2016年5月7日土曜日

正義についてメモ

正義へのアプローチ
ある社会が公正かどうかを問うということは、我々が大切にするもの、
収入、財産、義務や権利、権力や機会、職務や栄誉、がどう分配されるを
問うことである。公正な社会ではこうした良きものが正しく分配される。
つまり、一人ひとりにふさわしいものが与えられるのだ。
難しい問題が起こるのは、ふさわしいものが何であり、それはなぜかを
問うときである。
そして、価値あるものの分配にアプローチする三つの観点を明らかにしてきた。
つまり、幸福、自由、美徳である。これらの理念はそれぞれ、正義について
異なる考え方を示している。
我々の議論のいくつかには、幸福の最大化、自由の尊重、美徳の涵養といったことが
何を意味するかについて見解の相違が表れている。


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ベンサムがこの原理に到達したのは次のような一連の論法によってだ。
我々は快や苦の感覚によって支配されている。この2つの感覚は我々の
君主なのだ。それは我々のあらゆる行為を支配し、さらに我々が行うべき
ことを決定する。善悪の規準は「この君主の王座に結び付けられている」
のである。
誰もが快楽をこの身、苦痛を嫌う。功利主義哲学はこの事実を認め、
それを道徳生活と政治生活の基本に据える。効用の最大化は、個人だけでなく
立法者の原理でもあるのだ。どんな法律や政策を制定するかを決めるにあたり、
政府は共同体全体の幸福を最大にするため、あらゆる手段をとるべきである。
コミュニティとは結局のところなんだろうか。ベンサムによれば、それらを
構成する個人の総和からなる「架空の集団」だという。市民や立法者は
したがって、みずからにこう問うべきだ。この政策の利益のすべてを足し合わせ
すべてのコストを差し引いたときに、この政策はほかの政策より多くの
幸福を生むだろうか、と。


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功利主義のもっとも目につく弱みは個人の権利を尊重しないことだ。
満足の総和だけを気にするため、個人を踏みつけにしてしまう場合がある。
功利主義にとっても個人は重要である。だが、その意味は個人の選好も
他のすべての人々の選好とともに考慮されるべきだということにすぎない。
したがって、功利主義の原理を徹底すると、品位や敬意といった我々が
基本的規範と考えるものを侵害するような人間の扱い方を認める
ことになりかねない。
例えば、拷問の是非について、功利主義の点からは、「一人の人間に
烈しい苦痛を与えても、それによって大勢の人々の死や苦しみが防げる
のであれば、道徳的に正当化される」が導かれる。しかし、人間の権利
や尊厳は効用を超えた道徳的基盤を持っていると主張する人もいる。
数は重要で、多くの人が危機にさらされるならば、我々は尊厳や権利についての
心の痛みに目をつぶることもいとうべきではないというならば、道徳は
結局コストと利益の計算の問題だということになる。

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功利主義は、道徳の科学を提供すると主張する。その土台となるのは、幸福を計測し、
合計し、計算することだという。この科学が人の好みを測る際、それを評価
することはない。すべての人の好みを平等に計算するのだ。道徳の科学の
魅力の大半はこの評価しないという精神に由来している。道徳的選択を一つの科学
するというこの展望は、現代の多くの経済的議論に共通している。しかし、好みを
合計するためには、それを単一の尺度で測る必要がある。ベンサムの効用
という概念はこうした一つの共通通貨を提供するものだ。
だが、道徳にまつわるあらゆる事物を計算の過程で何も失わずに、単一の価値の
通貨に換算することは可能だろうか。
ベンサムは人命の価値を含め、我々が大切にしている多種多様な物事を単一の
尺度で厳密にとらえるために、効用と概念を考え出したのだ。


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ミルの「自由論」の中心原理は、人間は他人に危害を及ぼさないかぎり、自分の
望むいかなる行動をしようとも自由であるべきだというものだ。政府は、
ある人を本人の愚行から守ろうとしたり、最善の生き方についての多数派の
考えを押し付けようとしたりして、個人の自由に介入してはならない。
人が社会に対して説明責任を負う唯一の行為は、ミルによれば、他人に影響を
及ぼす行為だけだ。自身の身体とこころについて、人は主権を持っているのである。
、、、、
効用は個別の問題ごとではなく長期的な観点から最大化すべきとミルは考えており、
自由論と幸福の最大化はこれにより同一の基盤で考えられる。

