き放ち、謙虚に大自然に抱かれて見るとき、自ずから清浄法身仏の雄弁なる ご説法にふれることが出来よう。 3.心理学でも重要視する ポジティブ心理学は持続的な幸福を得るための心理学だが、それを実現するにも 自身と自然との交わりを重要視している。ル・ベン・シャハーがポジティブの考え方 をベースにした自身の行動改善、それによる新しい自分作りのやり方についての 17の実践項目についてまとめているが、その14項は以下の内容である。 ・本来の自分を知る。 本来の自分に戻る時間を持つこと。 信頼する友人に気持ちを語ったり、心に浮かぶあらゆることを 日記に書いたり、自分の部屋で一人で過ごす時間を作る。 以下の文章の後半を最低6つづつ、思いつくままに書く。 例えば、 自分の気持ちにあと少し正直になるためには、 自分が恐れていることにあと少し気付くことが出来れば、 あと少し本来の自分に戻るためには、 文章をジックリ見直し、実行すること。 また、この行動の一つとして、自身の「分からない」を受け入れるもある。 知らないものへの不安を畏敬の念、驚きの気持ちに変える。 「ただ歩くこと」を習慣とするのが、重要といわれている。 外に出かけ、ただゆっくりと時間を過ごす。そこから、街の 息遣い、静けさ、森の生命力など、五感を最大限に使い感じる。 さらには、ポジティブ心理学の基底にあるものは、正法眼蔵にも通じるものが 多いようで、例えば、その「弁道話」では、、 「修証はひとつにあらずとおもえる、すなわち、外道の見なり。仏法には、 修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆえに、初心の弁道すなわち本証 の全体なり」 「修証これ一等なり」とは、修(修行)と証(証悟)とは一つ同じもの。 「本証」とは、本来の悟り。修行のただ中がそのまま本来の悟りそのものと 言っている。 この根底にあるのは、「脚下を照顧せよ」として、普段の生活まで自身の 足元をみることを勧める。単に坐禅する行為のみ留まらず、「行、住、 坐、臥」の全ての日常行為が仏道に通じると言っている。 一切の生きとし生けるものは、悉有の一部であり、草木虫類に至るまで、そのまま 仏性と考えている。 道元が、絶対真理を詠んだ素晴らしい歌がある。 「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」 春に花が咲く、夏にはほととぎすが来て鳴く、秋には月が美しい、 冬には雪が積もる。ごく当たり前の情景で、何一つ不思議はない。 しかし、その当たり前のこと中に、夫々の現象が夫々の季節に姿を現していて、 それ以外には、季節の現れ方はないと言う絶対的真理があると言っている。 すなわち、全ての季節を夫々に共通の世界の真実がそこに現れていて、何一つ 変わることはない。そう思えば、心は非常に涼しいという境地を詠んでいる。 小林秀雄氏の「無常という事」の冒頭に以下のような一節がある。 「ある人いはく、比叡の御社に、偽りてかんなぎのまねしたるなま女房の、 十禅師の御前にて、夜うち深け、人しづまりて後、ていとうていとうと、 つゞみを打ちて、心すましたる声にて、とてもかくても候、なうなうと うたひけり。其心を人にしひ問はれて云(いはく)、生死無常(しょうじむじょう) の有様を思ふに、此世のことはとてもかくても候、なう後世(ごせ)を たすけ給へと申すなり。云々(うんぬん) これは、「一言芳談抄(いちごんほうだんしょう)」の中にある文で、 読んだ時、いい文章だと心に残ったのであるが、先日、比叡山に行き、 山王権現(さんのうごんげん)の辺りの青葉やら石垣やらを眺めて、ぼんやりと うろついていると、突然、この短文が、当時の絵巻物の残欠でも見る様な風に 心に浮び、文の節々が、まるで古びた絵の細勁(さいけい)な描線を 辿る様に心に染み渡った。、、、、」 まだまだ感度の鈍い、もしくは鈍くなりつつある五感であるが、この恵まれた 環境の中で、小林秀雄氏のこのような瞬間を味わいたいもの。
2016年7月23日土曜日
自然から教えられる、自然から学ぶこと
2016年7月20日水曜日
笈の小文
「笈の小文(おいのこぶみ)」 1687年 芭蕉44歳
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「神無月の初空、定めなきけしき、身は風葉の行末なき心地して、
旅人と我が名よばれん初しぐれ」 風狂の旅人と呼ばれてうれしいのか、呼んでもらいたいものだということなのか、どちらだろう。尊敬する西行や宗祇のように自分も風狂の旅人として生きよう。覚悟は決めた、だがもう初時雨の季節になってしまった、「定めなきけしき、身は風葉の行末なき心地して」、行くしかない、自分で選んだ道だから。 1687年、芭蕉44歳。この年8月に「鹿島詣」をした後、10月から翌年の3月まで「笈の小文」(おいのこぶみ)の旅に出る。江戸を出て名古屋、伊良湖崎へ。翌年さらに杜国とともに伊勢神宮、奈良、大阪、須磨、明石、京都、近江に遊ぶ。さらに8月には信濃路「更科紀行」の旅へと続けている。 「百骸九竅(ひゃくがいきゅうけい)の中に物有り」。100の骨と9つの穴(つまりは人)ではあっても、心はある。誠に薄く風にも破れそうなか弱いものではあるが、永く俳諧を好み、生涯をこれにかけてきた。 | |||
伊賀上野の芭蕉記念館の前の池。芭蕉の蛙とおたまじゃくしをたくさん飼っている? | ある時は行き悩んで投げ出したくなることもあった、 競争に勝とうとして身を焦がし、ああしようかこうしようかと悩んで心休まることもなく、仕官をして立身出世を願ったこともあったが俳諧の道への志のために断念し、学問を志したこともあったが挫折し、ついに無能無芸にしてこの俳諧一筋でやってきた。 風雅においては、自然の造化にしたがい、季節の移り変わりを友とすること。造化ににしたがい造化にかえれ。 自然と一体になることを説く芭蕉の考えは、伝統的な東洋的自然主義ともいえる。 その姿勢は生活においても作句においても一貫して貫かれている。 だが、芭蕉の風狂、侘び趣味は、山林閑居の静的な隠棲ではない。自然の中に身をおくことで、俳諧の新しい表現を生み出そうとする積極的で革新的なものである。 「乾坤の変は風雅の種なり」(天地自然の変化)「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」「景情一味の写実」(三冊子)。俳諧の風雅に身をささげた風狂、景物に対して一念一動する詩魂のひらめきの表現。一所不在、桑門乞食の生活のなかから「風雅の誠」を絞り出そうとする。 | ||
伊良湖岬から半島の方を望む。 |
紀貫之「土佐日記」や鴨長明「方丈記」?や阿仏の尼「十六夜日記」などには浅知短才の自分の筆では及ぶべくもない、と謙遜している。それでも心に残った風景や山館・野亭の苦しい愁いが、話しの種にもなり、風雲のたよりにでもなれば、と筆を執った。酔っぱらいの猛語や寝言として聞いてほしい、とどこまでも奥ゆかしい。芭蕉の生き方の本音の部分が表出されているからだろう。事実、この書を世に出したのは芭蕉ではなく、信頼していた弟子の越人だった。いろいろあって芭蕉が逝くまではこの書は出せなかったのだろう。
芭蕉は、人生を旅そのものと考えていた。「日々旅に生き、旅を栖(すみか)とす」、それは芭蕉の漂泊願望ともいえるようだ。「野ざらし紀行」「鹿島詣」「笈の小文」「更科紀行」そして最後に「おくのほそ道」の紀行文がある。「おくのほそ道」は芭蕉自身が世に出そうとしていたようだが、それも本当にそうなのかはっきりしない。他はすべて門人たちが芭蕉の死後に出版した。では芭蕉はなぜこれらの紀行文を残したのか。なぜ、死後にしか発行されなかったのか。「芭蕉七部集」などの歌仙や発句の、いわば俳諧師としての芭蕉の本業とは別に、新しい紀行・俳文のような表現を考えていたのではないだろうか。私見では、芭蕉は常に新しみを求める人だった。名所・旧跡や歌枕をただ細かく紹介するような紀行文は、自分の仕事ではないと考えていた。「笈の小文」も紀行文に分類されるのだろうが、俳文的でもあり、新しいジャンルの文章形式を試行していたといえるのではないか。 「されども其の所々の風景心に残り、山館(さんかん)・野亭(やてい)の苦しき愁(うれひ)も、かつは話の種となり、風雲のたよりとも思ひなして、忘れぬ所々跡や先やと書き集め侍る」。芭蕉は謙遜しているが、新しい表現への並々ならぬ意欲があっちこっちに顔を出している。 | ||
伊良子湖港より、左が伊良湖崎、中央が神島、右に薄っすらとみえるのが鳥羽 。 |
なぜ芭蕉は伊良湖半島の保美に行ったのか。芭蕉の旅好きは放浪癖からだけではないようだ。いろいろ楽しいこともあったのだろう。それはいとしい杜国がそこにいたから(越人が芭蕉に杜国の近況を教えた)。芭蕉はいったん鳴海・熱田についてから、越人を伴って豊橋(吉田)を経由して伊良湖に向かった。 写真は、左が伊良湖崎、中央が神島、右に薄っすらとみえるのが鳥羽。杜国はこの海峡を伊良湖から鳥羽に渡って芭蕉と落ち合った。 [地図] | ||
「鷹一つ見付て嬉しいらこ崎」の碑 。国道・田原海道に面している。 |
「寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき」
書き始めの文章がすばらしいが、実際、芭蕉がやっていることは、いとしい人と手に手をとっての道行きに近い。「乾坤無住同行二人」の書付や句には、芭蕉には珍しい心うきうきした気持ちが表現されている。 芭蕉の生きた江戸時代初期には、 戦国時代の名残りで同性愛は普通で、若い武士は女色をいやしみ男色をむしろ誇りとしていたようだ。芭蕉は「衆道づき」だった。(芭蕉の初めての句集「貝おおい」の中で「衆道づき」を書いているとか。)芭蕉は杜国を「万菊丸」と呼んで、その美貌と才能を愛したようだ。 杜国は、名古屋の問屋の若主人だか、空米売買の罪で領国追放され、渥美半島南端の保美に隠棲していた。芭蕉はその杜国を尋ねたのだった。
2人は、保美から少し離れた伊良湖崎を逍遥したのだろう。洲崎がどこを指すのかわからなかったが、港の横はホテルも立っており海水浴場になっている。「いらご白」の碁石を探すが、不明。2人はまるで恋人のように、洲崎の浜で白い碁石を探したのだろうか。渋い芭蕉にしてはめずらしくほほえましいエピソード。
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芭蕉の碑がある高台に通じる階段。白百合が鎮座していて登れそうもない。 カーフェリーから、伊良湖岬とフェリーターミナルを望む。 |
「鷹一つ見付て嬉しいらこ崎」の碑。伊良子湖港のちょっと手前の国道沿いにある。この碑の左上の山に上の碑がある。
季節により、伊良湖岬から鳥羽の方に向かって海峡を越える鷹がみられるのだという。芭蕉は杜国と連れ立って、越えられぬ海峡を渡る鷹に身をたくしたかったのだろう。
芭蕉は、伊良湖で杜国と別れ、美濃・大垣・岐阜をまわり、古里の伊賀上野に入り、正月を越す。
次のような句を残している。
箱根こす人も有るらし今朝の雪
いざ行かむ雪見にころぶ所まで 旅寝してみしやうき世の煤(すす)はらひ 旧里(ふるさと)や臍(へそ)の緒に泣くとしの暮 二日にもぬかりはせじな花の春 さまざまの事おもひ出す桜哉 この「笈の小文」に収録された句は、どれもなかなかに味わい深い。 古里で、臍の緒をみて泣いてしまったり、正月元旦には飲みすぎてしまったことを後悔して、二日はしっかりしようと古里で過ごす新春を楽しんでいる芭蕉がいる。 | ||
伊良湖岬から半島の方を望む。 | 芭蕉は俳聖といわれる。しかし、芭蕉は、「俳は戯也、諧は和也、唐にたわむれて作れる詩を俳諧と云う。」「俳諧とは云うは、・・・物をあざむきたる心なるべし。心なきものに心を付、物いわぬものに物いわせ、利口したる體也。」(三冊子)自然の「造化にしたがひて四時を友とす。」「造化にしたがひ造化に帰れとなり。」(本書前文) そして、芭蕉は俳諧における「風雅の誠」を極めるため、自分の生活を「風雅の誠」にささげる。そのため、一所不在、乞食行脚の旅の生活を自分の生き様としてまっとうした。たかが俳句、されど俳句である。なかなか、俳句も芭蕉も一筋縄ではいかない。だからこそ芭蕉は俳聖なのであろう。 | ||
吉野の山、季節は残念ながら夏。 |
芭蕉は、伊良湖で杜国と別れるが、年が明けて伊勢で再び杜国と落ち合う。杜国は保美で謹慎中の身、伊勢を飛びすることは許されなかったはず。
だが、杜国は、船で伊良湖から鳥羽に渡ったようだ。芭蕉と旅をともにするために。ほとんど恋の逃避行といった大胆な行動。マスコミに知られたら、現代の芸能人のように一大スキャンダルとして報じられたのではないか。芭蕉先生もなかなかやるものだ。 下の芭蕉の文章にも、芭蕉の杜国への思いがいやらしいほどにじみ出ている。 | ||
下千本のバス発着所の近くの道端あってまったく目立たない、「よし野にて桜見せうぞ檜(ひ)の木笠」の句碑。そうとう古いもののようで、何と書いてあるのかほとんど読めない。店のおばあさんに教えられてわかった。
奥吉野、西行庵。春には桜、秋には紅葉。西行が数年住んだといわれるロケーションだけはある。芭蕉たちもここで桜を満喫したのではないか。
西行の枝折(しおり)は、「吉野山こぞの枝折の道かへてまだ見ぬ方の花を訪ねむ」、 貞室が是は/\は、「これはこれはとばかり花の吉野山」による。 |
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奥吉野、金峰(きんぷ)神社。この神社の裏山に西行庵がある。このあたりは奥千本といわれ、裾野から始まった桜の開花が最後にここにたどり着くという。
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吉野山の桜のイメージ。
高野山・奥の院に向かう。 芭蕉の句碑があるたばだか、見つけられず。弘法大師の近くにいたいと願う人々の墓が杉の大木の間で苔むしていた。人は死ぬものであるという現実、人の死の切なさを思わずにはおれない。
高野山・奥の院の入り口。 |
長旅で芭蕉も疲れてきた。旅の具を並べ立てていて面白い。芭蕉の旅七つ道具か。それさえ体力の弱っている身には重いといって根をあげている。 「猶(なほ)栖(すみか)を去りて器物の願ひなし。空手なれば途中の愁もなし。」
庵にある器物といってもほしいようなものはない。旅の具といってもたいしたものをもっているわけではないので、盗られれて心配する必要もない。 乗り物には乗らずゆっくり歩けば、遅い夕飯は肉よりもおいしく食べられる。 今日どこに泊まらなければならないということもなければ、明日の朝はいつ出発しなければならないということもない。 ただ、願わくば今宵は好い宿でありますように、草鞋が足にあいますように。もし風雅を解する人と出会えたなら喜びは尽きない。 「一所不住」、「桑門乞食」の「旅人」には、失うべきものは何もない。信ずるものに向かって前進あるのみ。昔なら、ルンペンプロリアートの心意気といったところだが、それが団塊の世代には懐かしくうれしい。何事かを創り出そう産み出そうとするとき、どうしても対象とともに自分の在りようを否定し無化する契機が必要になる。そんな生き方にあこがれたこともあった。芭蕉に惹かれるのは、どこか若き日の暗く乾いた自己否定と変革と創造への憧れのようなもののイメージと重なる部分があるからなのだろう。 自分を検証する、失うべきものは何もないか、創造への意欲と準備は十分か。ただ、自己と社会の変革のために。そのための行動と創造への情熱。そういうものにしか価値を見いだせなかった。そういう時代もあったのだ。 江戸時代前期、芭蕉は自分のことなどおくびにも出さず、俳諧革新への熱情を静かに煮詰めていたのではないか。 この道一筋。だが芭蕉には才能があった。 漢詩や和歌の伝統にしっかり乗っかりながら、新しい俳諧を生みだそうと努め、そしてそれに成功した。だが、芭蕉には永久革命のような俳諧革新の飽くなき変革の欲求があった。これはやはり天才であり、俳聖の業と言わざるを得ない。
