2016年9月21日水曜日

城跡をめぐる

この志賀周辺には、15か所ほどの城跡があるという。半分が山城であり、
あとは昔の村ごとに湖辺近くに建っていたようだ。だが、今はいずれもその影
すら見えない。ほとんどが織田信長の比叡山攻めのときに消えた。
城跡歩きはなぜか秋の終わりから冬近くまでが似合う。秋の持つ侘しさと城
としての滅び消えた時の流れが心に同期するからなのだろう。
北小松と比良の平城跡をめぐるが、わずかな残滓が見られるだけであった。

まさにこれは「春 望  <杜 甫>」の世界かもしれない。
國破れて 山河在り 城春にして 草木深し
時に感じて 花にも涙を濺ぎ 別れを恨んで 鳥にも心を驚かす
峰火 三月に連なり 家書 萬金に抵る
白頭掻いて 更に短かし 渾べて簪に(すべてしんに)勝えざらんと欲す

戦乱によって都長安は破壊しつくされたが、大自然の山や河は依然として変わらず、
町は春を迎えて、草木が生い茂っている。時世のありさまに悲しみを感じて、
(平和な時は楽しむべき)花を見ても涙を流し、家族との別れをつらく思っては、
(心をなぐさめてくれる)鳥の鳴き声を聞いてさえ、はっとして心が傷むのである。
うちつづく戦いののろしは三か月の長きにわたり、家族からの音信もとだえ、
たまに来る便りは万金にも相当するほどに貴重なものに思われる。
心労のため白髪になった頭を掻けば一層薄くなり、まったく冠を止める簪(かんざし)
もさすことができないほどである。

北小松の集落は、伊藤城(小松城跡)があったとされ、その石の水路の
織り成す城下の面影が残っている。細い国道を少し湖側に入り込むと、
白壁と大きな松にかたどられた瓦屋根の家々がその姿をとどめている。
戦国期の土豪である伊藤氏の館城、平地の城館があった。
北小松集落の中に位置し、「民部屋敷」「吉兵衛屋敷」「斎兵衛屋敷」
と呼ばれる伝承地があるが、多くはただの空き地と往年の面影さえ残っていない。
湖岸にほど近く、かっては水路が集落内をめぐりこの城館も直接水運を
利用したであろうし、その水路が防御的な役割を演じていたであろう。
街は静かに秋の陽に照りかえっていた。この足音さえ、幾重にも伸びている
溝や石垣の堅牢な造りと苔生したその中に吸い込まれていくようだ。
何百年の時を感じる、そんな小景が彼の眼に映り込む。

苔むした川は、三面水路で造られ、春ともなると小鮎がいくつ
もの群を作り遊びに興じており、石畳の道、そこにも黄緑色の苔
が顔を見せている。すでに人気を感じない「かわと」がひょこりと
叢の枯れた部分から顔を見せる。少し前まで、家の中に比良の
湧き水が川となりその川の水を引き込み生活用水として利用していた。
山からの湧水が小川となり、それがこの街を幾重にも重なりつながり
ながら静かな水の流れを作り上げてもいる。彼方此方にその残滓は
残っているが、多くは数段の石積みが川に延びた状態で、今は
ほとんど使われていないようだ。水はこの地の案内役だ。
水の流れに沿って歩けば、家々の間に透かすかのように顔を出す湖の碧さと
白地の強い砂浜がある。白壁にやや色の褪せた板塀の家の横を、少し行けば
やがて小松漁港に出る。まだそこには石造りの防波堤や港周辺の様々な造り
に石が上手く使われて、苔むした石垣は時代の長さを感じさせる。
かってはこの地が水運の街であったことをそれとなく教えてくれる。
白く広がる砂と青く光る湖を先にたどれば、薄雲の中に沖ノ島が卵を半分に
来たような形で浮いていた。
彼はそこで頬に風を感じるが、思えば、1人の人とも会わなかった。
始めてそれに気づく自分がいた。