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リバタリアン(自由至上主義者)は、経済効率の名においてではなく人間の
自由の名において、制約のない市場を支持し、政府規制に反対する。リバタリアン
の中心的主張は、どの人間も自由への基本的権利、他人が同じことをする権利
を尊重する限り、みずからが所有するものを使って、自らが望むいかなることも
行うことが許される権利、を有するという。
そのため、近代国家の活動の多くは不法であり、自由を侵害するものだ。最少国家
契約を履行させ、私有財産を盗みから守り、平和を維持する国家、だけがリバタリアン
の権利理論と両立する。これを超える行為を行う国家は道徳的に正当化されないのだ。
一般的に制定している3つのタイプを拒否する。
・父権的温情主義の拒否
国家には、個人が自分の命と体でドンリスクをとるかを支持する権利はない。
・道徳的法律の拒否
法制的な強制をもって多数派の持つ美徳の概念を奨励することなどを反対する。
・所得や富の再配分の拒否
他人を助けるためにある人々にそれを要求する法律を拒否する。
例えば、幇助自殺はリバタリアンの考えでは、正当化される。それは、自分の命が
自分のものならば、命を捨てるのも自由なはず。自分の死に手を貸してくれる
誰かと自発的に合意に至れば、国家がそれを干渉する権利はない。

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例えば、三つの兵士の集め方、徴兵制、身代わりを雇っていいという条件付き徴兵制、
志願兵制(市場による)でここでは検証している。
リバタリアンでは、徴兵制は不公平で、強制であり、志願兵制が望ましいと考える。
功利主義では、三つの選択肢の中では、これも志願兵制が最も優れているとしている。
人々は提示された報酬に基づいて兵役につくかどうか自由に決められるから、自分の
利益が最大化される場合のみ兵役に就くことが出来る。
しかし、いくつかの反論があることも重要だ。1つ目は、階級差別による不公平と
経済的に恵まれないために若者が大学教育やその他の利益と引き換えに自分の命
を危険にさらす時に生じる強制である。
更には、市民道徳と公益という点での反論である。
兵役はただの仕事ではなく、市民の義務である。それにより、国民は自国に奉仕
する義務があるという。これを明確に言っているのが、ルソーの「社会契約論」
であり、市民の義務を市場に任せるような商品的な考え方は、自由を広げる
どころか逆に損なうことになるという。
「公共への奉仕が市民の主な仕事でなくなり、彼らが自分の身体ではなく、金銭で
奉仕するようになると、国家の滅亡は近い」。
また、同様の議論を「金をもらっての妊娠」でもしている。代理出産についても、
それを正当化する以下のような判決がある。
「両者とも取引において一方的に優位な立場にいるわけではない。どちらも
それぞれ相手が欲しいものを持っていた。お互いに履行するとしたサービス
の価格は合意のもとに決定され、取引は成立した。一方がもう一方を強制
したわけではない。どちらも、相手に不利益を及ぼす力があったわけではない。
また、どちらかの交渉力が相手を上回っていたわけでもない」。
功利主義、リバタリアンによる論拠は、「契約は全体の幸福を促進している」、
「選択の自由を反映している」からだ。
もっとも、これには「不合理な同意」「赤ん坊や女性の生殖能力を商品として
扱うことへの誹謗」という反論もある。

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カントは人間の尊厳を重んじたが、これはこんにちの普遍的人権の概念にも
通じる。さらに重要なのは、自由についてのカントの解釈が正義を巡る現代の
議論にも頻繁に登場することだ。本書の導入部で、私は正義へのアプローチ
を3つ上げた。一つ目は功利主義のアプローチで、福祉、すなわち社会全体の
幸福を最大に化するする方法を考えることで、正義を定義し、なすべきことを
見極める。二つ目のアプローチは、正義を自由と結び付ける。これはリバタリアン
を例に考えるとわかりやすい。リバタリアンは、完全な自由市場で財とサービス
を自由に交換することが、収入と富の公正な分配につながると考える。市場を
規制することは、個人の選択の自由を侵すことになるので公正ではない。
三つ目のアプローチは、道徳的な観点から見て人々にふさわしいものを与えること。
美徳に報い、美徳を促すために財を与えることを正義とみなす。美徳に基づく
アプローチは、正義を善良な生活に関する考えと結びつく。
カントは、一つ目のアプローチ(幸福の最大化)と三つ目のアプローチ(美徳の奨励)
を認めていない。彼の考えでは、どちらも人間の自由を尊重していないからだ。
彼が勧めるのは、正義と道徳を自由に結びつける二つ目のアプローチだ。
しかし、カントが定義する自由は厳格だ。市場でものを売買する際の選択の自由よりも
厳しい。カントに言わせれば、大多数の人が市場の自由や消費者の選択だと
考えているものは真の自由ではない。なぜなら、そこで満たされる欲望はそもそも
自分自身が選んだものではないからだ。