「衣更(ころもがへ)
一つぬいで後に負ひぬ衣がへ 」
芭蕉は、吉野を後に、高野山に向かう。
春も盛り、一つ衣を脱いで背負った。それが旅人の衣替え。 高野山は死者の町か。寺はきれいに整備されていて、何故か外人も多いが、なんとなく気が滅入るような気分。凡人は、死を思うとどうしても気が滅入ってしまう。なるほど高野山は霊界・異界である。目当ての芭蕉の句碑もみあたらない。 高野山は芭蕉が尊敬する西行とも縁が深い。西行は完全に仏道に入ったわけでもないのに、修行だけはしっかりしていたようだ。西行は高野山で何をしていたのだろうか。 芭蕉は、逝ってしまった父母の面影を見てしきりに恋しがる。 「山鳥のほろほろとなく声きけば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」(行基)を踏まえた句をつくっている。 芭蕉は、かって仕えていた良忠の遺骸を高野山の報恩院に納ている。 「高野 ちゝはゝのしきりにこひし雉(きじ)の声」 | ||
和歌の浦・「不老橋」 |
「和歌
行く春にわかの浦にて追付きたり 」
芭蕉の和歌の浦の句を探して、あたりをさまようがとうとうみつけることができなかった。和歌の浦は、昔は風光明媚な浜辺だったようで歌枕にもなっているが、今は江戸時代に作られたアーチ型の「不老橋」に面影を残すのみ。
芭蕉は、奈良を回って、須磨・明石に向かう。
芭蕉の鑑真和尚をみるまなざしのやさしさがにじみ出ている句。 | ||
「敦盛塚」といわれている。16歳の平敦盛が熊谷次郎直実によって首を討たれ、それを供養するためにこの五輪塔を建立したという伝承から敦盛塚といわれている。芭蕉もこの塚を訪ねたのだろうか。
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「 招提寺鑑真和尚来朝の時、船中七十余度の難をしのぎ給ひ、御目のうち塩風吹入て、終(つひ)に御目盲(めしひ)ひさせ給ふ尊像を拝して、
若葉して御めの雫(しづく)ぬぐはばや 須磨 月はあれど留守のやう也須磨の夏 月見ても物たらはずや須磨の夏
明石夜泊
蛸壺(たこつぼ)やはかなき夢を夏の月」
これは私の好きな句のひとつ。蛸壺の蛸ははかない夏の月の下でどんな夢をみるのだろうか。それは惰眠だろうか、志しだろうか。朝には漁師に引き上げられて食べられてしまうはかない運命にあるとも知らないで。
でもなぜ、蛸が夢をみるのだろうか。夢破れ、明石の海に散った平家が、それでもいつかはと蛸になったのだろうか。 「大和物語」にある 「見果てぬ夢」 「同じ右京の大夫、監の命婦に、よそながら思ひしよりも夏の夜の見はてぬ夢ぞはかなかりける」がある。「夏の夜の見果てぬ夢ぞはかなかりける」と「はかなき夢を夏の月」 とても似ている。芭蕉はこれを「蛸壺」と結びつけているが、それが俳諧表現というものか。
芭蕉は滅びの美学に感動する。左のようにかなりしつこく平家滅亡の哀れを書いている。盛者必衰の理を目の当たりにイメージし、その無常を哀れんでいる。
須磨寺の庭にある平敦盛(左)と熊谷直実(右)の像。 原色の色使いが残念。 「敦盛塚」 | ||
2016年7月15日金曜日
格差について思うこと
20年ほど前から仕事とは別に地域の活性化を目指してNPO立ち上げや コミュニティビジネス、市民センターの支援など若い人やシニアなどとの 関係があり、いわゆる会社人、社会人とは違う付き合いもあった。その中、 年を経るに従い、若い人や介護支援をしている人たちの切実な悩みや苦労に 接する機会も増えてきた。NHK他メディアなどが特集するテーマも「格差、 ワーキングプア、さらに老々介護」などのテーマも増えているようだ。 30年ほど前であろうか、「国民総中流時代」というのが、あった。 だが、それはすでに死語となり、以前に話題となった「下流社会」になっている、 そう思うはざるを得ないようだ。 しかし、環境がそうは進んでも、良き時代に思いをはせるのは人間の常だ。 この社会の激変に対しても私も含め、特に50代以上は、まだ高い年収を得て、 楽しい人生を過ごしたいとという夢想の世界に生きている。 10年ほど前に「年収300万円時代を生き抜く経済学」という本があり、個人的 には、情けない貧乏根性者の話と思ったものだが、さらにその実態は進んでいるのか、 年収200万円時代という話も出ている。この本のテーマを真剣に受け取る時期に 来ている、そう思う。 1.進む格差の実態 最近の年収300万円以下サラリーマンの割合の推移では、年度を 経るごとにその割合はどんどん増加している。 2002年には年収300万円以下の割合は34%ほどだったが、最近 では40%を超えるところまで増加している。多分に多くの人がそれを感じている ことであろう。その理由には、いくつかしかも複雑に絡み合った形で20年 以上静かに進んできた、そんな感じがする。 グローバル化という世界的な流れの中での日本社会の変化、以前にも書いたが 「機械との競争」の中で、IT化などの急激に変化する社会に意識も技術も適応 できないなどもその1つであろう。 更には、団塊の世代の所得分布でも、団塊の世代はすでに高齢であり、年功序列 の恩恵を受けて、比較的高い賃金を得てきたはずの世代のはずだが、実際は、 20%以上の人が年収300万円以下であり、中には年収150万円以下の 「高齢ワーキングプア」の人も10%いるという状況がある。日本の高度経済成長期 を謳歌し富を蓄えてきたはずの団塊の世代にも、これほどの貧困層が存在している。 しかし、年収300万円以下の人が20%もいる一方で、年収700~1000万円 の人たちも同じぐらいの割合が存在しているし、年収1000万円以上の人が 10%以上いる。本来は年収が高くなるにつれてその割合も減っていくものだが、 この世代はどうやら違う様であり、年収が低いところと年収が高いところに 偏っている。 つまり団塊の世代は他の世代よりも同年代の格差が非常に大きいと言わざるを得ない。 これは平成不況によるリストラなどで一気に貧困層に落ちてしまった人と、既得権益 を守りきった人の差が大きいと言われてはいるが。 厚生労働省の平成19年度の 「賃金構造基本統計調査」 によると、年収200万 未満の労働者を年代別データでは、日本では年収200万未満の労働者をワーキング プアとみなしているので、ワーキングプアが全ての年代で30%以上を超えており、 年収200万未満の労働者が1000万人以上いることが分かる。 そして特にワーキングプアが多い年代が、20から24歳の若年層と50歳以上 の中高年である。 特に40代からはどんどんワーキングプアが増加していき、60歳以上では、グンと 増えている。高齢になればなるほど所得格差が拡大していることからも、高齢に なるほど低所得である高齢ワーキングプアが増えている。 格差社会の登場は、1998年と言うが、以下のサイトのデータも参考になるのでは。 http://finalrich.com/sos/sos-economy-first1998.html 「日本は高度経済成長期において国民全体が豊かになっていたために、所得格差など を大きく感じない1億総中流の昭和時代がありました。しかし現在は「勝ち組」 「負け組」といった表現がされ、世代を超えて格差が固定されるなど、格差が広がって いることを大きく感じる時代になっています。 もちろん格差はもともとあったのですが、では一体いつごろから、これほど深刻な 格差社会の拡大が始まったのでしょうか? ある専門家は日本のバブルが崩壊した1990年と言う人もいますし、1993年の食糧危機か らだという人もいます。もちろん日本が格差社会になった原因のひとつにこれらは含ま れるでしょう。しかしそれらの要因が浸透して日本が格差社会になり始め、格差拡大が 如実に現れた時期があります。それのターニングポイントが1998年です。それを証明す るデータをいくつかご紹介しましょう」 2.世界的な所得格差の状況 少し前にピケティの本が多くの人に読まれていた。 ピケティの本は現代の多くの人が関心を寄せる所得分配の問題に正面から取り組んで いる。 この本は、多くのデータから次のように要約できる。 1)ピケティのポイント 第1に、程度の差こそあれ、世界中で所得と富の分配の不平等化が進んでいる。 第2は、その原因は経済成長率と資本の収益率を比較したときに、後者が前者を上回る ところにある。経済全体のパイの大きさが拡大する分よりも、資本が拡大するので 資本の取り分が増えている。確かに、19144年から1945年にかけて一時的に 大戦と大恐慌と税制の変化で大幅に平等化が進行し、所得分配の不平等化の進展に 歯止めがかかったことがあった。しかし、最近では資本の収益率が経済成長率を 上回ることによる所得格差拡大の力、「資本主義の根本矛盾」とピケティは呼ぶ、 が回復してきており、将来もこのままの事態が続く。 第3に、所得分配の不平等化を是正するために各国政府はグローバル資産税を課す べきである。その資産税は累進税であり、たとえば最低年0.1%から始まり、 50万ユーロを超えると2%という税率が考えられる。 マルクスの直面した状況は、産業革命後、まさに所得分配の不平等化が進展した時代 だった。激動のこの時代を要約するのは、1832年の政治改革で財産のある人々 まで参政権は拡大したものの、社会の大多数を占める人々はまだ排除されていた。 これは貧困と格差による彼らの不満と不安を増徴する言葉であった。 同様のことが、現状、更に進みつつある。 2)グローバル化と格差については、 グローバル化が進むと、市場は不均衡になる。 そこには3つの理由がある。 まずは、グローバル市場では、利益は等しく分けられない。結局、人的資源、資金、 企業家精神が大きいほど優位である。こういった市場で利益を得る人には教育が 大切であることが分かっており、特に90年代以降は、教育を受けた人の価値 は世界中で上がってきている。市場の拡大とネット技術の発達などにより、人材を 求めるときに、人数よりも能力の高さ・スキルの必要が高まっている。 グローバル経済では、教育が大切なので、しっかりとした施設が必要となる。 グローバル化が不公平をもたらす2つ目の理由は、世界市場が完全市場から程遠い ということ。たとえば、公害を引き起こした国がその代償を支払わないのは市場 の失敗であり、温室効果ガスをたくさん排出するアメリカはその責任を貧しい国 に課している。タイ、韓国、ロシア、ブラジル、アルゼンチンでの90年代の 金融危機は、先進国が政策を間違ったのがそもそもの原因でもある。 例えば、先進国の公債費はGDP比2-3%ですが、後進国は10-40%で、 そして高金利により投資、雇用を縮小させ、財政的に教育や健康に投ずる余裕を奪い、 失業保険などのセーフティネットも貧弱になって行く。 最後の理由として、世界市場では、貿易、移住、知的財産などは自然と先進国の力を 反映するので、経済格差が広がる。 裕福な国の農業補助金と途上国を差別する関税を減らす争いは、良い例であるが、 TPPなどで、どこまでお互いの利益が獲得できるかが見えてこない。 いずれにしろ、20年前とは大きく違ってきているのが、国内だけの視点では格差の 本質を見極められないということであろう。だが、個人としてもやれることはある。 格差の拡大の理由にもあるように、個人としての能力アップ、スキルアップを積極的に 行うことであるかもしれない。だが、それが単に「お金が多くもらえて幸せを感じる」 だけであるならば、過去の高度成長時代の人と同じである。今求められているのは、 社会や組織への個人の意識変化ではないのだろうか。 3.あるフリーターの話 赤木智弘氏が「朝日新聞社 「論座 2007年1月号」」に書いた文章の一部を 掲載するが、読むと格差の実態とそこにいる人の思いが伝わってくる。 「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。 平和とはいったい、なんなのだろう? 最近、そんなことを考えることが多くなった。 夜勤明けの日曜日の朝、家に帰って寝る前に近所のショッピングセンター に出かけると、私と同年代とおぼしきお父さんが、妻と子どもを連れて、 仲良さそうにショッピングを楽しんでいる。男も30歳を過ぎると、怒濤の 結婚ラッシュが始まるようで、かつての友人たちも次々に結婚を決めている。 一方、私はといえば、結婚どころか親元に寄生して、自分一人の身ですら 養えない状況を、かれこれ十数年も余儀なくされている。31歳の私にとって、 自分がフリーターであるという現状は、耐えがたい屈辱である。 ニュースを見ると「フリーターがGDPを押し下げている」などと直接的な 批判を向けられることがある。「子どもの安全・安心のために街頭にカメラ を設置して不審者を監視する」とアナウンサーが読み上げるのを聞いて、 「ああ、不審者ってのは、平日の昼間に外をうろついている、俺みたいな オッサンのことか」と打ちのめされることもある。 、、、、、 夜遅くにバイト先に行って、それから8時間ロクな休憩もとらず に働いて、明け方に家に帰ってきて、テレビをつけて酒を飲みながらネット サーフィンして、昼頃に寝て、夕方頃目覚めて、テレビを見て、またバイト 先に行く。この繰り返し。月給は10万円強。北関東の実家で暮らしている ので生活はなんとかなる。だが、本当は実家などで暮らしたくない。 両親とはソリが合わないし、車がないとまともに生活できないような土地柄 も嫌いだ。ここにいると、まるで軟禁されているような気分になってくる。 できるなら東京の安いアパートでも借りて一人暮らしをしたい。 しかし、今の経済状況ではかなわない。30代の男が、自分の生活する場所 すら自分で決められない。しかも、この情けない状況すらいつまで続くか 分からない。年老いた父親が働けなくなれば、生活の保障はないのだ。 「就職して働けばいいではないか」と、世間は言うが、その足がかりは いったいどこにあるのか。大学を卒業したらそのまま正社員になることが 「真っ当な人の道」であるかのように言われる現代社会では、まともな 就職先は新卒のエントリーシートしか受け付けてくれない。 ハローワークの求人は派遣の工員や、使い捨ての営業職など、安定した 職業とはほど遠いものばかりだ。安倍政権は「再チャレンジ」などと言うが、 我々が欲しいのは安定した職であって、チャレンジなどというギャンブル の機会ではない。そして何よりもキツイのは、そうした私たちの苦境を、 世間がまったく理解してくれないことだ。「仕事が大変だ」という愚痴 にはあっさりと首を縦に振る世間が、「マトモな仕事につけなくて大変だ」 という愚痴には「それは努力が足りないからだ」と嘲笑を浴びせる。 何をしていいか分からないのに、何かをしなければならないという プレッシャーばかり与えられるが、もがいたからといって事態が好転する 可能性は低い。そんな状況で希望を持って生きられる人間などいない。 バブル崩壊以降に社会に出ざるを得なかった私たち世代(以下、ポスト バブル世代)の多くは、これからも屈辱を味わいながら生きていくこと になるだろう。 、、、、、、 さらに彼の思いは綴られているが、一度全文を読んでもらいたいもの。 いずれにしろ、格差の拡大はさらに広がるのであろう。それは戦後70年の 社会体制や規範を全く変えるようなことがなければ、現状維持継続の上に 立つ改修では、無理なのではと思う。 個人の生活としても赤木氏のいう社会がもっと広がっていくのであろう。 その実情を認識し、仕事や働き方について若い世代だけではなく、もう一度、 この年金生活者も含め、自分自身の働き方や社会のあり方を見直す時代にきている。