山城や砦あるいは平地の館城跡など、滋賀県下の城郭総数はおよさ1300箇所
にも上るいうが、彦根城や大溝城あるいは膳所城など、近世城郭として確立した
遺跡は数箇所にすぎず、大多数の城郭が中世後期の室町時代の後半から戦国期
にかけて築かれたことが知られている。
この伊藤氏の城もそうであり、少し足を延ばした比良でもその盛衰は同じような
モノであろう。
この戦国時代は応仁の乱辺りから本格化し、元亀天正年間頃(1570~92)
に終息するころから、15世紀後半から16世紀後半までの100有余年の短い
期間に築かれたものであることが分かる。
城郭遺構とは、四周に土塁や堀、帯郭あるいは犬走りなどを設けて、戦闘に
備え防御する施設である。通常さらに外回りを、堀切や竪堀あるいは切り岸や石垣
時には武者隠しなどによっていっそう堅固なものにしている。現況からはほとんど
土からなる城と思われているが、今は朽ちて認め難い板塀や竹矢来、あるいは
木梯子や木樋、竹樋さらには小屋や櫓や屋敷などの多様な建築物があったに違いない。
城の出入口である木戸も、次第に虎口として複雑な構造をとるようになった。
だが、この地域の城跡はそのような構造を確認できるものは残っていない。

湖岸に田中坊城(北比良城、福田寺城)が館城として存在し、平地には西近江路
に面して同じく比良城が館城としてある。
湖岸近くに館城である南比良城があり、その詰城として野々口山城がある。
両者の間は約2キロである。ただ比良城ー田中坊城ー南比良城はほぼ
一直線上にあったという。
旧北国街道に面する木戸城もしくは荒川城が平地館城となり、歓喜寺城がこれらの
詰城である。


第1期は大規模な土塁を削り出し方法で屋敷を城塞化した時期であり、1520
年頃から起きた足利氏、佐々木六角氏、伊庭氏などの抗争の激化に対応した。
第2期は浅井氏や信長の侵攻が活発化し、本格的な山城の築城と合わせた
平地館城との連携が必要となった1540年代以降である。

比良城は北比良の森前に存在したと伝えられる。湖西地域を南北にはしる北国街道
がこの場所で折れ曲がっている。街道を挟み、樹下神社が隣接している。在所の
古老にもこの場所に城があったとの伝承が残っている。北比良村誌によると
「元亀二辛未年九月織田信長公延暦寺を焼滅の挙木村の山上山下に之ある全寺の別院
より兵火蔓延して」とあり、この時期他の城郭と同様破滅したしたものであろう。
比良には、比良城、南比良城、北比良城があったとされる。
南比良城は、本立寺より数100メートル西北西とされるが特定できていない。
北比良城は、比良樹下神社天満宮から湖側に進んだ福田寺にあったとされ、
境内には城跡の石碑が建っている。詳細は不明。



ーーーー

これらの城郭遺構を構造的、機能的に類型化していく。
南北に細長い比良山麓での、民衆の日常における生業活動は、水系を軸にして
河川ごとにまとまっている。この視点で城郭群をみると、やはり湖岸、平地、
山麓、山頂と一直線上にまとまりを示している。これを町域の北から
地域区分によって示すと以下のようになる。
1)地域1
湖岸に複郭式の平地館城である伊藤氏城が営まれていた。そしてこれと対に、
背後の山上に涼峠山城が築かれる。この山城の位置は、小松から高島の背後を
経て朽木方面へ通じる山道に面する。なお、両城郭の間は山そでが迫って
平地はなく、伊藤氏城のごく背後山中には城郭はない。このような伊藤氏城
(小松城、湖岸)-涼峠山城の関係をもって小松地域を設定する事が可能である。
2)地域2
湖岸に田中坊城(北比良城、福田寺城)が館城として存在し、平地には西近江路
に面して同じく比良城が館城としてある。この地域では背後の山城はないが
二つの平地館城の対の役目のような形で、ダンダ坊城がある。
ここに山寺城ー里坊城の関係が見出される。
3)地域3
湖岸近くに館城である南比良城があり、その詰城として野々口山城がある。
両者の間は約2キロである。ただ比良城ー田中坊城ー南比良城はほぼ
一直線上にあり、野々口山城、歓喜寺山城ー歓喜寺城が扇形となって
展開していた事もありうる。
4)地域4
旧北国街道に面する木戸城もしくは荒川城が平地館城となり、歓喜寺城がこれらの
詰城である。木戸城を扇の要にして、背後の南北位置に歓喜寺山城と木戸山城
を配置して展開したとも考えられる。また、木戸城は木戸十乗坊の城と言う
伝承もある。
5)地域5
湖岸の木戸城と詰城の木戸山城と対と考えられる。

