自身の住む土地が世の中の何かに貢献していたと思うのは、何事に 寄らず、嬉しいことだ。その点で、製鉄の持つ歴史的な意義も含めてその 残り香に逢うことは、1千年前への想いを高める。 1.志賀町製鉄関連遺跡 遺跡詳細分布調査報告書(1997)より 平成6年から8年の調査では、14基の製鉄遺跡が確認されたという。 北から北小松の賤山北側遺跡、滝山遺跡、山田地蔵谷遺跡、南小松のオクビ山遺跡、 谷之口遺跡、弁天神社遺跡、北比良の後山畦倉遺跡、南比良の天神山金糞峠 入り口遺跡、大物の九僧ケ谷遺跡、守山の金刀比羅神社遺跡、北船路の福谷川遺跡、 栗原の二口遺跡、和邇中の金糞遺跡、小野のタタラ谷遺跡である。 更に総括として、 「各遺跡での炉の数は鉄滓の分布状態から見て、1基を原則としている。 比良山麓の各河川ごとに営まれた製鉄遺跡は谷ごとに1基のみの築造を原則 としていたようで、炉の位置より上流での谷筋の樹木の伐採による炭の生産も 炉操業に伴う不可欠の作業であった。下流での生活、環境面の影響も考慮された のか、1谷間、1河川での操業は、1基のみを原則として2基以上の操業は なかったと判断される。各遺跡間の距離が500もしくは750メートルとかなり 均一的であり、おそらく山麓の半永久的な荒廃を避け、その効率化も図ったとも 考えられる」。 今でも、このいくつかの遺構では、赤さびた鉄滓が探し出すことが出来る。 僅か流れでも1千年以上前の残り香を嗅げる。 なお、小野氏が関係するたたら遺跡については、以下のような記述がある。 小野石根が近江介(その職務は国守を補佐して、行政、司法、軍事などの諸事 全般を統括する立場)にあった時期は、神護景雲3年(769)のわずか1年 であるが、この期間に本町域で石根が活動した史料は残っていない。 だが、氏神社のある小野村や和邇村を受領として現地を支配に自己の裁量を ふるい、タタラ谷遺跡や2,3の製鉄炉が同時に操業し、鉄生産を主導した としても不思議ではない。 さらに、 武器生産の必要性、滋賀軍団の成り立ちから湖西での製鉄の必要性の記述もある。 国府城の調査から、大規模な鉄器生産工房の存続が認められる。 そして、武器の生産、修繕に必要な原料鉄は、「調度には当国の官物を用いよ」 とあることや多量の一酸化炭素を放出する製鉄操業のの場を国府近くに置きにくい 等を勘案すると、国府から直線距離で20キロ離れている本町域、即ち滋賀郡北部の 比良山麓製鉄群で生産されたケラや銑鉄が使われていたとしても不思議ではない。 これに関しては、志賀町史でも指摘がある。 古代の湖西の地方には、2つの特徴がある。 交通の要所であることと鉄の産地であることである。ともに、ヤマト政権や ヤマト国家の中心が、奈良盆地や大阪平野にあったことに関係する。、、、 古代近江は鉄を生産する国である。 湖西や湖北が特に深くかかわっていた。大津市瀬田付近に近江における国家的 地方支配の拠点が置かれていたことにより、七世紀末以後には大津市や草津市 等の湖南地方に製鉄所が営まれるが、それよりも古くから湖北、湖西では 鉄生産がおこなわれていた。技術が飛躍的に向上するのは五世紀後半であろう。 それを説明するには、この時期の日本史の全体の流れをみわたさなければならない。 鉄は、武具、工具、農具などを作るのになくてはならない。 それだけではなく、稲や麻布と並んで代表的な等価交換物としても通用していた ばかりか、威光と信望とを現す力をもつものとされていた。権力の世界でも 生産の次元でも、すでに四世紀代に鉄の需要は高かった。