2016年9月5日月曜日

この国のかたち

この本は、私にとっては、古代から中世、近代の社会を見ていく上での
ガイドブック的な存在だ。この本の底流には、彼の考える日本文化やその精神、
宗教や社会が流れているのであろうが、それをすくい上げることが中々に
難しい。だが、現れる言葉が自身の想いとつながる場合は、加速度的に
理解が進むときもある。小さな示唆から自身の考えを深めるには、何度も
ページをめくり返すことも必要だ。

もう一つの作品の課題なり意図は、前者と関連するが、まさに『この国のかたち』とい
う題名が示唆 するとおり、司馬遼太郎の日本思想史である。司馬遼太郎はこの随筆に
おいて、独自の方法で日本思 想史の概説と整理を試みている。神道論、古代仏教論、
真宗論、朱子学論、江戸思想論、武士論。わ ずかに国学論(本居宣長)についての言
及が少し薄い感じがする以外は、日本思想史のほぼ全領域が カバーされ、司馬遼太郎
なりの視角で個々の思想性が位置づけられ、近代日本へ至る思想的経路の基 本線が指
し示されている。そしてその基本線が一転倒錯して昭和国家の鬼胎へと逆転する思想史
につ いても、それなりの描き方をして見せている。すなわち健全な日本思想史の基本
線の裏側に疫病神の ように付着して噴出する朱子学イデオロギーという構図。
統帥権論は朱子学論と併せて『この国のかたち』の最初から問題提起されている。

例えば、神道や朱子学、儒学などをもう少し具体的に知るには、和辻哲郎などの著作を
読む
事の方が全体的な把握ができる。特に、和辻氏の「日本倫理思想史」は面白く
読める。この辺は、司馬氏も和辻氏の著作は読んでいるようで、よく名前が出てくる。



司馬遼太郎が、日本人の心の原点は、坂東武士の土着の倫理
「名こそ惜しけれ」という。
「武士の習」の核心が無我の実現にあることを
主張する。無我の実現であったからこそ、武士たちは、そこに「永代の面目」
という如き深い価値観を持つことが出来たのである。
武士たちはみづからの生活の中からこの自覚に達したのであった。
武士の習の中核が無我の実現に存するとすれば、武士に期待される行為の
仕方が一般に自己放擲の精神によって貫かれていることは当然であろう。
この精神に仏教との結びつきによって一層強められたと思われる。
「武士というものは僧などの仏の戒を守るなる如くに有るが本にて有べき也」
という頼朝の言葉は、端的にこの事態を言い表している。、、、、、

ふと思い当たる日本人の心根に残る「名こそ惜しけれ」
1-2朱子学の作用
日本史が、中国や朝鮮の歴史と全く似ない歴史をたどり始めるのは、
鎌倉幕府という、素朴なリアリズムをよりどころにする「百姓」の
政権が誕生してからである。私どもはこれを誇りにしたい。
かれらは、京の公家、社寺とはちがい、土着の倫理をもっていた。
「名こそ惜しけれ」
はずかしいことをするな、という坂東武者の精神は、その後の日本の
非貴族階級につよい影響を与え、いまも一部のすがすがしい日本人の中で
生きている。
、、、
朱子学の理屈っぽさと、現実より名分を重んじるという風は、それが官学化
されることによって、弊害をよんだ。特に李氏朝鮮の末期などは、
官僚は神学論争に終始し、朱子学の一価値論に終始して、見ようによっては
朱子学こそ亡国の因をつくったのではないかと思えるほど凄惨な政治事態が
連続した。日本の場合も、徳川幕府は朱子学を官学とした。
ただ、日本の場合、幸いにも江戸中期、多様な思想が出てきて、朱子学が
唯一のものではなくなった。例えば、ほとんど人文科学に近い立場をとる
荻生徂徠や伊藤仁斎の学問がそうで、彼らは朱子学の空論性を攻撃した。

1-3雑貨屋の帝国主義
歴史も1個の人格として見られなくもない。日本史はその肉体も精神も、
十分に美しい。ただ、途中、何かの変異が起こって、遺伝学的な連続性
を失うことがあるとすれば、
「おれがそれだ」
と、この異胎はいうのである。
そのものは気味悪く蠕動ぜんどうしていて、うかつに踏んづければ、
そのまま吸い込まれかねない感じもある。私は十分距離を置き、子供の
ような質問をしてみた。
日本は、日露戦争の勝利後、形相を一変させた。
「なぜ、日本は、勝利後、にわかづくりの大海軍を半減して、みずからの防衛に
適合した小さな海軍にもどさなかったのか」
ということである。