2016年7月7日木曜日
80年代、成年から壮年へ、頑張った時代である。 読売新聞の連載記事である「昭和時代」を読むと懐かしさと悔悟に加え、今の 時代の姿の写し絵のような世情が垣間見られる。正に歴史は繰り返し、温故知新 の必要性をあらためて感じる。 1.80年代の記事より ここでは1980年代の新聞記事を引用とそれに対する論評を紹介していきたい。 ①働き過ぎ・遊び過ぎ ? 睡眠不足増える 日本人は宵っぱりで、成人の3人に1人が睡眠不足。NHKの世論調査部が昭和35年から5年 に1回実施している「国民生活時間調査」の昭和60年度の調査結果が、2月28日まとまっ た。それによると、夜ふかしをする人が前回調査より増え、平均睡眠時間は平日で前回 より9分短い7時間43分。 (読売新聞:1986年3月1日) →7時間43分と聞くとたくさん寝てるという印象を感じてしまいます。実際、2010年 のNHKの調査では平均睡眠時間は7時間14分となっており、25年でさらに30分近く 短くなっているそうです。昨今では短眠法が注目されたりと睡眠時間を削ってやりたい ことをやるという志向が増えていたり、睡眠は習慣であり長短は関係ないという意見 もあったりしますが、この短眠傾向が良からぬ結果を招くのではないかと懸念していま す。 (http://www.nhk.or.jp/bunken/summary/yoron/lifetime/014.html) ②親子の同居志向強まる 親子は、同居か、同居しない場合も近くに住みたいと考える人が親子とも約8割を占め 、しかも子の若い世代ほどそう望んでいることが、3月20日、経済企画庁がまとめた 「長寿社会へ向けての生活選択」調査で明らかになった。 (読売新聞・朝日新聞:1986年3月21日) →1986年に同居志向が強まっていたというのは驚きである。 しかし現実には、1986年以降三世代世帯は減少傾向にある。 (参考:年々増える核家族と一人身世帯…種類別世帯数の推移をグラフ化してみる http://www.garbagenews.net/archives/1344618.html) 2015年現在、同居志向の人はどれくらいいるのだろうか。 ③新人類は”フリーアルバイター”志向 フリーアルバイターということばをよく見かけるようになった。学校を卒業しても会社 に入らなかったり、入ってもすぐに退社して、アルバイトで生活している若者たちが、 自分たちのことをそう呼び出したのが始まりらしい。 (読売新聞:1987年11月7日) →フリーター(=フリーアルバイター)という言葉は20年ですっかり定着しました。 この時代は自己選択でフリーターを選ぶことが多かったらしく、現代においても その印象でフリーターも捉えられてしまっている部分はあるのではないかと思います。 ④生活に満足68%?総理府世論調査 生活への「満足度」「充実度」「中流意識」のすべてで、女性が男性を上回っている ことが、総理府が11月2日発表した「国民生活に関する世論調査」で分かった。 (読売新聞・東京新聞:1987年11月3日) →タイトルを見ると、当時の生活満足度の高さがうかがえる。 (別団体調査になるが、2007年の調査では満足度は46.2%となっている。 http://www.research.nttnavi.co.jp/304z/701koufuku.html) ⑤生きがい新旧格差 20歳代の社員ほど、家族を犠牲にして仕事に打ち込むことに否定的であり、生きがいを 仕事以外に求める人が3分の1を占めている。日本能率協会が11月24日発表した「生活意 識多様化調査」で20歳代と40歳代の「新・旧対比」がはっきりした。 (朝日新聞:1987年11月25日) →1987年の20歳代というと、2015年現在40歳代だと思うが、実感値として家族を犠牲 にして仕事に打ち込む40代が多い印象を受ける。 それは立場によるものもあるかもしれないが、例えば「残業後に会社チームで飲み会に 行く」「会社のゴルフ大会に精を出す」など、生きがいを仕事に求める人が多いのでは ないだろうか。 近年取られるアンケートでも20代の仕事離れが進んでいるという話題がたびたび取り上 げられるが、20年後には立派に仕事人間になっていると思うので、あまり問題視する必 要性はないのかもしれない。 2.91年の世相は、 80年代を総括すると言う意味でここに1991年12月28日の朝日新聞の社説が ある。今に当てはまる内容もあり、中々に面白い。20数年経とうと人は良きにつけ 悪しきにつけ変わらぬもの、あらためてそう思う。 「富士銀行の不正融資7000億円、証券の損失補てん総額2164億円、竹井博友元 地産会長の個人脱税34億円、倒産企業の負債総額7兆918億円。 バブルの宴のあとだ。ケタ違いの数字に、社会の金銭感覚もすっかりマヒさせられて しまった。 この秋、七五三の子供のためにホテルで開く、結婚式ばりの豪華披露宴が、静かなブー ムだった。 競馬の有馬記念では五百億円余りの札束が舞った。かってない物質的豊かさを手にした 日本だが、社会基盤の未成熟から、本物の快適さや充実感を与えてくれるものは、案外 少ない。 ー満足感を共有できない社会ー それぞれが、豊かさをいささか持て余しながら、自分だけの小さな世界で、そのはけ口 を求めている。若者は独特の省略言葉で、大人をケムにまき、世界の10大ニュースの 上位に女優のヌード写真集を選んだりする。世の中わかりにくい政治家の永田町語、 証券業界の兜町語なども横行した。 価値観の多様化、といえば聞こえはいいが、それはある意味で、連帯感や潤いに欠けた 未成熟社会の姿でもある。戦後復興から高度成長期、国民は「豊かさの実現」という 共通の目標に向け、貧しいながらも充実感を共有した。だが、いまやゆとり志向、 生活大国への道は遠く、当面共有できる目標は見当たらない。 今年は、こうした目的喪失社会の中で不公正や格差、バブル現象など、戦後社会 のマイナス面が突出した。本紙読者が選んだ「日本10大ニュース」は、その屈折した 世相を色濃く映し出した。、、、、 今年の世相を見ると「豊かさの底が見えた」との印象が強い。勤労者世帯の平均 貯蓄額が、初めて一千万円を超えたが、マイホームはなお高嶺の花だ。人手不足 もますます深刻化、過労死も問題となった。、、、、 真珠湾50周年の今年、政治や経済、社会など全ての面で、制度疲労が表面化して きた。戦後の日本経済を支えて来た収益至上主義と企業中心社会は、その典型と 言えるのではなかろうか。何を残し、何を改革するのか。変革期に最も必要なものは 志しである。」 3.その他 少し気になった事件他を列記してみる。 ・チェルノブイリ原子力発電所事故とは、1986年4月26日1時23分にソビエト連邦 (現:ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所4号炉で起きた原子力事故。 後に決められた国際原子力事象評価尺度 (INES) において最悪のレベル7 (深刻な事故)に分類される事故である。 ・1987年10月19日に起こった、史上最大規模の世界的株価大暴落。ニューヨーク株式 市場の暴落を発端に世界同時株安となった。暗黒の月曜日(あんこくのげつようび) ともいう。 ・グリコ・森永事件 1984年3月の江崎グリコ社長を誘拐して身代金を要求した事件を皮切りに、江崎グリコ に対して脅迫や放火を起こす。その後、丸大食品、森永製菓、ハウス食品、不二家、駿 河屋など食品企業を次々と脅迫。現金の引き渡しにおいては次々と指定場所を変えたが 、犯人は一度も現金の引き渡し場所に現れなかった。犯人と思しき人物が何度か目撃さ れたが逃げられてしまったため、結局正体は分からなかった。 ・昭和天皇崩御。皇太子明仁親王が即位 天皇誕生日の異変は大事に至らなかったが、87年の8月から9月にかけて度々嘔吐が 見られ、精密検査で腸の一部が閉塞していることが判明した。手術を受け、一旦は 回復したものの、88年9月に大量吐血して重体に陥り、1989年(平成元年)1月に 崩御された。 ・葬式ごっこ 「俺だってまだ死にたくない。だけどこのままじゃ「生きジゴク」になっちゃうよ」。 切実な訴えを遺書に込め、東京都中野区立中学校2年生の男子生徒A君(13歳) が命を絶ったのは、86(昭和61)年2月1日。父親の実家に近い国鉄盛岡駅 ビルのトイレで、首をつっているのが見つかった。、、、、、 文部省が「いじめ」の発生件数を最初に調査したのは、A君が自殺した前年の85年。 静岡、茨城、大阪、和歌山などで中学生の「いじめ自殺」が相次いで報道され、 社会問題として認識されるようになった。 他にも、「寝たきりの深刻化、認知症の増加」「雇用情勢の変化、派遣労働者の増加」 など現在切実な問題となっている社会問題の多くがこの時期からもすでに顕著に なっている。
1970年代前後
1970年代、それは個人的には会社で、先輩の手伝いをしながら、徐々に 本格的な装置開発に日夜励んでいたころでもあり、さらには今のパソコンや ワープロが産声を上げ、半導体が圧倒的なスピードでその能力を高めていた、 技術への憧れとその素晴らしい力が見え始まった時代でもある。技術屋の 想いとして、その後何件となく取得した特許を取ることが1つの熱い想いでもあった。 もっとも、それは暗い現とした環境下で成し遂げられたものであり、華やかさなど 一片もないことだった。自身は穴倉のような日々の実験の世界にいたが、 世の中は、貧困を脱し持続的な繁栄への大きな変わり目となり、80年代の 高度成長へとすすんでいた。もっともそれは途中、石油ショックという大波を かぶることになるが。 1.1968年は時代の節目 1968年は時代の節目、最近、こんな思いが沸き返ることがある。 ベトナム戦争のリアルな映像が世界を席巻する中で、若者たちが自分たちと国家の 関係に疑問を強く抱き始めた時代であり、フランスのパリの5月革命、アメリカの 学生の反乱、日本での学生運動の活発化、など世界で若者たちがデモや学校封鎖、 一般のストなどが実行された。それは60年安保、70年安保闘争の延長の意味 合いもあったのだろうが、60年安保では、国民の政府への抵抗であり、全国的には 460万人を超す人がそれに参加したという。 これにより岸内閣は解散となり、国民の意識も変化し始めた。 しかし、68年の東大での学生運動は強制的な排除となり、挫折し、さらには、 1972年のあさま山荘での連合赤軍の内部闘争での殺人や内ゲバの凄惨さが テレビで報道され、その無差別な行動が明らかになり、デモや学生運動への嫌悪が 高まった。だが、まだ学生の間では68年から69年にかけての学生運動が全国的 に盛んになっており、東大闘争、日大闘争を始め、全国の主要な国公立大学や 私立大学ではバリケード封鎖が行われ、「70年安保粉砕」をスローガンとし て大規模なデモンストレーションが全国で継続的に展開された。まだ不安が 残る時代でもあった。 「ヘルメットとゲバ棒」スタイルで武装し、投石や火炎瓶を使用して機動隊と戦った。 70年安保闘争は、ベトナム反戦運動、成田空港問題などと結び付き、一定の労働者層 の支持を得たが、国民の支持は少なくなかった。 時代はさらなる経済の発展へと向かっていた。 2.60年代からの発展 ここに「日本の200年」の一文がある。 「戦後日本の政治史と経済史は、さまざまなコントラストの歴史だった。高度成長期の 30年にわたって、経済成長があまりにも急速に、しかも一貫性を保ってつづいたため 、 アメリカでさえもが「日本モデル」から成功の秘訣を学ぼうとしたほどだった。 それとは対照的に政治の世界では、数々の先鋭な闘争が起きた。人々は、経済成長の 成果配分のあり方をめぐった、国を二分するような対立も起きた。1960年代から 70年代には、政治的な対立はそれ以前の10年間と比較して幾分弱まった。 しかし、豊かさの代償やジレンマをめぐるいくつかの新たな問題が浮上した。 国内では、並外れた成長が環境に対して異常な負担を強いた結果、日本は、人々を いかにして公害から守るかという問題に直面した。国際的には、資本主義と社会主義 という2つの陣営間の冷戦で日本がどのような立場をとるべきかという問題は、 従来ほど論議を呼ばなくなったのにひきかえ、資本主義陣営内における貿易の不均衡 と経済摩擦をめぐる緊張が強まっていた。このように、戦後の経済史は政治闘争と 政治決着が織りなす起伏に富んだ戦後の政治史と不可分である」 その1つが池田隼人首相が打ち出した「国民所得倍増計画」だった。 1960年に打ち出されたこの計画は「国民生活水準の顕著な向上と完全雇用の達成」 を目標として、1970年までに実質国民総生産を2倍に拡大する、という高度成長 の実現を掲げた」 正に個人的には、その真中にいたのである。もっとも、その果実を具体的に手にするに は、 70年代、80年代になってからであるが、周囲から醸し出される高揚の気分は 工場の中でひたすら機械に向き合っていた私にも届き始めていた。 3.時代変化の中で人も変わる このような変化を端的に表しているのが、山崎氏の「柔らかい個人主義の誕生」であっ た。 「池田内閣の所得倍増計画の下で高度経済成長を目指していた60年代の日本社会が、 その目的を遂げた後、どのように変化していったのか。70年代に突入して増加し 始めた余暇の時間が、それまで集団の中における一定の役割によって分断されていた 個人の時間を再統一する道を開いた。つまり、学生時代は勉学を、就職してからは 勤労を、という決められた役割分担の時間が減少したことにより、余暇を通じて 本来の自分自身の生活を取り戻す可能性が開けたということである。 こうした余暇の増加、購買の欲望の増加とモノの消耗の非効率化の結果、個人は 大衆の動向を気にかけるようになる。 以前は明確な目的を持って行動できた(と思っていたが)人間は、70年代において 行動の拠り所を失う不安を感じ始める。こうして、人は、自分の行動において他人 からの評価に沿うための一定のしなやかさを持ち、しかも自分が他人とは違った存在 だと主張するための有機的な一貫性を持つことが必要とされる。、、、 個人とは、けっして荒野に孤独を守る存在でもなく、強く自己の同一性に固執する ものでもなくて、むしろ、多様な他人に触れながら、多様化していく自己を統一 する能力だといえよう。