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「鉄から読む日本の歴史」より
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日本の神話の中には、製鉄についての事跡が、しばしば伝えられている。
古事記によれば、天照大神が天岩屋戸にこもられたとき、思金神の発案で、
「天金山の鉄を取りて、鍛人天津麻羅を求め来て、伊斯許理度売命いしこり
どめのみことに科せて、鏡を作らしめ」ており、同じようなことが「日本
書記ではもう少しくわしく「石凝姥をもって治工となし天香山の金を採りて
日矛を作らしめ、また真名鹿の皮を全剥にはぎて、天羽ぶきに作る。これを
用いて作り奉れる神は、是即ち紀伊国に座す日前神なり」とあって、技術的に
かなり具体的になっている。
この天羽ぶきの記載からすると弥生期の製鉄はすでに吹子を使用するほどに
進歩し、粗末な溶解炉もあったと想像できる。
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弥生期より古墳期ごろまでの製鉄は、山間の沢のような場所で自然通風に依存して
天候の良い日を選び、砂鉄を集積したうえで何日も薪を燃やし続け、ごく
粗雑な鉧塊を造っていた。そしてこれをふたたび火中にいれて赤め、打ったり、
叩いたりして、小さな鉄製品を造るというきわめて原始的な方法であったのだろう。
日本書紀の中には、鹿の一枚皮でふいごを造り使用したことをあたかも見ていた
かのように述べてもいる。砂鉄を還元するために火力を少しでも強くしようと、
火吹き竹のような素朴な道具を工夫することは、世界各国の原始製鉄民族で
共通なことである。この一枚皮を利用した吹子が存在したかはわからない。
、、、、、
この時代の鉄器文化はごく一部の王侯貴族などの特権階級のみのもので、
一般民衆はまだ石器文化、木器文化の段階にとどまっていた。そして鉄器文化は
国家機構が整備されるにしたがって充実し、大陸から朝鮮半島を経由して
移植されたのであるが、その反面、石器や土器のような物質文化としての
浸透の柔軟性はまったくなくなり、政治的、地域的な制約をもったものとなっており、
同一の地域内でも鉄器を有するものと有さないものとで、文化水準に
大きな差異を生じ、つねに治者階級の威容を示すものとなっていった。
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農耕経済を中心とする弥生文化が急速な発展をとげ、全国的に鉄器が行き渡る
ようになると、農産物の生産量が増大して経済力が強まり、民衆と司祭者、
つまり首長との生活水準の隔たりが大きくなる。各地に豪族が発生し、それらの
統一に向かって原始的な国家の形態へと発展していく。
それがヤマト政権として更なる発展拡大していった。
鉄器は県、矛、鏃などの武具として生産される一方、農耕具として発達し、
農作物の大幅な増大に寄与していって。日本書記にも、依網よきみの池、反折さかおり
の池などの用水掘りの構築が進んだと記述されている。多くの古墳にも、鉄器の
副葬品が増えてくる。
弥生期から古墳期にかけての鉄器文化は、刀剣を通じて大陸文化を吸収し、その進歩
を遂げた思われやすい。だが、むしろ狛の剣の名が示しているように、これらは
完成品の輸入が先で、国産化は農工具のような小型鉄器が主である。これが刀子
などの製造となり、やがて頭推剣のようなものまで自給できるように進歩
したものと想像される。したがって、狛の剣はあくまでも優美で貴族の風貌
を誇示する性格を持ち、デザインなども韓土美術工芸の粋をつくしているが、
これに反して頭推剣は装飾も少なく実戦的な刀剣になっている。「神功紀」の
竹内宿祢のはかりごとにより忍熊王が瀬田済わたりで敗れて死んだときの
「かぶつちのいたでおわずば」yぽうような記載も、この剣が儀仗的なものでなく、
実用の武具であったことを示す。
また防御武具についてみると、仁徳帝の13年甲申7月に、高麗より鉄楯の
献上があり、盾人宿祢がこれを射た記録がある。「史記」の鉄幕と同一物で
あろうが、この時代になると鋭い鉄鎚が普及したので、それにともなって楯が
木製や革製のものから一部は鉄板製のものへと変わったことが想像できる。
