2016年9月30日金曜日

中空構造

日本社会は、中空構造という。中心には、何もない、という仮説を言っている。
それを心理学者の立場で、神話から読み取れるのだ、という。
学究的なアプローチではないものの、昭和時代か平成へと時代が変わっても、
それに近い事象がいくつか垣間見られる、なんとなく進む事の決定や何か生じた時の
誰も責任を取らない社会が直近でも見られる。例えば、豊洲市場トラブル、
オリンピックの大幅な予算超過、挙げればきりがないほど、散見される。
言うだけで何も結果を残さない政治が最たるものかもしれない。企業活動でも
大差はないかもしれないが。

1.「中空構造日本の深層」について、
河合隼雄氏の本である。河合氏の心理学の本は、わかりやすいこともあり、自分が
ユングやトランスパーソナルに興味を持っていることなどからよく読んだ。
彼は、ここで日本人の子供に自殺が多いこと、親子の関係が歪んでいること、父性の
失墜がはげしいこと、そうしたさまざまな社会病理に悩んでいるころ、ハイゼンベルク
とパウリの「共時性」についてなどを読んで、現代人の病理が「科学の知」とは
あいいれないはずの「神話の知」と深い関連をもっているのではないかと見て、
その「神話の知」に入りこみ、そこから日本社会の構造のルーツをさぐろうとした。
彼は言う、
「以上の考察によって、それぞれの3神は日本神話体系のなかで画期的な時点に
出現しており、その中心に無為の神を持つという、一貫した構造を持っている
ことがわかる。これを筆者は古事記神話における中空性と呼び、日本神話の
構造の最も基本的な事実であると考えるのである。日本神話の中心は、
空であり、無である。このことは、それ以後発展してきた日本人の思想、
宗教、社会構造などのプロトタイプとなっていると考えられる。
、、、、、、、
高天原にいたイザナキが根の国という低い所との接触で子供を産み、
後者においては、コノハナサクヤヒメという中つ国の住人が、高所より
降臨してきた二ニギとの接触によって子供を生んだ、という巧妙な類比関係
の存在を指摘しておいた。子らは日本神話全体にわたって見られる顕著な
傾向なのである。日本神話においては繰り返し繰り返し類似の構造を持った
話が巧妙な対比を見せながら立ち現われてくるのである。
、、、、、、、
日本の神話では正・反・合という止揚の過程ではなく、正と反は巧妙な対立と
融和を繰り返しつつ、あくまで「合」に達することがない。あくまでも、
正と反の変化が続くのである。つまり、西洋的な弁証法の論理においては、
直線的な発展のモデルが考えられるのに対して、日本の中空巡回形式においては、
正と反との巡回を通じて、中心の空性を体得するような円環的な論理構造に
なっていると考えられる。、、、
日本神話の論理は統合の論理ではなく、均衡の論理である」。

河合氏が注目したのは、「古事記」の冒頭に登場する三神タカミムスビ、
アメノミナカヌシ、カミムスビのアメノミナカヌシと、イザナギとイザナミが
生んだ三貴神アマテラス・ツクヨミ・スサノオのうちのツクヨミとが、神話の
中でほとんど無為の神としてしか扱われていないということでであった。
アメノミナカヌシもツクヨミも中心にいるはずの神である。それが無為の存在に
なっている。これはいったい何だろう、という疑問からそれは始まった。
さらに、天孫ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの間に生まれた三神は、
海幸彦ことホデリノミコト(火照命)、ホスセリノミコト(火須勢理命)、
山幸彦ことホオリノミコト(火遠命)であるのだが、兄と弟の海幸・山幸のことは
よく知られているのに、真ん中のホスセリの話は神話にはほとんど語られない。
このことから河合氏は日本神話は中空構造をもって成立しているのではないかと
推理した。簡単にいえば“中ヌキ”である。

「このようにして日本神話の構造を男性原理と女性原理の対立という観点から見ると、
どちらか一方が完全に優位を獲得することはなく、たとい、片方が優勢のごとく
見えるにしても、それは必ず他方を潜在的な形で含んでおり、直後に
カウンターバランスされる可能性をもつ形態をとったりしていることが分かる。
このため、類似のパターンを持った事象がそのうちに微妙な変化と対応を
もちながら繰り返し生じるという形式が認められるのである。これは、日本人の
特徴としてあげられる。敗者に対する哀惜感の強さ、いわゆる判官びいきの
原型となるものであろう。これはまた、先に述べた日本神話の中空性と
いうことに関連付けるならば、日本の神話においては、何かの原理が
中心を占めることがなく、それは中空のまわりを巡回していると考えられる。
つまり、類似の事象を少しづつ変化させながら繰り返すのは、中心としての
「空」の周りをまわっているのであり、永久に中心点に到達することのない
構造であると思われる。このような中空巡回形式の神話構造は日本人の
心を理解する上において、そのプロトタイプを提示しているものと
考えられるものである」という。