1-4統帥権の無限性
昭和1けたから同20年までの10数年は、長い日本史の中でも特に非連続の
時代だったということである。
ノモンハン事変、太平洋戦争のばかばかしいほどの争いに憤りさえ見える。
ほかの対談集でも、
日本は明治憲法から3権分立を明確にしていたが、いつもまにか超法規的な
統帥権なるものが出てきた。これを生み出したのは、当時の政治家や国民の
未成熟な点が多いが、軍部では、これを使い超法規的に日本国を統治できる、
と言う考えを持っていた。これにより、それまでの憲法解釈による天皇機関説は
無効とした。

1-10浄瑠璃記
江戸期をりかいするのに重要なことは、日本語を磨く教範として武士階級は謡曲を
ならい、町人階級は浄瑠璃を習いつづけたことだった。

1-12高貴な虚
その後の日本陸軍は、くだらない人間でも軍司令官や師団長になると、大山型を
ふるまい、本来自分のスタッフに過ぎない参謀に児玉式の大きな権限をもたせた。
この結果、徳も智謀もない若い参謀たちが、珍妙なほどに専断と横暴のふるまい
をした。
(辻正信がその好例)それらは太平洋戦争史の大きな特徴になっている。
さらに、これを国家規模に拡大すると、明治憲法における天皇の位置は
古代インド思想に置ける空や、荘子における虚に似ていた。
この憲法では補粥する首相以下国務大臣に最終責任があるということになって
いた。虚と実の組み合わせはまことに日本的で、明治期こそ構造上の微妙さ
がよく働いていたのだが、しかし昭和になって意外な要素としての統帥権
が突出し、内圧が汽缶を破るようにして、明治憲法国家を破滅させた。

第1巻では一番好きな章だ。
1-14江戸期の多様さ
私は日本の戦後社会を肯定するし、好きでもある。、、、、
私など、その鬼胎の時代から戦後社会に戻ってきたとき、こんないい社会
が自分が生きているうちにやってくるとは思わなかった。それが「与えられた
自由」などとひにくれては思わず、むしろ日本人の気質や慣習に合った自由な社会だと
思った。、、、
今の社会の特性を列挙すると、行政管理の精度は高いが平面的な統一性。
また文化の均一性。さらにはひとびとが共有する価値意識の単純化。たとえば、
国を挙げて受験に集中するという単純化への恐ろしさ。価値の多様状況こそ
独創性のある思考や社会の活性化を生むと思われるのに、逆の均一性への
方向にのみ走りつづけているというばかばかしさ。これが戦後社会が到達
した光景というなら、日本はやがて衰弱するのではないか。

たとえば、今日の私どもを生んだ母体は戦後社会ではなく、ひょっとすると
江戸時代ではないか、と考えてみてはどうだろう。、、、
300近くあった藩のそれぞれの個性や多様さについてである。

1-16藩の変化
長州藩ではそれ以前から藩主は「君臨すれども統治せず」という性格が濃厚で、
藩政当局が藩主に対して最終責任を負っていた。

この地に住んでいるとなるほどと思うし、多くの棚田を見るたびにこれを思い起こす。
だが、彼が数時間も不愛想な平板な景色が続く関東平野を車や電車で通った時、
その感想を聞きたいものだ。
1-19谷の国
谷こそ古日本人にとってめでたき土地だった。
村落も谷にできた。、、、
古日本人に戻って考えると、水稲農耕のことである。山から水を受けて水平に
張り水するために、田という農業土木的な受け皿が必要なのである。、、
田という土木構造を造成するには、谷が最もいい。緩やかな傾斜面に、
上から棚のように田を造成して下へくだり、ついには谷底に至る。
、、、、
要するに日本は2000年来、谷住まいの国だったということを
言いたかっただけである。将来のことはわからない。
谷の国にあって、人々は谷川の水蒸気にまみれて暮らしてきただけに、「老子」
にいうことばが、詩でも読むように感覚的にわかる。
谷神こうしんは死せず、是を玄牝げんぴんと謂ふ。
玄牝の門、是を天地の根と謂ふ。
綿々として存するが如し。之を用ふれども勤つきず。