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播磨、美作、備前、備後のあたりの山中においては、古代から製鉄が行われていた。
「播磨風土記」に見られる鉄に関する記載が非常に古い伝承、たとえば製鉄技術
をもって韓国から渡来した天日槍という神の事跡について記していることも、
その創始の古さを物語っている者と言えよう。また、造山、作山、月の輪、金蔵山
などの巨大な古墳を築造した経済力も、その背景には大陸遠征のための兵器生産用
としての鉄の増産とそれによってもたらされた富の蓄積があったからであろう。
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鉄器生産に従事した工人機構には、鍛治司かぬちのつかさのほかに典鋳司いものつかさ
等があった。、、、、
このころの鉄製品の主要な生産地は、藤原明衡の著した「新猿楽紀」に記載されている
。
それによると、越前の鎌、但馬の鉄、播磨の針、能登の釜、河内の鍋、備後の鉄
等が著名であった。
大和と河内の鋳造は特に盛んであり、「主計式」によれば、調に鍋を納めている。
「宇津保物語」には鋳物師と鍛冶の作業状況を記している。鋳物師の作業場は
「これはいもじのところ、男子ども集まりタタラ踏み、物の御形鋳などす。
銀、黄金、白蝋などをわかして旅籠、透箱、割籠、海、山、亀など色を尽くして出す」
とあり、当時の鋳物師は素材によってわかれておらず、銀、金、銅、鉄など
なんでも用いて鋳造していた。
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古墳時代ごろの製鉄は山腹の傾斜地を利用し、自然の強い風力にいぞんして、砂鉄を
盛り上げた上に薪木を積み上げて幾日も火を燃やし続け、わずかな鉄塊を得ていたので
ある。その後、吹子を使う高温溶解の技術が導入され、年を追って本格的な操業をする
ように
なった。しかし、奈良平安時代はようやく盛んになってきた鉄の需要に生産が追い付か
なく
まだまだ貴重品扱いにされていた。そうしたところに、鎌倉時代に至って元寇に
あい、鉄の大増産が要求されることで、野タタラの技術に対する大幅な改善が
必要となった。文永年間(1264から75年)になると、炉の上に大きな建屋
を創る工夫がされ、室内で天候に左右されずに操業できるようになった。
こうして、それまでは長年の鉄山師の勘で「百日の照りを見て野炉を打つ」
というように雨が降り出せば中途で操業を放棄しなければならなかったのが、
その憂いがなくなった。そしてふいごを強大化して、炉の内容積を大きくしていった。
しかし、炉の大型化は失敗に終わった。真砂砂鉄で鉧押し法をする大型タタラ
は、はじめから鉧塊を創るのが目的であったから、多量の燃料と砂鉄、そして、人力を
使って巨大な鉧塊を造ってしまった。そのため、小割のできない代物になって
しまった。
たとえば、水心子正秀の「剣工秘伝志」には、「銑鉄ばかり流しとりといえり、
ゆえに自然釜底に流れ残りて、人力も及びがたき大いなる鉄となりて、今に至るまで
鉄山古跡のタタラ跡の地中に、牛の背のような塊あり」と書かれている。
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鉄山の立地条件について、「鉄山必要記事」は、簡単に次のような要点を述べている。
1)に粉鉄(よい鉄)、2)に木山(薪炭材の条件)、3)元釜土(炉体用の
良い粘土)、4)に米穀下値(食料品の安いこと)、5)に船付け近
(水陸の輸送に便なこと)、6)に鉄山師の切れ者(技術者に人を得ること)、
7)に鉄山諸役人の善悪也(役人に悪がいないこと)と重要な順に述べている。
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和邇部氏
志賀町域を中心に湖西中部を支配していた。ヤマト王権の「和邇臣」に所属し、
ヤマト王権と親密な関係があった。和邇臣は奈良県天理市和邇を中心に奈良盆地
東北地域を幾つかの親族集団で支配していた巨大豪族であり、社会的な職能集団
でもあった。和邇部氏は後に春日氏に名を変えた。
また、和邇部氏も、製鉄に関係していたようである。小野神社の祭神である「
米餅搗大使主命(たかねつきおおおみ)タガネツキ大使主命は、元来、鍛冶師の神
であり、鉄素材(タガネ)を小割にして、和邇臣配下の鍛冶師に供給していと
思われる。