当時の製鉄方法の 詳細はまだよくわかっていないが、原始的な製鉄は古くからおこなわれていた。 しかし、ヤマト政権にかかわる政治の世界で大量に使われた鉄は、大半が朝鮮半島 洛東江河口の金海の市場で塩などと交換され輸入されてた慶尚道の鉄延であったと みられる。三世紀なかばのことを書いた魏志東夷伝に、慶尚道地方の「国は 鉄を出す。韓、わい、倭皆従いてこれを取る」とある。ところが、五世紀の 初頭以来、朝鮮半島北部の強大な国家の高句麗は、軍隊を朝鮮半島の南部まで駐屯 させ、金海の鉄市場まで介入したことから、鉄の輸入が難しくなった。五世紀 なかごろにヤマト政権に結びつく西日本の有力首長の軍隊が朝鮮半島で活動する のは、鉄の本格的な国産化を必要とする時代となっていたことを示す、という。 2.古代の豪族たち、和邇部氏と小野氏 農耕経済を中心とする弥生文化が急速な発展をとげ、全国的に鉄器が行き渡る ようになると、農産物の生産量が増大して経済力が強まり、民衆と司祭者、 つまり首長との生活水準の隔たりが大きくなる。各地に豪族が発生し、それらの 統一に向かって原始的な国家の形態へと発展していく。 それがヤマト政権として更なる発展拡大していった。 鉄器は県、矛、鏃などの武具として生産される一方、農耕具として発達し、 農作物の大幅な増大に寄与していって。日本書記にも、依網よきみの池、反折さかおり の池などの用水掘りの構築が進んだと記述されている。多くの古墳にも、鉄器の 副葬品が増えてくる。 鉄が武器となり、農耕具としてその活用が高まるのは、それなりの集団が形成 されているからである。この周辺では、和邇部氏と小野氏を考えておく必要がある。 1)和邇部氏 志賀町域を中心に湖西中部を支配していた。ヤマト王権の「和邇臣」に所属し、 ヤマト王権と親密な関係があった。和邇臣は奈良県天理市和邇を中心に奈良盆地 東北地域を幾つかの親族集団で支配していた巨大豪族であり、社会的な職能集団 でもあった。和邇部氏は後に春日氏に名を変えた。 和邇部氏が奈良を中心とするヤマト王権にいた和邇氏と結びついたのは、和邇 大塚山古墳時代の4世紀後半であり、比良山系の餅鉄などから鉄素材を生産し、 和邇氏配下の鍛冶師集団に供給していた。 中央の和邇氏も和邇部氏と同様に、呪的な能力を持つ女系であり、その立場を 利用して、和邇部氏は、滋賀郡の郡司長官となったり、和邇氏は、ヤマト王権 での地位を高めたと思われる。 以下の記述は、和邇部氏が鉄素材を運んだルートの想定としても面白い。 和邇氏は、琵琶湖沿岸に栄え、朝貢するカニを奉納する事を仕事としていた。 そのルートは、敦賀から琵琶湖湖北岸にでて、湖の西岸を通り山科を経て、 椿井大塚山古墳のある京都府相楽郡に至り、大和に入るというものであったという。 それは、若狭湾→琵琶湖→瀬田川→宇治川→木津川の水運を利用した経路だった。 琵琶湖西岸には、和邇浜という地名が残っている。 椿井大塚山古墳の被葬者は木津川水系を統治するものであり、和邇氏一門か または服属する族長と思われる。 そのルートは、カニを奉納するだけのものではなかった。 2)小野神社 和邇部氏も、製鉄に関係していたようであるが、小野氏の小野神社の祭神で ある「米餅搗大使主命(たかねつきおおおみ)は、元来、鍛冶師の神であり、 鉄素材(タガネ)を小割にして、和邇部氏の後、和邇臣配下の鍛冶師に供給していと 思われる。「鏨着」の場合、タガネは金属や石を割ったり彫ったりする道具である。 