2.中空性をどう見るか
中空の空性がエネルギーの充満したものとして存在する、いわば有である状態
にあるときは、それは有効であるが、中空が文字どおりの無となるときは、
その全体のシステムは極めて弱いものとなってしまう。
相対立するものや矛盾するものを敢えて排除せず、共存しうる可能性をもつことは
今の特にイスラムの各地で起きている不幸を考えれば、望ましい社会意識
なのであろう。
そのような状況の中で、中空にいかにエネルギーを充満せるのは、我々の
責務なのかもしれない。

1)父性について
「確かに戦前の父は怖かったが、それは社会制度によって守られている家長としての
強さであり、個々人が厳しい父性を身につけていることによるものではなかった。
戦前の日本は母性優位の心理的状態を、父親を家長とすることによって、一種の
補償を行ってきたのであるが、敗戦後にそのような制度が壊されると、父親の弱さが
暴露され、母性優位の傾向があまりにも強くなってきたと思われる。
母性はすべてのものを全体として包み込む機能を持つのに対して、父性は物事を
切断し分離してゆく機能を持っている」。
彼は、父性と母性のバランスを考える必要があるといっている。強い父性を
復活させるという輩にとって、一考すべき事実である。

2)自意識について
「日本の昔話が伝説に近いという事実である。
小沢氏も、「日本の場合には民話と現実と離れた、純粋なおとぎ話の世界として
考えにくくて、現実の世界とおとぎ話の世界との境目が溶けあっている」と
語っている。
この点は心理学的に見れば、日本人の心性における意識と無意識の境界の
不鮮明さを反映しているように思われる。、、、、、
境界を不鮮明にして全体性を求める態度は日本人の自然に対する態度にも反映され、
それはまた昔話の中にも示されている。日本の昔話において「色彩とか四季折々の
変化、いろいろな植物、動物など一切を含んだ風景が語り手の観念のなかで重要な
地位を占めている。、、、、、
確立した自我意識にとって、自然はいかにしてそれと戦い克服していくかという
対象になる」。
民話、昔話、いずれにしろ、日本人以外をみれば、意識の違いがあるという事実だけ
は忘れるべきではない。

3)ヒットラーについて
これは中々興味深く、考えさせられた。
「ヒトラーおよびドイツ国民を動かすものとして、背後に神話が存在していること
である。ヒトラーはその神話の存在と意義について、おそらく深い自覚はなかった
であろう。ともかく、彼は神話にふさわしい道具立てや演出を好んだ。夜空に映えて
続く松明の行進は、神秘的な効果をもたらせる。彼の好みのワグナーの音楽は
神話的雰囲気をもたらすのに、正に適切なものであった。
ヒトラー自身に意識されたテーマは、「世界に冠たるドイツの国」であり、彼の
理解する「新人類」の創造であろう。それを無意識内で支えている神話については
後述するとして、ともかく、ヒトラーのこのようなイメージが彼を動かし、
ひいてはドイツ国民を動かしたことをわれわれは銘記しなくてはならない。、、、
ヴォータンは北欧神話の主神であり、「嵐と狂奔の神であり、情熱と闘争心を解き放つ
者であり、さらには優れた魔術師、幻覚の使い手」なのである。嵐と狂奔の神として
のヴォータンは、ゲルマン全土にわたって信じられている、あらしの夜にはヴォータン
の軍団が山野を駆け抜けていくという伝説に示されている。
彼が首相や指導者などというものではなく、救済者として大衆の前に立ち現われている
ということであった。彼はまさに、ゲルマンの主神としてのイメージを体現していた
のである。ゲルマンの神々はキリスト教によって地下に押し込まれ、その上に
近代合理主義という舗装を行って、すべて安泰と思われていた時、2000年近くの
眠りを破って、ヴォータンは火山の爆発のごとく、すべてを突き破って20世紀
の文明国に躍り出てきたのである。
ヒトラーはこのように考えるとき、ドイツ国民を指導する英雄などではなく、
ヴォータンの元型の作用する集団現象の上に乗っかった兆候の1つであったこと
がわかる」。
さらには、
「現代人と言えども、神話の力に対してはまだまだよわいものなのである。
現在の不況や沈滞ムードの中で、若者たちは英雄の出現を待望するものと、
英雄の末路をすでに知る故に感じるシラケとに2極分解を起こしている
のが実情であろう。、、、シラケよりは英雄待望の方が望ましい、と思う人もあろう。
しかし、その英雄は真の英雄でなければならない。集団心理によって倫理性を
希薄にされ、唯一の神話元型によって正当化された単層構造の集団の動きに対して
それがいかに凄まじいものであれ、せめてわが身1つの重みであれ、それに抗する
者として立ち向かうモノこそが英雄はないだろうか。そのとき、集団の動きに抗する
個人を支えるものとして、その個人の内奥にいかなる神話が存在するかが
問われることになろう。このとき、われわれは合理精神のみによって戦える
ものではないことは、ヒトラーの映画が如実に示してくれている。
このような強さを持つためには、われわれはもっと自らの神話を探る努力を
いたさねばならないのではなかろうか」。