「鏨着」の場合、タガネは金属や石を割ったり彫ったりする道具である。
「鏨着タガネツキ」の用字が「鏨衝 たがねつき」に通じるとすれば、神名は
タガネで鉄を断ち切る人の意味になる。ただ、遅くとも平安時代の初めには
餅搗の神と思われていたとされる。
和邇部氏が奈良を中心とするヤマト王権にいた和邇氏と結びついたのは、和邇
大塚山古墳時代の4世紀後半であり、比良山系の餅鉄などから鉄素材を生産し、
和邇氏配下の鍛冶師集団に供給していた。
中央の和邇氏も和邇部氏と同様に、呪的な能力を持つ女系であり、その立場を
利用して、和邇部氏は、滋賀郡の郡司長官となったり、和邇氏は、ヤマト王権
での地位を高めたと思われる。
.小野神社について
祭神は、天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひと)であり、
米餅搗大使主命(たかねつきここで言う「たかね」は鉄のことも指しており、
この辺一体が、鉄を生産していたことに関係があるのかもしれない。
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志賀町製鉄関連遺跡 遺跡詳細分布調査報告書(1997)より
平成6年から8年の調査では、14基の製鉄遺跡が確認されたという。
北から北小松の賤山北側遺跡、滝山遺跡、山田地蔵谷遺跡、南小松のオクビ山遺跡、
谷之口遺跡、弁天神社遺跡、北比良の後山畦倉遺跡、南比良の天神山金糞峠
入り口遺跡、大物の九僧ケ谷遺跡、守山の金刀比羅神社遺跡、北船路の福谷川遺跡、
栗原の二口遺跡、和邇中の金糞遺跡、小野のタタラ谷遺跡である。
更に総括として、
「各遺跡での炉の数は鉄滓の分布状態から見て、1基を原則としている。
比良山麓の各河川ごとに営まれた製鉄遺跡は谷ごとに1基のみの築造を原則
としていたようで、炉の位置より上流での谷筋の樹木の伐採による炭の生産も
炉操業に伴う不可欠の作業であった。下流での生活、環境面の影響も考慮された
のか、1谷間、1河川での操業は、1基のみを原則として2基以上の操業は
なかったと判断される。各遺跡間の距離が500もしくは750メートルとかなり
均一的であり、おそらく山麓の半永久的な荒廃を避け、その効率化も図ったとも
考えられる」。
地図に分布状況を入れていくと、なるほどと思われる。
なお、小野氏が関係するたたら遺跡については、以下のような記述がある。
P56
小野石根が近江介(その職務は国守を補佐して、行政、司法、軍事などの諸事
全般を統括する立場)にあった時期は、神護景雲3年(769)のわずか1年
であるが、この期間に本町域で石根が活動した史料は残っていない。
だが、氏神社のある小野村や和邇村を受領として現地を支配に自己の裁量を
ふるい、タタラ谷遺跡や2,3の製鉄炉が同時に操業し、鉄生産を主導した
としても不思議ではない。
武器生産の必要性、滋賀軍団の成り立ちから湖西での製鉄の必要性の記述もある。
P65
国府城の調査から、大規模な鉄器生産工房の存続が認められる。
そして、武器の生産、修繕に必要な原料鉄は、「調度には当国の官物を用いよ」
とあることや多量の一酸化炭素を放出する製鉄操業のの場を国府近くに置きにくい
等を勘案すると、国府から直線距離で20キロ離れている本町域、即ち滋賀郡北部の
比良山麓製鉄群で生産されたケラや銑鉄が使われていたとしても不思議ではない。
しかし、製鉄が近世まで続き、繁栄をしてきた奥出雲のたたら製鉄の紹介を読むと、
湖西地域の製鉄が繁栄していった場合の怖さも感じる。
「近世たたらでは、「鉄穴流かんなながし」という製法によって砂鉄を採取しました。
鉄穴流しとは、まず、砂鉄を含む山を崩して得られた土砂を、水路で下手の選鉱場
まで流します。この土砂の採取場を鉄穴場かんなばと呼びます。鉄穴場は、切り
崩せる程度に風化した花崗岩かこうがんが露出していて、かつ水利のよい立地が
必要でした。水路を流れ下った土砂は選鉱場に流れ込み、比重の大きい(重い)
砂鉄と比重の小さい(軽い)土砂に分離します(比重選鉱法)。鉄穴流しでは、
大池おおいけ→中池なかいけ→乙池おといけ→樋ひの4つの池での比重選鉱を経て、
最終的には砂鉄の含有量を80%程度まで高めて採取しました。
また、たたら製鉄には、砂鉄の他に、大量の木炭の確保が不可欠でした。
1回の操業に、たたら炭約15t前後、森林面積にして1.5ha分の材木を使ったと