「鏨着タガネツキ」の用字が「鏨衝 たがねつき」に通じるとすれば、神名は タガネで鉄を断ち切る人の意味になる。ただ、遅くとも平安時代の初めには 餅搗の神と思われていたとされる。 米餅搗大使主命(たかねつきここで言う「たかね」は鉄のことも指しており、 この辺一体が、鉄を生産していたことに関係があるのかもしれない。 火が信仰の対象となったり、古事記や日本書紀にあるように剣がその伝説と なったり、代表的な金屋子信仰にあるように鉄に対する信仰はあったはずであり、 この地では、小野神社がそれの役割となった気もする。 3)日本の神話の中には、製鉄についての事跡が、しばしば伝えられている。 古事記によれば、天照大神が天岩屋戸にこもられたとき、思金神の発案で、 「天金山の鉄を取りて、鍛人天津麻羅を求め来て、伊斯許理度売命いしこり どめのみことに科せて、鏡を作らしめ」ており、同じようなことが「日本 書記ではもう少しくわしく「石凝姥をもって治工となし天香山の金を採りて 日矛を作らしめ、また真名鹿の皮を全剥にはぎて、天羽ぶきに作る。これを 用いて作り奉れる神は、是即ち紀伊国に座す日前神なり」とあって、技術的に かなり具体的になっている。 この天羽ぶきの記載からすると弥生期の製鉄はすでに吹子を使用するほどに 進歩し、粗末な溶解炉もあったと想像できる。 弥生期より古墳期ごろまでの製鉄は、山間の沢のような場所で自然通風に依存 して天候の良い日を選び、砂鉄を集積したうえで何日も薪を燃やし続け、ごく 粗雑な鉧塊を造っていた。そしてこれをふたたび火中にいれて赤め、打ったり、 叩いたりして、小さな鉄製品を造るというきわめて原始的な方法であったのだろう。 日本書紀の中には、鹿の一枚皮でふいごを造り使用したことをあたかも見ていた かのように述べてもいる。 この比良山系にも、何条もの煙が山間より立ち上り、琵琶湖や比良の高嶺に 立ち昇っていたのであろう。 3.古代近江の鉄生産 古代の近江は、近畿地方最大の鉄生産国であり、60個所以上の遺跡が残っている。 日本における精練・製鉄の始りは 5世紀後半ないしは6世紀初頭 鉄鉱石精練法 として大陸朝鮮から技 術移転されたといわれ、吉備千引かなくろ谷遺跡等が 日本で製鉄が行われたとの確認が取れる初期の製鉄遺跡と言われている。 滋賀県では7世紀はじめ(古墳時代後期)にすでに鉄鉱石を使って製鉄が 始められていた。滋賀県埋蔵文化財センターでは、7世紀から9世紀の滋賀県 製鉄遺跡が3地域に分けられるという。 伊吹山麓の製鉄が鉄鉱石を原料としているもので、息長氏との関係があるであろう、 としている。 ①大津市から草津市にかけて位置する瀬田丘陵北面(瀬田川西岸を含む) ②西浅井町、マキノ町、今津町にかけて位置する 野坂山地山麓の鉄鉱石を使用 ③高島町から志賀町にかけて位置する比良山脈山麓の鉄鉱石を使用 このうち、野坂山地と比良山脈からは、磁鉄鉱が産出するので、その鉄鉱石を 使用して現地で製鉄して いたと考えられる。 マキノ町、西浅井町には多くの製鉄遺跡がある 天平14年(742年)に「近江国司に令して、有勢之家〈ユウセイノイエ〉が鉄穴を 専有し貧賤の民に採取させないことを禁ずる」の文があり、近江国で有力な 官人・貴族たちが、公民を使役して私的に製鉄を行っていたという鉄鉱山を めぐる争いを記している。 天平18年(745年)当時の近江国司の藤原仲麻呂(恵美押勝)は既に鉄穴を独占して いたようで、技術者を集める「近江国司解文〈コクシゲブミ〉」が残っている。 