皮肉なことに、日本は60年代に最大限国力を拡大し、 まさにそのことゆえに、70年代にはいると国家として華麗に動く余地を失う ことになった。そして、そのことの最大の意味は、国家が国民にとって面白い 存在ではなくなり、日々の生活に刺激をあたえ個人の人生を励ましてくれる 劇的な存在ではなくなった、といふことであった」 4.70年代諸々のもの やはり経済的なものでは、石油ショックであろう。今でもトイレットペーパを求めて 長く並んだ行列の映像が思い出される。アラブの産油諸国が原油輸出を制限し、原油価 格の 高騰は深刻な不況を引き起こし、インフレを招いた。日本は1940年代以来初めての マイナス成長を記録した。 さらには、60年代からの急激な成長がもたらした公害問題であった。水俣の水俣病、 四日市ぜんそくなど様々な公害が国民を襲った。製品、商品の安全を目指した市民活動 が盛んになったのもこの時期である。 そして様々な市民活動が作り出した新しい政治の潮流が多くの革新系の首長を誕生させ 、 革新自治体時代を作った。160以上の知事や市長が誕生した。 これらの自治体は、環境条例から社会福祉の給付にいたる多くの分野で先鞭をつけた。 それにしても今思えば、懐かしき良き時代であったのだろうか。サラリーマン化した 議員、単に自分の保身のための活動をする首長、情けない時代になったものだ。 技術的な側面では、日本万国博覧会(大阪万博)が開催が忘れらない。私もその一端を 担った。さらには、今はあたりまえの電子メールが初めて使われ、効率性の高い プログラミング言語が初めて登場した。私もこれを使ったりして、製品開発をしたもの だが、今はその一片の命令も覚えていない。また「Apple II」やいくつかのパソコンの 原型が出現もした。 最後に、「日本の200年」の一文を忘れてはならない。 「貧困から繁栄へ、対決から和解・協調へという、1950年代から70年代末に至る 期間に日本がたどった軌跡は紛れもなく、戦後期のグローバルな歴史の一環をなしてい た。 、、、、 日本人は、アメリカが支配する経済環境の下で、製品を作る力量とそれらを非共産 圏世界全域で売りさばく力量を発揮して、繁栄した。つまり国際的にみた日本の 高度成長期の意義の一端は、このような政治的には制約的だが、経済的には開放的な 提携関係が持つ力の中にみいだすことができる」 何にしても、70,80年代と社会全体が成長する中で、自身もその1人として体現 出来た時代、明日に描く希望があった時代、それは老人の郷愁とは思えない。 良き時代であった。
2016年7月5日火曜日
格差の世界
進む格差社会を考える。老人格差、グローバル格差、ピケティの課題。 |
「国民総中流時代」というのが、昔あったような気がする。 既に、死語になった。厚生労働省の賃金統計のデータでも、 明確に出ている。 格差は、確実に進んでいるが、それは日本だけに限った話ではない。 1)進む格差 最近の年収300万円以下サラリーマンの割合の推移では、年度を 経るごとにその割合はどんどん増加している。 2002年には年収300万円以下の割合は34%ほどだったが、最近 では40%を超えるところまで増加している。 多分に、多くの人が感じていることであろう。 約4割弱近くの人口が年収300万円以下となっている。 その最も大きな理由は、こういった下流の人たちには格差社会 を生き残る知恵というものが無いために、以前にも、書いた 「機械との競争」に追いつけない人であり、急激に変化する 社会を認識できていない人かもしれない。 更に、団塊の世代の人の所得分布でも、団塊の世代はすでに 高齢であり、年功序列によって比較的高い賃金を得ているはず の世代のはずだが、実際は、20%以上の人が年収300万円以下 であり、中には年収150万円以下の ”高齢ワーキングプア” の人も10%いる。日本の高度経済成長期を謳歌し富を蓄えて きたはずの団塊の世代にも、これほどの貧困層が存在している。 しかし、年収300万円以下の人が20%もいる一方で、年収700~ 1000万円の人たちも同じぐらいの割合が存在している。 特に年収1000万円以上の人も10%以上いる。 本来は年収が高くなるにつれてその割合も減っていくものだが、 この世代はどうやら違う様である。 年収が低いところと年収が高いところに偏っている。 つまり団塊の世代は他の世代よりも同年代の格差が非常に大きい。 これは平成不況によるリストラなどで一気に貧困層に落ちて しまった人と、既得権益を守りきった人の差が大きいと 考えられている。 厚生労働省の平成19年度の 「賃金構造基本統計調査」 による 年収200万未満の労働者を年代別データでは、日本では 年収200万未満の労働者をワーキングプアとみなしているので、 ワーキングプアは全ての年代で30%以上を超えており、年収200万 未満の労働者が1,000万人以上いることが分かる。 そして特にワーキングプアが多い年代が、20~24歳の若年層と 50歳以上の中高年である。 特に40代からはどんどんワーキングプアが増加していき、60歳以上 では、グンと増えている。高齢になればなるほど所得格差が拡大 していることからも、高齢になるほど低所得である高齢ワーキングプア が増えている。 これは、少し前に放送されたNHKの高齢者のワーキングプアの 放送からも、覗える。 2)世界的な所得格差への懸念増大 最近、ピケティの本が多くの人に読まれているとのこと。 ピケティの本は現代の多くの人が関心を寄せる所得分配の問題に正面 から取り組んでいる。この本は、多くのデータから次のように要約できる。 第1に、程度の差こそあれ、世界中で所得と富の分配の不平等化 が進んでいる。 第2は、その原因は経済成長率と資本の収益率を比較したときに、 後者が前者を上回るところにある。経済全体のパイの大きさが拡大 する分よりも、資本が拡大するので資本の取り分が増えている。 確かに、1914年から1945年にかけて一時的に大戦と大恐慌と税制の変化 で大幅に平等化が進行し、所得分配の不平等化の進展に歯止めがかかった ことがあった。しかし、最近では資本の収益率が経済成長率を上回る ことによる所得格差拡大の力、「資本主義の根本矛盾」とピケティ は呼ぶ、が回復してきており、将来もこのままの事態が続く。 第3に、所得分配の不平等化を是正するために各国政府はグローバル 資産税を課すべきである。その資産税は累進税であり、たとえば 最低年0.1%から始まり、50万ユーロを超えると2%という税率 が考えられる。 マルクスの直面した状況は、産業革命後、まさに所得分配の不平等化 が進展した時代だった。激動のこの時代を要約するのは、 1832年の政治改革で財産のある人々まで参政権は拡大したものの、 社会の大多数を占める人々はまだ排除されていた。これは貧困と 格差による彼らの不満と不安を増徴する言葉であった。 同様のことが、現状、更に進みつつある。 2)グローバル化と格差 グローバル化が進むと、市場は不均衡になる。 そこには3つの理由がある。 まずは、グローバル市場では、利益は等しく分けられない。 結局、人的資源、資金、企業家精神が大きいほど優位である。 こういった市場で利益を得る人には教育が大切であることが 分かっており、特に90年代以降は、教育を受けた人の価値 は世界中で上がってきている。市場の拡大とネット技術の 発達などにより、人材を求めるときに、人数よりも能力の 高さ・スキルの必要が高まっている。 この結果、国内で格差が生まれており、中国とインドは よい例であろう。能力のある人材の流出も始まり、国家間でも格差 が広がり始めます。国によってはグローバル化のために、良く ない方向に向かっていることもある。マリ、ウガンダ、ベネズエラ などの国では、石油、コーヒー豆、綿花など一次産品の輸出 に依存して、経済を貿易に頼っているが、輸出品の値段が 下がっているために、成長につなげられない。グローバル経済では、 教育が大切なので、しっかりとした施設が必要となる。 グローバル化が不公平をもたらす2つ目の理由は、世界市場が 完全市場から程遠いということ。たとえば、公害を引き起こした 国がその代償を支払わないのは市場の失敗であり、温室効果ガス をたくさん排出するアメリカはその責任を貧しい国に課している。 タイ、韓国、ロシア、ブラジル、アルゼンチンでの90年代の 金融危機は、先進国が政策を間違ったのがそもそもの原因でもある。 例えば、先進国の公債費はGDP比2-3%ですが、後進国は 10-40%で、そして高金利により投資、雇用を縮小させ、 財政的に教育や健康に投ずる余裕を奪い、失業保険などの セーフティネットも貧弱になって行く。 最後の理由として、世界市場では、貿易、移住、知的財産などは 自然と先進国の力を反映するので、経済格差が広がる。 裕福な国の農業補助金と途上国を差別する関税を減らす争いは、 良い例であるが、TPPなどで、どこまでお互いの利益が獲得 できるかが見えてこない。 しかし、トーマス・フリードマンが「フラット化する世界」でも、 指摘している様に、フラット化がいくら進んでも政府の役割は 残っていること、各国の事情によってグローバル化への独自の 活かし方があること(メキシコ、アイルランド、中国の例が あがっている)、企業がフラット化によって変えるべきなのは 「自分たちよりも顧客のほうが知恵がある」と思うべきだ ということ、結局はグローカリューションはグローカリゼーション (グローバル=ローカル=個人レベル)でもあること、 それ故、最も発揮されるべきは、個人レベルでのイマジネーション と言っている。 世界は、大きく変わりつつあるが、未だフラット化していない世界 もある。 自身の新しい世界への関わりの強さが強いほど、格差縮小には 必要である。 格差論争 ピケティ教授が語る 2014年10月17日 13時10分 飯田香織デスク 格差は拡大しているのか。どこまでの格差なら許容できるのか。そんな世界的な論争の きっかけとなった本が「21世紀の資本論」です。 著者は、フランスのパリ経済学校のトマ・ピケティ教授(43)。アメリカでは ことし春の発売以降、半年で50万部のベストセラーとなり、多くの言語に翻訳 されています。“ピケティ旋風”の裏にあるのは何か、経済部・飯田香織デスクの解説 です。 1)300年のデータで実証 「21世紀の資本論」は英語版で685ページにも及ぶ、漬け物石のような分厚い 本です。特徴をひと言で言えば、何となくみんなが思っていることを「実証」 しようとしたことです。 ピケティ教授は、20か国以上の税金のデータを、国によっては300年前まで さかのぼって集め、「所得」と「資産」を分析。日本については明治時代から 調べています。 その結果、▽資産を持つ者がさらに資産を蓄積していく傾向がある、 ▽格差は世襲を通じて拡大する、と指摘しました。 2)ピケティ教授は、NHKとのインタビューの中で、次のように語っています。 Q: 「21世紀の資本論」で伝えたかったことは何ですか? ピケティ教授: 欧米や日本などでは、暮らしは楽にならないのに、金持ちばかりがいい思いを していると感じている人が増えています。多くの人が今の資本主義の姿に 疑問を持つようになっているのです。 私は、誰のもとにお金が集まってきたのか、 歴史をさかのぼって明らかにしたいと思ってきました。 所得税制度が作られたのは、フランスなど欧州各国やアメリカでは1900年 前後です。日本ではもう少し早く始まりましたね。相続や資産に関するデータ については、イギリスやフランスでは18世紀にまでさかのぼることができます。 無味乾燥なデータが、実は、私たちの暮らしそのものを表しています。 Q: 調べた結果、何が分かりましたか? ピケティ教授: とりわけヨーロッパや日本では今、20世紀初頭のころと同じくらいにまで格差 が広がっています。格差のレベルは、100年前の第1次世界大戦より以前 の水準まで逆戻りしています。 Q: 資本主義が問題なのですか? ピケティ教授: 資本主義を否定しているわけではありません。格差そのものが問題だと言うつもり もありません。経済成長のためには、ある程度の格差は必要です。 ただ、限度があります。格差が行きすぎると、共同体が維持できず、社会が成り 立たなくなるおそれがあるのです。どの段階から行きすぎた格差かは、決まった 数式があるわけではありません。 だからこそ過去のデータを掘り起こして検証するしかないのです。 3)水はしたたり落ちなかった 富裕層と一般の人の間には、はじめは大きな格差があっても、経済成長による 賃金の上昇などを通じて、上から下に水がしたたり落ちるように富が広がり、 格差は徐々に縮小していくと言われてきました。 しかし、ピケティ教授は、20か国以上のデータを分析した結果、日本を 含めたすべての国で、そうではなかったと指摘。例外は、皮肉にも2つの 世界大戦の時期で、このころだけは格差は縮小したとピケティ教授は言います。 4)なぜ格差は広がったのか。 富を手に入れる方法を単純化すると、 ▽一般の人のように、働いて賃金やボーナスを受け取る方法と、 ▽資産家のように、金融資産の利子や株式の配当などを受け取る方法があります。 ピケティ教授は、富裕層の資産が増えるスピードが一般の人の賃金などが増える スピードを上回っていることが問題の根源だと強調。つまり、働いて稼ぐよりも 相続や結婚などを通じてお金を受け取るほうが手っ取り早いというのです。 そして、 ▽資産を持つ者がさらに資産を蓄積していく傾向がある、 ▽格差は世襲を通じて拡大すると結論づけました。 分厚い経済専門書がいったいなぜここまで幅広く受け入れられたのか。ピケティ教授 は大きな背景として、次のように述べています。 今、世界では、排外的な動きや極右の動きが広がっています。この裏には、 格差問題を簡単に解決できず、それにみなが気づいていることがあります。 国内で平和的に解決できないと、国どうしの緊張、世界レベルの紛争に つながってしまいます。 こうした不安に加えて、私は、富裕層の側にも、このまま格差が拡大して 分厚い中間層がなくなると、ビジネスが成り立たなくなるという警戒感 があることも背景にあると思います。これは、アメリカの企業経営者や 政府関係者と話していて、特に感じることです。 具体的に見ていきましょう。米国の上位10%の所得階層が国全体の所得に 占める割合を見ると、1910年には約50%でした。その比率は次第に減少し、 第二次世界大戦後は30%程度にまで下がります。ところが2010年には、 再び50%ほどへと大きく上昇しています。 富の不平等についてはどうでしょうか。1910年には、上位10%の富裕層が 国全体の富の80%を占めていました。大戦後にその比率は60%程度にまで 減少しますが、2010年には再び上昇して70%近くになっています。 こうした不平等拡大の背景には、資本対所得比の上昇があります。これは、 国内総生産(GDP)に対して国民全体が持っている資本蓄積(総資産)の割合です。 1910年には、資本対所得比は約700%の高い水準でした。それが戦後、戦災 による設備や家屋、インフラの損耗などもあり、200%程度にまで下がります。 それが2010年には500~600%へと増加しているのです。 