この話は面白く読めた。
1-21日本と仏教
人が死ねば空に帰する。教祖である釈迦には墓がない。むろんその10大弟子
にも墓がなくおしなべて墓という思想すらなく、墓そのものが非仏経的
なのである。
、、、
親鸞は、釈迦が無神論者であったように、その正当を受けるものとしていわゆる
霊魂を否定した。

2-26天領と藩領
江戸期全国の石高はざっと3千万石だった。そのうち幕府の直轄領は、天領と
よばれ、八百万石だったという。ただしこれは旗本領を含めてのことで、
純粋な天領は四百万石ほどだった。鉱山や商業地、港湾からの収入は
あるものの、この四百万石幕府という政府は賄われていたのである。
、、、、
たとえば、大和(奈良県)の大半は天領だった。ところが、大和の良さは
古寺だけではなく、民家もそうである。もし古寺が、白壁、大和棟といった
この地の大型農家に囲まれていず、裸で野に孤立していたら、大和の
景観はよほど貧寒としたものになるに違いない。白壁、大和棟は、天領の
租税の安さの遺産と考えていい。
江戸時代、コメの収穫の四割を公がとり、六割がその百姓の取り分にする
ことを、四公六民といった。幕府は天領における税率をこの程度の安さに
抑えていた。、、、

天領の豊かなあとを訪ねるとすれば、奈良県のほかでは岡山県の倉敷が
よく、また大分県の日田もいい。いずれも農村の風がのんびりして、町方は
往年の富の蓄積を感じさせる。

この後の肥後の場合を含め、土佐、肥後の内実が面白い。
2-28土佐の場合
こんにちのような画一的な文化の中にすんでいると、江戸期は羨ましくなるほど
多様だった。この多様さが結果として明治国家というユニークなものを世界史に
残したといえる。幕藩体制は炭家のように単品を売るものではなく、棚に色々
なものが置かれていた。棚の上のどの藩も、法制的規格は別にして、中身の
風土はさまざまで、1つとして同じものはなかった。

2-30華厳
この阿弥陀如来が、鎌倉時代、親鸞によって絶対者にされることで、仏教は徹底的に
日本化した。阿弥陀如来は、毘盧遮那仏びるしゃなぶつの思想的後身なのである。
毘盧遮那仏と同様に、人格神でなく法そのもの名であり、かつ光明の根源である。
さらには宇宙の一切であってそのあたちに充ち満ちているということにおいても、
華厳経の世界説明や、その展開の論理とすこしもかわらない。
奈良の東大寺は、聖武天皇の発願以来1200数10年経ち、その間、華厳を
一筋に護持してきた。境内を歩くたびに、日本の思考の型の1つがここから始まった
と思わざるを得ない。境内の隅々にまで、古代アジアの瞑想が、深い翳やしじま
を作っているように思えるのである。

2-31ポンぺの神社
神道は発生形態も多様で、また思想的な発達史もあり、とても10枚の枚数で
書けるものではなく、また書いたところで、煩瑣を避けて説明できる自信はない。
神道の本質というのは、精霊崇拝アユミズムだろうか、それとも憑霊呪術
シャーマニズムなのか、あるいは後世になって加わる現生利益的な受福除災の
儀式なのかなどと考えると、どうもまとまらない。

神道という言葉は仏教が入ってきてから、この固有の精神習俗に対して名付けられた
ものだが、奈良朝のころは、隋、唐ふうの国家仏経に圧倒されてややさびれた。
そういう時期、神々を救うために考えられたのが、奈良朝末の本地垂迹説だった。
まことに絶妙というべき論理で、本地は、普遍的存在のこと。つまり、仏、
菩薩のことである。そういう普遍的な存在が、衆生を済度するために日本の
固有の神々に姿を変えている、という説である。そういう論理によって仏教化
した神々が、権現とか明神とかと呼ばれるようになった。例えば、伊勢神宮の
神は大日如来が本地であり、熊野権現は阿弥陀如来が本地とされた。