町域南部では、その城郭群の構成が不明であるが、南部では木戸川と比良川の
間に10城が密集しているが、比良川から鵜川までには2城しかなくかなりの
不均等さを見せる。
その理由として以下の点が考えられる。
①平地の館城と背後の詰城といった戦国期の単純な構成をとらず、両城郭の間の
山麓付け根に館城を構築する事。これらは比良の大規模山岳寺院に隣接して
平地館城を元に山容あわせた山寺城とした。
②山岳寺院内の館城と対をなす詰城が背後の山頂部に築城されている。
歓喜寺山城や野々口山城に見られる。これは他の地域では見られない特質である。
③比良山麓付け根に築かれていた山岳寺院が平地や湖岸に寺坊を移し、肥大化
変質する寺院経済の運営に利便を図った。田中坊城がそれである。
④主戦場となる歴史的な経緯があり、それへの対処として行われた。
⑤各城郭の築造が幾つかの時期に行われたため、多くの城郭が造られた。

城築城の年代は白の出入り口の虎口の構造の複雑さと土塁の完成度によるとされる。
さらに築城の契機により本町域の勢力分布も推定が可能となる。
この点から北小松の伊藤氏の勢力は増して来たことが考えられる。
複郭式の館城群を営み、北小松の港を抱え湖上交通の掌握、さらに比良山麓から
朽木方面への山路の監視などからそれがうかがえる。
なお、城郭機構の特徴から本町域での城郭は二期に別れて発達したと思われる。
第1期は大規模な土塁を削り出し方法で屋敷を城塞化した時期であり、1520
年頃から起きた足利氏、佐々木六角氏、伊庭氏などの抗争の激化に対応した。
第2期は浅井氏や信長の侵攻が活発化し、本格的な山城の築城と合わせた
平地館城との連携が必要となった1540年代以降である。


①寒風峠の遺構(北小松、山腹にあり、現在林)
②涼峠山城(北小松、山腹、林)
③伊藤氏城または小松城(北小松、平地、宅地や田、堀切土塁あり)
④ダンダ坊城(北比良、山腹、林)
⑤田中坊城(北比良、湖岸、福田寺)
⑥比良城(比良、平地、宅地)
⑦南比良城(南比良、湖岸、宅地)
⑧野々口山城(南比良、山頂、林)
⑨歓喜寺城(大物、山腹、林)
⑩歓喜寺山城(大物、尾根、林)
⑪荒川城(荒川、平地、宅地や墓地)
⑫木戸城(木戸、湖岸、宅地)
⑬木戸山城、城尾山城とも言う(木戸、尾根、林)
⑭栗原城(栗原、不明、宅地)
⑮高城(和邇、不明、宅地)


志賀町史第4巻からは、
1)小松城跡
戦国期の土豪である伊藤氏の館城、平地の城館跡である。現在の北小松集落の中
に位置し、「民部屋敷」「吉兵衛屋敷」「斎兵衛屋敷」と呼ばれる伝承地が残る。
当該地は町内でも最北端の集落で、湖岸にほど近く、かっては水路が集落内をめぐり
この城館も直接水運を利用したであろうし、その水路が防御的な役割を演じて
いたであろう。
旧小松郵便局の前の道は堀を埋めたもので、その向かいの「吉兵衛屋敷」の道沿い
には、土塁の上に欅が6,7本あったと言う。また、民部屋敷にも、前栽の一部に
なっている土塁の残欠があり、モチの木が植えられている。土塁には門があり、
跳ね橋で夜は上げていたと伝えられる。