資本対所得比が上昇しているということは、蓄積された資本が投資などでうまく 回れば、資本所得(企業収益、配当、賃貸料、利息、資産売却益など)が 増えるということを意味します。つまり、富を持つ者はそれだけ大きな所得 を得て、ます資本収益率と経済成長率の乖離を指摘 ピケティは資本対所得比の上昇についてさらに経済理論的に深掘りして、 資本主義の基本特性として、資本収益率(r)と経済成長率(g)の乖離を実証的 に明らかにしています。資本収益率とは、投下した資本がどれだけの利益を 上げているかを示します。経済成長率はGDPがどれだけ増えているかです。 歴史的に見ると、戦後の一時期を除いて、資本収益率は経済成長率を上回って いるというのがピケティの注目すべき指摘です。つまり、「r>g」という不等式 が基本的に成り立つということです。 gの増加は中間層や貧困層を含めた国民全体を潤しますが、rの増加は富裕層 に恩恵が集中します。gよりもrが大きい期間が長くなればなるほど、貧富の 格差は広がり、富が集中化していく。これがベルエポックと「第2のベル エポック」における格差拡大の真相ということになります。 その意味で、rとgが逆転した1914~70年の約60年は画期的でした。戦後の 人口増加や雇用増に直結する技術革新によりgが上昇したことで、不平等 が是正されていきました。とりわけ第2次世界大戦後の30年間は「栄光の30年」 だったと言えま目に見えない形で「世襲の復活」が進行 では、どうして1980年代に「栄光の30年」は終わりを迎え、現在は再び 資本収益率(r)が経済成長率(g)を上回るようになったのでしょうか。 その一因として、ピケティはロボットやITの活用を挙げています。 ロボットやITの発達により人間は仕事を奪われ、賃金も増えず、消費も 増えないため、GDP成長(g)も抑えられていきます。一方で資本はロボット やITによって労働コストなどを抑制し、資本収益率(r)を回復しているのです。 そのうえでピケティは、世襲の復活について警鐘を鳴らしています。 「第2のベルエポック」で大きな資産を築いた富裕層がその資産を子孫に 継承することで、100年ぶりに世襲による階級が復活しつつある。 しかもそれは、巧妙かつ目に見えない形で進行しているといいます。 5)低成長、人口減少の日本 ピケティ教授は、日本についても語っています。低成長、人口減少が続くと、 格差が拡大しやすくなると警鐘を鳴らしました。 日本は見事に逆戻りしています。1950年から1980年にかけて目覚 ましい経済成長を遂げましたが、今の成長率は低く、人口は減少しています。 成長率が低い国は、経済全体のパイが拡大しないため、相続で得た資産が 大きな意味を持ちます。単純に言うと、昔のように子どもが10人いれば、 資産は10人で分けるので、1人当たりにするとさほど大きな額になりません。 しかし、1人っ子の場合、富をそのまま相続することになります。 一方、資産相続とは縁がなく、働くことで収入を得て生活する一般の人たちは、 賃金が上がりづらいことから富を手にすることがいっそう難しくなっています。 その結果、格差が拡大しやすいのです。 6)では、どうする? それでは、いったいどう対応すればよいのか。 この論争で賛否が激しく分かれているのが「解決策」です。ピケティ教授は、 富裕層に対する課税強化を訴えています。 格差を縮小するには、累進課税が重要で、富裕層に対する所得税、相続税の 引き上げが欠かせません。国境を越えて資金が簡単に動かせる今、課税逃れを 防ぐために、国際的に協調してお金の流れを明らかにするなど、透明性のある 金融システムを作ることが必要です。 これには、世界中の富裕層などから猛烈な反発が起きました。稼いでも その多くを税金として納めるとなると、新しいアイデアやビジネスを生み出す 意欲がそがれて、経済全体が停滞してしまう、というのです。 富裕層の富の拡大を抑えるのではなく、最低賃金を引き上げたり教育の機会を 充実させたりして、一般の人の収入を底上げするべきだという意見も出ています。 7)広がる論争 この格差の問題、最近、国際会議でも大きなテーマになっています。また、 この夏以降、アメリカの大手金融機関や格付け会社が相次いで「行きすぎた格差 がアメリカ経済を弱くする」などと指摘。資本主義をいわば象徴する組織 の報告書に、正直驚きました。 世界の議論は、格差のあるなしではなく、「格差は拡大している」というのを 前提にして、いかに是正していくかという、新しい段階に入ったと私自身は 感じています。日本を含めた各国で、どう議論が深まっていくのか、 注目して見ていきたいと思います。
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格差について
第9回 世界的格差拡大でマルクスとエンゲルスは復活するか? 早稲田大学政治経済学術院教授 若田部昌澄〔Wakatabe Masazumi〕 『21世紀の資本論』 フランスのパリ・スクール・オブ・エコノミクスの教授トマ・ピケティが書いた『21 世紀の資本論』(Piketty 2014)が英語圏で大変な話題になっている。刊行と同時にベ ストセラーになり、ポール・クルーグマン、『フィナンシャル・タイムズ』紙の名コラ ムニストであるマーティン・ウルフら著名人がこぞって書評を寄せている。内容に賛否 はあれども、議論の構図を変えた力作でありこの問題を論じるには不可欠の著作、とい うのがクルーグマンの評価だ。他方、否定側の反応も強烈である。『ウォール・ストリ ート・ジャーナル』紙は本書をイデオロギーの産物と断じているし、英『エコノミスト 』誌は、分析には学ぶべきところがあるものの、政策提言は社会主義的とする。 フランス語で出版されたときにはほとんど話題にならなかった本が、英訳された途端 に大ベストセラーになるのは現代におけるグローバル化と英語のソフトパワーを見せつ ける。もっともグローバル化は非英語圏の人間に国際的な活躍の場を提供しているとも いえる。 背景には世界的な所得格差への懸念増大がある。ピュー研究所が2013年に世界39か国 を対象に実施した世論調査によると先進国、途上国に限らず7割以上の人々が、ここ5年 間で格差は拡大し、現在の仕組みは富裕層を優遇していると考えている (http://www.pewglobal.org/2013/ 05/28/world-worried-about-inequality/)。 英語圏での最近の所 得分配の不平等化の進展は良く知られている(図1)。 図1 英語圏での所得分配の不平等,1910年から2010年 出所:Piketty 2014, p.316 国民総所得に占める上位1%の急上昇しているのは所得上位1%どころか0.1%である 。投資顧問会社ブラックストーンの共同創業者CEOのスティーブン・シュウォーツマン は、2007年2月13日、60歳の誕生日を祝うのに300万ドル(現行為替レートで約3億円) を費やした。そのうち100万ドルは、ロック歌手ロッド・スチュワートによる30分の演 奏へのギャラだった(フリーランド2013、65頁)。 ピケティの本は現代の多くの人が関心を寄せる所得分配の問題に正面から取り組んだ 意欲作だ。この本の主張は次のように要約できる。第1に、程度の差こそあれ、世界中 で所得と富の分配の不平等化が進んでいる。第2に、その原因は経済成長率と資本の収 益率を比較したときに、後者が前者を上回るところにある。経済全体のパイの大きさが 拡大する分よりも、資本が拡大するので資本の取り分が増えている。確かに、1914年か ら1945年にかけて一時的に大戦と大恐慌と税制の変化で大幅に平等化が進行し、所得分 配の不平等化の進展に歯止めがかかったことがあった。しかし、最近では資本の収益率 が経済成長率を上回ることによる所得格差拡大の力――「資本主義の根本矛盾」とピケ ティは呼ぶ――が回復してきており、将来もこのままの事態が続く。第3に、所得分配 の不平等化を是正するために各国政府はグローバル資産税を課すべきである。その資産 税は累進税であり、たとえば最低年0.1%から始まり、50万ユーロを超えると2%という 税率が考えられる。 実に野心的である。とはいえ、彼は何か独自の経済学を樹立しようというわけではな く、使っている分析概念はあくまで主流派の経済学のそれだ。しかも実証を重んじる最 近の経済学の研究潮流に則って、独自の統計データの収集と分析に徹している。タイミ ングといい、トピックといい、確かに印象的ではある。 19世紀の『資本論』の背景 ところで「資本主義の根本矛盾」という言葉は、題名ともどもマルクスの『資本論』 (1867年)を思わせる。そもそも22歳で経済学博士号を取得した後マサチューセッツ工 科大学で職を得て前途洋々と思われたにもかかわらず、技術的な経済学に飽き足らず「 大きな問題」に取り組み始めたピケティは、本書でもバルザックやジェーン・オーステ ィンといった小説家、そして過去の経済学者にも多数言及している。序論ではリカード ウと合わせてマルクスを引用し、かなり詳細に論じ、また批判もしてもいる。たとえば 、マルクスの統計データ分析は系統的ではなく、当時多少なりとも利用可能であった萌 芽的な国民所得統計を利用しなかったと指摘している(Piketty 2014, pp.229?3?0) 。 マルクスの直面した状況は、産業革命後、まさに所得分配の不平等化が進展した時代 だった。激動のこの時代を要約するのは、「イングランドの状態問題(The Condition of England Question)」という言葉である。これは、文芸評論家トマス・カーライル (Thomas Carlyle, 1795?1881)が1839年に用いた言葉である。国の大多数の状態は国 そのものの状態を示す。政治家たちはカナダ問題やらアイルランド問題について語るけ れど、本当に語るべきはイングランドの状態問題である、と(Carlyle 1840, 5)。183 2年の政治改革で財産のある人々まで参政権は拡大したものの、社会の大多数を占める 人々はまだ排除されていた。これは貧困と格差による彼らの不満と不安を要約する言葉 であった。 社会を鋭く観察する小説家たちも、所得・富の格差と貧困問題に切り込んでいる。エ リザベス・ギャスケル(Elizabeth Gaskell, 1810?1865)は詩の形で『貧民の情景』 (1837年)を著し、小説『メアリー・バートン』(1848年)の主人公の父親は富裕層と 貧民の関係に疑問を抱く労働組合の活動家、参政権の労働者層への拡大を要求した人民 憲章(People’s Charter)を求めるチャーチストとして描かれている。 ギャスケルの得意としたもう1つのジャンルに幽霊物語があった。その出版を手助け したチャールズ・ディケンズ(Charles Dickens, 1812?1870)は、1843年、彼の小説 の中でも最も著名な『クリスマス・キャロル』を書いている。これは幽霊物語と産業社 会批判を組み合わせたともいえる。 後に首相になる下院議員ベンジャミン・ディズレーリ(Benjamin Disraeli, 1804?1 881)も1845年、『シビル、あるいは二つの国民』という小説を書いている。それと同 年に出版されたのが、マルクスの同志フリートリッヒ・エンゲルス(Friedrich Engels , 1820?95)の『イギリスにおける労働者階級の状態』である(Engles 1845.慣例で イギリスと訳されているが、エンゲルスの対象はイングランドである)。副題には「筆 者自身の観察と信頼すべき資料に基づく」とある。父親がマンチェスターで綿業に携わ る経営者である彼は父親の工場で働いたことがある。彼はそこで知り合った女工の1人 と結婚し、後に父親の仕事を継ぐことになる。 当時のイングランドでは、1人当たりの国民総生産は上昇しながらも、実質賃金の上 昇は停滞するという状態が続いていた。ある研究者はこれを「エンゲルスの休止」と呼 んでいる(Allen 2009:図2参照)。 図2 エンゲルスの休止 出所:Allen 2009 彼の本領は、ジャーナリストのルポルタージュを思わせる迫力ある実態描写にある。 当時のマンチェスターこそは産業革命の中心地であり、『メアリー・バートン』の舞台 でもある。エンゲルスは、底辺にいる労働者階級の現状をひたすら描写していく。長時 間労働、健康を害する過酷な労働環境、家庭の崩壊、そしてすでに周期的に起き始めて いた恐慌による失業の恐怖。だが、産業革命がもたらした変化を全面的な悪として、過 去への郷愁をかきたてるカーライルとは異なり、エンゲルスは変化に望ましい面も見出 す。産業革命前の生活は「ロマンティックで居心地はよいが、人間には値しない生活か ら脱出することも、けっしてなかったであろう」。産業革命は人間を完全な機械にする が、まさにそうすることによって「彼らに対して、物事を考え、人間的地位を求めるよ うにうながしたのであった」(Engels 1845, S. 14; 邦訳上、30頁)。 ではどうすればよいのか。カーライルの答えは、指導者による労働の軍隊的組織化だ った。エンゲルスの答えは革命である。「現在すでに個別的かつ間接的におこなわれて いる富者に対する貧者の戦いはイングランドで、一般的、全面的かつ直接的にもおこな われるであろう。もはや平和的な解決には遅すぎる。諸階級はますます分裂の度合いを 鋭くし、抵抗の精神はますます労働者を貫徹し、憤慨は高まり、個々のゲリラ戦は集中 して、より重大な戦闘とデモンストレーションになる。それはほんのちょっとしたきっ かけで、すぐに雪崩がおきる。そのときには、もちろん、『戦いを宮殿に、平和を小屋 に!』と鬨の声が全土に鳴りひびくであろう。だがそのときには、富者がもっと用心を しようにも、すでに遅すぎるであろう」(Engels 1845, S. 354, ; 邦訳下、250―1頁 )。この最後の言葉は、同志カール・マルクスとの共著、『共産党宣言』(1848年)を ほうふつとさせる。 エンゲルスの予言は実現するのか? ピケティの議論は、資本の収益率が経済成長率を上回っていることに依存している。 タイラー・コーエン(ジョージ・メイソン大学教授)が指摘するように、何が資本なの かは曖昧だ(Cowen 2014)。現在はただ国債を保有しているだけで財産が増えるわけで はない。仮に株式などに投資するとしたらそれなりの才覚が必要とされる。つまり努力 の結果得られた財産なのかもしれない。また、グローバル資産税の前提は、短期的には 才能のある人に課税しても労働供給は少なくならないということだ(実証的にはこれは 正しい)。だが、長期的にはどうだろうか。 エンゲルスの同時代に、「イングランドの状態問題」を見据えながら、もう1つ別の 道を模索した人物がいる。ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill, 1806?18 73)は、『共産党宣言』と同じ年に出版された『経済学原理』(Mill 1848)で「道徳 的見地や社会的見地から考察した労働者たちの状態ということは、近来は以前に比べて はるかに多く思索と討議の対象となってきた」(Mill 1848/1965, II, p.759; 邦訳4、 113頁)という。