野坂山地の磁鉄鉱は、『続日本紀』天平宝字 6 年(762)2 月 25 日条に、 「大師藤原恵美朝臣押勝に、近江国の浅井・高島二郡の鉄穴各一処を賜う」との 記載があり、浅井郡・高島郡の鉄穴に相当するもの と考えられ、全国的にも 高品質の鉄鉱石であったことが知られている。 鉱石製錬の鉄は砂鉄製錬のものに比し鍛接温度幅が狭く、(砂鉄では1100度~1300度 であるのに、赤鉄鉱では1150度~1180度しかない。温度計のない時代、この測定 は至難の技だった)造刀に不利ですが、壬申の乱のとき、大海人軍は新羅の技術者 の指導で金生山(美濃赤阪)の鉱石製鉄で刀を造り、近江軍の剣を圧倒した といわれている。岐阜県垂井町の南宮(なんぐう)神社には、そのときの製法 で造った藤原兼正氏作の刀が御神体として納められている。 しかし、この隆盛も、鉄原料の不足からだろうか、備前、備中などの砂鉄を基本 とする製鉄勢力に奪われて行ったのだろうか。 砂鉄製錬は6世紀代には岩鉄製錬と併行して操業されていたが、9~10世紀 には岩鉄製錬は徐々に姿を消していった。したがって9~10世紀移行の我が国 近代製錬は、砂鉄製錬と同義といってよい。 岩鉄鉱床は滋賀県、岡山県、岩手県などの地域に限定され、貧鉱であるため衰退 していったとみられる。 砂鉄製錬は6世紀代で砂鉄製鉄法が確立され、中国地方では豊富な木炭資源と 良質な砂鉄を産出し、古代から近世にかけて製鉄の主要な拠点となった。 しかし、製鉄が近世まで続き、繁栄をしてきた奥出雲のたたら製鉄の紹介を読むと、 湖西地域の製鉄が繁栄していった場合の怖さも感じる。 「近世たたらでは、「鉄穴流かんなながし」という製法によって砂鉄を採取しました。 鉄穴流しとは、まず、砂鉄を含む山を崩して得られた土砂を、水路で下手の選鉱場 まで流します。この土砂の採取場を鉄穴場かんなばと呼びます。鉄穴場は、切り 崩せる程度に風化した花崗岩かこうがんが露出していて、かつ水利のよい立地が 必要でした。水路を流れ下った土砂は選鉱場に流れ込み、比重の大きい(重い) 砂鉄と比重の小さい(軽い)土砂に分離します(比重選鉱法)。鉄穴流しでは、 大池おおいけ→中池なかいけ→乙池おといけ→樋ひの4つの池での比重選鉱を経て、 最終的には砂鉄の含有量を80%程度まで高めて採取しました。 また、たたら製鉄には、砂鉄の他に、大量の木炭の確保が不可欠でした。 1回の操業に、たたら炭約15t前後、森林面積にして1.5ha分の材木を使ったと 考えられています。したがって、たたら経営には膨大な森林所有が条件でも ありました。たたら製鉄が中国山地で盛んになったのは、これらの条件を 満たす地域であったからです。この地域は今日でも、棚田や山林などの景観に、 たたら製鉄の面影を認めることができます」。 ただ、現在の棚田や山林の景観は、荒れた山野をいかに修復し、保全すると いった先人の努力の結果でもあるのだ。森の修復には、30年以上かかるといわれ、 雨量の少ない地域では百年単位であろうし、修復できない場合もあるようだ。 さほど雨量が多いと言えない湖西では、仏閣建設の盛んだったころ、その伐採を 禁じた文書もあるくらいであるから、近世までこのような製鉄事業ができたか、 は疑問だ。多分、奥出雲のような砂鉄で良質な鉄が大量にできる地域が出てきた こともあり、この地域の製鉄も衰退していったのでは、と考えざるを得ない。 ある意味、後世の我々にとっては、良きことだったのかもしれない。
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