2)比良城跡
比良城は北比良の森前に存在したと伝えられる。湖西地域を南北にはしる北国街道
がこの場所で折れ曲がっている。街道を挟み、樹下神社が隣接している。在所の
古老にもこの場所に城があったとの伝承が残っている。北比良村誌によると
「元亀二辛未年九月織田信長公延暦寺を焼滅の挙木村の山上山下に之ある全寺の別院
より兵火蔓延して」とあり、この時期他の城郭と同様破滅したしたものであろう。
比良には、比良城、南比良城、北比良城があったとされる。
南比良城は、本立寺より数100メートル西北西とされるが特定できていない。
北比良城は、比良樹下神社天満宮から湖側に進んだ福田寺にあったとされ、
境内には城跡の石碑が建っている。詳細は不明。

3)歓喜寺城跡
大物の集落より西の比良山の山中に天台宗の古刹天寧山歓喜寺跡がある。今では
そこに薬師堂だけが残り、わずかに往時ここが寺であった事を偲ばせる。
歓喜寺城は比良山麓に営まれた比良三千坊の1つである天寧山歓喜寺跡の前面
尾根筋上に営まれた「土塁持ち結合型」平地城館である。
この遺構は三条のとてつもなく大きい深い堀切によって形成され、北側の中心主郭
はきり残された土塁を基に四周を囲郭し、この内側裾部や内側法面に石垣積みが
認められる南側の郭は北に低い土塁が残り、近世になって修復、改造がなされた
と思われる。また、背後、前面の歓喜寺山に山城が築かれており、L字状の土塁や
北東を除く三方には掘り切りなどが認められる。

4)荒川城跡
荒川城は荒川の城之本と言うところにあったとされる。この城に関しての
文献資料はほとんど見当たらないが、絵図が残っており、それには城之本の地域の中に
古城跡と書かれている。また、ここの城主が木戸十乗坊という記録があり、
同氏は木戸城の城主でもあり、木戸城の確定とともに確認をする必要がある。

5)木戸山城跡
現在の木戸センターより西北西の比良山中腹の尾根部分にあったとされる。この地域は
古くから大川谷に沿って西に向かい、木戸峠より葛川の木戸口や坊村にいたる木戸
越えの道が通る。このため、この城の役目は木戸越えの道の確保であったとも推測され
る。城としては、堀切りを設け、東を除く三方に土塁を築いていた。
しかし、この城も「元亀三年信長滅ぼす、諸氏山中に隠れる」とあり、その時に
破壊されたのかもしれない。



滋賀県中世城郭分布調査報告書9にも記述あり。


だが、街を囲むように続いている散歩道から一歩山側に足を向ければ、そこは
まだ人の影が見えない世界である。鬱蒼たる笹の葉におおわれた地面に
いくつもの気が寄り添い、多くのつる草を身にまとい、薄暗き別の世界を
世界を作り出している。
比良山麓といっても、様々な木々が育ち、群れを成している。
多く見られるのは、いま彼の行く手にも多く見られるブナの木々である。
絶えず緑のマントを着るか如く四季を通じてその葉は落ちない。
高さ10メートルほどのもので、太さも1メートルもある樹がミズナラや
アシウスギとともに一面を支配している。それにかしづくような形で、ツツジ
系草花のイブキザサ、アクシバイワカガミなどが入り乱れるように我が身を
見せ、コアアジサイ、クロモジ、タンナサワフタギが地表を埋め尽くしている。
少し目を上げれば、渓谷斜面にはフサザクラ、チドリノキ、トチノキ、
ミズキなどの落葉樹の群れが湿生林を形作っている。

当然彼を含め多くの人がこれらの名前を知っているとは思えないが、その
様相から人の顔かたちの違いと同じ様なものと思っているのであろうか、
時になくオオルリのポピーリ、ピーリ、ピースと啼く声にあわせ、薄明るさの
中に立ちこめる木々の姿を見ている。
今、彼が進む中は、覆いかぶさるように茂るカエデやクスノキ、コナラなどが
支配する世界であり、ヤマドリゼンマイやシモツケソウ、トキソウが時には
小さなピンクの花をつけ地面近くを支配していた。
その世界を切り裂く様に、一直線に土と小石のある山道が奥へと伸びている。
そんな世界をかき分け、まだ残る陽射しを強さを感じながら、彼は道の水溜りを
気にしながら歩いている。時に近寄る秋の気配を、その空気、その風、
木々の小枝のさざめき、通り過ぎるヤマガラ、シジュウカラのさえずり、
から感じつつ、比良山に向かうが形で進んでいた。