江戸末期にでた平田篤胤の神道体系は、際立って思想的威容がある。

2-33カッテンディーケ
幕末の動きを知るには、この人の回想録にふれるのも重要、と思った。




柳宗悦の言葉
「寒暖の2つを共に育つこの国は、風土に従って多種多様な
資材に恵まれています。例を植物にとるといたしましょう。柔らかい桐や杉を
始めとして、松や桜やさては、堅い欅、栗、楢。黄色い桑や黒い黒柿、節のある
楓や柾目の檜、それぞれに異なった性質を示してわれわれの用途を待っています。
この恵まれた事情が日本人の木材に対する好みを発達させました。柾目だとか
木目だとか、好みは細かく分かれます。こんなにも木の味に心を寄せる国民は
他にないでしょう。しかしそれは全て日本の地理からくる恩恵なのです。
私たちは日本の文化の大きな基礎が、日本の自然である事をみました。」
江戸時代に諸国を遊行した僧・木喰(もくじき)がつくった仏像に惹かれた柳は、日本
各地を訪ね歩く旅の途で、地方色豊かな工芸品の数々や固有の工芸文化があることを知
ります。そのころ出会ったのが濱田や河井で、彼らと美について語らううち、「名も無
き民衆が無意識のうちにつくり上げたものにこそ真の美がある」という民藝の考え方が
定まるのです。
 民藝の特性を柳は「実用性、無銘性、複数性、廉価性、地方性、分業性、伝統性、他
力性」の言葉で説明。


『この国のかたち』は、昭和61年から司馬が急逝した平成8年にかけ、文芸春秋で連
載されたエッセー。日本の風土や文化、宗教、組織論など幅広い分野を、司馬が独自の
視点と平易な文章で考察している。蠕動

 「司馬さんだったら今の日本をどう考えるのだろう、という思いが以前からあった。
『この国のかたち』にはそのヒントが隠されていると感じるし、没後20年の節目に番
組で取り上げることで、司馬さんのメッセージが輝くのでは」

 NHKの谷口雅一チーフプロデューサーは、制作の狙いについてこう語った。

 制作スタッフが同書を読み込む中で、日本人を特徴付けるものとして、2つの“柱”
が浮かび上がった。それは、「外国からの異文化の取り込み」と「日本人の内面を作る
精神」だったという。

 このうち、前者である「外的要因」に焦点を当てたのが13日放送の第1集「“島国
”ニッポンの叡智(えいち)」だ。司馬は同書の冒頭で、友人の書いた言葉として、「
日本人は、いつも思想はそとからくるものだとおもっている」という一節を引用。これ
を取っかかりに、海の向こうから来る普遍的な文化への憧れが、強い好奇心や独自の文
化を導く原動力となったのでは-と指摘した。

番組ではその一例として、今も壱岐(長崎県)に残る「異国崇拝の風習」を紹介。さら
に、日本人独特の宗教観に迫るべく、東大寺(奈良市)に伝わる「神仏習合の儀式」な
どを取り上げる。

 翌14日の第2集「“武士”700年の遺産」では、鎌倉時代の武士に育まれた「名
こそ惜しけれ」の精神という「内的要因」に注目。私利私欲は恥という考えが、近代の
日本人にもどれだけ影響を与えたのかを探るべく、鎌倉(神奈川県)を中心に取材を重
ねた。

 司馬が4人の担当編集者と交わした数十通の書簡も初公開される。「司馬さんが作品
ではあまり書かない時評や憂いを吐露している」(谷口氏)という。

 谷口氏は「この数年、外国人から見た日本や日本再発見がテーマの番組が増えるなど
『日本人論』がある種の流行になっている」と指摘したうえで、「それだけ今の日本が
国際的、経済的に自信を失っているのだと思うが、当時、司馬さんが考えたり、憂えて
いたりしたことは、今を生きる現代人に宛てられたメッセージだと改めて感じている」
と話した。(本間英士)

番組ではその一例として、今も壱岐(長崎県)に残る「異国崇拝の風習」を紹介。さら
に、日本人独特の宗教観に迫るべく、東大寺(奈良市)に伝わる「神仏習合の儀式」な
どを取り上げる。

 翌14日の第2集「“武士”700年の遺産」では、鎌倉時代の武士に育まれた「名
こそ惜しけれ」の精神という「内的要因」に注目。私利私欲は恥という考えが、近代の
日本人にもどれだけ影響を与えたのかを探るべく、鎌倉(神奈川県)を中心に取材を重
ねた。

