http://tetsunomichi.gr.jp/history-and-tradition/tatara-outline/part-4/
http://www.e-aidem.com/ch/jimocoro/entry/negishi06
中国地方では、古墳時代後期から箱形炉による製鉄が一貫して続けられ、おそらく室町時代には国内随一の鉄生産地に成長したとみられています。しかし、その製法は、古代の製鉄がそのまま発展したものでなく、古代末期から中世に進められた技術改良の積み重ねを経て確立されていったものです。なかでも今日まで奥出雲に受け継がれているたたら製鉄は、この地特有の自然条件と先人の試行錯誤によって形づくられた、日本独自の砂鉄製錬技術の完成された姿といえます。
http://www.e-aidem.com/ch/jimocoro/entry/negishi06
中国地方では、古墳時代後期から箱形炉による製鉄が一貫して続けられ、おそらく室町時代には国内随一の鉄生産地に成長したとみられています。しかし、その製法は、古代の製鉄がそのまま発展したものでなく、古代末期から中世に進められた技術改良の積み重ねを経て確立されていったものです。なかでも今日まで奥出雲に受け継がれているたたら製鉄は、この地特有の自然条件と先人の試行錯誤によって形づくられた、日本独自の砂鉄製錬技術の完成された姿といえます。
中国地方における製鉄遺跡の概要
6世紀後半から11世紀頃まで――吉備国に集中
中国地方のたたら製鉄遺跡は、石見(島根県西部)、出雲(島根県東部)、伯耆(鳥取県)、備前(岡山県南東部)、備中(岡山県西部)、備後(広島県東部)、美作(岡山県北東部)、および播磨(兵庫県西部)の各地で確認されています。この地域では、6世紀後半から11世紀頃の製鉄遺跡が現在のところ70余り確認されています。中でも、備前、備中、美作と備後にまたがる地域、古代日本においては吉備国にあたる地域にその大半が集中しています。
近世(江戸時代初期以降)――「近世たたら」の確立へ
近世たたらの製鉄遺跡は石見、出雲、伯耆、安芸、備後、備中、美作、播磨などの地域で多数確認されますが、これは11世紀以降に製鉄遺跡が展開する地域と重なっており、たたら製鉄の生産地域は、古代ではなく、古代末から中世にかけて形成されたものを継承していることを示しています。
そして、17世紀末の天秤鞴の発明という技術革新を経て、たたら製鉄は完成されたのです。
11世紀から16世紀頃まで――中国山地周辺、石見・出雲に移動
これに対して、11世紀以降16世紀ころまでの製鉄遺跡は、石見、出雲、伯耆、安芸(現在の広島県西部)、備中、美作、播磨で多数確認されています。それまで大半を占めていた吉備においては、備前と備中南部から製鉄遺跡が全く姿を消し中国山地の備中北部と美作に限られる一方、現在の島根県にあたる石見・出雲地域が多くを占めるようになります。
たたら製鉄の生産地の移動は、原料との関係がうかがえます。すなわち、古代における初期の製鉄では原料として鉄鉱石と砂鉄が併用されていたのに対し、古代末から中世に山陰と山陽北部に生産地域が移ってからは砂鉄のみが用いられていることです。
たたら製鉄の生産地の移動は、原料との関係がうかがえます。すなわち、古代における初期の製鉄では原料として鉄鉱石と砂鉄が併用されていたのに対し、古代末から中世に山陰と山陽北部に生産地域が移ってからは砂鉄のみが用いられていることです。
し・たたら炭
近世たたらでは、「鉄穴流し」という製法によって砂鉄を採取しました。
鉄穴流しとは、まず、砂鉄を含む山を崩して得られた土砂を、水路で下手の選鉱場まで流します。この土砂の採取場を鉄穴場と呼びます。鉄穴場は、切り崩せる程度に風化した花崗岩が露出していて、かつ水利のよい立地が必要でした。水路を流れ下った土砂は選鉱場に流れ込み、比重の大きい(重い)砂鉄と比重の小さい(軽い)土砂に分離します(比重選鉱法)。鉄穴流しでは、大池→中池→乙池→樋の4つの池での比重選鉱を経て、最終的には砂鉄の含有量を80%程度まで高めて採取しました。
また、たたら製鉄には、砂鉄の他に、大量の木炭の確保が不可欠でした。1回の操業に、たたら炭約15t前後、森林面積にして1.5ha分の材木を使ったと考えられています。したがって、たたら経営には膨大な森林所有が条件でもありました。
たたら製鉄が中国山地で盛んになったのは、これらの条件を満たす地域であったからです。この地域は今日でも、棚田や山林などの景観に、たたら製鉄の面影を認めることができます。
近世には生産量日本一となった奥出雲地方
奥出雲地方は、良質な真砂砂鉄を採取することができることに加え、豊富な山林資源から燃料となる木炭の調達も容易であるといった条件に恵まれていました。近世になると、「高殿」=製鉄設備を覆う大型建物が設けられ、大型製鉄炉・天秤鞴・床釣が整備されたことにより、鉄生産量が大きく増えました。
この高殿で連続操業する大規模なたたらを「高殿たたら」あるいは「永代たたら」と呼びます。江戸時代後半には「高殿たたら」が出現したことで、島根県を含む中国山地一帯の鉄の生産量は最盛期には国内総生産量の大半を占め、中でも奥出雲地方は日本随一の生産地となりました。
- 鉄穴流し」による砂鉄採取量の増加や生産施設の大型化に伴い通年操業も可能となり、また操業日数を1日短縮する「3日押し法」への転換も図られたことで、生産量は従来より約3割増加したと考えられています。和鉄生産高が最高となった明治18年(1885)には、中国地方が全国の約96%を占め、そのうち奥出雲地方(旧島根県仁多郡・飯石郡、現在の奥出雲町・雲南市)は46%を占めるまでとなりました。
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