独裁というものが概ね人々を苦しめる方向に進めるものではあるが、「なんとなく
ぼやーと進む日本社会」が必ずしもいいとは言えない。
中空構造が良い面も悪い面も併せ持つものであり、弱い面だけを強調し、言い訳の
1つとせず、協調のあるバランスの取れた社会にしていきたいものである。

ーーーーーーーー



日本人の子供に自殺が多いこと、親子の関係が歪んでいること、父性の失墜が
はげしいこと、そうしたさまざまな社会病理に悩んでいるころ、マーク・ヴォネガット
の『エデン特急』とハイゼンベルクとパウリの『共時性をめぐる対話』を読んで、
現代人の病理が「科学の知」とはあいいれないはずの「神話の知」と深い関連を
もっているのではないかと見て、その「神話の知」に入りこみ、そこから日本社会
の構造のルーツをさぐろうとした。

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以上の考察によって、それぞれの3神は日本神話体系のなかで画期的な時点に
出現しており、その中心に無為の神を持つという、一貫した構造を持っている
ことがわかる。これを筆者は古事記神話における中空性と呼び、日本神話の
構造の最も基本的な事実であると考えるのである。日本神話の中心は、
空であり、無である。このことは、それ以後発展してきた日本人の思想、
宗教、社会構造などのプロトタイプとなっていると考えられる。

高天原にいたイザナキが根の国という低い所との接触で子供を産み、
後者においては、コノハナサクヤヒメという中つ国の住人が、高所より
降臨してきた二ニギとの接触によって子供を生んだ、という巧妙な類比関係
の存在を指摘しておいた。子らは日本神話全体にわたって見られる顕著な
傾向なのである。日本神話においては繰り返し繰り返し類似の構造を持った
話が巧妙な対比を見せながら立ち現われてくるのである。


イザナキ、イザナミの結婚において男性が先に言葉を発することで、男性の
優位を示しているようだが、ヒルコを廃してヒルメを立てるところは、むしろ
女性原理の優位性をかんじさせる。つまり、どちらか一方が優位になって
しまうことはなく、必ずその後にカウンターバランス作用が生じるのである。
、、、、
このようにして日本神話の構造を男性原理と女性原理の対立という観点から見ると、
どちらか一方が完全に優位を獲得することはなく、たとい、片方が優勢のごとく
見えるにしても、それは必ず他方を潜在的な形で含んでおり、直後に
カウンターバランスされる可能性をもつ形態をとったりしていることが分かる。
このため、類似のパターンを持った事象がそのうちに微妙な変化と対応を
もちながら繰り返し生じるという形式が認められるのである。これは、日本人の
特徴としてあげられる。敗者に対する哀惜感の強さ、いわゆる判官びいきの
原型となるものであろう。これはまた、先に述べた日本神話の中空性と
いうことに関連付けるならば、日本の神話においては、何かの原理が
中心を占めることがなく、それは中空のまわりを巡回していると考えられる。
つまり、類似の事象を少しづつ変化させながら繰り返すのは、中心としての
「空」の周りをまわっているのであり、永久に中心点に到達することのない
構造であると思われる。このような中空巡回形式の神話構造は日本人の
心を理解する上において、そのプロトタイプを提示しているものと
考えられるものである。