145
カントの言う他律的な決定とは、あることをするのは、別の目的のためであり、
その目的を実行するのはまた違う目的のためというように延々と続いていく。
他律的に行動するというのは、誰かが定めた目的のために行動するという
ことだ。その時、われわれは目的を定めるものではなく、目的を達成する
貯めの道具にしか過ぎない。この対極にあるのがカントの自律の概念だ。
自分が定めた法則に従って自律的に行動するとき、われわれはその
行動のためにその行動自体を究極の目的として行動している。われわれはもはや、
誰かが定めた目的を達成するための道具ではない。自律的に行動する
能力こそ、人間に特別な尊厳を与えているものだ。この能力が人格と物を
隔てているのである。カントにとって、人間の尊厳を尊重するのは、
人格そのものを究極の目的として扱うことだ。

245
目的論的思考
古代世界では、目的論的な考え方が現在より優勢であった。
プラトンとアリストテレスは、炎が立ち上るのは本来の場所である
空に届こうとするからであり、石が落ちるのは還るべき場所である
地面に近づこうとするとするからだと考えた。自然には意味のある秩序が
あるとみられていた。自然を理解し、その中に占める人間の居場所を理解するのは、
自然の目的と本質的意味を把握することだった。

近代科学の誕生とともに、自然を意味のある秩序とみる見方は影を潜めた。代わって、
自然はメカニズムとして理解されるようになり、物理的法則に支配されると
見られるようになった。自然現象を目的、手段、最終結果と関連付けて解釈するのは
無智のゆえの擬人化した見方とされるようになった。だが、そうした変化にも関わらず
世界を目的論的秩序と目的を持つ相対と見たがる傾向は完全になくなったわけ
ではない。そうした見方は、とりわけ、世界をそのように見ないよう教育される
べき子供たちに、根強く残っている。

アリストテレスの指摘によれば、分配の正義の論理はすべて差別的だ。問題は、
どの差別が正義かである。その答えは、問題とされる活動の目的による。
したがって、政治的権利と権威の分配法を決めるためには、まず政治の目的を
検証しなければならない。
「政治的共同体は何のためにあるのか?」を問わねばならない。
今日、われわれは政治を特有の本質的目的をもつものとは考えずに、市民が
支持できる様々な目的に開かれているものと考える。だからこそ、人々が集団的に
追及したい目的や目標をその都度選べるようにするために、選挙があるのだろう。
政治的コミュニティにあらかじめ何らかの目的や目標を与えれば、市民が自ら
決める権利を横取りされることになる。誰もが共有できるわけではない価値
を押し付けられるおそれもある。我々が政治的に明確な目的や目標を付与する
のに二の足を踏むのは、個人の自由への関心の表れだ。
しかし、アリストテレスは政治をそのように見ない。彼にとって政治の目的は
中立的な権利の枠組みを構築することではなく、良き市民を育成し、良き人格
を養成することだ。

312
カントとローズにとって、正しさは善に優先する。人間の義務と権利を定義する
正義の原理は、善良な生活をめぐって対立する構想のすべてに中立でなければ
ならない。
道徳法則に到達するためには、偶発的な利害や目的を捨象しなければならない
と、カントは主張する。ロールズの持論では、正義について考えるためには、
特定の目的、愛着、善の構想を脇に置いておかねばならない。それが、無知の
ベールに包まれて正義を考える際の重要な点だ。
正義に対するこのような考え方は、アリストテレスの考え方とは相いれない。彼は、
正義の原理は善良な生活に関して中立でありうるとも、あるべきだとも考えていない。
逆に、正しい国制の目的の1つは、善い国民を育成し、善い人格を培うことにあると
主張する。善の意味について熟考せずして、正義について熟考することはできない
と彼は考える。その善とは、社会が割り当てる地位、名誉、権利、機会のことだ。