 司馬が4人の担当編集者と交わした数十通の書簡も初公開される。「司馬さんが作品
ではあまり書かない時評や憂いを吐露している」(谷口氏)という。

 谷口氏は「この数年、外国人から見た日本や日本再発見がテーマの番組が増えるなど
『日本人論』がある種の流行になっている」と指摘したうえで、「それだけ今の日本が
国際的、経済的に自信を失っているのだと思うが、当時、司馬さんが考えたり、憂えて
いたりしたことは、今を生きる現代人に宛てられたメッセージだと改めて感じている」
と話した。(本間英士)



歴史の中のイデオロギー(1)
『この国のかたち』の中で司馬遼太郎氏は、<宋学>について度々取り上げていますが
、それは日本史においてその影響するところが非常に大きかったからであることが、5
巻で4回にわたって述べられています(文春文庫,159P-192P)。まず、宋学が日本に入っ
た最初の<イデオロギー>(※)であったとして、次のように述べています。「ここで
いうイデオロギーとは---唯一絶対の一個の観念がするどい切っさきをなし、剣のよう
に体系化された思想のあり方---これをもって、地上の諸存在を善か悪かに峻別し、検
断する」(同,159P)ものであり、このイデオロギーとしての宋学が日本史において与え
た影響は<激甚>であったとしています。
この激甚という場合、それは実際の歴史においては大きく3つの出来事として表れてい
ます。最初は14世紀の<南北朝の争乱>であり、次に19世紀後半の幕末-明治維新
の時代であり、そして20世紀に入っての昭和の戦争の時代であり、その間およそ60
0年に亘っています。それらについて時代毎に概観してみたいと思いますが、その前に
宋学の特徴とは何なのか?をみてみますと、漢民族王朝の宋の時代の異民族勢力との抗
争という背景がありました。つまり、宋は儒教を国教としていて、儒教は「華(文明)で
あるにはどうすればいいのかという“宗教”で、野蛮を悪」(同,160P)とするものでし
た。その「形而上的思考」を集大成したのが朱子という人であり、「朱子学にあっては
、歴史についても、史実の探求よりも大義名分という観念の尺度をあて、正邪を検断」
(同,161P)するものであり、後の江戸幕府は朱子学を<官学>としました。そしてこの
ことが後々の歴史の節目の中で大きな影響を与えることとなります。
さて、14世紀の鎌倉時代に宋学が入ってきたわけですが、それはさっそく当時の人々
に影響を与え、いわゆる南北朝の争乱の元となっていきます。つまり、“正邪”を明確
に区別する宋学の考え方に影響された公家や僧のあいだで、宋に対立する野蛮な夷(え
びす)としての金王朝(女真人族)は邪(悪)であり打倒すべき存在であったように、本来
、日本を統治すべきなのは朝廷(天皇)である、ということが正義であるはずなのに、源
頼朝以来の幕府によってそれは形骸化してしまっており、これを正すためには夷(邪)と
しての武家政治を打倒する以外にない、ということです。ときに1318年に即位した
後醍醐天皇は宋学の信奉者であり、宋朝における皇帝による独裁者を理想としていまし
た。そして実際に倒幕の計画(クーデター)を実行しようとして(正中の変,1324年)隠岐
に流されることになり、このとき(1332年)から南北朝の争乱がはじまり、その後60年
ほど続きます。