ミルが引き受けた課題は、ここまで市場経済が達成してきたものを最 大限に生かし、自由と創意工夫と私有財産制度とを最大限に尊重しながら、富と所得の 格差といった市場経済が作り出す問題を解決していくことであった(坂本2014、237―8 頁)。貧富の格差への対応は必要である。しかし、それはまず、カーライルのように支 配・従属関係を復活させるものであってはならない。また再分配は必要としても、努力 の結果得られた財産には適用されるべきではない。累進所得税は勤勉と節約への課税で あるとミルは考えていた。もちろん、努力もし、才能もあったのに、機会に恵まれない ために失敗する人がいるのは事実だが、「もしもこのような機会の不平等を軽減するた めにある優秀な政府が教育および立法によってなしうるであろうすべての事がなされた ならば、その上でもなお国民自身の稼得した収入から生ずる財産の差異が不平不満の因 となるということは、正しいことではありえないであろう」(Mill 1848/1965, II, p. 811; 邦訳5、36頁)。 ただし相続税には累進税を適用すべきとミルは考えた。「ある一定の金額を超える相 続財産および遺贈は、課税の対象として非常に適切なものであり、これらのものからの 政府の収入は、贈与あるいは財産の隠匿による、十分に防止することが不可能であるよ うな脱税を発生せしめることなしに、大きなものとなしうるだけ、大きくすべきである と考える」(Mill 1848/1965, II, p.823; 邦訳5、37頁)。 「イングランドの状態問題」は、貧困と格差の同居であった。しかし、きわめて皮肉 なことにエンゲルスが書いた1840年代中葉、あるいはマルクスが書いた1860年代中葉か ら、事態は変化し始める。1840年代中葉から、経済成長にもかかわらず停滞していた実 質賃金が上昇し始め、「エンゲルスの休止」は終わり、また1860年代ごろから所得分配 の不平等度を示すジニ係数も下がり始めた。市場経済は経済成長を可能にし、貧困は徐 々に解決されていった。 それから時代は変わり、貧困というよりは格差が問題になっている。格差が問題だと して、その是正をいかに行うべきか。税制だけでなく、ミルが指摘したように教育と立 法による機会の不平等格差も重要だ。問題が復帰した現在、過去の議論を再訪する余地 はある。 【参考文献】 坂本達哉(2014)、『社会思想の歴史――マキアヴェリからロールズまで』名古屋大学 出版会。 フリーランド、クリスティア(2013)、『グローバル・スーパーリッチ――超格差の時 代』早川書房。 Allen, Robert C. (2009), “Engels’ Pause: Technical Change, Capital Accumul ation, and Inequality in the British Industrial Revolution,” Explorations in Economic History, Vol.46, Issue 1, pp.418?435. Carlyle, Thomas (1840), Chartism, London: John Fraser. Cowen, Tyler (2014), “Capital Punishmen: Why a Global Tax on Wealth Won’t End Inequality,” Foreign Affairs, May/June, 158?164. Engles, Friedrich (1845), Die Lage der arbeitenden Klasse in England. Nach e igner Anschauung und authentischen Quellen, Leipzig: Otto Wigand. (一條和生・ 杉山忠平訳『イギリスにおける労働者階級の状態19世紀のロンドンとマンチェスター』 岩波文庫、1990年) Mill, John Stuart Mill (1848), Principles of Political Economy In Collected Works of John Stuart Mill, Toronto: University of Toronto Press, Vol.II?III. (末永茂喜訳『経済学原理』岩波文庫、1959?1963年) Piketty, Thomas (2014), Capital in the Twenty?First Century, Cambridge: The Belknap Press of Harvard University Press. 格差社会の登場は、1998年と言うが、 http://finalrich.com/sos/sos-economy-first1998.html 貧困と格差についての厚生省の報告あり。 PDFで、デスクトップ。 中「あえて言いますよ。これから日本は物凄い格差社会になりますよ。今の格差は既得 権益者がでっちあげた格差論で深刻な格差社会ではないんですよ。大竹さんや私の世代 は物凄い介護難民が出てきて貧しい若者が増える。いよいよ本格的な格差社会になりま す。 グローバルは止められません。グローバルを止めるのは豊かになりつつある中国やイン ドネシアの人にお前たちに豊かになるなと言ってることに等しいんですよ。そんな権利 は日本にもアメリカにもないんですよ。」 「迷走する資本主義」 ダニエル・コーエンの「迷走する資本主義」を読んでいて、ポスト産業社会の分析も非 常に面白いのだが、随所に、母国フランスの文明文化批評が展開されていて、その中で 、フランスが、益々格差社会が拡大して行く様子について書いているので、一つの文明 国の世界的傾向として、考えてみたいと思った。 話の発端は、ヨーロッパの社会的連帯について、国によって自由に対する考え方 が違っていると言う問題意識から、個人主義的なイギリスの自由、共同体モデルのドイ ツの自由に対して、フランスの自由人は、法的なものではなく、殆ど心理的な意味にお いて他人に従属していない人をさし、これまで両立することができなかった聖職者価値 観と貴族的価値観の二つの価値観のシステムから生じる矛盾の狭間に依拠していると言 う指摘からである。 教会は、神の前では全員平等だと普遍的な価値観を説くが、貴族は、神が与えた 自分たちの高貴な身分や行動を褒め称えるのだから、二つは相容れず、偽善に陥るだけ なのだが、このアンビバレンスが引き伸ばされたことによって、フランス革命が、貴族 制度を廃止して特権階級を葬り去った直後に、エコール・ポリテクニーク(理工科大学 校 俗にポリテク)やエコール・ノルマル・シュペリウール(高等師範学校)など名門 グランゼコールを創設し、独自の新貴族階級を生み出したのである。 グローバル化と格差 グローバル化が進むと、市場は不均衡になります。そこには3つの理由があります。 始めに、グローバル市場では、利益は等しく分けられません。結局、人的資源、資金、 企業家精神の保有者が報われます。こういった市場で利益を得る人には教育が大切であ ることが分かっています。特に90年代以降は、教育を受けた人の価値は世界中で上が ってきています。 市場の拡大とネット技術の発達などにより、人材を求めるときに、人数よりも能力の高 さ・スキルの必要が高まっています。この結果、国内で格差が生まれています。中国と インドはよい例です。能力のある人材の流出も始まり、国家間でも格差が広がり始めま す。 国によってはグローバル化のために、良くない方向に向かっていることもあります。マ リ、ウガンダ、ベネズエラなどの国では、石油、コーヒー豆、綿花など一次産品の輸出 に依存しています。経済を貿易に頼っています。しかし、輸出品の値段が下がっている ために、成長につなげられません。多角化を果たすための投資資金の獲得ができません 。グローバル経済では、教育が大切なので、しっかりとした施設が必要となります。 グローバル化が不公平をもたらす2つ目の理由は、世界市場が完全市場から程遠いとい うことです。たとえば、公害を引き起こした国がその代償を支払わないのは市場の失敗 です。温室効果ガスをたくさん排出するアメリカはその責任を貧しい国に課しています 。タイ、韓国、ロシア、ブラジル、アルゼンチンでの90年代の金融危機は、先進国が 政策を間違ったのが問題です。全ての市場を停滞させるパニックは収まっても、その影 響は国内に残ります。子どもが学校を辞めたり、借金に苦しみ国が機能しなくなったり します(先進国の公債費はGDP比2-3%ですが、後進国は10-40%です。そし て高金利により投資、雇用を縮小させ、財政的に教育や健康に投ずる余裕を奪い、失業 保険などのセーフティネットも貧弱になります)。 最後の理由として、世界市場では、貿易、移住、知的財産などは自然と先進国の力を反 映するので、経済格差が広がるのです。裕福な国の農業補助金と途上国を差別する関税 を減らす争いは、良い例です。ただこれは陰謀ではなく、ヨーロッパ、アメリカ、日本 の国内の政策が、西アフリカの綿花の市場などをまったく見ていないのです。多国間の ルールを作ろうにも実施は困難です。アメリカなどの市場から排除されないようにと恐 れて、持っている権利を行使することをしない場合も。最近の安い薬を生産する権利を 獲得できたのは良いことですが。 グローバル政治 世界の安全、安定、共存、社会のためにできることは何でしょう。グローバル市場が、 お金のある人につられているが、格差をなくすためにも途上国のために、教育の機会を 増やしたり、インフラの整備をしたりしなければなりません。これは、ミレニアム目標 にも定めてあることです。グローバル市場は不完全なので、調整をはかって、ルールを 決めなければなりません。それは、環境(京都議定書など)を守ったり、世界的な経済 危機に備えたり、不正な競争制限をなくしていかなければなりません。裕福な国の意見 だけでなく、多国間での枠組みを作って、貧しい国でも表に出やすいようにするために もっと創造的にならなければなりません。 ドーハ多国間ラウンドを完了させる必要があるし、新たなグローバル組織(例えば、国 連ベース・移民管理局)を考える必要もあるだろう。 一言で言えば、富と福祉、グローバル経済に対して、力強く、良い枠組みや組織につい ての創造的思考が必要です。しかし、アイディアそういった組織を作るには、私たちは 不十分で弱い政治であるのも確かです。21世紀の目標は、政治組織やルール、習慣を 見直し強くすることです。そこには、それまで解けなかったようなグローバル市場の不 公平な問題、格差に対処していかなければなりません。ーーーーーーーーーー若者の働き方
若者の働き方電通 www.dentsu.co.jp/news/release/pdf-cms/2015090-0813.pdf 若者の働き方に変化~「好きを仕事に」という呪縛 『NPOジャーナル14号』/(特活)関西国際交流団体協議会発行 景気の回復や団塊世代の大量退職で企業の採用意欲は高まり、就職戦線に明るい兆しが 見られる。しかしせっかく企業に就職しても入社3年以内に、大卒者の 35%、高卒者の 5割以上がやめてしまうというのが現状である。(厚生労働省調べ 2001年就職者)若 い世代の仕事意識や働き方は、終身雇用が前提の上の世代とは大きく違ってきている。 「もっと自分に合う仕事があるはず」自分探しを続けるサラリーマン 10代後半から20代の若者に将来について聞くと「ものづくりがしたい」と職人を目指す 人、独立・起業に憧れる人、「社会に役に立つ仕事を」とNPOへの就職を望む人など「 やりたいことを仕事にしたい」という人が多い。上の世代は、食べるために働くのが当 然だったが、今の若者は「好きなことを仕事に」とライフスタイルと仕事が一致した生 き方を望んでいる。 サラリーマンの仕事意識や働き方にも変化がみられる。当研究所のワークスタイル調査 (対象は20~30代前半の社会人男性約80名/2003年~2004 年)で若い世代のサラリー マン達に話をきくと「想像していた仕事と違う」「自分のやりたい仕事と違う」と、今 の仕事に漠然とした不満をもつ人が少なくない。大手IT企業の男性は「今の仕事は自分 に合わない。やりたいことがみつかればすぐに転職したい。でもそれがみつからない」 と悶々とした日々を過ごしていた。希望と違う会社や仕事だけれど、フリーターになり たくないので「とりあえず就職した」という声が多く聞かれた。 彼らの多くは「好きを仕事に」を実現している同世代を横目に「もっと自分に合う仕事 があるはず」という思いを描きながら、日々の仕事に疲れ、一歩も踏み出せないでいる 。将来を聞くと「転職するなら30歳まで」と30歳を区切りに考えそれまでを猶予期間と 捉えている。社会経済生産性本部の新入社員を対象にした調査(2005年)で「フリータ ーになる可能性がある」と答えた人は29.2%。正社員として就職しても「やりたいこと をみつけたい」と自分探しを続ける若者が増えている。 成長実感がほしい若者達 同調査では、研究職やデザイナーなど専門職のサラリーマンにも話しを聞いたのだが、 好きなこと、自分の興味のあることを仕事にしている人が多く、仕事に対する満足度は 高い。「商品のデザインをして市場で評価されるとうれしい」(30代 家電メーカ-) というようにアウトプットが具体的なので、手ごたえを感じやすいというのがやりがい に繋がっている。 一般職のサラリーマンの間でもスペシャリスト志向が強まっている。「役職についたが スキルがないのはいや。社内職人を目指し専門性を高めたい」(30代 航空会社)とい うように管理職を目標にするよりも、総務や経理、人事など特定の分野でその道のプロ を目指す若いサラリーマンが増えている。彼らの言う「社内職人」とは仕事のスキルも こだわりもあり、社内で一目おかれる存在ということなのだろう。とはいえ、社内での 業務に精通しているという限定的な“職人” である。中には仕事への思い入れという よりは、転職やリストラのリスクヘッジ的な意味合いが感じられる人もいる。 一方、多数派ではないけれどどこに行っても通用するスキルを身につけたいとい考える 前向きなサラリーマンもいる。「今の会社でまだまだ勉強するべきことがある。実力を つけて、いずれやりたい仕事ができる会社に転職するつもり」(30代 広告代理店)と いうように会社は自分自身の能力を高め、スキルアップする舞台だと考えている。 リクルートワークスの調査(2004年)によれば、社会人1~3年目の7割が「転職を意識 している」と答えている。理由を聞くと「成長実感がもてない」という答えが勤務条件 や賃金に対する不満よりも上位にあがる。「仕事を通じた成長」を多くの若者が望んで いる。 やりたい仕事は見つけるのではなく、出会うもの 豊かな社会に育った彼等は、役職や給料がインセンティブにはならない。仕事にやりが いを求めるのは良いのだが、「好きを仕事に」という生き方にこだわるあまりに、動き 出せなくなっている若者も多い。 やりたいことを仕事にしたいのも、社内職人を目指すのも、仕事を通じて成長したいの も、仕事の中に自分らしさを求め、仕事での自己実現を目指すからだろう。 しかし仕事の中の自分らしさとはどんな仕事をするかではなく、どういう働き方をする かが問題なのだ。