335

第3の考え方である、正義には美徳を涵養することと共通善について判断することが含
まれる。
、、、、、
功利主義的な考え方には欠点が2つある。1つ目は、正義と権利を原理ではなく計算の
対象としていることだ。2つ目は、人間のあらゆる善をたった1つの統一した
価値基準にあてはめ、平らにならして、ここの質的な違いを考慮しないことだ。
自由に基づく理論は、1つ目の問題を解決するが、2つ目の問題を解決しない。そうし
た
理論は権利を真剣に受け止め、正義は単なる計算以上のものだと強く主張する。
自由に基づく諸理論は、どの権利が功利主義的功利に優るかという点では一致しない
ものの、ある特定の権利が基盤となり、尊重されるべきだという点では、一致する。
、、、、
私には、これは間違っていると思える。
公正な社会は、ただ効用を最大化したり選択の自由を保障するしたりするだけでは、
達成できない。公正な社会を達成するするためには、善良な生活の意味をわれわれが
ともに考え、避けられない不一致を受け入れられる公共の文化を創り出さななくてはい
けない。

公正な社会には強いコミュニティ意識が求められるとすれば、全体への配慮、共通善
への献身を市民の内に育てる方法を見つけなければならい。公共の生における
市民の姿勢と性向、いわゆる「心の習慣」に無頓着ではいけない。






336
正義にはどうしても判断が関わってくる。議論の対象が金融救済策や代理妻、
兵役であれ、正義の問題は名誉や美徳、誇りや承認について対立する様々な
概念と密接に関係している。
正義は、物事を分配する正しい方法にかかわるだけでない。
ものごとを評価する正しい方法にもかかわるのだ。

現代の最も驚くべき傾向に数えられるのが、市場拡大と以前は市場以外の基準に
従ってきた生活領域での市場志向の論法の拡大だ。これまでの議論では、
国家が兵役や捕虜の尋問を傭兵や民間業者へ委託する場合であり、公開市場で
腎臓を売買する、移民政策の簡素化など様々だ。そうした問題で問われるのは、
効用や合意だけではない。重要な社会的慣行、兵役、出産、犯罪者への懲罰、移民
等の正しい評価方法も問われる。社会的慣行を市場に持ち込むと、その慣行を
定義する基準の崩壊や低下を招きかねない。そのため、市場以外の規準のうち、
どれを市場の侵入から守るべきかを問わねばならない。それには、善の価値
を判断する正しい方法について、対立する様々な考えを公に論じることが必要だ。
市場は生産活動を調整する有用な道具である。だが、社会制度を律する基準が
市場によって変えられるのを望まないのであれば、我々は、市場の道徳的限界を
公に論じる必要がある。


ーーーーー
地域の活動をしていると、人の多様性、意見の多様性を
感じざるを得ない。また、その多様性が、組織を活性化させる
場合もあり、低迷、消散させる場合もある。企業の活動の中では、
それを覆い隠し組織の方向性を高める必要性もあるが、頑張っている
企業の多くは、この多様性を容認し、如何に、個人と組織の方向性
を保つか?に工夫されている様である。
また、前回の衆議院選挙やチョット前の「アラブの春」に見られた
みんなの意見や集合知的対応が招いた結果としての是非のあり方もある。
IT活用を企業に進める立場の人間としても、「人とITの融合」に
この多様性や集合知を活かすことが重要と思っている。

政治家とは、かなりの高度な智慧と先見性を持つべきなのであろうが、
最近の知識も智慧もない政治屋と言われる人間が多く国の施策に
関われるのは、彼らを代弁者として選んだ国民が悪いのか、制度的な
問題なのか。

「みんなの意見は案外正しい」(ジェームズ・スロウィキー)
「多様な意見はなぜ正しいのか」(スコット・ペイジ)
「集合知とは何か」(西垣 通)
を読み返している。

インターネットの拡大に伴い、多くの人たちが、自分の感じ方や考え方を
公開している。それら無数の声を自動的に集めてきて、人々の集合的な意見
を吸い上げ、政策に生かしたり、ビジネスに役立てたりできるという話
が多くある。当然、インターネット上の「集合知」がすばらしい働きをする
ことはある。でも、うまくいくのは、条件が整備された課題に限られる。
たとえば、これからの政治をどのように運営していけばいいかをネット上
の集合知にまかせたとしても、混乱をまねくだけであろう。