 歴史の中のイデオロギー(2)
次に、江戸時代ですが、幕府の官学であった朱子学が「日本史上の正邪をきめる」(同,
180P)までになるのは、水戸徳川家の光圀の編纂による『大日本史』の存在が大きく影
響しています。滅亡した明(みん)の遺臣で水戸に保護されていた朱瞬水の史観が色濃く
反映した『大日本史』の根本には、徹底した<尊王攘夷>がありました。瞬水は、南北
朝時代について「南朝が正しい」とし、北朝は「武士という“夷”に擁されていた」(
同,181P)ため非正統(邪)としました。そしてこのことが南北朝時代の南朝方であった楠
木正成を巡っての評価との関連でその後も影を落とすことになります。
正成の評価は江戸時代になると「急騰」し、さらに幕末の「尊王攘夷が叫ばれるころに
は(その)人気は沸点に達した」(同,186P)のでした。また、「水戸学的気分がエネルギ
ーになり、明治維新が成立した」(同,188P)あとも、歴史教育に水戸学は引き継がれ、
南朝が正統であるということになっていきました。ここで司馬氏は、南北朝時代の楠木
正成と足利尊氏との戦いのときの逸話について述べています。それは京都に尊氏を誘い
込み、周りをかこんで兵糧攻めにするという正成の策が、公卿の坊門宰相清忠によって
一蹴され退けられてしまい、その結果正成は湊川で戦死してしまうことです。
司馬氏はこの話が昭和に入ってからの陸軍による「統帥権」と無縁ではないことを述べ
ています。すなわち、統帥権の基本に「帷幄(いあく)上奏権」なるものがあるとされて
いたのですが、これは「天皇の統帥権輔弼者である陸軍の参謀本部の長が、首相や国会
にはかることなく-いわば内密で-戦争行為をはじめるにつき、単独に上奏できる」(
同,191P)ものであり、陸軍がこれに固執した背景に「正成の策が、当時の行政権の輔弼
者だった坊門清忠の一言ではねつけられたという情景が、共有の悲憤としてあったので
はないか」(同,191P)というのです。
もしそうだとすれば、南北朝時代の<正成の亡霊>とでもいうべきものが、昭和の時代
の軍人たちに乗り移って国を動かした、ということもいえなくもありません。要は、1
4世紀に中国(宋)からもたらされた、日本にとっての最初のイデオロギーは、<正邪の
峻別>というその形而上的明解さから広く浸透し、その後長く日本人の精神を規定する
こととなった、ということです。そしてそのイデオロギーは、昭和の戦争の時代に、<
満州侵攻>以後の中国侵略という形で600年後の20世紀の中国にまるで<ブーメラ
ン>のように戻っていった、という意味で大変な「歴史の皮肉」でもある、ということ
がいえます。さらに、それに伴う犠牲が幾百万余にも上ったことからしても、その影響
が言葉に尽くせぬほど「激甚」であった、ということです。
ところで、正義か否かという二者択一的な判断のもとに、正義という言葉を振りかざし
て戦前の戦争の時代をいわば<正義の戦い>として唯我独尊的に肯定する人たちが一部
いるのも事実です。そのような方々は、上述した文脈からいえば、600来の化石とも
いうべきイデオロギーにいまだ囚われている、ということであり、なおかつそのことに
本人は気づいていない(というより知る由もない)という状態にある、ということができ
ます。

※イデオロギーとは何か、といった場合、漠然としたイメージがつきまといますが、一
般的にいわれるその特徴としてあるのは、極めて政治的である、また同時に偏った見方
であり、何らかの先入観を基盤としている、などのことがいえます。司馬氏が日本で最
初のイデオロギーとして宋学を位置づけているのも、そうした観点からに他なりません
。