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日本の神話では正・反・合という止揚の過程ではなく、正と反は巧妙な対立と
融和を繰り返しつつ、あくまで「合」に達することがない。あくまでも、
正と反の変化が続くのである。つまり、西洋的な弁証法の論理においては、
直線的な発展のモデルが考えられるのに対して、日本の中空巡回形式においては、
正と反との巡回を通じて、中心の空性を体得するような円環的な論理構造に
なっていると考えられる。、、、
日本神話の論理は統合の論理ではなく、均衡の論理である。

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確かに戦前の父は怖かったが、それは社会制度によって守られている家長としての
強さであり、個々人が厳しい父性を身につけていることによるものではなかった。
戦前の日本は母性優位の心理的状態を、父親を家長とすることによって、一種の補償を
行ってきたのであるが、敗戦後にそのような制度が壊されると、父親の弱さが
暴露され、母性優位の傾向があまりにも強くなってきたと思われる。
、、、、
母性はすべてのものを全体として包み込む機能を持つのに対して、父性は物事を
切断し分離してゆく機能を持っている。


『古事記』の冒頭に登場する三神タカミムスヒ・アメノミナカヌシ・カミムスヒ
のアメノミナカヌシと、イザナギとイザナミが生んだ三貴神アマテラス・ツクヨミ・
スサノオのうちのツクヨミとが、神話の中でほとんど無為の神としてしか扱われて
いないということである。
アメノミナカヌシもツクヨミも中心にいるはずの神である。それが無為の存在になっ
ている。これに疑問をもった。
もうひとつ、典型的な例がある。天孫ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの間に生
まれた三神は、海幸彦ことホデリノミコト(火照命)、ホスセリノミコト
(火須勢理命)、山幸彦ことホオリノミコト(火遠命)であるのだが、兄と弟の
海幸・山幸のことはよく知られているのに、真ん中のホスセリの話は神話
にはほとんど語られない。

ところで河合は日本の深層が中空構造をもっていることを、必ずしも肯定しているの
ではない。そこには長所と短所があると言っている。
 そこで、こんなふうに説明した。

[1]中空の空性がエネルギーの充満したものとして存在する、いわば無であって有で
ある状態にあるときは、それは有効であるが、中空が文字どおりの無となるときは、そ
の全体のシステムは極めて弱いものとなってしまう。
[2]日本の中空均衡型モデルでは、相対立するものや矛盾するものを敢えて排除せず
、共存しうる可能性をもつのである。
 結局、河合はこのような推理のうえで、日本が中空構造に気がつかなかったり、そこ
にむりやり父性原理をもちこもうとすることに警鐘を鳴らした。

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日本の昔話が伝説に近いという事実である。
小沢氏も、「日本の場合には民話と現実と離れた、純粋なおとぎ話の世界として
考えにくくて、現実の世界とおとぎ話の世界との境目が溶けあっている」と語っている
。
この点は心理学的に見れば、日本人の心性における意識と無意識の境界の
不鮮明さを反映しているように思われる。、、、、、
境界を不鮮明にして全体性を求める態度は日本人の自然に対する態度にも反映され、
それはまた昔話の中にも示されている。日本の昔話において「色彩とか四季折々の
変化、いろいろな植物、動物など一切を含んだ風景が語り手の観念のなかで重要な
地位を占めている。、、、、、
確立した自我意識にとって、自然はいかにしてそれと戦い克服していくかという
対象になる。



131
ミヒャエル・エンデの「モモ」、時間泥棒と盗まれた時間を人間に取り返してくれた
女の子の不思議な物語という本のはなし。
社会全体の管理と画一化が進み、たとえば、日本中の人が同じ時刻に起床、同じ朝食
をたべ、同じ服を着るようにする、ということにでもなれば、多くの人は必死に
ていこうするであろう。