職人、NPOで働く人、サラリーマンと仕事は違っても基本は同じであ る。与えられた仕事であっても、仕事ときちんと向き合うことで、その人なりの工夫が できるだろうし、その結果「その人だからこそ意味がある」仕事になる。周囲とコミュ ニケーションを深めることで、仕事の幅が広がり、面白さを見出すこともできる。やり たい仕事というのは、仕事をやっていく中で出会うものなのだろう。 若い世代とともにこれからの働き方を考える 当研究所では、今年1月よりインターンシップ事業等を行うNPO法人ETIC.と共同で「WOR K-LIFE INNOVATORS'」(http://worklife.etic.or.jp)プロジェクトをスタートした。 若者自身が「働く」というテーマに取り組み、新しい働き方や職場のあり方を提案して いくことを目指し、勉強会、座談会の実施、コミュニティづくりやフォーラムの開催等 を行っている。 我々自身、NPOと共同事業を行う中で、さまざまな気づきや発見がある。異文化、異世 代が出会うことで相乗効果が生まれることを期待している。このプロジェクトを通じて 、若い人達とともにこれからの仕事や働き方について考えたい。 仕事や働き方は若い世代だけの問題ではない。大人達ももう一度、自分自身の働き方や 社会のあり方を見直す時代にきているのではないだろうか。 (清木 環) [無頼になりたい!?]対談 上野千鶴子さん×古市憲寿さん ◆「失敗できる社会」必要 元東大教授 上野千鶴子さん/弱まる規範 選択肢多く 社会学者 古市憲寿さん 組織に縛られ、窮屈な思いをすることも多い現代社会。そんな世の中に対し、元東大 教授の社会学者・上野千鶴子さん(64)は、フェミニズムの旗手として長年精力的な 言論戦を挑んできた。上野ゼミに出入りしていた社会学者・古市憲寿さん(27)も、 東大大学院に在籍しつつ、ベンチャー企業で執行役として働く若手の論客だ。はた目に は自由に生きているように見える“師弟”2人に「無頼論」を展開してもらった。 ■希少な安全・安心 ??無頼と聞くと、どんな連想をしますか。 古市 そもそも日常で、無頼という言葉を使います? 文字では見ても、言葉として 話すことも聞いたこともない。 上野 そうきますか……東大の大学院生の教養はこの程度なのね。じゃあ、オダサク って分からない? 古市 オダサク? 上野 織田作之助の略で、「無頼派」作家の代表。無頼派というのは、真人間の暮ら しができない生活破綻者である一群の私小説家のこと。ウィキペディア(注1)風に言 うと(笑)。 古市 ただ、無頼は「頼らない」とも読める。無頼を「何かに頼らないこと」とする と、最近、そういう生き方への憧れは若者を含めすごく広がっている気はします。既存 の企業などに頼らず、もっと自由に生きてもいいのでは、と。ここ10年ぐらい、会社 に勤めず、独力でスキルアップするような働き方はある種のブームです。 上野 ただ、無頼というのは、いわば無保険・無保障人生。簡単に勧められない。 古市 たしかに、専門的な能力がなければ「無頼」はうまくいかないと思います。そ して一つの組織に属していれば安定という時代でもない。僕自身も友人と会社を経営し ながら、趣味のように大学院に通っています。ただ、企業にしがみついて生きようとい う人も依然多い。 上野 安全と安心が希少になってきたから、よけいに何かにしがみつきたいのでしょ う。「就活」や「婚活」に必死になるのが、その表れでしょうね。 古市 たしかに、新入社員のアンケートでも、定年まで同じ会社にいたいという人が 最近増えていますし、専業主婦志向も強まっていますね。 上野 一方で、労働市場で最も割を食った非正規労働の中高年既婚女性たちは、19 90年代後半からどんどん起業しています。背景には、NPO法ができて任意団体が作 りやすくなったこと、介護保険法(注2)で助け合いボランティアがビジネスになった ことがある。起業は若者だけの動きじゃない。 古市 労働市場で一人前として働けないから、自分たちで、ということですね。起業 といえばITにばかり注目が集まるけど、裏側にはこうした女性たちがいるのですね。 上野 資本力のない女と若者は労働集約型か知識集約型の産業で起業するしかない。 この20年、グローバル競争に勝ち抜くという口実で政官財や労働界が労働の規制緩和 にゴーサインを出しました。その結果、格差社会でワーキングプアが男性にも大量に生 まれた。日本では移民の代わりに、女性と若者が使い捨ての低賃金労働力になってきた 。フリーターが「不利だー」になったのね。起業は労働市場で相対的に不利な人たちの 選択肢。 古市 自由になる代わりに、格差がどんどん広がっていく気がします。そこでは無頼 が、政策決定者側にとっても都合のいいキーワードになっている。今後、みんなが何も のにも頼れない「無頼」にならざるを得ないのでしょうか。 上野 もちろん全人生を会社に預けるような働き方をする人たちも、一部に残るでし ょう。でも、会社ごと心中することになるかもね。 ■収入源の分散 ??「何かに頼らない生き方」を選択するというより、いや応なく「何にも頼れない 社会」になりつつある。私たちはどう生きればいいのでしょう。 上野 収入源を一つに頼らず、できるだけ分散することが大事。アイデンティティー も一つである必要がない。カネになることをどこかでやっておかないと、カネにならな いことを楽しめない。例えば、学問は「知的なベンチャー」だから、当たるかどうか分 からない。大学院生は昔から塾を経営したり、稼ぎのある女性と結婚したりしてリスク を回避してきた。私も非常勤講師を続けながら、シンクタンクの研究員や塾の講師をず っと続けてきました。大学教師を辞めなかったのは、イヤな仕事を断る自由のため。 古市 自由に生きるためには、どこかでベースみたいなものがないと難しいというこ とですね。 上野 脱サラした人たちを見てきたけど、イヤな仕事を断れなくなったり仕事の質を 保つのが難しい。だから、「フリーになりたい」という転職相談には反対してきた。「 会社は無能なあなたを守ってくれる。荒野で一生戦うエネルギーと能力があるか」って 。 古市 フリーとは定義上「自由」であるはずなのに、不安定だからこそ何かに従わな きゃいけない。一方で、今の日本では、特に男性サラリーマンは全人生を会社にささげ ることが求められ、働き方が自由に選べない。それがジレンマですね。 上野 昔の日本は違った。土地の気候風土に合わせて稲作、裏作、機織り、季節労働 と多様な活動を組み合わせて生計を立てるのが「百姓(ひゃくせい)」だと言ったのは 中世史家の網野善彦さん。百姓は「種々の姓」のことだから。だからゴー・バック・ト ゥ・ザ百姓ライフ、よ。 古市 たしかに高度成長期までは、自営でいくつかの仕事をやりながら、家族みんな で働くのが当たり前でした。逆に、男性正社員が一人で家計を支え、専業主婦が家庭を 預かるというモデルは、たかだか40年の歴史しかない。その時期でも、終身雇用の企 業で働けたのは同年代の男性の2?3割。女性はその恩恵にほとんどあずかれなかった 。 ??良い意味での無頼を貫くには、これからどうすればいいのでしょう。 古市 高度成長期のモデルを当たり前と思わず、それ以外の選択肢を考えればいい。 しかし、現実社会の変化に対応した制度がないのが問題だと思います。 上野 そのとおりね。若者も高齢者も「おひとりさま」で生きる社会になっていくの だから、税制や社会保障制度を世帯単位から個人単位に変えるのが基本。それなのに制 度が現実の変化に追いつかず、国はいまだに「標準世帯」(注3)を単位にしている。 正規と非正規の賃金格差もなくすべき。ひとつの職場に人生を預けるのじゃなくて、多 様な働き方を自由に選べるようになればいい。 古市 僕が留学した北欧って、貯金をしなくてもいい国なんですよね。一方、日本で は、評論家の樋口恵子さんとお会いした時、80歳なのに「まだ老後が心配」とおっし ゃっていました……。 上野 日本の老後にはまだまだ安心が足りないから、お年寄りがお金をため込んで使 わず、子どもがそれを当てにするんです。ただ、国民年金、健康保険、介護保険は日本 が世界に誇るべき制度なのだから、絶対に持続可能な制度にしなければ。セーフティー ネットがあるからこそ無頼でいられる。個人が自分で保障しなくても、安心して失敗で きる社会にならないと、チャレンジする人も増えません。 古市 それが本当の「無頼社会」ですね。今は「正社員、専業主婦にならなきゃ」と いう規範自体はだいぶ弱まったと思います。できることが増え、自由な時代になった。 もっと前向きに、シンプルに無頼を楽しめる社会になればいいと思います。 ◆息苦しい 一つの世界 収入面でも精神面でも、自由に生きる2人の言葉には、大きくうなずかされた。上野 氏も古市氏も、そのために陰で相当の努力を積み重ねているのだと感じた。そして、多 くの人が自由に生きることを可能にするためには、やはり社会制度や雇用慣行の変革が どうしても必要なのだろう。 同時に感じたのは、一つの世界しかもてないことの息苦しさ。この国で大きな問題で あり続けるいじめや自殺などの病理も、日本人が閉じられた世界で生きがちなところに 原因があるように思えてならない。 教室や会社以外に楽しみや逃げ場があれば、悩みも少しは軽減されるはず。一つの世 界にとらわれて追いつめられるような人が、今年は少しでも減ってほしい。(文化部 小林佑基) 注1 ウィキメディア財団が運営するインターネット百科事典。誰でも無料で編集で きる。2001年に英語版が始まり、今は200以上の言語版がある。 注2 介護が必要となった高齢者への在宅サービス、施設サービスの提供を、保険料 と公費で行う公的介護保険について定めた法律。2000年施行。 注3 高度成長期に一般的だった、夫婦に子ども2人の世帯。国の制度や施策の多く が、標準世帯を一生活単位と想定して構築されてきた。 ◇うえの・ちづこ 1948年、富山県生まれ。日本の女性学、ジェンダー研究のパ イオニア。近年は介護・ケア領域へと研究範囲を広げている。2011年、東大教授を 退職。NPO法人「ウィメンズ アクション ネットワーク(WAN)」理事長。『近 代家族の成立と終焉』でサントリー学芸賞。近刊に『みんな「おひとりさま」』『生き 延びるための思想』、共著の『快楽上等!』など。 ◇ふるいち・のりとし 1985年、東京都生まれ。東大大学院博士課程在籍。慶応 大訪問研究員(上席)。若者とコミュニティーについて研究するかたわら、有限会社ゼ ントではマーケティング、IT戦略立案などにかかわる。著書に『希望難民ご一行様』 『絶望の国の幸福な若者たち』『僕たちの前途』など。NHK「NEWS WEB24 」にもナビゲーターとして出演している。ーーーーーーーーーーー
不満、不安な若者は何を思う(ある青年の想いをみる)ブログ向け
少し前に放送された、NHKスペシャル「ワーキングプア」 働いても働いても豊かになれない」を見ながら、私はなんとなく 違和感を覚えていた。番組では、働いてもそれに見合った給料が 得られず、生活もままならない人たちが、ワーキングプアとして 紹介されていた。最近でも、高齢者を対象にした同様の主旨の 番組もあった。 地方から東京に出てきて仕事を探すが、派遣でさまざまな会社 をたらい回しにされたうえに、ホームレスとなってしまった30代の若者。 会社をリストラされ、一家を養うためにバイトをいくつもかけ持ち している元サラリーマン。イチゴの栽培が赤字で、家族全員の収入 を合算してなんとか生活する農家。そして、一時は人を雇うほどの 町一番の仕立屋だったが、今では小さな直しの仕事しかなくなって しまった職人。年金は妻の入院費に消え、生活保護を受けようにも、 「妻の葬儀代に」と手をつけないでいる100万円の貯金の存在が、 生活保護を受給するにあたっての障害になっているという。 一生懸命まじめに働いても、生活が成り立たない社会が正しい状態では ないことは明らかだ。普通の人が普通に働けば、普通に生活できる社会を 構築するべきだ。などと、ごく当たり前でなんの面白みもない想いが わき上がってきてものだが、事態は、更に悪くなっているのが、実情である。 最近は、「格差の広がり」として、再びその議論が活発化しつつある。 最も、事態はワーキングプアの時よりも、ドンドン進んでいるだけで、 それを我々が知らないだけ、なのかもしれないが。 既に、格差については、以前の記事にも、その現状と原因らしきものについて 書いているので、そちらを再読してもらうとして、ここでは、 フリーターとしての自身の想いと不満を明確に書き綴った 朝日新聞社 「論座 2007年1月号」の赤木智弘氏の掲載文をジックリ 読んでもらいたい。 これは、赤木氏という特異な人の言葉ではない。既に、4割以上の人が 非正規の勤めをしている現状では、ある意味、普通の状態とも言える。 「ポストバブル世代に押しつけられる不利益 思えば私たちは、このような論理に打ちのめされ続けてきた。バブルがはじけた 直後の日本社会は、企業も労働者もその影響からどのように逃れるかばかり を考えていた。会社は安直に人件費の削減を画策し、労働組合はベア要求を やめてリストラの阻止を最優先とした。そうした両者の思惑は、新規労働者の 採用を極力少なくするという結論で一致した。企業は新卒採用を減らし、 新しい事業についても極力人員を正社員として採用しないように、派遣社員 やパート、アルバイトでまかなった。結局、社会はリストラにおびえる中高年 に同情を寄せる一方で、就職がかなわず、低賃金労働に押し込められた フリーターのことなど見向きもしなかった。最初から就職していないの だから、その状態のままであることは問題と考えられなかったのだ。 それから十数年たった今でも、事態はなんら変わっていない。経団連のまとめ による「2006年春季労使交渉・労使協議に関するトップ・マネジメント のアンケート調査結果」によると、フリーターを正規従業員として積極的に 採用しようと考える企業はわずかに1・6%にすぎない。世間はさんざん 「フリーターやニートは働こうとしない」などと言うが、この結果を見れば、 「企業の側がフリーターやニートを働かせようとしない」のが我々の苦境の 原因であると考えるほかはない。ちなみに、64・0%の企業が「経験・能力 次第で採用」としているが、そもそも不況という社会の一方的な都合によって、 就職という職業訓練の機会を奪われたのがフリーターなのだから、実質的 には「採用しない」と意味は同じだ。その一方で、職業訓練の機会と賃金 を十分に与えられた高齢者に対しては97・3%の企業がなんらかの継続雇用 制度を導入するとしており、その偏りは明白である。 企業の人件費に限りがある以上、高齢者の再雇用は、我々のような仕事に ありつけない若者がまたもや就業機会から排除されることを意味する。 しかし、それを問題視する声はまったく聞かれない。これも同じく、経済 成長世代の就業状態をキープし、ポストバブル世代の無職状態をキープする 考え方だ。このような不平等が、また繰り返されようとしている。この繰り 返しを断ち切るために必要なことは、現状のみを見るのではなく、過去に 遡って、ポストバブル世代に押しつけられた不利益を是正することだろう。 近視眼的で情緒的なだけの弱者救済策は、経済成長世代とポストバブル 世代間の格差を押し広げるだけである。 