考えられています。したがって、たたら経営には膨大な森林所有が条件でも
ありました。
たたら製鉄が中国山地で盛んになったのは、これらの条件を満たす地域であったから
です。この地域は今日でも、棚田や山林などの景観に、たたら製鉄の面影を認めること
ができます」。
ただ、これは、荒れた山野をいかに修復し、保全するといった先人の努力の結果
でもあるのだ。森の修復には、30年以上かかるといわれ、雨量の少ない地域では
百年単位であろうし、修復できない場合もあるようだ。さほど雨量が多いと
言えない湖西では、近世までこのような製鉄事業ができたか、は疑問だ。
多分、奥出雲のような砂鉄で良質な鉄が大量にできる地域が出てきたことにより、
この地域の製鉄も衰退していったのでは、と考えざるを得ない。
ある意味、後世の我々にとっては、良きことだったのかもしれない。
比良でも多くの山間から数十条の煙がたなびき、広く伸びる
低い草木の上を琵琶湖へと流れていく光景が見られたのではないだろうか。
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古代の近江は、近畿地方最大の鉄生産国であり、60個所以上の遺跡が残っている。
鉄鉱石精練
日本における精練・製鉄の始りは 5 世紀後半ないしは 6 世紀初頭 鉄鉱石精練法とし
て大陸朝鮮から技 術移転されたといわれ、吉備千引かなくろ谷遺跡等が日本で製鉄が
行われたとの確認が取れる初期の製 鉄遺跡と言われている。
滋賀県では7世紀はじめ(古墳時代後期)にすでに鉄鉱石を使って製鉄が始められてい
た。
滋賀県埋蔵文化財センターでは、7 世紀~9 世紀の滋賀県製鉄遺跡が 3 地域に分けられ
るという。
伊吹山麓の製鉄が鉄鉱石を原料としているもので、息長氏との関係があるであろう、と
しています。
1 大津市から草津市にかけて位置する瀬田丘陵北面(瀬田川西岸を含む)
2 西浅井町、マキノ町、今津町にかけて位置する 野坂山地山麓 ?鉄鉱石を使用
3 高島町から志賀町にかけて位置する比良山脈山麓 ?鉄鉱石を使用
このうち、野坂山地と比良山脈からは、磁鉄鉱が産出するので、その鉄鉱石を使用して
現地で製鉄して いたと考えられる。
マキノ町、西浅井町には多くの製鉄遺跡がある
天平14年(742年)に「近江国司に令して、有勢之家〈ユウセイノイエ〉が鉄穴を専有し
貧賤の民に採取させないことを禁ずる。」の文があり、近江国 で有力な官人・貴族た
ちが、公民を使役して私的に製鉄を行っていたという鉄鉱山をめぐる争いを記していま
す。
天平18年(745年)当時の近江国司の藤原仲麻呂(恵美押勝)は既に鉄穴を独占していたよ
うで、技術者を集める「近江国司解文〈コクシゲブミ〉」が残っています。
野坂山地の磁鉄鉱は、、『続日本紀』天平宝字 6 年(762)2 月 25 日条に、「大師藤原
恵美朝臣押勝に、 近江国の浅井・高島二郡の鉄穴各一処を賜う」との記載があり、浅
井郡・高島郡の鉄穴に相当するもの と考えられ、全国的にも高品質の鉄鉱石であった
ことが知られます。
鉱石製錬の鉄は砂鉄製錬のものに比し鍛接温度幅が狭く、(砂鉄では1100度~1300度で
あるのに、赤鉄鉱では1150度~1180度しかない。温度計のない時代、この測定は至難の
技だった。)造刀に不利ですが、壬申の乱のとき、大海人軍は新羅の技術者の指導で金
生山(美濃赤阪)の鉱石製鉄で刀を造り、近江軍の剣を圧倒したといわれている。
岐阜県垂井町の南宮(なんぐう)神社には、そのときの製法で造った藤原兼正氏作の刀
が御神体として納められている。(同町の表佐(垂井町表佐)には通訳が多数宿泊して
いたという言い伝えがある。
当時の近江軍の剣は継体天皇の頃とあまり違っていなかったといわれてる。
砂鉄精練
砂鉄製錬は6世紀代には岩鉄製錬と併行して操業されていたが、9~10世紀には岩鉄
製錬は徐々に姿を消していった。したがって9~10世紀移行の我が国近代製錬は、砂
鉄製錬と同義といってよい。
岩鉄鉱床は滋賀県、岡山県、岩手県などの地域に限定され、貧鉱であるため衰退してい
ったとみられる。
砂鉄製錬は6世紀代で砂鉄製鉄法が確立され、中国地方では豊富な木炭資源と良質な砂
鉄を産出し、古代から近世にかけて製鉄の主要な拠点となった。
錬鉄 七枝刀
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