227
ヒトラーおよびドイツ国民を動かすものとして、背後に神話が存在していること
である。
ヒトラーはその神話の存在と意義について、おそらく深い自覚はなかったであろう。
ともかく、彼は神話にふさわしい道具立てや演出を好んだ。夜空に映えて続く松明の
行進は、神秘的な効果をもたらせる。彼の好みのワグナーの音楽は神話的雰囲気
をもたらすのに、正に適切なものであった。ヒトラー自身に意識されたテーマは、
「世界に冠たるドイツの国」であり、彼の理解する「新人類」の創造であろう。それを
無意識内で支えている神話については後述するとして、ともかく、ヒトラー
のこのようなイメージが彼を動かし、ひいてはドイツ国民を動かしたことを、
われわれは銘記しなくてはならない。、、、
ヴォータンは北欧神話の主神であり、「嵐と狂奔の神であり、情熱と闘争心を解き放つ
者であり、さらには優れた魔術師、幻覚の使い手」なのである。嵐と狂奔の神として
のヴォータンは、ゲルマン全土にわたって信じられている、あらしの夜にはヴォータン
の軍団が山野を駆け抜けていくという伝説に示されている。
彼が首相や指導者などというものではなく、救済者として大衆の前に立ち現われている
ということであった。彼はまさに、ゲルマンの主神としてのイメージを体現していた
のである。ゲルマンの神々は
キリスト教によって地下に押し込まれ、その上に近代合理主義という舗装を行って、
すべて安泰と思われていた時、2000年近くの眠りを破って、ヴォータンは
火山の爆発のごとく、すべてを突き破って20世紀の文明国に躍り出てきたのである。
ヒトラーはこのように考えるとき、ドイツ国民を指導する英雄などではなく、
ヴォータンの元型の作用する集団現象の上に乗っかった兆候の1つであったこと
がわかる。

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現代人と言えども、神話の力に対してはまだまだよわいものなのである。
現在の不況や沈滞ムードの中で、若者たちは英雄の出現を待望するものと、
英雄の末路をすでに知る故に感じるシラケとに2極分解を起こしている
のが実情であろう。、、、シラケよりは英雄待望の方が望ましい、と思う人もあろう。
しかし、その英雄は真の英雄でなければならない。集団心理によって倫理性を
希薄にされ、唯一の神話元型によって正当化された単層構造の集団の動きに対して
それがいかに凄まじいものであれ、せめてわが身1つの重みであれ、それに抗する
者として立ち向かうモノこそが英雄はないだろうか。そのとき、集団の動きに抗する
個人を支えるものとして、その個人の内奥にいかなる神話が存在するかが
問われることになろう。このとき、われわれは合理精神のみによって戦える
ものではないことは、ヒトラーの映画が如実に示してくれている。
このような強さを持つためには、われわれはもっと自らの神話を探る努力をいたさねば
ならない
のではなかろうか。




 すごいタイトルである。日本の本質は中空構造にあるのではないか、中心はカラッポ
なのではないかというメッセージを直裁に突き出したタイトルである。
 このタイトルを見たとき、この手の日本論に関心がある者は、誰もがロラン・バルト
の『表徴の帝国』を思い出した。バルトは日本に関する乏しい知識にもかかわらず、東
京のど真ん中に皇居があることを見て、ただちに日本の中心が穿たれていることを喝破
したものだった。もっともたいした説明はしていない。
 しかし、河合隼雄はロラン・バルトに触発されたのではなかったようだ。日本人の子
供に自殺が多いこと、親子の関係が歪んでいること、父性の失墜がはげしいこと、そう
したさまざまな社会病理に悩んでいるころ、マーク・ヴォネガットの『エデン特急』と
ハイゼンベルクとパウリの『共時性をめぐる対話』を読んで、現代人の病理が「科学の
知」とはあいいれないはずの「神話の知」と深い関連をもっているのではないかと見て
、その「神話の知」に入りこみ、そこから日本社会の構造のルーツをさぐろうとした。
これが河合の入力方法だった。
 日本の「神話の知」は日本神話の中にあるはずである。けれども多くの日本神話研究
を読んでも、現代の日本人の病理にかかわるような問題は出てこない。そこで河合は自
分なりに日本神話の謎解きにかかわっていく。その謎解きのひとつの結論が本書となっ
た。最初は『中央公論』や『文学』に発表された論文だった。

 なぜ河合が日本神話に関心をもったかということは、本書にのべられている。
 臨床家をめざす河合は心理療法をマスターするためにヨーロッパに学びに行くのであ
るが、それをもちかえって日本人にあてはめてみると、なるほどある程度は適用が効く
ものの、かんじんのところが日本人にはあてはまらない。どうも日本人の心のありかた
が西洋人とは異なっている。
 そこでしだいに日本人全体の心の深層構造を知りたくなって、だんだん日本神話に関
心をもち、その深みにはまっていったというのである。