「31歳の私にとって、自分がフリーターであるという現状は、耐えがたい 屈辱である。 ニュースを見ると「フリーターがGDPを押し下げている」などと直接的な 批判を向けられることがある。「子どもの安全・安心のために街頭にカメラ を設置して不審者を監視する」とアナウンサーが読み上げるのを聞いて、 「ああ、不審者ってのは、平日の昼間に外をうろついている、俺みたいな オッサンのことか」と打ちのめされることもある。 しかし、世間は平和だ。 北朝鮮の核の脅威程度のことはあっても、ほとんどの人は「明日、核戦争が 始まるかもしれない」などとは考えていないし、会社員のほとんどが「明日、 リストラされるかもしれない」とおびえているわけでもない。平和という 言葉の意味は「穏やかで変わりがないこと」、すなわち「今現在の生活が まったく変わらずに続いていくこと」だそうで、多くの人が今日と明日で 何ひとつ変わらない生活を続けられれば、それは「平和な社会」という ことになる。ならば、私から見た「平和な社会」というのはロクなもの じゃない。夜遅くにバイト先に行って、それから8時間ロクな休憩もとらず に働いて、明け方に家に帰ってきて、テレビをつけて酒を飲みながらネット サーフィンして、昼頃に寝て、夕方頃目覚めて、テレビを見て、またバイト 先に行く。この繰り返し。月給は10万円強。北関東の実家で暮らしている ので生活はなんとかなる。だが、本当は実家などで暮らしたくない。 両親とはソリが合わないし、車がないとまともに生活できないような土地柄 も嫌いだ。ここにいると、まるで軟禁されているような気分になってくる。 できるなら東京の安いアパートでも借りて一人暮らしをしたい。 しかし、今の経済状況ではかなわない。30代の男が、自分の生活する場所 すら自分で決められない。しかも、この情けない状況すらいつまで続くか 分からない。年老いた父親が働けなくなれば、生活の保障はないのだ。 「就職して働けばいいではないか」と、世間は言うが、その足がかりは いったいどこにあるのか。大学を卒業したらそのまま正社員になることが 「真っ当な人の道」であるかのように言われる現代社会では、まともな 就職先は新卒のエントリーシートしか受け付けてくれない。 ハローワークの求人は派遣の工員や、使い捨ての営業職など、安定した 職業とはほど遠いものばかりだ。安倍政権は「再チャレンジ」などと言うが、 我々が欲しいのは安定した職であって、チャレンジなどというギャンブル の機会ではない。そして何よりもキツイのは、そうした私たちの苦境を、 世間がまったく理解してくれないことだ。「仕事が大変だ」という愚痴 にはあっさりと首を縦に振る世間が、「マトモな仕事につけなくて大変だ」 という愚痴には「それは努力が足りないからだ」と嘲笑を浴びせる。 何をしていいか分からないのに、何かをしなければならないという プレッシャーばかり与えられるが、もがいたからといって事態が好転する 可能性は低い。そんな状況で希望を持って生きられる人間などいない。 バブル崩壊以降に社会に出ざるを得なかった私たち世代(以下、ポスト バブル世代)の多くは、これからも屈辱を味わいながら生きていくこと になるだろう。一方、経済成長著しい時代に生きた世代(以下、経済成長 世代)の多くは、我々にバブルの後始末を押しつけ、これからもぬくぬく と生きていくのだろう。なるほど、これが「平和な社会」か、と嫌みの ひとつも言いたくなってくる。 、、、、、、、 私たちだって右肩上がりの時代ならば「今はフリーターでも、いつか 正社員になって妻や子どもを養う」という夢ぐらいは持てたのかもしれない。 だが、給料が増えず、平和なままの流動性なき今の日本では、我々は いつまでたっても貧困から抜け出すことはできない。 我々が低賃金労働者として社会に放り出されてから、もう10年以上たった。 それなのに社会は我々に何も救いの手を差し出さないどころか、GDPを 押し下げるだの、やる気がないだのと、罵倒を続けている。平和が続けば このような不平等が一生続くのだ。そうした閉塞状態を打破し、流動性を 生み出してくれるかもしれない何か――。 その可能性のひとつが、戦争である。、、、、、」 (赤木智弘) 朝日新聞社 「論座 2007年1月号」」 多分、赤木氏や多くの人が望む20数年前の元気な余裕のある社会が、日本に 再現することはない。各個人としての雇用状況は、さらに悪化するであろう。 グローバル化の進展、ITによる機械との競争激化など、旧来の世界とは、 大きく変わってきていることの認識が必要である。 でも、政府含め、昔頑張ってきた人々には、それを解決する方向と手法が 分からない。何しろ、「ガンバリズム」で、好くなると心のそこで信じて いる人が多いのだから。 これからは、ITへのスキル強化など、自身の総合的な社会対応力を 上げる必要がある。しかし、多くの若者は、それを理解をしようとも しない。
金閣寺
P47 しばらく二人はじっと対座していた。 女が立ち上がった。 物静かに廊下の闇に消えた。 ややあって、女が茶碗を捧げて、微風にその長い袂をゆらめかせて、還って来た。 男の前に茶をすすめる。 作法通りに薄茶をすすめてから、もとのところに坐った。 男が何かを言っている。男はなかなか茶を喫しない。 その時間が異様に長くて、異様に緊張しているのが感じられる。 女は深くうなだれている。 信じがたいことが起こったのはその後である。 女は姿勢を正したまま、俄かに襟元をくつろげた。 私の耳には固い帯裏から引き抜かれる絹の音がほとんど聞こえた。 白い胸があらわれた。私は息を飲んだ。女は白い豊かな乳房の片方を、あらわに 自分の手で引き出した。 士官は深い暗い色の茶碗を捧げもって、女の前に膝行した。 女は乳房を両手で揉むようにした。私はそれを見たとは言わないが、 暗い茶碗の内側に泡立っている鶯色の茶の中へ、白いあたたかい乳がほとばしり、 滴りを残して納まる様、静寂な茶の表がこの白い乳に濁って泡立つ様を、眼前に 見るようにありありと感じたのである。 男は茶碗をかかげ、その不思議な茶を飲み干した。女の白い胸もとはかくされた。 私たち二人は、背筋を強ばらしてこれに見入った。あとから順を追って考えると、 それは士官の子を孕んだ女と、出陣する士官との、別れの儀式であったか とも思われる。 しかしその時の感動は、どんな解釈をも拒んだ。あまり見詰めすぎたので、 いつのまにかその男女が座敷から姿を消し、あとにはひろい絨毯だけが 残されていることに、気がつくには暇がかかった。 P51 父の二つの掌が、背後から伸びてきて、目隠しをしたのである。 今もその掌の記憶は活きている。たとえようもない広大な掌。 背後から回されてきて、私の見ていた地獄を、忽ちにしてその眼から覆い隠した 掌。他界の掌。愛か、慈悲か、屈辱からかは知らないが、私の接していた 怖ろしい世界を、即座に中断して、闇の中に葬ってしまった掌。私はその掌の 中でかるくうなずいた。諒解と合意が、私の小さな顔のうなずきから、 すぐに察せられて、父の掌は外された。 そして、私は、掌の命ずるまま、掌の外されたのちも、不眠の朝が明けて、 瞼がまばゆい外光に透かされるまで、頑なに眼を閉じ続けた。 P54 母は日に焼けた顔に、小さなずるそうな落ち窪んだ目を持っていた。 唇だけは別の生き物のように赤くつやつやしており、田舎の人の頑丈な 硬い大柄な歯が並んでいた。都会の女なら厚化粧をしておかしくない 年であった。できるだけ醜くしているような母の顔が、どこか 淀みのように肉感を残しているのが、私には敏感にわかり、それを憎んだ。 、、、 納戸はすでに暗い。私の耳元に口を寄せたので、この「慈母」の汗の匂い が私のまわりに漂った。そのときの母が笑っていたのを私は憶えている。 遠い授乳の記憶、浅黒い乳房の思い出、そういう心象が、いかにも不快に 私の内を駆け巡った。卑しい野心の点火には、何か肉体的な強制力の ようなものがあって、それが私を怖れさせたのだと思われる。母のちぢれた 後れ毛が私の頬に触ったとき、薄暮の中庭の苔生した蹲の上に、私は 一羽の蜻蛉が羽を休めているのを見た。夕空はその小さな円形の水の上に 堕ちていた。物音はどこにもなく、鹿苑寺はそのとき無人の寺のように思われた。 P82 本館は古い沈鬱な赤煉瓦の二階建てである。玄関の屋根の頂に、青銅の櫓が そそり立っているが、鐘楼にしては鐘が見えず、時計台にしては時計がない。 そこでこの櫓は、か細い避雷針の下に、むなしい方形の窓で青空を 切り抜いているのである。 玄関のわきには、樹齢の高い菩提樹があって、その荘厳な葉叢むらは、日が当たると 赤銅色に照り映える。校舎は本館から建て増しに建て増しを重ね、何の秩序もなく つながっているが、多くは古い木造の平屋で、この学校では土足が禁じられているので 棟と棟とは、壊れかかった簾の子を際限もなくつらねた渡り廊下で連絡されている。 簾の子は思い出したように、壊れた部分だけが修理されている。そこで、 棟から棟へ渡ると、もっとも新しい木の色から。もっとも古い木の色に至るまでの 各種の濃淡のモザイクが、足の下に踏まれた。 P84 フレイムに塗られた青いペンキは、剥げて、毛羽立って、枯れた造花の様に捲きちじれ て いた。側らには、二三段の盆栽の棚があり、瓦礫の山があり、ヒヤシンスや桜草の 花圃もあった。クローバの草地は座るのに良かった。光はその柔らかな葉に吸われ、 こまかい影も湛えられて、そこら一帯が、地面から軽く漂っているように見えた。 座っている柏木は、歩いている時と違って、人と変わらぬ学生であった。のみならず、 枯れの蒼ざめた顔には、一種嶮しい美しさがあった。肉体上の不具者は美貌の女と 同じ不敵な美しさを持っている。不具者も、美貌の女も、見られることに疲れて、 見られる存在であることに飽き果てて、追い詰められて、存在そのもので見返している 。 見たほうが勝ちなのだ。弁当を食べている柏木は伏目でいたが、私には彼の目が 自分の周りの世界を見尽くしている事が感じられた。 彼は光の中に自足していた。この印象が私を打った。春の光や花々の中で、私の 感じる気恥ずかしさやうしろめたさを、彼の持っていないことが、その姿を見ても わかった。彼は主張している影、というよりは、存在している影そのものだった。 日光は彼の硬い皮膚から染み入らないのにちがいなかった。 音楽は夢に似ている。と同時に、夢とは反対のもの、一段と確かな覚醒の状態 にも似ている。音楽はそのどちらだろうと私は考えた。 P145 私は蜂の眼になって見ようとした。菊は一点の曇りもない黄色の端正な花弁を 広げていた。それは正に小さな金閣のように美しく、金閣のように完全だったが、 決して金閣に変貌することはなく、夏菊の花の一輪にとどまっていた。そうだ、 それは確乎たる菊、1個の花、何ら形而上的なものの暗示を含まぬ一つの形態に とどまっていた。それはこのように存在の節度を保つことにより、溢れるばかりの 魅惑を放ち、蜜蜂の欲望に相応しいものになっていた。形のない、飛翔し、流れ、 力動する欲望の前にこうして対象としての形態に身を潜めて息づいていることは、 何と言う神秘だろう。形態は徐々に希薄となり、破られそうになり、おののき 震えている。 それもそのはず、菊の端正な形態は、蜜蜂の欲望をなぞって作られたもので、 その美しさ自体が、予感に向って花開いたものなのだから、今こそは、生の 中で形態の意味がかがやく瞬間なのだ。形こそは、形のない流動する生の鋳型 であり、同時に、形のない生の飛翔は、この世のあらゆる形態の鋳型なのだ。 蜜蜂はかくて花の奥深く突き進み、花粉にまみれ、酩酊に身を沈めた。 蜜蜂を迎え入れた夏菊の花が、それ自身、黄色い豪奢な鎧を着けた蜂のように なって、今にも茎を離れて飛び立とうとするかのように、はげしく身を ゆすぶるのを私は見た。 私はほとんど光と、光の下に行われているこの営みとに眩暈を感じた。 ふとして、又、蜂の目を離れて私の眼に還ったとき、これを眺めている 私の目が、丁度金閣の目の位置にあるのを思った。それはこうである。 私が蜂の目である事をやめて私の目に還ったように、生が私に迫ってくる 刹那、私は私の目であることをやめて、金閣の目を我が物にしてしまう。 そのとき正に、私と生との間に金閣が現れるのだ、と。 私は私の目に還った。蜂と夏菊とは茫漠たる物の世界に、ただいわば 「配列されている」にとどまった。蜜蜂の飛翔や花の揺動は、風のそよぎ と何ら変わりがなかった。この静止した凍った世界ではすべてが同格であり、 あれほど魅惑を放っていた形態は死に絶えた。菊はその形態よってではなく、 我々が漠然と呼んでいる「菊」という名によって、約束によって美しいに すぎなかった。私は蜂でなかったから菊に誘われもせず、私は菊でなかったから 蜂に慕われるもしなかった。あらゆる形態と生の流動との、あのような 親和は消えた。世界は相対性の中へ打ち棄てられ、時間だけが動いていたのである。 P174 由良川は終りに近づくほどに、幾つかのうらさびしい洲を露わにした。 川水は確実に海へ近づき、潮に犯されているのだが、水の面はますます沈静に 何の兆しも浮かべていなかった。失神したままで死んでいく人のように。 河口は意外に狭い。そこに溶け合い、犯しあっている海は、空の暗い雲 の堆積に紛れ入り、不明瞭に横たわっているだけである。 私が海を触知するには、野や田畑を渡ってくる烈風に向って、なおしばらく 歩かなければならなかった。風が北の海をくまなく描いた。 こんなに厳しい風が、人の気配もない野の上に、このように浪費される のは、海のためだった。それはいわばこの地方の冬を覆っている気体の海、 命令的な支配的な見えざる海なのである。 河口のむこうに幾重にも畳まれていた波が、徐々に灰色の海面のひろがり を示した。山高帽のような形をした島が、河口の正面に浮かんできた。 それは河口から八里の冠島で、天然記念物の大みずなぎ鳥の生息地である。 、、、、 烈風は冷たく、手袋をしていない手はほとんど凍えていたが、何程の ことはなかった。 それは正しく裏日本の海だった。私のあらゆる不幸と暗い思想の源泉、 私のあらゆる醜さと力の源泉だった。海は荒れていた。波は次々とひまなく 押し寄せ、今来る波と次の波との間に、なめらかな灰色の深淵をのぞかせた。 暗い沖の空に累々と重なる雲は、重たさと繊細さを併せていた。というのは、 境界のない重たい雲の累積が、この上もなく軽やかな冷たい羽毛のような 笹縁に続き、その中央にあるかなきかのほの青い空を囲んでいたりした。 鉛色の海はまた、黒紫色の岬の山々を控えていた。全てのものに動揺と 不動と、たえず動いている暗い力と、鉱物のように凝結した感じとがあった。 P202 典座との境に立つ煤で黒光りのする柱には、あらかた変色したお札が貼られている。 火の用心 私の心に、この護符が封じ込めている囚われの火の蒼ざめた姿が見えた。 かっては華やいでいたものが、古い護符のうしろに、白くほのかに病み衰えている のが見えた。火の幻にこのごろの私が、肉欲を感じるようになっていたと言ったら、 人は信じるだろうか?私の生きる意志がすべて火に懸かっていたのであれば、肉欲も それに向うのが自然ではなかろうか?そして私のその欲望が、火のたよやかな 姿態を形作り、焔は黒光りのする柱を透かして、私に見られていることを意識して、 やさしく身づくろいをする様に思われた。 |