このような山道を歩くのは、初めてかもしれないが、彼の遠くおぼろげな
記憶の中には、なぜか懐かしさのような感情が伴っていた。
遠くからアオゲラのキョッ、キョッと甲高い鳴き声がチャトたちを後押しする
かのように聞こえてくる。時折、その方向に目を向けるが、その姿は確認
出来ない。やがて、それらの音をかき消すかのように力強い水音が木々の間から
聞こえてくる。山道が厚い茂みに消されたような場所を右に曲がったときに
それは見えた。両側から笹が、その黄緑の葉を茂らしている真ん中を銀色に
光る水が勢いよく走っていた。少し上の苔に覆われた石には、ミソサザイが
チリチリチリという震え声で啼いている。笹の間をぬうようにして、1つ要領の
分からない彼は笹の葉をかき分けるように進んでいく。

小さな雲の塊があたりにいくつもの陰を落としながら走りすぎていく。
かなたの山麓に指す光はすすけている。強い陽射しののせいではなく、
前方に横たわる拾い空間のせいだ。彼は頭の中で、深い緑に取り込まれた人の
姿と、そして、その中間にあるはずの様々な人やものに想いをはせた。
彼の知らない、だから、想像するしかないたくさんのものを思い描いた。
道路、畑、森、街そして、隣人も含む大勢の人びと。その全てがつながっている
と思った。ジックリと考える必要など毛頭ない。理由をつける必要もない。
ふと止めたその先には、木洩れ日にその光りを映えるように水面を見せている
渓流の淀みがあった。それは池と言うには大きすぎるが、周りの木々と
斜めに差し込む光の中で映える水面はさざなみ一つなく鏡のような表を見せ、
湿潤な場所に咲くオオイタヤメイゲツの木々とともに、斜めにさす光りがスポット
ライトの様に水面を照らし、緑と水の舞台を作り上げている様でもある。





二十四節気「処暑(しょしょ)」

・綿柎開(わたのはなしべひらく)8月23日頃
綿を包むガクが開き始める頃。綿の実がはじけ白いふわふわが顔をのぞかせた様子。
→すだち、綿花。かさご。
・天地始粛(てんちはじめてさむし)8月28日頃
天地の暑さがようやくおさまり始める頃。「粛」は縮む、しずまるという意味です。
野分のわき。
→ぶどう。ぐち。
・禾乃登(こくものすなわちみのる)9月2日頃
いよいよ稲が実り、穂を垂らす頃。「禾」は稲穂が実ったところを表した象形文字。
→無花果いちじく、きんえのころ。まつむし。鰯。

二十四節気「白露(はくろ)」

・草露白(くさのつゆしろし)9月7日頃
草に降りた露が白く光って見える頃。朝夕の涼しさが際立ってきます。
→秋の七草(萩、すすき、葛、なでしこ、おみなえし、藤袴、桔梗)。島鯵。
秋の野に咲きたる花を指および折り かき数ふれば七種ななくさの花 山上憶良
・鶺鴒鳴(せきれいなく)9月12日頃
せきれいが鳴き始める頃。せきれいは日本神話にも登場し、別名は「恋教え鳥」。
→梨、オシロイバナ(夕化粧ともいう)。あわび。鶺鴒せきれい チチィとなく。
・玄鳥去(つばめさる)9月17日頃
燕が子育てを終え、南へ帰っていく頃。来春までしばしのお別れです。
→鶏頭、なす。昆布。


俳句 秋
風雲や時雨をくばる比良おもて  大草
夕焼けの比良を見やりつ柿赤し  惣之助
楊梅の瀧見失う船の秋      虚子
有明や比良の高根も霧の海    白堂
名月やひそかに寒き比良が嶺   歌童

和歌  秋
・ち早ふる比良の御山のもみぢ葉に
 ゆうかけわたすけさの白雲    安法
・宿りするひらの都の仮庵に
 尾花みだれて秋風ぞ吹く     光俊朝臣
・小浪や比良の高嶺の山おろしに
 紅葉を海の物となしたる     刑部卿範

0 件のコメント:

コメントを投稿