また、意外とみんなの意見を集約すると正しい場合も多い。しかし、その場合は、
すべて「基本的に正しい答えが存在」「回答者が充分に傾向が分散している」
「それを推定することができる」といった場合である。
たとえば「日本の少子化を止めるには?」といった絶対的な答えがでない問い
を、集合知で解決することは出来ない。

①「みんなの意見は案外正しい」からのポイント
以下の記述が気に入っている。
「集合的にベストな意思決定は意見の相違や異議から生まれるのであって、決して合意
や妥協から生まれるのではない」
これは、多様性の重要性を説く「多様な意見はなぜ正しいのか」も同様のベースを
持つものではないか。
また、「解決すべき問題は、認知、調整、協調」の3つであり、集合知が機能する
ためには「多様性、独立性、分散性、集約性」という条件が満たされなければ
ならない」と言っている。
・認知  正しい答えが必ず見つかる問題  
・調整  他人の行動も加味する必要のある問題 
・協調  自己利益だけ追求すると全体の利益を損なう問題(地域活動ではよくある) 
そして、
・多様性  集団の中のそれぞれの人間が自分の私的な情報とそれに基づく意見を
      持っており、突飛なものも含め色々な意見がある状態 
・独立性  周囲の人の意見に影響されずに集団の中の人がそれぞれ意思決定
     できる状態 
・分散性  集団の中のそれぞれの人間がローカルで具体的な情報に基づき意思決定
     をする状態 
・集約性  多様な情報や意見を集め、うまく集約する仕組やプロセスがある状態 

これらの条件は、現在のソーシャルメディア拡大の要件ともなっている。

②「多様な意見はなぜ正しいのか」からのポイント
「多様性が一様性に勝る」「多様性が能力に勝る」を明確に説いている。
そのため、まず集合知を4つのツール要素に分解する。
・多様な観点  状況や問題を表現する方法
・多様な解釈  観点を分類したり分割したりする方法
・多様なヒューリスティック  問題に対する解を生み出す方法
・多様な予測モデル  原因と結果を推測する方法

群衆の叡智や多数決が万能という意味ではない。むしろ限定的である。
ここでは、集合知の働く条件を以下のように結論している。
・問題が難しいものでなければならない
・ソルバーたちが持つ観点やヒューリスティックが多様でなければならない
・ソルバーの集団は大きな集合の中から選び出さなければならない
・ソルバーの集団は小さすぎてはならない
以上の条件が満たされれば、ランダムに選ばれたソルバーの集団は個人で
最高のソルバーからなる集団より良い出来を示す。専門の科学者達が解けないで
いる問題を、多様なツールボックスを持つ非専門家集団が解いてしまうことが
ありえる。

地域での活動での組織作り、企業での組織の活性化、いずれにおいても
色々な気付きが出てくる。

③「集合知とは何か」からのポイント
発想として考えさせられるのが、「生命体を機械化していく」のでは
なく、「生命体を機械でサポートする」形こそが重要である。主観的な知で
構成されている「閉鎖システム」である人間と、開放されパターン化さ
れた入出力を持つコンピュータのような「開放システム」とでは、
その融合化は難しいとのこと。
システムはすっかりと根をおろしており、その有用性はすでに広く知れ
渡っている。問題は「システム」そのものにあるのではなく、システムを
つかって「システム的な世界を構築すること」にある。
提示される「集合知を支援するIT」とは、その最も本質的なところでは
個人同士、集団同士をむすび、コミュニケーションの密度をあげ、活性化
していくものになる、そしてその為の方法としては、人間の暗黙知や
感性的な深層な「人間の主観的な部分」をすくいあげ、明示化するため
にITを使う。
ウィキペディアとグーグルからアマゾンやイーベイでの集合的相互評価
システムもあり、リナックスを例に集団的創造の話題に触れ、Twitter や
YouTube とブログを組み合わせて新しいジャーナリズムのあり方がある。

企業内コミュニケーションに悩む企業やソーシャルメディアの活用に
逡巡する企業でも、その原点に立ち返り、単なる表面的な解決では
済まさず、今後の進め方を考えて欲しいものである。

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