 ごくかんたんにいうと、河合が注目したことは、『古事記』の冒頭に登場する三神タ
カミムスビ・アメノミナカヌシ・カミムスビのアメノミナカヌシと、イザナギとイザナ
ミが生んだ三貴神アマテラス・ツクヨミ・スサノオのうちのツクヨミとが、神話の中で
ほとんど無為の神としてしか扱われていないということである。
 アメノミナカヌシもツクヨミも中心にいるはずの神である。それが無為の存在になっ
ている。これはいったい何だろう、おかしいぞという疑問だった。
 もうひとつ、典型的な例がある。天孫ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの間に生
まれた三神は、海幸彦ことホデリノミコト(火照命)、ホスセリノミコト(火須勢理命
)、山幸彦ことホオリノミコト(火遠命)であるのだが、兄と弟の海幸・山幸のことは
よく知られているのに、真ん中のホスセリの話は神話にはほとんど語られない。
 このことから河合は日本神話は中空構造をもって成立しているのではないかと推理し
た。簡単にいえば“中ヌキ”である。この推理はいささか性急なものであるが、当時の
ぼくには、このような直観的な見方こそがある種の本質をつけることがありうると見え
た。
 河合は書いてはいないが、神話構造だけではなくて、日本には多くの中空構造がある
。だいたい神社がそうなっている。神社というものは中心に行けばいくほど、何もなく
なっていく。一応は中心に魂匣(たまばこ)のようなものがあるのだが、そこにはたい
ていは何も入っていないか、適当な代替物しか入っていない。また、鏡があるが、これ
はまさに反射するだけで、そこに神という実体がない。そればかりか、そもそも日本の
神々は常住すらしていない。どこからかやってきて、どこかへ帰っていく訪問神なので
ある。折口信夫が客神とかマレビトと呼んだほどだった。
 古代において井戸が重視されていたこと、死者を葬るのは山中他界といって山の途中
であったこと、宮中というものが大極殿と内裏に分かれてしまっていること、こうした
ことも日本の社会構造や文化構造に中心が欠けていることを暗示する。
 そのようなことはぼくも以前から感じていたのだが、そこを河合は『古事記』の叙述
にひそむ神話的中空構造としてズバリ抜き出したのだった。

 その後、この中空構造論は本気で議論されてはいない。理由はよくわからないが、あ
まりにも当然のことだと見えたのか、研究上の議論にはならないと見えたのか、それと
も河合がその後はあまりこの話をしなくなったせいかとおもわれる。しかし、ぼくはこ
の議論をもっとしたほうがいいと思っている。
 なぜそのように思うかということは、すでに『花鳥風月の科学』(淡交社)にも『遊
行の博物学』(春秋社)にも、また『日本流』(朝日新聞社)、『日本数寄』(春秋社
)にも書いた。日本の祭りの構造やウツロヒの問題、あるいは床の間や民家構造や書院
の意味、さらには歌合わせ・連歌・枯山水といったことを説明するには、どこかで中心
がウツである文化のしくみにふれるべきであると思われるからだ。
 ただし、日本は中空構造をもっているとともに実は多中心構造でもあるとも考えるべ
きである。日本が一つの中心をもったことはない。都が頻繁に遷都されてきたように、
中心はよく動く。中心はうろつきまわる。天皇すら南北朝がそうであったように、二天
をいただくことがある。天皇家と将軍家の並立もある。中心は穿たれているとしても、
そこは複合的なのである。そうも言うべきなのだ。そのあたりについては本書ではふれ
られていない。

 ところで河合は日本の深層が中空構造をもっていることを、必ずしも肯定しているの
ではない。そこには長所と短所があると言っている。
 そこで、こんなふうに説明した。

[1]中空の空性がエネルギーの充満したものとして存在する、いわば無であって有で
ある状態にあるときは、それは有効であるが、中空が文字どおりの無となるときは、そ
の全体のシステムは極めて弱いものとなってしまう。
[2]日本の中空均衡型モデルでは、相対立するものや矛盾するものを敢えて排除せず
、共存しうる可能性をもつのである。

 結局、河合はこのような推理のうえで、日本が中空構造に気がつかなかったり、そこ
にむりやり父性原理をもちこもうとすることに警鐘を鳴らした。
 中空構造仮説が独創的であるわりには、この警鐘はふつうすぎるところがあるが、ぼ
くとしてはこの議論をひとまず継承するところから、日本社会を史的に問題にしていく
ことを勧めておきたい。


参考¶河合隼雄の著述はわかりやすくて、示唆に富むものが多い。いいかえれば少しラ
フである。しかし、そのような書きっぷりがかえって有効なのだとおもいたい。とくに
物語構造と心理構造の関係をめぐる著述は、なかなか示唆に富む。本書については、姉
妹篇に『母性社会日本の病理』(中公叢書)があり、本書と併読できるようになってい
る。

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