日本人の二十世紀(1)
この国のかたち』(文春文庫,全6巻)には、現代に生きる私たち日本人にとって大切なメ
ッセージが様々な形で盛り込まれており、私はこれまで幾度となく読み返しています。
今回は、第4巻の巻末に「日本人のニ十世紀」と題する一文を取り上げたいと思います
。内容は、1904年の日露戦争から1945年の破綻までの日本のあり様を中心に述
べられています。二十世紀に入って間もない1904年に日本はロシアとの戦争に踏み
切りました。その後の日本はまるで戦争することが当たり前のような雰囲気の中で19
45年まで突き進んでいくのですが、そのきっかけ(歴史的転換点)となったのが「日比
谷焼打事件」(1905年)でした。同時にそれは、当時の日本人がいわば理性を失った瞬間
でもありました。
私がもしその時代に生きていたとしたら、ロシアから賠償金を取れなかったことに強い
怒りを覚えたことでしょう。その当時の国民の間には、その前の「日清戦争」に勝利し
たときに賠償金や権益などを得たと同時に、当時満州への進出を図っていたロシアが、
ドイツ・フランスとともに遼東半島を清に返還することを日本政府に要求したこと(い
わゆる「三国干渉」)の記憶が根強く残っており、ロシアに対する国民感情は最悪のも
のでした。したがって、そのようなロシアへの強い反発心という背景もあって、日清戦
争との比較で日露戦争の結末に対してつよい反感を抱いたのも無理からぬ面もあったの
です。
日露戦争の結果をボクシングの試合(10R)に例えると、9Rでリフェリー・ストップ(ア
メリカの仲裁)がかかり日本の「判定勝ち」となったようなものです。実際戦争がもし
「もう1ケ月続いたら、満州における日本軍は大敗していた」(同,219P)のです。この
判定勝ちであったのを、ときの政府ははっきりと国民に説明すべきだったのですが、事
実は「日本は紙一重で負ける、という手の内は、政府は明かしませんでした」(同,220P
)。その結果、日本はその後軍備拡大に突き進むと同時に大陸に進出し、さらにはアメ
リカとの戦争へと「暴走」して破綻するに至ったのです。まさに「不正直というのは、
国をほろぼすほどの力がある」(同,220P)ということを如実に示しています。
ところで、時代の流れからみた場合、日露戦争以後の中で大きなインパクトを与えたの
が、1929年の世界大恐慌でした。「東京に出稼ぎに来た人が、もう職がなくて帰るのに
、遠い故郷まで鉄道線路を歩いて帰るという人が多かった」(同,246P)ということひと
つとっても、今の不況とは比較にならないものでした。そうした異常事態の中で軍部が
「閉塞した局面が打開できるのではないか、この暗雲たれ込めた不況に穴をあけられる
のではないか」(同,246-7P)という<幻想>を抱き、それがバネとなって満州事変を引
き起こし、その後もブレーキがかからないまま暴走してしまった、ということがいえま
す。そして、日露戦争までの日本人は、少なくともリアリズム(現実を直視するという)
をもっていたにもかかわらず、日露戦争に勝利したまさにその瞬間にそれは失われてし
まった(日比谷焼打事件)ままに、その時々の時代背景に流されてしまったわけです。

 日本人の二十世紀(2)
こうしてみてくると、日露戦争に<日本が勝ってしまった>ことの意味を問い直すこと
に思いを巡らさないわけにはいきません。もし逆にロシアが勝っていたとすれば、日本
は巨額の賠償金を課せられ国の財政は破綻し、その破綻の淵から這い上がろうと必死の
状況がしばらく続いたものと予想されます。そしてロシアは満州を支配下に収めつつ中
国中央部への本格的な足掛かりを獲得し、さらに朝鮮半島をもその管理下においたはず
です。また、ロシア革命との関連でいえば、日露戦争に勝利したことで、ときのロシア
帝政はひとまず面目を保つことによって、革命の雰囲気を抑えることができた可能性が
高くなっていたでしょう。もしロシア革命がなかったとすれば、これは世界史的には大
変大きなことであり、その後の歴史が一変していたことは間違いありません。
さらには、朝鮮半島との関連でいえば、日露戦争での日本の勝利がなければ、1910年の
「韓国併合」もなかったことになり、半島はロシアの支配下のもとでまったく別な歴史
を辿ることになったはずです。そうなればその後の半島の分断と北朝鮮の成立もなかっ
たことになります。北朝鮮とのことでは、日本にとっての重大問題である「拉致問題」
が横たわっています。そして日本による韓国併合以後の朝鮮支配ということが半島分断
の遠因となっている、という歴史的視点を抜きにしてこの問題は考えられないのであっ
て、この点でいえば政府や多くのマスコミのこれまでの論調をみていると、この視点が
欠落していると、つまり拉致という<結果>にのみ目が向いているとしか思えません。
したがって、日露戦争以後の歴史的経過という視点をも考慮したうえで北朝鮮の問題【
備考】と向き合うことが必要であり、このことを抜きにした議論はことの本質を見誤る
と同時にその解決もままならない可能性が大きいと思われてなりません。
【備考】以前にも取り上げたように、北朝鮮の体制の根幹は“<儒教イデオロギー>(
主体思想)との関連を抜きには考えられません。すなわち、北朝鮮の体制は『金王朝』
とでもいうべき<独裁体制>であり、またそれがすべてでもあります。北朝鮮国民は、
金王朝を支えるためにのみ有り(存在)、またその命を含めすべてを「首領」たる金正日
総書記に捧げるためにあり”(09.7.5付け)、問題の基本はここにあることに変わりはあ
りません。


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